特定秘密保護法案と日本版NSC(国家安全保障会議)の設置は具体的には戦争への下地づくりに他ならないと考えられます。こういった法案や機関が国民にどのような影響を及ぼすかは、すでに隣国の韓国や中国を見れば一目瞭然です。政府の方針に対して反対意見や反対集会など、もちろんブログやホームページ、SNSに書き込みしただけでも取り締まりの対象になります。
例えば韓国では下記のようなことが起こりました。
「竹島は日本の領土」と書き込んだ 「親日派」韓国13歳の少年検挙
http://www.j-cast.com/2012/09/07145698.html?p=all
確かに韓国は朝鮮戦争以後の冷戦構造で北と対峙しなければならない立場から徹底した思想統制と反体制運動を弾圧してきた歴史があります。今はそれは北朝鮮だけでなく、日本に対しても向けられています。もし今後日本が中韓に対峙するために思想統制、反体制運動の弾圧に積極的に乗り出せば、当然韓国の逆のケースが想定されます。
「独島は韓国の領土」と主張したら当然取締りの対象になるはずです。もちろん民団や朝総連も日本政府の主張とは違う思想、考え方ですから、監視の対象になるわけです。まあすでにそうなのかもしれませんが・・・。
断っておきますが、もちろん私は日本人ですから、日本政府の認識と違いはありません。ただ問題としているのは、日本政府の国土や日本国民としての意識ではなく、日本に住んでいる人びとに対するアプローチ手法についてなのです。日本国民が日本を愛し、誇れるのは、反対意見や異質なものがあったとしても決して感情で行動したり、暴力でそれを解決しようとしないところです。私個人としては日本で繰り広げられるヘイトスピーチは、隣国の過激な反日運動の自粛といっしょに求めるべきものであると考えていますが、そういったことに嫌悪感を感じるのは日本人として理解できない行動であるからだと思います。それでネット上にはそういったヘイトスピーチを行っている人びとはホントに日本人なの?という疑問が呈されているわけです。
もしかすると、日本政府は隣国に対して、外交レベルでの問題解決はもう困難と結論を出したのかもしれません。安倍政権の法案通過の手法を見ていると、一刻を争う戦争前夜のような焦燥感を感じます。国民に反対意見を述べさせる猶予を与えることはできないという状況です。間違いなく武力をもっていてもアジアの統制を実現させるしかないという方向を感じます。隣国の感情的で理性的に話し合いができないという状況を考えると外交筋や政府の意見はもう一致しているのかもしれません。もちろんあくまで私個人の推測に他なりませんので、ひとつの見方としてとらえてください。
戦争ということを想定した場合、必要となってくるのは国民の思想統制です。いろんな意見があってコンセンサスを得れなければ、国家としては目の前にある危機に対処することができないからです。民主主義は戦争を始めるにはとても不利な政治体制です。やはりファシズムや旧共産圏のような体制がやりやすいことは誰の目にも明らかです。実は右も左も似ています。どちらも国民自体は自由がなく抑圧された状況にあり、人間の自由意思は洗脳によって全体の目的達成のための思考に置き換えられます。したがって集団凝集性は高く、戦争という方向に向かうようにもっていきやすいのです。
テレビのドラマにしろ、映画にしろかならず善悪という対立軸があって怨みという感情的なパワーを自分たちが正しいということで正当化し相手を倒すということの高揚感はドラッグに匹敵するくらいの快感をもたらすのです。(断っておきますが私は経験はありません。)アメリカでは戦争をやると大統領の支持率は急激に上昇します。おそらく日本も隣国の長い反日運動に辟易としていて、もしかすると安倍政権がホントにアクションを起こすと支持率はさらに上がるかもしれません。アメリカはキリスト教が主流ですが、汝の敵を愛せよという考え方は実際の現実生活では適用されません。韓国もキリスト教が盛んですが、そういった考えにはなりません。
日本でのテロ活動は実際には一部のカルト教団くらいしかありません。反日を掲げている国は世界でたった二つの国だけです。他の国はほとんどが親日的でアメリカと同調していてもアメリカのように標的にはなりません。日本も危ないと考えるのはアメリカ的発想から世界を見てしまうとそうかもしれません。中国人も韓国人も日本で反日運動をすることはありません。また日本を知っている外国人が反日運動をすることは実際には考えにくいわけです。もちろん日本人が相手国に行ってデモなどはしません。そもそもデモをしそうな人を受け入れないはずです。
さまざまな保守系評論家は国民の危機意識の欠如を言いますが、それは国民ではなく政府と官僚がどう考えるかです。一般の国民を取り締まるとしたら、反社会的組織に対する監視は必要であると思います。なぜなら彼らは日本国民の生活を脅かす存在だからです。政府の方針や方向性に反対意見を述べる人びとまで取り締まると国民の半分から三分の一くらい取り締まるようになります。単に野党の数が反対意見と考えればそういうことです。
いずれにせよ、この度の法案、機関設置は今後武力行使が可能な、すなわち戦争への準備に他なりません。そのためには当然思想統制と反対運動の封じ込めが必要となるわけでそのための法律と考えられます。戦争とは半ば国家主権を守るための正当防衛ととらえるプロパガンダがありますが、視点を変えれば集団で行う人殺しに他なりません。これは現実に体験した人に聞けば、とんでもない後遺症を伴いますし、まともな精神状態では絶対に行動できない状況に置かれます。まさに残酷な現実を見せないようにオブラートに包んであいまいにさせなければならないわけです。戦争には洗脳やドラッグといったアイテムは必須です。まともにシラフで行動できるものではありません。人間性の麻痺こそが戦争に参加できる前提条件となるのです。
最近は直接地上戦などというものは減り、遠隔操作による攻撃などはほとんどゲーム感覚になっているかもしれません。あの状況もある面敵を倒すという高揚感に浸って非現実的な空間になっているはずです。実際、現場では罪のない人びとが殺されていたりするのですが。ただ日本国民として肝に銘じておきたいことは、実際命令し、号令をかける人は前線にはいないという現実、そして戦争に負ければ戦犯ですが、勝てば英雄になるのだということです。私たちの人生は決して国という大義名分をかざす一部の独裁者のために翻弄されてはいけないということです。国という名の一部の独裁者が標榜する方向に反対することを反国家的だとかレッテルを貼られることは避けなければならないのです。私たちは国のためとか国を愛するということは国民全体のコンセンサスの上に成立するのだということはを識しておく必要があると思います。
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2013年11月28日木曜日
2013年11月27日水曜日
特定秘密保護法案の危うさ②
昨日、国家国定秘密保護法案が衆議院を通過しました。この度の悪法はどうあがいてももう阻止できないのかもしれません。まさに日米安保条約締結と同じでどんなに反対運動をしたところでもう国家の上層部では決定事項であるのかもしれません。
日米安保は冷戦構造の中で共産圏に対峙するために必要とされたものであったわけですが、今回は隣国の反日、領土浸食に対する日本の主権が脅かされるという危機感が背後にあることは間違いありません。もともと安倍政権をつくりだしたのは前政権の民主党による弱腰外交に対する批判と隣国の過激な反日運動や領土侵犯に対して国民が危機感を抱いたことが影響していることは間違いないと考えられます。
日本国内では当然反日に反対する運動のひとつとしてヘイトスピーチがずいぶんと蔓延してしまいました。もちろんこのヘイトスピーチを行う団体自体も怪しい団体であるわけですが、単にヘイトスピーチを批判しても始まりません。ヘイトスピーチを無くすためには隣国の反日運動とセットにして批判されなければならないと思います。なぜならそもそもヘイトスピーチを誘発しているのは隣国の反日運動であることは歴然としているからです。背後にそういった内容があるのにただ単にヘイトスピーチを人道的観点からだけ批判してもあまり効果はないのです。
とりあえず、民間かどうかはわかりませんがそういった運動はさておいて、この度の法案の衆院通過は手の打ちようがないのかもしれません。すでにジャーナリストやマスメディアもその法案が決まった後の立ち位置をどうするかで報道の状況は変わりつつあります。ずっと反対し続けてもその法案が制定され、日本版NSC(国家安全保障会議)が設置されていくようになれば、当然マスメディアはその枠組みの中で動くしかなくなるわけです。
今後は自由な言動や憶測で(権力者が考える)国家が不利益を被るようなことは言えなくなります。ゴシップネタみたいな位置づけでも言いたいことをいうことはリスキーですし、お笑いの世界からは時事ネタは消えざるをえなくなると思います。まさに日本社会は皮肉も言えないほどギスギスして潤滑油のなくなった人間関係、社会構造になっていくのではないかと危惧せざるをえません。国民、みんなが‘いい子’になるしかありません。心で思っていても、愚痴や不平不満を言わない超カマトトな国民になっていくことが予想されます。そうしなければ生きていけないのです。
視点を変えれば、右傾化する国家をつくるには共産主義の脅威はとても有効に働きました。それは、日米安保の締結にとって追い風だったのです。同じように隣国の反日運動、領土、領海侵犯はこの度の法案、日本版NSC設置には追い風なのです。極論を言えば、中韓の反日運動が安倍政権を支えていると言えなくはありません。安倍政権に批判的な人びとはよく左翼勢力としてレッテルをはられ、批判されるのですが、実際、国民の多くは純粋に秘密警察が暗躍する国家にしたくない、戦争をしたくないと純粋に考えているのです。左翼でも右翼でもないのです。
以上のことから考えるとすでにこの法案制定や憲法9条改定~自衛隊を国防軍とするのは自然の流れの中に置かれてしまっているのです。もう国民の力ではどうしようもないのかもしれません。さらに不気味なのはこの法案通過を目指すときに中国の防空識別圏設定という話が出たことです。本来中国は孫子の兵法にもあるようにもっともっとしたたかで実利優先のイメージがあるのですが、なぜこういうカタチで日本に対してはたらきかけるのでしょうか。まるで法案や安倍政権を後押ししているようにしか見えないのは私だけでしょうか?
日米安保のときは軍事力を行使できない立場の日本は、アメリカの核の傘に守られるしかないという大義名分がありました。今回は、アメリカが日本に対してその役割をできなくなるので、日本が自立して軍隊をもって自分の国は自分で守らないといけないからという話をする人もいます。しかしこの流れで行くと、どう考えても戦争ありきでの流れにしか見えません。とにかく日中韓(台も巻き込まれるかもしれません)で戦争になれば、そこにメリットがあるのはだれでしょうか?戦争のときその恩恵に預かるのは武器やその原料、オイルなどを提供した人びと、国家に他なりません。戦争成金がたくさん現れるのです。となればアジア圏で戦争が起きても対岸の火事で何の被害もなく、利益だけ期待できるのはだれか考えればわかります。戦争は大きなビジネスチャンスとなっているのは紛れもない現実です。
中国、日本は世界的に米国債保有国1、2位です。アジア三大国が緊張した対立関係でいつづけることがいいのはどこの国でしょう。そういった世界の枠組みの中でアジアというローカルな地域で戦争等の犠牲になったとしても、その恩恵に預かることはできない日中韓の国民はよく状況を見て行動をすべきだと思うのです。もうこれ以上は言及を避けますが、読者のみなさんに考えていただきたいのは社会の表に出ていない(我々に知らされていない)世界があるという前提で賢く生きる必要があると思います。(今後このブログも政治ネタは控えざるえないかもしれません。)
日中台韓、とにかく国民レベルではなかよく、なんでもぶっちゃけで感情論抜きで話し合いたいものです。今は大丈夫ですが、そのうち日本でもそういった話はできなくなるということも想定しておくことは必要です。外国人は、今後おそらく反日的な言動は一切できなくなる方向に行くでしょう。日本は郷に入りて郷に従わなくてもいい国だったのが、完全に郷に入りては郷に従わなければ生きていけない国になるでしょう。今後は日本人だけでなく、外国人も住みにくい日本となるのではと今から心配しています。
日米安保は冷戦構造の中で共産圏に対峙するために必要とされたものであったわけですが、今回は隣国の反日、領土浸食に対する日本の主権が脅かされるという危機感が背後にあることは間違いありません。もともと安倍政権をつくりだしたのは前政権の民主党による弱腰外交に対する批判と隣国の過激な反日運動や領土侵犯に対して国民が危機感を抱いたことが影響していることは間違いないと考えられます。
日本国内では当然反日に反対する運動のひとつとしてヘイトスピーチがずいぶんと蔓延してしまいました。もちろんこのヘイトスピーチを行う団体自体も怪しい団体であるわけですが、単にヘイトスピーチを批判しても始まりません。ヘイトスピーチを無くすためには隣国の反日運動とセットにして批判されなければならないと思います。なぜならそもそもヘイトスピーチを誘発しているのは隣国の反日運動であることは歴然としているからです。背後にそういった内容があるのにただ単にヘイトスピーチを人道的観点からだけ批判してもあまり効果はないのです。
とりあえず、民間かどうかはわかりませんがそういった運動はさておいて、この度の法案の衆院通過は手の打ちようがないのかもしれません。すでにジャーナリストやマスメディアもその法案が決まった後の立ち位置をどうするかで報道の状況は変わりつつあります。ずっと反対し続けてもその法案が制定され、日本版NSC(国家安全保障会議)が設置されていくようになれば、当然マスメディアはその枠組みの中で動くしかなくなるわけです。
今後は自由な言動や憶測で(権力者が考える)国家が不利益を被るようなことは言えなくなります。ゴシップネタみたいな位置づけでも言いたいことをいうことはリスキーですし、お笑いの世界からは時事ネタは消えざるをえなくなると思います。まさに日本社会は皮肉も言えないほどギスギスして潤滑油のなくなった人間関係、社会構造になっていくのではないかと危惧せざるをえません。国民、みんなが‘いい子’になるしかありません。心で思っていても、愚痴や不平不満を言わない超カマトトな国民になっていくことが予想されます。そうしなければ生きていけないのです。
視点を変えれば、右傾化する国家をつくるには共産主義の脅威はとても有効に働きました。それは、日米安保の締結にとって追い風だったのです。同じように隣国の反日運動、領土、領海侵犯はこの度の法案、日本版NSC設置には追い風なのです。極論を言えば、中韓の反日運動が安倍政権を支えていると言えなくはありません。安倍政権に批判的な人びとはよく左翼勢力としてレッテルをはられ、批判されるのですが、実際、国民の多くは純粋に秘密警察が暗躍する国家にしたくない、戦争をしたくないと純粋に考えているのです。左翼でも右翼でもないのです。
以上のことから考えるとすでにこの法案制定や憲法9条改定~自衛隊を国防軍とするのは自然の流れの中に置かれてしまっているのです。もう国民の力ではどうしようもないのかもしれません。さらに不気味なのはこの法案通過を目指すときに中国の防空識別圏設定という話が出たことです。本来中国は孫子の兵法にもあるようにもっともっとしたたかで実利優先のイメージがあるのですが、なぜこういうカタチで日本に対してはたらきかけるのでしょうか。まるで法案や安倍政権を後押ししているようにしか見えないのは私だけでしょうか?
日米安保のときは軍事力を行使できない立場の日本は、アメリカの核の傘に守られるしかないという大義名分がありました。今回は、アメリカが日本に対してその役割をできなくなるので、日本が自立して軍隊をもって自分の国は自分で守らないといけないからという話をする人もいます。しかしこの流れで行くと、どう考えても戦争ありきでの流れにしか見えません。とにかく日中韓(台も巻き込まれるかもしれません)で戦争になれば、そこにメリットがあるのはだれでしょうか?戦争のときその恩恵に預かるのは武器やその原料、オイルなどを提供した人びと、国家に他なりません。戦争成金がたくさん現れるのです。となればアジア圏で戦争が起きても対岸の火事で何の被害もなく、利益だけ期待できるのはだれか考えればわかります。戦争は大きなビジネスチャンスとなっているのは紛れもない現実です。
中国、日本は世界的に米国債保有国1、2位です。アジア三大国が緊張した対立関係でいつづけることがいいのはどこの国でしょう。そういった世界の枠組みの中でアジアというローカルな地域で戦争等の犠牲になったとしても、その恩恵に預かることはできない日中韓の国民はよく状況を見て行動をすべきだと思うのです。もうこれ以上は言及を避けますが、読者のみなさんに考えていただきたいのは社会の表に出ていない(我々に知らされていない)世界があるという前提で賢く生きる必要があると思います。(今後このブログも政治ネタは控えざるえないかもしれません。)
日中台韓、とにかく国民レベルではなかよく、なんでもぶっちゃけで感情論抜きで話し合いたいものです。今は大丈夫ですが、そのうち日本でもそういった話はできなくなるということも想定しておくことは必要です。外国人は、今後おそらく反日的な言動は一切できなくなる方向に行くでしょう。日本は郷に入りて郷に従わなくてもいい国だったのが、完全に郷に入りては郷に従わなければ生きていけない国になるでしょう。今後は日本人だけでなく、外国人も住みにくい日本となるのではと今から心配しています。
2013年11月22日金曜日
特定秘密保護法案の危うさ①
戦後、日本はアメリカの核の傘に守られて、とりあえず自由主義体制を維持してきました。自民党はじめ与党、官僚たちが悪法のごとく取り扱ってきた憲法9条のおかげで日本は高度経済成長を成し遂げることができたことは間違いありません。もちろん真面目で勤勉な民族性も大いにあったでしょうし、和の文化は集団凝集性の高さから一致団結して戦後経済を先進国1,2を争うレベルに押し上げてきたことは称賛に値するものであると思います。
もし第二次世界大戦において戦勝国となって、あの軍国主義の体制がずっと続いていたらどうだったでしょう。おそらく国家にとって不都合な意見を述べる人たちは弾圧され、もしかしたら旧共産圏のような秘密警察が暗躍し、つねに国民の言動は監視され超ファシズムの国家ができあがっていたかもしれません。
戦後日本の復興を企業の成長に置き換えると、独裁経営者、経営陣による硬直しきったヒエラルキーの組織があるとき外資によって破壊(解体)され、権力よりも実力に応じてポストが与えられ、より健全な経営を取り戻し、民主的に発展していくという流れであったと考えてもいいかと思います。(もちろん外資の極端な成果主義は一つの権威主義であり、問題もあるのですが・・・)
しかしながら、この度の安倍政権による政府の標榜する流れは、だれの目にも明らかなように過去の悪しき時代へ逆戻りする危険性を秘めているのです。ただ日本人の多くは、日本には民主主義が根付き、国民一人ひとりが良識があるのであのような軍国主義にはならないだろうと楽観視している節もあります。ホントにそうでしょうか?実は日本人の民族性はあの時代の全体主義的なファシズムの体制をつくりだすのにとても都合のいい特質を兼ね備えているのです。そのことをどれだけの日本人が認識しているでしょうか?日本人が美徳としてきた上位者に対する忠誠心や自分が言ったことは必ず守る、真面目、勤勉、育ちのいい大人、・・・といった民族性こそがカルトやファシズムの体制をささえるという観点でとてもピッタリくるのです。そして日本は島国で互いが仲良く暮らすために対立を好まない反面、異分子を排除するといった陰湿ないじめ、村八分のような風土が基本的に定着しています。もともと長いものに巻かれ慣れている日本人ではわかりにくいのですが、空気を読めない外国人のほうがそのことはよく理解できます。最初は歓迎されますが、徐々に阻害されていきます。それは郷に入りては郷に従えという観点がよく理解できず、またそれをはっきりと日本人は言ってくれないので外国人には理解できないのです。とにかく異文化を受け入れる器が小さいので日本ではそういったことを学習するということが需要のある教育項目になっているのでしょう。とにかく日本人はある面、とても利用しやすい民族で集団凝集性も高いので独裁者には都合のいい組織をつくりやすいのです。
実は日本の国内に、物心両面成熟した、現代社会なのにいまだにファシズムに該当するような組織がたくさんあるのです。暴力団やカルト教団といった反社会的組織は言うに及ばず、ブラック企業といわれる会社が社会問題化するほどあるのです。これらに共通して言えることは、完全な組織トップの強固な権威、権力による独裁体制となっています。そして組織の末端の下層階級はもっとも悲惨な状況に置かれているという実態があります。一般企業でさえそうなのだということは我々もふくめてそういった要素を持っている存在だという認識を明確にしておくべきなのです。かねてから素晴らしい経営者は自分自身が間違った行動をしてしまうのではないかという危機意識をつねにもっている人だと論じてきました。集団浅慮(グループシンク)という観点で集団は間違うのだということだけでなく、個人すべてがそういう要素をもっているのだということを認識しておく必要があるのです。もちろん私自身もそうだということです。
社会には必ず対立軸があってなんとなく正常が保たれるのです。人が形成する組織はいつも独裁的になり、問題が起こって、その組織のトップが変わり、そのうち独裁的になり、また替えられるといういたちごっこのような流れになっているのです。人間はどんなに良心的な人でも持ち上げられて、ほめたたえられるとどんどん独裁的になるようになっているのです。そうならないために組織に対して反対意見を述べるような人びとが必ず必要なのです。すなわち完全無欠な人間はいないという前提に立たなければ組織の健全性を維持することはできないことを組織、集団のすべての構成員が認識しておくべきなのです。
ほとんどの日本人は日本は民主主義でいい国と思っているでしょうが、日本社会をよく分析すると細部にわたればとんでもない組織がたくさんあるのです。そのことを考えると、日本国という組織全体がそのようなとんでもない組織になりうる可能性は大きいのです。私は基本的に国としての意見がひとつにまとまっていくプロセスに危機感を抱いています。決して楽観視できません。その一つが今安倍政権が自公維で推進している国家の特定秘密保護法案なのです。すでにマスメディアも支持派、反対派とカラーがはっきりしていますが、後者のトーンも落ちかけています。マスメディアも国家の枠組みの中である程度自由に報道をしてきましたが、圧力があれば屈せざるをえません。すでにそういった兆候が見受けられます。
日本では20数年前に、反共、反左翼を標榜する某カルト宗教の団体が右翼や自民党をうまい具合に取り込み、スパイ防止法なるものを制定しようとことがありました。そのときはそれがまだまだメジョリティを獲得するにはいたらず、野党の反対もあって廃案となりました。そういった法律を制定する声は、必ず国家自体が右傾化する状況にあるときが多いのですが、まさに当時もそういう状況でした。ただ面白いのは、もしそのスパイ防止法なるものが制定されていたら、それこそそれを推進していた某カルト教団は処罰の対象になっていたかもしれません。なぜならその団体はかねてから霊感商法など反社会的な活動に手を染め、外為法違反など、国益に大きく反する活動をしていたからです。いまだに一部その状況は続いているようです。
組織という観点からとらえると、すでに国家が行くだろうと想定される方向が見えてきます。国家も企業も人によって構成された組織です。企業を例にあげて考えればわかりやすいのです。企業にも企業として秘匿しなければならないことがらというのは当然あります。ところが多くのエンジニアたちが他国の企業の接待を受け、日本の技術が流出しているというのは現実としてたくさんあります。隣国のITで世界的企業となった会社もベースとなる技術はすべて日本から取り入れたものです。そのことはその企業の会長自身が、日本に足を向けて寝られないとまで言っているわけですから間違いありません。もともと日本の経営者の中には技術提供を惜しまない人もいて、逆に知財保護の観点から訴えられたというひともいるようです。日本の企業はあまり技術提供に関して閉鎖的ではありません。なぜなら技術は提供しても日本と同じ製品が簡単につくることができないことを理解していたからだと思います。すなわち技術はあっても日本人と同じ仕事はできないのです。なぜなら仕事は日本の文化や風土、民族性に裏打ちされたものだからです。
もちろん日本も今後はグローバル化の波に巻き込まれて、自国だけで経済発展を完結できない状況が出てくると当然、企業としても守るべき必然性が出てきます。それは競争力低下が懸念される技術流出等による対外的な関係においての秘匿事項であるべきです。もちろんそれを守るためには組織全体のモラル向上と同時に社員満足(組織風土から報酬面においても)が図られるべきであると思います。もちろんそういった情報は企業自体の経営状態に直接影響を及ぼす内容ですし、それを守ることに対して社員は当然協力するはずです。
企業で秘匿されるべきはそういった企業経営にかかわることなのですが、独裁的で問題のある企業は背任行為や消費者を欺くコンプライアンス違反に関する情報を隠蔽しようとするところが問題なのです。そういった情報はおもに企業上層部の指示などにより隠蔽されることが多いのですが、そういったことを隠すということに対しては社員は良心の呵責を感じるのです。対外的な経営に関する情報は当然秘匿することに良心の呵責はありません。企業人としての守秘義務とわきまえているのです。しかし理不尽なことがらに関しては絶対に漏れます。なぜでしょう、人間は良心がありますし、本音では人間的にまっとうに生きたいと思っているからです。したがってそういう理不尽な決断を下さないといけない立場に置かれた組織上層部の人こそ、外部にリークせざるをえなくなるのです。
企業は対外的な他の企業との競争において経営を守るための情報は秘匿しますが、一般社員や消費者を欺く行為は絶対に流出します。それをよく理解している経営者は最初から、リスクマネジメントとしてコンプライアンスを徹底するのです。そういったコンプライアンス違反は必ず内部告発によって外部にリークされ、明るみに出るのです。そして今社会の流れは内部告発者を保護する方向に流れているわけです。それでもまだまだ困難な問題が多くありますが。
国家も間違えてはいけません。外交上不利な情報はすでに外務省はじめまともな政治家ならすでに秘匿できているはずです。国家機密とはなんなんでしょう?それがホントに対外的に問題があるので秘匿すべきものなのか、単に政府や官僚の一部(独裁経営者や経営陣)にとって、国民(一般社員や消費者)には知られては都合が悪いものだから隠蔽するのかというのは根本的に違うはずなのです。後者の場合、必ず外部にリークされます。どんなに当事者であってもやはり人間は理不尽なことを許せないという良心をもっているからです。ですから、そういった場面に遭遇したとき、人間性を捨てて、完全に隷属するか、逆に地位も名誉も捨てて人間として生き抜くかという選択をせまられることになります。
この特定秘密保護法案の定義づけがあいまいすぎます。もちろん外交においてはそこらへんの融通の利く内容は必要ではありますが、国民の知る権利や国民の生存権を脅かすような内容が混入しないといった保証がないのです。前者のように国家運営(企業経営)にとってホントに必要であるとしてもその判断は国家元首が独裁的にできるとしたらこの法律は悪法以外のなにものでもありません。国家が秘密にしたいという背後には、それを通じて国家が世論操作まで行いたいという意図があるのだということぐらいは日本国民として認識しておく必要があると思います。そして国家というあいまいな言葉に身を隠す独裁者(国家元首、あるいはそれをさらに操ろうとする官僚、他)によって日本は牛耳られる方向に行こうとしているのです。
もし第二次世界大戦において戦勝国となって、あの軍国主義の体制がずっと続いていたらどうだったでしょう。おそらく国家にとって不都合な意見を述べる人たちは弾圧され、もしかしたら旧共産圏のような秘密警察が暗躍し、つねに国民の言動は監視され超ファシズムの国家ができあがっていたかもしれません。
戦後日本の復興を企業の成長に置き換えると、独裁経営者、経営陣による硬直しきったヒエラルキーの組織があるとき外資によって破壊(解体)され、権力よりも実力に応じてポストが与えられ、より健全な経営を取り戻し、民主的に発展していくという流れであったと考えてもいいかと思います。(もちろん外資の極端な成果主義は一つの権威主義であり、問題もあるのですが・・・)
しかしながら、この度の安倍政権による政府の標榜する流れは、だれの目にも明らかなように過去の悪しき時代へ逆戻りする危険性を秘めているのです。ただ日本人の多くは、日本には民主主義が根付き、国民一人ひとりが良識があるのであのような軍国主義にはならないだろうと楽観視している節もあります。ホントにそうでしょうか?実は日本人の民族性はあの時代の全体主義的なファシズムの体制をつくりだすのにとても都合のいい特質を兼ね備えているのです。そのことをどれだけの日本人が認識しているでしょうか?日本人が美徳としてきた上位者に対する忠誠心や自分が言ったことは必ず守る、真面目、勤勉、育ちのいい大人、・・・といった民族性こそがカルトやファシズムの体制をささえるという観点でとてもピッタリくるのです。そして日本は島国で互いが仲良く暮らすために対立を好まない反面、異分子を排除するといった陰湿ないじめ、村八分のような風土が基本的に定着しています。もともと長いものに巻かれ慣れている日本人ではわかりにくいのですが、空気を読めない外国人のほうがそのことはよく理解できます。最初は歓迎されますが、徐々に阻害されていきます。それは郷に入りては郷に従えという観点がよく理解できず、またそれをはっきりと日本人は言ってくれないので外国人には理解できないのです。とにかく異文化を受け入れる器が小さいので日本ではそういったことを学習するということが需要のある教育項目になっているのでしょう。とにかく日本人はある面、とても利用しやすい民族で集団凝集性も高いので独裁者には都合のいい組織をつくりやすいのです。
実は日本の国内に、物心両面成熟した、現代社会なのにいまだにファシズムに該当するような組織がたくさんあるのです。暴力団やカルト教団といった反社会的組織は言うに及ばず、ブラック企業といわれる会社が社会問題化するほどあるのです。これらに共通して言えることは、完全な組織トップの強固な権威、権力による独裁体制となっています。そして組織の末端の下層階級はもっとも悲惨な状況に置かれているという実態があります。一般企業でさえそうなのだということは我々もふくめてそういった要素を持っている存在だという認識を明確にしておくべきなのです。かねてから素晴らしい経営者は自分自身が間違った行動をしてしまうのではないかという危機意識をつねにもっている人だと論じてきました。集団浅慮(グループシンク)という観点で集団は間違うのだということだけでなく、個人すべてがそういう要素をもっているのだということを認識しておく必要があるのです。もちろん私自身もそうだということです。
社会には必ず対立軸があってなんとなく正常が保たれるのです。人が形成する組織はいつも独裁的になり、問題が起こって、その組織のトップが変わり、そのうち独裁的になり、また替えられるといういたちごっこのような流れになっているのです。人間はどんなに良心的な人でも持ち上げられて、ほめたたえられるとどんどん独裁的になるようになっているのです。そうならないために組織に対して反対意見を述べるような人びとが必ず必要なのです。すなわち完全無欠な人間はいないという前提に立たなければ組織の健全性を維持することはできないことを組織、集団のすべての構成員が認識しておくべきなのです。
ほとんどの日本人は日本は民主主義でいい国と思っているでしょうが、日本社会をよく分析すると細部にわたればとんでもない組織がたくさんあるのです。そのことを考えると、日本国という組織全体がそのようなとんでもない組織になりうる可能性は大きいのです。私は基本的に国としての意見がひとつにまとまっていくプロセスに危機感を抱いています。決して楽観視できません。その一つが今安倍政権が自公維で推進している国家の特定秘密保護法案なのです。すでにマスメディアも支持派、反対派とカラーがはっきりしていますが、後者のトーンも落ちかけています。マスメディアも国家の枠組みの中である程度自由に報道をしてきましたが、圧力があれば屈せざるをえません。すでにそういった兆候が見受けられます。
日本では20数年前に、反共、反左翼を標榜する某カルト宗教の団体が右翼や自民党をうまい具合に取り込み、スパイ防止法なるものを制定しようとことがありました。そのときはそれがまだまだメジョリティを獲得するにはいたらず、野党の反対もあって廃案となりました。そういった法律を制定する声は、必ず国家自体が右傾化する状況にあるときが多いのですが、まさに当時もそういう状況でした。ただ面白いのは、もしそのスパイ防止法なるものが制定されていたら、それこそそれを推進していた某カルト教団は処罰の対象になっていたかもしれません。なぜならその団体はかねてから霊感商法など反社会的な活動に手を染め、外為法違反など、国益に大きく反する活動をしていたからです。いまだに一部その状況は続いているようです。
組織という観点からとらえると、すでに国家が行くだろうと想定される方向が見えてきます。国家も企業も人によって構成された組織です。企業を例にあげて考えればわかりやすいのです。企業にも企業として秘匿しなければならないことがらというのは当然あります。ところが多くのエンジニアたちが他国の企業の接待を受け、日本の技術が流出しているというのは現実としてたくさんあります。隣国のITで世界的企業となった会社もベースとなる技術はすべて日本から取り入れたものです。そのことはその企業の会長自身が、日本に足を向けて寝られないとまで言っているわけですから間違いありません。もともと日本の経営者の中には技術提供を惜しまない人もいて、逆に知財保護の観点から訴えられたというひともいるようです。日本の企業はあまり技術提供に関して閉鎖的ではありません。なぜなら技術は提供しても日本と同じ製品が簡単につくることができないことを理解していたからだと思います。すなわち技術はあっても日本人と同じ仕事はできないのです。なぜなら仕事は日本の文化や風土、民族性に裏打ちされたものだからです。
もちろん日本も今後はグローバル化の波に巻き込まれて、自国だけで経済発展を完結できない状況が出てくると当然、企業としても守るべき必然性が出てきます。それは競争力低下が懸念される技術流出等による対外的な関係においての秘匿事項であるべきです。もちろんそれを守るためには組織全体のモラル向上と同時に社員満足(組織風土から報酬面においても)が図られるべきであると思います。もちろんそういった情報は企業自体の経営状態に直接影響を及ぼす内容ですし、それを守ることに対して社員は当然協力するはずです。
企業で秘匿されるべきはそういった企業経営にかかわることなのですが、独裁的で問題のある企業は背任行為や消費者を欺くコンプライアンス違反に関する情報を隠蔽しようとするところが問題なのです。そういった情報はおもに企業上層部の指示などにより隠蔽されることが多いのですが、そういったことを隠すということに対しては社員は良心の呵責を感じるのです。対外的な経営に関する情報は当然秘匿することに良心の呵責はありません。企業人としての守秘義務とわきまえているのです。しかし理不尽なことがらに関しては絶対に漏れます。なぜでしょう、人間は良心がありますし、本音では人間的にまっとうに生きたいと思っているからです。したがってそういう理不尽な決断を下さないといけない立場に置かれた組織上層部の人こそ、外部にリークせざるをえなくなるのです。
企業は対外的な他の企業との競争において経営を守るための情報は秘匿しますが、一般社員や消費者を欺く行為は絶対に流出します。それをよく理解している経営者は最初から、リスクマネジメントとしてコンプライアンスを徹底するのです。そういったコンプライアンス違反は必ず内部告発によって外部にリークされ、明るみに出るのです。そして今社会の流れは内部告発者を保護する方向に流れているわけです。それでもまだまだ困難な問題が多くありますが。
国家も間違えてはいけません。外交上不利な情報はすでに外務省はじめまともな政治家ならすでに秘匿できているはずです。国家機密とはなんなんでしょう?それがホントに対外的に問題があるので秘匿すべきものなのか、単に政府や官僚の一部(独裁経営者や経営陣)にとって、国民(一般社員や消費者)には知られては都合が悪いものだから隠蔽するのかというのは根本的に違うはずなのです。後者の場合、必ず外部にリークされます。どんなに当事者であってもやはり人間は理不尽なことを許せないという良心をもっているからです。ですから、そういった場面に遭遇したとき、人間性を捨てて、完全に隷属するか、逆に地位も名誉も捨てて人間として生き抜くかという選択をせまられることになります。
この特定秘密保護法案の定義づけがあいまいすぎます。もちろん外交においてはそこらへんの融通の利く内容は必要ではありますが、国民の知る権利や国民の生存権を脅かすような内容が混入しないといった保証がないのです。前者のように国家運営(企業経営)にとってホントに必要であるとしてもその判断は国家元首が独裁的にできるとしたらこの法律は悪法以外のなにものでもありません。国家が秘密にしたいという背後には、それを通じて国家が世論操作まで行いたいという意図があるのだということぐらいは日本国民として認識しておく必要があると思います。そして国家というあいまいな言葉に身を隠す独裁者(国家元首、あるいはそれをさらに操ろうとする官僚、他)によって日本は牛耳られる方向に行こうとしているのです。
2013年11月11日月曜日
上手な年齢の重ね方①
最近は高齢社会ということで、世間話もメディアで取り上げられる話題も老後や介護の話が多くなってきました。それは若い世代にも大いに言えることです。なぜなら介護という問題は決して本人だけの話ではないからです。20代前半で結婚していた時代から、30代、40代で結婚ということになれば、当然その子どもたちは30代くらいからすでに親の介護という問題に直面する可能性も大きいのです。年をとるということは避けて通れないことですし、老いということに対する考え方、パラダイムを大きく変えていかなければならない時期に来ているのかもしれないと思います。
年齢を重ねて、体力的にも、さまざまな肉体的な限界などを感じるようになると、老いということを実感するようになりますし、若いころがよかったということをやたら口にするようになります。また若い頃に比べてとても歳月の流れが速いように感じます。10代20代はそれなりに長く感じていたのに、30過ぎてから40代はあっという間という感じになります。そして50代は40代が、60代は50代がというふうにもう10年若かったらと考えるようになってしまいます。
なぜ年齢を重ねるほど、時の流れが速く感じるのでしょうか?時間の流れは誰にとっても同じはずです。でもなぜか自分の人生においても違って感じるのは私だけでしょうか?年齢をとるほど時間の流れが速く感じるのは若い時に比べてからだの代謝機能が低下しているためだという話を聞いたことがあります。若いころはちょっと怪我をしてもすぐ治ってましたが、年齢をとるとなかなか治るのに時間がかかるものです。なぜ代謝機能が低下すると時間の流れを速く感じるのでしょうか?わかりやすく説明しますと細胞の生まれ変わりが若いころに比べて遅いから、相対的に時間は速く感じられるということなのです。つまり、細胞の生まれ変わりが若いころは1日に100回生まれ変わっていたのに、今は1日10回しか生まれ変わってないとするならば、相対的に若いころより時間が10倍速く感じてしまうという話です。ご理解いただけたでしょうか。
したがってアンチエイジング(という認識をし始めた時点で老いが始まっているかもしれませんが)にもっとも最適な方法は、代謝機能を高めるということが重要だとおわかりいただけたでしょうか?代謝機能が高いということは、細胞の生まれ変わりが活発であったり、全身の細胞が生き生きと活動している状態であると言えます。もちろん血圧も標準で脈も正常、からだも冷えてなくて温かいし、お通じもちゃんとあるという健康な状態です。ただ人間の老いというのは自然なものです。無理して50代なのに20代の肉体を取り戻したいとか欲を出すのは少々無理があります。瞬間風速的にそれに該当するようなパワーが出たとしても、若い時のようにその状態がある程度維持し続けられるものではありません。
アンチエイジングというより、老いの勾配をなだらかにするという健康法を取り入れたほうがずっとからだにも心にも負担なく続けられるのではないでしょうか。一念発起して、急に無理な運動を始めるとか、ダイエットしなきゃと食事制限をいきなりするというのはリスクがあると思います。まずは自分の性格や弱みをよく理解した上で、長続きすることを少しずつ始めるのがいいかと思います。ここではその健康法をお伝えすることが目的ではないので皆さんがよく考えて行っていただくようにお願いします。
老いというのは、今までできていたことができなくなったり、体力的にもずいぶんと落ちてきますから、とてもさびしい気持ちになったりします。でもそれは決して悪いことではありません。からだはもちろん心でさえ、使いすぎると休養が必要ですし、ある程度消耗すると、補充も利かなくなってきます。老いは次世代をより大きくするために必ず必要なのです。高齢でありながら若い人以上にパワフルだったら、若い人びとの芽を摘んでしまうことにもなりかねません。なぜならば時代の流れとともに価値観も大きく変わっていくからです。その大きな変化にはより若い世代のほうが柔軟に適応できるのだということは歴史が証明している通りです。年齢を重ねるということは次世代へバトンを渡して温かく見守る時期に入っていくということでもあるのです。
アンチエイジングというのが誰もが目標としなければならないものであるかのように、健康産業界はこぞって宣伝しますが、実際は老いに抵抗することよりも上手に老いて行くということがとても重要だと思います。20代くらいまではあまり若くいたいという意識はないと思いますが、30代をすぎて40、50代に移行すると若かったころを懐かしく感じてしまうのです。
「もう10年若かったらなあ~。」
「今あの年齢だったらもっとこうだったの・・・。」
とついつい思ってしまうことが多くなるのです。でもよく考えてください。今から10年経ったらおそらく今の時期を懐かしがっているに違いありません。ですから取り戻すことのできない若いころを思うのではなく、将来のことを考えて、今がいちばん輝いているときだと思えばいいのです。30代なら40代を、40代なら50代、50代なら60代を・・・というふうにです。そう考えると今自分の置かれている立場がものすごく可能性がありもっともっとできる年齢なのだということに気づくはずです。では80代、90代の人はもう10年後を考えられないかもしれません。いえ考えられます。人生たくさんがんばってゆっくりおやすみしている自分を考えてください。ですから、いま最高に輝いているのだからもうちょっと頑張ろうと思えばいいのです。そうすればゆっくりやすませてもらえるのです。
死は決して忌み嫌われるようなものではありません。ギリシアの哲人ソクラテスが死は睡眠のようなものでとても甘美なものであると以前にもお話ししました。私はよく講演会で、聴衆の方がたに質問をしました。寝るのが好きな人って聞くと、いつもほとんどの方がそうですとお答えになります。不眠症の方は寝れなくて苦しいのです。誰しも寝ることを嫌いな人はいないはずです。むしろ起きるのは一苦労という方はたくさんおられます。目覚ましをかけても、もう少し寝かせてと寝坊した経験があるのは私だけではないはずです。
したがって、死とちゃんと向き合うということは、今をちゃんと生きるということにつながってきます。ちゃんとからだと心が生き生きと過ごせてこそ、人生を有意義で最高のものにすることになり、最高の死も迎えることができるということだと思います。
若い人には若い人の魅力がありますし、年長者には年長者なりの魅力があふれています。要はそれを比較するのではなく、今の自分を最高に輝かせるということ、すなわちまず今の自分を受け入れて、今の自分のポテンシャル(潜在能力)を最大限引き出し、楽しく生きるということがたいせつであると思うのです。
年齢を重ねて、体力的にも、さまざまな肉体的な限界などを感じるようになると、老いということを実感するようになりますし、若いころがよかったということをやたら口にするようになります。また若い頃に比べてとても歳月の流れが速いように感じます。10代20代はそれなりに長く感じていたのに、30過ぎてから40代はあっという間という感じになります。そして50代は40代が、60代は50代がというふうにもう10年若かったらと考えるようになってしまいます。
なぜ年齢を重ねるほど、時の流れが速く感じるのでしょうか?時間の流れは誰にとっても同じはずです。でもなぜか自分の人生においても違って感じるのは私だけでしょうか?年齢をとるほど時間の流れが速く感じるのは若い時に比べてからだの代謝機能が低下しているためだという話を聞いたことがあります。若いころはちょっと怪我をしてもすぐ治ってましたが、年齢をとるとなかなか治るのに時間がかかるものです。なぜ代謝機能が低下すると時間の流れを速く感じるのでしょうか?わかりやすく説明しますと細胞の生まれ変わりが若いころに比べて遅いから、相対的に時間は速く感じられるということなのです。つまり、細胞の生まれ変わりが若いころは1日に100回生まれ変わっていたのに、今は1日10回しか生まれ変わってないとするならば、相対的に若いころより時間が10倍速く感じてしまうという話です。ご理解いただけたでしょうか。
したがってアンチエイジング(という認識をし始めた時点で老いが始まっているかもしれませんが)にもっとも最適な方法は、代謝機能を高めるということが重要だとおわかりいただけたでしょうか?代謝機能が高いということは、細胞の生まれ変わりが活発であったり、全身の細胞が生き生きと活動している状態であると言えます。もちろん血圧も標準で脈も正常、からだも冷えてなくて温かいし、お通じもちゃんとあるという健康な状態です。ただ人間の老いというのは自然なものです。無理して50代なのに20代の肉体を取り戻したいとか欲を出すのは少々無理があります。瞬間風速的にそれに該当するようなパワーが出たとしても、若い時のようにその状態がある程度維持し続けられるものではありません。
アンチエイジングというより、老いの勾配をなだらかにするという健康法を取り入れたほうがずっとからだにも心にも負担なく続けられるのではないでしょうか。一念発起して、急に無理な運動を始めるとか、ダイエットしなきゃと食事制限をいきなりするというのはリスクがあると思います。まずは自分の性格や弱みをよく理解した上で、長続きすることを少しずつ始めるのがいいかと思います。ここではその健康法をお伝えすることが目的ではないので皆さんがよく考えて行っていただくようにお願いします。
老いというのは、今までできていたことができなくなったり、体力的にもずいぶんと落ちてきますから、とてもさびしい気持ちになったりします。でもそれは決して悪いことではありません。からだはもちろん心でさえ、使いすぎると休養が必要ですし、ある程度消耗すると、補充も利かなくなってきます。老いは次世代をより大きくするために必ず必要なのです。高齢でありながら若い人以上にパワフルだったら、若い人びとの芽を摘んでしまうことにもなりかねません。なぜならば時代の流れとともに価値観も大きく変わっていくからです。その大きな変化にはより若い世代のほうが柔軟に適応できるのだということは歴史が証明している通りです。年齢を重ねるということは次世代へバトンを渡して温かく見守る時期に入っていくということでもあるのです。
