つい最近、女子柔道の15人の選手が女子柔道代表監督の園田氏に対して暴力を受けたことを集団で告発するという問題が起こりました。前回までお話していた大阪市立桜宮高校の体罰による自殺問題に引き続き、またかと思わせるようなできごとです。
今までスポーツの世界では、体罰などという内容は間違いなくあったのですが、半ばタブー視されてきました。私自身も経験したことなので、はっきりと断言したいと思うのですが、社会的にはそれは明るみに出ることはあまりなかったわけです。今回の女子柔道の選手たちによる告発も桜宮高校の一連のできごともおそらく引き金になっているのではないかと考えざるを得ません。今回告発した女子選手たちの実名をJOCは非公開にしていますが、それは当然のことと考えます。なぜならば企業の不祥事などもそうですが、告発した者は必ず保護されるべきなのに、結果として仕事しづらい状況に追いやられ、社員からは裏切り者のようなレッテルを貼られ、最終的には退職せざる得ないことになってしまうのです。
実際、告発者は大衆の意見を代表しているにもかかわらず、大衆は彼を見捨てるのです。いじめがなぜなくならないか。沈黙を守る集団の圧力はいつも加害者側に立ってしまうからなのです。正しいと思って声をあげるとみんなの気持ちを代表しているにもかかわらず潰されてしまうのです。私は中学校のときある運動部に所属し、伝統的に行われてきた体罰に匹敵する儀式を受け、あまりの悔しさに両親に話したところ、両親は学校に訴え、すぐに私がチクッたという話で学校中が持ちきりになりました。私はそのことをある程度予想して、両親には絶対学校には言わないでと言っておいたのですが、やはり親は心配だったのでしょう。ちょうどそれが一年生の入部当初の話だったので、周りの目はとても冷ややかでものすごく辛い思いをしたことがあります。一年生の半年くらいは学校に行くとみんなが私の悪口、陰口を言っているようで、言葉では表せられないほどの苦しみがありました。でも私に非があるわけではないので、気丈に振る舞い、まったく変わらない姿勢でクラスメートや友だちに接し続け、やがて彼らもいままでの友だちに戻ってくれました。それで針のむしろのような生活からは解放されました。
未だにあのときのことを振り返ると苦しくなって思い出したくありません。聖書に出てくるイエスキリストが十字架を背負ってひとりゴルゴダの丘をめざすとき、いわれなき中傷誹謗を受け、石を投げつけられて誰一人として自分を理解する人はいない、そのような心境でした。こんな喩えをすると、次元が違いすぎて敬虔なクリスチャンの方々にはお叱りを受けるかもしれませんが、自分にとってはそれほどたいへんなできごとだったのです。全校生徒を敵に回し、力になってくれる教師は一人もいないどころか、担任のせいで私のチクリだとレッテルを貼られ、本当に辛い思いをしました。
でも私はあのときのことがあるので、とても強い人間になれた気がします。あのときより苦しいできごとは未だに遭遇していません。またPSIで中心的なフレームとしてあげている「どう思われてもいい」という考え方はそのときの体験がベースになっているということもあります。また自分が平然として変わらなければ、いずれ周りが変わるのだという体験もしました。だから今いじめられている人がもしいたら、どうしたらいいかお話してあげたいです。強く気丈に誰が理解してくれなくても、あなた自身があなたを守ってください。神を信じている人は、誰が理解しなくても神様は見守ってくれていると信じることはとても素晴らしいことです。
ちょっと私ごとで長くなりましたが、今回の女子柔道の集団での告発は、ある面画期的なできごとであったと思います。なぜなら告発者が多いからです。企業の不祥事を告発した例で、北海道のミートホープ株式会社の赤羽さんのことを思い出します。彼は自分自身も逮捕されるのを覚悟して社長の食品偽装を告発した人でした。彼の戦いは行政との戦いでもありましたし、取引先まで敵に回して、すなわち組織論理で動く馬鹿でかい存在との戦いでした。最終的には彼は会社を辞めて自分の心に従って正義を貫きました。企業の告発者の多くは正しいことをしたにもかかわらず、犠牲になっています。本当に理不尽極まりないことだと思います。でも今回の女子柔道の告発者はひとりではありません。権威や権力をもつ指導的立場にある人や、組織という強固な相手に立ち向かうには数の論理しかありません。よく15人もの人が一つになって告発できたなと感心せざるえません。と同時にどれほど監督が人心を掌握できず暴力まで使ってみんなに不満をもたれていたかあきれる次第です。もう告発があった段階で、留任なんて選択肢を考える方が馬鹿です。15人という数が自分たちが守られる最大の力です。とにかく告発した女子柔道の15人は絶対に保護されるべきであり、大好きな柔道が続けられる環境をJOCも全柔連(全日本柔道連盟)も全力をあげて整えるべきであると考えます。
ちなみに私は中学校に入って問題が起きたその運動部から別の運動部への転部を余儀なくされ小学校時代から描いていた夢ははかなく散ったということを付け加えておきたいと思います。
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2013年1月31日木曜日
2013年1月29日火曜日
企業の崩壊に思うこと
最近企業崩壊の状況を描いたドラマ「メイドインジャパン」を見ていろいろ考えさせられました。もちろん内容はフィクションであるので、現実的でない部分はふんだんにあるわけですし、ドラマとして面白くするための工夫が多分になされていることと思います。
ただこのドラマにはいろんな要素が織り交ぜられていてとても面白いと思いました。すでに一話は放映済みですが再放送もあるようなのでぜひご覧になってみてください。
http://www.nhk.or.jp/drama/madeinjapan/
まず、組織変革や大きな仕事を託される人材というのは、組織に埋もれてしまうような平凡なごく普通の人では到底できないという話です。タクミ電機の経営危機回避を託されたのもやはりそういった組織内では一癖も二癖もある実力者でした。もちろん彼らは組織内で同化しきれず浮いた存在ではありますが、個々人の能力はそれぞれのエキスパートです。
会長が最終的にクビを切ろうとしたのは現社長である自分の息子です。そのことを唐沢演じる矢作が聞いて、会長の会社再生のプロジェクトの本気度を実感したと思います。またこのプロジェクト成功の暁には彼を役員にしてやると会長が言ったとき、矢作は社長にしてくださいと言うところがあります。ここら辺から普通の社員でないことは十分伝わってきます。私はこの一環の流れを見て、三国志の劉備玄徳が諸葛孔明に後を託す場面が思い浮かびました。劉備は孔明に自分の息子がダメなときはあなたが後継者として立ってほしいということを話しました。孔明は義理と人情で息子を立てますが、最終的に才能のなさに自分が結果として舵取りをするようになります。もちろん組織的な配慮なのか、劉備の血統というカリスマをあくまで重要視したのか表より裏で支えるというカタチでの政権運営でした。タクミ電機会長の息子をクビにという言葉はとても重く、ある面リーダーとしての潔さ、決意、そして企業を公的存在ととらえている社会貢献性に根差した考え方が伝わってきます。思えば、日本の企業は財閥解体以降、世襲制を捨ててより実力のあるものを後継者に選んできたという歴史があります。もちろん同族企業や世襲を一筋縄で悪いというつもりはありません。ただ後継者ということを考えたとき、そこはシビアに見ることができるのが真のリーダーだと思います。企業の存続を中心に考えるのか、あくまで家族の将来を中心に考えるのかということであると思います。
そもそも、株式会社で上場した会社ははっきりと「企業は社会の公器」という観点を受け入れたということだと私は考えています。あらゆる人びとからの投資を受けて、その社会の期待を背負って経営をしていくわけですから。つい最近、不祥事を起こして有名になった企業に同族経営の企業が多かったのも事実です。また創業者の息子で後継者としてより会社を大きくさせたり発展させている人はやはり創業者とぶつかって組織内では異端視されるような人であったり、海外で学んで来たりする人が多いように思います。また身内から後継者としてうまくいっているケースは創業者の娘婿であったりします。松井証券や鈴木自動車などもそのケースだと考えられます。同族であれ、そうでない企業であれ、企業の組織論理にしたがって経路依存の考え方に支配されている人材は、変わり行く経営環境に対応できず結果的に打つ手がなく企業崩壊を見守るしかないという状況に陥ります。
組織変革は周辺企業(部署)から、企業の改革、立て直しは周辺的人材からと言っていいかと思います。彼らは組織論理の王道を歩いているのではなく、まったく組織の外部の視点を持った人びとです。ある面組織の通常の考え方を冷ややかに客観視しながら対極にもものごとを見ることができるスキルも持ち合わせなければなりません。なぜ彼らは周辺人材になりうるのか、それは組織内で彼らの考え方があまりにも前衛的で受け入れがたいものであったりするので多くのレッテルを貼られたり非難をあびることが多く、それも彼らを周辺に追いやる原因となっていると考えられます。でもそこで彼らが考えを変えてすなわち魂を売って企業の組織論理に取り込まれてしまったらそれで終わりです。彼らは頑固でかたくなに自分の考え方を貫いた結果、はじかれてもう行き場がないと思ったところにお鉢が回ってきたという話です。
組織論理の中で従順に従うだけの人は歴史に名前を残さない人です。逆にそれに対してつねに疑問視したり、あるいはしたたかに行動し続けた人は最終的には歴史に名を残す隊列に加わることもできるはずです。PSIでは自分軸ということをいつも大切に考えていますが、歴史に名を残すかどうかはまた別の話ですが、重要なことはいつも自分の心に素直にしたがって生きるということであると思います。それは人間の本性がそれを望んでいるからです。
タクミ電機の矢作氏は会長に、再生の暁には役員でなく社長にと言いました。諸葛孔明を引き合いに出すにはあまりにレベルが違いすぎますが、普通に考える義理人情ならば、やはり息子を支えますとか返答するところです。でも彼の考え方を理解している会長にはそういう言葉には何の驚きもなかったかもしれません。ホントの責任感という観点では、彼の返答は納得できますし、そこからエゴイスティックな感じはまったく感じられません。ちなみに私がびっくりしたのはそこまで会社を愛する精神に驚かされました。私なら、さんざダメにした経営を建て直せなんて、馬鹿馬鹿しいと思っていないかななんて思うのです。そこまで会社にコミットしないのではないかと。まあでも会長が自分の息子をクビにするなんて腹を見せられて、そこまで経営立て直しを託してくれるのなら……。ちょっとわかりませんね。
ただこのドラマにはいろんな要素が織り交ぜられていてとても面白いと思いました。すでに一話は放映済みですが再放送もあるようなのでぜひご覧になってみてください。
http://www.nhk.or.jp/drama/madeinjapan/
まず、組織変革や大きな仕事を託される人材というのは、組織に埋もれてしまうような平凡なごく普通の人では到底できないという話です。タクミ電機の経営危機回避を託されたのもやはりそういった組織内では一癖も二癖もある実力者でした。もちろん彼らは組織内で同化しきれず浮いた存在ではありますが、個々人の能力はそれぞれのエキスパートです。
会長が最終的にクビを切ろうとしたのは現社長である自分の息子です。そのことを唐沢演じる矢作が聞いて、会長の会社再生のプロジェクトの本気度を実感したと思います。またこのプロジェクト成功の暁には彼を役員にしてやると会長が言ったとき、矢作は社長にしてくださいと言うところがあります。ここら辺から普通の社員でないことは十分伝わってきます。私はこの一環の流れを見て、三国志の劉備玄徳が諸葛孔明に後を託す場面が思い浮かびました。劉備は孔明に自分の息子がダメなときはあなたが後継者として立ってほしいということを話しました。孔明は義理と人情で息子を立てますが、最終的に才能のなさに自分が結果として舵取りをするようになります。もちろん組織的な配慮なのか、劉備の血統というカリスマをあくまで重要視したのか表より裏で支えるというカタチでの政権運営でした。タクミ電機会長の息子をクビにという言葉はとても重く、ある面リーダーとしての潔さ、決意、そして企業を公的存在ととらえている社会貢献性に根差した考え方が伝わってきます。思えば、日本の企業は財閥解体以降、世襲制を捨ててより実力のあるものを後継者に選んできたという歴史があります。もちろん同族企業や世襲を一筋縄で悪いというつもりはありません。ただ後継者ということを考えたとき、そこはシビアに見ることができるのが真のリーダーだと思います。企業の存続を中心に考えるのか、あくまで家族の将来を中心に考えるのかということであると思います。
そもそも、株式会社で上場した会社ははっきりと「企業は社会の公器」という観点を受け入れたということだと私は考えています。あらゆる人びとからの投資を受けて、その社会の期待を背負って経営をしていくわけですから。つい最近、不祥事を起こして有名になった企業に同族経営の企業が多かったのも事実です。また創業者の息子で後継者としてより会社を大きくさせたり発展させている人はやはり創業者とぶつかって組織内では異端視されるような人であったり、海外で学んで来たりする人が多いように思います。また身内から後継者としてうまくいっているケースは創業者の娘婿であったりします。松井証券や鈴木自動車などもそのケースだと考えられます。同族であれ、そうでない企業であれ、企業の組織論理にしたがって経路依存の考え方に支配されている人材は、変わり行く経営環境に対応できず結果的に打つ手がなく企業崩壊を見守るしかないという状況に陥ります。
組織変革は周辺企業(部署)から、企業の改革、立て直しは周辺的人材からと言っていいかと思います。彼らは組織論理の王道を歩いているのではなく、まったく組織の外部の視点を持った人びとです。ある面組織の通常の考え方を冷ややかに客観視しながら対極にもものごとを見ることができるスキルも持ち合わせなければなりません。なぜ彼らは周辺人材になりうるのか、それは組織内で彼らの考え方があまりにも前衛的で受け入れがたいものであったりするので多くのレッテルを貼られたり非難をあびることが多く、それも彼らを周辺に追いやる原因となっていると考えられます。でもそこで彼らが考えを変えてすなわち魂を売って企業の組織論理に取り込まれてしまったらそれで終わりです。彼らは頑固でかたくなに自分の考え方を貫いた結果、はじかれてもう行き場がないと思ったところにお鉢が回ってきたという話です。
組織論理の中で従順に従うだけの人は歴史に名前を残さない人です。逆にそれに対してつねに疑問視したり、あるいはしたたかに行動し続けた人は最終的には歴史に名を残す隊列に加わることもできるはずです。PSIでは自分軸ということをいつも大切に考えていますが、歴史に名を残すかどうかはまた別の話ですが、重要なことはいつも自分の心に素直にしたがって生きるということであると思います。それは人間の本性がそれを望んでいるからです。
タクミ電機の矢作氏は会長に、再生の暁には役員でなく社長にと言いました。諸葛孔明を引き合いに出すにはあまりにレベルが違いすぎますが、普通に考える義理人情ならば、やはり息子を支えますとか返答するところです。でも彼の考え方を理解している会長にはそういう言葉には何の驚きもなかったかもしれません。ホントの責任感という観点では、彼の返答は納得できますし、そこからエゴイスティックな感じはまったく感じられません。ちなみに私がびっくりしたのはそこまで会社を愛する精神に驚かされました。私なら、さんざダメにした経営を建て直せなんて、馬鹿馬鹿しいと思っていないかななんて思うのです。そこまで会社にコミットしないのではないかと。まあでも会長が自分の息子をクビにするなんて腹を見せられて、そこまで経営立て直しを託してくれるのなら……。ちょっとわかりませんね。