アンチエイジングというのが誰もが目標としなければならないものであるかのように、健康産業界はこぞって宣伝しますが、実際は老いに抵抗することよりも上手に老いて行くということがとても重要だと思います。20代くらいまではあまり若くいたいという意識はないと思いますが、30代をすぎて40、50代に移行すると若かったころを懐かしく感じてしまうのです。
「もう10年若かったらなあ~。」
「今あの年齢だったらもっとこうだったの・・・。」
とついつい思ってしまうことが多くなるのです。でもよく考えてください。今から10年経ったらおそらく今の時期を懐かしがっているに違いありません。ですから取り戻すことのできない若いころを思うのではなく、将来のことを考えて、今がいちばん輝いているときだと思えばいいのです。30代なら40代を、40代なら50代、50代なら60代を・・・というふうにです。そう考えると今自分の置かれている立場がものすごく可能性がありもっともっとできる年齢なのだということに気づくはずです。では80代、90代の人はもう10年後を考えられないかもしれません。いえ考えられます。人生たくさんがんばってゆっくりおやすみしている自分を考えてください。ですから、いま最高に輝いているのだからもうちょっと頑張ろうと思えばいいのです。そうすればゆっくりやすませてもらえるのです。
死は決して忌み嫌われるようなものではありません。ギリシアの哲人ソクラテスが死は睡眠のようなものでとても甘美なものであると以前にもお話ししました。私はよく講演会で、聴衆の方がたに質問をしました。寝るのが好きな人って聞くと、いつもほとんどの方がそうですとお答えになります。不眠症の方は寝れなくて苦しいのです。誰しも寝ることを嫌いな人はいないはずです。むしろ起きるのは一苦労という方はたくさんおられます。目覚ましをかけても、もう少し寝かせてと寝坊した経験があるのは私だけではないはずです。
したがって、死とちゃんと向き合うということは、今をちゃんと生きるということにつながってきます。ちゃんとからだと心が生き生きと過ごせてこそ、人生を有意義で最高のものにすることになり、最高の死も迎えることができるということだと思います。
若い人には若い人の魅力がありますし、年長者には年長者なりの魅力があふれています。要はそれを比較するのではなく、今の自分を最高に輝かせるということ、すなわちまず今の自分を受け入れて、今の自分のポテンシャル(潜在能力)を最大限引き出し、楽しく生きるということがたいせつであると思うのです。
2013年10月4日金曜日
うまくいくコミュニケーションの方法①
家庭においても、会社においても、あるいはそれ以外の人間関係すべてにおいて、コミュニケーションは、すべてがうまくいくためのベースとなるようなものです。それは対面であれ、電話であれ、メール、SNSにいたるまでコミュニケーションがとてもたいせつになってきます。
また相手によっても対応を変えなければならないケースもあります。特に外国人には日本の空気(行間)を読むような理解はできません。それは日本に長年住んでいる外国人でもわかりにくいと言われる人もいます。それくらい難しい感覚的なもので、日本人は日本で育って、日本人のDNAとしてすでに染みついているから理解できるのかもしれません。
ただ最近の若い世代は徐々にそういった感覚は減っているように思えます。それは良いとか悪いといったものではなくて、日本の家庭や社会の環境が大きく変わってきたということが言えるのではないかと思います。欧米の個人主義の影響や、戦後、日本がどんどん豊かになり、大家族から核家族、そして夫婦だけ、その次にはお一人様での生活も増えてきています。現在は祖父母と同居ということも減って二世帯住宅は常識です。また高齢化により高齢者は施設に入ることに抵抗感がない時代になってきました。介護というカタチで家族に負担をかけたくないという認識は高齢者に共通する意識になりつつあり、また子どもたちもそれが最善であるという意識もかなりあります。介護を社会の手にゆだねるということは決して家族の愛情問題とは関係がないのです。むしろ互いに負担をかけないようにすることが愛情であるというひとつのパラダイムシフトがなされているのだと思います。
夫婦関係もそうです。ある程度年齢を重ね、子どもたちもすべて独立すると、夫婦だけの時間が増えてきます。そして夫(あるいは妻)が定年退職をして家庭にいつもいるようになるとストレスであったりします。そうなると妻(あるいは夫)が外に出かけるようになってバランスをとるようになるのです。もちろん夫婦は最初の3~4年くらいはいいのですが、そのあとは夫婦だけの愛情というより子どもを見ながら父母としての役割で家庭を維持しているとも言えます。夫婦は他人です。最初は惹かれあっても、実際生活を共にするようになると、相手の悪いところもどんどん目に入ってきて、半ば好きという気持ちを妥協とかあきらめの気持ちが上回ってきたり、夫婦ってこういうもんだと冷めた精神状態になっていくことさえあります。でもそこに子どもの存在があると緩衝剤のような役割を果たしてくれるのです。
問題は夫婦仲が悪くなりすぎて、子どもに依存してしまうと、完全に子どもの自立を阻害し成長を遅らせたり、歪んだ情緒を育んでしまうことにもなりかねません。妻が家事、夫が仕事(あるいはその逆)に集中すればある面役割を分け、それぞれが集中できることを持つことで夫婦関係を維持することに大きな効果があります。また一般的には新婚時代はダブルベッド、子どもができてはそれぞれのベッド、そして子どもが独立したら部屋も別々なんてのもよくある話です。それでバランスをとって家庭というカタチが維持されていたりします。
歳をとっても仲のいい夫婦というのは新婚当初の夫婦の愛情関係とは違うモチベーションで形成されていると考えられます。詳しく聞けば、だいたいの人びとが口々に言われることは
「いろいろあったのよ~。」
という話です。いろんな心境を通過して熟成しきった関係であると言えるかもしれません。
フラット化している社会の中で夫婦が夫婦としての関係を維持し続けるためには、どこかで妥協したり折り合いをつけながら暮らしていくことであるのかもしれません。現代社会は離婚ということが驚くようなことではなくなったのにはやはり男女同権やジェンダーフリーといった風潮、そしてそのベースはやはり世界がフラット化していることにあると思います。男尊女卑の時代はやはり女性が我慢していたのです。あるいは社会の風土自体からも、女性というものは男性に屈して追従するものというすり込みが女性になされていたこともあると思います。
昔、夫婦が夫婦関係を解消せず維持し続けるには、どうしても片方が我慢したり妥協したりということで成立していたということがいえるかもしれません。現在夫婦関係を維持し続けている人びとは間違いなく、我慢や妥協を互いにしているか、あるいはそれをしないでもいいくらいの距離を互いの間に置いているかのどちらかであると言えます。とにかく、他人であった人同士が夫婦になるということは自分以外の価値観を受け入れるということで、それは妥協以外の何ものでもありません。そして妥協を減らすには価値観がなるべく近い人を選ぶということも方法です。
分かりやすく言うと最後まで妥協できなかった人が離婚を選択するのです。それはそれで一つの選択肢ですから、決して悪いことではないと思います。あるヨーロッパの国のように、最初から結婚という形態にこだわらないという方法もあります。そうすることで良好なパートナー関係が維持できたり、婚外子という概念をなくし同じ権利を与えることで、少子化問題も克服できる方向になっているということも聞きます。今は男女というカテゴリーでだけ人を分けられないのと同じように今後結婚という観点もさまざまな形態が発生していくと考えられます。
最終的には人間はひとりの存在で、種の保存や生活していく上で便宜上、夫婦、家族という形態をなしているのだと思えば、さまざまな選択肢がそこには考えることができそうです。いずれにせよ、人間関係は(その差こそあれ)価値観の違う人同士が交流をもつということなので、そこにはどうしても精神的な触れ合いにおいてさまざまな影響をうけるわけです。すなわち人間関係とはストレスが生じやすく、それを極力いいカタチに転化する方法がコミュニケーションスキルということになると思います。
また相手によっても対応を変えなければならないケースもあります。特に外国人には日本の空気(行間)を読むような理解はできません。それは日本に長年住んでいる外国人でもわかりにくいと言われる人もいます。それくらい難しい感覚的なもので、日本人は日本で育って、日本人のDNAとしてすでに染みついているから理解できるのかもしれません。
ただ最近の若い世代は徐々にそういった感覚は減っているように思えます。それは良いとか悪いといったものではなくて、日本の家庭や社会の環境が大きく変わってきたということが言えるのではないかと思います。欧米の個人主義の影響や、戦後、日本がどんどん豊かになり、大家族から核家族、そして夫婦だけ、その次にはお一人様での生活も増えてきています。現在は祖父母と同居ということも減って二世帯住宅は常識です。また高齢化により高齢者は施設に入ることに抵抗感がない時代になってきました。介護というカタチで家族に負担をかけたくないという認識は高齢者に共通する意識になりつつあり、また子どもたちもそれが最善であるという意識もかなりあります。介護を社会の手にゆだねるということは決して家族の愛情問題とは関係がないのです。むしろ互いに負担をかけないようにすることが愛情であるというひとつのパラダイムシフトがなされているのだと思います。
夫婦関係もそうです。ある程度年齢を重ね、子どもたちもすべて独立すると、夫婦だけの時間が増えてきます。そして夫(あるいは妻)が定年退職をして家庭にいつもいるようになるとストレスであったりします。そうなると妻(あるいは夫)が外に出かけるようになってバランスをとるようになるのです。もちろん夫婦は最初の3~4年くらいはいいのですが、そのあとは夫婦だけの愛情というより子どもを見ながら父母としての役割で家庭を維持しているとも言えます。夫婦は他人です。最初は惹かれあっても、実際生活を共にするようになると、相手の悪いところもどんどん目に入ってきて、半ば好きという気持ちを妥協とかあきらめの気持ちが上回ってきたり、夫婦ってこういうもんだと冷めた精神状態になっていくことさえあります。でもそこに子どもの存在があると緩衝剤のような役割を果たしてくれるのです。
問題は夫婦仲が悪くなりすぎて、子どもに依存してしまうと、完全に子どもの自立を阻害し成長を遅らせたり、歪んだ情緒を育んでしまうことにもなりかねません。妻が家事、夫が仕事(あるいはその逆)に集中すればある面役割を分け、それぞれが集中できることを持つことで夫婦関係を維持することに大きな効果があります。また一般的には新婚時代はダブルベッド、子どもができてはそれぞれのベッド、そして子どもが独立したら部屋も別々なんてのもよくある話です。それでバランスをとって家庭というカタチが維持されていたりします。
歳をとっても仲のいい夫婦というのは新婚当初の夫婦の愛情関係とは違うモチベーションで形成されていると考えられます。詳しく聞けば、だいたいの人びとが口々に言われることは
「いろいろあったのよ~。」
という話です。いろんな心境を通過して熟成しきった関係であると言えるかもしれません。
フラット化している社会の中で夫婦が夫婦としての関係を維持し続けるためには、どこかで妥協したり折り合いをつけながら暮らしていくことであるのかもしれません。現代社会は離婚ということが驚くようなことではなくなったのにはやはり男女同権やジェンダーフリーといった風潮、そしてそのベースはやはり世界がフラット化していることにあると思います。男尊女卑の時代はやはり女性が我慢していたのです。あるいは社会の風土自体からも、女性というものは男性に屈して追従するものというすり込みが女性になされていたこともあると思います。
昔、夫婦が夫婦関係を解消せず維持し続けるには、どうしても片方が我慢したり妥協したりということで成立していたということがいえるかもしれません。現在夫婦関係を維持し続けている人びとは間違いなく、我慢や妥協を互いにしているか、あるいはそれをしないでもいいくらいの距離を互いの間に置いているかのどちらかであると言えます。とにかく、他人であった人同士が夫婦になるということは自分以外の価値観を受け入れるということで、それは妥協以外の何ものでもありません。そして妥協を減らすには価値観がなるべく近い人を選ぶということも方法です。
分かりやすく言うと最後まで妥協できなかった人が離婚を選択するのです。それはそれで一つの選択肢ですから、決して悪いことではないと思います。あるヨーロッパの国のように、最初から結婚という形態にこだわらないという方法もあります。そうすることで良好なパートナー関係が維持できたり、婚外子という概念をなくし同じ権利を与えることで、少子化問題も克服できる方向になっているということも聞きます。今は男女というカテゴリーでだけ人を分けられないのと同じように今後結婚という観点もさまざまな形態が発生していくと考えられます。
最終的には人間はひとりの存在で、種の保存や生活していく上で便宜上、夫婦、家族という形態をなしているのだと思えば、さまざまな選択肢がそこには考えることができそうです。いずれにせよ、人間関係は(その差こそあれ)価値観の違う人同士が交流をもつということなので、そこにはどうしても精神的な触れ合いにおいてさまざまな影響をうけるわけです。すなわち人間関係とはストレスが生じやすく、それを極力いいカタチに転化する方法がコミュニケーションスキルということになると思います。
ラベル:
コミュニケーション,
会社経営(組織運営),
学習,
教育,
自分軸(PSI的フレームワーク),
販売、営業
2013年9月23日月曜日
半沢直樹 ドラマ最終回を見て
昨日、日曜劇場「半沢直樹」最終章が幕を下ろしました。
社会的ブームとなったこのドラマ、ドラマはファンタジーであるので、現実社会と照らし合わせるにはかなりの無理がありますが、企業人としてはいろいろと参考になったことと思います。
それにしても敵役の大和田常務の負けっぷりは圧巻でした。私としては上司、上役がどのように追い詰められたとき行動するのかといった観点もたいへん興味がありました。会社に入ったときは誰しも希望に燃えて、夢を持って出発しているはずですが、組織の上層部へ行けば行くほど組織の制度や文化に取り込まれ、埋め込まれることによって、がんじがらめの状況に陥って行きます。そして背に腹は変えられないという状況からさまざまな知恵をふりしぼって違法なことに手を染めるようになる可能性もあります。
そういった観点からコンプライアンス違反は起こってくるのでしょうが、またそういった行為や行動を正当化する価値観を持つようになっていくのです。認知的不協和を是正するためにそうせざるをえないのです。組織の上層部に行けば行くほど強固なモラル、倫理思考を持っていなければ必ずその罠に陥ってしまいます。そのことは部下の立場からは理解が難しいのは当然です。まだ組織の風土に埋め込まれていないからなのです。もちろんコンプライアンス違反の出発点は個人的なことがらから始まっていますが、それがどんどん大きくなると組織的にそれを隠蔽せざえない状況に周囲が巻き込まれていきます。
ある知人を介して聞いた話ですが、その会社は財務的には完全に破綻状態にあり、粉飾を繰り返しながら、なんとか会社は存続しつづけているという話でした。なぜそんな会社が存続できるのか、それは銀行と経営者一族のずぶずぶの蜜月関係でした。銀行側もそういった状況であることはわかっているにもかかわらず、目をつぶって融資し続けているのです。もちろん会社側は会社更生法を適用するなら多くの社員とその家族は路頭に迷うという状況になってしまいます。したがってそういう選択肢はないのです。またそういった同族経営で旧き時代からずっと勤めてきた社員はそういった水に慣れていて、真実を知ろうとか、会社の業績などはあまり関心がありません。すべてがなあなあの関係なのです。社員はうすうす感じてはいても、わざわざそのことを口に出すことは社内の異端分子としてレッテルを貼られることを認識しているので暗黙のタブーとして誰も話題にあげないのです。
欧米の企業が役割や業績重視の経営であるのに比べて、日本の企業は人間関係がとても重視され、その関係から派生的に組織の文化や風土が造成されていきます。その状況下ではもう人間は埋め込まれて身動きがとれず、負の遺産を覆い隠したり、取り繕う作業をしつづけるしかできなくなるのです。そういった悪しき慣習を壊して正常な経営を取り戻すには基本的に組織内からの力では到底及びません。自浄能力を失った状況では組織の多くの構成員は被害者というより加害者の立場に立っているからに他なりません。内部告発者の葛藤はそこにあります。倫理的に人間的に受け入れられないことがらに少なからず加担してきたという現実を向き合わなければならないからです。また内部告発者はその後企業から放り出され、結局行き場をなくすという流れも多く、なかなか組織自体が自分の力で正常化するというのは困難です。
日本は結局黒船頼りになるのです。組織と利害関係のない第三者によってしか変えることはできないということです。本来は融資先の銀行がその役割を担わなくてはならないのですが、銀行に不良債権が多いのは企業と銀行もまた互いに利害関係を同じくしてることと蜜月の人間関係が出来上がってしまうからなのです。人間関係というのはとても難しいテーマです。信頼関係を築くためにはよく知り合って、理解しあって密着しなければ難しいのです。しかし密着しすぎると今度はNOと言えない関係になってしまい、いつの間にかすべてを容認するカタチになって気がつくと取り返しがつかない状態に至っているというわけです。
ドラマ半沢直樹では大和田常務という役員の個人的な事情からの背任行為が問題になっていますが、企業においては経営者自身がそうである場合も多いのです。昨今の不祥事を犯した企業を見ると経営トップからとんでもないワンマンでコンプラ違反を社員に強要していたということがあります。ただ大和田常務の実績を考えると、融資先との人間関係に埋め込まれず、冷徹にやってきたことで、出世してのし上がってきたということは言えるかもしれません。銀行は減点法での評価であると聞いたことがありますが、人情に流されず、あくまで実績のみを追求するにはそれくらいの人でないと残れないかもしれません。すべてが結果主義の銀行では正義感を押し通す人間性のある半沢直樹のような行員はそもそも存在できないかもしれません。冷徹もしくは逆に人間性のある行員はずぶずぶの蜜月関係で虚構の財務状況を容認する危ない橋を渡り続けていくかないのかもしれません。
主人公に話を戻しましょう。どんどん悪事をあぶり出し、追い込んでいく凄みのある半沢直樹の闘いはすさまじいものがありました。これは多くの企業人は痛快、爽快な感覚で楽しんで見れたことでしょう。視聴者の多くはこのように行動できたらどれほど気持ちいいだろうかと思いながら見ていたことでしょう。その一方で、所詮ドラマ、実際はこんなことできないよと諦めの心境に陥る人もいることでしょう。せめてその時間だけは現実逃避してスカーッとした気持ちを味わい、ストレス解消ができれば何よりです。
ドラマはファンタジーですので、ドラマを現実社会に当てはめて論じるというのも無理はあります。ただ現実で起こっている理不尽なことがらを社会的に多くの人びとに認知してもらうという観点ではとても意義深いことであると思います。ある経営者はドラマはつくりものなので一切見ないという人がいます。実際、彼は会社ではまったく社員と話が通じず、浮いた状況になっています。ドラマは事実とは違っていたとしてもそこに学ぶものもあるので、素直に取り込まれてみるのもいいかと思います。
実際の社会で半沢直樹のような社員が企業で生きていけるのかというと意見が分かれるところです。おそらくNOという人が多いのではないかと思います。もちろん私はNOです。そういった社員を見たこともなければ、自分がそのようにふるまうことも無理だと思うからです。半沢直樹はドラマの中ではヒーローですが、実際彼一人の力では何もできません。まず彼をとりまく力になる同僚、そして精神的にサポートしている妻に、直属の上司、極めつけは組織トップの頭取の存在です。そもそも組織のトップが問題を起こしていてそれを変えるには革命しかありません。あるいは下剋上、クーデターです。
大企業などは一般社員には経営トップがどんな人なのかも上っ面しかわかりません。でも会社規模が小さく社長と一般社員の距離が近いとその経営者ができるのかダメなのかは比較的分かりやすいのです。直属の上司がダメでも社長が素晴らしければその会社は希望があります。でも経営トップの社長がダメならその会社には希望がありません。そういう面では半沢直樹はその組織内で戦う意義はあります。そもそも頭取がだめなら彼のような人材は使わないでしょうし、彼は離脱して他の企業に行くほうがいいでしょう。
組織で半沢直樹のような人材を上層部がどう見るかです。問題をあぶり出し、経営を正常化する逸材と見るのか、問題を起こし、組織を振り回す問題児と見るのかです。前者のような見方ができる人は相当器の大きい人です。後者は保守的で人間関係も波風立てず無難に過ごしたい人です。そういう面では中野渡頭取は腹のある人です。ただ現実の社会では前者はほとんどお目にかかることはできません。あんなに正義感が強く、モチベーションも高く、決して屈しない屈強な精神力の持ち主でなおかつ良識があるような人はまずいません。人間関係も組織でもうまくやっていける人はやさしい人で空気を読むし、強い言葉が使えません。逆に問題をすぐ起こす人は空気を読まず、人の気持ちを無視して平気でキツイことが言えます。そして強くてワンマンで自己中心的です。その両者のいいとこ取りしたような人格の人はなかなかお目にかかれません。
寝食忘れ、命がけで悪に立ち向かう刑事や正義の味方は現実にはいません。正義感が強いだけで命をかけれる人なんてほとんど世の中にいないのではないかと思います。半沢直樹はなぜあそこまでできるのか、それは父親が大和田常務に見殺しにされたという怨みの情がベースにあるからに他なりません。半沢直樹のモチベーションはそういった負の遺産から来ているのです。そもそも倍返しという概念も仕返しとか復讐という言葉にオブラートをかぶせたような感じです。
ほとんどのドラマが善悪という設定で弱者がいじめられて、強い悪に対して最終的にはやり返すという流れの復讐劇がほとんどです。ハリウッド映画や香港映画のように悪を完全に粉砕して潰すというのとは半沢直樹が違うのはその結末にあります。最後に頭取による人事では大和田常務は降格、半沢は出向人事という内容でした。罪を憎んで人を憎まず、情状酌量の人事です。このことでこのドラマが単なる復讐劇でないことを物語っています。お手柄なのに出向人事という理由はドラマではまったく明かされず、視聴者の判断に委ねてあるわけですが、そこには適材適所という企業の論理やさらに深読みすると中枢に入れると持て余してしまう人材であるという意味もあるかもしれません。
以前流通系の会社で役員をしていた知人から聞いた話で、頭がよくて、できる社員は採らないという話も思い出しました。とにかくそういう社員はできるので将来異端分子、反乱分子にならないとも限らないということでした。独裁色が強い組織でイノベーションは必要なく、何も考えず日々のルーティンをきっちりする、そういう会社ほど執行部はそういう思考になるように思います。銀行も中枢に行くほど、言われたことがきっちりでき、それ以外の不必要なことはやらないほうが喜ばれる硬直化した組織風土もあるのかなと思ってしまった結末でした。
まあ確かに半沢直樹の出向人事は妥当で、より中枢部で管理職なんかやっていたら、それこそストレスがたまって、どうにもならないかもしれません。つねに戦っている人にはそういう職場が合うのかもしれません。半沢も正義の味方ヒーローと同じで、確かに戦隊モノのヒーローがやがて戦いを終えて管理職になるなんてシチュエーションは想像つかないですからね。
いずれにせよ、現実を忘れさせてくれる楽しいドラマでした。次回作に期待しましょう。
社会的ブームとなったこのドラマ、ドラマはファンタジーであるので、現実社会と照らし合わせるにはかなりの無理がありますが、企業人としてはいろいろと参考になったことと思います。
それにしても敵役の大和田常務の負けっぷりは圧巻でした。私としては上司、上役がどのように追い詰められたとき行動するのかといった観点もたいへん興味がありました。会社に入ったときは誰しも希望に燃えて、夢を持って出発しているはずですが、組織の上層部へ行けば行くほど組織の制度や文化に取り込まれ、埋め込まれることによって、がんじがらめの状況に陥って行きます。そして背に腹は変えられないという状況からさまざまな知恵をふりしぼって違法なことに手を染めるようになる可能性もあります。
そういった観点からコンプライアンス違反は起こってくるのでしょうが、またそういった行為や行動を正当化する価値観を持つようになっていくのです。認知的不協和を是正するためにそうせざるをえないのです。組織の上層部に行けば行くほど強固なモラル、倫理思考を持っていなければ必ずその罠に陥ってしまいます。そのことは部下の立場からは理解が難しいのは当然です。まだ組織の風土に埋め込まれていないからなのです。もちろんコンプライアンス違反の出発点は個人的なことがらから始まっていますが、それがどんどん大きくなると組織的にそれを隠蔽せざえない状況に周囲が巻き込まれていきます。
ある知人を介して聞いた話ですが、その会社は財務的には完全に破綻状態にあり、粉飾を繰り返しながら、なんとか会社は存続しつづけているという話でした。なぜそんな会社が存続できるのか、それは銀行と経営者一族のずぶずぶの蜜月関係でした。銀行側もそういった状況であることはわかっているにもかかわらず、目をつぶって融資し続けているのです。もちろん会社側は会社更生法を適用するなら多くの社員とその家族は路頭に迷うという状況になってしまいます。したがってそういう選択肢はないのです。またそういった同族経営で旧き時代からずっと勤めてきた社員はそういった水に慣れていて、真実を知ろうとか、会社の業績などはあまり関心がありません。すべてがなあなあの関係なのです。社員はうすうす感じてはいても、わざわざそのことを口に出すことは社内の異端分子としてレッテルを貼られることを認識しているので暗黙のタブーとして誰も話題にあげないのです。
欧米の企業が役割や業績重視の経営であるのに比べて、日本の企業は人間関係がとても重視され、その関係から派生的に組織の文化や風土が造成されていきます。その状況下ではもう人間は埋め込まれて身動きがとれず、負の遺産を覆い隠したり、取り繕う作業をしつづけるしかできなくなるのです。そういった悪しき慣習を壊して正常な経営を取り戻すには基本的に組織内からの力では到底及びません。自浄能力を失った状況では組織の多くの構成員は被害者というより加害者の立場に立っているからに他なりません。内部告発者の葛藤はそこにあります。倫理的に人間的に受け入れられないことがらに少なからず加担してきたという現実を向き合わなければならないからです。また内部告発者はその後企業から放り出され、結局行き場をなくすという流れも多く、なかなか組織自体が自分の力で正常化するというのは困難です。
日本は結局黒船頼りになるのです。組織と利害関係のない第三者によってしか変えることはできないということです。本来は融資先の銀行がその役割を担わなくてはならないのですが、銀行に不良債権が多いのは企業と銀行もまた互いに利害関係を同じくしてることと蜜月の人間関係が出来上がってしまうからなのです。人間関係というのはとても難しいテーマです。信頼関係を築くためにはよく知り合って、理解しあって密着しなければ難しいのです。しかし密着しすぎると今度はNOと言えない関係になってしまい、いつの間にかすべてを容認するカタチになって気がつくと取り返しがつかない状態に至っているというわけです。
ドラマ半沢直樹では大和田常務という役員の個人的な事情からの背任行為が問題になっていますが、企業においては経営者自身がそうである場合も多いのです。昨今の不祥事を犯した企業を見ると経営トップからとんでもないワンマンでコンプラ違反を社員に強要していたということがあります。ただ大和田常務の実績を考えると、融資先との人間関係に埋め込まれず、冷徹にやってきたことで、出世してのし上がってきたということは言えるかもしれません。銀行は減点法での評価であると聞いたことがありますが、人情に流されず、あくまで実績のみを追求するにはそれくらいの人でないと残れないかもしれません。すべてが結果主義の銀行では正義感を押し通す人間性のある半沢直樹のような行員はそもそも存在できないかもしれません。冷徹もしくは逆に人間性のある行員はずぶずぶの蜜月関係で虚構の財務状況を容認する危ない橋を渡り続けていくかないのかもしれません。
主人公に話を戻しましょう。どんどん悪事をあぶり出し、追い込んでいく凄みのある半沢直樹の闘いはすさまじいものがありました。これは多くの企業人は痛快、爽快な感覚で楽しんで見れたことでしょう。視聴者の多くはこのように行動できたらどれほど気持ちいいだろうかと思いながら見ていたことでしょう。その一方で、所詮ドラマ、実際はこんなことできないよと諦めの心境に陥る人もいることでしょう。せめてその時間だけは現実逃避してスカーッとした気持ちを味わい、ストレス解消ができれば何よりです。
ドラマはファンタジーですので、ドラマを現実社会に当てはめて論じるというのも無理はあります。ただ現実で起こっている理不尽なことがらを社会的に多くの人びとに認知してもらうという観点ではとても意義深いことであると思います。ある経営者はドラマはつくりものなので一切見ないという人がいます。実際、彼は会社ではまったく社員と話が通じず、浮いた状況になっています。ドラマは事実とは違っていたとしてもそこに学ぶものもあるので、素直に取り込まれてみるのもいいかと思います。
実際の社会で半沢直樹のような社員が企業で生きていけるのかというと意見が分かれるところです。おそらくNOという人が多いのではないかと思います。もちろん私はNOです。そういった社員を見たこともなければ、自分がそのようにふるまうことも無理だと思うからです。半沢直樹はドラマの中ではヒーローですが、実際彼一人の力では何もできません。まず彼をとりまく力になる同僚、そして精神的にサポートしている妻に、直属の上司、極めつけは組織トップの頭取の存在です。そもそも組織のトップが問題を起こしていてそれを変えるには革命しかありません。あるいは下剋上、クーデターです。
大企業などは一般社員には経営トップがどんな人なのかも上っ面しかわかりません。でも会社規模が小さく社長と一般社員の距離が近いとその経営者ができるのかダメなのかは比較的分かりやすいのです。直属の上司がダメでも社長が素晴らしければその会社は希望があります。でも経営トップの社長がダメならその会社には希望がありません。そういう面では半沢直樹はその組織内で戦う意義はあります。そもそも頭取がだめなら彼のような人材は使わないでしょうし、彼は離脱して他の企業に行くほうがいいでしょう。
組織で半沢直樹のような人材を上層部がどう見るかです。問題をあぶり出し、経営を正常化する逸材と見るのか、問題を起こし、組織を振り回す問題児と見るのかです。前者のような見方ができる人は相当器の大きい人です。後者は保守的で人間関係も波風立てず無難に過ごしたい人です。そういう面では中野渡頭取は腹のある人です。ただ現実の社会では前者はほとんどお目にかかることはできません。あんなに正義感が強く、モチベーションも高く、決して屈しない屈強な精神力の持ち主でなおかつ良識があるような人はまずいません。人間関係も組織でもうまくやっていける人はやさしい人で空気を読むし、強い言葉が使えません。逆に問題をすぐ起こす人は空気を読まず、人の気持ちを無視して平気でキツイことが言えます。そして強くてワンマンで自己中心的です。その両者のいいとこ取りしたような人格の人はなかなかお目にかかれません。
寝食忘れ、命がけで悪に立ち向かう刑事や正義の味方は現実にはいません。正義感が強いだけで命をかけれる人なんてほとんど世の中にいないのではないかと思います。半沢直樹はなぜあそこまでできるのか、それは父親が大和田常務に見殺しにされたという怨みの情がベースにあるからに他なりません。半沢直樹のモチベーションはそういった負の遺産から来ているのです。そもそも倍返しという概念も仕返しとか復讐という言葉にオブラートをかぶせたような感じです。
ほとんどのドラマが善悪という設定で弱者がいじめられて、強い悪に対して最終的にはやり返すという流れの復讐劇がほとんどです。ハリウッド映画や香港映画のように悪を完全に粉砕して潰すというのとは半沢直樹が違うのはその結末にあります。最後に頭取による人事では大和田常務は降格、半沢は出向人事という内容でした。罪を憎んで人を憎まず、情状酌量の人事です。このことでこのドラマが単なる復讐劇でないことを物語っています。お手柄なのに出向人事という理由はドラマではまったく明かされず、視聴者の判断に委ねてあるわけですが、そこには適材適所という企業の論理やさらに深読みすると中枢に入れると持て余してしまう人材であるという意味もあるかもしれません。
以前流通系の会社で役員をしていた知人から聞いた話で、頭がよくて、できる社員は採らないという話も思い出しました。とにかくそういう社員はできるので将来異端分子、反乱分子にならないとも限らないということでした。独裁色が強い組織でイノベーションは必要なく、何も考えず日々のルーティンをきっちりする、そういう会社ほど執行部はそういう思考になるように思います。銀行も中枢に行くほど、言われたことがきっちりでき、それ以外の不必要なことはやらないほうが喜ばれる硬直化した組織風土もあるのかなと思ってしまった結末でした。
まあ確かに半沢直樹の出向人事は妥当で、より中枢部で管理職なんかやっていたら、それこそストレスがたまって、どうにもならないかもしれません。つねに戦っている人にはそういう職場が合うのかもしれません。半沢も正義の味方ヒーローと同じで、確かに戦隊モノのヒーローがやがて戦いを終えて管理職になるなんてシチュエーションは想像つかないですからね。
いずれにせよ、現実を忘れさせてくれる楽しいドラマでした。次回作に期待しましょう。
2013年9月20日金曜日
日中韓はなかよくなれるのか?③
国境を越えてなかよくなる方法、考え方はいろいろあります。とりあえず思いつくことがらをあげると以下のようになります。
①罪(行為)を憎んで、人を憎まず。
②国家レベルでの対応はあっても、前世代の失敗やその報い(ツケ)は次世代に回さない。
③男・女(最近はカテゴリが増えていますが)、という立場、人間という次元まで抽象度をあげてつきあう。
とにかく日中韓の間で人びとは人間として心の通った普通の関係を築きたいわけです。もちろんそのためにはそれぞれが努力して感情論や社会的に受けてきた教育(他の国から見ると洗脳に他ならない)を越えて一人間として見つめる必要があると思います。もちろん全員がそのレベルになることは不可能です。少なくともPSIではそういう関係構築を標榜しています。そしてよりフラットな関係も目指しています。被害者、加害者という関係、権力者、従属者、あるいは強者、弱者の関係などすべてそういう要素を内包した組織はいずれヒエラルキーを形成し、そのうち間違えるとカルト教団のような組織になってしまう可能性があります。もっとも強い権力を持った人が教祖になってしまうのです。
ヒエラルキーがとても強固な国というと北朝鮮を思い浮かべる人もいるかもしれません。やはり強固な思想統一がなされている国家組織は、カルト教団とても似通っているのです。どの国も民主化政策を進めるのはそうならないようにするためで、それが国民の幸せに直結するからです。王は君臨すれど統治せず、王という個人、人間はつねに間違える可能性を内包しているのです。王はいても実際の政治は民間から選ばれた人が行うというのは理想です。では王は必要ないのかというと国民をまとめるシンボルというカタチであればなんら問題はないと考えます。そして統治者はつねに変わる、変えられることができるということが素晴らしいのです。その統治者も同族でないほうがいいと考えられます。
話が大きく外れましたが、人間は誰しも権力欲や野望をもっています。それは悪いことではないのです。要はそれを自己中心的に使ったりせず、ちゃんとコントロールできるということが、大人になることであると思います。暴力もパワーです。批判するのに暴力や破壊行為を行うということはこれは暴君や独裁者の手法となんら変わりません。ガンジーやキング牧師が歴史的に称賛され続けるのはそういった手法で訴えなかったということがあります。どんな違法な行動をしても反日無罪という観点には、はっきりとNOと言える民度をもてるように誰かがはじめて欲しいものです。
もちろんあまりにそれを容認、あるいは賛成意見が多い社会でNOということは、自殺行為であるかもしれません。国を正すにはその国にいてできないこともたくさんあります。反体制運動家はいつも自由主義の国に亡命して、訴え続けてきました。声を上げることができる国に来て声を上げる、訴えることでその国や国民が少しずつでも気づくことができれば大きな成果です。いずれにせよ改革や変革はたいへんな作業です。ただ革命はとてもリスクがあります。犠牲者もたくさん出ます。
会社、企業でも組織のトップも中枢に近い人びとほど制度に埋め込まれていて身動きがとれません。そういった環境下で気づいてもなかなか行動は起こせないのです。したがって周辺企業、部署から改革の波は徐々に中央に行くとか、第三者委員会など外部人材をつかってやるかしかなかなか方法がありません。ただ周辺過ぎたり、外部では見えてこない部分もあったりして改革のモチベーションが低いというマイナス面もあります。北朝鮮という国も地方にいる人民より、平壌にいる市民や政府高官が亡命したりするのを見ると、やはり中枢ほど問題も見えるということは事実だと思います。
日本と韓国でどちらがより社会的文化の強制度が高いかというとこれは間違いなく韓国です。ひとつの例をあげてみたいのですが、それは国際結婚から垣間見えます。わかりやすく言うと
韓国に嫁に行った日本女性はキムチを漬ける。
日本に嫁に来た韓国女性はキムチを漬ける。
ということです。日本女性ももともと男尊女卑の時代があったのでそのDNAを受け継いでいるからか、韓国社会の旧い風土には適応できるのです。日本では最近見受けられない嫁姑関係が存在していて、その風土に組み込まれています。それをさらに強固にしているのがマザコンに近い韓国の母息子の関係です。韓国に嫁入りした日本女性たちの話を聞くと、かなり精神的には抑圧された生活になっていることを感じます。彼女たちはイベントとしてお好み焼きは作っても、普段の生活ではチヂミをつくるのです。また中には独島(竹島の韓国名)はウリタン(我が【韓国の】領土)と言ってる(言わされている?)日本女性もいます。日本のネット上では目茶苦茶叩かれていますが、韓国ではそうしないと生きていけないのです。
それに比べ、日本に嫁入りした韓国女性は解放されます。キムチもつくれば、竹島は日本の領土なんて言う人はほとんどいません。また日本の男性は台所仕事をする人も多く、主夫も増えています。そして最近は韓国も多いのですが、日本はずいぶん前から核家族化も進み、長男でも親と暮らさない人が多いのです。それでたまに会う嫁姑関係はとてもフラットでカジュアルです。精神的に抑圧される要因は韓国よりは少ないと思います。それに、日本人は悪口は韓国人のいないところで言ってくれるので・・・・。ちなみに直接言ってくれる日本人がいたら、ある面愛情があるのかもしれませんね。
日本には全世界の料理がありますし、今は学校やさまざま自治体で外国の文化を取り入れることを推進しています。その中にはもちろん韓国の民俗文化なども含まれています。日本では日韓のイベントがたくさんあります。韓国では日本の民俗文化紹介やイベントなどはどうなのでしょう。ちなみに中国は政治や歴史問題と民間の交流はかなり分けて行われているように思います。中国は民主主義でない時代を長く続けてきたことと、国が大きすぎることもあり、ある面国家が交渉カードとして使っていることがらに民間があまり振り回されないという面もあります。
日本では九州などはすでに道路標識や街の案内標識などに英語、中国語、韓国語が使われています。韓国では日本人観光客がもっとも多いようですが、標識などはどうなのでしょう。やはり政府が反日ということをカードにつかっているので、それを行政で行うというのはなかなかできないのでしょうか。それでも南大門市場などに行くと販売者はほとんど日本語が話せます。民間レベルでは本音の部分でほとんどの人が日本語の必要性を感じているのでしょう。
韓国には日本の和食、寿司やカレーのチェーン店などが増えています。衣食住から徐々に文化、そして日本そのものを受け入れる状況が公式的に表れるようになることを期待したいものです。すでに日本在住の韓国の人びとはまた違った観点で祖国を見ているのでまた違った考察もできることかと思いますが、韓流好きな日本女性が日本にはたくさんいるように、韓国でも親日であると言っても別に批判されない国になることを願ってやみません。
①罪(行為)を憎んで、人を憎まず。
②国家レベルでの対応はあっても、前世代の失敗やその報い(ツケ)は次世代に回さない。
③男・女(最近はカテゴリが増えていますが)、という立場、人間という次元まで抽象度をあげてつきあう。
とにかく日中韓の間で人びとは人間として心の通った普通の関係を築きたいわけです。もちろんそのためにはそれぞれが努力して感情論や社会的に受けてきた教育(他の国から見ると洗脳に他ならない)を越えて一人間として見つめる必要があると思います。もちろん全員がそのレベルになることは不可能です。少なくともPSIではそういう関係構築を標榜しています。そしてよりフラットな関係も目指しています。被害者、加害者という関係、権力者、従属者、あるいは強者、弱者の関係などすべてそういう要素を内包した組織はいずれヒエラルキーを形成し、そのうち間違えるとカルト教団のような組織になってしまう可能性があります。もっとも強い権力を持った人が教祖になってしまうのです。
ヒエラルキーがとても強固な国というと北朝鮮を思い浮かべる人もいるかもしれません。やはり強固な思想統一がなされている国家組織は、カルト教団とても似通っているのです。どの国も民主化政策を進めるのはそうならないようにするためで、それが国民の幸せに直結するからです。王は君臨すれど統治せず、王という個人、人間はつねに間違える可能性を内包しているのです。王はいても実際の政治は民間から選ばれた人が行うというのは理想です。では王は必要ないのかというと国民をまとめるシンボルというカタチであればなんら問題はないと考えます。そして統治者はつねに変わる、変えられることができるということが素晴らしいのです。その統治者も同族でないほうがいいと考えられます。
話が大きく外れましたが、人間は誰しも権力欲や野望をもっています。それは悪いことではないのです。要はそれを自己中心的に使ったりせず、ちゃんとコントロールできるということが、大人になることであると思います。暴力もパワーです。批判するのに暴力や破壊行為を行うということはこれは暴君や独裁者の手法となんら変わりません。ガンジーやキング牧師が歴史的に称賛され続けるのはそういった手法で訴えなかったということがあります。どんな違法な行動をしても反日無罪という観点には、はっきりとNOと言える民度をもてるように誰かがはじめて欲しいものです。
もちろんあまりにそれを容認、あるいは賛成意見が多い社会でNOということは、自殺行為であるかもしれません。国を正すにはその国にいてできないこともたくさんあります。反体制運動家はいつも自由主義の国に亡命して、訴え続けてきました。声を上げることができる国に来て声を上げる、訴えることでその国や国民が少しずつでも気づくことができれば大きな成果です。いずれにせよ改革や変革はたいへんな作業です。ただ革命はとてもリスクがあります。犠牲者もたくさん出ます。
会社、企業でも組織のトップも中枢に近い人びとほど制度に埋め込まれていて身動きがとれません。そういった環境下で気づいてもなかなか行動は起こせないのです。したがって周辺企業、部署から改革の波は徐々に中央に行くとか、第三者委員会など外部人材をつかってやるかしかなかなか方法がありません。ただ周辺過ぎたり、外部では見えてこない部分もあったりして改革のモチベーションが低いというマイナス面もあります。北朝鮮という国も地方にいる人民より、平壌にいる市民や政府高官が亡命したりするのを見ると、やはり中枢ほど問題も見えるということは事実だと思います。
日本と韓国でどちらがより社会的文化の強制度が高いかというとこれは間違いなく韓国です。ひとつの例をあげてみたいのですが、それは国際結婚から垣間見えます。わかりやすく言うと
韓国に嫁に行った日本女性はキムチを漬ける。
日本に嫁に来た韓国女性はキムチを漬ける。
ということです。日本女性ももともと男尊女卑の時代があったのでそのDNAを受け継いでいるからか、韓国社会の旧い風土には適応できるのです。日本では最近見受けられない嫁姑関係が存在していて、その風土に組み込まれています。それをさらに強固にしているのがマザコンに近い韓国の母息子の関係です。韓国に嫁入りした日本女性たちの話を聞くと、かなり精神的には抑圧された生活になっていることを感じます。彼女たちはイベントとしてお好み焼きは作っても、普段の生活ではチヂミをつくるのです。また中には独島(竹島の韓国名)はウリタン(我が【韓国の】領土)と言ってる(言わされている?)日本女性もいます。日本のネット上では目茶苦茶叩かれていますが、韓国ではそうしないと生きていけないのです。
それに比べ、日本に嫁入りした韓国女性は解放されます。キムチもつくれば、竹島は日本の領土なんて言う人はほとんどいません。また日本の男性は台所仕事をする人も多く、主夫も増えています。そして最近は韓国も多いのですが、日本はずいぶん前から核家族化も進み、長男でも親と暮らさない人が多いのです。それでたまに会う嫁姑関係はとてもフラットでカジュアルです。精神的に抑圧される要因は韓国よりは少ないと思います。それに、日本人は悪口は韓国人のいないところで言ってくれるので・・・・。ちなみに直接言ってくれる日本人がいたら、ある面愛情があるのかもしれませんね。
日本には全世界の料理がありますし、今は学校やさまざま自治体で外国の文化を取り入れることを推進しています。その中にはもちろん韓国の民俗文化なども含まれています。日本では日韓のイベントがたくさんあります。韓国では日本の民俗文化紹介やイベントなどはどうなのでしょう。ちなみに中国は政治や歴史問題と民間の交流はかなり分けて行われているように思います。中国は民主主義でない時代を長く続けてきたことと、国が大きすぎることもあり、ある面国家が交渉カードとして使っていることがらに民間があまり振り回されないという面もあります。
日本では九州などはすでに道路標識や街の案内標識などに英語、中国語、韓国語が使われています。韓国では日本人観光客がもっとも多いようですが、標識などはどうなのでしょう。やはり政府が反日ということをカードにつかっているので、それを行政で行うというのはなかなかできないのでしょうか。それでも南大門市場などに行くと販売者はほとんど日本語が話せます。民間レベルでは本音の部分でほとんどの人が日本語の必要性を感じているのでしょう。
韓国には日本の和食、寿司やカレーのチェーン店などが増えています。衣食住から徐々に文化、そして日本そのものを受け入れる状況が公式的に表れるようになることを期待したいものです。すでに日本在住の韓国の人びとはまた違った観点で祖国を見ているのでまた違った考察もできることかと思いますが、韓流好きな日本女性が日本にはたくさんいるように、韓国でも親日であると言っても別に批判されない国になることを願ってやみません。
ラベル:
学習,
教育,
自分軸(PSI的フレームワーク),
政治
2013年9月19日木曜日
日中韓はなかよくなれるのか?②
今月22日日曜日にすべてのレイシズムやヘイトスピーチに反対する集会がもたれるようです。
http://antiracism.jp/march_for_freedom
最近は日本でも海外でしかお目にかかれないような過激なデモが見られるようになってきました。そのあまりに過激な汚い罵りは、とても日本人とは思えない、もしかしたら日本人ではない人たちが日本人の皮をまとってやっているのではないかと疑いたくなるようなものです。そういったことがコリアタウンと言われる地域で行われています。
同じ日本人として恥ずかしい限りですが、その方法は反日運動で見受けられるような手法と似通ってきています。海外でどんなに反日的な活動があったとしても日本人はつねに冷静に対処する(もちろん反日運動家?からはそういった日本の態度自体も気に食わないのでしょうが)というのがある面、先進国、大人の国という自負心でもあったわけです。ところが最近のもうレイシズムと言わざるをえない状況のデモを見たりするとあっけにとられるしかないのです。
韓国では親日発言の高齢者を殴り殺すという事件が起き、さらにそれを擁護するようなネット上の論調も数多くあったりして、とにかく感情的に冷静さに欠ける行動というのが目につきます。今日のYahooニュースでは下記のような記事が載っています。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130919-00000053-chosun-kr
とにかく最近のアジア三国の状況を見ると領土問題、歴史問題で感情的な行動が激しくなっています。このことは社会情勢自体がより個人に対してストレスの多い病的人格を生み出す要因をつくっているということがあげられると思います。日中韓に共通して言えることは少子高齢化が急速に進んでいて、人間関係の力が著しく低下しているということがあげられると考えます。縦型の上下関係は崩れていき、すでに年長者がえらく、年長者を大切にするという考え方はもうなくなってます。日本ではずいぶん前にそういった上下関係はかなり崩壊し、家族から会社組織までよりフラット化した関係になっています。
韓国も昔の映画と最近の映画やドラマでは大きく変わってきています。昔の映画やドラマでは大人や親の言うことが絶対で子どもや若者は間違っていても従うという社会でした。今は違います。最近のドラマの共通点は親たちの問題が子どもの代に露見して子どもたちの人生が翻弄されるというシチュエーションです。あの有名な冬のソナタも純愛と言いながら、親の世代は純愛じゃなかったよねというお話です。
今は年長者だからといって年下に命令したり強要するような態度の人は、逆に反感を買ってたいへんな目にあいます。何を言いたいかというと権力構造の上下のヒエラルキーがキツイ社会は抑圧された社会なので、徐々にそれらが爆発してしまう状況になっているということを感じます。権力や固定された思想で抑圧している社会は目に見えないフラストレーションがあふれているということなのです。韓国で高齢者を殴り殺した人はもちろん許されるべきではありません。ただそういう親日的言動に対してあまりに過激な行動に出てしまった原因は抑圧された社会やあまりに過激な反日に対するすり込みがなされている教育にもあります。
日本では反韓教育も、反中教育もしません。すなわち歴史教育に感情を持ち込まないのです。また教師が感情的にそういった意識で教育することもありません。いかに感情を入れず、歴史の史実を伝えるかが重要であり、間違っていれば上書きされていくというだけです。感情と言えばむしろ日教組の影響で日本政府に対しての反発を持つような教育のほうが知らぬ間になされていたかもしれません。他国に対して憎悪を抱かせるような教育は絶対しません。
韓国は戦後ずいぶんと民主化がなされてきました。でもまだ民主主義と言い切れないのは、社会の風潮として反対意見や異論が述べれないということがあります。日本では日本人が韓国や中国の立場を擁護する見解を述べても殺されることはありません。政治家が中国でリップサービスをしても、多少のバッシングを受けるくらいで日本にちゃんと帰国して暮らせるのです。歌手のチョ・ヨンナムさんや大学教授オ・ソナさんのこともやはり韓国はきびしいと思わざるをえません。
韓国は半島でつねに他国からの侵略に対峙しなければいけない都合上、また北朝鮮と対峙している関係上思想的な統一が不可欠であったという国家の哀しい事情があります。過去の韓国の歴史をみてもアカ狩りでかなりの人びとが犠牲になっています。でも今、反日感情を子どもたちにどんどん教育しすり込んで何かメリットがあるのでしょうか?反日運動やその意識の高揚がメリットがあるのは二点です。それは
・政権に対する不満や支持率低下に対する国民のガス抜き
・歴史問題の謝罪を通じた賠償金
です。でもよく考えるとあまりおいしいものではありません。たしかにアメリカも戦争をすると支持率が上がります。でも今回のイランへの武力行使にはアメリカ国民は懐疑的です。イギリスは参加しないことを議会で決定しました。アメリカ国民もイラク進攻の際、大量秘密兵器は無かったとか、過去のことから学習しているのです。もう政府に振り回されないよという民主主義国家としての行動をしているわけです。韓国も政府はつねに反日を利用しガス抜きをしているのですが、そういったことは良識ある韓国国民はわかっています。でも幼少時からすり込まれた反日精神はなかなか脱却できない人も多いのです。
経済援助も歴史問題にかけてやるよりは素直に日本への支援を要望したほうが日本国民は歓迎します。まあ韓国ではそういうカタチで支援を受けるということは韓国世論の反対を考えて仕方なくそういう手法しか使えないのかもしれません。北風政策では人の心は開きません。もうほとんどの日本人の心の中には、何回でも謝るけど、結局お金欲しんでしょという認識になってしまっています。もう謝罪要求は金銭要求であるとほとんどの日本人は認識しています。
反日運動は必ずしも韓国や中国の全国民の意識の反映とは考えられません。実際韓国では高齢者の方がたがとても親日の場合が多いのです。私はあの時代はご苦労されたでしょうというと、全く違う答えが返ってくるので恐縮してしまうのです。むしろ植民地時代を体験していない若い人びとの中にとてつもない反日意識を持っている場合を数多く見てきました。これは私としてはとても不思議なことでした。たしかに五情の中で唯一‘怨み’の情だけが時間薬が効かず、時間の経過とともに大きくなるのです。まさに世代が変わると多少消えるのかと思ったら、逆に世代交代とともに怨みや被害者意識は大きくなっているのです。
日本はアメリカに対して過剰な被害者意識は持ちません。というよりそういう教育自体受けていないのです。過剰な被害者意識も加害者意識も、ともに個人の人格に良い影響は与えませんし、ひいては国の発展にもマイナスです。韓国のドラマを見ていていつも思うのは親の問題が子どもに影響を及ぼすのです。でも私は結構ドライなので、親は親、子は子と考えればいいじゃないかと思ったりします。親は先に行く世代、子はこれから歩む世代。親は過去の因習にとらわれ身動きがとれないのです。親に今更価値観を変えろというのは酷です。親は子の幸せを願っています。親離れをすることが結果的に親孝行です。それで子は幸せになれるのですから。親は理解できなくていいのです。
日本の場合は欧米の個人主義や核家族化の影響で、親はもう子どもに親の考えを押し付けなくなりました。韓国はまだまだ家族主義というアジア特有の良きにつけ悪しきにつけそういった考え方が根強いのでそのパラダイムの呪縛ゆえにたいへん苦労するかもしれません。いずれにせよ抑圧が強い国から抑圧が少ない国に来れば、いろんな価値観と接し、もう一度自分や自身の人生を見つめなおす機会が得られます。日本に長年暮らして韓国に帰った知人が、日韓の領土問題になったとき、「日本には日本の言い分がある」とだけ言ったとき、たいへんなことになったそうです。
グローバル化とは多様な価値観を受け入れる、せめて受け止めることから始まります。ダイバーシティという考え方もそうです。韓国ももうそろそろ二回目の民主主義(一回目は軍事政権からの脱却)に飛躍するときを迎えているのではないかと思います。感情に任せた行動による社会で起こっているさまざまな事件はその過渡期に来ている気がします。韓国国民がそれを深刻にとらえ、もっともっと客観的視点に立ってものごとを分析、吟味してほしいものです。韓国はもともと優秀な力のある民族です。それが国自体がもつ制度的埋め込み(制度は文化も含めます)から個の意見が抑圧されて来ました。これを解くのはなかなか困難なことです。
現代グループ創始者の鄭周永(チョン・ジュヨン)氏が生前、「韓国に共産党があってもいい」という発言をし波紋を拡げたことがありました。ここまで成熟した韓国はもういろんな価値観が入っても国が揺るぐことはありません。もう一歩本来的な民主主義が浸透すれば日本の嫌韓感情も溶けて行きます。レイシズム運動も消えていくでしょう。おとなしい日本もあまり追いつめるとそういうことが増えていきます。それでもそういったことは辞めようと日本は日本なりに努力しています。韓国もそういった声が少しずつでも増えていくことを期待したいものです。
http://antiracism.jp/march_for_freedom
最近は日本でも海外でしかお目にかかれないような過激なデモが見られるようになってきました。そのあまりに過激な汚い罵りは、とても日本人とは思えない、もしかしたら日本人ではない人たちが日本人の皮をまとってやっているのではないかと疑いたくなるようなものです。そういったことがコリアタウンと言われる地域で行われています。
同じ日本人として恥ずかしい限りですが、その方法は反日運動で見受けられるような手法と似通ってきています。海外でどんなに反日的な活動があったとしても日本人はつねに冷静に対処する(もちろん反日運動家?からはそういった日本の態度自体も気に食わないのでしょうが)というのがある面、先進国、大人の国という自負心でもあったわけです。ところが最近のもうレイシズムと言わざるをえない状況のデモを見たりするとあっけにとられるしかないのです。
韓国では親日発言の高齢者を殴り殺すという事件が起き、さらにそれを擁護するようなネット上の論調も数多くあったりして、とにかく感情的に冷静さに欠ける行動というのが目につきます。今日のYahooニュースでは下記のような記事が載っています。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130919-00000053-chosun-kr
とにかく最近のアジア三国の状況を見ると領土問題、歴史問題で感情的な行動が激しくなっています。このことは社会情勢自体がより個人に対してストレスの多い病的人格を生み出す要因をつくっているということがあげられると思います。日中韓に共通して言えることは少子高齢化が急速に進んでいて、人間関係の力が著しく低下しているということがあげられると考えます。縦型の上下関係は崩れていき、すでに年長者がえらく、年長者を大切にするという考え方はもうなくなってます。日本ではずいぶん前にそういった上下関係はかなり崩壊し、家族から会社組織までよりフラット化した関係になっています。
韓国も昔の映画と最近の映画やドラマでは大きく変わってきています。昔の映画やドラマでは大人や親の言うことが絶対で子どもや若者は間違っていても従うという社会でした。今は違います。最近のドラマの共通点は親たちの問題が子どもの代に露見して子どもたちの人生が翻弄されるというシチュエーションです。あの有名な冬のソナタも純愛と言いながら、親の世代は純愛じゃなかったよねというお話です。
今は年長者だからといって年下に命令したり強要するような態度の人は、逆に反感を買ってたいへんな目にあいます。何を言いたいかというと権力構造の上下のヒエラルキーがキツイ社会は抑圧された社会なので、徐々にそれらが爆発してしまう状況になっているということを感じます。権力や固定された思想で抑圧している社会は目に見えないフラストレーションがあふれているということなのです。韓国で高齢者を殴り殺した人はもちろん許されるべきではありません。ただそういう親日的言動に対してあまりに過激な行動に出てしまった原因は抑圧された社会やあまりに過激な反日に対するすり込みがなされている教育にもあります。
日本では反韓教育も、反中教育もしません。すなわち歴史教育に感情を持ち込まないのです。また教師が感情的にそういった意識で教育することもありません。いかに感情を入れず、歴史の史実を伝えるかが重要であり、間違っていれば上書きされていくというだけです。感情と言えばむしろ日教組の影響で日本政府に対しての反発を持つような教育のほうが知らぬ間になされていたかもしれません。他国に対して憎悪を抱かせるような教育は絶対しません。
韓国は戦後ずいぶんと民主化がなされてきました。でもまだ民主主義と言い切れないのは、社会の風潮として反対意見や異論が述べれないということがあります。日本では日本人が韓国や中国の立場を擁護する見解を述べても殺されることはありません。政治家が中国でリップサービスをしても、多少のバッシングを受けるくらいで日本にちゃんと帰国して暮らせるのです。歌手のチョ・ヨンナムさんや大学教授オ・ソナさんのこともやはり韓国はきびしいと思わざるをえません。
韓国は半島でつねに他国からの侵略に対峙しなければいけない都合上、また北朝鮮と対峙している関係上思想的な統一が不可欠であったという国家の哀しい事情があります。過去の韓国の歴史をみてもアカ狩りでかなりの人びとが犠牲になっています。でも今、反日感情を子どもたちにどんどん教育しすり込んで何かメリットがあるのでしょうか?反日運動やその意識の高揚がメリットがあるのは二点です。それは
・政権に対する不満や支持率低下に対する国民のガス抜き
・歴史問題の謝罪を通じた賠償金
です。でもよく考えるとあまりおいしいものではありません。たしかにアメリカも戦争をすると支持率が上がります。でも今回のイランへの武力行使にはアメリカ国民は懐疑的です。イギリスは参加しないことを議会で決定しました。アメリカ国民もイラク進攻の際、大量秘密兵器は無かったとか、過去のことから学習しているのです。もう政府に振り回されないよという民主主義国家としての行動をしているわけです。韓国も政府はつねに反日を利用しガス抜きをしているのですが、そういったことは良識ある韓国国民はわかっています。でも幼少時からすり込まれた反日精神はなかなか脱却できない人も多いのです。
経済援助も歴史問題にかけてやるよりは素直に日本への支援を要望したほうが日本国民は歓迎します。まあ韓国ではそういうカタチで支援を受けるということは韓国世論の反対を考えて仕方なくそういう手法しか使えないのかもしれません。北風政策では人の心は開きません。もうほとんどの日本人の心の中には、何回でも謝るけど、結局お金欲しんでしょという認識になってしまっています。もう謝罪要求は金銭要求であるとほとんどの日本人は認識しています。
反日運動は必ずしも韓国や中国の全国民の意識の反映とは考えられません。実際韓国では高齢者の方がたがとても親日の場合が多いのです。私はあの時代はご苦労されたでしょうというと、全く違う答えが返ってくるので恐縮してしまうのです。むしろ植民地時代を体験していない若い人びとの中にとてつもない反日意識を持っている場合を数多く見てきました。これは私としてはとても不思議なことでした。たしかに五情の中で唯一‘怨み’の情だけが時間薬が効かず、時間の経過とともに大きくなるのです。まさに世代が変わると多少消えるのかと思ったら、逆に世代交代とともに怨みや被害者意識は大きくなっているのです。
日本はアメリカに対して過剰な被害者意識は持ちません。というよりそういう教育自体受けていないのです。過剰な被害者意識も加害者意識も、ともに個人の人格に良い影響は与えませんし、ひいては国の発展にもマイナスです。韓国のドラマを見ていていつも思うのは親の問題が子どもに影響を及ぼすのです。でも私は結構ドライなので、親は親、子は子と考えればいいじゃないかと思ったりします。親は先に行く世代、子はこれから歩む世代。親は過去の因習にとらわれ身動きがとれないのです。親に今更価値観を変えろというのは酷です。親は子の幸せを願っています。親離れをすることが結果的に親孝行です。それで子は幸せになれるのですから。親は理解できなくていいのです。
日本の場合は欧米の個人主義や核家族化の影響で、親はもう子どもに親の考えを押し付けなくなりました。韓国はまだまだ家族主義というアジア特有の良きにつけ悪しきにつけそういった考え方が根強いのでそのパラダイムの呪縛ゆえにたいへん苦労するかもしれません。いずれにせよ抑圧が強い国から抑圧が少ない国に来れば、いろんな価値観と接し、もう一度自分や自身の人生を見つめなおす機会が得られます。日本に長年暮らして韓国に帰った知人が、日韓の領土問題になったとき、「日本には日本の言い分がある」とだけ言ったとき、たいへんなことになったそうです。
グローバル化とは多様な価値観を受け入れる、せめて受け止めることから始まります。ダイバーシティという考え方もそうです。韓国ももうそろそろ二回目の民主主義(一回目は軍事政権からの脱却)に飛躍するときを迎えているのではないかと思います。感情に任せた行動による社会で起こっているさまざまな事件はその過渡期に来ている気がします。韓国国民がそれを深刻にとらえ、もっともっと客観的視点に立ってものごとを分析、吟味してほしいものです。韓国はもともと優秀な力のある民族です。それが国自体がもつ制度的埋め込み(制度は文化も含めます)から個の意見が抑圧されて来ました。これを解くのはなかなか困難なことです。
現代グループ創始者の鄭周永(チョン・ジュヨン)氏が生前、「韓国に共産党があってもいい」という発言をし波紋を拡げたことがありました。ここまで成熟した韓国はもういろんな価値観が入っても国が揺るぐことはありません。もう一歩本来的な民主主義が浸透すれば日本の嫌韓感情も溶けて行きます。レイシズム運動も消えていくでしょう。おとなしい日本もあまり追いつめるとそういうことが増えていきます。それでもそういったことは辞めようと日本は日本なりに努力しています。韓国もそういった声が少しずつでも増えていくことを期待したいものです。
ラベル:
学習,
教育,
自分軸(PSI的フレームワーク),
政治
2013年9月18日水曜日
日中韓はなかよくなれるのか?①
日中韓、このアジアでもっとも重要で困難で、ひとくくりにできないこの三国の問題に関してはずっと避けてきた議題です。このブログはコラム式に書いていて、読むのもたいへんだけど、コメント書くのも書きづらいので、いまだにどなたのコメントもいただいておりません。管理人が削除したコメントもありません。
かなり主観的な観点が含まれているように思われるでしょうし、実際八方美人的な論調でないことは間違いありません。それでも読者の方がたが、とりあえず読んでいただいてもコメントまではされないのは、そこまで感情的にヒートアップするような議題をあまりとりあげていないということもあるかもしれません。
今回日中韓というテーマはある面たいへんリスキーなものであるとは思います。でもやはりこの件は避けて通れないものであると思います。PSI的見解をいつか出さないといけないとは思いつつもリスキーなテーマであることから、なかなか踏み切れない部分はありました。なぜならこのブログは中国の人も韓国の人も読んでいただいているからです。私自身中国・韓国の友人がいますし、決して嫌韓でも、嫌中でもないということは断っておきたいと思います。逆に下手な主張をするとネトウヨと呼ばれる人びとの反感を買う可能性もありますが、基本的に私は日本人ですから日本人のごく一般的な価値観をもっていることは否定できません。したがって彼らの気持ちも十分理解できますし、同調したい気にもなります。とりあえずそういったリスクはさておいて、今後少しづつ小出しに見解を述べていきたいと思います。
まず最初に日中韓はなかよくなれるのか?
というテーマに対しての結論をいきなり申しますとそれは可能だということです。というよりすでにそういう関係を築いている人は多いのです。その方法という考え方は極めてシンプルです。それは
男と女(最近は中間の方もおられますが)、人間というレベルまで抽象度をあげてつきあえば可能である。
ということなのです。芸術や文化は国境を越えますが、男女関係も国境を越えやすいのです。そして人間としての関係性はまったく問題がありません。ただその際、どう考えても平行線にしかならない課題はとりあえず棚上げしておくということです。これは個人レベルのつきあいでは可能です。棚上げというと、とても無責任なようですが、実は棚上げせざるえないことがらというのは私たちの人間としての生物学的な価値とはまったく関係がありません。すなわちたまたま生まれた国の立場や主張を押し付けられて、さらに言うとすり込まれているにすぎないのです。
国家的、社会的レベルにおける都合をお仕着せられているのが人間であるということです。そういったことも含めてアイデンティティというものが形成されているのですが、国の領土もこれは歴史の流れの中で人間が勝手に決めたものであって、もし神様がおられるとしたら、まったく関係の無いものであると思います。もちろん直接聞いたわけではないので断定はできません。
国とか社会、さまざまな組織にはそれぞれ人間一個人が巻き込まれるパラダイムを擁しています。その存続のために必要な考え方や都合に合わせての主張は各国、各社会、各組織において違います。そしてそこに異論をとなえると危険であることは周知のとおりです。リスクを負って異論を唱えたり変えようとするのは変革であったり、さらに過激になると革命になったりしますが、それはなかなかたいへんなことです。
日中韓の間に横たわる問題も組織変革みたいなレベルでとらえれる問題ではありません。おそらく今私たちが生きているうちに解決できるなどとは到底考えられないことばかりです。でも私たちは今を生きています。個人レベルにおいてはなかよく暮らしたいし、つきあいたいわけです。だから棚上げというか、生物としての人間とは直接関係の無い社会的な影響から変容している部分は置いといてつきあいましょうということなのです。
もちろん国が違うわけですから、やはり領土問題をはじめ、さまざまな歴史問題など食い違う部分においては大いに議論することはいいことです。むしろどんどんするべきだとも思います。日本人はとくにその部分においてはなかなか下手なのです。本音と建前でつねに和の文化の中で暮らしてきたので、欧米の大学や企業で平気で行われているディベートが上手ではないのです。では中国、韓国の人が得意かというとそうでもありません。感情論に陥りがちになって議論ができなくなる可能性があるのです。
この三国がディベートを成功させるにはスキルとセルフコントロールが必要です。それは内省やセルフコーゼーションというなんでも相手が問題だと批判するのでなく自己批判できる器も必要です。
韓国人の努力目標は、感情的にならず、威圧的になったり、強迫じみた言い回しをすることをさけることです。これは交渉術としては有効な場合がありますが、交渉して自分の要求を相手に飲ませるのが目的ではないということです。負けるが勝ちという言葉がありますが、無理やり追い込めて勝つと後で分が悪くなり、結局人間関係で劣位に転じる可能性が大です。
日本人は本音と建前が人間関係の潤滑油みたいなところが強く、言いにくいことは極力オブラートに包んで表現してしまうということが多いのです。で、結果的に相手にちゃんと伝わっていないということが多く。また甘えの構造からなんで理解してないのと相手を責めるところがあるのです。空気を読んでとか、行間を読んで理解してというのは日本でしか通用しません。最近は世代的に空気が読めなくなっているので、空気を呼んで相手の意図を察して行動できる人は減っています。とにかくはっきりと意見を述べるということが重要です。議論のとき言いたいことを我慢してあとでこそこそ言うのは日本人の悪いところです。
日本人は喧嘩もできない人が多く、裏ではいろいろ言っているのに本人の前ではいい顔で通るというのがあります。そういう人は似非平和主義と私は言っていますが、たまには感情的になったり喧嘩したりするのも人間的でいいのではと思います。日本の犯罪はそういった面でとても陰湿なものが多い気がします。
中国人は過激な反日運動ばかりがメディアに露出されているので、とんでもない過激で感情的だと思われがちですが、それは一部の人です。実際はかなり冷静な人も多いのです。何しろ4000年の歴史がありますし、忍耐強いところもあるのです。ただ自己主張は強いので、相手の事情をよく理解するというスキルは必要な気がします。また計算づくで考えるのでなく、本音で自分をさらけ出すことも必要かと思います。日本人とまたちがって奥深い部分があります。
それぞれ個々のマイナス部分を自覚した人びとが集まって冷静に議論すればとても面白いと思います。もちろん育った環境や遺伝的要素も違いますが、いまあげたような内容を抑えて話し合うというのはとても大変なことです。しゃべり方もすぐ民族性がすぐでてしまいます。それは仕方のないことです。ただ知的にはそういったマイナス部分を念頭に置いておくというのは大切です。受容できる部分は自分にとってプラスになるわけで、どうしても譲れない部分を譲る必要もないのです。平行線になっていいのです。
かなり主観的な観点が含まれているように思われるでしょうし、実際八方美人的な論調でないことは間違いありません。それでも読者の方がたが、とりあえず読んでいただいてもコメントまではされないのは、そこまで感情的にヒートアップするような議題をあまりとりあげていないということもあるかもしれません。
今回日中韓というテーマはある面たいへんリスキーなものであるとは思います。でもやはりこの件は避けて通れないものであると思います。PSI的見解をいつか出さないといけないとは思いつつもリスキーなテーマであることから、なかなか踏み切れない部分はありました。なぜならこのブログは中国の人も韓国の人も読んでいただいているからです。私自身中国・韓国の友人がいますし、決して嫌韓でも、嫌中でもないということは断っておきたいと思います。逆に下手な主張をするとネトウヨと呼ばれる人びとの反感を買う可能性もありますが、基本的に私は日本人ですから日本人のごく一般的な価値観をもっていることは否定できません。したがって彼らの気持ちも十分理解できますし、同調したい気にもなります。とりあえずそういったリスクはさておいて、今後少しづつ小出しに見解を述べていきたいと思います。
まず最初に日中韓はなかよくなれるのか?
というテーマに対しての結論をいきなり申しますとそれは可能だということです。というよりすでにそういう関係を築いている人は多いのです。その方法という考え方は極めてシンプルです。それは
男と女(最近は中間の方もおられますが)、人間というレベルまで抽象度をあげてつきあえば可能である。
ということなのです。芸術や文化は国境を越えますが、男女関係も国境を越えやすいのです。そして人間としての関係性はまったく問題がありません。ただその際、どう考えても平行線にしかならない課題はとりあえず棚上げしておくということです。これは個人レベルのつきあいでは可能です。棚上げというと、とても無責任なようですが、実は棚上げせざるえないことがらというのは私たちの人間としての生物学的な価値とはまったく関係がありません。すなわちたまたま生まれた国の立場や主張を押し付けられて、さらに言うとすり込まれているにすぎないのです。
国家的、社会的レベルにおける都合をお仕着せられているのが人間であるということです。そういったことも含めてアイデンティティというものが形成されているのですが、国の領土もこれは歴史の流れの中で人間が勝手に決めたものであって、もし神様がおられるとしたら、まったく関係の無いものであると思います。もちろん直接聞いたわけではないので断定はできません。
国とか社会、さまざまな組織にはそれぞれ人間一個人が巻き込まれるパラダイムを擁しています。その存続のために必要な考え方や都合に合わせての主張は各国、各社会、各組織において違います。そしてそこに異論をとなえると危険であることは周知のとおりです。リスクを負って異論を唱えたり変えようとするのは変革であったり、さらに過激になると革命になったりしますが、それはなかなかたいへんなことです。
日中韓の間に横たわる問題も組織変革みたいなレベルでとらえれる問題ではありません。おそらく今私たちが生きているうちに解決できるなどとは到底考えられないことばかりです。でも私たちは今を生きています。個人レベルにおいてはなかよく暮らしたいし、つきあいたいわけです。だから棚上げというか、生物としての人間とは直接関係の無い社会的な影響から変容している部分は置いといてつきあいましょうということなのです。
もちろん国が違うわけですから、やはり領土問題をはじめ、さまざまな歴史問題など食い違う部分においては大いに議論することはいいことです。むしろどんどんするべきだとも思います。日本人はとくにその部分においてはなかなか下手なのです。本音と建前でつねに和の文化の中で暮らしてきたので、欧米の大学や企業で平気で行われているディベートが上手ではないのです。では中国、韓国の人が得意かというとそうでもありません。感情論に陥りがちになって議論ができなくなる可能性があるのです。
この三国がディベートを成功させるにはスキルとセルフコントロールが必要です。それは内省やセルフコーゼーションというなんでも相手が問題だと批判するのでなく自己批判できる器も必要です。
韓国人の努力目標は、感情的にならず、威圧的になったり、強迫じみた言い回しをすることをさけることです。これは交渉術としては有効な場合がありますが、交渉して自分の要求を相手に飲ませるのが目的ではないということです。負けるが勝ちという言葉がありますが、無理やり追い込めて勝つと後で分が悪くなり、結局人間関係で劣位に転じる可能性が大です。
日本人は本音と建前が人間関係の潤滑油みたいなところが強く、言いにくいことは極力オブラートに包んで表現してしまうということが多いのです。で、結果的に相手にちゃんと伝わっていないということが多く。また甘えの構造からなんで理解してないのと相手を責めるところがあるのです。空気を読んでとか、行間を読んで理解してというのは日本でしか通用しません。最近は世代的に空気が読めなくなっているので、空気を呼んで相手の意図を察して行動できる人は減っています。とにかくはっきりと意見を述べるということが重要です。議論のとき言いたいことを我慢してあとでこそこそ言うのは日本人の悪いところです。
日本人は喧嘩もできない人が多く、裏ではいろいろ言っているのに本人の前ではいい顔で通るというのがあります。そういう人は似非平和主義と私は言っていますが、たまには感情的になったり喧嘩したりするのも人間的でいいのではと思います。日本の犯罪はそういった面でとても陰湿なものが多い気がします。
中国人は過激な反日運動ばかりがメディアに露出されているので、とんでもない過激で感情的だと思われがちですが、それは一部の人です。実際はかなり冷静な人も多いのです。何しろ4000年の歴史がありますし、忍耐強いところもあるのです。ただ自己主張は強いので、相手の事情をよく理解するというスキルは必要な気がします。また計算づくで考えるのでなく、本音で自分をさらけ出すことも必要かと思います。日本人とまたちがって奥深い部分があります。
それぞれ個々のマイナス部分を自覚した人びとが集まって冷静に議論すればとても面白いと思います。もちろん育った環境や遺伝的要素も違いますが、いまあげたような内容を抑えて話し合うというのはとても大変なことです。しゃべり方もすぐ民族性がすぐでてしまいます。それは仕方のないことです。ただ知的にはそういったマイナス部分を念頭に置いておくというのは大切です。受容できる部分は自分にとってプラスになるわけで、どうしても譲れない部分を譲る必要もないのです。平行線になっていいのです。
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2013年9月9日月曜日
東京五輪招致決定にみる日本のチームワーク
はじめに、日本人として東京のオリンピック・パラリンピック招致決定をうれしく思います。そして安倍首相、猪瀬都知事はじめ関係者の方々への労をねぎらいたいと思います。
最初、日本は他の二国に比べ、自国での五輪招致に対する支持率がとても低く、実際のところ私もそんなに意識はありませんでした。でもそれは国民の多くがおそらく3.11の復興もままならない状態で自国の復興がまず最初ではないかという意識があったからではないかと思います。
でも実際、五輪招致に名乗りを上げたのは、3.11以前ですし、さまざまな苦難があったとはいえ、五輪招致にかぎつけた日本の意地というか底力はたいしたものだと思います。何をやるにも賛否両論あるものです。どんなにいいことだと思ってもそう思わない人もいます。100%一致する政策もなければ、100%好かれる人格の人もいません。ただ、私としては五輪招致に関する活動はどうも東北の人びとの気持ちを置いて行っているようで、いまひとつ納得できないものもあったのですが、最終的には安倍首相や猪瀬都知事の東北の人びとへの配慮の言葉があったことで救われる気持ちになり、今回の五輪招致をいっしょに祝いたいという気持ちに変わりました。
ということで前置きはこれくらいにして、今回の五輪招致の活動のために組織された人びとのチームワークの素晴らしさには敬服しました。もちろんプレゼンの素晴らしさはともかく、それぞれがそれぞれの立場で役割をうまく果たした結果であったと思います。そこにはプレゼン能力や折衝能力といったスキルもさることながら、それのベースとなった目に見えない日本人の文化や価値観があったことは間違いないと思います。そしてそれらをうまく引き出し、アドバイスした五輪招致デザイナーの存在は大きいでしょう。
今回のこのチームはまさに五輪招致というビジョンをもとに寄せ集められた個性派集団です。しかしそのチームワークの素晴らしさはさまざまなメディアを通じて伝わってきました。それはよっぽどうがった見方をしないかぎり、国民の多くがそう感じたのではないかと思います。会社組織のような集団ではない、やはりスポーツらしい全員が一丸となって取り組むという姿勢が随所にみられました。やはり目標が明確でそれにむかっていかに勝利を勝ち取るかという意識、そしてチームの構成員のすべてのモチベーションにあまり格差が見られない状態なのだと感じました。
会社組織や学校の運動会などでも、リンゲルマン効果(集団になると手抜きが発生する)が見られるというのはありますが、今回のチームではそういう感じを受けません。それは東京招致が決定した瞬間、みんなが抱き合って涙した姿にそう感じました。もちろん、これはあくまで私が感じたことを述べているにすぎないので断定はできませんが……。
会社や学校という集団、組織も寄せ集めです。今回のチームが寄せ集めと言っても会社や学校とは違います。会社や学校のビジョンは全体目標以上に個人の幸せにも主眼が置かれています。そしてその二者は必ずしも一致はしていないのです。会社や学校の方針に従わない社員や学生も存在します。でも少なくともこの度のチームにはそういう人はいないはずです。それは日本人というアイデンティティをベースにしているという点も大きいと思います。そこに五輪招致という共通のビジョンを掲げてひとつになれるという集団凝集性がたいへん高い組織です。
普通、集団凝集性が高く、ものすごい一体感をもって動くような組織というと権威主義的である面ビジョンも明確で、組織のトップの独裁色も強いイメージがあります。特に反社会的団体やカルト教団のような組織はとくにそういう傾向が強いと思われます。でも集団凝集性が強いのにそのように権威的にもならなければ、独裁者の存在もいないという状況でそれぞれが役割を果たし、結果も出したというケースです。
これは私はスポーツのチームにみるチームワークは本質的に会社の組織構造とは違うのだということを感じるのです。すなわちひとつの結果を出すために役割分担で形成された組織で、そこに権威的な要素はほとんど見られません。それぞれの役割に対する敬意は払いながらもうまく連係プレーを行い、そこに主従関係という人間関係は皆無と言えます。またビジョンだけで一つになれるかというと、やはりそこには日本人という共通のアイデンティティと日本という国がもつパラダイムが根底にあることは否めません。
いずれにせよ、組織としてのあり方としてかなり理想的なカタチを見ることができたということは今後の組織づくりに参考になる要素がたくさんあったと思います。
最初、日本は他の二国に比べ、自国での五輪招致に対する支持率がとても低く、実際のところ私もそんなに意識はありませんでした。でもそれは国民の多くがおそらく3.11の復興もままならない状態で自国の復興がまず最初ではないかという意識があったからではないかと思います。
でも実際、五輪招致に名乗りを上げたのは、3.11以前ですし、さまざまな苦難があったとはいえ、五輪招致にかぎつけた日本の意地というか底力はたいしたものだと思います。何をやるにも賛否両論あるものです。どんなにいいことだと思ってもそう思わない人もいます。100%一致する政策もなければ、100%好かれる人格の人もいません。ただ、私としては五輪招致に関する活動はどうも東北の人びとの気持ちを置いて行っているようで、いまひとつ納得できないものもあったのですが、最終的には安倍首相や猪瀬都知事の東北の人びとへの配慮の言葉があったことで救われる気持ちになり、今回の五輪招致をいっしょに祝いたいという気持ちに変わりました。
ということで前置きはこれくらいにして、今回の五輪招致の活動のために組織された人びとのチームワークの素晴らしさには敬服しました。もちろんプレゼンの素晴らしさはともかく、それぞれがそれぞれの立場で役割をうまく果たした結果であったと思います。そこにはプレゼン能力や折衝能力といったスキルもさることながら、それのベースとなった目に見えない日本人の文化や価値観があったことは間違いないと思います。そしてそれらをうまく引き出し、アドバイスした五輪招致デザイナーの存在は大きいでしょう。
今回のこのチームはまさに五輪招致というビジョンをもとに寄せ集められた個性派集団です。しかしそのチームワークの素晴らしさはさまざまなメディアを通じて伝わってきました。それはよっぽどうがった見方をしないかぎり、国民の多くがそう感じたのではないかと思います。会社組織のような集団ではない、やはりスポーツらしい全員が一丸となって取り組むという姿勢が随所にみられました。やはり目標が明確でそれにむかっていかに勝利を勝ち取るかという意識、そしてチームの構成員のすべてのモチベーションにあまり格差が見られない状態なのだと感じました。
会社組織や学校の運動会などでも、リンゲルマン効果(集団になると手抜きが発生する)が見られるというのはありますが、今回のチームではそういう感じを受けません。それは東京招致が決定した瞬間、みんなが抱き合って涙した姿にそう感じました。もちろん、これはあくまで私が感じたことを述べているにすぎないので断定はできませんが……。
会社や学校という集団、組織も寄せ集めです。今回のチームが寄せ集めと言っても会社や学校とは違います。会社や学校のビジョンは全体目標以上に個人の幸せにも主眼が置かれています。そしてその二者は必ずしも一致はしていないのです。会社や学校の方針に従わない社員や学生も存在します。でも少なくともこの度のチームにはそういう人はいないはずです。それは日本人というアイデンティティをベースにしているという点も大きいと思います。そこに五輪招致という共通のビジョンを掲げてひとつになれるという集団凝集性がたいへん高い組織です。
普通、集団凝集性が高く、ものすごい一体感をもって動くような組織というと権威主義的である面ビジョンも明確で、組織のトップの独裁色も強いイメージがあります。特に反社会的団体やカルト教団のような組織はとくにそういう傾向が強いと思われます。でも集団凝集性が強いのにそのように権威的にもならなければ、独裁者の存在もいないという状況でそれぞれが役割を果たし、結果も出したというケースです。
これは私はスポーツのチームにみるチームワークは本質的に会社の組織構造とは違うのだということを感じるのです。すなわちひとつの結果を出すために役割分担で形成された組織で、そこに権威的な要素はほとんど見られません。それぞれの役割に対する敬意は払いながらもうまく連係プレーを行い、そこに主従関係という人間関係は皆無と言えます。またビジョンだけで一つになれるかというと、やはりそこには日本人という共通のアイデンティティと日本という国がもつパラダイムが根底にあることは否めません。
いずれにせよ、組織としてのあり方としてかなり理想的なカタチを見ることができたということは今後の組織づくりに参考になる要素がたくさんあったと思います。
2013年9月4日水曜日
自虐ネタの及ぼす影響
お笑いブームはテレビ業界ではすでに完全に定着し、ゴールデンタイムはドラマ以上に人気を博しています。お笑いがなぜウケるかというとやはり現実に言えない本音を笑いを交えていうことで、市民権を得ているのだと思います。すなわち普段言えない上司や権力者に対する無礼講を笑いというオブラートに包みながら行っていると言えるかもしれません。映画でもドラマでもお笑いでさえ、権力者はすべて悪で権力も富もない庶民が善です。世界的にも圧倒的に後者がメジョリティで前者がマイノリティです。世界も企業もあらゆる組織は働き蜂と女王蜂の構図のように一部の権力者によって握られているといっても過言ではありません。それでも日本は世界の中で格差が少ないほうでかなりフラットな社会と言えるのではと思います。
お笑いの本質は、世の中の秩序と逆のケースを見せることもあるのかもしれません。また自虐ネタはまともに見える人ほど効果的です。外見はしっかりしたアナウンサーや芸能人で稼ぎもいいのに私生活はたいへんな恐妻家でかなりたいへんな状況に置かれているということになれば、とても面白いのです。今までの羨望のまなざしから同情のまなざしが向けられ、親近感も好感度もアップしたりします。お笑い芸人は変に思われたり、ブスやブ男に見られるとそれをウリにして結構おいしいわけです。とにかくお笑いという分野はとても奥が深く、なおかつ簡単に定義するのも困難なものではないかと思います。
最近はそういった観点で自虐ネタは視聴者の人気を得る手っ取り早いアイテムです。恐妻家で妻に奴隷のように支配される夫というのは結構面白い話ではありますが、度が過ぎるとあまりいいイメージはもたれなくなります。挙句の果ては恐妻家とレッテルを貼られ、ふがいない男として見られ続けるというリスクもあります。恐妻家になるには妻という第三者の存在があります。妻も芸能人の妻だからと割り切れるならいいのですが、毎回ネタにされてとんでもない鬼嫁というレッテルを貼られるのはあまりいい気はしないでしょう。
昔その手の自虐ネタを連発していた上司がして、結局は部下全員に三下り半をつきつけられるという結果になってしまいました。よく考えると家庭で妻ひとりに手をこまねいている人が部下を管理できるはずがありません。やはりできる上司は会社だけでなく、プライベートも充実しているものです。家庭での不満がたまっていると会社でいい仕事もできるはずはないと考えてしまうのはごく普通のとらえ方だと思います。ということで自虐ネタというのは使い方を間違えたり、度が過ぎるとマイナスに働くこともあるのだということを認識しておくのがいいかと思います。
したがって自虐ネタでもマイナスに働かないように使うのはどうしたらいいのかと考えてみました。それはやはり相手に対して、優越感をあたえ、自分に対しては同情を引き出す、それも自然に、ウザくとられないような方法がいいのではということなのです。昔はよく愚妻とか愚息といった言葉がありましたが、結局自分を含めた家族を引き下げることで相手や相手の家族や境遇を善しとさせてあげるということがありました。日本人の美徳とするところの謙虚、謙遜という観点で相手を持ち上げ気分よくしてあげるというのがコツです。もちろんこれは性格のいい人にするというのが前提で、性格が悪い人はそのまま傲慢になってしまう場合があるので要注意です。
自虐ネタを言ったときに、すかさずそんなことありませんよとフォローするような人にはとても有効かと思います。そういう人には自分をさらけ出して、特にその人よりレベルの低いところをさらけ出して笑いを誘うというのがコミュニケーションの潤滑油としては最高にいいのではないかと思います。学歴が低くかったり、こどもの出来が悪かったりすれば、逆に最高の武器をもっているとでも思えばいいのです。そのことを卑下せず、自虐的にさらっとオシャレに言えたらセンスがいいと思われます。相手が目上の人であったらなおさらグーッと親近感をもってくれて、可愛がってもらえます。
人間は自分よりレベルの高い人とつきあうのは苦手で、自分よりレベルが低いほうがつきあいやすいのです。美人はひいてしまうけど、ブスは気がラクです。イケメンの前では緊張しますが、ブサイクな男には気軽に話せます。
ただ人を選んでください。権威主義的人格の人には効果は逆に出ます。必要以上に傲慢にしてしまい、自分を支配しようとどんどんつけいって来ます。要注意です。フラット感覚のあまり格式ばらないいい人には最適です。微笑ましく思って向こうから友だちリクエストがくるはずです。自虐ネタの有効活用、それはだれも傷つく人がいなくて自分の境遇を話すということです。そして心情面ではけっして卑下したり、劣等感を持たずサラッと笑い話にできるということです。劣等感やホントに不幸だと深刻に思いながら相手に話すと、相手は人生相談を受けるカタチになるので要注意です。
お笑いの本質は、世の中の秩序と逆のケースを見せることもあるのかもしれません。また自虐ネタはまともに見える人ほど効果的です。外見はしっかりしたアナウンサーや芸能人で稼ぎもいいのに私生活はたいへんな恐妻家でかなりたいへんな状況に置かれているということになれば、とても面白いのです。今までの羨望のまなざしから同情のまなざしが向けられ、親近感も好感度もアップしたりします。お笑い芸人は変に思われたり、ブスやブ男に見られるとそれをウリにして結構おいしいわけです。とにかくお笑いという分野はとても奥が深く、なおかつ簡単に定義するのも困難なものではないかと思います。
最近はそういった観点で自虐ネタは視聴者の人気を得る手っ取り早いアイテムです。恐妻家で妻に奴隷のように支配される夫というのは結構面白い話ではありますが、度が過ぎるとあまりいいイメージはもたれなくなります。挙句の果ては恐妻家とレッテルを貼られ、ふがいない男として見られ続けるというリスクもあります。恐妻家になるには妻という第三者の存在があります。妻も芸能人の妻だからと割り切れるならいいのですが、毎回ネタにされてとんでもない鬼嫁というレッテルを貼られるのはあまりいい気はしないでしょう。
昔その手の自虐ネタを連発していた上司がして、結局は部下全員に三下り半をつきつけられるという結果になってしまいました。よく考えると家庭で妻ひとりに手をこまねいている人が部下を管理できるはずがありません。やはりできる上司は会社だけでなく、プライベートも充実しているものです。家庭での不満がたまっていると会社でいい仕事もできるはずはないと考えてしまうのはごく普通のとらえ方だと思います。ということで自虐ネタというのは使い方を間違えたり、度が過ぎるとマイナスに働くこともあるのだということを認識しておくのがいいかと思います。
したがって自虐ネタでもマイナスに働かないように使うのはどうしたらいいのかと考えてみました。それはやはり相手に対して、優越感をあたえ、自分に対しては同情を引き出す、それも自然に、ウザくとられないような方法がいいのではということなのです。昔はよく愚妻とか愚息といった言葉がありましたが、結局自分を含めた家族を引き下げることで相手や相手の家族や境遇を善しとさせてあげるということがありました。日本人の美徳とするところの謙虚、謙遜という観点で相手を持ち上げ気分よくしてあげるというのがコツです。もちろんこれは性格のいい人にするというのが前提で、性格が悪い人はそのまま傲慢になってしまう場合があるので要注意です。
自虐ネタを言ったときに、すかさずそんなことありませんよとフォローするような人にはとても有効かと思います。そういう人には自分をさらけ出して、特にその人よりレベルの低いところをさらけ出して笑いを誘うというのがコミュニケーションの潤滑油としては最高にいいのではないかと思います。学歴が低くかったり、こどもの出来が悪かったりすれば、逆に最高の武器をもっているとでも思えばいいのです。そのことを卑下せず、自虐的にさらっとオシャレに言えたらセンスがいいと思われます。相手が目上の人であったらなおさらグーッと親近感をもってくれて、可愛がってもらえます。
人間は自分よりレベルの高い人とつきあうのは苦手で、自分よりレベルが低いほうがつきあいやすいのです。美人はひいてしまうけど、ブスは気がラクです。イケメンの前では緊張しますが、ブサイクな男には気軽に話せます。