2013年1月26日土曜日
経営者と社員、上司と部下②
今回は組織の上に立つ者の社員や部下への対し方や彼らに向かうその姿勢についてお話しています。上から目線はよくないとお話しましたが、そもそも人材教育や研修といった観点は新入社員や部下に対する上から目線の意識がベースにあります。そもそも教育などということができるのでしょうか。あるいは義務教育から高校、大学といった教育機関は何のためにあったのでしょうか。もちろん工場や営業の現場で業界を知るという観点では教育というより経験を積んでいく必要があるでしょう。しかし新しいものを創造していくとか、イノベーションだとかが必要であるとしたら、ホントに研修や教育が必要なのは会社に何十年もいる管理職や経営者であると思います。経路依存の考えや老朽化した思考を壊して、もう一度再教育が必要なのです。スクラップ&ビルトです。
経営者は基本的に社員が働いてくれるおかげで会社が経営できるという姿勢が基本的に必要です。管理職や上司の立場も部下のおかげで自分が仕事ができるのだという感謝の思いを持たずして人はついてきません。俺が食わしてやっているんだとか、俺が教えてやったから仕事ができるようになったんだという傲慢上司は今の時代はお呼びではないわけです。今は中小企業の技術を教えたり伝統技法を教える業界、すなわち徒弟制で教育してきた業界でさえ師匠は弟子に対するアプローチを変えなければなりません。頭ごなしに叱ったり怒鳴ったりは当然アウトで、手取り足取りやってさらに褒めてあげなければできるようにならないというのです。当然感情的に怒鳴ったり、体罰なんてやったら簡単に辞めていきます。
一般企業もそうです。最近の若い世代は会社や組織にあまりコミットしません。昔の終身雇用、年功序列なんて興味ありませんし、できる子は自分よりできない上司が何で給料が高いのか、理不尽ささえ感じています。まして年金もどうなるかわからない昨今、若い世代の中高年に対する視線は年々厳しいものになっています。だからといって欧米の成果主義、実力主義に堪えうるようなハードな体力、精神力も持ち合わせては無いのです。なぜならば年齢が若くなるにつれ、競争社会ではなくなってきているからです。日本では最も激しい競争社会を生き抜いてきたのは戦後の団塊世代です。60半ばの人びとです。彼らは戦後のベビーブームのときに生まれ激しい競争を戦ってきた人びとです。その次が第二次ベビーブームの団塊ジュニアの世代です。今ちょうどアラフォーと言われる世代になっています。私の場合はちょうどその間のいわゆるちょっと中だるみしたような状況のときに育ちましたので、多少彼らよりはゆとりのある世代ではあります。
とにかく日本型経営の根幹をなしている終身雇用と年功序列、欧米型の成果主義、いずれにも違和感を覚える世代がみなさんの部下であったりします。私個人としては日本型経営をすべてではありませんが良しとし、成果主義には反対です。その理由はまたお話しますが、いずれにせよ会社組織にコミットしないので、愛社精神というのは当然生まれにくく、モチベーションは会社のためでもないし、かといって企業の社会貢献性、すなわち企業理念などに共感してなどということもなかなか期待できないというのが実情です。ではせめて彼らがモチベーションを維持、あるいは高めることができる要因は何なのでしょうか。
おそらくいちばん身近な上司とのいい関係であると考えられます。人格的に素晴らしい上司や経営者のもとでのびのびと頑張れる、これがモチベーションのベースになるのではないかと私は考えています。したがって、目の前の一緒に仕事をしている上司に失望して、仕事のほうも業績が上がらなければ、当然仕事をしながら、転職を考えたり、精神的に病んでしまうケースも考えられます。とにかく経営者や上司の立場の人は、少なくとも社員や部下よりは精神的器も大きくあるべきですし、彼らの行動をすべて受容しながら大きく経営や業務の舵をとる必要があります。それができないようならばその地位にいる資格もないでしょう。なぜならなんだかんだ言っても社員や部下より高い報酬、給料が支払われているのですから。扱いにくい部下だなどと泣き言を言うなんてもってのほかです。扱いにくいのでなく、あなたの愛情が、器がまだまだ足りないだけなのです。もちろんあなたは自分の上の上司にそんなに甘えることはできなかったと反論されるかもしれません。もう時代が違うのです。時代はつねに変わり行くのです。ダーウィンの言葉のように強いものが残るのではなく、変われるものが生き残るのです。ぜひあなたも変わってより若い世代の人びとと同じことに関心を持ったり、同じような行動をしてみてください。そういう世代の中に飛び込んでみてください。自分の新しい目が開けるかもしれません。
経営者は基本的に社員が働いてくれるおかげで会社が経営できるという姿勢が基本的に必要です。管理職や上司の立場も部下のおかげで自分が仕事ができるのだという感謝の思いを持たずして人はついてきません。俺が食わしてやっているんだとか、俺が教えてやったから仕事ができるようになったんだという傲慢上司は今の時代はお呼びではないわけです。今は中小企業の技術を教えたり伝統技法を教える業界、すなわち徒弟制で教育してきた業界でさえ師匠は弟子に対するアプローチを変えなければなりません。頭ごなしに叱ったり怒鳴ったりは当然アウトで、手取り足取りやってさらに褒めてあげなければできるようにならないというのです。当然感情的に怒鳴ったり、体罰なんてやったら簡単に辞めていきます。
一般企業もそうです。最近の若い世代は会社や組織にあまりコミットしません。昔の終身雇用、年功序列なんて興味ありませんし、できる子は自分よりできない上司が何で給料が高いのか、理不尽ささえ感じています。まして年金もどうなるかわからない昨今、若い世代の中高年に対する視線は年々厳しいものになっています。だからといって欧米の成果主義、実力主義に堪えうるようなハードな体力、精神力も持ち合わせては無いのです。なぜならば年齢が若くなるにつれ、競争社会ではなくなってきているからです。日本では最も激しい競争社会を生き抜いてきたのは戦後の団塊世代です。60半ばの人びとです。彼らは戦後のベビーブームのときに生まれ激しい競争を戦ってきた人びとです。その次が第二次ベビーブームの団塊ジュニアの世代です。今ちょうどアラフォーと言われる世代になっています。私の場合はちょうどその間のいわゆるちょっと中だるみしたような状況のときに育ちましたので、多少彼らよりはゆとりのある世代ではあります。
とにかく日本型経営の根幹をなしている終身雇用と年功序列、欧米型の成果主義、いずれにも違和感を覚える世代がみなさんの部下であったりします。私個人としては日本型経営をすべてではありませんが良しとし、成果主義には反対です。その理由はまたお話しますが、いずれにせよ会社組織にコミットしないので、愛社精神というのは当然生まれにくく、モチベーションは会社のためでもないし、かといって企業の社会貢献性、すなわち企業理念などに共感してなどということもなかなか期待できないというのが実情です。ではせめて彼らがモチベーションを維持、あるいは高めることができる要因は何なのでしょうか。
おそらくいちばん身近な上司とのいい関係であると考えられます。人格的に素晴らしい上司や経営者のもとでのびのびと頑張れる、これがモチベーションのベースになるのではないかと私は考えています。したがって、目の前の一緒に仕事をしている上司に失望して、仕事のほうも業績が上がらなければ、当然仕事をしながら、転職を考えたり、精神的に病んでしまうケースも考えられます。とにかく経営者や上司の立場の人は、少なくとも社員や部下よりは精神的器も大きくあるべきですし、彼らの行動をすべて受容しながら大きく経営や業務の舵をとる必要があります。それができないようならばその地位にいる資格もないでしょう。なぜならなんだかんだ言っても社員や部下より高い報酬、給料が支払われているのですから。扱いにくい部下だなどと泣き言を言うなんてもってのほかです。扱いにくいのでなく、あなたの愛情が、器がまだまだ足りないだけなのです。もちろんあなたは自分の上の上司にそんなに甘えることはできなかったと反論されるかもしれません。もう時代が違うのです。時代はつねに変わり行くのです。ダーウィンの言葉のように強いものが残るのではなく、変われるものが生き残るのです。ぜひあなたも変わってより若い世代の人びとと同じことに関心を持ったり、同じような行動をしてみてください。そういう世代の中に飛び込んでみてください。自分の新しい目が開けるかもしれません。
経営者と社員、上司と部下①
このブログを見ていただいている方々は、さまざまな立場にあることと思います。会社の一社員でまだ役職も無い方、あるいは部長、課長の中堅クラス、また経営者の方や主婦の方もおられます。専業主婦から、シングルマザーで頑張っておられる方などホントに世の中にはたくさんの立場で働いておられます。
今回は会社の経営者と社員、あるいは上司と部下という関係にスポットをあてて考えてみたいと思います。PSIが理想とする組織形態はよりフラットで役職は権威というより役割分担ととらえる考え方です。でも実際世の中にそれに近い組織はあってもまったくその通りと言える組織はほとんどないのではないでしょうか。実際は上司の命令で部下が行動する。これはごく当たり前のことです。そこで生じるさまざまな問題をあげて考えてみたいのですが、今日は経営者あるいは、上司の立場で考えてみたいと思います。
最近は会社でもより上司の立場にある人びとの悩みは、部下がうまく動いてくれないとか、言うことを聞かないとか、気が利かないとか、自己管理ができていない、時間にルーズ……などさまざまです。ここではっきり言いたいのは、上司が部下の問題をあくまで部下自身の問題とだけ片付けてしまっていたら、問題解決はずっとできないであろうということです。
実は問題は経営者にあります。上司の側にあります。経営学やマネジメント関連の書籍、またインターネット上にあふれている情報はあくまで経営者や上司のスキルを高めて社員や部下を管理していこうという話で経営者や上司の人格の部分まで触れている内容は希少です。また上司にうまく取り入る方法など、あくまで組織の下位者が上にうまく従わすような論調がとても多いことを実感します。経済学者の宋文洲さんなどはそういった経営者や上司の問題にはっきりと言及しています。
とにかく上司が部下をうまく管理できない(管理するという観点も上から目線であまり好きではありませんが)のは自分より若い世代の感覚を分かっていないということにあります。いわゆる
①ジェネレーションギャップ
の問題です。日本も世界も一年で大きく変わります。十年も経てばもう昔の話です。十年前のあなたが部下で上司がいた時代とはまったく変わっているのです。そして受けた教育や育った環境がまったく違います。はっきりと言えることは家庭環境から社会環境に至るまで、昔に比べて人間関係は希薄、疎遠になっているという事実です。それをさらに助長させているのはテレビやゲーム、インターネットなどひとりで過ごす時間が増える環境が造成されているということです。その結果どういう人材が増えるかというと、人間関係の力、すなわちコミュニケーション能力が著しく低下して人間の間合いや空気を読む、機転を利かす、臨機応変な行動というものができないような人材です。特に若い世代になるほど、人間関係や会話が淡白であったり、ドライであるケースが増えています。皆さんのお子さんを見ればなんとなく理解できるかもしれません。言葉もやたら省略した造語が増えています。そしてできる人になるほどデジタル時代というのにふさわしく何ごとをやるにしても早いのです。おまけに話し方も早い人も多いのです。ただはっきりと指示が無ければ何もしないということも起こってきます。パソコンは人間が指示しないことはまったくやりません。気が利く処理をするのはすでにインプット済みの内容を処理してよく使うワードが先に出てくるようにプログラムされているからに過ぎません。最近部下の上司に対する不満は「はっきりとした指示がない」「指示があいまい」などということがあるようです。あなたの同僚や上司ならあなたの指示でできすぎるまでちゃんとやっているかもしれません。でもあなたの部下ははっきりとやってと言ったことしかやりません。成果主義を導入している会社はそれがさらにひどくなっているでしょう。(成果主義に関しては機会があればまた話します)なぜなら、指示以外のことをしてうまくいかなかったら評価は下がるので言われたこと以外は絶対やりません。
「何々をやってください、ここからこの部分はけんげんを与えます。あなたの判断で行ってください。」
とはっきり言いましょう。これくらいは空気を読んでやってくれているだろうはあなたの部下には通用しません。またこれこれはどうしますかと聞かれて、行う予定がないことに対して、「それはまた考えよう」とか、「もうちょっと先に」などという返答は、部下にはただの保留でペンディング状態にあるとしか考えません。部下はずっと待ち続け、イライラを募らす原因になります。はっきりとやらないことには「やりません」と答えるべきなのです。とにかく空気を読まないようになると日本古来の本音と建前という概念も崩壊していきます。それはある面、日本人も若い世代は欧米化していると言えなくもありません。空気を読む本音と建前世代にとっては、こんな言い方はどうなのかと考えすぎるキライがあります。ストレートに言ってくれると部下は、「はいわかりました」ですっきりする場合も多いのです。上司が時代の流れとともに変わらなければなりません。むしろ本音の空気を読まない世代の方が後腐れなくうまく人間関係を構築しやすいというメリットもあります。本音と建前世代は感情が見えなくなるので、組織内に目に見えない派閥や力関係がつくりあげられ不満や問題が隠蔽されたり潜って見えなくなることが多いのです。それに比べ本音で空気を読まない組織は問題が可視化されやすく問題が先送りされる可能性は低くなるはずです。
もう一つの問題は上司の部下に対する
②上から目線
の弊害です。現在の若者はかなりフラット思考です。年長者に敬意をはらう気持ちさえあればたいしたもんだぐらいに思うべきです。今はお笑いブームですが、テレビでもダウンタウンの浜田氏がかなり先輩の芸能人に呼び捨て、タメ語を使っているのを最初に見たとき、私はすごい嫌悪感を感じました。しかし最近は慣れて楽しく見ることができるようになってきました。彼と私はほぼ同世代ですが、その世代を境に上下関係の権威の崩壊が起こって来ているのです。もうあなたの部下にはそういった上から目線で命令するというのは聞き入れられません。そもそも言うこと聞かないという発想自体も問題です。上から目線の意識が根底にあるからそういう言葉が出てくるのです。だいたい人と話して少し言葉を交わしただけでその人の考え方というのはだいたい理解できます。権威主義的な人は言葉の節々に傲慢なフレーズがポンポン出てきます。また自分が相手より上であるという立場であっていれば、不必要なまでに謙虚でペコペコするような言動になっています。ひどい場合は緊張していたりします。そういった人も権威主義的な思考の強い人です。権威をもって威勢を張る人、権威を傘にする人、権威に極端に弱い人もすべて権威主義的思考の強い人です。自然体でフラット思考の人は、人間を大切に扱い、上下の隔てなく人間として接することのできる人です。怒鳴ったり、暴力(言葉の暴力)も使いません。またそのような人が部下の立場にあれば、礼儀はわきまえても、媚びへつらうことはしません。