ただ人を選んでください。権威主義的人格の人には効果は逆に出ます。必要以上に傲慢にしてしまい、自分を支配しようとどんどんつけいって来ます。要注意です。フラット感覚のあまり格式ばらないいい人には最適です。微笑ましく思って向こうから友だちリクエストがくるはずです。自虐ネタの有効活用、それはだれも傷つく人がいなくて自分の境遇を話すということです。そして心情面ではけっして卑下したり、劣等感を持たずサラッと笑い話にできるということです。劣等感やホントに不幸だと深刻に思いながら相手に話すと、相手は人生相談を受けるカタチになるので要注意です。
健康管理は自己管理の第一歩
欧米では健康管理ができない人は自己管理ができない人として、まして会社の管理者としてもふさわしくないという風潮もあるとか。健康管理には精神管理と、肉体管理があるわけですが、もちろん前者ができないと当然後者に影響を及ぼすということは明確です。そういう面ではストレスをなるべく受けないようにするという、その考え方や行動はとても重要であると思います。その件に関しては過去ログでいろいろと記してあるので、ご関心がある方は読んでみてください。
ストレスはない、あるいはストレス耐性は高いと思い込んでいても、実際は結構ストレスがたまっていたりします。それは自分では認識できないような場合も多いと思うのです。私はかなり自分が嫌なこと、やりたくないことははっきりとやらないタイプではあるのですが、実際は環境的にストレスは知らないうちにたまっていたりするのを感じます。あまり正確に測れるものではないのですが、気楽にやってみたストレスチェックでストレスは88%でした。もっと気楽にやりましょうとアドバイスが……。気楽に適当にと推進している当の本人がこんな結果ではお話になりません。
ストレスの影響や食生活等の不摂生からか、最近は尿路結石に、緑内障の疑いといろいろと検査で病院、会社、出張となんだか充実してきた最近の生活……。とにかく健康だけは過信せず、健康診断や何か問題があったら、やはり躊躇せず専門家にゆだねる気持ちも重要です。自然療法で治癒させるんだと手遅れになったケースも何件か知っているだけに無理をしないことも大切かなと思うわけです。ちなみに緑内障は最近眼圧が高くなくても起こるということがわかってきているようです。幸いなことに私はたまたま素晴らしい眼科医に出会えたのでよかったのかなと思います。
医師との関係もなんでもぶっちゃけで言えて、はっきりとまた指摘してくれる関係が築けるといいのかなと思います。病気になるといういことは、えっ、なんで私がとショックなこともありますが、それが発見できて、自分のからだに対して少しでもわかることが増えるということは決して悪いことではありません。病気は生活を見直すきっかけを与えてくれますし、そのときの気持ちを忘れずに生活するということはとても大切なことです。人間は誰しもどうしてもラクなほうに行ってしまいがちです。歯磨きを一生懸命するのも虫歯を治療したあとの数か月まで、不摂生な食事を改めて、自然な食事を心がけるのも病気で寝込んだあと数か月程度。とにかく人間って喉元過ぎればって感じでそのときの苦しみや痛みを忘れてしまうのです。
元の生活に戻っていることを認識して、罪悪感を感じつつも、なかなかからだにいいことは始められなければ、続けることもなかなかできないものです。罪を犯した人が留置場で規則正しい生活と食生活で健康になって、からだが健康になることで、心も正されるということで更生するのに環境はとても大切だと思います。ただ出所してまたもとの不健全な生活に戻ると結局再犯してしまうのかもしれません。ということでホントに経済的にもゆとりがあれば、自分が完全に健康になれる環境に自分を置いて管理してもらいたい気にもなります。
人間は努力することはなかなかできません。勉強も社会的な成長も環境に大きく左右されます。それなりの進学校に行けば、落ちこぼれて脱落しない限り、それなりの学校に入学できるでしょう。周りが成長志向だと自分も成長できます。アメリカに行ってしまえば英語はペラペラになれます。とにかく健康も環境がとても大切です。ヘビースモーカーはヘビースモーカーで集まり、アル中の人はアル中仲間ができます。
まず自分でなりたい自分というのを考えて、そうなりたいと思ったら、そうなれる環境に自分を置くことがとても重要です。環境的な与件を一切無視して一人、こういうふうになりたいと思ってもなかなか実現できません。努力するなら、そのもの自体を努力する以上に努力しやすい環境づくりを努力してすることが最も近道であると思います。もちろん病院や薬に対して賛否両論あることは事実です。やたら検査してくださいと粘り強く患者に向き合うのを、病院側の商売、営業と考えるか、素直になってありがたいと思うかもとらえ方で大きく違ってきます。
とにかく一歩踏み出せない場合、何かをきっかけに自分が変われる環境に身を置いてみることはたいへん意義ある選択であると思います。安住の地にずっととどまっていることが自分にとって必ずしもいいことであるのかどうかはシビアに見つめなおす必要もあるようです。いずれにせよ、健康においても何においてもそれを実現するのにもっとも近い方法を考え抜いてそれを勇気をもって踏み出すことを考えたいものです。なぜならその安住の地は自分を完全にスポイルする環境であるかもしれないからです。
ストレスはない、あるいはストレス耐性は高いと思い込んでいても、実際は結構ストレスがたまっていたりします。それは自分では認識できないような場合も多いと思うのです。私はかなり自分が嫌なこと、やりたくないことははっきりとやらないタイプではあるのですが、実際は環境的にストレスは知らないうちにたまっていたりするのを感じます。あまり正確に測れるものではないのですが、気楽にやってみたストレスチェックでストレスは88%でした。もっと気楽にやりましょうとアドバイスが……。気楽に適当にと推進している当の本人がこんな結果ではお話になりません。
ストレスの影響や食生活等の不摂生からか、最近は尿路結石に、緑内障の疑いといろいろと検査で病院、会社、出張となんだか充実してきた最近の生活……。とにかく健康だけは過信せず、健康診断や何か問題があったら、やはり躊躇せず専門家にゆだねる気持ちも重要です。自然療法で治癒させるんだと手遅れになったケースも何件か知っているだけに無理をしないことも大切かなと思うわけです。ちなみに緑内障は最近眼圧が高くなくても起こるということがわかってきているようです。幸いなことに私はたまたま素晴らしい眼科医に出会えたのでよかったのかなと思います。
医師との関係もなんでもぶっちゃけで言えて、はっきりとまた指摘してくれる関係が築けるといいのかなと思います。病気になるといういことは、えっ、なんで私がとショックなこともありますが、それが発見できて、自分のからだに対して少しでもわかることが増えるということは決して悪いことではありません。病気は生活を見直すきっかけを与えてくれますし、そのときの気持ちを忘れずに生活するということはとても大切なことです。人間は誰しもどうしてもラクなほうに行ってしまいがちです。歯磨きを一生懸命するのも虫歯を治療したあとの数か月まで、不摂生な食事を改めて、自然な食事を心がけるのも病気で寝込んだあと数か月程度。とにかく人間って喉元過ぎればって感じでそのときの苦しみや痛みを忘れてしまうのです。
元の生活に戻っていることを認識して、罪悪感を感じつつも、なかなかからだにいいことは始められなければ、続けることもなかなかできないものです。罪を犯した人が留置場で規則正しい生活と食生活で健康になって、からだが健康になることで、心も正されるということで更生するのに環境はとても大切だと思います。ただ出所してまたもとの不健全な生活に戻ると結局再犯してしまうのかもしれません。ということでホントに経済的にもゆとりがあれば、自分が完全に健康になれる環境に自分を置いて管理してもらいたい気にもなります。
人間は努力することはなかなかできません。勉強も社会的な成長も環境に大きく左右されます。それなりの進学校に行けば、落ちこぼれて脱落しない限り、それなりの学校に入学できるでしょう。周りが成長志向だと自分も成長できます。アメリカに行ってしまえば英語はペラペラになれます。とにかく健康も環境がとても大切です。ヘビースモーカーはヘビースモーカーで集まり、アル中の人はアル中仲間ができます。
まず自分でなりたい自分というのを考えて、そうなりたいと思ったら、そうなれる環境に自分を置くことがとても重要です。環境的な与件を一切無視して一人、こういうふうになりたいと思ってもなかなか実現できません。努力するなら、そのもの自体を努力する以上に努力しやすい環境づくりを努力してすることが最も近道であると思います。もちろん病院や薬に対して賛否両論あることは事実です。やたら検査してくださいと粘り強く患者に向き合うのを、病院側の商売、営業と考えるか、素直になってありがたいと思うかもとらえ方で大きく違ってきます。
とにかく一歩踏み出せない場合、何かをきっかけに自分が変われる環境に身を置いてみることはたいへん意義ある選択であると思います。安住の地にずっととどまっていることが自分にとって必ずしもいいことであるのかどうかはシビアに見つめなおす必要もあるようです。いずれにせよ、健康においても何においてもそれを実現するのにもっとも近い方法を考え抜いてそれを勇気をもって踏み出すことを考えたいものです。なぜならその安住の地は自分を完全にスポイルする環境であるかもしれないからです。
2013年8月28日水曜日
ブラック企業と半沢直樹人気
最近TBSで放映されている「日曜劇場半沢直樹」が大人気です。私も周囲の話題ネタに取り込まれて、見る羽目になったのですが、これがかなり面白い。視聴者別の調査によると会社の部長以上の管理職よりも課長以下の一般社員や派遣社員、アルバイトの人たちにはかなりの人気のようです。この人気は配役の会社での立場や、より上位者の不正をどんどんあばき、正義を実現していくという痛快なテンポのいい流れにあると思います。また主人公の堺雅人氏の演技力でさらに人気が出ているのでしょう。
昨今、話題になったブラック企業、経営トップや経営陣の社員を道具や機械にしかみなさない勤務体系などさまざまな問題が取りざたされた後にこのドラマ、ちょうどタイミングも合っていたのかもしれません。1970年代の労使紛争ももう忘れかけられたころ、ブラック企業、半沢直樹とまたまた経営陣VS一般社員のような構図がクローズアップされ、問題を投げかけてくれているのはとても社会的に意義深いことだと思います。
ただ半沢直樹の原作者は半沢のまねはしないほうがいいと言われるくらい、ブームが過熱化しているようです。確かにそういったメディアの影響はとても大きいのでそういう警鐘を鳴らすことも重要だと思います。でもほとんどの人びとはドラマはファンタジーであり、現実とは全く違うことは理解していますし、ドラマを通じた現実逃避でストレス解消をしているということはわかっていると思います。私なんかはドラマを見ながらも、あとで実際の社会に照らし合わせると、どうなのかなど考えてしまうのです。
おそらく上司にあんな目つきで上司の問題を指摘するとまずケンカになることは間違いありません。でもドラマに出てくる上司は実際、半沢直樹の指摘をとりあえず大人になってちゃんと聞いているのです。もちろん聞かなければドラマが成立しませんし、わざとしどろもどろになるという悪役を演じてくれることでさらに正義がクローズアップします。
まあ実際の社会では勧善懲悪の人なんていないわけで、正義VS不義、善VS悪といった構図ではないことは明らかです。また比較的このPSIブログは権威主義的人格には否定的見解をとっていますので、どちらかというと経営者や上司には厳しい意見をずっと言ってきたわけです。半沢直樹のような理想に近いような人格の社員はいないわけで、上司や権力者には強く、部下や同僚に対してはそれなりに信頼をえるような行動ができる人はあまり見たことがありません。
基本的に下記のような人格の人びとがかなり企業や組織では見受けられます。
①上にペコペコ、下にガミガミといった権威主義的人格
②上にペコペコ、下には顔色伺いの八方美人タイプ
③上にも強いが、下にも高圧的で空気を読まないわがままタイプ
①のタイプは最近では減ってきましたが、一部の独裁的経営者のいる企業などでは結構いたりします。今は上にどんなに取り入ったところで、部下から信頼されない人は昇進も難しいからです。また②のタイプは一見いい人なのですが、とても無責任なタイプです。なぜなら自分の役割を果たしていないからです。最初はいい人に見えますが、そのうち周囲から見くびられ、信頼はなくなります。こういう人は一緒に戦うという戦友にはできない人です。③は組織内ではもう浮いてしまいます。最初は上司にもたてつくのでおっ久々に骨があるのかなと思ってみていると、上だけでなく、自分が気に入らないすべてに反抗的な人というのがあります。結果的に自己中心的であるので上司にも部下や同僚にも悪い意味で、一線置かれてしまいます。
このブログで組織の上位者を目の敵のように批判的にコケおろしてきたのは、上位者は責任があるという名目で一般社員より給料も待遇もいいということと、その立場にふさわしい責任をとる上位者が実際少ないということを痛感してきたからです。ドラマ半沢直樹の中で「部下の手柄は上司のもの、上司の失敗は部下の責任」という言葉が出てきているのもそういう世相を表しているからなのです。組織の責任をとらない上位者は権力を持っているので批判されるくらいでないとバランスが保てません。もちろんまともな役職者も世の中にはたくさんいます。でも経営者や役員の給料はいちばん最後というまともな企業もたくさんあるでしょう。そういう人びとはちゃんとこのブログの意図をよく理解されているのだと思います。
ドラマ半沢直樹で管理職や上司の立場にある人びとは、このドラマの影響に戦々恐々としている人もいるかもしれませんし、逆にそれをいいことだと思っている人もいることでしょう。ただ実際、最近は悪戯な権力者がクローズアップされ、ブラック企業という観点で経営陣の問題がやたら批判される中で、逆に若い世代の特に③タイプの社員に手をこまねいている会社も多いようです。勝手に欠勤したり、遅刻しても悪びれず、なお気に入らないことには平気で反発し、すべて自分が正しいという人もいます。周囲はそれに対して何も言えず、ひどい場合は上司も何も言えず野放し状態ということも起こっています。
とくに若い世代は離職率も高く、我慢という観点は一切ありません。もちろん空気を読む人はどんどん若くなるほど減っています。それはなぜかというと少子化やゆとり教育により人間関係の訓練がなされていないことで間合いや距離感もわからなくなってきていますし、もちろん空気も読めません。また競争社会でなくなったことで、意欲の低下やストレス耐性が極度に低い人びとが増えています。そういう状況の中で逆に放任主義で育てられたり、不遇な家庭環境で育つととてつもなく強い性格やわがままな人格になることで③のような人になってしまったりするのです。一方であまりやる気がない忍耐力がない人が増えている一方でやる気がありすぎて、モチベーションというよりテンションが高すぎるような人もいたりします。そういう人は自分の思うようにならないとすぐに拒否したり、結果的には長続きしないということになります。
団塊や団塊Jrの世代など人間関係も豊かで競争もそれなりにあった社会から、今はのんびりとしたいことだけできるような世代になっていますので、当然忍耐力もなければストレス耐性もない人が増え続けています。中国では一人っ子政策の影響で、軍部の統制がとりにくいなどといった記事も最近目にしました。とにかく今後の企業の課題はそういった若い世代をどう動かし、企業収益を上げていくかということが大きな課題になりそうです。空気も読めなければ、はっきり言ったことしかできないからといって、人間的対応を止めて、機械やロボットみたいにこき使えばいいという経営者や管理職はもちろん企業にいてはいけないと思います。
昨今、話題になったブラック企業、経営トップや経営陣の社員を道具や機械にしかみなさない勤務体系などさまざまな問題が取りざたされた後にこのドラマ、ちょうどタイミングも合っていたのかもしれません。1970年代の労使紛争ももう忘れかけられたころ、ブラック企業、半沢直樹とまたまた経営陣VS一般社員のような構図がクローズアップされ、問題を投げかけてくれているのはとても社会的に意義深いことだと思います。
ただ半沢直樹の原作者は半沢のまねはしないほうがいいと言われるくらい、ブームが過熱化しているようです。確かにそういったメディアの影響はとても大きいのでそういう警鐘を鳴らすことも重要だと思います。でもほとんどの人びとはドラマはファンタジーであり、現実とは全く違うことは理解していますし、ドラマを通じた現実逃避でストレス解消をしているということはわかっていると思います。私なんかはドラマを見ながらも、あとで実際の社会に照らし合わせると、どうなのかなど考えてしまうのです。
おそらく上司にあんな目つきで上司の問題を指摘するとまずケンカになることは間違いありません。でもドラマに出てくる上司は実際、半沢直樹の指摘をとりあえず大人になってちゃんと聞いているのです。もちろん聞かなければドラマが成立しませんし、わざとしどろもどろになるという悪役を演じてくれることでさらに正義がクローズアップします。
まあ実際の社会では勧善懲悪の人なんていないわけで、正義VS不義、善VS悪といった構図ではないことは明らかです。また比較的このPSIブログは権威主義的人格には否定的見解をとっていますので、どちらかというと経営者や上司には厳しい意見をずっと言ってきたわけです。半沢直樹のような理想に近いような人格の社員はいないわけで、上司や権力者には強く、部下や同僚に対してはそれなりに信頼をえるような行動ができる人はあまり見たことがありません。
基本的に下記のような人格の人びとがかなり企業や組織では見受けられます。
①上にペコペコ、下にガミガミといった権威主義的人格
②上にペコペコ、下には顔色伺いの八方美人タイプ
③上にも強いが、下にも高圧的で空気を読まないわがままタイプ
①のタイプは最近では減ってきましたが、一部の独裁的経営者のいる企業などでは結構いたりします。今は上にどんなに取り入ったところで、部下から信頼されない人は昇進も難しいからです。また②のタイプは一見いい人なのですが、とても無責任なタイプです。なぜなら自分の役割を果たしていないからです。最初はいい人に見えますが、そのうち周囲から見くびられ、信頼はなくなります。こういう人は一緒に戦うという戦友にはできない人です。③は組織内ではもう浮いてしまいます。最初は上司にもたてつくのでおっ久々に骨があるのかなと思ってみていると、上だけでなく、自分が気に入らないすべてに反抗的な人というのがあります。結果的に自己中心的であるので上司にも部下や同僚にも悪い意味で、一線置かれてしまいます。
このブログで組織の上位者を目の敵のように批判的にコケおろしてきたのは、上位者は責任があるという名目で一般社員より給料も待遇もいいということと、その立場にふさわしい責任をとる上位者が実際少ないということを痛感してきたからです。ドラマ半沢直樹の中で「部下の手柄は上司のもの、上司の失敗は部下の責任」という言葉が出てきているのもそういう世相を表しているからなのです。組織の責任をとらない上位者は権力を持っているので批判されるくらいでないとバランスが保てません。もちろんまともな役職者も世の中にはたくさんいます。でも経営者や役員の給料はいちばん最後というまともな企業もたくさんあるでしょう。そういう人びとはちゃんとこのブログの意図をよく理解されているのだと思います。
ドラマ半沢直樹で管理職や上司の立場にある人びとは、このドラマの影響に戦々恐々としている人もいるかもしれませんし、逆にそれをいいことだと思っている人もいることでしょう。ただ実際、最近は悪戯な権力者がクローズアップされ、ブラック企業という観点で経営陣の問題がやたら批判される中で、逆に若い世代の特に③タイプの社員に手をこまねいている会社も多いようです。勝手に欠勤したり、遅刻しても悪びれず、なお気に入らないことには平気で反発し、すべて自分が正しいという人もいます。周囲はそれに対して何も言えず、ひどい場合は上司も何も言えず野放し状態ということも起こっています。
とくに若い世代は離職率も高く、我慢という観点は一切ありません。もちろん空気を読む人はどんどん若くなるほど減っています。それはなぜかというと少子化やゆとり教育により人間関係の訓練がなされていないことで間合いや距離感もわからなくなってきていますし、もちろん空気も読めません。また競争社会でなくなったことで、意欲の低下やストレス耐性が極度に低い人びとが増えています。そういう状況の中で逆に放任主義で育てられたり、不遇な家庭環境で育つととてつもなく強い性格やわがままな人格になることで③のような人になってしまったりするのです。一方であまりやる気がない忍耐力がない人が増えている一方でやる気がありすぎて、モチベーションというよりテンションが高すぎるような人もいたりします。そういう人は自分の思うようにならないとすぐに拒否したり、結果的には長続きしないということになります。
団塊や団塊Jrの世代など人間関係も豊かで競争もそれなりにあった社会から、今はのんびりとしたいことだけできるような世代になっていますので、当然忍耐力もなければストレス耐性もない人が増え続けています。中国では一人っ子政策の影響で、軍部の統制がとりにくいなどといった記事も最近目にしました。とにかく今後の企業の課題はそういった若い世代をどう動かし、企業収益を上げていくかということが大きな課題になりそうです。空気も読めなければ、はっきり言ったことしかできないからといって、人間的対応を止めて、機械やロボットみたいにこき使えばいいという経営者や管理職はもちろん企業にいてはいけないと思います。
2013年8月22日木曜日
組織風土と病気の関係
ある会社の元社長が癌になって余命3ヶ月と宣告されたという話を最近聞きました。大腸癌で手術はとりあえず成功したようですが、すでに肺にも転移しているとのことでなかなか状況はきびしいのではと思います。
その会社は現在はないのですが、20名くらいの小規模の会社でその当時、社員がどんどん癌になり亡くなっていくということで業界では知られていました。癌になった人は6人、そのうち2人が亡くなっています。亡くなられた2人はとてもいい人で、ひとりは私と同い年で胃がんでした。
ついに元社長がそういう病気になったということは不幸なことではあるのですが、なにか因縁めいたものを感じざるをえません。なぜその会社はあんなに癌になる人が多かったのでしょうか。私は当時からその会社の組織風土に問題があるとずっと見ていました。その当時、私の講演を聞かれた元社長が講演終了後、私にあなたの講演は何が言いたいのかわからないと言ったことがとても印象に残っていて、いまだに鮮明に覚えています。その社長もあまり定性的な感覚はなく、とても頭の固いイメージで、役員連中にはペコペコで下には結構ガミガミのタイプでした。もちろん私はその会社の社員ではないので被害を受けたことはありませんが、こういう組織風土というのが理解できない人もいるのだと実感したわけです。
そして元社長の会社は権威主義的人格の人が多く、権威には絶対服従でそうとう抑圧された精神構造の人が多かったですし、とにかく真面目で完璧主義、カマトトっぽい人も多く、下ネタにはまったく反応できないし、冗談も通じないアソビのない人びとが多かった組織であったのです。まあ類は類を呼ぶというのが実際に表れたような人びとの集まりでした。
権威主義的で抑圧された組織風土の中の社員は目に見えないストレスで充満し、その結果癌という病気になりやすいのではないかと思います。組織風土と病気に相関について研究すればそれはとても面白い研究になるのではと思いますが、何分ネガティヴな研究になるので、企業自体がそういったデータを出さない可能性が高いと思います。
ちなみにブラック企業と言われている企業の社員たちはどうなんでしょう?うつになる人は一般的にかなりの数に上るようですし、それに付随して自殺者などはなかなか自殺の原因を企業やその経営者の責任にすることがなかなか困難な状況ではないかと思います。でも今後勤務内容と同時に組織風土なども含めて人材管理の中には精神面の管理が不可欠であると思います。
いずれにせよ、一つの組織を率いている経営者は組織の長として、どんどん社員が倒れていくのを何ら問題に思わず、平気でいるというのは全く理解できないことです。どこに問題があるのか、自分で勝手に判断するのでなく、第三者である専門家に相談すべきです。病気や精神疾患を個人の問題として決めつけないで、企業として経営者として、上司として対処すべきであると言いたいわけです。
少なくとも社内のストレス環境など問題があるのではないかと考えてみるべきです。経営者は自分の会社の社員は自分のこども、家族同様に考えるべきだと思いますが、雇われ経営者でオーナーシップがとれない会社であったり、経営者自身がサイコパスのような人格になってしまっているという観点では社員の病気などは、他人事に過ぎないという人が多いのです。
その元社長も癌になったことをただ病気として治そうというのでなく、その意味合いを痛感してほしい気がします。もし病気が神様が与えるものだとするならば、なにか悟るべきことがらがあるはずです。それを考えないとしたら、癌になった意味が生かされません。
ただもともと悟れないような人だからその会社の雇われ社長としていたのかもしれません。悟れるような人であれば、社員があまりに倒れていくならばどこに問題があるのかと真剣に考え、組織風土(人間関係も含め)や勤務状況を変えていったことでしょう。
まここらへんにしておきます。あまり解釈しすぎるとオカルトっぽくなるので。
いずれにせよ、経営者や人の上に立つ人は人を追い込んだりいじめるのはやるべきではないと思います。フロイトやユングによると人間は受け入れがたいことがらは自分の無意識に閉じ込めて抑圧された状態にして普段の意識には出てこないようです。ただそれが表れるのは催眠術をかけたときで、覚醒されると一切それらは覚えていないということのようです。社員に催眠術を施しその無意識に抑圧されたことがらを引き出してみると上位者に対する怨みつらみが出てくるかもしれません。よくわら人形なんてありますが、あまりに多くの人に怨まれるとその意識が具体的に対象物に顕在化するのではと思ったりします。祈りの力なんてのもそういうことかも知れません。思い続ければ必ず実現するといったことも同じような精神世界の内容が現実世界に顕在化するといった内容なのかも知れません。
経営者であるということ、組織のトップに立つということは、ある面組織の成員の命も預かっている、その家族までも責任をもたなければならないのだということを肝に銘じ、逆に不幸な状態がどんどん起きるようなことがあるならば、早期に問題発見、問題抽出をして問題解決に取り組むべきです。人を預かる立場である重大性を認識できず、気楽に考えていると間接的な殺人を犯しているかもしれないということをしってもらいたいものです。そういう認識すらできない人は経営者や組織のトップに立つべきではないと思うのです。
2013年7月23日火曜日
参院選(7.21)に思うこと
先日行われた参議院選挙の結果はみなさんがほぼ予想されたとおりの結果になったのではないでしょうか。安倍総理が衆参のねじれを正すと言いまくったとおり、自公で過半数を上回り、それが実現されました。今回の選挙も、マスコミの大きな後押しが自公政権に大きな追い風になったことは否めません。
昨年の政権交代依頼、アベノミクスがどんどん勢いづいているその理由の一つに輸出を中心とした大企業(スポンサー)をバックにしたマスコミの力が大きいことと、民主党への不満の反動も大きな要因としてあげられると思います。もちろん安倍政権に対する期待もあるでしょうが、あまりにダメだった民主党とのコントラスト効果で自民党安倍政権が実際以上の評価を得ているのではないかと思ってしまいます。
また共産党の躍進は、これは単にホントの意味での野党がなくなったことで、票が集中しているのだと思います。それで共産党に投票する人たちは別に好きじゃないけど入れるところがないのでといったコメントをしていたりします。野党の本流であった日本社会党はすでに消えてしまっていますし、与党の渦の中に消滅したと見たほうがいいと思います。
日本もアメリカのような二大政党になればいいという人がいますが、私もある程度そういうカタチになったほうが国民としてはわかりやすいと思います。ところが現状を見ると自民党(公明党は統制された他の論理をもつ集団なので除外しますが)や他の政党を見ると保守とリベラルがごっちゃに入っているのです。アメリカみたいに共和党と民主党というカテゴリーわけができないのです。したがって国民は思想や政策だけで選ぶことが困難で、どうしても属人的な判断に大きく依存してしまうのです。
維新の会やみんなの党、その他もろもろの少数政党も似たり寄ったりなのです。ホントはスッキリと保守、リベラルと二大政党のように色分けできれば、さらにわかりやすいと思います。例えばですが、原発推進、憲法9条改正、大企業中心、消費税導入と原発反対、憲法9条維持、中小企業支援、福祉推進となんか色分けできればもっとわかりやすいかもしれません。もちろんひとくくりにできないことは現実問題としてありますが。
昨年から自民党が再び政権を握って、大胆な政策でどんどん強い日本になっていくことを国民は期待しているのだろうと思います。ただ懸念事項として、私が憂慮しているのは、自公政権自体に一枚岩になって対抗できる野党が存在していないということです。今は自公政権の軍事も含めたアベノミクスというアクセルに対してブレーキの役割ができるのは同じ政権内の公明党ということになっているのが実際のところです。今の政治のおもしろい?ところはそれぞれの政党内が保守とリベラルがごっちゃになっているという点で、そうでない党は公明党と共産党です。なぜこの二党はそうならないかというと宗教であり、イデオロギーの党だからです。唯心論と唯物論という両極端の党でありながら絶対的な思想をベースに作られているところがあり、他の党に比べ、党員間の矛盾や葛藤は少ないと考えられます。
少々話がずれましたが、イケイケドンドンの安倍政権で今後憂慮すべき点は、大企業中心の政策はある面更なる格差を生み、決して国民全体としてしあわせになれるのかどうかという点ではたいへん疑問を持たざるをえません。もちろん反対に福祉国家を目指すことが善だとは思えません。すでに福祉国家で素晴らしい国とされてきた北欧の国々のさまざまな問題(働かない若者や移民の問題、他)が起こってきているからです。すべてにおいてバランスが大切です。
さらに憲法9条、96条の改正により、自衛隊が軍隊へ移行するという流れで、表向きは独立国家に軍隊があって当然という観点での耳触りのいい話です。でも実際日本は独立国家と言えるのでしょうか、いまだにアメリカや周辺国の顔色をつねにうかがいながら、政治をしているわけです。靖国参拝も周辺国にいろいろ言われて、なにか弁明じみたことを言っているわけですが、はっきりと内政干渉であると言える政治家がどれほどいるでしょうか。一宗教法人に公人として参拝するというのが問題であって、別に周辺国への説明は必要ないはずです。ならば靖国神社を国営化するとか別途に国立墓地のようなところをつくるとかいろいろ違った議論が出てもいいのではと思います。
周辺国が過去の歴史問題を持ち出すのはいまだに政治的、外交的カードとして有効であると認識しているからです。政治的側面から国民全体がそう信じ込んで日本を非難する人もいますが、実際、国際的な視野を持ち、学習した人は国家のすり込みというものをよく理解していて、本音は日中韓でそれほど大きな価値観の違いはありません(もちろん幼いころからすり込まれたものは簡単には抜けませんが)。とにかくそういった点でまず外交手腕を発揮して、周辺国を納得させるくらいの力をもち、その上で自衛隊を軍隊にと議論すべきであると思います。
ただよく認識しておかなければならないのは戦後、徴兵制が無かったことが日本経済に大きな効果をもたらしたということです。徴兵がある国は、企業が最も人材育成をしたい20代に軍隊に行かなければならないのです。また日本人は和を重んじる民族で集団凝集性もたいへん高いと私は考えています。したがって、戦前の軍国主義の時代に戻ってしまうという危険性は否めません。ここまで民主主義が根付いて、民度も高い日本がそうはならないと思う人も多いでしょう。おとなしくて、几帳面、真面目、いい人、そして原則から逸脱したことがきらいという人がカルトに陥りやすいのです。日本人にうつが多いのもそういった性格が影響しています。
しょっちゅう喧嘩したり、ぶつかったりしている人は、子供みたいで、またそういう国民は民度は低いかもしれませんが、カルトチックになりにくい傾向にあります。日本は間違いなく自衛隊から軍隊に移行すれば、徴兵制が敷かれ、有事の際には、召集令状という流れになってくるでしょう。そして国民総動員というカタチで反対意見を言うものは村八分にされ排除される可能性も否めません。そういう状況にどんどん変化したとき、現在アベノミクスをさらに後押ししているマスコミは正論を述べる立場に立てるのかということも気になります。
なぜこんなに心配するかというと、こんなに民主主義が広がり平和な日本であるのに、社会の裏ではいまだにカルト教団やブラック企業での人権蹂躙が平気で行われているという事実があるからです。実は無理な要求で追い込まれて自殺する人が後を絶たないのですが、実際そういった組織や組織のトップの責任を立証できないがために改善されていないのが実状です。今回その代表を勤めていた人が自民党の比例で当選を果たしました。あれだけ批判があって公認取り下げの訴えがあったにも関わらず、押し通して国会議員にしてしまった自民党の非民主主義的な手法に憂慮せざるをえません。
とにかく人間は間違います。かならずブレーキの役割をする機関や人が絶対に必要なのです。そしてブレーキはアクセルにコミットしていません。あくまでコミットしているのは危険という認識とストップさせるという概念だけです。自民党が暴走しないことを祈るのみです。
昨年の政権交代依頼、アベノミクスがどんどん勢いづいているその理由の一つに輸出を中心とした大企業(スポンサー)をバックにしたマスコミの力が大きいことと、民主党への不満の反動も大きな要因としてあげられると思います。もちろん安倍政権に対する期待もあるでしょうが、あまりにダメだった民主党とのコントラスト効果で自民党安倍政権が実際以上の評価を得ているのではないかと思ってしまいます。
また共産党の躍進は、これは単にホントの意味での野党がなくなったことで、票が集中しているのだと思います。それで共産党に投票する人たちは別に好きじゃないけど入れるところがないのでといったコメントをしていたりします。野党の本流であった日本社会党はすでに消えてしまっていますし、与党の渦の中に消滅したと見たほうがいいと思います。
日本もアメリカのような二大政党になればいいという人がいますが、私もある程度そういうカタチになったほうが国民としてはわかりやすいと思います。ところが現状を見ると自民党(公明党は統制された他の論理をもつ集団なので除外しますが)や他の政党を見ると保守とリベラルがごっちゃに入っているのです。アメリカみたいに共和党と民主党というカテゴリーわけができないのです。したがって国民は思想や政策だけで選ぶことが困難で、どうしても属人的な判断に大きく依存してしまうのです。
維新の会やみんなの党、その他もろもろの少数政党も似たり寄ったりなのです。ホントはスッキリと保守、リベラルと二大政党のように色分けできれば、さらにわかりやすいと思います。例えばですが、原発推進、憲法9条改正、大企業中心、消費税導入と原発反対、憲法9条維持、中小企業支援、福祉推進となんか色分けできればもっとわかりやすいかもしれません。もちろんひとくくりにできないことは現実問題としてありますが。
昨年から自民党が再び政権を握って、大胆な政策でどんどん強い日本になっていくことを国民は期待しているのだろうと思います。ただ懸念事項として、私が憂慮しているのは、自公政権自体に一枚岩になって対抗できる野党が存在していないということです。今は自公政権の軍事も含めたアベノミクスというアクセルに対してブレーキの役割ができるのは同じ政権内の公明党ということになっているのが実際のところです。今の政治のおもしろい?ところはそれぞれの政党内が保守とリベラルがごっちゃになっているという点で、そうでない党は公明党と共産党です。なぜこの二党はそうならないかというと宗教であり、イデオロギーの党だからです。唯心論と唯物論という両極端の党でありながら絶対的な思想をベースに作られているところがあり、他の党に比べ、党員間の矛盾や葛藤は少ないと考えられます。
少々話がずれましたが、イケイケドンドンの安倍政権で今後憂慮すべき点は、大企業中心の政策はある面更なる格差を生み、決して国民全体としてしあわせになれるのかどうかという点ではたいへん疑問を持たざるをえません。もちろん反対に福祉国家を目指すことが善だとは思えません。すでに福祉国家で素晴らしい国とされてきた北欧の国々のさまざまな問題(働かない若者や移民の問題、他)が起こってきているからです。すべてにおいてバランスが大切です。
さらに憲法9条、96条の改正により、自衛隊が軍隊へ移行するという流れで、表向きは独立国家に軍隊があって当然という観点での耳触りのいい話です。でも実際日本は独立国家と言えるのでしょうか、いまだにアメリカや周辺国の顔色をつねにうかがいながら、政治をしているわけです。靖国参拝も周辺国にいろいろ言われて、なにか弁明じみたことを言っているわけですが、はっきりと内政干渉であると言える政治家がどれほどいるでしょうか。一宗教法人に公人として参拝するというのが問題であって、別に周辺国への説明は必要ないはずです。ならば靖国神社を国営化するとか別途に国立墓地のようなところをつくるとかいろいろ違った議論が出てもいいのではと思います。
周辺国が過去の歴史問題を持ち出すのはいまだに政治的、外交的カードとして有効であると認識しているからです。政治的側面から国民全体がそう信じ込んで日本を非難する人もいますが、実際、国際的な視野を持ち、学習した人は国家のすり込みというものをよく理解していて、本音は日中韓でそれほど大きな価値観の違いはありません(もちろん幼いころからすり込まれたものは簡単には抜けませんが)。とにかくそういった点でまず外交手腕を発揮して、周辺国を納得させるくらいの力をもち、その上で自衛隊を軍隊にと議論すべきであると思います。
ただよく認識しておかなければならないのは戦後、徴兵制が無かったことが日本経済に大きな効果をもたらしたということです。徴兵がある国は、企業が最も人材育成をしたい20代に軍隊に行かなければならないのです。また日本人は和を重んじる民族で集団凝集性もたいへん高いと私は考えています。したがって、戦前の軍国主義の時代に戻ってしまうという危険性は否めません。ここまで民主主義が根付いて、民度も高い日本がそうはならないと思う人も多いでしょう。おとなしくて、几帳面、真面目、いい人、そして原則から逸脱したことがきらいという人がカルトに陥りやすいのです。日本人にうつが多いのもそういった性格が影響しています。
しょっちゅう喧嘩したり、ぶつかったりしている人は、子供みたいで、またそういう国民は民度は低いかもしれませんが、カルトチックになりにくい傾向にあります。日本は間違いなく自衛隊から軍隊に移行すれば、徴兵制が敷かれ、有事の際には、召集令状という流れになってくるでしょう。そして国民総動員というカタチで反対意見を言うものは村八分にされ排除される可能性も否めません。そういう状況にどんどん変化したとき、現在アベノミクスをさらに後押ししているマスコミは正論を述べる立場に立てるのかということも気になります。
なぜこんなに心配するかというと、こんなに民主主義が広がり平和な日本であるのに、社会の裏ではいまだにカルト教団やブラック企業での人権蹂躙が平気で行われているという事実があるからです。実は無理な要求で追い込まれて自殺する人が後を絶たないのですが、実際そういった組織や組織のトップの責任を立証できないがために改善されていないのが実状です。今回その代表を勤めていた人が自民党の比例で当選を果たしました。あれだけ批判があって公認取り下げの訴えがあったにも関わらず、押し通して国会議員にしてしまった自民党の非民主主義的な手法に憂慮せざるをえません。
とにかく人間は間違います。かならずブレーキの役割をする機関や人が絶対に必要なのです。そしてブレーキはアクセルにコミットしていません。あくまでコミットしているのは危険という認識とストップさせるという概念だけです。自民党が暴走しないことを祈るのみです。
2013年7月19日金曜日
認知的不協和に苦しむ経営者
認知的不協和とはアメリカの社会心理学者フェスティンガーが唱えた理論です。人間はつねに自分の思いや認知と行動が矛盾のないようにつねにバランスをとるという性質があります。すなわち自己矛盾が生じている状態にずっととどまっていることは誰しも嫌なのです。ホメオスタシス(恒常性維持機能)という観点もそれに似たものがあります。とにかく人間は変化に対して弱いということもありますし、まして自分が願わない不本意なことを要求され、行動を強いられるときには精神的に大きなストレスを感じるのです。
会社経営の中でも、経営者は認知的不協和を低減しようと努めるのです。ここでご紹介するのは一例です。基本的に社長に抜擢されたら経営権を握って自分の信じたとおり会社経営できるのが筋であるが、世の中には引退しているはずの会長なる存在がいまだに権限を行使していたりするケースがあったりします。また外面的にはわからないがうまく院政を引いて、ことあるごとに社長を呼びつけ、指示をだすような会長という存在がいたりします。そのうち社長は勝手にやって文句言われるくらいなら会長の言うとおりに従ってやっていれば、文句も言われずに済むということで完全に経営権が会長にあり、会長が経営をし、社長はただその業務を遂行するだけの仕事をしているということがあったりします。(ここでは会長―社長という関係で話しますが、みなさんは社長―上司と置きかえてもいいかもしれません)
分かりやすく示しますと以下のような矛盾を抱えて社長が経営しているわけです。
認知A:会長の命令に従う。
認知B:会長の命令に従うと会社が経営破たんする。(会長に従わなければ経営できる)
社長の仕事は当然業績アップをめざし、経営を上向きにするというのが仕事ですから、こういう状況は明らかに本来自分がすべき行動とは矛盾するわけです。そこでこの矛盾を解消するのにどのように行動するかという問題なのです。それは認知Aを変えるか、認知Bを変えるかです。まず認知Aを
認知A':命令に対して拒否し、社長の考えを押し通す。
という認知A'に変えると自分のすべき仕事に対して矛盾が解消されます。ただその場合命令に従わなかったとして社長はクビになるかもしれません。なかなか企業トップが独裁を敷いているところはその権力のゆえにその部下は直立不動の経営しかできないケースが往々としてあるのです。したがって意見を言うとか、反論するなんてことはもう自殺行為に等しかったりします。そういう組織で生き延びていく、出世するにはとにかく上位者にうまく取り入っておべっかは言っても絶対に上司の言うことを否定しないという行動が必然です。
しかし社員からしたら、せっかく社長でいるのだからリーダーシップを発揮して新しいことをいろいろと試したり何とかg黒字にしよう業績を上げようと頑張るのですが、まったく埒があかないという状況にあります。おまけに現場の事情がよくわかっていない会長に振り回されて、社長はトンチンカンな指示命令ばかり下すという状況になってしまっていたりします。そして実際に、経営状態はさらに悪化してどんどん厳しい状況に追い込まれ、給料も減らされ、社員の不満はピークになってしまうのです。
そういう状況にいたっても社長は認知A'の行動に出ることはできないでいます。でも社長としてはなんとか経営はちゃんとしたいという矛盾をかかえてしまうのです。でもクビにはなりたくありませんから、A'の選択はまずありえません。それで会長の命令に従うのです。それで会社の経営破たんをを見越して自分なりに矛盾、すなわち認知的不協和を低減できる理由をさがすのです。
・どうせこの会社はもう潮時だった。
・命令に従ったから経営責任は回避できる。
・社員もあの会長のワンマンさを知っているから理解してくれるだろう。
などなど、でも実際の経営責任者は社長です。経営責任は免れはしません。
こういった場合、どうしたらいいのでしょう。すでに経営破たんを受け入れているような社長は完全に会長に直立不動を強いられる管理下にある状況です。すでに自分の立場を客観視したり、俯瞰しシビアに現実志向で見つめるというレベルは失われていたりします。ひどい場合はアメとムチで完全に洗脳状態、学習性無力感で精神状態が崩壊しているケースもあります。とにかくこういう場合は部下の意見も聞かない状態になっていますし(なぜなら会長の命令以外の意見は受け入れないので)、相談をするという選択肢は皆無です。そういう状況にあることに気づけさえすれば、希望が見えます。ホントはできる(できそうな)部下を集めて、会長への対策会議を行えばいいのです。
それが無理なら、社外のコンサルタントか会長が一目置くような人に相談することが重要です。ただ社外であったり、経営から長く退いていると状況がイマイチ把握できない場合もあります。
とにかく気づきが必要ですし、問題の核心部分が明確に分かる、すなわち問題抽出能力がなければいい方向に展開することは困難です。そうであるがためには歪んだ持論や処世術だけで凝り固まった経営者、上司という企業組織の上位者はつねに学習してほしいものです。
会社経営の中でも、経営者は認知的不協和を低減しようと努めるのです。ここでご紹介するのは一例です。基本的に社長に抜擢されたら経営権を握って自分の信じたとおり会社経営できるのが筋であるが、世の中には引退しているはずの会長なる存在がいまだに権限を行使していたりするケースがあったりします。また外面的にはわからないがうまく院政を引いて、ことあるごとに社長を呼びつけ、指示をだすような会長という存在がいたりします。そのうち社長は勝手にやって文句言われるくらいなら会長の言うとおりに従ってやっていれば、文句も言われずに済むということで完全に経営権が会長にあり、会長が経営をし、社長はただその業務を遂行するだけの仕事をしているということがあったりします。(ここでは会長―社長という関係で話しますが、みなさんは社長―上司と置きかえてもいいかもしれません)
分かりやすく示しますと以下のような矛盾を抱えて社長が経営しているわけです。
認知A:会長の命令に従う。
認知B:会長の命令に従うと会社が経営破たんする。(会長に従わなければ経営できる)
社長の仕事は当然業績アップをめざし、経営を上向きにするというのが仕事ですから、こういう状況は明らかに本来自分がすべき行動とは矛盾するわけです。そこでこの矛盾を解消するのにどのように行動するかという問題なのです。それは認知Aを変えるか、認知Bを変えるかです。まず認知Aを
認知A':命令に対して拒否し、社長の考えを押し通す。
という認知A'に変えると自分のすべき仕事に対して矛盾が解消されます。ただその場合命令に従わなかったとして社長はクビになるかもしれません。なかなか企業トップが独裁を敷いているところはその権力のゆえにその部下は直立不動の経営しかできないケースが往々としてあるのです。したがって意見を言うとか、反論するなんてことはもう自殺行為に等しかったりします。そういう組織で生き延びていく、出世するにはとにかく上位者にうまく取り入っておべっかは言っても絶対に上司の言うことを否定しないという行動が必然です。
しかし社員からしたら、せっかく社長でいるのだからリーダーシップを発揮して新しいことをいろいろと試したり何とかg黒字にしよう業績を上げようと頑張るのですが、まったく埒があかないという状況にあります。おまけに現場の事情がよくわかっていない会長に振り回されて、社長はトンチンカンな指示命令ばかり下すという状況になってしまっていたりします。そして実際に、経営状態はさらに悪化してどんどん厳しい状況に追い込まれ、給料も減らされ、社員の不満はピークになってしまうのです。