上から目線でずっと部下に対してきた人で、社内で部下の評判は悪くないと思う人はもうすでに裸の王様状態になっている可能性もあるのでご注意ください。
今回は会社の経営者と社員、あるいは上司と部下という関係にスポットをあてて考えてみたいと思います。PSIが理想とする組織形態はよりフラットで役職は権威というより役割分担ととらえる考え方です。でも実際世の中にそれに近い組織はあってもまったくその通りと言える組織はほとんどないのではないでしょうか。実際は上司の命令で部下が行動する。これはごく当たり前のことです。そこで生じるさまざまな問題をあげて考えてみたいのですが、今日は経営者あるいは、上司の立場で考えてみたいと思います。
最近は会社でもより上司の立場にある人びとの悩みは、部下がうまく動いてくれないとか、言うことを聞かないとか、気が利かないとか、自己管理ができていない、時間にルーズ……などさまざまです。ここではっきり言いたいのは、上司が部下の問題をあくまで部下自身の問題とだけ片付けてしまっていたら、問題解決はずっとできないであろうということです。
実は問題は経営者にあります。上司の側にあります。経営学やマネジメント関連の書籍、またインターネット上にあふれている情報はあくまで経営者や上司のスキルを高めて社員や部下を管理していこうという話で経営者や上司の人格の部分まで触れている内容は希少です。また上司にうまく取り入る方法など、あくまで組織の下位者が上にうまく従わすような論調がとても多いことを実感します。経済学者の宋文洲さんなどはそういった経営者や上司の問題にはっきりと言及しています。
とにかく上司が部下をうまく管理できない(管理するという観点も上から目線であまり好きではありませんが)のは自分より若い世代の感覚を分かっていないということにあります。いわゆる
①ジェネレーションギャップ
の問題です。日本も世界も一年で大きく変わります。十年も経てばもう昔の話です。十年前のあなたが部下で上司がいた時代とはまったく変わっているのです。そして受けた教育や育った環境がまったく違います。はっきりと言えることは家庭環境から社会環境に至るまで、昔に比べて人間関係は希薄、疎遠になっているという事実です。それをさらに助長させているのはテレビやゲーム、インターネットなどひとりで過ごす時間が増える環境が造成されているということです。その結果どういう人材が増えるかというと、人間関係の力、すなわちコミュニケーション能力が著しく低下して人間の間合いや空気を読む、機転を利かす、臨機応変な行動というものができないような人材です。特に若い世代になるほど、人間関係や会話が淡白であったり、ドライであるケースが増えています。皆さんのお子さんを見ればなんとなく理解できるかもしれません。言葉もやたら省略した造語が増えています。そしてできる人になるほどデジタル時代というのにふさわしく何ごとをやるにしても早いのです。おまけに話し方も早い人も多いのです。ただはっきりと指示が無ければ何もしないということも起こってきます。パソコンは人間が指示しないことはまったくやりません。気が利く処理をするのはすでにインプット済みの内容を処理してよく使うワードが先に出てくるようにプログラムされているからに過ぎません。最近部下の上司に対する不満は「はっきりとした指示がない」「指示があいまい」などということがあるようです。あなたの同僚や上司ならあなたの指示でできすぎるまでちゃんとやっているかもしれません。でもあなたの部下ははっきりとやってと言ったことしかやりません。成果主義を導入している会社はそれがさらにひどくなっているでしょう。(成果主義に関しては機会があればまた話します)なぜなら、指示以外のことをしてうまくいかなかったら評価は下がるので言われたこと以外は絶対やりません。
「何々をやってください、ここからこの部分はけんげんを与えます。あなたの判断で行ってください。」
とはっきり言いましょう。これくらいは空気を読んでやってくれているだろうはあなたの部下には通用しません。またこれこれはどうしますかと聞かれて、行う予定がないことに対して、「それはまた考えよう」とか、「もうちょっと先に」などという返答は、部下にはただの保留でペンディング状態にあるとしか考えません。部下はずっと待ち続け、イライラを募らす原因になります。はっきりとやらないことには「やりません」と答えるべきなのです。とにかく空気を読まないようになると日本古来の本音と建前という概念も崩壊していきます。それはある面、日本人も若い世代は欧米化していると言えなくもありません。空気を読む本音と建前世代にとっては、こんな言い方はどうなのかと考えすぎるキライがあります。ストレートに言ってくれると部下は、「はいわかりました」ですっきりする場合も多いのです。上司が時代の流れとともに変わらなければなりません。むしろ本音の空気を読まない世代の方が後腐れなくうまく人間関係を構築しやすいというメリットもあります。本音と建前世代は感情が見えなくなるので、組織内に目に見えない派閥や力関係がつくりあげられ不満や問題が隠蔽されたり潜って見えなくなることが多いのです。それに比べ本音で空気を読まない組織は問題が可視化されやすく問題が先送りされる可能性は低くなるはずです。
もう一つの問題は上司の部下に対する
②上から目線
の弊害です。現在の若者はかなりフラット思考です。年長者に敬意をはらう気持ちさえあればたいしたもんだぐらいに思うべきです。今はお笑いブームですが、テレビでもダウンタウンの浜田氏がかなり先輩の芸能人に呼び捨て、タメ語を使っているのを最初に見たとき、私はすごい嫌悪感を感じました。しかし最近は慣れて楽しく見ることができるようになってきました。彼と私はほぼ同世代ですが、その世代を境に上下関係の権威の崩壊が起こって来ているのです。もうあなたの部下にはそういった上から目線で命令するというのは聞き入れられません。そもそも言うこと聞かないという発想自体も問題です。上から目線の意識が根底にあるからそういう言葉が出てくるのです。だいたい人と話して少し言葉を交わしただけでその人の考え方というのはだいたい理解できます。権威主義的な人は言葉の節々に傲慢なフレーズがポンポン出てきます。また自分が相手より上であるという立場であっていれば、不必要なまでに謙虚でペコペコするような言動になっています。ひどい場合は緊張していたりします。そういった人も権威主義的な思考の強い人です。権威をもって威勢を張る人、権威を傘にする人、権威に極端に弱い人もすべて権威主義的思考の強い人です。自然体でフラット思考の人は、人間を大切に扱い、上下の隔てなく人間として接することのできる人です。怒鳴ったり、暴力(言葉の暴力)も使いません。またそのような人が部下の立場にあれば、礼儀はわきまえても、媚びへつらうことはしません。
上から目線でずっと部下に対してきた人で、社内で部下の評判は悪くないと思う人はもうすでに裸の王様状態になっている可能性もあるのでご注意ください。
2013年1月25日金曜日
抽象度をあげるということ③
企業活動には、価値創造→商品創造、そして市場創造、あるいは市場発見等が必要となってきます。急がば回れ、ただの商売なら、食品でもなんでとにかく日常的に必要とされているものをいかに安く売るかという発想だけである程度は成り立つのかもしれません。でも事業というものはコンセプトが重要であり、やはり社会貢献性も含めた企業の存在価値まで明確にしながら、商品を作り上げていくうえでもそのベースとなる価値創造は不可欠です。
企業には基本的に経営者は企業の価値、そこから出発して企業が向かう方向、社会での企業の位置づけなどグランドデザインを描く必要があります。すなわち企業の心(マインド)の部分があり、企業理念、経営方針など総じて「思想」というものが重要です。それらを具現化するのに商品開発やそれを広める営業活動を通じた市場拡大が必要となってきます。ここでいう商品とは企業によって違いますのでコンサルタントやさまざまなソリューション事業は物ではなく、概念すなわち価値であったりする場合もあります。それも含めて有形、無形のモノを提供することを表します。
大きく分けて価値創造と商品(有形、無形)創造と考えてみると、前者と後者のスキルには大きな開きがあります。後者は細部にわたって技術的な能力が問われます。すなわちエンジニア(技術者)とか職人という観点です。ところが前者になるとそのスキルではないスキルが必要となってきます。それはものごとを客観的に見たり、俯瞰したり企業全体のイメージや市場での企業の地位確立、すなわち会社自体のブランディングまで踏まえてものごとが見えるというスキルです。
前者はとても定性的感覚である面芸術的な感覚、空気が読めるというスキルも重要です。また状況によっては空気をあえて読まずにという行動ももともと空気の読めない人にはできない行動です。後者は職人技が必要ですので、定量的感覚、係数感覚にも秀でていて、細部に入り込んで、細かい仕事ができる人です。ただ方向性や指示がなければ自分で創造するというのはなかなか困難です。市場のニーズとは全く関係のない自分の気に入った商品をつくってしまう可能性さえあります。
ここで重要なことは前者が正しく、後者が問題ということではなく、前者が正しく管理しなければ、後者は実力を発揮できないということです。また社内の地位関係が逆転している場合問題が起こります。まったく価値に重きを置かない経営者のもとで価値創造が重要と訴える社員がいたらまったく仕事になりません。社員のモチベーションは下がるし、実際事業も失敗するでしょう。そういった経営者がワンマンで人のいうことを聞かなければ、社員は何も言わなくなるので言われたことだけ行い、その結果失敗することになります。その場合下手をすると経営者は当然価値の部分がわからない人ですから、社員の責任を追及するということになります。その場合、文書ででも自分たちは失敗するということは想定した上で業務命令として従ったといった内容を残しておいたほうがいいかもしれません。
話が外れましたが、前者を価値創造しグランドデザインを構築する人、後者はそれを具体的に実体化する職人的なエキスパートです。言葉を変えると自分の考えでモノをつくるアーチストとクライアントの依頼に応じてモノをつくるデザイナーの違いとも言えるかもしれません。
企業も小規模であったり同族経営であったり、そのトップが長年にわたって変わらず君臨している場合には思考自体が経路依存の考え方にどっぷりはまり、組織の制度や人間の力関係に埋め込まれていて、自由な発想もできなくなっていたり、まして新しい価値創造というものはできなくなっているケースが往々にして見受けられます。その場合会議などでコンセンサスを得るという観点で抽象度をあげて結論を導出するといった場合、あきらかに虚無な、あまり意味のない、あるいは損失をさらに助長させるような結論しかでないといったことになります。この状況で抽象度をあげるというのは、より本質的原因的問題に目を向けて議論をなすというより、問題から目をそむけて、あるいは見ないことにしてなんとなく収拾したという流れになるだけです。(抽象度をあげるということがポジティヴな観点とするならば、全くの正反対ですね。)結果的に企業組織の慣例に従い相変わらず負のスパイラルから脱却できない状況にあるということがわかります。
今回お話しした内容は実際にあった一例ですが、もちろん企業における活動にはさまざまな問題が隠れています。その本質を見抜くことは必ずしも組織論理の中で善しとされないことが往々にしてあります。理不尽なことがらがまかり通るのが組織論理であったりします。正義感が通用しない組織風土もたくさんあります。PSI的には最低、みなさんには自分が傷つかないようにうまく立ち回ることをおススメします。私の経験からもお話しするのですが、何か大きな問題が起こったり、失敗が生じたときに絶対にスケープゴートにならないように自分を防御することも考えてください。
企業には基本的に経営者は企業の価値、そこから出発して企業が向かう方向、社会での企業の位置づけなどグランドデザインを描く必要があります。すなわち企業の心(マインド)の部分があり、企業理念、経営方針など総じて「思想」というものが重要です。それらを具現化するのに商品開発やそれを広める営業活動を通じた市場拡大が必要となってきます。ここでいう商品とは企業によって違いますのでコンサルタントやさまざまなソリューション事業は物ではなく、概念すなわち価値であったりする場合もあります。それも含めて有形、無形のモノを提供することを表します。
大きく分けて価値創造と商品(有形、無形)創造と考えてみると、前者と後者のスキルには大きな開きがあります。後者は細部にわたって技術的な能力が問われます。すなわちエンジニア(技術者)とか職人という観点です。ところが前者になるとそのスキルではないスキルが必要となってきます。それはものごとを客観的に見たり、俯瞰したり企業全体のイメージや市場での企業の地位確立、すなわち会社自体のブランディングまで踏まえてものごとが見えるというスキルです。
前者はとても定性的感覚である面芸術的な感覚、空気が読めるというスキルも重要です。また状況によっては空気をあえて読まずにという行動ももともと空気の読めない人にはできない行動です。後者は職人技が必要ですので、定量的感覚、係数感覚にも秀でていて、細部に入り込んで、細かい仕事ができる人です。ただ方向性や指示がなければ自分で創造するというのはなかなか困難です。市場のニーズとは全く関係のない自分の気に入った商品をつくってしまう可能性さえあります。
ここで重要なことは前者が正しく、後者が問題ということではなく、前者が正しく管理しなければ、後者は実力を発揮できないということです。また社内の地位関係が逆転している場合問題が起こります。まったく価値に重きを置かない経営者のもとで価値創造が重要と訴える社員がいたらまったく仕事になりません。社員のモチベーションは下がるし、実際事業も失敗するでしょう。そういった経営者がワンマンで人のいうことを聞かなければ、社員は何も言わなくなるので言われたことだけ行い、その結果失敗することになります。その場合下手をすると経営者は当然価値の部分がわからない人ですから、社員の責任を追及するということになります。その場合、文書ででも自分たちは失敗するということは想定した上で業務命令として従ったといった内容を残しておいたほうがいいかもしれません。
話が外れましたが、前者を価値創造しグランドデザインを構築する人、後者はそれを具体的に実体化する職人的なエキスパートです。言葉を変えると自分の考えでモノをつくるアーチストとクライアントの依頼に応じてモノをつくるデザイナーの違いとも言えるかもしれません。
企業も小規模であったり同族経営であったり、そのトップが長年にわたって変わらず君臨している場合には思考自体が経路依存の考え方にどっぷりはまり、組織の制度や人間の力関係に埋め込まれていて、自由な発想もできなくなっていたり、まして新しい価値創造というものはできなくなっているケースが往々にして見受けられます。その場合会議などでコンセンサスを得るという観点で抽象度をあげて結論を導出するといった場合、あきらかに虚無な、あまり意味のない、あるいは損失をさらに助長させるような結論しかでないといったことになります。この状況で抽象度をあげるというのは、より本質的原因的問題に目を向けて議論をなすというより、問題から目をそむけて、あるいは見ないことにしてなんとなく収拾したという流れになるだけです。(抽象度をあげるということがポジティヴな観点とするならば、全くの正反対ですね。)結果的に企業組織の慣例に従い相変わらず負のスパイラルから脱却できない状況にあるということがわかります。
今回お話しした内容は実際にあった一例ですが、もちろん企業における活動にはさまざまな問題が隠れています。その本質を見抜くことは必ずしも組織論理の中で善しとされないことが往々にしてあります。理不尽なことがらがまかり通るのが組織論理であったりします。正義感が通用しない組織風土もたくさんあります。PSI的には最低、みなさんには自分が傷つかないようにうまく立ち回ることをおススメします。私の経験からもお話しするのですが、何か大きな問題が起こったり、失敗が生じたときに絶対にスケープゴートにならないように自分を防御することも考えてください。
2013年1月24日木曜日
抽象度をあげるということ②
会議を実りあるものとするためには、なるべく妥協する部分を少なくしてなおかつ、会議参加者のコンセンサスを得ることができるようにするのがいいです。ただどうしてもそこにさまざまな問題があります。
議論する内容も細部に入っていけばいくほど考えの違いが浮き彫りになってきます。とても合意を得ることは難しいような状況になり、会議は紛糾してしまいます。結果として双方が合意できるようなレベルまで妥協するという話になります。言い方を変えると、ものごとに対する抽象度をあげていく、すなわち大枠でものごとをとらえてみんなが納得するレベルにもっていくということです。
例をあげるならば、日本人、韓国人、中国人というカテゴリー分けをしていたのを、アジアの人びとという大枠でとらえるということです。そうすると細部にわたって考えると違っていたのが、大枠でとらえると、ご飯を食べる文化だし、漢字も使うし、目も髪も黒いしとたくさんの共通点もあります。
これは人間関係ではとても必要な方法で国どうし仲が悪くても、その国の男女が出会って結婚して暮らすことができます。なぜならば国というアイデンティティを超えた関係が男と女という関係だからです。音楽も愛も国境を超える器をもっているのですね。ロミオとジュリエットは逆で男と女という愛の関係が家系というよりローカルな内容の犠牲になったとみていいと思います。人間は抽象度をあげるすなわち人間の本質や共通事項にレベルをあげると必ずいい関係を築けるようになると思います。
ちょっと前置きが長くなりましたが、会議でいうところの抽象度をあげてコンセンサスを得るというのはどういうことなのか、これを考えてみたいと思います。またそのプロセスにおいてそれがそのまま通用しないというケースもあげてみたいと思います。
会議では、日本人はあまり議論するのが得意ではありません。ディベートというのはなかなか慣れていないといつの間にか感情論で不機嫌になったり、会議の空気がとても悪くなったりします。それで一見すると抽象度をあげて合意に至ったように見えますが、実際はあいまいにして、すなわちはっきりとしたかたちでなく、玉虫色の結論を出したりするのです。したがってすっきりとした答えはないのですが、なにかうまくまとめたような変な達成感をもってしまったりします。よく政治の世界では考えがあまりに合わないのに利権のために魂を売って一つになることを野合といったりします。みなさんの会議ではそういう感じになっていませんか。あるいはみんなの意見は違うのに声の大きい人や、強い人、ワンマンな人の意見に、左右されてしまって全体のの意思とはかけ離れた結論に至っているということはありませんか。
日本の会議では意思に大きく反して妥協したり、あいまいにしてしまうことが抽象度をあげるなんてことと取り違えてしまっているケースもあるように思います。抽象度をあげるということは大枠でとらえるというかとであると同時に、ものごとの本質に近づくという観点もあるように思います。そうならなければ問題解決にならないからです。ただ単に大枠でとらえるだけなら、やはり理不尽な野合となる危険性を秘めています。
たとえば、一つの例で言うと、商品開発をして新商品をつくるという作業を煮詰める段階にあるとします。ところがいくらつくったところで、実はマーケティングが明確になされてないので全く売れるかどうか分からないのです。というよりも感覚的に売れないとみんなが考えています。でも新商品をつくれと圧力をかけている人はマーケティングの概念がわからないのです。商品をつくってとにかく安くつくりさえすれば、いいんだという短絡的な考えに支配されています。あるいは商品のアイテム数を増やしさえすれば、売上はあがると考えています。ところがマーケティングの必要性を訴える人びとはつくっても売れなかったら在庫として残るし、売れるという確信が得られないものは会社にとっては損失を被る危険性があると反対しています。
ここで抽象度をあげて全員のコンセンサスを得るような結論はどうしたらいいのでしょうか。商品をつくるという目的は同じです。ではとにかくつくってみるというかたちでまとめるのがいいのでしょうか。おそらくマーケティングの必要性を訴える人びとは商品をつくるプロセスにおいて全くモチベーションが上がらない状態で仕事をすることになるでしょう。ではマーケティング、すなわち企業の存在目的からはじまって社会貢献性のある企業理念、経営方針の構築(すでに明確であれば再認識)、そして顧客、競合との関係性やマーケットリサーチをし、市場のニーズや商品の差別化などさまざまな価値創造からなしていくという話です。それをしないと最終的には売れない商品の在庫の山で、ただの失敗する商売レベルで終わります。とてもじゃないけど事業とはいえないレベルだと考えるのです。
そこで抽象度をあげるということが本質を見極め、そこから始めるということになれば、商品開発をマーケティングの段階まで戻していこうという話になります。ところが、そうするとすぐにでも新商品導入を考え、すこしでも商品のアイテムを増やそうと考える人びとにはそんなことをしている場合ではないと考えるのです。またそういう人はマーケティングの重要性がわからなかったりするのです。こうなる抽象度をあげるという方法が前者でも後者でもまったく結論を出す力を持てなくなります。
実はこれは何を表しているのかというと、価値創造とそれをベースにして市場に導入されるべき商品という実用的なモノということになります。前者は無形で、後者は有形です。後者の観点しかもてない人、すなわち人間のタイプで無形な存在に疎い人びとが結構います。現実的というより、目に見えるものしか認識できない人、空気が読めない人に多い傾向があります。そういう人は価値の部分がよく分からないのです。つねに背に腹は変えられない、一時しのぎ的な経営しかできません。急がば回れといった観点もよく理解できないのです。もちろんこのPSIがテーマとしているパラダイムという観点はさらに理解できないということになります。
企業は価値の部分がとても大きいのです。企業の存在目的、それはすなわち企業が社会的に何をもって貢献しうるのか、そして組織の成員までしあわせにできる思想まで兼ね備えているのかということまで重要になります。日本の経済の高度成長時代には、価値創造というより、とにかく日常になくてあったら便利というものを開発すれば、どんどん売れた時代でした。現在はモノがあふれて、それこそもっと奥深い価値創造に根ざしたモノを開発し市場に出さなければ成功はできません。こういったことが理解できない場合、単に大枠でものごとをとらえ妥協して結論を出したところで何か不完全燃焼、あるいは消化不良な会議に終わるでしょう。
議論する内容も細部に入っていけばいくほど考えの違いが浮き彫りになってきます。とても合意を得ることは難しいような状況になり、会議は紛糾してしまいます。結果として双方が合意できるようなレベルまで妥協するという話になります。言い方を変えると、ものごとに対する抽象度をあげていく、すなわち大枠でものごとをとらえてみんなが納得するレベルにもっていくということです。
例をあげるならば、日本人、韓国人、中国人というカテゴリー分けをしていたのを、アジアの人びとという大枠でとらえるということです。そうすると細部にわたって考えると違っていたのが、大枠でとらえると、ご飯を食べる文化だし、漢字も使うし、目も髪も黒いしとたくさんの共通点もあります。
これは人間関係ではとても必要な方法で国どうし仲が悪くても、その国の男女が出会って結婚して暮らすことができます。なぜならば国というアイデンティティを超えた関係が男と女という関係だからです。音楽も愛も国境を超える器をもっているのですね。ロミオとジュリエットは逆で男と女という愛の関係が家系というよりローカルな内容の犠牲になったとみていいと思います。人間は抽象度をあげるすなわち人間の本質や共通事項にレベルをあげると必ずいい関係を築けるようになると思います。
ちょっと前置きが長くなりましたが、会議でいうところの抽象度をあげてコンセンサスを得るというのはどういうことなのか、これを考えてみたいと思います。またそのプロセスにおいてそれがそのまま通用しないというケースもあげてみたいと思います。
会議では、日本人はあまり議論するのが得意ではありません。ディベートというのはなかなか慣れていないといつの間にか感情論で不機嫌になったり、会議の空気がとても悪くなったりします。それで一見すると抽象度をあげて合意に至ったように見えますが、実際はあいまいにして、すなわちはっきりとしたかたちでなく、玉虫色の結論を出したりするのです。したがってすっきりとした答えはないのですが、なにかうまくまとめたような変な達成感をもってしまったりします。よく政治の世界では考えがあまりに合わないのに利権のために魂を売って一つになることを野合といったりします。みなさんの会議ではそういう感じになっていませんか。あるいはみんなの意見は違うのに声の大きい人や、強い人、ワンマンな人の意見に、左右されてしまって全体のの意思とはかけ離れた結論に至っているということはありませんか。
日本の会議では意思に大きく反して妥協したり、あいまいにしてしまうことが抽象度をあげるなんてことと取り違えてしまっているケースもあるように思います。抽象度をあげるということは大枠でとらえるというかとであると同時に、ものごとの本質に近づくという観点もあるように思います。そうならなければ問題解決にならないからです。ただ単に大枠でとらえるだけなら、やはり理不尽な野合となる危険性を秘めています。
たとえば、一つの例で言うと、商品開発をして新商品をつくるという作業を煮詰める段階にあるとします。ところがいくらつくったところで、実はマーケティングが明確になされてないので全く売れるかどうか分からないのです。というよりも感覚的に売れないとみんなが考えています。でも新商品をつくれと圧力をかけている人はマーケティングの概念がわからないのです。商品をつくってとにかく安くつくりさえすれば、いいんだという短絡的な考えに支配されています。あるいは商品のアイテム数を増やしさえすれば、売上はあがると考えています。ところがマーケティングの必要性を訴える人びとはつくっても売れなかったら在庫として残るし、売れるという確信が得られないものは会社にとっては損失を被る危険性があると反対しています。
ここで抽象度をあげて全員のコンセンサスを得るような結論はどうしたらいいのでしょうか。商品をつくるという目的は同じです。ではとにかくつくってみるというかたちでまとめるのがいいのでしょうか。おそらくマーケティングの必要性を訴える人びとは商品をつくるプロセスにおいて全くモチベーションが上がらない状態で仕事をすることになるでしょう。ではマーケティング、すなわち企業の存在目的からはじまって社会貢献性のある企業理念、経営方針の構築(すでに明確であれば再認識)、そして顧客、競合との関係性やマーケットリサーチをし、市場のニーズや商品の差別化などさまざまな価値創造からなしていくという話です。それをしないと最終的には売れない商品の在庫の山で、ただの失敗する商売レベルで終わります。とてもじゃないけど事業とはいえないレベルだと考えるのです。
そこで抽象度をあげるということが本質を見極め、そこから始めるということになれば、商品開発をマーケティングの段階まで戻していこうという話になります。ところが、そうするとすぐにでも新商品導入を考え、すこしでも商品のアイテムを増やそうと考える人びとにはそんなことをしている場合ではないと考えるのです。またそういう人はマーケティングの重要性がわからなかったりするのです。こうなる抽象度をあげるという方法が前者でも後者でもまったく結論を出す力を持てなくなります。
実はこれは何を表しているのかというと、価値創造とそれをベースにして市場に導入されるべき商品という実用的なモノということになります。前者は無形で、後者は有形です。後者の観点しかもてない人、すなわち人間のタイプで無形な存在に疎い人びとが結構います。現実的というより、目に見えるものしか認識できない人、空気が読めない人に多い傾向があります。そういう人は価値の部分がよく分からないのです。つねに背に腹は変えられない、一時しのぎ的な経営しかできません。急がば回れといった観点もよく理解できないのです。もちろんこのPSIがテーマとしているパラダイムという観点はさらに理解できないということになります。
企業は価値の部分がとても大きいのです。企業の存在目的、それはすなわち企業が社会的に何をもって貢献しうるのか、そして組織の成員までしあわせにできる思想まで兼ね備えているのかということまで重要になります。日本の経済の高度成長時代には、価値創造というより、とにかく日常になくてあったら便利というものを開発すれば、どんどん売れた時代でした。現在はモノがあふれて、それこそもっと奥深い価値創造に根ざしたモノを開発し市場に出さなければ成功はできません。こういったことが理解できない場合、単に大枠でものごとをとらえ妥協して結論を出したところで何か不完全燃焼、あるいは消化不良な会議に終わるでしょう。
2013年1月22日火曜日
抽象度をあげるということ①
最近は日本もフラットな文化が根付いてきて、会社の会議なども、とてもフランクに誰でもが発言できるような雰囲気の会議も多い。それでも末端の社員が会社に対して忌憚のない発言ができるかというとそれはなかなか難しい。
経営者は社内で役職者の意見にだけ耳を傾けるのでなく、末端の平社員の考えや発言こそ耳を傾ける価値がある。なぜならば、ベテランの役職者になればなるほど、経験というものにとらわれて新しい風を起こすことは困難であるからです。もちろん既存の案件や問題への対処は経験に基づいた対応が不可欠で上位者の手法はとても重要です。しかし長年にわたる既存の手法が老朽化し市場で通用しなくなったという現実を認識することができたとしたなら、早く新しい風を社内に送り込んで改善していかなければなりません。その際、必要となってくるのが経験にとらわれない、すなわち経路依存の考え方ではない新鮮な感覚や思考が必要となってくるのです。
長年にわたり経営トップにいるとすでにその位置は埋め込まれた状況にあり、いつの間にか自分で経営しているのでなく、信頼しきった側近という存在が常に助言という名の指示を出し、実際は社長であるにもかかわらず、院生を敷いた実力者によって自由に動かされてしまっているロボット経営者になってしまっているケースもあります。そういう状況ができあがっている場合、会議はどんなに意見を述べたところで、社長と影の社長との間ですべてが決まってしまうということが往々にしてあります。この影の社長というのも会社によっていろいろなケースが考えられます。会社によっては、株主がやたら経営に介入する場合もありますし、社内の経理部門がその力を持つことがあります。また人事部門もそういう立場に立つことも考えられます。いずれにせよ、そういった部門は社長の裏の部分をよく知っているので、社長も強く出れないということもあります。
上記のようなケースを考えると、家族経営や同族経営というもののメリットもあるように思われますが、それはそれで家族や親族でない者たちが経営トップになれないという問題もあり、社員のモチベーションの問題もあります。またそういった企業は独裁になりやすく、ホントにモラルの高い経営者でなければ、コンプライアンス違反がどうしてもおこりやすい風土になってしまいます。もちろん日本の中小企業の高い技術の伝承や伝統芸能などのようなものは逆に生活をともにするほど密接でないとなかなか実現できないこともありますから一概には言えません。