そういう状況にいたっても社長は認知A'の行動に出ることはできないでいます。でも社長としてはなんとか経営はちゃんとしたいという矛盾をかかえてしまうのです。でもクビにはなりたくありませんから、A'の選択はまずありえません。それで会長の命令に従うのです。それで会社の経営破たんをを見越して自分なりに矛盾、すなわち認知的不協和を低減できる理由をさがすのです。
・どうせこの会社はもう潮時だった。
・命令に従ったから経営責任は回避できる。
・社員もあの会長のワンマンさを知っているから理解してくれるだろう。
などなど、でも実際の経営責任者は社長です。経営責任は免れはしません。
こういった場合、どうしたらいいのでしょう。すでに経営破たんを受け入れているような社長は完全に会長に直立不動を強いられる管理下にある状況です。すでに自分の立場を客観視したり、俯瞰しシビアに現実志向で見つめるというレベルは失われていたりします。ひどい場合はアメとムチで完全に洗脳状態、学習性無力感で精神状態が崩壊しているケースもあります。とにかくこういう場合は部下の意見も聞かない状態になっていますし(なぜなら会長の命令以外の意見は受け入れないので)、相談をするという選択肢は皆無です。そういう状況にあることに気づけさえすれば、希望が見えます。ホントはできる(できそうな)部下を集めて、会長への対策会議を行えばいいのです。
それが無理なら、社外のコンサルタントか会長が一目置くような人に相談することが重要です。ただ社外であったり、経営から長く退いていると状況がイマイチ把握できない場合もあります。
とにかく気づきが必要ですし、問題の核心部分が明確に分かる、すなわち問題抽出能力がなければいい方向に展開することは困難です。そうであるがためには歪んだ持論や処世術だけで凝り固まった経営者、上司という企業組織の上位者はつねに学習してほしいものです。
2013年7月6日土曜日
負のエネルギーをうまく活用する方法
人生、生きていく中でさまざまな体験をします。もちろん喜怒哀楽、さまざまな心情を感じていくわけですが、なかなか怒りや怨みの情だけはなかなかコントロールが難しいものです。「金持ち喧嘩せず」というのは色んな意味合いがあるでしょうが、基本的にいい人生を送っているなと感じる方々は比較的穏やかでジェントルな方が多いような気がします。
PSIでは金持ちになること、成功することを別に奨励はしていませんが、人生豊かに楽しく有意義な過ごし方ができると幸せをたくさん感じることができると思います。そのためにはやはり感情のコントロールというのはとても重要で、それができなければ成功することはもちろんのこと、人生を謳歌することはとても困難であると思います。うまくいっている経営者の中には、あまり神経質でいつもイライラして殺気立っているような人は見たことがありません。もしそういう人が経営者であったらその企業はブラック企業に選定されているかもしれません。
できる人というのは熱い志を持ちながらも、感情はコントロールし、自分の目標に対してつねに前向きで努力しつづけることができる人だと思います。優良企業の経営者の人びとを見てみると、比較的人当たりもよく穏やかでありながら、胸に秘めた燃える思いというものがひしひしと伝わってきます。そして経営においてもっとも効率的なアプローチをすることができる人です。それは業務もそうですし、組織を形成している社員に対してもそうです。優秀な経営者というのは会社の誰よりも学んでいる人で、新しいことにもっとも好奇心があって誰よりも意欲的である人だと思います。そして社員に対して最高のパフォーマンスが上がるようにうまくアプローチできる人です。間違えても自分が正しいと怒鳴ったり、大人気なく社員や部下と喧嘩したりということはまずありません。
反対にできる社員や部下というのも上司に対してうまく動かすコツをわきまえている人です。もちろん情熱的に訴えてぶつかったりすることもあるかもしれません。でもある程度のところで上司のレベルを見抜いてどう対処するかという対応策が頭の中にあって行動できることが重要です。もちろんダメ上司でどう考えてもその上司の下で働くメリットがないことが明確ならば、転職や独立、起業といったことも考えることができるのができる人です。感情的に行動し、扱いにくい部下だと上司や経営者からレッテルを貼られてしまうのは自分にとってまったくメリットはありません。
経営者や上司は組織という観点ではやはり権威ある立場なのです。自分ひとりがどんなに訴えたところで、社内のだれも自分と同調する人がいなかったならば、出る杭ではなく、ただのわがまま坊主に映るだけです。部下や社員の立場でより上位者に訴えそれを聞き入れてもらうためには、まず自分の同僚以下、そして上位者の中でも自分を後押ししてくれる社内的人脈ができていなければならないわけです。たとえば上司にある提案をするとき、上司がより理解できるかたちで話をすることも重要ですし、その時点で上司以外は全員が自分の意見とコンセンサスを得ているという暗黙の了解もあれば最高です。
社内である程度、模範的な言動ができ、なおかつつねに学習していて周囲がついてくるぐらいの人間力を発揮しながら、より上位者のレベルも理解した上で意見ができなければ、社内で浮いてしまう可能性もあります。逆に経営者や上司の立場にある人は何でも自分の思うようにいっていると思って社員が納得しないことも要求し続けていると間違いなく裸の王様になることは間違いなしです。部下がやたら自分のことをほめて、自分に対する意見や新しいアイディアなどの提案がなくなっているとすれば、もう完全に上司、経営者としては部下や社員は見限っているということであると認識すべきです。すなわち、ジジ殺し、褒め殺しの状態まで言ってて、最悪のときには裏切られてしまうケースです。部下がやたら自分にとって心地いいことしか言わない状況になっている時点で早く気づくことが重要です。
とにかく感情をコントロールできない人は絶対に大成しません。それは社会的地位という以前に人間として、人格的にも幼いレベルにとどまっていると考えてよいでしょう。ものすごいワンマンで独裁者の経営者で存在できている会社があれば、それはすでに超権威主義を許容しているカルトチックな組織になっているはずです。ブラック企業に上げられている企業にもそういった組織の企業があるかもしれません。会社には社是や社訓が掲げてある程度ならいいのですが、創立者の写真などが掲げてある会社はひとつの宗教になっています。
話がそれましたが、とにかく感情をコントロールできる人格、言動を養っていかなければなりません。感情的な人は見方を変えれば情熱的でやる気のある人です。ある面会社でいつもネガティヴ発言で、「どうせ~」とか「やっぱり~」から始まったり、「でも」「そうは言っても」といった逆接の言葉が多い人は、すでに学習性無力感から意欲さえ失っていたりします。そういう人はもう何をやるにも意欲が足りなかったりつねに言い訳ばかりが口に出るようになっています。感情的な人は感情のコントロールさえできればまだ可能性があります。
会社をはじめ、人間によって形成されるあらゆる組織にはさまざまな人間関係があります。自分と相性が合う人しかいないという組織は稀です。もしそういう人がいるとしたならば相当人間的器の広い方だと思います。むしろ組織の中には許せないとかムカつくとかウザイといった人が必ずいるはずです。でそういった人にその気持ちをいつも持ち続けているのは精神衛生上よくありません。それでそれを解消する方法はそういったことにかかわっていられないくらいの自分の目標を持つということが重要です。そしてそれを達成することが、ストレスの原因になっている人びとを見返すことにもつながれば尚更です。ムカついたり、カッとくる負のパワーを、よし見ておれ、必ず見返してやると自分の目標を達成するための正のエネルギーに全面的に転化させるのです。それが普段の生活の中でスムーズにできるようになれば、人生の時間を無駄に使わないで済むことになるはずです。
自分の人生は会社のため、まして会社のダメな人びとのためにあるわけではないのです。その人たちのレベルの低い人格のゆえに自分の感情や心情、そして貴重な時間や行動までも無駄にする必要はないのです。困った人が助けを求めてきてそれに心情や行動、時間を割くことはとても意義深く、いずれ自分にいいかたちで返ってきます。でも自分が勝手に自分を苦しめる感情を持つことはとてももったいないことなのです。少しでも早く負のエネルギーは正のエネルギーに転化して人生の意義あることに活用していきましょう。私たちの人生は自分の人生を有意義に生きることと社会的に意義ある人生にしていくことが大切ではないかと思うのです。
PSIでは金持ちになること、成功することを別に奨励はしていませんが、人生豊かに楽しく有意義な過ごし方ができると幸せをたくさん感じることができると思います。そのためにはやはり感情のコントロールというのはとても重要で、それができなければ成功することはもちろんのこと、人生を謳歌することはとても困難であると思います。うまくいっている経営者の中には、あまり神経質でいつもイライラして殺気立っているような人は見たことがありません。もしそういう人が経営者であったらその企業はブラック企業に選定されているかもしれません。
できる人というのは熱い志を持ちながらも、感情はコントロールし、自分の目標に対してつねに前向きで努力しつづけることができる人だと思います。優良企業の経営者の人びとを見てみると、比較的人当たりもよく穏やかでありながら、胸に秘めた燃える思いというものがひしひしと伝わってきます。そして経営においてもっとも効率的なアプローチをすることができる人です。それは業務もそうですし、組織を形成している社員に対してもそうです。優秀な経営者というのは会社の誰よりも学んでいる人で、新しいことにもっとも好奇心があって誰よりも意欲的である人だと思います。そして社員に対して最高のパフォーマンスが上がるようにうまくアプローチできる人です。間違えても自分が正しいと怒鳴ったり、大人気なく社員や部下と喧嘩したりということはまずありません。
反対にできる社員や部下というのも上司に対してうまく動かすコツをわきまえている人です。もちろん情熱的に訴えてぶつかったりすることもあるかもしれません。でもある程度のところで上司のレベルを見抜いてどう対処するかという対応策が頭の中にあって行動できることが重要です。もちろんダメ上司でどう考えてもその上司の下で働くメリットがないことが明確ならば、転職や独立、起業といったことも考えることができるのができる人です。感情的に行動し、扱いにくい部下だと上司や経営者からレッテルを貼られてしまうのは自分にとってまったくメリットはありません。
経営者や上司は組織という観点ではやはり権威ある立場なのです。自分ひとりがどんなに訴えたところで、社内のだれも自分と同調する人がいなかったならば、出る杭ではなく、ただのわがまま坊主に映るだけです。部下や社員の立場でより上位者に訴えそれを聞き入れてもらうためには、まず自分の同僚以下、そして上位者の中でも自分を後押ししてくれる社内的人脈ができていなければならないわけです。たとえば上司にある提案をするとき、上司がより理解できるかたちで話をすることも重要ですし、その時点で上司以外は全員が自分の意見とコンセンサスを得ているという暗黙の了解もあれば最高です。
社内である程度、模範的な言動ができ、なおかつつねに学習していて周囲がついてくるぐらいの人間力を発揮しながら、より上位者のレベルも理解した上で意見ができなければ、社内で浮いてしまう可能性もあります。逆に経営者や上司の立場にある人は何でも自分の思うようにいっていると思って社員が納得しないことも要求し続けていると間違いなく裸の王様になることは間違いなしです。部下がやたら自分のことをほめて、自分に対する意見や新しいアイディアなどの提案がなくなっているとすれば、もう完全に上司、経営者としては部下や社員は見限っているということであると認識すべきです。すなわち、ジジ殺し、褒め殺しの状態まで言ってて、最悪のときには裏切られてしまうケースです。部下がやたら自分にとって心地いいことしか言わない状況になっている時点で早く気づくことが重要です。
とにかく感情をコントロールできない人は絶対に大成しません。それは社会的地位という以前に人間として、人格的にも幼いレベルにとどまっていると考えてよいでしょう。ものすごいワンマンで独裁者の経営者で存在できている会社があれば、それはすでに超権威主義を許容しているカルトチックな組織になっているはずです。ブラック企業に上げられている企業にもそういった組織の企業があるかもしれません。会社には社是や社訓が掲げてある程度ならいいのですが、創立者の写真などが掲げてある会社はひとつの宗教になっています。
話がそれましたが、とにかく感情をコントロールできる人格、言動を養っていかなければなりません。感情的な人は見方を変えれば情熱的でやる気のある人です。ある面会社でいつもネガティヴ発言で、「どうせ~」とか「やっぱり~」から始まったり、「でも」「そうは言っても」といった逆接の言葉が多い人は、すでに学習性無力感から意欲さえ失っていたりします。そういう人はもう何をやるにも意欲が足りなかったりつねに言い訳ばかりが口に出るようになっています。感情的な人は感情のコントロールさえできればまだ可能性があります。
会社をはじめ、人間によって形成されるあらゆる組織にはさまざまな人間関係があります。自分と相性が合う人しかいないという組織は稀です。もしそういう人がいるとしたならば相当人間的器の広い方だと思います。むしろ組織の中には許せないとかムカつくとかウザイといった人が必ずいるはずです。でそういった人にその気持ちをいつも持ち続けているのは精神衛生上よくありません。それでそれを解消する方法はそういったことにかかわっていられないくらいの自分の目標を持つということが重要です。そしてそれを達成することが、ストレスの原因になっている人びとを見返すことにもつながれば尚更です。ムカついたり、カッとくる負のパワーを、よし見ておれ、必ず見返してやると自分の目標を達成するための正のエネルギーに全面的に転化させるのです。それが普段の生活の中でスムーズにできるようになれば、人生の時間を無駄に使わないで済むことになるはずです。
自分の人生は会社のため、まして会社のダメな人びとのためにあるわけではないのです。その人たちのレベルの低い人格のゆえに自分の感情や心情、そして貴重な時間や行動までも無駄にする必要はないのです。困った人が助けを求めてきてそれに心情や行動、時間を割くことはとても意義深く、いずれ自分にいいかたちで返ってきます。でも自分が勝手に自分を苦しめる感情を持つことはとてももったいないことなのです。少しでも早く負のエネルギーは正のエネルギーに転化して人生の意義あることに活用していきましょう。私たちの人生は自分の人生を有意義に生きることと社会的に意義ある人生にしていくことが大切ではないかと思うのです。
ラベル:
学習,
健康,
自分軸(PSI的フレームワーク)
2013年6月25日火曜日
組織改革はステルス戦略で!①
企業も企業風土も老朽化するとどうしてもその時代の要請にこたえてそれらを改革し、現代の経営環境に順応させることができる政策が必要です。高齢社会を迎え、さらに65歳定年制ということになってくればなおさら問題なのは、企業の組織内における老害の問題です。組織のご意見番ということで経営の一線からは退いていただいてたまに知恵を拝借ということならまだしも、相当の高齢にもなってなお会社経営のハンドルを握っているとしたらたまったものではないというのです。そういった老害の存在ゆえにいまだに経営悪化を防げず、改革に着手もできずという状況の企業は潜在的にはとても多いことと思います。
そういった経営者や幹部、役員には独裁的な人が多く、多くの社員が引退や辞任を期待しているにも関わらず、なかなかそれは実現できないのです。そういった独裁者に誰が引導を渡すのか、とても難しい問題です。誰かが明智光秀やブルータスになって刺し違えて引退をせまるなんてことはなかなかできません。みんなの声を代弁して訴えて具体的に政権交代しようと思ったら、その政権につくのは引導を渡した自分ではなく、他の人であったりするのです。集団はとても薄情です。個に対して平気でデリートするのです。実際の手を下した人ではなく、クリーンな人をまた持ち上げていたりするのです。それは次期政権でもちゃんとポストを確保するという独裁者の残党がちゃんと幹部の中にいるからなのです。彼らは組織で抹殺しやすい人を汚れ役にしたてて最終的にはポイ捨てにするのです。
改革の道具にならずに改革を実行し、次期政権でもちゃんと生きていけるようにするにはどうしたらいいのでしょう。もちろん汚れ役を踏み台にして次期政権を掌握した人も独裁者と同じ道をたどります。クーデターで政権を握ると、結果的にクーデターで倒されます。汚れ役を利用し、自分の利益を得た人を信用する部下はいないからです。改革の成功と組織風土のパラダイムシフトとその定着はしたたかさと決して独裁者にはならないという気概が必要です。そしてそのように行動するしか次期政権を握って、それを維持し続けることはできません。
組織改革において、誰かを踏み台にしたり、捨石にしたりするようなことをしてはいけません。独裁者は恐怖によって支配しているのです。それを勘違いしてカリスマとかいう人がいますが、実際、カリスマと恐怖政治は違います。恐怖政治を敷く人は、恐怖で人を従わせる、名目や思想を持っています。それが血統(血筋)であったり過去の実績であったり、なんらかの正当性をつくりあげているのです。それらは人びとを屈服させ従える理由になっているのですが、心の奥底から従っているわけではありません。また過剰なリスペクトは、人びとが理想とするモデルとかけ離れた部分が独裁者に見え始めると、まったく違う怨みの情と化すのです。
改革を成し遂げるリーダーには大衆の過剰なリスペクトもカリスマ性も要りません。必要なことは大衆に対する愛情と自分ではなにもできないという現実を見る力です。それがみんなで成し遂げるという意識となって互いを信じる意識や力になっていきます。組織で独裁者がのさばる理由はその独裁者のパワーを利用する、あるいはその恩恵に預かっている取り巻きがいるからなのです。そして彼らを信奉する信者たちが組織の末端までいるからなのです。独裁者の老害をもっとも実感しているのは側近もいますが中間管理職たちです。現場にも精通しなおかつ上層部の状況も見えている人びとです。
組織改革の危険性は独裁者とその取り巻き、そのシンパです。彼らの毒牙にひっかからないように組織改革は進めていかなければなりません。すなわち敵のレーダーにひっかからないステルス機のように行動しなければならないのです。ホントに信頼信用できる人材だけを中心に行うしかありません。いつ寝返るかわからないような貞操観念のない人材は気をつけなければなりません。旧東欧諸国で地下活動がなされたのも独裁者がつくりあげた思想に合わない行動をする人は粛清されるからです。地下活動をする際、もっとも危険なことは家族であろうと密告者が出るのではということです。洗脳は血筋を越えるのです。
独裁体制の政権下での話は決してどこかの国のことではなく、身近な企業に普通にあることでもあるのです。組織はある面、政治的人間関係でなりたっています。人間で形成された組織はすべて政治です。今一度組織をシビアに見つめなおすことはとても重要です。組織改革は絶対的にステルス戦略が必要です。改革を目指すその人的基盤がメジョリティを占めるようになったとき、徐々にその存在をほのめかしながら個ではなく全体の力でひっくり返すということも一つの手です。もちろん具体的には独裁者自らが集団によって血祭りにあげられるという恐怖を感じて退くという流れが理想的です。誰かが独裁者の怨みの対象になる必要もなく、独裁者の残党を牽制するのはあくまで既存の政権に反対する大衆であるということです。
そういった経営者や幹部、役員には独裁的な人が多く、多くの社員が引退や辞任を期待しているにも関わらず、なかなかそれは実現できないのです。そういった独裁者に誰が引導を渡すのか、とても難しい問題です。誰かが明智光秀やブルータスになって刺し違えて引退をせまるなんてことはなかなかできません。みんなの声を代弁して訴えて具体的に政権交代しようと思ったら、その政権につくのは引導を渡した自分ではなく、他の人であったりするのです。集団はとても薄情です。個に対して平気でデリートするのです。実際の手を下した人ではなく、クリーンな人をまた持ち上げていたりするのです。それは次期政権でもちゃんとポストを確保するという独裁者の残党がちゃんと幹部の中にいるからなのです。彼らは組織で抹殺しやすい人を汚れ役にしたてて最終的にはポイ捨てにするのです。
改革の道具にならずに改革を実行し、次期政権でもちゃんと生きていけるようにするにはどうしたらいいのでしょう。もちろん汚れ役を踏み台にして次期政権を掌握した人も独裁者と同じ道をたどります。クーデターで政権を握ると、結果的にクーデターで倒されます。汚れ役を利用し、自分の利益を得た人を信用する部下はいないからです。改革の成功と組織風土のパラダイムシフトとその定着はしたたかさと決して独裁者にはならないという気概が必要です。そしてそのように行動するしか次期政権を握って、それを維持し続けることはできません。
組織改革において、誰かを踏み台にしたり、捨石にしたりするようなことをしてはいけません。独裁者は恐怖によって支配しているのです。それを勘違いしてカリスマとかいう人がいますが、実際、カリスマと恐怖政治は違います。恐怖政治を敷く人は、恐怖で人を従わせる、名目や思想を持っています。それが血統(血筋)であったり過去の実績であったり、なんらかの正当性をつくりあげているのです。それらは人びとを屈服させ従える理由になっているのですが、心の奥底から従っているわけではありません。また過剰なリスペクトは、人びとが理想とするモデルとかけ離れた部分が独裁者に見え始めると、まったく違う怨みの情と化すのです。
改革を成し遂げるリーダーには大衆の過剰なリスペクトもカリスマ性も要りません。必要なことは大衆に対する愛情と自分ではなにもできないという現実を見る力です。それがみんなで成し遂げるという意識となって互いを信じる意識や力になっていきます。組織で独裁者がのさばる理由はその独裁者のパワーを利用する、あるいはその恩恵に預かっている取り巻きがいるからなのです。そして彼らを信奉する信者たちが組織の末端までいるからなのです。独裁者の老害をもっとも実感しているのは側近もいますが中間管理職たちです。現場にも精通しなおかつ上層部の状況も見えている人びとです。
組織改革の危険性は独裁者とその取り巻き、そのシンパです。彼らの毒牙にひっかからないように組織改革は進めていかなければなりません。すなわち敵のレーダーにひっかからないステルス機のように行動しなければならないのです。ホントに信頼信用できる人材だけを中心に行うしかありません。いつ寝返るかわからないような貞操観念のない人材は気をつけなければなりません。旧東欧諸国で地下活動がなされたのも独裁者がつくりあげた思想に合わない行動をする人は粛清されるからです。地下活動をする際、もっとも危険なことは家族であろうと密告者が出るのではということです。洗脳は血筋を越えるのです。
独裁体制の政権下での話は決してどこかの国のことではなく、身近な企業に普通にあることでもあるのです。組織はある面、政治的人間関係でなりたっています。人間で形成された組織はすべて政治です。今一度組織をシビアに見つめなおすことはとても重要です。組織改革は絶対的にステルス戦略が必要です。改革を目指すその人的基盤がメジョリティを占めるようになったとき、徐々にその存在をほのめかしながら個ではなく全体の力でひっくり返すということも一つの手です。もちろん具体的には独裁者自らが集団によって血祭りにあげられるという恐怖を感じて退くという流れが理想的です。誰かが独裁者の怨みの対象になる必要もなく、独裁者の残党を牽制するのはあくまで既存の政権に反対する大衆であるということです。
都議選(6.23)に思うこと
今週日曜日に東京都都議選の投票が行われました。結果はおそらくだいたいの人びとが予想したであろう通りの自民、公明の圧倒的勝利ということでした。維新の会は橋下共同代表の問題(失言?本音が出ただけ?)発言から完全に敗北、それに対して躍進したのはみんなの党でした。
みなさんは今回の都議選どう見られていますか?私は明らかに民主党政権から自民党政権に代わってアベノミクスの名のもと、それをあおってきたマスコミの方向性に従った国民の選択であったと思います。そもそも円安誘導でもっとも恩恵に預かっているのは、輸出中心の大企業であり、彼らが躍進することで恩恵を受けるのは、政財界もそうですが、マスコミでもあります。そういった企業がテレビのスポンサーになっているわけですから、当然マスコミとしてはアベノミクスを後押しせざるをえません。そしてそれに同調する人しかコメンテーターとしてテレビなどに露出することはできないわけですから、ますます自民党に追い風になっているわけです。
ここで自民党のこの流れを批判しようというわけではありません。ただ現時点でアベノミクスの恩恵を受けているのは間違いなく輸出企業であり、一部の富裕層であると考えざるをえません。今後どうなるかは国民全体にその恩恵が波及するかどうかということにつきると思います。専門家によっては国民全体がその効果を実感するのは半年後とか一年半後とか言う人がいます。ただ一般国民はマスコミの洗脳的宣伝によって、なんとなく踊らされている面が多いのですが、実際のところ、給料が上がる前に物価がどんどん上がってきていて決して生活がラクになっているとは言えないのが現状です。
ガソリンの価格もさまざまな交通機関の料金においても、また荷物の配送料金なども、デフレのときでさえ、とても高い状況にあったわけです。マスコミによって過去の状況をデフレであるとすり込まれているのですが、実際それはどうなのと言いたい部分もあります。とにかくテレビでは高所得の芸能人ばかりが出て市場の価格がいかに安いかをアピールし、反面高級なものや生活を自慢し、挙句の果ては、一般人の貧乏生活をネタにした番組をつくるというどう考えても世間一般の常識とはかけ離れた観点で番組をつくっているとしか言いようがありません。
私たちは情報リテラシーを高める必要があると思います。明らかに政治に対して大きな影響力を持っているのは国民を洗脳してしまうメディアであることは否めません。そうやって国民の世論というのは形成されているわけですが、何分保守的な日本人の特質はそんなに変わるわけではないというのも私の実感です。そして日本人はファッション、ブームに極端に弱いのです。イメージにすぐ左右されてしまうという国民の弱点があります。
今回の失言とも言われている橋下市長の発言、これを石原共同代表が言っていたらどうでしょう。昔、三国人発言も結局、うやむやになって終わりです。とにかくマスコミもそれ以上ツッコめないオーラを出しているのです。橋下さんの言動には決して賛同はできませんが、同じ発言でも人によっては喉元過ぎればで終わる場合もあります。政治家は自分のキャラをよくわきまえておくことも重要かもしれません。自分の思い込みでなく、自分が周りからどう見られているかということをある程度認識した上で行動することも必要であると思います。
基本的に日本人の現在の思考は保守、右寄りに傾いています。その原因の一つは隣国の領土問題等がさらにそれを加速化しているのです。近隣諸国は自国の利益を優先するという認識が強いあまり、‘急がば回れ’的な思考ができないでいるのです。領土問題や過去の戦争責任を追及すればするほど日本を右傾化させ、結果的に経済関係も冷え込むことで自国の首を絞める構図になっているということなのです。損して得とれという考え方は冷静にものごとを見る能力を養わなければ難しいようです。
今回の都議選での共産党の躍進は単に左翼政党が共産党しかなくなったということに集約されます。決して共産党の理念や共産主義を信じている人などほぼ皆無ではないかと思います。すでに共産主義という思想自体は歴史的に非実現的なものとして証明されたわけですし、おそらく共産党の執行部の方自体がそれは十分認知されていると思います。共産党に投票された方もいれるところがないからというのがかなりの数になるのだろうと思います。すでに社会党系はすでに保守に飲み込まれ、社民党の存在も風前の灯状態です。憲法9条を死守するという党は共産党しかないわけですから、存在意義は十分大きいものと考えられます。
今回みんなの党の躍進も維新の会の票が横に流れただけで本来なら両党でシェアするような状況だったのでしょうが、先の橋下発言でこのような状況になったのではないかと思っています。また本来民主党の票であったはずの票は他の保守政党に分配されたという見方でいいのではと思います。今回の都議選で言えることは明らかに自民党の安倍政権になって日銀政策から円安誘導などはっきりとした内容を打ち出すということがどうやら国民にウケているような気がします。無所属議員が一人しか当選しなかったことなどもその表れのような気がします。
いずれにせよ、東京都は日本の縮図、この度の都議選に表れた都民の意識もやはりマスメディア主導のイメージに大きく左右されたものと感じざるをえないのが感想です。参院選はあまりイメージやマスメディアの発信内容に左右されず、ホントに日本の国益に副う政党、政治家はだれなのか見極めての投票を期待したいものです。
みなさんは今回の都議選どう見られていますか?私は明らかに民主党政権から自民党政権に代わってアベノミクスの名のもと、それをあおってきたマスコミの方向性に従った国民の選択であったと思います。そもそも円安誘導でもっとも恩恵に預かっているのは、輸出中心の大企業であり、彼らが躍進することで恩恵を受けるのは、政財界もそうですが、マスコミでもあります。そういった企業がテレビのスポンサーになっているわけですから、当然マスコミとしてはアベノミクスを後押しせざるをえません。そしてそれに同調する人しかコメンテーターとしてテレビなどに露出することはできないわけですから、ますます自民党に追い風になっているわけです。
ここで自民党のこの流れを批判しようというわけではありません。ただ現時点でアベノミクスの恩恵を受けているのは間違いなく輸出企業であり、一部の富裕層であると考えざるをえません。今後どうなるかは国民全体にその恩恵が波及するかどうかということにつきると思います。専門家によっては国民全体がその効果を実感するのは半年後とか一年半後とか言う人がいます。ただ一般国民はマスコミの洗脳的宣伝によって、なんとなく踊らされている面が多いのですが、実際のところ、給料が上がる前に物価がどんどん上がってきていて決して生活がラクになっているとは言えないのが現状です。
ガソリンの価格もさまざまな交通機関の料金においても、また荷物の配送料金なども、デフレのときでさえ、とても高い状況にあったわけです。マスコミによって過去の状況をデフレであるとすり込まれているのですが、実際それはどうなのと言いたい部分もあります。とにかくテレビでは高所得の芸能人ばかりが出て市場の価格がいかに安いかをアピールし、反面高級なものや生活を自慢し、挙句の果ては、一般人の貧乏生活をネタにした番組をつくるというどう考えても世間一般の常識とはかけ離れた観点で番組をつくっているとしか言いようがありません。
私たちは情報リテラシーを高める必要があると思います。明らかに政治に対して大きな影響力を持っているのは国民を洗脳してしまうメディアであることは否めません。そうやって国民の世論というのは形成されているわけですが、何分保守的な日本人の特質はそんなに変わるわけではないというのも私の実感です。そして日本人はファッション、ブームに極端に弱いのです。イメージにすぐ左右されてしまうという国民の弱点があります。
今回の失言とも言われている橋下市長の発言、これを石原共同代表が言っていたらどうでしょう。昔、三国人発言も結局、うやむやになって終わりです。とにかくマスコミもそれ以上ツッコめないオーラを出しているのです。橋下さんの言動には決して賛同はできませんが、同じ発言でも人によっては喉元過ぎればで終わる場合もあります。政治家は自分のキャラをよくわきまえておくことも重要かもしれません。自分の思い込みでなく、自分が周りからどう見られているかということをある程度認識した上で行動することも必要であると思います。
基本的に日本人の現在の思考は保守、右寄りに傾いています。その原因の一つは隣国の領土問題等がさらにそれを加速化しているのです。近隣諸国は自国の利益を優先するという認識が強いあまり、‘急がば回れ’的な思考ができないでいるのです。領土問題や過去の戦争責任を追及すればするほど日本を右傾化させ、結果的に経済関係も冷え込むことで自国の首を絞める構図になっているということなのです。損して得とれという考え方は冷静にものごとを見る能力を養わなければ難しいようです。
今回の都議選での共産党の躍進は単に左翼政党が共産党しかなくなったということに集約されます。決して共産党の理念や共産主義を信じている人などほぼ皆無ではないかと思います。すでに共産主義という思想自体は歴史的に非実現的なものとして証明されたわけですし、おそらく共産党の執行部の方自体がそれは十分認知されていると思います。共産党に投票された方もいれるところがないからというのがかなりの数になるのだろうと思います。すでに社会党系はすでに保守に飲み込まれ、社民党の存在も風前の灯状態です。憲法9条を死守するという党は共産党しかないわけですから、存在意義は十分大きいものと考えられます。
今回みんなの党の躍進も維新の会の票が横に流れただけで本来なら両党でシェアするような状況だったのでしょうが、先の橋下発言でこのような状況になったのではないかと思っています。また本来民主党の票であったはずの票は他の保守政党に分配されたという見方でいいのではと思います。今回の都議選で言えることは明らかに自民党の安倍政権になって日銀政策から円安誘導などはっきりとした内容を打ち出すということがどうやら国民にウケているような気がします。無所属議員が一人しか当選しなかったことなどもその表れのような気がします。
いずれにせよ、東京都は日本の縮図、この度の都議選に表れた都民の意識もやはりマスメディア主導のイメージに大きく左右されたものと感じざるをえないのが感想です。参院選はあまりイメージやマスメディアの発信内容に左右されず、ホントに日本の国益に副う政党、政治家はだれなのか見極めての投票を期待したいものです。
2013年6月12日水曜日
人間って死んだらどうなるの?②
生の問題同様、死に対する問題は人間にとってはとても大きなテーマです。ただ生とは何か、死とは何かという問題は万人が納得できる答えというものはありません。哲学や宗教の分野で扱われていてもそれらの主義主張、思想、教理というものはひとつの考え方として、あるいは信仰的な観点で依存の対象としてあるだけで、決して一般化できるものではないと考えられます。なぜなら、誰もが納得する結論が出ないからです。
そう考えると、半ば生や死に関して論じることはとてもナンセンスな気持ちにもなってしまうのです。世の中では不確定なことがらには言及せず、今を生きる上で必要な営みを毎日、瞬間瞬間繰り返しているだけで、またそれに集中している以上はそういった人間の本質的な問題を意識しなくていいので、ストレスなく悩むことなく生きていけるのです。でも身内や友人の死に直面したときにはどうしても死という問題に向き合わなければなりません。
実際問題として、人生を生きるということは、人間の本質に対して知りたいという欲求を半ば覆い隠して生きるようなもので、どうしても人生という刹那的な時間をただ楽しく有意義(意義あると決めて)に暮らすということにつきるのかもしれません。若ければ死はまだまだ先の話と考えて生きてもなんら不安も恐怖心も実感としてないかもしれません。でも今実際、高齢で死というものが現実問題としてふりかかってくるとか、若くても悩んで自殺願望があったりする人にとっては先送りできない問題です。
ここで死に対して、不安や恐怖心を抱いている人にちょっとラクになれる話をします。ギリシヤの哲人ソクラテスは死は睡眠のようなものであるとしたら、死とはとても甘美なものであると言っています。みなさんは基本的に健康であるなら毎日睡眠をとっておられることと思います。以前よく健康関連の講演をしたとき、睡眠、寝ることがきらいな人はいますかと質問したところ、ひとりもきらいな人はいませんでした。朝起きるのが苦手で、もうちょっと寝かせてえなんてことがあるくらいです。
それで寝るということがきらいな人はひとりもいないわけですから、もういつでも死を迎える準備はできてますよなんて笑いを誘うネタにしたりしていたわけです。実はそう考えると人間は人生のなかで生死を繰り返しているとも考えられます。朝起きるときは生まれるということですし、夜疲れて寝るときは肉体的活動を休めるということで死を迎えるようなものです。もちろん心臓や副交感神経は動いているわけですが、(これが止まるとホントの死です)意識としては無の境地、すなわち自分という存在がなくなる状態になるわけです。
でも夢を見たりします。では夢というのはなんなんだと言われれば、それは潜在意識がフローしてきたもの、あるいは死後の世界につながっていて霊的な世界に心はつながっているからという人もいます。とりあえずここでは夢の話は置いておきます。ただここで言えることは人間には精神世界といえるもの、すなわち物質という観点では説明がつかないようなイシューがあるのだということです。脳科学の分野とかでさまざま研究はされていますが、やはり脳の機能という観点だけでは説明はできないのだと思います。
人生は生老病死という苦しみがあると仏教では解きます。キリスト教では堕落によって罪人になったがゆえに無知になって真理がわからない、それゆえに人は生死に対しても無知なのだそうです。
それゆえさまざまな宗教が死生観に対しては明確に決めてあり、信者はそれを信じることでそれらの不安をすべてとりのぞくことができているのです。それは死に対する恐怖からの解放であり、人生における苦痛の除去にほかなりません。私もいくつかの宗教の話を聞いて共感し、死生観といいうものがある程度固定されていたことでたいへん精神的にはラクに生きてくることができました。
宗教が麻薬(アヘン)であるという話はあながち間違ってはいないと考えられます。なぜなら死生観を明確にすることで人生の痛みを除去することができるのです。そしてその死生観が正しいかどうかなんていうことは極端な話、どうでもいいのです。なぜなら死んでからわかることなので死んだあと、間違っていたぞなんてクレームを言ってくる人はひとりもいないからです。したがって宗教のどの教理が正しいとか間違っているとか、輪廻があるとかないとか、霊界があるとかないとかすべては論じること自体があまり意味を持たないと思います。なぜならだれも立証できないからです。要は一人ひとりが自分でもっともそうだと思うものを信じて人生においてそれがとても有効な役割をしてくれるのならばそれでいいと思うのです。
ここで断っておきますが、私は決して宗教への入信をおすすめしているわけではありません。もうすでに宗教をお持ちの方はそれで納得されていれば、それはそれでいいのではないでしょうかという話です。ただ宗教もいろいろあるので、テロや反社会的活動がある宗教、すなわちカルトのような宗教は、結果的に自分の含め周囲の人びとを巻き込んでとんでもない人生を棒に振るようになってしまうので注意してほしいところです。社会的に安全な宗教はある面、国の法律や枠組みを大きく逸脱するような思想や活動はありません。また個人の生活が脅かされたり、人がものすごく変わるような洗脳も行われません。カルトの恐ろしいところは死という不確定なものをあまりに明確に描き上げ、それをネタに法外な金銭の要求をしたり、反社会的な活動へと駆り立てていくという危険性をはらんでいます。そして具体的に実現不可能と思われるようなことを具体的にやっていこうという実現主義とでも言ったらいいのか、そういうところに希望を感じて多くの信者を扇動していくのです。そして自分たちがすべて正しくて、世界の中心だくらいにすり込まれて社会一般の通常の価値観とはかけ離れた思考に陥りますので気を付けることが大切です。
とりあえず、日本は信教の自由が憲法でうたってあり、あらゆる宗教が存在し、心の拠り所として信仰をすることは精神安定上、有益な部分がたくさんあります。ホテルに泊まるとよく聖書や仏教書が置いてあるのも心のケアにそういったものが有効だからでしょう。刑務所でそういった書を手にして更生されるというのもあります。宗教は世界的にはさまざまな国々で紛争の火種となっているのも事実ですが、人類の心の平安を与えてくれているということも事実であると思います。今は私は無宗教な立場ですが、死ぬときはとりあえず実家が檀家になっているお寺のお世話になるか、あるいは最近は公共の墓地は無宗教の人も多いようで、そうなるかはわかりません。私自身は葬式や法事、また宗教というのは生きている人びとに必要なものという認識であるので、それは成り行きに任せたいと思っています。
とりあえず宗教の話はこれくらいにして、ここである程度の結論とまでいかなくても、方向性を出したいのは死というもの、死後の世界というものは一体あるのかないのか、どうとらえればいいのかということです。宗教的な観点でのとらえ方は個人個人に任せて、ここでは科学的に立証できないまでもせめて論理的に納得できるくらいの基準での話にしたいなとは思っています。もちろんそれをどうとらえるかも個人個人の話ですし、最初に漫談風味の話と前提してあるので、あまりムキになってケンカ腰で議論を交わすつもりもありません。おぼろげにそうなのかなあくらいに受け止めてもらえて人生、またがんばる気持ちになれたと言っていただけたらいいかと考えています。次回に尾のレベルを目指したいと思います。
そう考えると、半ば生や死に関して論じることはとてもナンセンスな気持ちにもなってしまうのです。世の中では不確定なことがらには言及せず、今を生きる上で必要な営みを毎日、瞬間瞬間繰り返しているだけで、またそれに集中している以上はそういった人間の本質的な問題を意識しなくていいので、ストレスなく悩むことなく生きていけるのです。でも身内や友人の死に直面したときにはどうしても死という問題に向き合わなければなりません。
実際問題として、人生を生きるということは、人間の本質に対して知りたいという欲求を半ば覆い隠して生きるようなもので、どうしても人生という刹那的な時間をただ楽しく有意義(意義あると決めて)に暮らすということにつきるのかもしれません。若ければ死はまだまだ先の話と考えて生きてもなんら不安も恐怖心も実感としてないかもしれません。でも今実際、高齢で死というものが現実問題としてふりかかってくるとか、若くても悩んで自殺願望があったりする人にとっては先送りできない問題です。
ここで死に対して、不安や恐怖心を抱いている人にちょっとラクになれる話をします。ギリシヤの哲人ソクラテスは死は睡眠のようなものであるとしたら、死とはとても甘美なものであると言っています。みなさんは基本的に健康であるなら毎日睡眠をとっておられることと思います。以前よく健康関連の講演をしたとき、睡眠、寝ることがきらいな人はいますかと質問したところ、ひとりもきらいな人はいませんでした。朝起きるのが苦手で、もうちょっと寝かせてえなんてことがあるくらいです。
それで寝るということがきらいな人はひとりもいないわけですから、もういつでも死を迎える準備はできてますよなんて笑いを誘うネタにしたりしていたわけです。実はそう考えると人間は人生のなかで生死を繰り返しているとも考えられます。朝起きるときは生まれるということですし、夜疲れて寝るときは肉体的活動を休めるということで死を迎えるようなものです。もちろん心臓や副交感神経は動いているわけですが、(これが止まるとホントの死です)意識としては無の境地、すなわち自分という存在がなくなる状態になるわけです。
でも夢を見たりします。では夢というのはなんなんだと言われれば、それは潜在意識がフローしてきたもの、あるいは死後の世界につながっていて霊的な世界に心はつながっているからという人もいます。とりあえずここでは夢の話は置いておきます。ただここで言えることは人間には精神世界といえるもの、すなわち物質という観点では説明がつかないようなイシューがあるのだということです。脳科学の分野とかでさまざま研究はされていますが、やはり脳の機能という観点だけでは説明はできないのだと思います。
人生は生老病死という苦しみがあると仏教では解きます。キリスト教では堕落によって罪人になったがゆえに無知になって真理がわからない、それゆえに人は生死に対しても無知なのだそうです。
それゆえさまざまな宗教が死生観に対しては明確に決めてあり、信者はそれを信じることでそれらの不安をすべてとりのぞくことができているのです。それは死に対する恐怖からの解放であり、人生における苦痛の除去にほかなりません。私もいくつかの宗教の話を聞いて共感し、死生観といいうものがある程度固定されていたことでたいへん精神的にはラクに生きてくることができました。
宗教が麻薬(アヘン)であるという話はあながち間違ってはいないと考えられます。なぜなら死生観を明確にすることで人生の痛みを除去することができるのです。そしてその死生観が正しいかどうかなんていうことは極端な話、どうでもいいのです。なぜなら死んでからわかることなので死んだあと、間違っていたぞなんてクレームを言ってくる人はひとりもいないからです。したがって宗教のどの教理が正しいとか間違っているとか、輪廻があるとかないとか、霊界があるとかないとかすべては論じること自体があまり意味を持たないと思います。なぜならだれも立証できないからです。要は一人ひとりが自分でもっともそうだと思うものを信じて人生においてそれがとても有効な役割をしてくれるのならばそれでいいと思うのです。
ここで断っておきますが、私は決して宗教への入信をおすすめしているわけではありません。もうすでに宗教をお持ちの方はそれで納得されていれば、それはそれでいいのではないでしょうかという話です。ただ宗教もいろいろあるので、テロや反社会的活動がある宗教、すなわちカルトのような宗教は、結果的に自分の含め周囲の人びとを巻き込んでとんでもない人生を棒に振るようになってしまうので注意してほしいところです。社会的に安全な宗教はある面、国の法律や枠組みを大きく逸脱するような思想や活動はありません。また個人の生活が脅かされたり、人がものすごく変わるような洗脳も行われません。カルトの恐ろしいところは死という不確定なものをあまりに明確に描き上げ、それをネタに法外な金銭の要求をしたり、反社会的な活動へと駆り立てていくという危険性をはらんでいます。そして具体的に実現不可能と思われるようなことを具体的にやっていこうという実現主義とでも言ったらいいのか、そういうところに希望を感じて多くの信者を扇動していくのです。そして自分たちがすべて正しくて、世界の中心だくらいにすり込まれて社会一般の通常の価値観とはかけ離れた思考に陥りますので気を付けることが大切です。
とりあえず、日本は信教の自由が憲法でうたってあり、あらゆる宗教が存在し、心の拠り所として信仰をすることは精神安定上、有益な部分がたくさんあります。ホテルに泊まるとよく聖書や仏教書が置いてあるのも心のケアにそういったものが有効だからでしょう。刑務所でそういった書を手にして更生されるというのもあります。宗教は世界的にはさまざまな国々で紛争の火種となっているのも事実ですが、人類の心の平安を与えてくれているということも事実であると思います。今は私は無宗教な立場ですが、死ぬときはとりあえず実家が檀家になっているお寺のお世話になるか、あるいは最近は公共の墓地は無宗教の人も多いようで、そうなるかはわかりません。私自身は葬式や法事、また宗教というのは生きている人びとに必要なものという認識であるので、それは成り行きに任せたいと思っています。
とりあえず宗教の話はこれくらいにして、ここである程度の結論とまでいかなくても、方向性を出したいのは死というもの、死後の世界というものは一体あるのかないのか、どうとらえればいいのかということです。宗教的な観点でのとらえ方は個人個人に任せて、ここでは科学的に立証できないまでもせめて論理的に納得できるくらいの基準での話にしたいなとは思っています。もちろんそれをどうとらえるかも個人個人の話ですし、最初に漫談風味の話と前提してあるので、あまりムキになってケンカ腰で議論を交わすつもりもありません。おぼろげにそうなのかなあくらいに受け止めてもらえて人生、またがんばる気持ちになれたと言っていただけたらいいかと考えています。次回に尾のレベルを目指したいと思います。
2013年6月11日火曜日
個の自立無くしてチームワークは成立しない!