いずれにせよ、一般的に会社は法人という公器であり、その会社に関係するすべてのステイクホルダーのための存在と考えられます。日本ではいままで会社はだれのものかという議論がずっとなされてきましたが、アメリカのように株主が最大の実権を握るという風土は受け入れがたいものとなっています。やはり聖徳太子のことから和をもって尊しとなすで、会社もみんなのものというところで組織の成員のモチベーションも帰属意識も維持されているように思います。
ヒエラルキーのある鋭利なピラミッド組織の会社は血の通わない同族経営のようになってしまってとても人間に対する扱いが非人道的になりやすいキライがあります。軍隊はもちろん、人を戦力、駒という観点でとらえますのでそれはまた別途に論じなければなりませんが、軍隊はそういう組織づくりであると私は考えています。企業は軍隊ではありません。感情も事情も一切抑えて行動するなんてことはできません。したがって、ピラミッド式の組織形態をより裾野を広げてフラットに近い状態にもっていくということは、経営者としてより問題ない組織にするための知恵であると考えます。
また会議でも硬直した状態をなるべく脱して自由闊達な意見交換ができるようにするにはフラットな組織ほどいいということがわかるはずです。経営者の独裁色が強い組織の会議はほとんど一部の権力を共有する人びと以外からの意見は出ません。多くの社員の意識の中には
「言っても無駄」とか「言える雰囲気でない」、「この会社のために意見する気はない」……
など、ひどい場合には社員の多くが会社の業務にコミットせず、ルーティンだけこなし、次の転職や独立を考えているなんてことも往々にしてあります。でもこういった会社のトップや役職者はそういった部下の動きはまったく見えず、あるとき、いきなり有望株だった社員からの辞表を受け取ることになるのです。
リーダーは孤独だとかいう話がありますが、特に独裁者はそうなります。独裁者の場合は人格ではなく、権力で周りを屈服させているので、本人もそれをわかって、自分がホントに好かれていないことをわかっている人もいます。一番信用できる側近から裏切られる不安をつねに抱えつついるのでまさに孤独です。私はリーダーと独裁者は分けて論じています。リーダーは旧体制派から殺され、独裁者は新しいものを望む民衆から殺されるのです。リーダーはフラット思考の役割分担型です。独裁者はピラミッド型の権力志向です。ただリーダーで居続けるのか、最終的に独裁者の烙印を押されるのかは最終的に本人の考えで決まると思います。さらにリーダーとなったら、自分が独裁者になってしまう危険性を秘めているという自覚をつねに持つことが重要だと思います。
話が組織形態や経営者の話になってしまいましたが、そのことに関しては折々お話していきたいと思います。今回論じたいのは会社経営の中核をなす社内の会議に関してお話するつもりです。会社経営には必ず企業理念、経営方針をベースとして経営が行われていきます。その際、会議によってあらゆることが決まっていきます。最近では会議は社内の認証の場で実行する内容の確認だけだという会社もあります。でも基本的には会議でさまざまな案件が議論され、決定された事項が具体的に業務内容として実行に移されます。
ダメな会社はやたら会議が多いとか、会議のための会議をやっているとかそういう話もありますね。確かにある程度方向性がでてノリに乗っている企業ならもう会議する時間ももったいないですし、会議の時間を最小限にして、それで経営が回るのなら理想的です。もちろんそういうケースもありますが、会議で会社経営の重要なことがらが決まっていくことも事実です。では会議をより有意義にして実りあるものにしていくためにはどうしたらいいのでしょう。誰かの独断で結論が押し通されるというより、社員のほとんどが納得できる結論を導出することができれば、それはとても有意義な会議の時間となると思います。そうするためにはどのように会議をすすめたらいいのか、じっくり考えていきたいと思います。
経営者は社内で役職者の意見にだけ耳を傾けるのでなく、末端の平社員の考えや発言こそ耳を傾ける価値がある。なぜならば、ベテランの役職者になればなるほど、経験というものにとらわれて新しい風を起こすことは困難であるからです。もちろん既存の案件や問題への対処は経験に基づいた対応が不可欠で上位者の手法はとても重要です。しかし長年にわたる既存の手法が老朽化し市場で通用しなくなったという現実を認識することができたとしたなら、早く新しい風を社内に送り込んで改善していかなければなりません。その際、必要となってくるのが経験にとらわれない、すなわち経路依存の考え方ではない新鮮な感覚や思考が必要となってくるのです。
長年にわたり経営トップにいるとすでにその位置は埋め込まれた状況にあり、いつの間にか自分で経営しているのでなく、信頼しきった側近という存在が常に助言という名の指示を出し、実際は社長であるにもかかわらず、院生を敷いた実力者によって自由に動かされてしまっているロボット経営者になってしまっているケースもあります。そういう状況ができあがっている場合、会議はどんなに意見を述べたところで、社長と影の社長との間ですべてが決まってしまうということが往々にしてあります。この影の社長というのも会社によっていろいろなケースが考えられます。会社によっては、株主がやたら経営に介入する場合もありますし、社内の経理部門がその力を持つことがあります。また人事部門もそういう立場に立つことも考えられます。いずれにせよ、そういった部門は社長の裏の部分をよく知っているので、社長も強く出れないということもあります。
上記のようなケースを考えると、家族経営や同族経営というもののメリットもあるように思われますが、それはそれで家族や親族でない者たちが経営トップになれないという問題もあり、社員のモチベーションの問題もあります。またそういった企業は独裁になりやすく、ホントにモラルの高い経営者でなければ、コンプライアンス違反がどうしてもおこりやすい風土になってしまいます。もちろん日本の中小企業の高い技術の伝承や伝統芸能などのようなものは逆に生活をともにするほど密接でないとなかなか実現できないこともありますから一概には言えません。
いずれにせよ、一般的に会社は法人という公器であり、その会社に関係するすべてのステイクホルダーのための存在と考えられます。日本ではいままで会社はだれのものかという議論がずっとなされてきましたが、アメリカのように株主が最大の実権を握るという風土は受け入れがたいものとなっています。やはり聖徳太子のことから和をもって尊しとなすで、会社もみんなのものというところで組織の成員のモチベーションも帰属意識も維持されているように思います。
ヒエラルキーのある鋭利なピラミッド組織の会社は血の通わない同族経営のようになってしまってとても人間に対する扱いが非人道的になりやすいキライがあります。軍隊はもちろん、人を戦力、駒という観点でとらえますのでそれはまた別途に論じなければなりませんが、軍隊はそういう組織づくりであると私は考えています。企業は軍隊ではありません。感情も事情も一切抑えて行動するなんてことはできません。したがって、ピラミッド式の組織形態をより裾野を広げてフラットに近い状態にもっていくということは、経営者としてより問題ない組織にするための知恵であると考えます。
また会議でも硬直した状態をなるべく脱して自由闊達な意見交換ができるようにするにはフラットな組織ほどいいということがわかるはずです。経営者の独裁色が強い組織の会議はほとんど一部の権力を共有する人びと以外からの意見は出ません。多くの社員の意識の中には
「言っても無駄」とか「言える雰囲気でない」、「この会社のために意見する気はない」……
など、ひどい場合には社員の多くが会社の業務にコミットせず、ルーティンだけこなし、次の転職や独立を考えているなんてことも往々にしてあります。でもこういった会社のトップや役職者はそういった部下の動きはまったく見えず、あるとき、いきなり有望株だった社員からの辞表を受け取ることになるのです。
リーダーは孤独だとかいう話がありますが、特に独裁者はそうなります。独裁者の場合は人格ではなく、権力で周りを屈服させているので、本人もそれをわかって、自分がホントに好かれていないことをわかっている人もいます。一番信用できる側近から裏切られる不安をつねに抱えつついるのでまさに孤独です。私はリーダーと独裁者は分けて論じています。リーダーは旧体制派から殺され、独裁者は新しいものを望む民衆から殺されるのです。リーダーはフラット思考の役割分担型です。独裁者はピラミッド型の権力志向です。ただリーダーで居続けるのか、最終的に独裁者の烙印を押されるのかは最終的に本人の考えで決まると思います。さらにリーダーとなったら、自分が独裁者になってしまう危険性を秘めているという自覚をつねに持つことが重要だと思います。
話が組織形態や経営者の話になってしまいましたが、そのことに関しては折々お話していきたいと思います。今回論じたいのは会社経営の中核をなす社内の会議に関してお話するつもりです。会社経営には必ず企業理念、経営方針をベースとして経営が行われていきます。その際、会議によってあらゆることが決まっていきます。最近では会議は社内の認証の場で実行する内容の確認だけだという会社もあります。でも基本的には会議でさまざまな案件が議論され、決定された事項が具体的に業務内容として実行に移されます。
ダメな会社はやたら会議が多いとか、会議のための会議をやっているとかそういう話もありますね。確かにある程度方向性がでてノリに乗っている企業ならもう会議する時間ももったいないですし、会議の時間を最小限にして、それで経営が回るのなら理想的です。もちろんそういうケースもありますが、会議で会社経営の重要なことがらが決まっていくことも事実です。では会議をより有意義にして実りあるものにしていくためにはどうしたらいいのでしょう。誰かの独断で結論が押し通されるというより、社員のほとんどが納得できる結論を導出することができれば、それはとても有意義な会議の時間となると思います。そうするためにはどのように会議をすすめたらいいのか、じっくり考えていきたいと思います。
2013年1月17日木曜日
健康で長生きする秘訣⑦
ストレスを溜めないように自然体で楽しく生きていくということをお話してきました。そして自分にもやさしくあることが大切と言いました。ここで一つ注意しておかなくてはならないことは、自分にやさしいことと自分に弱いこととは違うのだということです。
すなわち、自分の感情や欲望をコントロールできた上で自分にやさしくするということです。あまり自分を追い込んだり無理をさせて苦しめることはよくないということなのであって、自分の欲や感情に振り回されてはいけないということなのです。本当に賢い人は自己管理ができている人です。そして感情をある程度コントロールできる人です。もちろんPSI的観点では自然体の人間であることを重要視しますから、怒ったり、泣いたり、笑ったり、悲しんだりと喜怒哀楽を素直に出すこともいいことだと考えます。しかし感情をコントロールできないのは致命的です。むしろそのことによってストレスを溜めてしまい、精神的にも肉体的にも負荷がかかり老化を早めてしまうのです。
世の中で素晴らしい経営者やそれなりの識者であるような人びとであまり肥った人は見ません。アメリカ人はとてもメタボリックな人が多いのですが、アメリカで企業のトップには肥った人はなれないということを聞いたことがあります。それは自己管理さえできないのに会社の経営はもっとできないということです。日本の経営者でも上場企業でよくメディアに露出されるような人びとでメタボな人は見たことがありません。
自己管理はとても大切です。自分にやさしいことはいいことですが、自分(の欲望や感情)に負けてはまったく意味がありません。したがって、いままで論じてきたことは日本人のほぼ8割以上の真面目でいつも頑張る人に向けてのメッセージです。逆に自分に対して弱く、しょっちゅう気分屋になって感情が安定しない人やすぐカーッとなる人、あるいはすぐに周りの言動に左右されて落ち込む人などはそれこそ自分でブレない軸をちゃんと立てなければならないと思います。アルコールやタバコも管理できればいいのですが、それがないと生きていけない状況になってしまっていたらもうすでに健康とは真逆の方向に行っているのであって、自己管理ができていないということになります。私はタバコはもともとからだに悪いと思って吸ったことがないのですが、お酒は多少飲みます。ただみんなで集まって楽しく盛り上がるときに飲むくらいで、毎日晩酌というレベルではありません。お酒もタバコもどんなに周囲で言っても、最終的には自分自身の判断で管理するしか方法はありません。すでに中毒症状に至ってる人はそれこそ自分で気づいて自分にきびしく対処するしか救われる方法はありませんし、誰も注意してくれる人はいません。なぜならみんな大人だから面と向かって言わないのです。最終的に自分のからだは自分が守るしかありません。
人生のパートナーには「私を本当に愛しているのならあなたは健康でいてください。」と言いましょう。自分が健康でなければ最終的には愛する家族に迷惑をかけてしまうことになるからです。もちろんお金がたくさんあるならば、最近では老後にそういう施設に入ることもできますから、まあそこまで健康管理ができない人に無理してPSI的健康法をおススメする必要もないのかもしれませんが…。
でもこのブログを読んでくださっている方々には健康で長生きしてほしいものです。長寿社会は第二、第三の人生が待っているのです。そして老人擁護施設でもときめくような出会いがあるかもしれませんからね。
すなわち、自分の感情や欲望をコントロールできた上で自分にやさしくするということです。あまり自分を追い込んだり無理をさせて苦しめることはよくないということなのであって、自分の欲や感情に振り回されてはいけないということなのです。本当に賢い人は自己管理ができている人です。そして感情をある程度コントロールできる人です。もちろんPSI的観点では自然体の人間であることを重要視しますから、怒ったり、泣いたり、笑ったり、悲しんだりと喜怒哀楽を素直に出すこともいいことだと考えます。しかし感情をコントロールできないのは致命的です。むしろそのことによってストレスを溜めてしまい、精神的にも肉体的にも負荷がかかり老化を早めてしまうのです。
世の中で素晴らしい経営者やそれなりの識者であるような人びとであまり肥った人は見ません。アメリカ人はとてもメタボリックな人が多いのですが、アメリカで企業のトップには肥った人はなれないということを聞いたことがあります。それは自己管理さえできないのに会社の経営はもっとできないということです。日本の経営者でも上場企業でよくメディアに露出されるような人びとでメタボな人は見たことがありません。
自己管理はとても大切です。自分にやさしいことはいいことですが、自分(の欲望や感情)に負けてはまったく意味がありません。したがって、いままで論じてきたことは日本人のほぼ8割以上の真面目でいつも頑張る人に向けてのメッセージです。逆に自分に対して弱く、しょっちゅう気分屋になって感情が安定しない人やすぐカーッとなる人、あるいはすぐに周りの言動に左右されて落ち込む人などはそれこそ自分でブレない軸をちゃんと立てなければならないと思います。アルコールやタバコも管理できればいいのですが、それがないと生きていけない状況になってしまっていたらもうすでに健康とは真逆の方向に行っているのであって、自己管理ができていないということになります。私はタバコはもともとからだに悪いと思って吸ったことがないのですが、お酒は多少飲みます。ただみんなで集まって楽しく盛り上がるときに飲むくらいで、毎日晩酌というレベルではありません。お酒もタバコもどんなに周囲で言っても、最終的には自分自身の判断で管理するしか方法はありません。すでに中毒症状に至ってる人はそれこそ自分で気づいて自分にきびしく対処するしか救われる方法はありませんし、誰も注意してくれる人はいません。なぜならみんな大人だから面と向かって言わないのです。最終的に自分のからだは自分が守るしかありません。