日本のサッカーは選手間でパスを回しながら、なかなかシュートを打たず、結局いつの間にか相手にボールをとられてしまうというシーンをよく目の当たりにしました。それはまさに企業で稟議書が回っているようなイメージとオーバーラップしてしまうのです。勝手に蹴ってはずすと責任問題が生じるから、完璧なシチュエーションでないと決断できないという(石橋を叩いて渡る)日本人的な文化が根底にあることを実感するのです。失敗しない人は成功はしないなんて言葉がありますが、行動に出なければ、結果は出るはずがありません。私がサッカーファン全体の声を代弁できるとは思いませんが、おそらくシュートせずに負けるよりシュートしてはずして負けたほうがよほどスッキリするに違いありません。
先日ワールドカップ日本代表の本田選手が、「個」の力無くして勝つことはできないとチームの問題に言及しました。ヤンキースのイチロー選手にしてもチームがいくら勝っても自分が打てなかったら意味がないというスタンスをとります。海外でもまれた選手は日本的な和の文化や控えめな姿勢というのは勝負の世界ではマイナスと映るようです。本田選手の言いにくいことを公の場で語った勇気には敬服しますが、イチロー選手がWBCのとき低迷気味のチームを憂慮して選手全員に食事をご馳走しながらチームの一体感をつくりあげたことにはさらに感動します。
日本的な価値観ではみんなでつくりあげたとか、みんなで勝ち取ったというのは全体に波風立てずうまいまとめ方であるのかもしれません。松井選手においては自分が打つよりチームが勝つことが最優先という話をされているのを聞いたことがあります。彼の主張は日本人の美的感覚にしっくりきて日本人はとても共感できる考え方だと思います。またイチロー選手の自分は最低打てて、さらにチームも勝つという考え方にも共感できます。私としてはもっと露骨にチームがどうあれ自分が打てなきゃクビになるし、そうなれば試合に出れないから意味がないと露骨に本音を言う選手がいてもいいと思います。だってみんな職業としてやっているわけですから。
日本的な美的価値観というのは間違えると自己の責任というのがうやむやになる危険性もあります。組織、チームで行動しているとどうしても社会的手抜きというのはどうしても起こるようです。そういった組織的なマイナス面はあったとしても、やはり結果が出るにはちゃんと仕事をしている人がいるのです。もちろん試合というものも、やはり誰かがシュートしてゴールを決めている、あるいは打って点を入れたから勝てたわけで、プロ野球でも必ず試合後にヒーローインタビューがありますし、もっとも活躍した人を称えるわけです。
組織もチームワークのいいところは業績もあがり、さらに組織が活性化しパワーがあります。逆にダメになる企業は責任の所在がはっきりせず、みんなで頑張ったけど、やっぱりダメだった、だから倒産したというカタチになります。すなわち赤信号みんなで渡れば怖くないという集団心理の中で結局集団でおこなえば大丈夫という大きな錯覚の世界で生きているのです。ただ組織がまだまだ成熟、ある面老朽化といったほうがいいかもしれませんが、みんな真剣に頑張ろうとしているときは純粋に組織の問題があればそれと向き合い、なんとかしようとするのですが、そのうちどうにもならない壁にぶつかり、その状態が常態化すると徐々に学習性無力感から個の力は無責任な集団心理の中に埋没してしまうのです。
今まで不祥事を起こしたり、ダメになった企業を見ていると、ホントの意味でチームワークがとれているところはないように思います。イノベーションを起こし、企業再生が始まる企業はいわゆる「気づく個」がたくさん存在しているところであると思います。またそういう個をつぶさないように生かせる組織であり、組織風土があるところです。それには司令官や監督である経営トップや組織の上層部がそれぞれの個の能力が最大限に引き出される環境づくりが必要であると思います。
個人プレイとチームワークということで何か対立軸であるかのようにいつも議論されますが、実はこれは表裏一体の関係であるということがわかればよりうまくチームを回るようにあると考えられます。すなわち一般的に個人プレイと言われているのはチームの論理というよりもチームにおける自分の役割分担を認識せず、自己中心的な行動をさすのであって、ここでいうのはその逆の個の役割分担を明確に知りながら、柔軟に対処できる個人プレイのことです。それはすなわちチームの中で個の内容が有益に生かされていくことになるわけです。
チームプレイに矛盾しないカタチの個人プレイです。当然それぞれの個が強固になれば、チームの中で一見するとチームワークを乱すような動きに見えるときもあるかもしれません。でもそういった動きも含めてチームが無機質ではなく有機質に自由にカタチを変えていけるような動きができれば最高のチーム、組織になれると思います。個の自立とはチームや組織の中で自分の役割を明確に認識し、さらにそれをこなしたうえでプラスアルファで考えられるレベルに成熟しておくということであると思います。なぜなら自分のことさえできていれば、他人はどうでもいいというセクト主義的な組織、すなわち成果主義の弊害として副次的に出てくる思考をもってしまうからです。
やはりチームも組織も感情をもった人間によって形成されていることを考えると機械部品のような個になってしまってはホントの意味で結果を出すことはできません。そういった面では選手みんなでがんばろうと優勝にむけてチームをひとつにするためにイチロー選手がとった男気のある行動はとても印象に残っています。
最終的に人は他者によって変えられることはまずありません。もちろん洗脳するなら別です。それは本来のその人以外の人格を人為的にかぶせてつくってしまうものですから。でもホントに本人にとってもチームや組織にとっても大きくプラスになる方向に変えていくためには、本人自身の気づきしかありえないと考えます。個の自立、それは個の気づきから始まって成長、成熟がなされていくはずです。よく上司で部下の欠点ばかり見つけてはそれを指摘し、怒鳴ったり、叱ることばかりしている人がいますが、それは部下の自立どころか、部下の意識や思考を委縮させ、自立を阻害してしまう結果につながります。
私の信条として、ずっと心がけてきたのは、他人には10くらいしてあげたら、2ぐらいお願いしたらやってくれるかなということです。このレベルでつねに考えていれば、決して上から頭ごなしに叱ったりすることもないし、受容できる心の幅も広がります。よく叱れない上司は失格みたいな論調の本が出てたりしますが、その類の本に対して私は否定的です。叱ってうまくいくような部下は一時的には瞬間風速的な力を発揮したりしますが、長続きしません。それどころか心の奥底に傷を負っていて精神的には上司との間に間違いなく溝ができてしまうのです。
一昔前の体罰で育てられ、成長し、それを感謝しているという人ほど、今の若者への対処はできなくなっています。俺のときは殴られてなんぼだった、それにくらべ今の若者ときたら軟弱で…。時代が変わり、世代も組織や社会のあり方も大きく変わってきている中で旧態依然たる思考では対処できるはずがありません。時代の流れに左右されず支持される考え方ももちろんたくさんありますが、時代の流れとともに捨て去っていい考え方やそういった本もたくさんあることと思います。
チームも組織も人間のからだと同じでそれぞれの細胞や臓器が健康でそれぞれの役割をまっとうしてくれているからこそ、活動できるのです。でもどこかに支障が起きれば、全体が苦しむことになります。個人プレイの集大成こそが全体を形成し、最高のコンディションを維持し続けることができます。個を抑圧し、生きた人間でなく、ロボット化することで最終的には変化に対応できない組織になります。逆に個の能力が最大限に引き出されそういった個が融合して形成された組織こそがもっとも効率的な組織であると考えられます。
先日ワールドカップ日本代表の本田選手が、「個」の力無くして勝つことはできないとチームの問題に言及しました。ヤンキースのイチロー選手にしてもチームがいくら勝っても自分が打てなかったら意味がないというスタンスをとります。海外でもまれた選手は日本的な和の文化や控えめな姿勢というのは勝負の世界ではマイナスと映るようです。本田選手の言いにくいことを公の場で語った勇気には敬服しますが、イチロー選手がWBCのとき低迷気味のチームを憂慮して選手全員に食事をご馳走しながらチームの一体感をつくりあげたことにはさらに感動します。
日本的な価値観ではみんなでつくりあげたとか、みんなで勝ち取ったというのは全体に波風立てずうまいまとめ方であるのかもしれません。松井選手においては自分が打つよりチームが勝つことが最優先という話をされているのを聞いたことがあります。彼の主張は日本人の美的感覚にしっくりきて日本人はとても共感できる考え方だと思います。またイチロー選手の自分は最低打てて、さらにチームも勝つという考え方にも共感できます。私としてはもっと露骨にチームがどうあれ自分が打てなきゃクビになるし、そうなれば試合に出れないから意味がないと露骨に本音を言う選手がいてもいいと思います。だってみんな職業としてやっているわけですから。
日本的な美的価値観というのは間違えると自己の責任というのがうやむやになる危険性もあります。組織、チームで行動しているとどうしても社会的手抜きというのはどうしても起こるようです。そういった組織的なマイナス面はあったとしても、やはり結果が出るにはちゃんと仕事をしている人がいるのです。もちろん試合というものも、やはり誰かがシュートしてゴールを決めている、あるいは打って点を入れたから勝てたわけで、プロ野球でも必ず試合後にヒーローインタビューがありますし、もっとも活躍した人を称えるわけです。
組織もチームワークのいいところは業績もあがり、さらに組織が活性化しパワーがあります。逆にダメになる企業は責任の所在がはっきりせず、みんなで頑張ったけど、やっぱりダメだった、だから倒産したというカタチになります。すなわち赤信号みんなで渡れば怖くないという集団心理の中で結局集団でおこなえば大丈夫という大きな錯覚の世界で生きているのです。ただ組織がまだまだ成熟、ある面老朽化といったほうがいいかもしれませんが、みんな真剣に頑張ろうとしているときは純粋に組織の問題があればそれと向き合い、なんとかしようとするのですが、そのうちどうにもならない壁にぶつかり、その状態が常態化すると徐々に学習性無力感から個の力は無責任な集団心理の中に埋没してしまうのです。
今まで不祥事を起こしたり、ダメになった企業を見ていると、ホントの意味でチームワークがとれているところはないように思います。イノベーションを起こし、企業再生が始まる企業はいわゆる「気づく個」がたくさん存在しているところであると思います。またそういう個をつぶさないように生かせる組織であり、組織風土があるところです。それには司令官や監督である経営トップや組織の上層部がそれぞれの個の能力が最大限に引き出される環境づくりが必要であると思います。
個人プレイとチームワークということで何か対立軸であるかのようにいつも議論されますが、実はこれは表裏一体の関係であるということがわかればよりうまくチームを回るようにあると考えられます。すなわち一般的に個人プレイと言われているのはチームの論理というよりもチームにおける自分の役割分担を認識せず、自己中心的な行動をさすのであって、ここでいうのはその逆の個の役割分担を明確に知りながら、柔軟に対処できる個人プレイのことです。それはすなわちチームの中で個の内容が有益に生かされていくことになるわけです。
チームプレイに矛盾しないカタチの個人プレイです。当然それぞれの個が強固になれば、チームの中で一見するとチームワークを乱すような動きに見えるときもあるかもしれません。でもそういった動きも含めてチームが無機質ではなく有機質に自由にカタチを変えていけるような動きができれば最高のチーム、組織になれると思います。個の自立とはチームや組織の中で自分の役割を明確に認識し、さらにそれをこなしたうえでプラスアルファで考えられるレベルに成熟しておくということであると思います。なぜなら自分のことさえできていれば、他人はどうでもいいというセクト主義的な組織、すなわち成果主義の弊害として副次的に出てくる思考をもってしまうからです。
やはりチームも組織も感情をもった人間によって形成されていることを考えると機械部品のような個になってしまってはホントの意味で結果を出すことはできません。そういった面では選手みんなでがんばろうと優勝にむけてチームをひとつにするためにイチロー選手がとった男気のある行動はとても印象に残っています。
最終的に人は他者によって変えられることはまずありません。もちろん洗脳するなら別です。それは本来のその人以外の人格を人為的にかぶせてつくってしまうものですから。でもホントに本人にとってもチームや組織にとっても大きくプラスになる方向に変えていくためには、本人自身の気づきしかありえないと考えます。個の自立、それは個の気づきから始まって成長、成熟がなされていくはずです。よく上司で部下の欠点ばかり見つけてはそれを指摘し、怒鳴ったり、叱ることばかりしている人がいますが、それは部下の自立どころか、部下の意識や思考を委縮させ、自立を阻害してしまう結果につながります。
私の信条として、ずっと心がけてきたのは、他人には10くらいしてあげたら、2ぐらいお願いしたらやってくれるかなということです。このレベルでつねに考えていれば、決して上から頭ごなしに叱ったりすることもないし、受容できる心の幅も広がります。よく叱れない上司は失格みたいな論調の本が出てたりしますが、その類の本に対して私は否定的です。叱ってうまくいくような部下は一時的には瞬間風速的な力を発揮したりしますが、長続きしません。それどころか心の奥底に傷を負っていて精神的には上司との間に間違いなく溝ができてしまうのです。
一昔前の体罰で育てられ、成長し、それを感謝しているという人ほど、今の若者への対処はできなくなっています。俺のときは殴られてなんぼだった、それにくらべ今の若者ときたら軟弱で…。時代が変わり、世代も組織や社会のあり方も大きく変わってきている中で旧態依然たる思考では対処できるはずがありません。時代の流れに左右されず支持される考え方ももちろんたくさんありますが、時代の流れとともに捨て去っていい考え方やそういった本もたくさんあることと思います。
チームも組織も人間のからだと同じでそれぞれの細胞や臓器が健康でそれぞれの役割をまっとうしてくれているからこそ、活動できるのです。でもどこかに支障が起きれば、全体が苦しむことになります。個人プレイの集大成こそが全体を形成し、最高のコンディションを維持し続けることができます。個を抑圧し、生きた人間でなく、ロボット化することで最終的には変化に対応できない組織になります。逆に個の能力が最大限に引き出されそういった個が融合して形成された組織こそがもっとも効率的な組織であると考えられます。
2013年6月1日土曜日
人間って死んだらどうなるの?①
今日はいつもと趣向を変えて漫談テイストな話をしてみたいと思います。いつもPSIブログを愛読してくださっている方々はちょっとビックリされるかもしれません。えっ、いままでさんざん会社経営だの組織だの、教育だの、はたまた真面目に人生観を論じてきたのに、ここに来てオカルトですかなんて愕然とされるかもしれません。あるいはカルトチックなことをやたら批判してきたのにそんな不確定なことを言ってしまったら宗教、あるいは内容によってはカルトじゃないですかと言われるかもしれません。もちろん私は不確定なことは絶対に断言しません。もちろん宗教的な理由から信じておられる方を批判するつもりもありません。
真面目でかつ、ちょっとうんちくのあるような話をしたいと思うのですが、いずれにせよ人間として生まれたからには絶対避けて通れないのが「死」の問題です。そもそもこの死の問題に関しては誰しも普段の中であまり話題にしません。でもみんなが一度はおそらく考えたり、悩んだりしたことはあると思います。私はそもそも小学校低学年のときにおばあちゃんに可愛がられて育ったことも原因かもしれませんが、とても死に対していろいろ悩んだことがあります。2歳のとき、曽祖父が亡くなりそのことも覚えているのですが、やがて可愛がってくれる祖母との別れもいつも考えながら過ごしていました。
もともと死んだあとは無になる、死後の世界などというものは、ハナから信じなかった私は夕暮れ時になるとよくうつ状態に陥り、ひとり夕日を見ながら涙を流していました。なぜかと言うと死によって自分という存在がなくなるというどうにもやりきれない思いと恐怖心からです。でも死んだらどうなるのとは親には一切相談できませんでした。なぜなら答えが出ない質問であることを知っていたからです。祖母はそんな私をみてどうして泣いているのかと声をかけるのですが、絶対にその胸のうちを明かすことはできませんでした。
今回、死をテーマに選んだのは、私の中にいずれ触れなければならないテーマのひとつという考えがいつもあったからです。そしてそのテーマ自体があまりに重いのです。ですからそれは精神的にホントに落ち着いているときでなければ、なかなか書けないものです。でも今日たまたまそういう心境にいたって今キーボードを叩いているわけです。
年間日本では3万人の方々が自殺という人生の終わり方を選択しています。その理由を簡単に経済問題だとか、病気、人間関係だとかいろいろ言われはしますが、ホントの理由は本人しかわかりません。おそらく死をもってしか解決できないという状況に追い込まれたということは言えるのではないかと思います。日本は物質的にはかなり豊かになって、どんなに悲惨な状況になっても生活保護もありますし、なんとか生きていける国です。でも豊かであるがゆえに、物質的な問題ではない精神的な悩みが多くなっています。まさにマズローの欲求5階層説でも指摘されるように、すでに日本人はより内的な、本質的な問題で悩む時代になっています。
普段、死の問題を気にしながら生活している人は熱心に宗教をしている人くらいしかいないでしょう。ところで日本の宗教人口はゆうに2億人を超えているようです。日本の人口の2倍になるというわけです。それは考えれば納得できます。日本人は育った近くの神社の氏子として登録されていて、なお仏教の檀家にもなっていたりするわけです。そして学生時代や成人して、へんな宗教(失礼)に引っかかればひとりが3つも宗教法人に登録されていたりするわけです。宗教もころころ変わったりすれば、もっと多いかもしれません。いちいち脱会でもしない限り除名されることはなかったりしますから。私も学生時代や若いころに誘われて入会してしまった宗教を入れればもしかしたら4~5つくらい宗教をもっていることになっているかもしれません。もちろん今は特定の宗教には属していない状況です。
宗教は実際の信徒数より多い数になっていてあたりまえと考えるべきです。もし信徒数によって固定資産税みたいに税金がかかるようになれば、宗教は実際の信徒数をもっと正確に把握しようとするかもしれません。ただカルトチックな宗教ほど虚勢を張るので実際の信徒数より大きな数の信者が所属しているようになっているはずです。日本には国教というものもありませんから、宗教の数は増えるいっぽうです。でなぜ日本はカルト宗教が増えたりそれに入る人があとを立たないかといえば、やはり国教がないということと普段の生活が宗教意識とほど遠いため、逆に入りやすいのだと思います。ロシアで某カルト教団が大きな基盤をつくったのも共産主義というひとつの思想が崩壊してそのぽっかり空いたところにたまたまその教団の思想が入っていったということを言う人がいます。日本は雑多な宗教がある反面、ホントの意味で宗教をもっている人がいないという状況なのでカルトな思想が入り込みやすいのです。
国教があったり、宗教がベースとなっている国々は、すでに国民全体が共通した死生観というものを共有しています。でも日本人はさまざまです。それはすばらしいことなのですが、宗教がない事によるカルト宗教の餌食になりやすいというリスクも抱えています。だからと言って国教つくれとか言うつもりもないですし、何かここで宗教を立ち上げようというわけでもありません。PSIのコンセプトは不確定なことは断定、言及しないということなので。ただこの問題に関しては絶対避けて通れませんし、そのことを回避しての人生の喜びというのはホントの意味で深みがないと思います。したがっていずれ取り扱わなければならないテーマなのです。
なにか漫談テイストな話にしようと思いつつ、やはり真面目で深刻な話になってしまいますね。とりあえず重いテーマなので今日はこの辺にしておきます。
真面目でかつ、ちょっとうんちくのあるような話をしたいと思うのですが、いずれにせよ人間として生まれたからには絶対避けて通れないのが「死」の問題です。そもそもこの死の問題に関しては誰しも普段の中であまり話題にしません。でもみんなが一度はおそらく考えたり、悩んだりしたことはあると思います。私はそもそも小学校低学年のときにおばあちゃんに可愛がられて育ったことも原因かもしれませんが、とても死に対していろいろ悩んだことがあります。2歳のとき、曽祖父が亡くなりそのことも覚えているのですが、やがて可愛がってくれる祖母との別れもいつも考えながら過ごしていました。
もともと死んだあとは無になる、死後の世界などというものは、ハナから信じなかった私は夕暮れ時になるとよくうつ状態に陥り、ひとり夕日を見ながら涙を流していました。なぜかと言うと死によって自分という存在がなくなるというどうにもやりきれない思いと恐怖心からです。でも死んだらどうなるのとは親には一切相談できませんでした。なぜなら答えが出ない質問であることを知っていたからです。祖母はそんな私をみてどうして泣いているのかと声をかけるのですが、絶対にその胸のうちを明かすことはできませんでした。
今回、死をテーマに選んだのは、私の中にいずれ触れなければならないテーマのひとつという考えがいつもあったからです。そしてそのテーマ自体があまりに重いのです。ですからそれは精神的にホントに落ち着いているときでなければ、なかなか書けないものです。でも今日たまたまそういう心境にいたって今キーボードを叩いているわけです。
年間日本では3万人の方々が自殺という人生の終わり方を選択しています。その理由を簡単に経済問題だとか、病気、人間関係だとかいろいろ言われはしますが、ホントの理由は本人しかわかりません。おそらく死をもってしか解決できないという状況に追い込まれたということは言えるのではないかと思います。日本は物質的にはかなり豊かになって、どんなに悲惨な状況になっても生活保護もありますし、なんとか生きていける国です。でも豊かであるがゆえに、物質的な問題ではない精神的な悩みが多くなっています。まさにマズローの欲求5階層説でも指摘されるように、すでに日本人はより内的な、本質的な問題で悩む時代になっています。
普段、死の問題を気にしながら生活している人は熱心に宗教をしている人くらいしかいないでしょう。ところで日本の宗教人口はゆうに2億人を超えているようです。日本の人口の2倍になるというわけです。それは考えれば納得できます。日本人は育った近くの神社の氏子として登録されていて、なお仏教の檀家にもなっていたりするわけです。そして学生時代や成人して、へんな宗教(失礼)に引っかかればひとりが3つも宗教法人に登録されていたりするわけです。宗教もころころ変わったりすれば、もっと多いかもしれません。いちいち脱会でもしない限り除名されることはなかったりしますから。私も学生時代や若いころに誘われて入会してしまった宗教を入れればもしかしたら4~5つくらい宗教をもっていることになっているかもしれません。もちろん今は特定の宗教には属していない状況です。
宗教は実際の信徒数より多い数になっていてあたりまえと考えるべきです。もし信徒数によって固定資産税みたいに税金がかかるようになれば、宗教は実際の信徒数をもっと正確に把握しようとするかもしれません。ただカルトチックな宗教ほど虚勢を張るので実際の信徒数より大きな数の信者が所属しているようになっているはずです。日本には国教というものもありませんから、宗教の数は増えるいっぽうです。でなぜ日本はカルト宗教が増えたりそれに入る人があとを立たないかといえば、やはり国教がないということと普段の生活が宗教意識とほど遠いため、逆に入りやすいのだと思います。ロシアで某カルト教団が大きな基盤をつくったのも共産主義というひとつの思想が崩壊してそのぽっかり空いたところにたまたまその教団の思想が入っていったということを言う人がいます。日本は雑多な宗教がある反面、ホントの意味で宗教をもっている人がいないという状況なのでカルトな思想が入り込みやすいのです。
国教があったり、宗教がベースとなっている国々は、すでに国民全体が共通した死生観というものを共有しています。でも日本人はさまざまです。それはすばらしいことなのですが、宗教がない事によるカルト宗教の餌食になりやすいというリスクも抱えています。だからと言って国教つくれとか言うつもりもないですし、何かここで宗教を立ち上げようというわけでもありません。PSIのコンセプトは不確定なことは断定、言及しないということなので。ただこの問題に関しては絶対避けて通れませんし、そのことを回避しての人生の喜びというのはホントの意味で深みがないと思います。したがっていずれ取り扱わなければならないテーマなのです。
なにか漫談テイストな話にしようと思いつつ、やはり真面目で深刻な話になってしまいますね。とりあえず重いテーマなので今日はこの辺にしておきます。
2013年5月30日木曜日
成長する人は内省できる人、内省できる人はつねに学習する人②
世の中に完成というものは存在しません。ひとつのプロジェクトやひとつの目標は達成されてもそれはさらに次の段階に移行するためのステップに過ぎないのです。言葉を変えれば、完成は一旦停止であり、小休止であるとも言えます。完成するということをネタにつねに人を動かすということは宗教でも企業でもありますが、PSI的観点から言うと完成は不可能であるということです。ここであえて完成ということを何とか認めろというのであれば、このように言い換えてもいいかもしれません。完成の領域(完成とは言い切れないので)に至るということは世の中のすべてにおいて完成という概念は存在しないということを実感的に認識できたということであると言ってもいいかもしれません。
某カルト教団では完成することを目標に毎日「完成することを誓います」と念仏のように唱えさせられています。このことは何を表しているのでしょうか。それは生きているうちに完成できないということを表しているのです。とてもパラドクシカルな感じですが、実際そうなのです。毎日それを唱えることによって自分は完成していないというすり込みがなされていきます。また死を迎える前日まで「完成することを誓う」のですからいまだ完成していないということを認めてこの世を去るということです。したがって通常の宗教とカルト教団の違いはそこにあります。
完成や成功を標榜する、すなわちそれを餌にしている組織はとてもカルトチックです。なぜなら非現実的要素を取り入れているからであり、完成、成功という目標に向けてそれ以外の思考が入らないように完全にファンタジーの世界をつくりあげているからです。これは組織のトップや上層部には都合がいいのです。彼らの実現したい目標だけにすべてを投入してくれるからです。組織の成員がそういう思考行動にだけ走るように組織の上層部は教育します。彼らにとっては教育ですが、外部の人びとからみると洗脳以外のなにものでもありません。彼らのもつパラダイムは完成を標榜しながら完成させないパラダイムです。なぜなら完成されると都合が悪いのです。その組織にいる必要がなくなるからです。私、完成しました、もうこの組織は私に必要ありませんと言われると困るのです。
基本的に普通の宗教は完成できるとは言いません。むしろ罪人であったり業が深いということを認識し、だからこそ善を行おうと努力するというレベルに人はおかれています。もちろんその指導者も同じ罪人であり、業があるのです。でもカルト教団には罪人ではない完成した人間がいたりします。だいたい教祖がそういう立場に祭り上げられます。それをまた目標とさせられるのですが、絶対に同じ立場に立つことは不可能です。むしろ罪や業が深いとされ、そのために多額のお金や労働、また反社会的な活動を強要されたり、それをあおられます。カルト教団は完成というあまりに非現実的で甘いアメを用意してそれをちらつかせながら、実際にはあまりに法外で実際には無理な要求を平気でしてきます。それでも追い込まれてやってしまうほどの思想のすり込みがあるのです。
カルト教団だけではありません。カルトチックな企業や組織もエゴイスティックな権力者の目標達成のために大いに利用されるのです。それを脱却する、あるいは改善していくためには組織の成員が内省し、具体的に行動する人が増えていかなくてはなりません。そして内省し成長する人は必ず学習意欲があり、外部や新しい情報に耳を傾ける器のある人です。硬直した企業や組織が生まれ変われるかどうかはそこに所属している人びとを観察すればよくわかります。仕事自体は決まりきったルーティンを卒なくこなすいわば職人が必要ですが、その仕事自体を見直したり考えることができるメタ認知能力のある人材が必要なのです。
企業もさまざまな組織も職人肌の人は当然必要ですが、そういう人ばかりだと、時代の流れや社会の情勢を読むことができず、いつの間にか限界を迎えてしまうということになります。あらゆる組織は変容の必要性に直面しているのです。昨今の話ですとレスリングがオリンピック競技から外されるのではといった問題があります。やはり組織は組織内だけで仕事ができる人は組織を守れないのです。組織をつねに外部視点で見たりものごとの本質を見極め変えていく力が必要なのです。そういった人は内省ができ、つねに学習している人にほかなりません。
人間はある程度、不自由なく安定した上がりの状態になると学習の必要性は感じませんし、成長はなくなります。それはピーターの法則でもわかるように、人はやはり無能レベルまで成長するのです。そういったことを回避するには、自分はまだまだだといつも成長シロを残した状態に置いておくのがもっとも最善な方法です。組織のトップになってそれで満足している人は成長シロを失って土ツボにはまってしまっています。自信を持つことは重要ですが、傲慢になった人にはもう成長する余地は残されていません。いつも自分を内省し成長しようという意識自体が、学習意欲を高め、学習することでさらに知恵や情報を得てさらに内省する機会を与えてくれます。学習→内省→成長→意欲→学習→内省→……というサイクルにつねに自分がおかれているならば、成長がありますし、知的老いとは関係のない人生が送れそうです。
某カルト教団では完成することを目標に毎日「完成することを誓います」と念仏のように唱えさせられています。このことは何を表しているのでしょうか。それは生きているうちに完成できないということを表しているのです。とてもパラドクシカルな感じですが、実際そうなのです。毎日それを唱えることによって自分は完成していないというすり込みがなされていきます。また死を迎える前日まで「完成することを誓う」のですからいまだ完成していないということを認めてこの世を去るということです。したがって通常の宗教とカルト教団の違いはそこにあります。
完成や成功を標榜する、すなわちそれを餌にしている組織はとてもカルトチックです。なぜなら非現実的要素を取り入れているからであり、完成、成功という目標に向けてそれ以外の思考が入らないように完全にファンタジーの世界をつくりあげているからです。これは組織のトップや上層部には都合がいいのです。彼らの実現したい目標だけにすべてを投入してくれるからです。組織の成員がそういう思考行動にだけ走るように組織の上層部は教育します。彼らにとっては教育ですが、外部の人びとからみると洗脳以外のなにものでもありません。彼らのもつパラダイムは完成を標榜しながら完成させないパラダイムです。なぜなら完成されると都合が悪いのです。その組織にいる必要がなくなるからです。私、完成しました、もうこの組織は私に必要ありませんと言われると困るのです。
基本的に普通の宗教は完成できるとは言いません。むしろ罪人であったり業が深いということを認識し、だからこそ善を行おうと努力するというレベルに人はおかれています。もちろんその指導者も同じ罪人であり、業があるのです。でもカルト教団には罪人ではない完成した人間がいたりします。だいたい教祖がそういう立場に祭り上げられます。それをまた目標とさせられるのですが、絶対に同じ立場に立つことは不可能です。むしろ罪や業が深いとされ、そのために多額のお金や労働、また反社会的な活動を強要されたり、それをあおられます。カルト教団は完成というあまりに非現実的で甘いアメを用意してそれをちらつかせながら、実際にはあまりに法外で実際には無理な要求を平気でしてきます。それでも追い込まれてやってしまうほどの思想のすり込みがあるのです。
カルト教団だけではありません。カルトチックな企業や組織もエゴイスティックな権力者の目標達成のために大いに利用されるのです。それを脱却する、あるいは改善していくためには組織の成員が内省し、具体的に行動する人が増えていかなくてはなりません。そして内省し成長する人は必ず学習意欲があり、外部や新しい情報に耳を傾ける器のある人です。硬直した企業や組織が生まれ変われるかどうかはそこに所属している人びとを観察すればよくわかります。仕事自体は決まりきったルーティンを卒なくこなすいわば職人が必要ですが、その仕事自体を見直したり考えることができるメタ認知能力のある人材が必要なのです。
企業もさまざまな組織も職人肌の人は当然必要ですが、そういう人ばかりだと、時代の流れや社会の情勢を読むことができず、いつの間にか限界を迎えてしまうということになります。あらゆる組織は変容の必要性に直面しているのです。昨今の話ですとレスリングがオリンピック競技から外されるのではといった問題があります。やはり組織は組織内だけで仕事ができる人は組織を守れないのです。組織をつねに外部視点で見たりものごとの本質を見極め変えていく力が必要なのです。そういった人は内省ができ、つねに学習している人にほかなりません。
人間はある程度、不自由なく安定した上がりの状態になると学習の必要性は感じませんし、成長はなくなります。それはピーターの法則でもわかるように、人はやはり無能レベルまで成長するのです。そういったことを回避するには、自分はまだまだだといつも成長シロを残した状態に置いておくのがもっとも最善な方法です。組織のトップになってそれで満足している人は成長シロを失って土ツボにはまってしまっています。自信を持つことは重要ですが、傲慢になった人にはもう成長する余地は残されていません。いつも自分を内省し成長しようという意識自体が、学習意欲を高め、学習することでさらに知恵や情報を得てさらに内省する機会を与えてくれます。学習→内省→成長→意欲→学習→内省→……というサイクルにつねに自分がおかれているならば、成長がありますし、知的老いとは関係のない人生が送れそうです。
成長する人は内省できる人、内省できる人はつねに学習する人①
発展し成長し続ける企業はつねに変化に対応できる組織です。ダーウィンが強いものが残るのでない、変化できるものが残るのであるといったことはまさに人や企業にもあてはまると思います。
世界は間違いなく、最善を求めてその方向に動いているとは考えられるのですが、実際、その反面全く改善されず、いまだに最悪の事態を回避できない状態も続いています。たとえば、これだけ文明社会になって、多くの国々がどんどん先進国入りして豊かさを手にしようとしている一方で貧困はなかなか解消されず、いまだに世界のあちらこちらで紛争や戦争が続いています。
より先進国に成長していくということはよりモラルが高くなるということであり、自国だけのエゴイスティックな思考から脱却し、世界規模、地球規模でものごとを考えられるようになることであると思います。でも先進国であってもやはり戦争を回避することができないという実情があります。それは正義という名目もあるでしょうが、軍需産業等、戦争によって恩恵を受ける企業や組織が存在していることもあります。アメリカでオバマ大統領がなかなか銃規制を実現できないのも、ことの本質を解消できないからという問題があります。
銃規制に反対する人びとは、自分の生活は自分で守るという主張をします。これは決して間違いではないのですが、暴力に対して暴力で報復すると終わりなき戦いとなるのです。人間の情の中で怨みの情だけが‘時間薬’が利かないのです。時間とともに大きく膨らむのが怨みの情なのです。それは日本を取り巻く環境を見てもすぐに理解できます。実は歴史的に体験した世代以上に戦後の教育を受けた世代のほうが怨みが強かったりします。自分たちが直接体験してないのにです。理不尽な話を聞いて当事者以上に熱くなってしまうということもよくありがちなケースです。
自分を守るために武器を持つということは相手の暴力に対して暴力で対応することなので、結果的に互いの怨みが深まるだけです。ただ現実問題として、目の前に起こる犯罪に対してそのままにしておくことは社会不安を助長されるだけなのでとうぜん警察といった公的機関が必要なのです。すなわち、当事者でない第三者が介入することで怨みをさらに拡大させることを防ぐこともできます。ホントに銃が必要だと思っている人はどれだけいるでしょうか。実は銃規制に反対する人びとは、本音の部分では、自分たちが銃を生産することで仕事ができ、生活ができているという現実があるということです。そして銃の市場のニーズをうったえることで自分たちの仕事が確保されるのです。
まだまだ無法な人びとや、無法な国家の存在があるため、銃や兵器等の武器の需要はなくなることはありませんが、遠い未来に健全な世界を築くならそういった必要悪はいずれ地球上から無くしていくことが必要です。あとは展示する博物館に残すぐらいです。ひとりの人間が変わることさえ困難であるのに、組織が変わるということは大変な忍耐とパワーが必要になってきます。考え方の転換から企業であるなら業態の転換も含めてパラダイムシフトが必要なのです。
日本ではJTが日本たばこ産業という不健康な商材を売ってきて、ドリンクや食品に商材を拡げて既存の業界に参入しながらも、財力と認知度を武器に必死に頑張っています。社会の流れは健康志向になってきており、いずれ淘汰される市場に固執し続けて消滅する企業になってはいけないという切実な心情を感じます。それは単に利潤追求という単純な理由ではなく、その会社に従事している社員たちの生活があるということも実感します。
銃の会社も警察という公的機関だけへの供給に制限し、その一般市場を無くした部分の収益の補てんをより近接領域、あるいはまったく別の事業創造が必要であるのです。JTはたばこから食品への事業転換、シフトを必死に行っているのです。その部分を企業だけでなくオバマ大統領はじめシンクタンクが取り組み、国家全体のプロジェクトとしてその企業に従事している人びとの生活を守るアイディアを出さなければならないのです。相変わらず、本音の部分に踏み込むことができない状況になっています。選挙の件もあるし、とにかく変革というのはさまざまな制度に埋め込まれていてなかなか前に進まないという実情があります。
軍需産業がなくなるというのは私たちが生きている間に実現されることはありませんし、地球が滅ぶまでに実現できるかどうかもわかりません。その実現は宗教問題の解決やモラルが高められ利他的な思想が世界中にあふれるようにならなければ無理だと思います。権力を持つとどうしても自己中心的な思考に陥り、独裁的になっていく、また独裁者に仕立てていく組織の成員の問題なども研究されつくさなければならないし、またそれが現実に実行されるまでいかなければならないと考えます。
話がとても大きなところから始まりましたが、実際、歴史の教訓を生かすには内省が必要なのですが、その内省ができるかどうかは新しい情報をつねに取り入れる柔軟性や学習といったことが不可欠なのです。組織は個人の集まりです。個人が考えに考え抜いてより最善な方法を選択していくときに組織は成長し、発展するのです。そのためには学習し、内省し、さらに成長発展しようとする個人の声を全体に反映させることができるように制度に埋没しない取り組みや組織のあり方を考えておかなければなりません。
世界は間違いなく、最善を求めてその方向に動いているとは考えられるのですが、実際、その反面全く改善されず、いまだに最悪の事態を回避できない状態も続いています。たとえば、これだけ文明社会になって、多くの国々がどんどん先進国入りして豊かさを手にしようとしている一方で貧困はなかなか解消されず、いまだに世界のあちらこちらで紛争や戦争が続いています。
より先進国に成長していくということはよりモラルが高くなるということであり、自国だけのエゴイスティックな思考から脱却し、世界規模、地球規模でものごとを考えられるようになることであると思います。でも先進国であってもやはり戦争を回避することができないという実情があります。それは正義という名目もあるでしょうが、軍需産業等、戦争によって恩恵を受ける企業や組織が存在していることもあります。アメリカでオバマ大統領がなかなか銃規制を実現できないのも、ことの本質を解消できないからという問題があります。
銃規制に反対する人びとは、自分の生活は自分で守るという主張をします。これは決して間違いではないのですが、暴力に対して暴力で報復すると終わりなき戦いとなるのです。人間の情の中で怨みの情だけが‘時間薬’が利かないのです。時間とともに大きく膨らむのが怨みの情なのです。それは日本を取り巻く環境を見てもすぐに理解できます。実は歴史的に体験した世代以上に戦後の教育を受けた世代のほうが怨みが強かったりします。自分たちが直接体験してないのにです。理不尽な話を聞いて当事者以上に熱くなってしまうということもよくありがちなケースです。
自分を守るために武器を持つということは相手の暴力に対して暴力で対応することなので、結果的に互いの怨みが深まるだけです。ただ現実問題として、目の前に起こる犯罪に対してそのままにしておくことは社会不安を助長されるだけなのでとうぜん警察といった公的機関が必要なのです。すなわち、当事者でない第三者が介入することで怨みをさらに拡大させることを防ぐこともできます。ホントに銃が必要だと思っている人はどれだけいるでしょうか。実は銃規制に反対する人びとは、本音の部分では、自分たちが銃を生産することで仕事ができ、生活ができているという現実があるということです。そして銃の市場のニーズをうったえることで自分たちの仕事が確保されるのです。
まだまだ無法な人びとや、無法な国家の存在があるため、銃や兵器等の武器の需要はなくなることはありませんが、遠い未来に健全な世界を築くならそういった必要悪はいずれ地球上から無くしていくことが必要です。あとは展示する博物館に残すぐらいです。ひとりの人間が変わることさえ困難であるのに、組織が変わるということは大変な忍耐とパワーが必要になってきます。考え方の転換から企業であるなら業態の転換も含めてパラダイムシフトが必要なのです。
日本ではJTが日本たばこ産業という不健康な商材を売ってきて、ドリンクや食品に商材を拡げて既存の業界に参入しながらも、財力と認知度を武器に必死に頑張っています。社会の流れは健康志向になってきており、いずれ淘汰される市場に固執し続けて消滅する企業になってはいけないという切実な心情を感じます。それは単に利潤追求という単純な理由ではなく、その会社に従事している社員たちの生活があるということも実感します。
銃の会社も警察という公的機関だけへの供給に制限し、その一般市場を無くした部分の収益の補てんをより近接領域、あるいはまったく別の事業創造が必要であるのです。JTはたばこから食品への事業転換、シフトを必死に行っているのです。その部分を企業だけでなくオバマ大統領はじめシンクタンクが取り組み、国家全体のプロジェクトとしてその企業に従事している人びとの生活を守るアイディアを出さなければならないのです。相変わらず、本音の部分に踏み込むことができない状況になっています。選挙の件もあるし、とにかく変革というのはさまざまな制度に埋め込まれていてなかなか前に進まないという実情があります。
軍需産業がなくなるというのは私たちが生きている間に実現されることはありませんし、地球が滅ぶまでに実現できるかどうかもわかりません。その実現は宗教問題の解決やモラルが高められ利他的な思想が世界中にあふれるようにならなければ無理だと思います。権力を持つとどうしても自己中心的な思考に陥り、独裁的になっていく、また独裁者に仕立てていく組織の成員の問題なども研究されつくさなければならないし、またそれが現実に実行されるまでいかなければならないと考えます。
話がとても大きなところから始まりましたが、実際、歴史の教訓を生かすには内省が必要なのですが、その内省ができるかどうかは新しい情報をつねに取り入れる柔軟性や学習といったことが不可欠なのです。組織は個人の集まりです。個人が考えに考え抜いてより最善な方法を選択していくときに組織は成長し、発展するのです。そのためには学習し、内省し、さらに成長発展しようとする個人の声を全体に反映させることができるように制度に埋没しない取り組みや組織のあり方を考えておかなければなりません。
2013年5月28日火曜日
ものごとの本質と向き合う力②
会社での会議はいつの間にかものごとの本質からズレて結局建前論が先行してしまうことがよくあります。起業間もないベンチャー企業などはまだしも、もう何年も安定して経営を行ってきた企業ほどそういう状況になっているのではないかと思います。なぜなら現状を変えたり、イノベーションを起こす必然性をあまり感じないからです。そういった会社の社員は会議はいつものルーティンの一部に他ならず、そこで新しいものを生み出そうとか、何か変えていかなくてはならないといった雰囲気、意識はなく、そういった気概も感じられません。
もちろん上層部も社員たちもそれを善しとして、全くそういった状況を問題視することなく、ただ徒に時間を消化することだけを考えているという状況になっていたりします。そういう中でたまに血の気の多い社員や中途採用のまだ組織の色に染まっていない社員なんかがいたりすると、組織的な問題や業務や商品開発などさまざまなことがらに本音をぶつけ、一石を投じるなんてこともあるのですが、そういった行動には会議参加者の大半は火消しに回るということになります。
実は彼らが思っていることはみんな思っていたことで、すでにそれができないほど組織の制度にがんじがらめに埋め込まれた状態にあるので、そういった提案や意見はできないこと、無駄なことというカテゴリーにふるい分けられ、議題にあがることはないのです。まさに非効率的で理不尽であったりすることが公然と組織の成員の暗黙の了解の下にまかり通っているという状況があったりするのです。
すでに組織の上層部のみならず成員全体が、本音のところではその部分の改革が必要だと思いながらもそれはできないことといういわば‘思い込みサイクル’に陥っているのです。実際は力を合わせてやればできることであったりするのですが、できないという思い込みです。個人においては自分自身が思い込みサイクルにはまっていると思えば、自己啓発セミナーに出たり、本やさまざまなメディアから情報を得たりして、自ら努力することでそこから脱却できるかもしれません。でも組織となれば簡単ではありません。
組織の中でたった一人で改革をやろうと思ってもたいへん困難です。経営トップでさえ困難であったりします。組織の一社員であれば、間違いなくもっと難しいでしょう。それでも何とかしようと思えば、まず経営トップや執行部を動かすだけのパワーを持たなければならなくなります。地位がなければ、まず意識や行動をともにする人的基盤を築いて上層部に訴えるという作業が必要になってきます。ところがその作業のプロセスの段階でその流れはつぶされてしまうという可能性も大きいのです。下手をすると組織の方向性とは違うとレッテルを貼られ、その組織の中にあって組織のために行動しているにも関わらず重要なポストから排除されてしまう危険性だってあります。そして信頼していた人びとさえ組織の論理を代弁しているとされる上層部のや会社側の論理に引き込まれ、脱落していくという人が出てきます。
こういったことは一つの大きな組織の秩序や統制を維持するためには仕方のない一面もありますが、結果的に個を重要視しないことがもたらす全体の滅びでもあるのです。部分的最適化が全体を滅ぼす逆パターンです。経営トップや組織の上層部はそういったキラリと光る原石を見極め、一旦耳を貸すという勇気も必要です。もちろん振り回されて会社を破たんさせるような方向に行くことは避けなければなりませんから、当然慎重になる気持ちはよく理解できます。でもつねにそういった組織内の核心部分をついた本音の声を封じ込めることばかりやっていると何も変わらないし、企業の成長はストップした状況が続くのです。
個人も組織もものごとの本質に向き合う力がとても弱いのです。これは日本的な経営の弊害部分でもあると思います。戦後の経済の高度成長の時代にはヒエラルキー組織で統率してがんがん生産効率を高めていくことが企業の収益につながっていたのですが、モノがあふれていて知的労働のほうが重要とされる現代では旧態依然たる組織風土や思考にとらわれていては全く成長できないのだと思います。そういったことに気づいて企業のトップや上層部が行動を起こしてもやはり過去の既成概念が邪魔をしてやはり思い切った改革、転換ということはなかなか困難です。