人生のパートナーには「私を本当に愛しているのならあなたは健康でいてください。」と言いましょう。自分が健康でなければ最終的には愛する家族に迷惑をかけてしまうことになるからです。もちろんお金がたくさんあるならば、最近では老後にそういう施設に入ることもできますから、まあそこまで健康管理ができない人に無理してPSI的健康法をおススメする必要もないのかもしれませんが…。
でもこのブログを読んでくださっている方々には健康で長生きしてほしいものです。長寿社会は第二、第三の人生が待っているのです。そして老人擁護施設でもときめくような出会いがあるかもしれませんからね。
2013年1月16日水曜日
健康で長生きする秘訣⑥
人間のからだは消耗品です。心も枯れたり、折れたりするというようにあまり負荷をかけすぎると限界を超えてしまいます。いわんやからだはなおさら目に見えて消耗していきます。人間は生まれたときから「死」に向かって間違いなく進んでいるのです。20代までは成長し、たくましくなったり、綺麗になっていくという感じですが、30代に突入しつつ、徐々に人生は「老い」のプロセスを歩んでいるのだと自覚するようになります。PSIでは人生を楽しく有意義に謳歌する意味で、短い人生より長生きの人生のほうがいいですし、長生きするなら寝たきりにならないように健康で生きたいということを推奨しています。
健康でストレスを受けず長生きする秘訣は、自然体でありのままの自分をさらけ出して生きるということをお話しました。でも私たちはひとりで生きているのではありません。さまざまな人びととの関係性をもって生きているのです。気を使ったり、我慢したり、あるいは誤解から喧嘩になったりとさまざまな経験を積みます。そういう中で、それでもストレスを受けない生き方を考えて自然体の行き方を目指すのなら、やはりすべてが自分の思うようにはいかないという現実を受け入れることと、すべての人が自分をいい人だと見るという非現実的な発想を捨てることが重要になってきます。それがすなわち
「あきらめる」と「どう思われてもいい」
という二つの観点でした。
そして人に対してはもちろんのこと、自分に対してもやさしくあるべきということも重要です。
現代社会は精神疾患がとても多いように見受けられますが、「うつ」も社会問題化しています。もともと「うつ」になる人はとても真面目な人が多いのです。初めからいい加減な人や、チャランポランな人はあまり「うつ」とは関係ありません。「うつ」になる人は真面目で、自分に対してきびしい人も多いのです。ですから、自分が理想とするレベルに行かない状況がずっと続くとその理想と現実のギャップに悩み続けます。最後まで妥協できず、悩み続けた人が、ある時期を過ぎるとプツンと風船の糸が切れたように「うつ」状態になってしまいます。真面目で趣味もあまりなく仕事一筋のような人も危険です。なぜならそこにしか心の拠り所がないので、仕事で問題が起き続けると救われる環境がないからです。もし仕事以外にいろいろと軸足があれば、仕事での問題が自分の心に占める割合は低くなるから精神的にラクなのです。
「うつ」の人に頑張っては禁句だと言われています。実は頑張りすぎてそれでも結果が出なかったからそうなったのです。会社もダメな会社は結果が出ないことを社員のせいにしてどこまでも追い込む会社があります。でも結果が出ないのはもともと市場のニーズがないものを売っていたり、会社のシステムに問題があったりするのです。保守的で一つのやり方で大きな実績を出した、いわゆる過去の栄光が大きい会社は変化する時代の流れについていけず、旧態依然たる老朽化した手法を相変わらず使って仕事をさせているので、結果は出ないのです。そういう会社や経営陣の問題を客観的に見抜いて、自分の才能に問題があるのではないということに気づけばいいのですが、新人で入ったり、長年働いてきて、いままでの手法が通用せず、いくらやっても不毛の闘いを繰り返すようになるといつの間にか我知らずそういった精神的なダメージを患うようになっていくのです。
「あきらめる」も「どう思われてもいい」は「うつ」症状の人びとには福音のようなフレーズであると確信します。肩の荷を下ろしてください。もっと気楽に生きようよということです。もともと人生は与えられたものであり、生まれたということは計り知れないくらい尊いのものであり、奇跡です。そのことを考えながら、自分の分もわきまえて、あまり追い込んではいけません。いまのあなたで十分です。そのままの自分がいちばん輝いているのです。
とにかく世の中の常識というものを疑問視しましょう。成功哲学なんかも元気な人が金儲けするためのスキルの土台となる精神論です。それを好きな人もいるでしょう。また成功哲学を信奉する人びと、特にそれを生業としている人びとは、それに関心を持たなかったり、受け入れない人びとに対してとても勿体無いような言い方をしますが、それはその思想に引き込むための方便に過ぎません。勝ち組、負け組という分け方、しあわせ、不幸せという言い方、それらはとても主観的な言い方であって、人それぞれ見る観点が違えば、まったく違ってきます。またバツ一、バツ二といった言い方などもありますが、お笑い芸人たちがそれらを自虐ネタにすることで、最近はあまり悪いイメージはないのでこだわる理由もないのかもしれません。いずれにせよ世の中の評価は絶対的なものではありません。したがってそういった世の中の常識や社会通念で自分を評価して落ち込む必要は全くありません。ただ「うつ」になりやすい人は完璧主義的な人も多く、必要以上に自分で自分を低く評価してしまうキライがあるので注意しましょう。
自分大好き人間、いわゆる「ナルシスト」がもっともストレスがなく理想的です。それでいて傲慢でなく、素が出てお茶目な性格なら周りも好意的に受け入れてくれること間違いなしです。個性的な魅力こそ人間本来の魅力であり、完全な美男美女なんて面白くありません。落語で「美人は3日で飽きるが、ブスは3日で馴れる」というのがありますが、一理あります。有名人でも美男美女が案外、結婚できなくて、そうでない人が結婚したりします。もちろん結婚するしないは、人それぞれの考え方ですのでそれはどちらでもいいのですが、完璧でないほうが魅力的なのです。日本人は八重歯をかわいいとする美的感覚があります。それは未成熟なところに魅力を感じるからだそうです。皆さんもそういった経験はないですか。私は男性なので男の立場で言及すると、美人なのにちょっと手が荒れてたり、とか美人なのにちょっと歯並びがイマイチとかというのを目にすると心がキュンとなったり、安心感を覚えたりします。完璧でないところが相手に安心感を与えるのです。芸能人でもものすごい美人がずっと彼氏もできないというのをよく目にします。人間、完璧すぎるとひくのです。
最近は整形の技術がとても高いので、完璧な容姿は作ることができます。でもそれには個性がないのです。たくさんの女性が綺麗で長い足を出して歌って踊っても一人ひとりを区別できず、覚えられないのです。日本のアイドルはほとんど整形をしていないためにはっきり言ってデコボコです。でも何度か見ていると名前まで覚えてしまうのです。お父さんはAKBの中では○○ちゃんがいいなと言ったりすると娘からはキモ~イと言われてしまうありさまです。
少しは自信がつきましたか。皆さんはありのままで十分輝いているのです。みんなに好かれる必要もないのです。自然体で素を出して、それを受け入れてくれる人は自分と相性のいい人です。芸能人の中でもその素のほうをウリにしているお笑い芸人は結構、美人と結婚したりします。女性も男性も美しさとかかっこよさに惹かれるのではなく、その人がもつ本来の個性の輝きに惹かれるのです。これからは自分の持ち味、個性を伸ばしてより充実した人生にしていきましょう。
健康でストレスを受けず長生きする秘訣は、自然体でありのままの自分をさらけ出して生きるということをお話しました。でも私たちはひとりで生きているのではありません。さまざまな人びととの関係性をもって生きているのです。気を使ったり、我慢したり、あるいは誤解から喧嘩になったりとさまざまな経験を積みます。そういう中で、それでもストレスを受けない生き方を考えて自然体の行き方を目指すのなら、やはりすべてが自分の思うようにはいかないという現実を受け入れることと、すべての人が自分をいい人だと見るという非現実的な発想を捨てることが重要になってきます。それがすなわち
「あきらめる」と「どう思われてもいい」
という二つの観点でした。
そして人に対してはもちろんのこと、自分に対してもやさしくあるべきということも重要です。
現代社会は精神疾患がとても多いように見受けられますが、「うつ」も社会問題化しています。もともと「うつ」になる人はとても真面目な人が多いのです。初めからいい加減な人や、チャランポランな人はあまり「うつ」とは関係ありません。「うつ」になる人は真面目で、自分に対してきびしい人も多いのです。ですから、自分が理想とするレベルに行かない状況がずっと続くとその理想と現実のギャップに悩み続けます。最後まで妥協できず、悩み続けた人が、ある時期を過ぎるとプツンと風船の糸が切れたように「うつ」状態になってしまいます。真面目で趣味もあまりなく仕事一筋のような人も危険です。なぜならそこにしか心の拠り所がないので、仕事で問題が起き続けると救われる環境がないからです。もし仕事以外にいろいろと軸足があれば、仕事での問題が自分の心に占める割合は低くなるから精神的にラクなのです。
「うつ」の人に頑張っては禁句だと言われています。実は頑張りすぎてそれでも結果が出なかったからそうなったのです。会社もダメな会社は結果が出ないことを社員のせいにしてどこまでも追い込む会社があります。でも結果が出ないのはもともと市場のニーズがないものを売っていたり、会社のシステムに問題があったりするのです。保守的で一つのやり方で大きな実績を出した、いわゆる過去の栄光が大きい会社は変化する時代の流れについていけず、旧態依然たる老朽化した手法を相変わらず使って仕事をさせているので、結果は出ないのです。そういう会社や経営陣の問題を客観的に見抜いて、自分の才能に問題があるのではないということに気づけばいいのですが、新人で入ったり、長年働いてきて、いままでの手法が通用せず、いくらやっても不毛の闘いを繰り返すようになるといつの間にか我知らずそういった精神的なダメージを患うようになっていくのです。
「あきらめる」も「どう思われてもいい」は「うつ」症状の人びとには福音のようなフレーズであると確信します。肩の荷を下ろしてください。もっと気楽に生きようよということです。もともと人生は与えられたものであり、生まれたということは計り知れないくらい尊いのものであり、奇跡です。そのことを考えながら、自分の分もわきまえて、あまり追い込んではいけません。いまのあなたで十分です。そのままの自分がいちばん輝いているのです。
とにかく世の中の常識というものを疑問視しましょう。成功哲学なんかも元気な人が金儲けするためのスキルの土台となる精神論です。それを好きな人もいるでしょう。また成功哲学を信奉する人びと、特にそれを生業としている人びとは、それに関心を持たなかったり、受け入れない人びとに対してとても勿体無いような言い方をしますが、それはその思想に引き込むための方便に過ぎません。勝ち組、負け組という分け方、しあわせ、不幸せという言い方、それらはとても主観的な言い方であって、人それぞれ見る観点が違えば、まったく違ってきます。またバツ一、バツ二といった言い方などもありますが、お笑い芸人たちがそれらを自虐ネタにすることで、最近はあまり悪いイメージはないのでこだわる理由もないのかもしれません。いずれにせよ世の中の評価は絶対的なものではありません。したがってそういった世の中の常識や社会通念で自分を評価して落ち込む必要は全くありません。ただ「うつ」になりやすい人は完璧主義的な人も多く、必要以上に自分で自分を低く評価してしまうキライがあるので注意しましょう。
自分大好き人間、いわゆる「ナルシスト」がもっともストレスがなく理想的です。それでいて傲慢でなく、素が出てお茶目な性格なら周りも好意的に受け入れてくれること間違いなしです。個性的な魅力こそ人間本来の魅力であり、完全な美男美女なんて面白くありません。落語で「美人は3日で飽きるが、ブスは3日で馴れる」というのがありますが、一理あります。有名人でも美男美女が案外、結婚できなくて、そうでない人が結婚したりします。もちろん結婚するしないは、人それぞれの考え方ですのでそれはどちらでもいいのですが、完璧でないほうが魅力的なのです。日本人は八重歯をかわいいとする美的感覚があります。それは未成熟なところに魅力を感じるからだそうです。皆さんもそういった経験はないですか。私は男性なので男の立場で言及すると、美人なのにちょっと手が荒れてたり、とか美人なのにちょっと歯並びがイマイチとかというのを目にすると心がキュンとなったり、安心感を覚えたりします。完璧でないところが相手に安心感を与えるのです。芸能人でもものすごい美人がずっと彼氏もできないというのをよく目にします。人間、完璧すぎるとひくのです。
最近は整形の技術がとても高いので、完璧な容姿は作ることができます。でもそれには個性がないのです。たくさんの女性が綺麗で長い足を出して歌って踊っても一人ひとりを区別できず、覚えられないのです。日本のアイドルはほとんど整形をしていないためにはっきり言ってデコボコです。でも何度か見ていると名前まで覚えてしまうのです。お父さんはAKBの中では○○ちゃんがいいなと言ったりすると娘からはキモ~イと言われてしまうありさまです。
少しは自信がつきましたか。皆さんはありのままで十分輝いているのです。みんなに好かれる必要もないのです。自然体で素を出して、それを受け入れてくれる人は自分と相性のいい人です。芸能人の中でもその素のほうをウリにしているお笑い芸人は結構、美人と結婚したりします。女性も男性も美しさとかかっこよさに惹かれるのではなく、その人がもつ本来の個性の輝きに惹かれるのです。これからは自分の持ち味、個性を伸ばしてより充実した人生にしていきましょう。
2013年1月14日月曜日
体罰について②
前回、体罰に関して意見を述べてきましたが、時代の流れとともに、いままでは問題にもならなかったようなことがらがいまでは大きな問題とされることが多くなりました。いじめ問題も昔の親のアプローチはいじめられたら、やり返して来いでしたが、いまはそうはいきません。
戦後の経済の高度成長時代には、兄弟も多く、地域社会にも子どもたちがあふれていました。いまのように一人っ子が多く友だちもあまりいない時代とは違って、子どもたちだけで社会が形成されていたのです。そういう中でぶつかったり、逃げたり、喧嘩したり、仲直りしたり、親が仕事と家事におわれる中、子どもたちは自分たちで自分たちの問題は解決したのです。そういう中で圧倒的に人間関係のスキルを身につけて、いじめはあってもそれをうまく回避したりする術を得ていたのです。またいじめるほうも、相手に対してどこまでやっていいのかという加減をある程度知っていたとも言えます。手加減という感覚がわかった時代でもありました。しかし、現代ではそういう人間関係の力、すなわちコミュニケーション能力といえるものや、人間同士の間合いなども感覚的にわからないくなってきています。
いじめはいつの間にか傷害事件となり、体罰も暴力事件になっています。いじめの被害者と加害者の問題はその原因が家庭環境にあるということは言われています。ここではそのことには触れませんが、どちらも大きな傷や問題をかかえています。今後教育の分野で必要となるのは、タブーなき家庭での子育てのあり方を研究していかなければならないことです。いじめの加害者になるタイプはどのような家庭環境にあるのか、いじめられやすいのはどのような家庭環境であるのかということに関してです。私は小中学校とどちらの感覚も味わったことがあるので、なんとなくわかる部分があります。もちろん学術的にそういったデータをとって調べていくという必要があると思います。ただ問題はあくまで家庭というプライベートな空間や親たちのプライバシーにも踏み込まなければならないため、こういった研究は簡単ではないでしょう。この件に関してはまた機会があれば論じてみたいと思います。
学校でのいじめや教師による体罰を言う前に、家庭内でのDV(Domestic Violence)の問題があります。DVを行ってしまう親は自分の親から同様のDVを受けていたということがあります。自分はこのような親になってはいけないと思いつつ、実際子どもに対しては自分の親が自分にしたようにしていまうという事実です。人間はダメな親や上司を反面教師として学びますが、知らずのうちに自分がされたように子どもや部下にしてしまうということがあります。特に体育会系の指導というものは間違いなく、代々受け継いできた方法を実践するはずです。指導教官自身も昔受けていた指導方法にのっとって指導するということは当然です。もしそれが変わるとしたら、指導教官が変わるときです。
戦前の軍国主義の時代は全体主義であり、一つの方向性に全体が向かっているため、上官のやり方に異を唱えることはできません。なぜならば上官の指示命令は正しいという前提に立っているからです。ある面体育会系の部活動も一つの目標に向かって全員が取り組んでおり、全員が指導教師に信頼をおいているがゆえに、それに異を唱えることはできないようになっています。今回体罰で自殺された生徒もそのチーム全体の空気は十分読んでいたはずです。それで帰宅して両親にしかその気持ちを打ち明けることはできなかったのだろうと思います。
おそらく彼も指導教師の考えや管理手法に必死でついていこうとしていたはずですし、それに対して批判するという気持ちはもっていたかどうかわかりません。ただ体罰を受けたことに対する悔しさやふがいなさはきっとあったことと思います。実は私も中学校のとき似たような体験をして、彼の気持ちが理解できる気がします。体罰を受けたり、いじめを受ける人びとの傷は受けた人でなければ理解できません。たくさん殴られたり、精神的にあるいは肉体的に傷つけられると、人間はどうなるかというと悔しさから涙が出てきます。それは相手に対する怨みというより、自分という存在を守れなかった自分に対する悔しさです。怨みではなく、恨みです。監督に対する怨みでなく、自分自身に対するやるせない気持ちです。すなわち自分という人間の尊厳が大きく損なわれたことに対する深い悲しみです。難しい言葉で蹂躙という言葉があります。自分という世の中にたった一人しかいないかけがえのない存在が弄ばれたことに対する人間本来の悲しみです。
もちろん加害者となっている人の言い分もあるでしょう。またその人を擁護する人も言いたいことがあるでしょう。しかしここではっきり申し上げたいことは、いじめも、体罰も相手を傷つけることに変わりはないということです。行為としては同じです。相手の尊厳が傷つけられているとしたらそれはすでに犯罪に限りなく近いということを認識するべきです。体罰を行い続けている教師は体罰でしか子どもを管理できない教育、指導スキルの未熟さに気づくべきです。学校も企業も教育、指導などというきれいな言葉で隠して実際は人間の尊厳を弄ぶ慣行ができあがっていないか、まずチェックするべきです。特にその組織のトップにいる人はその部分をいかに注意深く見ていくかが重要になります。
戦後の経済の高度成長時代には、兄弟も多く、地域社会にも子どもたちがあふれていました。いまのように一人っ子が多く友だちもあまりいない時代とは違って、子どもたちだけで社会が形成されていたのです。そういう中でぶつかったり、逃げたり、喧嘩したり、仲直りしたり、親が仕事と家事におわれる中、子どもたちは自分たちで自分たちの問題は解決したのです。そういう中で圧倒的に人間関係のスキルを身につけて、いじめはあってもそれをうまく回避したりする術を得ていたのです。またいじめるほうも、相手に対してどこまでやっていいのかという加減をある程度知っていたとも言えます。手加減という感覚がわかった時代でもありました。しかし、現代ではそういう人間関係の力、すなわちコミュニケーション能力といえるものや、人間同士の間合いなども感覚的にわからないくなってきています。
いじめはいつの間にか傷害事件となり、体罰も暴力事件になっています。いじめの被害者と加害者の問題はその原因が家庭環境にあるということは言われています。ここではそのことには触れませんが、どちらも大きな傷や問題をかかえています。今後教育の分野で必要となるのは、タブーなき家庭での子育てのあり方を研究していかなければならないことです。いじめの加害者になるタイプはどのような家庭環境にあるのか、いじめられやすいのはどのような家庭環境であるのかということに関してです。私は小中学校とどちらの感覚も味わったことがあるので、なんとなくわかる部分があります。もちろん学術的にそういったデータをとって調べていくという必要があると思います。ただ問題はあくまで家庭というプライベートな空間や親たちのプライバシーにも踏み込まなければならないため、こういった研究は簡単ではないでしょう。この件に関してはまた機会があれば論じてみたいと思います。
学校でのいじめや教師による体罰を言う前に、家庭内でのDV(Domestic Violence)の問題があります。DVを行ってしまう親は自分の親から同様のDVを受けていたということがあります。自分はこのような親になってはいけないと思いつつ、実際子どもに対しては自分の親が自分にしたようにしていまうという事実です。人間はダメな親や上司を反面教師として学びますが、知らずのうちに自分がされたように子どもや部下にしてしまうということがあります。特に体育会系の指導というものは間違いなく、代々受け継いできた方法を実践するはずです。指導教官自身も昔受けていた指導方法にのっとって指導するということは当然です。もしそれが変わるとしたら、指導教官が変わるときです。
戦前の軍国主義の時代は全体主義であり、一つの方向性に全体が向かっているため、上官のやり方に異を唱えることはできません。なぜならば上官の指示命令は正しいという前提に立っているからです。ある面体育会系の部活動も一つの目標に向かって全員が取り組んでおり、全員が指導教師に信頼をおいているがゆえに、それに異を唱えることはできないようになっています。今回体罰で自殺された生徒もそのチーム全体の空気は十分読んでいたはずです。それで帰宅して両親にしかその気持ちを打ち明けることはできなかったのだろうと思います。
おそらく彼も指導教師の考えや管理手法に必死でついていこうとしていたはずですし、それに対して批判するという気持ちはもっていたかどうかわかりません。ただ体罰を受けたことに対する悔しさやふがいなさはきっとあったことと思います。実は私も中学校のとき似たような体験をして、彼の気持ちが理解できる気がします。体罰を受けたり、いじめを受ける人びとの傷は受けた人でなければ理解できません。たくさん殴られたり、精神的にあるいは肉体的に傷つけられると、人間はどうなるかというと悔しさから涙が出てきます。それは相手に対する怨みというより、自分という存在を守れなかった自分に対する悔しさです。怨みではなく、恨みです。監督に対する怨みでなく、自分自身に対するやるせない気持ちです。すなわち自分という人間の尊厳が大きく損なわれたことに対する深い悲しみです。難しい言葉で蹂躙という言葉があります。自分という世の中にたった一人しかいないかけがえのない存在が弄ばれたことに対する人間本来の悲しみです。
もちろん加害者となっている人の言い分もあるでしょう。またその人を擁護する人も言いたいことがあるでしょう。しかしここではっきり申し上げたいことは、いじめも、体罰も相手を傷つけることに変わりはないということです。行為としては同じです。相手の尊厳が傷つけられているとしたらそれはすでに犯罪に限りなく近いということを認識するべきです。体罰を行い続けている教師は体罰でしか子どもを管理できない教育、指導スキルの未熟さに気づくべきです。学校も企業も教育、指導などというきれいな言葉で隠して実際は人間の尊厳を弄ぶ慣行ができあがっていないか、まずチェックするべきです。特にその組織のトップにいる人はその部分をいかに注意深く見ていくかが重要になります。
2013年1月13日日曜日
体罰について①
大阪の市立桜宮高校のバスケットボール部の主将だった生徒が指導教員の体罰が原因で自殺をした問題がいま話題になっています。いじめによる自殺から体罰による自殺まで、教育の現場ではとても多くの問題をかかえています。
実は私も中学時代に似たような体験をしたために今回の事件はとても他人事では済まされない内容だと痛感しています。今日某テレビに体罰を容認というか肯定する人と、体罰を否定する人の両方が出て激論を交わしていました。前者は過去民間で青少年の更正を実践してきた人で絶対的に体罰推進派です。後者はテレビでおなじみのコメンテーターで体罰は完全に否定されていました。
私は絶対的に体罰は暴力であると考えます。体罰を与えることを正当化する人びとは理由をいろいろと言われます。しかしそれはたまたまいい結果が出ることで確信を得て、体罰至上主義のようになっている人びとです。もともと更正できないほどの人格は過去に相当大きな問題をかかえており、対症療法的に荒治療で短期間に治すことは可能かもしれません。ただそれが正しいことなのかは別問題です。まして今回のケースは学校の部活動での出来事です。自殺をした彼が、人間的に問題があったわけでもなんでもありません。
PSIでは人間の尊厳ということをとても重要視します。そして教育の現場に関わらず、あらゆる組織において地位のある人は組織内において権威や権限、権力を有しているのです。それをいいことに他者に危害を加えることは間違いなく暴力行為であり、犯罪であり、人間の尊厳を大きく傷つけることになります。今回、自殺された生徒さんは社会的にとても大きな問題を提議してくれました。実際に亡くなられたことで社会問題として明るみに出たのですが、家庭、学校、会社、さまざまな組織はとても密室になりやすく、より上位者の言動が正当化される風土に間違いなくなっています。最近はそういった弊害を無くすために風通しのいい組織とかフラット化いうことがどんどん取り入れられていますが、なかなか難しいのです。
組織において上位者は本当に人格的に素晴らしい素養を持っていなければたいへん危険です。人格的に素晴らしいというのは自分をつねに客観視したり学習しながら謙虚さを失わない人です。会社やさまざまな組織で上に行けば行くほど、権力のうまみにはまって、素直に従う下部組織の人びとを自分の道具のように好き放題にしてしまうという人が現れてきます。ひどい状況になると自覚症状のないまま「サイコパス」のようになってしまう上位者もいます。
なぜそういう人びとが組織内でのさばり続けることができるのか。それはより上位者にはいい顔をして、下には圧力をかけるというタイプが多いので、より上位の人にはできる人としか映らないからです。そして無理しても下部の人びとに実績を上げさせますのでさらにより上位の人びとからは信頼を得るというカタチで居座り続けることになります。すなわち「トラの威を駆るキツネ」タイプが多くとても権威主義的な人格の人です。わかりやすく言うと
「上にペコペコ、下にガミガミ」
です。私が以前本部の部長であったとき、現場の店長ですごくヨイショがうまい太鼓もちの人がいました。でもその人に対する部下(店舗スタッフ)の評判は最悪でした。そのとき気づいたことは、人を判断するのに上からだけ見てはダメだということでした。松井証券の松井社長は役職者の評価を部下にさせるという話をされていました。それによって給料が決まるのです。
体罰で屈服させて組織をまとめる。すなわち恐怖によって組織を統制する。そういったやり方は組織の成員全体の自立心を著しく阻害するため、誰もがその上位者を告発するという方向には行かないのです。それも同じ組織内で告発した場合、間違いなく告発者は裏切り者とレッテルを貼られ、その組織内の上位グループの権力者たちの臭いものに蓋という観点から、あるいは成員全体のかもし出す同調圧力によって潰されるか、組織をやめざる得ない状況に追いやられます。
その体罰を行った指導教員はおそらく過去の実績(成功体験)から同じ手法を改めることはまずできないでしょうし、実績が素晴らしいほど自分の手法に酔いしれ、自惚れや傲慢さなどがさらにそういった体罰をエスカレートさせる方向にいったのではないかと思います。
教育の現場はとても閉鎖的な密閉空間です。企業やその他の組織において一つの目標をもって同じ方向を目指す組織であればあるほど気をつけなければならないのは、権力を傘に人間の個人個人の尊厳を大きく傷つける行為が行われやすいということであり、またその組織の中にいる全員が沈黙をまもり、傍観者になることで大きな同調圧力や集団圧力をつくりあげていまうという危険性をはらんでいることを認識するべきです。昨今、企業ではセクハラにはじまり、パワハラ、モラハラなど理不尽なことがあまりにも多く横行しています。匿名でもなんでもとにかく声をあげて組織の成員全員に気づきを与えて、被害者にも加害者にもならないよう個人的にも組織全体の取り組みとしても努力していかなければならないと考えます。
実は私も中学時代に似たような体験をしたために今回の事件はとても他人事では済まされない内容だと痛感しています。今日某テレビに体罰を容認というか肯定する人と、体罰を否定する人の両方が出て激論を交わしていました。前者は過去民間で青少年の更正を実践してきた人で絶対的に体罰推進派です。後者はテレビでおなじみのコメンテーターで体罰は完全に否定されていました。
私は絶対的に体罰は暴力であると考えます。体罰を与えることを正当化する人びとは理由をいろいろと言われます。しかしそれはたまたまいい結果が出ることで確信を得て、体罰至上主義のようになっている人びとです。もともと更正できないほどの人格は過去に相当大きな問題をかかえており、対症療法的に荒治療で短期間に治すことは可能かもしれません。ただそれが正しいことなのかは別問題です。まして今回のケースは学校の部活動での出来事です。自殺をした彼が、人間的に問題があったわけでもなんでもありません。
PSIでは人間の尊厳ということをとても重要視します。そして教育の現場に関わらず、あらゆる組織において地位のある人は組織内において権威や権限、権力を有しているのです。それをいいことに他者に危害を加えることは間違いなく暴力行為であり、犯罪であり、人間の尊厳を大きく傷つけることになります。今回、自殺された生徒さんは社会的にとても大きな問題を提議してくれました。実際に亡くなられたことで社会問題として明るみに出たのですが、家庭、学校、会社、さまざまな組織はとても密室になりやすく、より上位者の言動が正当化される風土に間違いなくなっています。最近はそういった弊害を無くすために風通しのいい組織とかフラット化いうことがどんどん取り入れられていますが、なかなか難しいのです。