世界的に成長しつづける企業の多くはそういった既成概念を崩して通常の理解を越えた取り組みをしています。世界的企業のグーグルなどは社員が散歩しながら会議をしたり、いいアイディアを捻出できるようにさまざまな工夫をしています。そして社員の健康まで自己管理できるようにトレーニングジムや24時間無料の社員食堂もあったりします。毎日決まった時間に出社して決まった時間でなく遅くまでサービス残業を課すような会社ではまったく理解不能な取り組みです。
労働価値説的な思考から脱却できないレベルはもう言うに及びませんが、今までの日本の会社という枠組みを崩すくらいの発想ができなければものごとの本質に向き合って会社を大きく変えていくなどという行動はできないのです。名を捨てて実をとるということこそ今の日本的経営を行ってきて行き詰っている企業には必要なのです。社員の行動をがんじがらめに縛る会社ほど非効率的で逆に自由な思考や行動を受け入れ、ものごとの本質が見えてくるような組織風土を築いたほうがよっぽど効率的であると考えます。そして減点主義でなく評価主義に切り替えつつ仕事に誇りをもって取り組める風土にすることが企業や組織のトップや上層部がもっとも考えていかなければならないことだと思います。
もちろん上層部も社員たちもそれを善しとして、全くそういった状況を問題視することなく、ただ徒に時間を消化することだけを考えているという状況になっていたりします。そういう中でたまに血の気の多い社員や中途採用のまだ組織の色に染まっていない社員なんかがいたりすると、組織的な問題や業務や商品開発などさまざまなことがらに本音をぶつけ、一石を投じるなんてこともあるのですが、そういった行動には会議参加者の大半は火消しに回るということになります。
実は彼らが思っていることはみんな思っていたことで、すでにそれができないほど組織の制度にがんじがらめに埋め込まれた状態にあるので、そういった提案や意見はできないこと、無駄なことというカテゴリーにふるい分けられ、議題にあがることはないのです。まさに非効率的で理不尽であったりすることが公然と組織の成員の暗黙の了解の下にまかり通っているという状況があったりするのです。
すでに組織の上層部のみならず成員全体が、本音のところではその部分の改革が必要だと思いながらもそれはできないことといういわば‘思い込みサイクル’に陥っているのです。実際は力を合わせてやればできることであったりするのですが、できないという思い込みです。個人においては自分自身が思い込みサイクルにはまっていると思えば、自己啓発セミナーに出たり、本やさまざまなメディアから情報を得たりして、自ら努力することでそこから脱却できるかもしれません。でも組織となれば簡単ではありません。
組織の中でたった一人で改革をやろうと思ってもたいへん困難です。経営トップでさえ困難であったりします。組織の一社員であれば、間違いなくもっと難しいでしょう。それでも何とかしようと思えば、まず経営トップや執行部を動かすだけのパワーを持たなければならなくなります。地位がなければ、まず意識や行動をともにする人的基盤を築いて上層部に訴えるという作業が必要になってきます。ところがその作業のプロセスの段階でその流れはつぶされてしまうという可能性も大きいのです。下手をすると組織の方向性とは違うとレッテルを貼られ、その組織の中にあって組織のために行動しているにも関わらず重要なポストから排除されてしまう危険性だってあります。そして信頼していた人びとさえ組織の論理を代弁しているとされる上層部のや会社側の論理に引き込まれ、脱落していくという人が出てきます。
こういったことは一つの大きな組織の秩序や統制を維持するためには仕方のない一面もありますが、結果的に個を重要視しないことがもたらす全体の滅びでもあるのです。部分的最適化が全体を滅ぼす逆パターンです。経営トップや組織の上層部はそういったキラリと光る原石を見極め、一旦耳を貸すという勇気も必要です。もちろん振り回されて会社を破たんさせるような方向に行くことは避けなければなりませんから、当然慎重になる気持ちはよく理解できます。でもつねにそういった組織内の核心部分をついた本音の声を封じ込めることばかりやっていると何も変わらないし、企業の成長はストップした状況が続くのです。
個人も組織もものごとの本質に向き合う力がとても弱いのです。これは日本的な経営の弊害部分でもあると思います。戦後の経済の高度成長の時代にはヒエラルキー組織で統率してがんがん生産効率を高めていくことが企業の収益につながっていたのですが、モノがあふれていて知的労働のほうが重要とされる現代では旧態依然たる組織風土や思考にとらわれていては全く成長できないのだと思います。そういったことに気づいて企業のトップや上層部が行動を起こしてもやはり過去の既成概念が邪魔をしてやはり思い切った改革、転換ということはなかなか困難です。
世界的に成長しつづける企業の多くはそういった既成概念を崩して通常の理解を越えた取り組みをしています。世界的企業のグーグルなどは社員が散歩しながら会議をしたり、いいアイディアを捻出できるようにさまざまな工夫をしています。そして社員の健康まで自己管理できるようにトレーニングジムや24時間無料の社員食堂もあったりします。毎日決まった時間に出社して決まった時間でなく遅くまでサービス残業を課すような会社ではまったく理解不能な取り組みです。
労働価値説的な思考から脱却できないレベルはもう言うに及びませんが、今までの日本の会社という枠組みを崩すくらいの発想ができなければものごとの本質に向き合って会社を大きく変えていくなどという行動はできないのです。名を捨てて実をとるということこそ今の日本的経営を行ってきて行き詰っている企業には必要なのです。社員の行動をがんじがらめに縛る会社ほど非効率的で逆に自由な思考や行動を受け入れ、ものごとの本質が見えてくるような組織風土を築いたほうがよっぽど効率的であると考えます。そして減点主義でなく評価主義に切り替えつつ仕事に誇りをもって取り組める風土にすることが企業や組織のトップや上層部がもっとも考えていかなければならないことだと思います。
2013年5月24日金曜日
ものごとの本質と向き合う力①
人間は基本的に尊厳を大切にします。それは意識的にも無意識的にも、そして感情的にも行動的にも自己の尊厳を毀損されることがらに対してをれを回避する方向に動きます。それは明らかに人が人として存在することになにごとにも替えられない尊厳を有しているからだと思います。
したがって人間は傷つけられるような言動や理不尽な対応をされたときなどには、それを回避したり、断固として拒絶したりする意識がはたらき、自分を擁護したり正当化するような言動をとるわけです。会社の中にも学校の中、家庭の中でさえ、人間があつまり社会を形成するところでは必ずそういったやりとりがあるわけです。みなさんが会社などに勤めたり、所属しているコミュニティで活動されているなかで、そういった場面によく出くわすことがあると思います。
私の経験からちょっとお話ししますが、以前世話になった上司はとてもいい人で、上役の中にとても理不尽なことを言う人がいてその人への対応にいつも苦慮していました。実際、仕事とは関係のないあくまで個人的な感情を中心の言動をする人で、思いつきでなんでも指示命令をしてしまうような人でした。その上役に怒鳴られたり、目茶苦茶いじめられたり、それも怒鳴るにしても会議の場で見せしめのように怒鳴るのです。自分の上司がそこまで理不尽な対応をされることに気持ちのいい部下はいないと思います。でもだれもそれに対してどうこう言うことができないのです。すでにその人にもの申す人はいなくて、裸の王様状態になっていました。したがって無言の同調圧力の中で上司はペコペコしているだけという状況でした。そういった会議には基本的に私は参加しませんが、たまたま参加した会議の中でそういう状況であったことを知りました。
上司が怒鳴られたり、いじめられているのが常態化していて、一時期はうつ気味のときもありました。ところが上司のことを思って、その上役をいろいろやってつぶしますか(少々過激表現が多いですが…)と提案しても、上司はまったくそれにはのってこないのです。それは一つはあまりに抑圧されいじめられてきた内容が大きいのですでに学習性無力感の状態に至っているというのがひとつはあると思いました。そういうポジションだからというのです。したがって自分に非があるわけでもなく、上役のキャラに問題があるのは当然ですが、あくまでそういう地位にあるからだという訳のわからない説明をするのです。
みなさんは経験ありませんか。
「あんなに言われてなんで黙っているんですか?」
「明らかに変じゃないですか、はっきり言ってやったらいいですよ!」
「なんなら私たちがみんなで訴えますか?」
ここまで言ってものってこない上役に言われぱなしのダメ上司。
上司の話を聞いて部下たちは熱くなっているにもかかわらず、挙句の果てはいじめられている上役のことを擁護までするのです。そんな悪い人じゃないよとか、短気だけど言っていることは正論だとか、もうこの上司なに考えているのかと部下たちからは逆に信頼を失ってしまうようになりました。
そりゃそうです、さんざ上役の問題を聞かされて熱しているところに水をかける、部下からすればどうせそう考えるなら、あんたの心の中でうまく整理して終わりにしてよという話です。もし私が上司の立場なら一緒に闘おうとしてくれる部下の言葉が嬉しくていろいろ考え、クーデターのひとつでも企てるところですが、そうはならないのです。
ずっとそういう上司を理解できなかったのですが、よくよく考えると彼は彼なりに自分の人間としての尊厳を守り通そうと必死であったということです。それはとりあえず自分を立てて使っているのは上役なので、彼がそのポジションから外れるようにすることには言及しないのです。そうでありながらも自分の行動の足りなさは決して認めないというカタチでスルリスルリとものごとも本質からどんどんはずしながら、誰にも責任問題は追及しないというカタチをとるのです。これはある面日本社会のうまくやっていく人間関係やその立ち位置のありかたかもしれません。そして自分自身の尊厳も守られるのです。
怒鳴られても、いじめられても、自分に非があるわけでもなければ、相手も立場上そうしなければならないのだろうという理解は明らかにものごとの本質からは大きく外れています。私が経験した場合には明らかにその上役の人格的な問題があったわけです。でもそのことに誰も触れようとしないのです。社内のほとんどの人びとがそれがわかっているにもかかわらずです。もちろん被害を受けている当の本人自体が被害という認識から逃げているので周囲はもうそれ以上言うこともできないのです。
長い期間にわたって抑圧された環境下の中では、抑圧されている人びとは自然に自己の尊厳を守るために‘置き換え’や‘すり替え’ができる思考になってしまっています。これは気づかなければ、そのまま過ごしているわけです。でも意識、あるいは無意識の領域には明らかにストレスがたまっているはずですので、管理職の中で急にうつになったり、バタッと倒れるような人が出てくるのだと思います。
職場での人格的な問題がある人びとによる理不尽な言動はいつの間にか立場的な行為として置き換えがなされ、容認、あるいは賛同されるようになってしまっているケースがあります。オフィシャルでない場ではその本質(地位でなく人格問題であること)は話し合われているのですが、オフィシャルな場ではまったくその話は息を潜めるのです。すなわち本質と向き合う力が極端に弱まってしまうのです。ですから、そういう場合、結果的にアンオフィシャルな裏工作でそういった問題を処理する作業が進んでいくのです。裏工作であったとしても問題解決ができればいいのですが、それさえもできない組織はもう致命的です。唯一そういった組織がことの本質に向き合う機会ができるとしたら、そういった問題が社会的に露呈される場合です。
産業界にしても教育界にしてもそういった問題の本質がわかる人は数多くいるのですが、それと向き合う力、あるいはそれを容易にできるシステムづくりが急がれます。企業ならコンプライアンス違反、教育界は体罰、いじめ問題、家庭ならDVから具体的な事件になって初めて問題の本質が明らかになるのです。
組織はなかなか本音と建前で動きますからとても難しい面がありますが、少なくとも個人においては自分の思考がものごとの本質から目を背けて自分の言動を正当化して周囲から信頼を失うということだけは避けたいものです。
したがって人間は傷つけられるような言動や理不尽な対応をされたときなどには、それを回避したり、断固として拒絶したりする意識がはたらき、自分を擁護したり正当化するような言動をとるわけです。会社の中にも学校の中、家庭の中でさえ、人間があつまり社会を形成するところでは必ずそういったやりとりがあるわけです。みなさんが会社などに勤めたり、所属しているコミュニティで活動されているなかで、そういった場面によく出くわすことがあると思います。
私の経験からちょっとお話ししますが、以前世話になった上司はとてもいい人で、上役の中にとても理不尽なことを言う人がいてその人への対応にいつも苦慮していました。実際、仕事とは関係のないあくまで個人的な感情を中心の言動をする人で、思いつきでなんでも指示命令をしてしまうような人でした。その上役に怒鳴られたり、目茶苦茶いじめられたり、それも怒鳴るにしても会議の場で見せしめのように怒鳴るのです。自分の上司がそこまで理不尽な対応をされることに気持ちのいい部下はいないと思います。でもだれもそれに対してどうこう言うことができないのです。すでにその人にもの申す人はいなくて、裸の王様状態になっていました。したがって無言の同調圧力の中で上司はペコペコしているだけという状況でした。そういった会議には基本的に私は参加しませんが、たまたま参加した会議の中でそういう状況であったことを知りました。
上司が怒鳴られたり、いじめられているのが常態化していて、一時期はうつ気味のときもありました。ところが上司のことを思って、その上役をいろいろやってつぶしますか(少々過激表現が多いですが…)と提案しても、上司はまったくそれにはのってこないのです。それは一つはあまりに抑圧されいじめられてきた内容が大きいのですでに学習性無力感の状態に至っているというのがひとつはあると思いました。そういうポジションだからというのです。したがって自分に非があるわけでもなく、上役のキャラに問題があるのは当然ですが、あくまでそういう地位にあるからだという訳のわからない説明をするのです。
みなさんは経験ありませんか。
「あんなに言われてなんで黙っているんですか?」
「明らかに変じゃないですか、はっきり言ってやったらいいですよ!」
「なんなら私たちがみんなで訴えますか?」
ここまで言ってものってこない上役に言われぱなしのダメ上司。
上司の話を聞いて部下たちは熱くなっているにもかかわらず、挙句の果てはいじめられている上役のことを擁護までするのです。そんな悪い人じゃないよとか、短気だけど言っていることは正論だとか、もうこの上司なに考えているのかと部下たちからは逆に信頼を失ってしまうようになりました。
そりゃそうです、さんざ上役の問題を聞かされて熱しているところに水をかける、部下からすればどうせそう考えるなら、あんたの心の中でうまく整理して終わりにしてよという話です。もし私が上司の立場なら一緒に闘おうとしてくれる部下の言葉が嬉しくていろいろ考え、クーデターのひとつでも企てるところですが、そうはならないのです。
ずっとそういう上司を理解できなかったのですが、よくよく考えると彼は彼なりに自分の人間としての尊厳を守り通そうと必死であったということです。それはとりあえず自分を立てて使っているのは上役なので、彼がそのポジションから外れるようにすることには言及しないのです。そうでありながらも自分の行動の足りなさは決して認めないというカタチでスルリスルリとものごとも本質からどんどんはずしながら、誰にも責任問題は追及しないというカタチをとるのです。これはある面日本社会のうまくやっていく人間関係やその立ち位置のありかたかもしれません。そして自分自身の尊厳も守られるのです。
怒鳴られても、いじめられても、自分に非があるわけでもなければ、相手も立場上そうしなければならないのだろうという理解は明らかにものごとの本質からは大きく外れています。私が経験した場合には明らかにその上役の人格的な問題があったわけです。でもそのことに誰も触れようとしないのです。社内のほとんどの人びとがそれがわかっているにもかかわらずです。もちろん被害を受けている当の本人自体が被害という認識から逃げているので周囲はもうそれ以上言うこともできないのです。
長い期間にわたって抑圧された環境下の中では、抑圧されている人びとは自然に自己の尊厳を守るために‘置き換え’や‘すり替え’ができる思考になってしまっています。これは気づかなければ、そのまま過ごしているわけです。でも意識、あるいは無意識の領域には明らかにストレスがたまっているはずですので、管理職の中で急にうつになったり、バタッと倒れるような人が出てくるのだと思います。
職場での人格的な問題がある人びとによる理不尽な言動はいつの間にか立場的な行為として置き換えがなされ、容認、あるいは賛同されるようになってしまっているケースがあります。オフィシャルでない場ではその本質(地位でなく人格問題であること)は話し合われているのですが、オフィシャルな場ではまったくその話は息を潜めるのです。すなわち本質と向き合う力が極端に弱まってしまうのです。ですから、そういう場合、結果的にアンオフィシャルな裏工作でそういった問題を処理する作業が進んでいくのです。裏工作であったとしても問題解決ができればいいのですが、それさえもできない組織はもう致命的です。唯一そういった組織がことの本質に向き合う機会ができるとしたら、そういった問題が社会的に露呈される場合です。
産業界にしても教育界にしてもそういった問題の本質がわかる人は数多くいるのですが、それと向き合う力、あるいはそれを容易にできるシステムづくりが急がれます。企業ならコンプライアンス違反、教育界は体罰、いじめ問題、家庭ならDVから具体的な事件になって初めて問題の本質が明らかになるのです。
組織はなかなか本音と建前で動きますからとても難しい面がありますが、少なくとも個人においては自分の思考がものごとの本質から目を背けて自分の言動を正当化して周囲から信頼を失うということだけは避けたいものです。
2013年5月14日火曜日
健康は自分を過信せずに疑心暗鬼でちょうどいい!
つい最近、女優の天海祐希さんが軽い心筋梗塞で舞台を降板されました。結構40代50代でもあるいは半ば年齢に関係なくそういった病気になってしまうことを聞きます。現在のそういった病気と言っていいのか、症状はいついかなるときに起きるかわかりません。予想がつくようなものならば、ある程度予防もできるのですが、そういうわけでもないようです。
もちろん目に見えて不摂生をしている人は当然そういったリスクは高いでしょうが、全くそういう予兆もなくとても元気そうに見える人が急にそういう症状になるとホントにビックリしてしまいます。平成8年度から厚労省(当時は厚生省)が成人病とは呼ばずに「生活習慣病」と呼ぶと定めてそういう疾患は全く減る気配がありません。やはり人間って努力することはなかなか難しいのでしょう。どうしてもラクなほうに流されてしまいます。煙草やアルコールといったこともなかなかやめるのはたいへんです。挙句の果てには、どうせ死ぬなら浴びるほど飲んでなんて悪態つく人も出てきます。
昔の病気は結核や肺炎など感染症による病気が多かったのですが、今は人にうつらない病気、すなわち自分が自分の体を管理しきれずに起こってしまう病気なのです。癌が死因のトップですが、心臓疾患、脳疾患と自分が自分で守るしかない病気ばかりです。生活習慣にその病気の原因があるというのですが、具体的には食生活や運動不足、そしてストレスが原因と言われています。この中でいちばん重要なのはやはりストレスであると思います。なぜならからだの問題はそのベースとなる心の部分が大きく影響しているからです。
心が楽しくなければ、運動する気力さえ起こりません。またストレスが多いと食生活も乱れてきます。どうしてもアルコールの量が増えたり、煙草の本数が増えたりします。私は煙草は吸ったことがないのでよく分かりませんが、やはりストレスがあると吸うことで落ち着くようです。ではストレスはどういうときに最も多く感じるのでしょうか。それは忙しくてたいへんなときでしょうか、あるいは逆にやることがないけど時間を過ごさないといけないというときでしょうか。私の経験上から申し上げると間違いなく後者のほうです。実際、多くの年長者の方にお会いするとストレスが多い方は一人暮らしであまり外出しない人です。逆に元気な人は家にじっとしていないで、たくさんの友だちと会ったり趣味を満喫している人です。
会社でも要職についていて寝る間も惜しんで仕事をしていた人がそのポストを外れたり、引退したりすると一気に老け込むという話があります。ラクな仕事は決してラクではなくて精神的に負担を与えたりします。そのことに気づかない自分がいるとしたらそれほど恐ろしいことはありません。いつも心配ばかりする神経症や強迫症のような思考を持つことはもちろんいいわけはありませんが、自分はストレスはまったくないと思い込んでいるのも致命的だなと思うのです。
職場はすべての人が自分と気のあった仲間で居心地がいいということはまずないはずです。やはり自分が気づかないところでさりげなく神経を使っていたりすることが往々にしてあるのです。大丈夫なようでも知らずのうちに神経が過敏になっているようなシチュエーションが会社や職場にはたくさんあります。自分の心と同時に職場環境などもよく俯瞰したり、客観視してなるべくストレスを減らす工夫をすることが重要かと思います。結論から申しますと自分に過信する人はリスクが大きいのです。仕事ができて健康も自信があるという人こそ、今一度自分を見直し、疑心暗鬼なくらいに心とからだをいたわる時間をもったりすることが必要かと思います。
もちろん目に見えて不摂生をしている人は当然そういったリスクは高いでしょうが、全くそういう予兆もなくとても元気そうに見える人が急にそういう症状になるとホントにビックリしてしまいます。平成8年度から厚労省(当時は厚生省)が成人病とは呼ばずに「生活習慣病」と呼ぶと定めてそういう疾患は全く減る気配がありません。やはり人間って努力することはなかなか難しいのでしょう。どうしてもラクなほうに流されてしまいます。煙草やアルコールといったこともなかなかやめるのはたいへんです。挙句の果てには、どうせ死ぬなら浴びるほど飲んでなんて悪態つく人も出てきます。
昔の病気は結核や肺炎など感染症による病気が多かったのですが、今は人にうつらない病気、すなわち自分が自分の体を管理しきれずに起こってしまう病気なのです。癌が死因のトップですが、心臓疾患、脳疾患と自分が自分で守るしかない病気ばかりです。生活習慣にその病気の原因があるというのですが、具体的には食生活や運動不足、そしてストレスが原因と言われています。この中でいちばん重要なのはやはりストレスであると思います。なぜならからだの問題はそのベースとなる心の部分が大きく影響しているからです。
心が楽しくなければ、運動する気力さえ起こりません。またストレスが多いと食生活も乱れてきます。どうしてもアルコールの量が増えたり、煙草の本数が増えたりします。私は煙草は吸ったことがないのでよく分かりませんが、やはりストレスがあると吸うことで落ち着くようです。ではストレスはどういうときに最も多く感じるのでしょうか。それは忙しくてたいへんなときでしょうか、あるいは逆にやることがないけど時間を過ごさないといけないというときでしょうか。私の経験上から申し上げると間違いなく後者のほうです。実際、多くの年長者の方にお会いするとストレスが多い方は一人暮らしであまり外出しない人です。逆に元気な人は家にじっとしていないで、たくさんの友だちと会ったり趣味を満喫している人です。
会社でも要職についていて寝る間も惜しんで仕事をしていた人がそのポストを外れたり、引退したりすると一気に老け込むという話があります。ラクな仕事は決してラクではなくて精神的に負担を与えたりします。そのことに気づかない自分がいるとしたらそれほど恐ろしいことはありません。いつも心配ばかりする神経症や強迫症のような思考を持つことはもちろんいいわけはありませんが、自分はストレスはまったくないと思い込んでいるのも致命的だなと思うのです。
職場はすべての人が自分と気のあった仲間で居心地がいいということはまずないはずです。やはり自分が気づかないところでさりげなく神経を使っていたりすることが往々にしてあるのです。大丈夫なようでも知らずのうちに神経が過敏になっているようなシチュエーションが会社や職場にはたくさんあります。自分の心と同時に職場環境などもよく俯瞰したり、客観視してなるべくストレスを減らす工夫をすることが重要かと思います。結論から申しますと自分に過信する人はリスクが大きいのです。仕事ができて健康も自信があるという人こそ、今一度自分を見直し、疑心暗鬼なくらいに心とからだをいたわる時間をもったりすることが必要かと思います。
2013年5月9日木曜日
教育の現場に現れるモンスターペアレント③
私の経験からお話しすると、クレームは企業においては損失ではなく、チャンスであると考えます。なぜならば企業の商品に関して組織の外の視点からものを言ってくれるからなのです。そこには企業も商品も大きな成長しろができます。もちろんただそういったクレームをうのみにするのでなく、それは実際よく吟味して変えていけるところは取り入れて生かすことができます。クレームが企業側の商品自体に問題があるのかどうなのか、あるいは消費者の提案であることもあります。提案の場合はひとつの案として取り上げ参考にしますが、部分的最適化が全体を滅ぼすとあるように必ずしもその提案が市場全体を代表しているのではないことも肝に銘じておく必要があります。
またクレーム処理を担当するということは個人的にはコミュニケーション能力を高める最高のチャンスでもあります。クレーム処理は場数を踏むしかなかなかできるようになりません。ホントになれてくると逆にどんなことを消費者が言ってこようがでんと構えて堂々と対応することができるようになります。さらにそのレベルを越えていくと、こんな無理難題を言ってくるなんていったいどんなひとなんだろう。どういう育ち方をすればこういう人格にできあがるのだろうとその人自身にとても関心をもつということもあります。そこまで行くには相当心のゆとりがなければなりませんし、自分以外の他者に対する関心や愛情など人間的器も必要になってきます。実際クレームをよく言う人をクレーマーとレッテルを貼った段階でもうクレーム処理は負けてしまっている。すなわち受け取る側が壁をつくっているようなものだと思います。
学校側にいろいろ言ってくるものもクレームであるのか、提案であるのか一方的で自己中心的な要求であるのかを区別して考えなくてはなりません。もちろんモンスターペアレントと言われている人びとは圧倒的に無理難題の要求なのでしょうが。とりあえずいろいろ言ってくる人のその背後の意図をいかに読み取るかという問題になります。いずれにせよ、相手の言動に振り回されず確固たる態度を貫くことも重要です。あとはうまく相手の気持ちを察して理解し、人間的な関係を構築することができればもうほとんどは終結に向かっています。
モンスターペアレントになってしまっている(もちろん本人はそういう認識はないですが)親というのは何かが欠けているのです。ホントに愛情を受けて育った人は相手の気持ちも察し、相手に自分の都合のいい要求ばかりすることはありません。何か不自然なカタチで育ったか、性格的にいつもイライラしていたり、被害妄想が多いタイプであるかもしれません。相手を負かすという考え方は必要ありません。逆に負けることで勝てたりします。要は最初から負けてしまうという認識を持たないことが重要です。それはどういうことかと言うと相手を‘モンスターペアレント’とレッテルを貼った時点でその教師は自分の心の中に「怖い」「勝てない」「難しい」「自分には無理」といったすり込みをしてしまっているということです。そしてモンスターペアレントは加害者で自分は被害者という認識に立つことがすでにクレーム対応に大きな精神的負担を負わせてしまっているのです。企業の場合は明らかに消費者が被害者で、企業側はいつも加害者になる可能性という観点で顧客に対応するので丁寧に受容できる精神状態でクレーム処理に臨むことができるのです。
基本的に被害者意識も加害者意識も持たないほうが最高にいい結果を生みます。とくに教職員は親たちといっしょにより良い教育ができるように改善していきましょうという認識を持ってもらうことが大切です。今企業はどこも顧客をファン化するアプローチをしています。味方につけるということです。親をモンスターペアレントとみなしているレベルでは味方につけるどころか敵愾心を持たれてしまいます。まずクレーム対応をする側から心の壁を取り払っていくこと、どんなことでも受け止める精神的ゆとりが必要であると思います。
もちろん世の中にはとんでもない人はいるはずですし、到底手の施しようがない場合は当然しかるべき措置は必要です。いじめ問題や体罰などで学校に警察などの公権力を導入することはグローバル化してきた日本でも一つの案として選択肢から除外すべきでないということは付け加えておきたいと思います。
またクレーム処理を担当するということは個人的にはコミュニケーション能力を高める最高のチャンスでもあります。クレーム処理は場数を踏むしかなかなかできるようになりません。ホントになれてくると逆にどんなことを消費者が言ってこようがでんと構えて堂々と対応することができるようになります。さらにそのレベルを越えていくと、こんな無理難題を言ってくるなんていったいどんなひとなんだろう。どういう育ち方をすればこういう人格にできあがるのだろうとその人自身にとても関心をもつということもあります。そこまで行くには相当心のゆとりがなければなりませんし、自分以外の他者に対する関心や愛情など人間的器も必要になってきます。実際クレームをよく言う人をクレーマーとレッテルを貼った段階でもうクレーム処理は負けてしまっている。すなわち受け取る側が壁をつくっているようなものだと思います。
学校側にいろいろ言ってくるものもクレームであるのか、提案であるのか一方的で自己中心的な要求であるのかを区別して考えなくてはなりません。もちろんモンスターペアレントと言われている人びとは圧倒的に無理難題の要求なのでしょうが。とりあえずいろいろ言ってくる人のその背後の意図をいかに読み取るかという問題になります。いずれにせよ、相手の言動に振り回されず確固たる態度を貫くことも重要です。あとはうまく相手の気持ちを察して理解し、人間的な関係を構築することができればもうほとんどは終結に向かっています。
モンスターペアレントになってしまっている(もちろん本人はそういう認識はないですが)親というのは何かが欠けているのです。ホントに愛情を受けて育った人は相手の気持ちも察し、相手に自分の都合のいい要求ばかりすることはありません。何か不自然なカタチで育ったか、性格的にいつもイライラしていたり、被害妄想が多いタイプであるかもしれません。相手を負かすという考え方は必要ありません。逆に負けることで勝てたりします。要は最初から負けてしまうという認識を持たないことが重要です。それはどういうことかと言うと相手を‘モンスターペアレント’とレッテルを貼った時点でその教師は自分の心の中に「怖い」「勝てない」「難しい」「自分には無理」といったすり込みをしてしまっているということです。そしてモンスターペアレントは加害者で自分は被害者という認識に立つことがすでにクレーム対応に大きな精神的負担を負わせてしまっているのです。企業の場合は明らかに消費者が被害者で、企業側はいつも加害者になる可能性という観点で顧客に対応するので丁寧に受容できる精神状態でクレーム処理に臨むことができるのです。
基本的に被害者意識も加害者意識も持たないほうが最高にいい結果を生みます。とくに教職員は親たちといっしょにより良い教育ができるように改善していきましょうという認識を持ってもらうことが大切です。今企業はどこも顧客をファン化するアプローチをしています。味方につけるということです。親をモンスターペアレントとみなしているレベルでは味方につけるどころか敵愾心を持たれてしまいます。まずクレーム対応をする側から心の壁を取り払っていくこと、どんなことでも受け止める精神的ゆとりが必要であると思います。
もちろん世の中にはとんでもない人はいるはずですし、到底手の施しようがない場合は当然しかるべき措置は必要です。いじめ問題や体罰などで学校に警察などの公権力を導入することはグローバル化してきた日本でも一つの案として選択肢から除外すべきでないということは付け加えておきたいと思います。
教育の現場に現れるモンスターペアレント②
現在、全国の教職者のだいたい200人に一人がうつなどの精神疾患をわずらい休職状態にあるようです。東京都においては100人に一人がそのようです。その原因はつい最近話題となった「学級崩壊」などによりこどもたちが教師の言うことを聞かず、好き勝手な行動に出たり、あとは保護者とのさまざまな誤解やトラブルによるものなどがあるようです。もちろん一般企業でも精神疾患になる社員というのは多いわけで、産業カウンセラーや心療内科のお世話になる人びとは増え続けているという状況です。
マズローの欲求5階層説に照らし合わせても、経済が豊かになり、社会が成熟していくと逆に人間は内面的、精神面の問題が増えてくるようです。お隣の韓国でも若年層の自殺が問題になっていますし、学歴社会という社会が生み出したプレッシャーや社会的価値観についていけない状況が多くの若者を追い込んでいるということが見てとれます。日本ではナンバーワンよりオンリーワンを善しとし、学歴至上主義からはだいぶ解放された感じはありますが、就職氷河期と言われる時代が長きにわたって続いたため、社会不安が増大し若者のストレスも継続的にあると実感します。
団塊の世代はそれなりに経済の高度成長やバブル期の恩恵を受けてきたことと、競争社会を生き抜いてきたということで他の世代よりもかなりのパワーがあるように感じます。ただその次の世代はちょうど新人類世代という今までのものさしでは量れないかなり価値観に開きがある世代との間に挟まれサンドイッチ症候群のような状況下に置かれていることもあるかもしれません。ちょうど団塊の次の世代は現在学校で言うと校長や教頭といった役職にある方々です。
もともと「うつ」などの精神疾患になってしまう人は教職者に多いタイプの性格です。几帳面で真面目、そして責任感、正義感がつよく、人からも頼りにされるタイプが多く、教職者はとくに社会の模範というイメージで見られまたそうあるべきと自分を抑圧的に縛ってしまうタイプ(完璧主義)が多いと考えられます。また内面の弱みを見せず黙々と頑張る人ほどストレス状態が限界を越えるとそういった症状を引き起こすわけです。基本的にストレスが少ない人はストレス要因をつねに吐き出している人です。愚痴をこぼし、聞いてくれる人もいて、いい具合にバランスをとっている人です。
長年にわたって教職に携わってきた人も社会的な使命感や夢を描いて教職についた若い人も理想とする教育とはかけ離れた問題の多い教育現場の現実を目の当たりにして、自分の考える教育観との整合性を得るにはたいへんなストレスを感じざるえないことでしょう。もともと人間は最低の生活を体験した人は現状に満足して気楽に考えることができるかもしれませんが、最高の夢や理想を抱きながら教育の現場に入ってきた人はストレス以外の何ものでもありません。
こどもたちの教育現場での離反やモンスター化した親たちに対応するには、今では真面目一辺倒で穢れのないような先生にはかなり酷です。私が考えるに、そういった過酷な現場には修羅場を何度もくぐったような営業の叩き上げくらいの人がやっと対応できるのではないかと思います。勉強ばかりやってきて人の模範となるべく教職についた人はそういったアウトローな人びとに対する免疫はないので精神的には相当の苦痛を感じるはずです。実際の教育の現場に入るともともと抱いていたイメージとのギャップで苦しむことになるわけです。
こどもをちゃんと座らせて、教えるだけでもたいへんなのに、こどもの背後にもっとでかいこどもがいてこども以上に手ごわいこどもだったという話でしょうか。こどもよりももっと大人げない大人というのがモンスターペアレントだと考えると、今後の教職員の仕事はこどもの教育と同時に親の再教育かもしれません。いずれにせよ教育の現場ではこどもに勉強を教えるといったスキル以外のスキルが必要となっていることは間違いありません。
クレームは正しいもの、ごもっともということは多々ありますが、ただの言いがかりであったり、無理難題を言ってくるのはもうクレームというふうにひとくくりにはできないと思います。例えば、こどもが学校の授業についていけないから、家に来て勉強を教えて欲しいとか学校の教師という立場以上のことを要求されたりすることはこれはもう理不尽極まりない話だと思います。ただ社会的に価値観の多様化が進んでいる中で、一般の社会通念も逸脱したような人も多くいるわけで、そういった人びとに対してはきちっと対応できる企業のクレームマニュアルのようなものも学校という教育の現場にも必要かもしれません。
マズローの欲求5階層説に照らし合わせても、経済が豊かになり、社会が成熟していくと逆に人間は内面的、精神面の問題が増えてくるようです。お隣の韓国でも若年層の自殺が問題になっていますし、学歴社会という社会が生み出したプレッシャーや社会的価値観についていけない状況が多くの若者を追い込んでいるということが見てとれます。日本ではナンバーワンよりオンリーワンを善しとし、学歴至上主義からはだいぶ解放された感じはありますが、就職氷河期と言われる時代が長きにわたって続いたため、社会不安が増大し若者のストレスも継続的にあると実感します。
団塊の世代はそれなりに経済の高度成長やバブル期の恩恵を受けてきたことと、競争社会を生き抜いてきたということで他の世代よりもかなりのパワーがあるように感じます。ただその次の世代はちょうど新人類世代という今までのものさしでは量れないかなり価値観に開きがある世代との間に挟まれサンドイッチ症候群のような状況下に置かれていることもあるかもしれません。ちょうど団塊の次の世代は現在学校で言うと校長や教頭といった役職にある方々です。
もともと「うつ」などの精神疾患になってしまう人は教職者に多いタイプの性格です。几帳面で真面目、そして責任感、正義感がつよく、人からも頼りにされるタイプが多く、教職者はとくに社会の模範というイメージで見られまたそうあるべきと自分を抑圧的に縛ってしまうタイプ(完璧主義)が多いと考えられます。また内面の弱みを見せず黙々と頑張る人ほどストレス状態が限界を越えるとそういった症状を引き起こすわけです。基本的にストレスが少ない人はストレス要因をつねに吐き出している人です。愚痴をこぼし、聞いてくれる人もいて、いい具合にバランスをとっている人です。
長年にわたって教職に携わってきた人も社会的な使命感や夢を描いて教職についた若い人も理想とする教育とはかけ離れた問題の多い教育現場の現実を目の当たりにして、自分の考える教育観との整合性を得るにはたいへんなストレスを感じざるえないことでしょう。もともと人間は最低の生活を体験した人は現状に満足して気楽に考えることができるかもしれませんが、最高の夢や理想を抱きながら教育の現場に入ってきた人はストレス以外の何ものでもありません。
こどもたちの教育現場での離反やモンスター化した親たちに対応するには、今では真面目一辺倒で穢れのないような先生にはかなり酷です。私が考えるに、そういった過酷な現場には修羅場を何度もくぐったような営業の叩き上げくらいの人がやっと対応できるのではないかと思います。勉強ばかりやってきて人の模範となるべく教職についた人はそういったアウトローな人びとに対する免疫はないので精神的には相当の苦痛を感じるはずです。実際の教育の現場に入るともともと抱いていたイメージとのギャップで苦しむことになるわけです。
こどもをちゃんと座らせて、教えるだけでもたいへんなのに、こどもの背後にもっとでかいこどもがいてこども以上に手ごわいこどもだったという話でしょうか。こどもよりももっと大人げない大人というのがモンスターペアレントだと考えると、今後の教職員の仕事はこどもの教育と同時に親の再教育かもしれません。いずれにせよ教育の現場ではこどもに勉強を教えるといったスキル以外のスキルが必要となっていることは間違いありません。
クレームは正しいもの、ごもっともということは多々ありますが、ただの言いがかりであったり、無理難題を言ってくるのはもうクレームというふうにひとくくりにはできないと思います。例えば、こどもが学校の授業についていけないから、家に来て勉強を教えて欲しいとか学校の教師という立場以上のことを要求されたりすることはこれはもう理不尽極まりない話だと思います。ただ社会的に価値観の多様化が進んでいる中で、一般の社会通念も逸脱したような人も多くいるわけで、そういった人びとに対してはきちっと対応できる企業のクレームマニュアルのようなものも学校という教育の現場にも必要かもしれません。
教育の現場に現れるモンスターペアレント①
昨今、学校は児童、生徒の保護者のモンスター化に手を焼いているようです。給食費の未納にはじまり、卒業アルバムに自分のこどもがあまり写っていないとクレームをつけ、成績が悪いと教師のせいにして、とまああげたらきりがないほどとんでもないことを言ってくる親たちが増殖しているようです。成績が悪いのは遺伝です。あなたはそんなにできたんですかと訊くわけにもいかず、明らかにこの親にしてこの子ありと言える状況が多いのだと思います。
私が小中学校の頃は親が学校の教育に口を出すことは恥ずかしいというイメージでした。できるだけ授業参観も含め、親には学校に来てほしくないくらいに思っていましたが、どうやら最近はそうではないようです。もちろんPTAという組織があり、学校行事に親たちが昔よりたくさん駆り出される状況ができあがっているので、親たちのパワーもずいぶん強くなっているのかもしれません。すでに先生という言葉に威厳や尊敬の念という意味合いは消えてしまっていると思わざるをえません。私もこどもの学校に行ってみると、親たちと先生は友だち感覚でおしゃべりしているなんてのを垣間見たりします。今や先生という言葉は呼び名でしかありません。
このことは何を表しているのでしょうか。企業に遅れて、教育の現場にも大きなパラダイムシフトのときを迎えているのだということです。すなわち組織の在り方を変革する、そしてそのためには教職員の内省による自己変革がベースになければならない時代になってきているのではないかと痛感するのです。
一般企業では収益をあげなければならないという現実的な問題がつねにあります。収益が上がらない場合、徹底してその原因を見つけ出していかなくてはなりません。そうしたところ、結局マーケティング(市場のニーズを知る)から商品開発のアイディア(イノベーション)を出し、さらにそれを促進させるには組織風土改革まで行わなければならないという状況に至ります。背に腹は替えられない現実問題があるわけです。
日本では戦前の軍国主義の時代から民主化が実現されて、どんどん社会はフラット化してきました。今はテレビでもお笑い芸人が主流のバラエティ番組がゴールデンタイムは席巻しています。お笑いのポイントは非現実的アプローチであり、現実社会をアイロニーで笑い飛ばすところにあります。すなわち権力をもっている年長者にタメ口を平然と言ってかます。常識とは大きなギャップがある行動(本音ではみんなそうしたいこと)をすることで笑いを誘うのです。それは視聴者からすると解消には最高なのです。
団塊の世代は激しい競争社会を生きて上下関係もしっかりわきまえて、企業組織のヒエラルキーを空気を読みながら周囲とバランスをとって駆け上がって行った人びとです。それに追従したのがその次のシラケ世代です。団塊の世代がいるせいでシラケ世代は重要なポストはなかなかもらえず半ばあきらめの心境、惰性で上の世代に従ってきた感じがあります。その次の50代前半から40代に人びとは新人類世代と呼ばれ、より上の世代の出世競争に辟易とし、独自路線をとることやポストよりも仕事の中身で勝負するタイプが増えてきました。
新人類世代は会社にそれほどコミットせず、企業横断的なスキルを持ち、待遇がいいところがあれば平気で転職を考えます。この会社に骨をうずめてなんて考えはほとんどありません。でもそういった考え方のほうが会社が生き残れるのです。上の世代はその会社愛ゆえに会社をダメにしたという事実もあります。まさにホントに会社のことを思うならば、会社人間になって組織の中に埋没するのではなく、ある面冷めた目で会社全体を客観視したり、俯瞰するというパラドクシカルな経営や組織の運営が必要となってきます。これはこどもに執着しすぎるとこどもをスポイルして自立を遅らせてしまうということにも似ています。
こういった新人類世代がマスメディアを動かしているので、視聴者ごころをよくとらえた番組づくりができていると言っても過言ではないと思います。バラエティが好きかどうか、もちろん賛否両論ありますが、やはりお茶の間を笑いの渦に巻き込んでしまう手法はすごいのです。特別面白そうなところは繰り返し見せたり、面白いトークには必ずテロップをつけて、これでもかこれでもかと視聴者の本音の部分にぐいぐい入ってきます。おそらくこういったセンスある手法があって視聴者もスポンサーも取り込むことができているのだと思います。
また新人類世代は上司や上役に対してただ単に年上というだけでのリスペクトはありません。また権威や権力には団塊、シラケ世代のやり取りを見て嫌悪感もあるので、地位よりは仕事ができるかどうか才能がある人に対するリスペクトは当然あります。したがって上司だからというものさしでなく、この人と組めば、あるいはこの人のもとで働くならば自分を生かせるという観点から従うということはあります。新人類世代以降の世代はさらに会社にも地位にもコミットしないので、仕事そのものに愛着があれば続ける人びとです。
企業ではそういう観点で経営者や管理職の人びとは地位があるからなどと甘えていては部下はだれもついてこない状況に至っています。そういった現実を早期に受け止め、考え方のフレームを改めた経営者や上司がたくさんいる企業が生き残っているのです。すなわち既存の管理手法から大きくパラダイムシフトを行えた企業が強いのです。モノをつくれば売れた時代は殿様商売ができたかもしれませんが、モノが市場にあふれて飽和状態になっている今では、マーケティングの手法でより顧客満足を推進しなければならない状況になりました。さらに核心部分に踏み込めば、イノベーション(技術革新や商品開発、そのアイディアなど)を起こすためにはフラットな職場環境による従業員満足まで必要となってくるという話です。
こういった考え方は昨今の教育現場にも必要とされ始めているのではないかということを痛感します。教職員の組織は互いを先生と呼び合い、親しき仲にも礼儀ありという日本的文化が残っている感じでいいイメージはあるのですが、逆に遠慮があり、一般企業ほど人間関係を深めるということは容易ではない感じを受けます。毎回問題が起きて初めて、教頭や校長が当事者の教師にブリーフィングを行うという現状が記者会見などを通じて見受けられます。やはりヒエラルキー組織であることでより部下の状況把握が厳しいというのが実情ではと思います。でさらに把握できないのが先生と生徒の関係です。それで毎回、いじめられているとは知らなかったという担任教師のコメントが出てくるのです。
教育の現場も一般企業と同じでそろそろ保護者へのアプローチを変えなければならない時期にきていると思います。企業は努力しなければ経営が危ぶまれます。でも学校、特に公立の学校はそういった努力をそんなにしなくてもある程度は生徒数は目途がたち、保証されています。すでに私立の学校は保護者を半ば顧客という観点でとらえる考え方に大きくシフトしています。私立大学などは生き残りをかけて大学の先生は高校に赴き営業活動を行っています。教育環境の充実は顧客である学生満足であるわけです。そして学費を出す親たちにそれをアピールするわけです。
実はモンスターペアレントの発生はその親自身の問題だけでなく、学校組織の運営自体にも少なからず問題があると考えられます。社会全体の思考が大きく変わってきている中、企業はどんどん変わって生き残ってきましたが、そのことは教育界にも昔のままでは対応できないよという一石をモンスターペアレントという存在が投じているのかもしれません。実はモンスター化した親たちに変われといっても難しいのですが、それに対応する学校側が変わることはある面可能です。それによって大きく状況を変えていくことができると思います。
私が小中学校の頃は親が学校の教育に口を出すことは恥ずかしいというイメージでした。できるだけ授業参観も含め、親には学校に来てほしくないくらいに思っていましたが、どうやら最近はそうではないようです。もちろんPTAという組織があり、学校行事に親たちが昔よりたくさん駆り出される状況ができあがっているので、親たちのパワーもずいぶん強くなっているのかもしれません。すでに先生という言葉に威厳や尊敬の念という意味合いは消えてしまっていると思わざるをえません。私もこどもの学校に行ってみると、親たちと先生は友だち感覚でおしゃべりしているなんてのを垣間見たりします。今や先生という言葉は呼び名でしかありません。
このことは何を表しているのでしょうか。企業に遅れて、教育の現場にも大きなパラダイムシフトのときを迎えているのだということです。すなわち組織の在り方を変革する、そしてそのためには教職員の内省による自己変革がベースになければならない時代になってきているのではないかと痛感するのです。
一般企業では収益をあげなければならないという現実的な問題がつねにあります。収益が上がらない場合、徹底してその原因を見つけ出していかなくてはなりません。そうしたところ、結局マーケティング(市場のニーズを知る)から商品開発のアイディア(イノベーション)を出し、さらにそれを促進させるには組織風土改革まで行わなければならないという状況に至ります。背に腹は替えられない現実問題があるわけです。
日本では戦前の軍国主義の時代から民主化が実現されて、どんどん社会はフラット化してきました。今はテレビでもお笑い芸人が主流のバラエティ番組がゴールデンタイムは席巻しています。お笑いのポイントは非現実的アプローチであり、現実社会をアイロニーで笑い飛ばすところにあります。すなわち権力をもっている年長者にタメ口を平然と言ってかます。常識とは大きなギャップがある行動(本音ではみんなそうしたいこと)をすることで笑いを誘うのです。それは視聴者からすると解消には最高なのです。
団塊の世代は激しい競争社会を生きて上下関係もしっかりわきまえて、企業組織のヒエラルキーを空気を読みながら周囲とバランスをとって駆け上がって行った人びとです。それに追従したのがその次のシラケ世代です。団塊の世代がいるせいでシラケ世代は重要なポストはなかなかもらえず半ばあきらめの心境、惰性で上の世代に従ってきた感じがあります。その次の50代前半から40代に人びとは新人類世代と呼ばれ、より上の世代の出世競争に辟易とし、独自路線をとることやポストよりも仕事の中身で勝負するタイプが増えてきました。
新人類世代は会社にそれほどコミットせず、企業横断的なスキルを持ち、待遇がいいところがあれば平気で転職を考えます。この会社に骨をうずめてなんて考えはほとんどありません。でもそういった考え方のほうが会社が生き残れるのです。上の世代はその会社愛ゆえに会社をダメにしたという事実もあります。まさにホントに会社のことを思うならば、会社人間になって組織の中に埋没するのではなく、ある面冷めた目で会社全体を客観視したり、俯瞰するというパラドクシカルな経営や組織の運営が必要となってきます。これはこどもに執着しすぎるとこどもをスポイルして自立を遅らせてしまうということにも似ています。
こういった新人類世代がマスメディアを動かしているので、視聴者ごころをよくとらえた番組づくりができていると言っても過言ではないと思います。バラエティが好きかどうか、もちろん賛否両論ありますが、やはりお茶の間を笑いの渦に巻き込んでしまう手法はすごいのです。特別面白そうなところは繰り返し見せたり、面白いトークには必ずテロップをつけて、これでもかこれでもかと視聴者の本音の部分にぐいぐい入ってきます。おそらくこういったセンスある手法があって視聴者もスポンサーも取り込むことができているのだと思います。
また新人類世代は上司や上役に対してただ単に年上というだけでのリスペクトはありません。また権威や権力には団塊、シラケ世代のやり取りを見て嫌悪感もあるので、地位よりは仕事ができるかどうか才能がある人に対するリスペクトは当然あります。したがって上司だからというものさしでなく、この人と組めば、あるいはこの人のもとで働くならば自分を生かせるという観点から従うということはあります。新人類世代以降の世代はさらに会社にも地位にもコミットしないので、仕事そのものに愛着があれば続ける人びとです。
企業ではそういう観点で経営者や管理職の人びとは地位があるからなどと甘えていては部下はだれもついてこない状況に至っています。そういった現実を早期に受け止め、考え方のフレームを改めた経営者や上司がたくさんいる企業が生き残っているのです。すなわち既存の管理手法から大きくパラダイムシフトを行えた企業が強いのです。モノをつくれば売れた時代は殿様商売ができたかもしれませんが、モノが市場にあふれて飽和状態になっている今では、マーケティングの手法でより顧客満足を推進しなければならない状況になりました。さらに核心部分に踏み込めば、イノベーション(技術革新や商品開発、そのアイディアなど)を起こすためにはフラットな職場環境による従業員満足まで必要となってくるという話です。
こういった考え方は昨今の教育現場にも必要とされ始めているのではないかということを痛感します。教職員の組織は互いを先生と呼び合い、親しき仲にも礼儀ありという日本的文化が残っている感じでいいイメージはあるのですが、逆に遠慮があり、一般企業ほど人間関係を深めるということは容易ではない感じを受けます。毎回問題が起きて初めて、教頭や校長が当事者の教師にブリーフィングを行うという現状が記者会見などを通じて見受けられます。やはりヒエラルキー組織であることでより部下の状況把握が厳しいというのが実情ではと思います。でさらに把握できないのが先生と生徒の関係です。それで毎回、いじめられているとは知らなかったという担任教師のコメントが出てくるのです。
教育の現場も一般企業と同じでそろそろ保護者へのアプローチを変えなければならない時期にきていると思います。企業は努力しなければ経営が危ぶまれます。でも学校、特に公立の学校はそういった努力をそんなにしなくてもある程度は生徒数は目途がたち、保証されています。すでに私立の学校は保護者を半ば顧客という観点でとらえる考え方に大きくシフトしています。私立大学などは生き残りをかけて大学の先生は高校に赴き営業活動を行っています。教育環境の充実は顧客である学生満足であるわけです。そして学費を出す親たちにそれをアピールするわけです。
実はモンスターペアレントの発生はその親自身の問題だけでなく、学校組織の運営自体にも少なからず問題があると考えられます。社会全体の思考が大きく変わってきている中、企業はどんどん変わって生き残ってきましたが、そのことは教育界にも昔のままでは対応できないよという一石をモンスターペアレントという存在が投じているのかもしれません。実はモンスター化した親たちに変われといっても難しいのですが、それに対応する学校側が変わることはある面可能です。それによって大きく状況を変えていくことができると思います。
2013年5月7日火曜日
GWも終わっていつもの日常
今日はゴールデンウィークが終わって最初の出勤日という人がほとんどではないでしょうか。今回の長期休暇は皆さんはいかがお過ごしだったでしょうか。どうしても休みが長く続くと普段の生活のリズムを取り戻すのに苦労してしまうというのが実際のところではないでしょうか。
楽しい時間というのはあっという間に過ぎてしまうもので、ファンタジーの世界からいきなり現実へと引き戻される残酷さも感じざるをえません。でも仕事が大好きで、仕事自体が非現実的な楽しみの中にある人は休むという概念すらないかもしれません。誰しもそういう生活は希望するのでしょうが、現実そうは行きません。趣味が仕事になった人も、そこにノルマやプレッシャーがかかるようになるともともと好きだったこともホントに仕事と化して面白みがなくなるなんてこともあります。趣味はずっと続けるためには仕事にしないという方法もありますが、趣味が実益を兼ねればこれほどラッキーなことはありません。
逆に仕事を趣味化できればこれほど面白いことはありません。ただ問題は、仕事が趣味になった人、さらに言えば仕事しか関心がない仕事人間というのは、それはそれで周囲はひいていたりします。会社に実績にしか関心がない上司のもとで働くということを考えてみてください。いっしょに飲みに行ってもいつの間にか仕事の話でひとり熱く語りはじめる、こういう上司や同僚はどうですか。もちろんご意見はさまざまあるでしょうが、私的には面白くない人に見えてしまいます。オンとオフと使い分けれない人、あるいは家庭やプライベートではあまり必要とされていないのかななんて憶測ではありますがそう判断してしまいます。
仕事一辺倒で熱く語る人は語りまくるあまり周囲が見えていないケースが往々としてあります。こういう人はワーカホリックに近い状態だと、とにかく部下や他の同僚の状況は見えていないので彼らから徐々に距離を置かれたりします。今企業でもうつという診断される人びとが増えていますが、特に休み明けの日は要注意です。ブルーマンデイ(月曜病)とかサザエさん症候群、笑点症候群なるものがありますが、普段の日常生活が結構大変なほど休み明けの現実に引き戻される日は拒否したいという気持ちが起こってきます。
特に営業系で上からのノルマや目標が高くプレッシャーの多いような職場は精神的にたいへんかもしれません。できる上司はどういうアプローチがいいのか。休み明けの会社の朝礼ではファンタジーの世界から現実に引き戻す儀式?に匹敵するかもしれませんが、その際、ソフトランディングにするかハードランディングにするかは朝礼を担当する経営者、上司の話ひとつにかかっています。前者の場合はスムーズに業務の遂行につながりますが、後者の場合は消化不良気味なカタチで業務に突入という感じでしょうか。
こういう話をすると、旧い価値観の人びとは、会社は学校じゃないとか、仕事はお遊びじゃないなんて言い出す人も結構いるでしょう。でもその管理手法のおかげで会社は多くの精神疾患の病人を出すに至っています。センスのある人なら、朝礼の場で、あるいは職場の昼休みとかには休みはどうだったかとか聞いて楽しかった思い出話を傾聴するくらいの心のゆとりは欲しいところです。みなさんの職場はどうですか。ひさびさの会社はどうでしょう。シーンとして会話のない職場になっていないですか。
PSIとしては自分軸ということを主軸に据えています。仕事も趣味もプライベートも自分の意思を中心として楽しみながら過ごしたいものです。また変わらない日常の中にファンタジックな楽しい時間を埋め込みながら、ストレスをためず人生のかけがえのない時間をエンジョイしてまいりましょう。そのためにも短期の楽しみと同時に、より長いスパン、すなわち人生をかけてやり遂げたいことも目標に据えてそれもひとつひとつ積み上げていく楽しみも持ちながら生活するととても有意義です。
人間は忙しいほど、悩みは減っていきます。忙しい、忙しいと言っている人ほどそう大して忙しくなかったりします。ホントに忙しい人は、充実していると言います。精神疾患になりやすい環境はやることが少なく、考える時間が多いということです。それで私としては自分に短期、中期、長期、人生というスパンでにいろいろ課題を課してやっています。そしてその課題はすべて人生の目標に集約されるようにプログラムするのです。仕事でも趣味でも、また学業やプライベートでもそういうふうにしていくととても充実した人生設計になって生き生き人生を送ることが可能です。
楽しい時間というのはあっという間に過ぎてしまうもので、ファンタジーの世界からいきなり現実へと引き戻される残酷さも感じざるをえません。でも仕事が大好きで、仕事自体が非現実的な楽しみの中にある人は休むという概念すらないかもしれません。誰しもそういう生活は希望するのでしょうが、現実そうは行きません。趣味が仕事になった人も、そこにノルマやプレッシャーがかかるようになるともともと好きだったこともホントに仕事と化して面白みがなくなるなんてこともあります。趣味はずっと続けるためには仕事にしないという方法もありますが、趣味が実益を兼ねればこれほどラッキーなことはありません。
逆に仕事を趣味化できればこれほど面白いことはありません。ただ問題は、仕事が趣味になった人、さらに言えば仕事しか関心がない仕事人間というのは、それはそれで周囲はひいていたりします。会社に実績にしか関心がない上司のもとで働くということを考えてみてください。いっしょに飲みに行ってもいつの間にか仕事の話でひとり熱く語りはじめる、こういう上司や同僚はどうですか。もちろんご意見はさまざまあるでしょうが、私的には面白くない人に見えてしまいます。オンとオフと使い分けれない人、あるいは家庭やプライベートではあまり必要とされていないのかななんて憶測ではありますがそう判断してしまいます。
仕事一辺倒で熱く語る人は語りまくるあまり周囲が見えていないケースが往々としてあります。こういう人はワーカホリックに近い状態だと、とにかく部下や他の同僚の状況は見えていないので彼らから徐々に距離を置かれたりします。今企業でもうつという診断される人びとが増えていますが、特に休み明けの日は要注意です。ブルーマンデイ(月曜病)とかサザエさん症候群、笑点症候群なるものがありますが、普段の日常生活が結構大変なほど休み明けの現実に引き戻される日は拒否したいという気持ちが起こってきます。
特に営業系で上からのノルマや目標が高くプレッシャーの多いような職場は精神的にたいへんかもしれません。できる上司はどういうアプローチがいいのか。休み明けの会社の朝礼ではファンタジーの世界から現実に引き戻す儀式?に匹敵するかもしれませんが、その際、ソフトランディングにするかハードランディングにするかは朝礼を担当する経営者、上司の話ひとつにかかっています。前者の場合はスムーズに業務の遂行につながりますが、後者の場合は消化不良気味なカタチで業務に突入という感じでしょうか。
こういう話をすると、旧い価値観の人びとは、会社は学校じゃないとか、仕事はお遊びじゃないなんて言い出す人も結構いるでしょう。でもその管理手法のおかげで会社は多くの精神疾患の病人を出すに至っています。センスのある人なら、朝礼の場で、あるいは職場の昼休みとかには休みはどうだったかとか聞いて楽しかった思い出話を傾聴するくらいの心のゆとりは欲しいところです。みなさんの職場はどうですか。ひさびさの会社はどうでしょう。シーンとして会話のない職場になっていないですか。
PSIとしては自分軸ということを主軸に据えています。仕事も趣味もプライベートも自分の意思を中心として楽しみながら過ごしたいものです。また変わらない日常の中にファンタジックな楽しい時間を埋め込みながら、ストレスをためず人生のかけがえのない時間をエンジョイしてまいりましょう。そのためにも短期の楽しみと同時に、より長いスパン、すなわち人生をかけてやり遂げたいことも目標に据えてそれもひとつひとつ積み上げていく楽しみも持ちながら生活するととても有意義です。
人間は忙しいほど、悩みは減っていきます。忙しい、忙しいと言っている人ほどそう大して忙しくなかったりします。ホントに忙しい人は、充実していると言います。精神疾患になりやすい環境はやることが少なく、考える時間が多いということです。それで私としては自分に短期、中期、長期、人生というスパンでにいろいろ課題を課してやっています。そしてその課題はすべて人生の目標に集約されるようにプログラムするのです。仕事でも趣味でも、また学業やプライベートでもそういうふうにしていくととても充実した人生設計になって生き生き人生を送ることが可能です。
2013年5月1日水曜日
悪戦苦闘、効率の上がる学習法
年齢を重ねても、意欲的な人は学習意欲は落ちないと思う今日この頃ですが、みなさんはいかがでしょう。通勤電車の中でラッシュにも関わらず、本を開いて読んでいるサラリーマンやOLの人を見ているととても頑張ってるなと感じてしまいます。
それで私も殺人的なラッシュ時以外は通勤の時間は読書や学習の時間に充てているのですが、これはとても人生の有効活用といった面ではとてもおススメです。私はもともとじっと座って読書というのはできないというか苦手なタイプでして、やはり通勤時間は最高の時間です。以前は出張の新幹線、飛行機なども、そういった面ではかなり有効利用させていただきました。
あとはラッシュでも学習する方法としては、MP3プレイヤーなどにさまざまな講演、学習の音声データを仕込ませて、それを聞きながらというのがあります。ギュウギュウ詰めの電車に揺られて脳は活性化という時間もなかなかオツなものです。以前出張が多かったときはDVDなども使ったのですが、どうも乗り物に揺られている状況で映像を見続けるというのは私は苦手で頭痛が始まる感じを受けます。電車の中でゲームやテレビなど映像を見ている人はすごいなと思ってしまいます。
年齢を重ねても、いや年齢を重ねるほど学習していかなければ、自分より若い世代には置いて行かれてしまいます。若い人たちの関心事に無関心になるのでなく、ちょっと関心を持ってみることも新しい世界が開けていいのかなと思います。テレビでおなじみの獨協大学の森永教授はそういった面では最先端の年長者なのかもしれません。最強の組織は組織の成員がやはり学習する組織という話を考えると、やはり社内に学習の雰囲気があまり感じられない会社は、もう成熟しきっているのか、発展シロがないから新しいものを取り入れる意欲がないのか……。いずれにせよ、そういう会社ならなおさら学習して自己の成長を促す行動に出たいものです。
最近は社会人や主婦も大学、大学院へと通うようになったり、資格をとるために勉強を始める人も多いようです。もちろん環境的にも少子化によって学生数が圧倒的に減少している状況下では教育機関は生き残るのは大変なことです。そこで、すでに既卒者である社会人や主婦、退職した人びと、また外国人などへ市場を広げることで生き残りを図るという実情があり、それも生涯学習の風潮をつくりだしてるのだと思います。
年齢を重ねてからの学習は10代、20代のころの学習と違ってある面、思考が教育者に近いのでとても効率的です。試験を受けるにも出題者と同世代、あるいはそれより上なんてことがあると感覚的に出題の意図が即座に分かってしまうなんてこともありえます。これはある面、大人の知恵っていえるかもしれません。それで大人の感覚でこどもたちの解いている問題を見るとなんで分かんないのかなって思ったりします。それはこども以上に多くの経験を積んできた出題者と同じ大人の視点があるからなのだと思います。
大人になって大学にもどって勉強している人を見てみると、下手をすると、大学教授より同世代あるいは年配の学生のほうが詳しいといったこともよくある話です。アカデミックな世界だけにいた学者より、経営の現場にいて長年社長をやってきた学生のほうがいろんな面で優れていたりします。頭だけでなく、体感しているわけです。もちろん大学の先生もそういったことをよく分かっていて、彼らには敬意を払ったりするわけです。ただ実際、学生として再び学びの場に戻ってくる学生にとっては、会社という閉鎖的な組織の中にだけいることで考え方が硬直化、老朽化してしまうリスクを回避して、大学でまた新鮮な空気を吸うことも意義深いことです。
PSIブログを読んでいただいている方々は、学習意欲が高い方も多くいらっしゃると思うのですが、年齢を重ねての学習は若いころとは違った学習方法を考えなければならないと思うのです。会社や仕事を引退して年金暮らしという方は普通に学生のように学生生活を謳歌するのもいいかもしれません。でも社会人や主婦という立場ならばいかに効率的に時間配分を考えて勉強時間を捻出するかといった課題もあります。そういった面では通勤時間は便利な時間です。料理の合間の時間もいいかもしれません。
もう一つ、私の例でいうと、長年ストレス回避の健康法を訴えてきた関係上?とにかく勉強するにしても一切ストレスを感じることはしたくないという前提があるのです。それで関心があることは本を読めばどんどん頭に入ってきて、そのことを家族や友人に話したりすることで記憶として定着するのです。また仕事や講演で使えるなということがらは当然それをもとにプレゼンデータをつくったりしますから、さらに記憶の定着にはいいわけです。
ところがすぐには使えないけど絶対覚えておかなければならないことは暗記するのがとても疲れるのです。関連付けて覚える暗記法などもあるのですが、どうしても億劫になるのです。ストレスを受けたくない性分なので脳に負荷をかけることはホントに嫌なのです。それでいかに脳に負荷をかけずにこれを覚えようかとあれこれ考えていろいろやっているうちに思いついたことがあったのです。それはちょっと下種な話になりますが、「下ネタ」にかこつけて覚えていくという手法?です。本やテキストにはそれを鉛筆で書いて妄想しながら楽しみながら覚えるというやり方です。なぜ鉛筆かというと完璧覚えた後には消して置きたいからです。いつ家族がそれを見るかもしれませんから…。
年齢とともにオヤジギャグや下ネタは多くなってきます。それは脳の前頭前野が退化することで理性が鈍ってくるからだとか、ならばそれを逆に利用しちゃえということでそういった方法もあります。(もちろん私の独自の考えですが……)男性はそれでいいかもしれませんが、女性はどうしたらいいのか、私は男性なのでよくわかりません。ただ女性も同じ人間、実際問題としてそういったことに関心があるとするならば、イケメンの男性や好きな芸能人との恋とか妄想しながら楽しみながら暗記していくということもいいのではないでしょうか。だれもそんな方法で知識の蓄積がなされているなんて誰も思いませんから。相変わらず言いたい放題のコラムですが、もしよければ参考にしてみてくださいね。
それで私も殺人的なラッシュ時以外は通勤の時間は読書や学習の時間に充てているのですが、これはとても人生の有効活用といった面ではとてもおススメです。私はもともとじっと座って読書というのはできないというか苦手なタイプでして、やはり通勤時間は最高の時間です。以前は出張の新幹線、飛行機なども、そういった面ではかなり有効利用させていただきました。
あとはラッシュでも学習する方法としては、MP3プレイヤーなどにさまざまな講演、学習の音声データを仕込ませて、それを聞きながらというのがあります。ギュウギュウ詰めの電車に揺られて脳は活性化という時間もなかなかオツなものです。以前出張が多かったときはDVDなども使ったのですが、どうも乗り物に揺られている状況で映像を見続けるというのは私は苦手で頭痛が始まる感じを受けます。電車の中でゲームやテレビなど映像を見ている人はすごいなと思ってしまいます。
年齢を重ねても、いや年齢を重ねるほど学習していかなければ、自分より若い世代には置いて行かれてしまいます。若い人たちの関心事に無関心になるのでなく、ちょっと関心を持ってみることも新しい世界が開けていいのかなと思います。テレビでおなじみの獨協大学の森永教授はそういった面では最先端の年長者なのかもしれません。最強の組織は組織の成員がやはり学習する組織という話を考えると、やはり社内に学習の雰囲気があまり感じられない会社は、もう成熟しきっているのか、発展シロがないから新しいものを取り入れる意欲がないのか……。いずれにせよ、そういう会社ならなおさら学習して自己の成長を促す行動に出たいものです。
最近は社会人や主婦も大学、大学院へと通うようになったり、資格をとるために勉強を始める人も多いようです。もちろん環境的にも少子化によって学生数が圧倒的に減少している状況下では教育機関は生き残るのは大変なことです。そこで、すでに既卒者である社会人や主婦、退職した人びと、また外国人などへ市場を広げることで生き残りを図るという実情があり、それも生涯学習の風潮をつくりだしてるのだと思います。
年齢を重ねてからの学習は10代、20代のころの学習と違ってある面、思考が教育者に近いのでとても効率的です。試験を受けるにも出題者と同世代、あるいはそれより上なんてことがあると感覚的に出題の意図が即座に分かってしまうなんてこともありえます。これはある面、大人の知恵っていえるかもしれません。それで大人の感覚でこどもたちの解いている問題を見るとなんで分かんないのかなって思ったりします。それはこども以上に多くの経験を積んできた出題者と同じ大人の視点があるからなのだと思います。
大人になって大学にもどって勉強している人を見てみると、下手をすると、大学教授より同世代あるいは年配の学生のほうが詳しいといったこともよくある話です。アカデミックな世界だけにいた学者より、経営の現場にいて長年社長をやってきた学生のほうがいろんな面で優れていたりします。頭だけでなく、体感しているわけです。もちろん大学の先生もそういったことをよく分かっていて、彼らには敬意を払ったりするわけです。ただ実際、学生として再び学びの場に戻ってくる学生にとっては、会社という閉鎖的な組織の中にだけいることで考え方が硬直化、老朽化してしまうリスクを回避して、大学でまた新鮮な空気を吸うことも意義深いことです。
PSIブログを読んでいただいている方々は、学習意欲が高い方も多くいらっしゃると思うのですが、年齢を重ねての学習は若いころとは違った学習方法を考えなければならないと思うのです。会社や仕事を引退して年金暮らしという方は普通に学生のように学生生活を謳歌するのもいいかもしれません。でも社会人や主婦という立場ならばいかに効率的に時間配分を考えて勉強時間を捻出するかといった課題もあります。そういった面では通勤時間は便利な時間です。料理の合間の時間もいいかもしれません。
もう一つ、私の例でいうと、長年ストレス回避の健康法を訴えてきた関係上?とにかく勉強するにしても一切ストレスを感じることはしたくないという前提があるのです。それで関心があることは本を読めばどんどん頭に入ってきて、そのことを家族や友人に話したりすることで記憶として定着するのです。また仕事や講演で使えるなということがらは当然それをもとにプレゼンデータをつくったりしますから、さらに記憶の定着にはいいわけです。
ところがすぐには使えないけど絶対覚えておかなければならないことは暗記するのがとても疲れるのです。関連付けて覚える暗記法などもあるのですが、どうしても億劫になるのです。ストレスを受けたくない性分なので脳に負荷をかけることはホントに嫌なのです。それでいかに脳に負荷をかけずにこれを覚えようかとあれこれ考えていろいろやっているうちに思いついたことがあったのです。それはちょっと下種な話になりますが、「下ネタ」にかこつけて覚えていくという手法?です。本やテキストにはそれを鉛筆で書いて妄想しながら楽しみながら覚えるというやり方です。なぜ鉛筆かというと完璧覚えた後には消して置きたいからです。いつ家族がそれを見るかもしれませんから…。
年齢とともにオヤジギャグや下ネタは多くなってきます。それは脳の前頭前野が退化することで理性が鈍ってくるからだとか、ならばそれを逆に利用しちゃえということでそういった方法もあります。(もちろん私の独自の考えですが……)男性はそれでいいかもしれませんが、女性はどうしたらいいのか、私は男性なのでよくわかりません。ただ女性も同じ人間、実際問題としてそういったことに関心があるとするならば、イケメンの男性や好きな芸能人との恋とか妄想しながら楽しみながら暗記していくということもいいのではないでしょうか。だれもそんな方法で知識の蓄積がなされているなんて誰も思いませんから。相変わらず言いたい放題のコラムですが、もしよければ参考にしてみてくださいね。
2013年4月28日日曜日
結果よりもプロセスを楽しむということ
最近、また気づいたことですが、モチベーションがなんとなく下がってしまう原因のひとつにやってもやっても結果が出ないということがあります。それで普段の生活の中でそのことに気づかず過ごしていたということに気づいたのです。そうです、何か力が出ない原因は投入したことに対してそれにふさわしい結果が与えられていないということであったのです。
スポーツの世界ならスランプに陥っているという状態なのかもしれません。それで、もがき苦しみながらなんとか結果を出そうと頑張るということになるわけです。ただスポーツの世界ならば、ある面単純で、その結果を判断材料にどこが悪いのかメンタル面もふくめて徹底して分析し、また専門家であるコーチや監督に相談して結果が出るように頑張ればいいわけです。
私たちは普段の生活の中で会社の仕事だけでなく、いろいろなことに取り組むと気楽に始めて、やりまくるわけですが、やはり結果が出ないといつの間にかそのことに関心が行かなくなったり、あきらめたり途中辞めになってしまったりします。モノを売るとしても、やっぱり市場のニーズがなかったのかなとか、みんなこういうものには関心ないんだとか思って投げ出してしまうわけです。
そういう中で気づいたことは、以前営業の仕事をしていたとき、やってもやっても結果が出ず、もう嫌気がさすぐらい嫌になったところで思い返し、とても大きな結果が出たという体験があったのです。それは
「もう結果はずっと出なくていいや、自分がこの仕事を好きで、楽しめばいいんだ。とにかく結果は一切気にせず、この仕事を楽しもう!」
という気持ちになったときのことでした。完全にふっ切れて何かスッキリとした気持ちで再出発したのです。そうしたところ、市場の状況が大きく変わっていったのです。会う人会う人、大きな案件が成立し始めたのです。これには他の誰でもない自分自身がとても驚きました。今思うと、完全に自分の気持ちが変わることによって、顧客の受け止め方も大きく変わったのだと思います。おそらく、そこで少しでも結果を求める下心があるならば、きっと契約は成立せず、同じように結果の出ない日々が続いていたに違いありません。(これは恋愛に関しても言えることですが、それは機会があれば…)
精神的にふっ切れたり、割り切れたりしたら心はスッキリとしますし、大きく気持ちの上でラクになるのです。ですから相手に対して、ある面ハッキリと言うべきところは言えるし、しつこく食い下がるといった相手の気持ちを害するような言動もなくなります。なぜなら結果はどうでもいいからなのです。おそらく営業がうまくいかないという人に多いのは自分の力技でやろうとしているところだと思います。そこに上司からの圧力があれば尚更追い込まれますから結果に執着するようになり、よけいに結果は出なくなるのです。
結果なんかどうでもいいという気持ちで相手との交渉を楽しめれば、きっと相手も気持ちよく提案に応じてくれるはずです。結果が出るかどうかはあくまでこちらの都合であって、相手には何も関係ないからです。心の中でこちらの都合を意識した交渉はうまく行くはずがありません。やはり人間は感情をもつ動物です。こちらの一方的な自己中心的意識は空気として必ず伝わっていくはずです。無私の思いで相手を喜ばせよう、利益を提供しようという意識のみが相手に感動を呼び起こし、自分を受け入れてもらえるきっかけとなるのです。
よく結果に責任を持てなんていう人がいますが、ホントに結果に責任を持とうと思ったら、ある面、結果に一切関心を持たないで営業プロセスを楽しめるかどうかというたいへんパラドクシカルな思考がそこには必要となってくるのです。すなわちカタチだけでない心からあふれてくるような利他的思考こそが結果をもたらしてくれる原因なのです。
営業の統括責任者として立っているような人はそういった部下の精神的な動きを見抜くことができなければホントの意味で営業、販売指導などはスキルだけに終始し、ますます負のスパイラルに入ってしまうのです。そして部下に結果が出ないといって圧力をかけたりするとコンプライアンスの問題まで引き起こす結果となるかもしれません。昔のようにモノを提供すればすぐ購入するような時代ではないのです。そういう時代は自然に結果が出るのでストレスもなく、結果にもそれほど執着せず楽しみながら営業できたはずですが、モノがあふれている今の時代は全く市場環境も違うし、心のゆとりも無くなってきているのです。
結論として言えること、それはすべての言動の源泉となるものはやはり利他的愛情に他ならないということにつきるのです。もちろんそういった意識転換がなされた上でやり続け、それでも結果が伴わないとするならば、当然市場のニーズと関係のないものを提供し続けているとか、価格の面が問題だとか、パッケージがどうだとか商品自体の問題や流通ルート、すなわち訴求先自体が間違っていたのではないかというさまざまな疑問を持つことは重要で、それに気づかない上司や経営者、会社はまた違った意味で致命的なのです。
スポーツの世界ならスランプに陥っているという状態なのかもしれません。それで、もがき苦しみながらなんとか結果を出そうと頑張るということになるわけです。ただスポーツの世界ならば、ある面単純で、その結果を判断材料にどこが悪いのかメンタル面もふくめて徹底して分析し、また専門家であるコーチや監督に相談して結果が出るように頑張ればいいわけです。
私たちは普段の生活の中で会社の仕事だけでなく、いろいろなことに取り組むと気楽に始めて、やりまくるわけですが、やはり結果が出ないといつの間にかそのことに関心が行かなくなったり、あきらめたり途中辞めになってしまったりします。モノを売るとしても、やっぱり市場のニーズがなかったのかなとか、みんなこういうものには関心ないんだとか思って投げ出してしまうわけです。
そういう中で気づいたことは、以前営業の仕事をしていたとき、やってもやっても結果が出ず、もう嫌気がさすぐらい嫌になったところで思い返し、とても大きな結果が出たという体験があったのです。それは
「もう結果はずっと出なくていいや、自分がこの仕事を好きで、楽しめばいいんだ。とにかく結果は一切気にせず、この仕事を楽しもう!」
という気持ちになったときのことでした。完全にふっ切れて何かスッキリとした気持ちで再出発したのです。そうしたところ、市場の状況が大きく変わっていったのです。会う人会う人、大きな案件が成立し始めたのです。これには他の誰でもない自分自身がとても驚きました。今思うと、完全に自分の気持ちが変わることによって、顧客の受け止め方も大きく変わったのだと思います。おそらく、そこで少しでも結果を求める下心があるならば、きっと契約は成立せず、同じように結果の出ない日々が続いていたに違いありません。(これは恋愛に関しても言えることですが、それは機会があれば…)
精神的にふっ切れたり、割り切れたりしたら心はスッキリとしますし、大きく気持ちの上でラクになるのです。ですから相手に対して、ある面ハッキリと言うべきところは言えるし、しつこく食い下がるといった相手の気持ちを害するような言動もなくなります。なぜなら結果はどうでもいいからなのです。おそらく営業がうまくいかないという人に多いのは自分の力技でやろうとしているところだと思います。そこに上司からの圧力があれば尚更追い込まれますから結果に執着するようになり、よけいに結果は出なくなるのです。
結果なんかどうでもいいという気持ちで相手との交渉を楽しめれば、きっと相手も気持ちよく提案に応じてくれるはずです。結果が出るかどうかはあくまでこちらの都合であって、相手には何も関係ないからです。心の中でこちらの都合を意識した交渉はうまく行くはずがありません。やはり人間は感情をもつ動物です。こちらの一方的な自己中心的意識は空気として必ず伝わっていくはずです。無私の思いで相手を喜ばせよう、利益を提供しようという意識のみが相手に感動を呼び起こし、自分を受け入れてもらえるきっかけとなるのです。
よく結果に責任を持てなんていう人がいますが、ホントに結果に責任を持とうと思ったら、ある面、結果に一切関心を持たないで営業プロセスを楽しめるかどうかというたいへんパラドクシカルな思考がそこには必要となってくるのです。すなわちカタチだけでない心からあふれてくるような利他的思考こそが結果をもたらしてくれる原因なのです。
営業の統括責任者として立っているような人はそういった部下の精神的な動きを見抜くことができなければホントの意味で営業、販売指導などはスキルだけに終始し、ますます負のスパイラルに入ってしまうのです。そして部下に結果が出ないといって圧力をかけたりするとコンプライアンスの問題まで引き起こす結果となるかもしれません。昔のようにモノを提供すればすぐ購入するような時代ではないのです。そういう時代は自然に結果が出るのでストレスもなく、結果にもそれほど執着せず楽しみながら営業できたはずですが、モノがあふれている今の時代は全く市場環境も違うし、心のゆとりも無くなってきているのです。
結論として言えること、それはすべての言動の源泉となるものはやはり利他的愛情に他ならないということにつきるのです。もちろんそういった意識転換がなされた上でやり続け、それでも結果が伴わないとするならば、当然市場のニーズと関係のないものを提供し続けているとか、価格の面が問題だとか、パッケージがどうだとか商品自体の問題や流通ルート、すなわち訴求先自体が間違っていたのではないかというさまざまな疑問を持つことは重要で、それに気づかない上司や経営者、会社はまた違った意味で致命的なのです。
2013年4月23日火曜日
ネットワークビジネスに利用される成功哲学について
成功哲学、人生で何度か関心をもったり、あるいは心酔してはまっていたという人もいるでしょう。特にネットワークビジネスなど体験した人(現在進行形の人もいるかもしれませんが)などは自分を鼓舞するためにいつもそういった本を携帯されたり愛読されたりしたのではないでしょうか。
PSIでは人生は成功するというより、一人ひとりがしあわせになるということに主眼を置いているので、あまり成功するといったことに傾倒することはありません。もちろん成功することが悪でもなければ、成功哲学をまやかしだなんて言うつもりもありませんし、とても人間のモチベーションを上げるには要点をついた考え方が多くあると思います。ただ世の中でホントに成功しているなと思える人で成功哲学を推奨する人はほとんど見たことがありません。
経営者という観点では、たとえばユニクロの柳井会長はドラッガーの信奉者ですし、成功していると言われる経営者の多くはMBAホルダーはいても、成功哲学の話をするのを聞いたことがないのです。経営学と成功哲学はどこが違うのでしょうか。
成功哲学というとネットワークビジネス(以降MLM[マルチレベルマーケティングの略]と表示)やせいぜいベンチャーで成功するというイメージがあるのですが、それで成功したと言われる人たちと経営者として成功した人たちを比べるとまったく世界が違うように思います。前者は一攫千金的な感覚があるのに対して、後者は地道に確実に基盤を築いて成功を収めるというイメージがあります。二項対論的に言うのは避けたいところですが、コントラスト効果でわかりやすくするためにあえてお許し願いたいのですが、前者はギラギラしている感じで、後者は案外地味であったりします。
よくテレビに優良企業の経営者とか出てくると、あまりにイメージと違って拍子抜けすることがあるのですが、私が特に感じるのは少年のような無邪気な気持ちを持っていてなおかつゆったりとしたゆとりを感じるのです。あまり忙しないような人は見かけないように思います。まあ実際はわかりませんが。そして経営者でテンションがメチャメチャ高くて、まくしたてるように喋る人もいません。逆にインタビュアーが社長、そんなんでいいんですかとびっくりするくらい、ゆったりしていたりします。特にうまく会社や社員を回している経営者は権限移譲や社員のポテンシャルとうまく引き出してあまり自分でせかせかと働きまくる人はいないように思います。
MLMなどでは希少性を狙ったアプローチで人びとを動かし、ビジネスへと駆り立てます。そこに成功哲学的思想を植えつけ、成功=善、行動しない=悪としてある面、やる気のなさを排除しにかかります。そしてプライドをいじられた人はついついその話術に乗って行動してしまうのです。でもMLMで成功できる人はほんの一握りの人です。多くの人びとは成功できないのです。でも成功できないからこそ、みんなMLMにはまるのです。すなわち「儲からない」の裏返しは「金持ちになりたい」です。ギャンブルがなぜやめられないか、それは儲からないからです。儲かれば、さらに儲けたいと欲が出ますし、儲からなければ儲かるまでやる、すなわち負け続けるという構図です。
ネットワーカーがジャンキーになるのは簡単です。勝てないギャンブルがやり続ける要因になっていて、さらに勝てるはずだというギャンブルに向かわせるのです。したがって、ネットワーカーは相当上部組織である程度の安定収入でなければ、下部組織の人びとはつねに渡り鳥のようにいろんなMLBを渡り歩くのです。MLBは基本的には本社だけが潤い、末端の販売組織の人びとはつねに新陳代謝を繰り返し、上層部も下層部も残る人はMLBが宗教化してその会社と商材に対する信仰が定着した人びとだけです。そういうMLBの経営トップはほとんどがカリスマがあり教祖と化しているケースが多々あります。
もともとナポレオンヒルも成功した実業家をリサーチすることで成功法則を導き出したわけですが、いつの間にかそういった考え方が成功できないシステムにうまく利用されてしまっています。成功哲学も本来は違った観点でつくられたのかもしれませんが、実際は成功哲学、自己啓発セミナーといったものも多くはマユツバものとしてとらえられている節があります。
MLMでは成功哲学を武器として、いわゆる緊張系のモチベーションをあおり、短期で高額なリターンをウリにして人びとをビジネスに駆り立てます。ちょうど瞬間湯沸かし器のようなもので、急激にお湯が沸いて、なかなか冷めないのです。そのあとは客観的に見たらどう考えても無理なのに、それを維持しようと必死になります。ただやり続ける人もいますが、やめる人も多いのです。なぜかと言うと緊張系のモチベーションで一時的にテンションをあげてガーッと実績をあげる手法です。すなわち短距離走ばかりやりつづけることを要求されるのです。さすがに限界を感じてやめる人も多くいます。ただやめた人びとが多く、その人たちがそのMLMの会社の世間での評価をつくっているわけですから、当然MLMはいいイメージになるわけがありません。私はかねてよりCS(顧客満足)よりES(従業員満足)と訴えてきましたが、それは従業員やその家族が市場でもあるからなのです。
成功哲学を利用したMLMのような外発的動機づけ、すなわち金持ちになるということを前面に押し出して人を動かすという観点は長続きしようがありません。世間に認められる会社経営はより内発的動機づけ、すなわち社会貢献やそれを実践している誇りなどがベースにあって、地道な努力の結果として富の蓄積がなされていくのです。すなわち金儲けはどこまでも結果でしかないのです。結果自体を露骨に目的としてしまったMLMはマネーゲームの様相にならざるをえないのです。こういうことを言うと金儲けが悪のように言うのは間違っていると言う人が必ず出てきます。悪だとは言いませんが、動機が金儲けになれば結果は破たんです。自己中心的動機は自分を滅ぼすのです。利他主義に徹するときにいつの間にか豊かになっているというのが経営であり、成功哲学を利用するMLMの違いだと思います。
もちろん断っておきますが、すべてのMLMが悪いというつもりはありません。ただ人間の心理を巧みに利用するビジネスはどう考えても、コンプライアンス的観点からも疑問を呈せざるえないことも事実です。成功哲学は個人的に自分を鼓舞するのに利用し、あまり人をあおって動かすことに使うのはリスクを感じます。いずれにせよ、PSIは経済的に成功するかどうかという以前に、人間として社会の一員として人に迷惑をかけず、自分自身もしあわせになる(である)ということを中心的テーマにしていますので、くれぐれも甘い言葉には気をつけていきたいものです。
PSIでは人生は成功するというより、一人ひとりがしあわせになるということに主眼を置いているので、あまり成功するといったことに傾倒することはありません。もちろん成功することが悪でもなければ、成功哲学をまやかしだなんて言うつもりもありませんし、とても人間のモチベーションを上げるには要点をついた考え方が多くあると思います。ただ世の中でホントに成功しているなと思える人で成功哲学を推奨する人はほとんど見たことがありません。
経営者という観点では、たとえばユニクロの柳井会長はドラッガーの信奉者ですし、成功していると言われる経営者の多くはMBAホルダーはいても、成功哲学の話をするのを聞いたことがないのです。経営学と成功哲学はどこが違うのでしょうか。
成功哲学というとネットワークビジネス(以降MLM[マルチレベルマーケティングの略]と表示)やせいぜいベンチャーで成功するというイメージがあるのですが、それで成功したと言われる人たちと経営者として成功した人たちを比べるとまったく世界が違うように思います。前者は一攫千金的な感覚があるのに対して、後者は地道に確実に基盤を築いて成功を収めるというイメージがあります。二項対論的に言うのは避けたいところですが、コントラスト効果でわかりやすくするためにあえてお許し願いたいのですが、前者はギラギラしている感じで、後者は案外地味であったりします。
よくテレビに優良企業の経営者とか出てくると、あまりにイメージと違って拍子抜けすることがあるのですが、私が特に感じるのは少年のような無邪気な気持ちを持っていてなおかつゆったりとしたゆとりを感じるのです。あまり忙しないような人は見かけないように思います。まあ実際はわかりませんが。そして経営者でテンションがメチャメチャ高くて、まくしたてるように喋る人もいません。逆にインタビュアーが社長、そんなんでいいんですかとびっくりするくらい、ゆったりしていたりします。特にうまく会社や社員を回している経営者は権限移譲や社員のポテンシャルとうまく引き出してあまり自分でせかせかと働きまくる人はいないように思います。
MLMなどでは希少性を狙ったアプローチで人びとを動かし、ビジネスへと駆り立てます。そこに成功哲学的思想を植えつけ、成功=善、行動しない=悪としてある面、やる気のなさを排除しにかかります。そしてプライドをいじられた人はついついその話術に乗って行動してしまうのです。でもMLMで成功できる人はほんの一握りの人です。多くの人びとは成功できないのです。でも成功できないからこそ、みんなMLMにはまるのです。すなわち「儲からない」の裏返しは「金持ちになりたい」です。ギャンブルがなぜやめられないか、それは儲からないからです。儲かれば、さらに儲けたいと欲が出ますし、儲からなければ儲かるまでやる、すなわち負け続けるという構図です。
ネットワーカーがジャンキーになるのは簡単です。勝てないギャンブルがやり続ける要因になっていて、さらに勝てるはずだというギャンブルに向かわせるのです。したがって、ネットワーカーは相当上部組織である程度の安定収入でなければ、下部組織の人びとはつねに渡り鳥のようにいろんなMLBを渡り歩くのです。MLBは基本的には本社だけが潤い、末端の販売組織の人びとはつねに新陳代謝を繰り返し、上層部も下層部も残る人はMLBが宗教化してその会社と商材に対する信仰が定着した人びとだけです。そういうMLBの経営トップはほとんどがカリスマがあり教祖と化しているケースが多々あります。
もともとナポレオンヒルも成功した実業家をリサーチすることで成功法則を導き出したわけですが、いつの間にかそういった考え方が成功できないシステムにうまく利用されてしまっています。成功哲学も本来は違った観点でつくられたのかもしれませんが、実際は成功哲学、自己啓発セミナーといったものも多くはマユツバものとしてとらえられている節があります。
MLMでは成功哲学を武器として、いわゆる緊張系のモチベーションをあおり、短期で高額なリターンをウリにして人びとをビジネスに駆り立てます。ちょうど瞬間湯沸かし器のようなもので、急激にお湯が沸いて、なかなか冷めないのです。そのあとは客観的に見たらどう考えても無理なのに、それを維持しようと必死になります。ただやり続ける人もいますが、やめる人も多いのです。なぜかと言うと緊張系のモチベーションで一時的にテンションをあげてガーッと実績をあげる手法です。すなわち短距離走ばかりやりつづけることを要求されるのです。さすがに限界を感じてやめる人も多くいます。ただやめた人びとが多く、その人たちがそのMLMの会社の世間での評価をつくっているわけですから、当然MLMはいいイメージになるわけがありません。私はかねてよりCS(顧客満足)よりES(従業員満足)と訴えてきましたが、それは従業員やその家族が市場でもあるからなのです。
成功哲学を利用したMLMのような外発的動機づけ、すなわち金持ちになるということを前面に押し出して人を動かすという観点は長続きしようがありません。世間に認められる会社経営はより内発的動機づけ、すなわち社会貢献やそれを実践している誇りなどがベースにあって、地道な努力の結果として富の蓄積がなされていくのです。すなわち金儲けはどこまでも結果でしかないのです。結果自体を露骨に目的としてしまったMLMはマネーゲームの様相にならざるをえないのです。こういうことを言うと金儲けが悪のように言うのは間違っていると言う人が必ず出てきます。悪だとは言いませんが、動機が金儲けになれば結果は破たんです。自己中心的動機は自分を滅ぼすのです。利他主義に徹するときにいつの間にか豊かになっているというのが経営であり、成功哲学を利用するMLMの違いだと思います。
もちろん断っておきますが、すべてのMLMが悪いというつもりはありません。ただ人間の心理を巧みに利用するビジネスはどう考えても、コンプライアンス的観点からも疑問を呈せざるえないことも事実です。成功哲学は個人的に自分を鼓舞するのに利用し、あまり人をあおって動かすことに使うのはリスクを感じます。いずれにせよ、PSIは経済的に成功するかどうかという以前に、人間として社会の一員として人に迷惑をかけず、自分自身もしあわせになる(である)ということを中心的テーマにしていますので、くれぐれも甘い言葉には気をつけていきたいものです。
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