組織において上位者は本当に人格的に素晴らしい素養を持っていなければたいへん危険です。人格的に素晴らしいというのは自分をつねに客観視したり学習しながら謙虚さを失わない人です。会社やさまざまな組織で上に行けば行くほど、権力のうまみにはまって、素直に従う下部組織の人びとを自分の道具のように好き放題にしてしまうという人が現れてきます。ひどい状況になると自覚症状のないまま「サイコパス」のようになってしまう上位者もいます。
なぜそういう人びとが組織内でのさばり続けることができるのか。それはより上位者にはいい顔をして、下には圧力をかけるというタイプが多いので、より上位の人にはできる人としか映らないからです。そして無理しても下部の人びとに実績を上げさせますのでさらにより上位の人びとからは信頼を得るというカタチで居座り続けることになります。すなわち「トラの威を駆るキツネ」タイプが多くとても権威主義的な人格の人です。わかりやすく言うと
「上にペコペコ、下にガミガミ」
です。私が以前本部の部長であったとき、現場の店長ですごくヨイショがうまい太鼓もちの人がいました。でもその人に対する部下(店舗スタッフ)の評判は最悪でした。そのとき気づいたことは、人を判断するのに上からだけ見てはダメだということでした。松井証券の松井社長は役職者の評価を部下にさせるという話をされていました。それによって給料が決まるのです。
体罰で屈服させて組織をまとめる。すなわち恐怖によって組織を統制する。そういったやり方は組織の成員全体の自立心を著しく阻害するため、誰もがその上位者を告発するという方向には行かないのです。それも同じ組織内で告発した場合、間違いなく告発者は裏切り者とレッテルを貼られ、その組織内の上位グループの権力者たちの臭いものに蓋という観点から、あるいは成員全体のかもし出す同調圧力によって潰されるか、組織をやめざる得ない状況に追いやられます。
その体罰を行った指導教員はおそらく過去の実績(成功体験)から同じ手法を改めることはまずできないでしょうし、実績が素晴らしいほど自分の手法に酔いしれ、自惚れや傲慢さなどがさらにそういった体罰をエスカレートさせる方向にいったのではないかと思います。
教育の現場はとても閉鎖的な密閉空間です。企業やその他の組織において一つの目標をもって同じ方向を目指す組織であればあるほど気をつけなければならないのは、権力を傘に人間の個人個人の尊厳を大きく傷つける行為が行われやすいということであり、またその組織の中にいる全員が沈黙をまもり、傍観者になることで大きな同調圧力や集団圧力をつくりあげていまうという危険性をはらんでいることを認識するべきです。昨今、企業ではセクハラにはじまり、パワハラ、モラハラなど理不尽なことがあまりにも多く横行しています。匿名でもなんでもとにかく声をあげて組織の成員全員に気づきを与えて、被害者にも加害者にもならないよう個人的にも組織全体の取り組みとしても努力していかなければならないと考えます。
2013年1月8日火曜日
自分軸とは①
PSIでは自分軸を確立することにより、有意義で楽しい人生を送ることを提案しています。自分軸という言葉に関してはさまざまな人びとがいろいろな話をしています。今日はPSI的な観点での自分軸といものをお話していきたいと思います。
自分軸を定義するならば、
「自分が何ごとにも左右されてない自然体にある状態での意思とそれに基づく信念」
です。
ここで問題となるのは、では「自分」というのは果たしてなんだろうということです。よくアイデンティティという言葉が用いられますが、人間には自然に備わった意思として帰属意識というのがあります。自分が何者であるのか分からない状態は極めて不安定な状態で、つねに自分の存在価値を明確にさせるために国籍や、性別、家族関係やさまざまな社会における集団への帰属意識が働くのが人間です。
もともと人間は自分の意思でこの世に生を受けたわけではありません。したがって自分の意思というのは先天的というより後天的に備わっていったと考えられなくもありません。いわゆる物心ついたという状況がそれにあたるかもしれません。人によっては前世を覚えているとか言い出す人もいますが、そういった不確定なことや宗教的観点(信じる信じないの世界になる)で論じることはPSIでは扱いません。
ただ親や先祖から受け継いだ性格や癖といったものは血統的に深くDNAの中に埋め込まれているのかもしれません。そう考えると自分の意思というものを形成しているのは先代から脈々と受け継がれたものも間違いなくあるでしょう。いずれにせよ自分という存在、自分そのものが何なのか、これは簡単に一言で答えを出すことは困難です。
「自分」を形成している要素として一つは親から代々受け継いできたもの、そして二つ目は親やその生育環境の中で直接影響を受けたことがらがあげられます。考えてみてください。自分がいま日本以外の国や地域で生まれ育ったなら、いまの考え方や行動をしているだろうかということを。間違いなく、「自分」は家庭環境やいままで出会った人びと、学校教育、マスメディア(テレビ、ラジオ、音楽、映画、芸術……)、そして自分が所属した会社やその他集団組織などなど、あげたらキリがないほど関わりをもって学習したり、影響を受けたりしてつくりあげられたものなのです。
したがって、人間の人格形成は生まれたときからすでに埋め込まれた状態にありながら成長してきたと言っても過言ではありません。そして生まれたときからいわゆる組織へ所属している状態にあるのです。それは家庭であったり、学校、企業、あるいは宗教やさまざまなコミュニティであったりします。そう考えるとどうしても完璧な本来の「自分」というものを確定させることは困難に思えてきますし、おそらく不可能ではないかと思います。逆にそれができると言ってしまうことには思考がカルトチックになる危険性もあるので避けたいのです。妥協するというと残念な気持ちになりますが、実際、人間というものを考えるとき明確に答えを出してしまうとそれは宗教になってしまいます。宗教はある面不確定なことがらに対して明確に(ただ論理性は多少あっても科学性には欠ける)答えを出し、それを信じるという行為により精神的安定感をもたらすという役割があります。宗教の良し悪しを論ずるのでなく、PSIは不確定なことには言及しないということです。ただ科学的に「自分」を明確に定義することは困難です。しかし「自分軸」を確立するという観点ではある程度の結論を出さなければ話が先に進みません。
世間一般でアイデンティティというとやはり人生の中で形成されてきた帰属意識であると考えられます。でもそれらは、本来の「自分」の一部分は現れていても、つくられた、すり込まれた副次的な「自分」の部分が多いと考えざるをえません。たとえば日本を取り巻く領土問題を論じるときには、ここで言うところの本来の「自分」とは直接的には関係ありません。もちろん私は日本人ですので、日本人一般の考え方に同調します。すなわち日本人としてのアイデンティティ、すなわち本来の「自分」+副次的に形成された「自分」による判断です。より大枠で自分をとらえると日本人としての思考に落ち着きます。おそらく日本人、韓国人、中国人はそれぞれアイデンティティ形成がそれぞれ違うので、同じ考えを持つことは困難です。どこまでも通約不可能性による平行線です。うまくいけば理解するところまではいけるかもしれませんが、受け入れる、あるいは同じ考え方をもつというのはおそらく無理でしょう。もしそうなれば一旦自分のアイデンティティをリセットしなければならないからです。ただ郷に入りては郷に従えはどうしても生きていくうえでの知恵として必要であると思いますし、実際そういった行動をとることは当事者になってみない限り批判する権利はないと思います。少々話がそれていますが、PSIのいうところの自分軸が立った人、すなわち本来的「自分」をベースにした思考では大枠のアイデンティティによるところの関係性ではないので、アジア圏であれ、世界中の人びとともうまくつきあっていけるはずです。なぜなら平行線になるところの価値観よりもっと本質的な人間自体が共有できる価値観でつきあえるからです。
自分軸を定義するならば、
「自分が何ごとにも左右されてない自然体にある状態での意思とそれに基づく信念」
です。
ここで問題となるのは、では「自分」というのは果たしてなんだろうということです。よくアイデンティティという言葉が用いられますが、人間には自然に備わった意思として帰属意識というのがあります。自分が何者であるのか分からない状態は極めて不安定な状態で、つねに自分の存在価値を明確にさせるために国籍や、性別、家族関係やさまざまな社会における集団への帰属意識が働くのが人間です。
もともと人間は自分の意思でこの世に生を受けたわけではありません。したがって自分の意思というのは先天的というより後天的に備わっていったと考えられなくもありません。いわゆる物心ついたという状況がそれにあたるかもしれません。人によっては前世を覚えているとか言い出す人もいますが、そういった不確定なことや宗教的観点(信じる信じないの世界になる)で論じることはPSIでは扱いません。
ただ親や先祖から受け継いだ性格や癖といったものは血統的に深くDNAの中に埋め込まれているのかもしれません。そう考えると自分の意思というものを形成しているのは先代から脈々と受け継がれたものも間違いなくあるでしょう。いずれにせよ自分という存在、自分そのものが何なのか、これは簡単に一言で答えを出すことは困難です。
「自分」を形成している要素として一つは親から代々受け継いできたもの、そして二つ目は親やその生育環境の中で直接影響を受けたことがらがあげられます。考えてみてください。自分がいま日本以外の国や地域で生まれ育ったなら、いまの考え方や行動をしているだろうかということを。間違いなく、「自分」は家庭環境やいままで出会った人びと、学校教育、マスメディア(テレビ、ラジオ、音楽、映画、芸術……)、そして自分が所属した会社やその他集団組織などなど、あげたらキリがないほど関わりをもって学習したり、影響を受けたりしてつくりあげられたものなのです。
したがって、人間の人格形成は生まれたときからすでに埋め込まれた状態にありながら成長してきたと言っても過言ではありません。そして生まれたときからいわゆる組織へ所属している状態にあるのです。それは家庭であったり、学校、企業、あるいは宗教やさまざまなコミュニティであったりします。そう考えるとどうしても完璧な本来の「自分」というものを確定させることは困難に思えてきますし、おそらく不可能ではないかと思います。逆にそれができると言ってしまうことには思考がカルトチックになる危険性もあるので避けたいのです。妥協するというと残念な気持ちになりますが、実際、人間というものを考えるとき明確に答えを出してしまうとそれは宗教になってしまいます。宗教はある面不確定なことがらに対して明確に(ただ論理性は多少あっても科学性には欠ける)答えを出し、それを信じるという行為により精神的安定感をもたらすという役割があります。宗教の良し悪しを論ずるのでなく、PSIは不確定なことには言及しないということです。ただ科学的に「自分」を明確に定義することは困難です。しかし「自分軸」を確立するという観点ではある程度の結論を出さなければ話が先に進みません。
世間一般でアイデンティティというとやはり人生の中で形成されてきた帰属意識であると考えられます。でもそれらは、本来の「自分」の一部分は現れていても、つくられた、すり込まれた副次的な「自分」の部分が多いと考えざるをえません。たとえば日本を取り巻く領土問題を論じるときには、ここで言うところの本来の「自分」とは直接的には関係ありません。もちろん私は日本人ですので、日本人一般の考え方に同調します。すなわち日本人としてのアイデンティティ、すなわち本来の「自分」+副次的に形成された「自分」による判断です。より大枠で自分をとらえると日本人としての思考に落ち着きます。おそらく日本人、韓国人、中国人はそれぞれアイデンティティ形成がそれぞれ違うので、同じ考えを持つことは困難です。どこまでも通約不可能性による平行線です。うまくいけば理解するところまではいけるかもしれませんが、受け入れる、あるいは同じ考え方をもつというのはおそらく無理でしょう。もしそうなれば一旦自分のアイデンティティをリセットしなければならないからです。ただ郷に入りては郷に従えはどうしても生きていくうえでの知恵として必要であると思いますし、実際そういった行動をとることは当事者になってみない限り批判する権利はないと思います。少々話がそれていますが、PSIのいうところの自分軸が立った人、すなわち本来的「自分」をベースにした思考では大枠のアイデンティティによるところの関係性ではないので、アジア圏であれ、世界中の人びとともうまくつきあっていけるはずです。なぜなら平行線になるところの価値観よりもっと本質的な人間自体が共有できる価値観でつきあえるからです。
2013年1月7日月曜日
ストレス回避の極意③
ストレスを回避するにはつねに自然体で自分軸を立てるということが重要であるとお話しました。ただ自然体で生きるということはとてもたいへんなことです。これは決して自己中心的にエゴイスティックな生き方をするという意味ではありません。これは言葉で理解する以上に実践していくうちに得られるようなものだといえるかもしれません。
自分の個性を押し殺さずに生かしながら周囲にもいいイメージで受け取られるというのが実際PSIで標榜するところの自分軸の立った生き方です。あの人は自己中ねと言われるか、あの人みたいに自由に生きたいわと羨ましがられるかの違いです。実際前者はホントの意味で自分軸が立った人ではありません。前者は明らかに組織の論理にしたがって権威をふりかざしたり人間の尊厳を理解しない人であったりします。ホントの意味で個性を生かして自分軸を立てて生きる人は決して周囲に苦痛を与えたり、他者を自分の利益のために利用したりすることはありません。
まず自分軸を立てるには自然体で生きることであり、それを実現するためにはまず素の自分が何であるのかを知ることからはじめる必要があります。したがって押し殺していた感情もむき出しにしていいのです。でもいままで生きてきた中で、すぐに自分の感情をコントロールしてしまう癖がついています。それを引き出すのです。そのためには自分が心から体験してみたいことを実践してみるというのがあります。心の奥底で自分がしたいことをいわば、恥ずかしげもなく、年甲斐もなくやってみるということです。最近はずいぶんとアンダーグラウンドな世界が日の目をみるようになってきました。コスプレをしたり、子どもよりもおじさんたちがプラモデルやフィギュアにはまり、おじさんバンドを結成したりしています。街で見かける母娘は娘より母親の方が若くて可愛い格好をした人が結構いたりします。現代社会ではいい歳こいてとか、はしたないなんて批判する老人はいなくなりました。自然体で生きるにはとてもいい環境ができあがりつつあります。ちなみに私もオフのときは平気で若い世代が着るような服を着て、以前は家内に「あなた、それ、あなたの息子が着るような服よ。」と白い目で見られていました。でもいまはもう慣れたのでしょう。何も言わなくなり、家内のほうが娘と服を共有できることを自慢にする状況になっています。恥ずかしがらずにやってみてください。自分の殻を打ち壊すことで本来の自分の姿が現れてきます。
またストレス解消にいいと言われるのが現実逃避という内容です。現実逃避は日常で隠されていた素の自分を引き出すのにはもってこいです。皆さんも体験があると思いますが、居酒屋に行って酔っ払って豹変する女性とか、カラオケで人格が変わってしまう人、ゲームなどでいきなり過激になる人などいろいろあげられることと思います。テーマパークなどに行くのもおススメですし、映画もその世界にどっぷり入るとストレス解消や素の自分に戻れるいい機会を与えてくれます。特に私がおススメするのは非現実的な映画です。アクションものでもファンタジーなものでも、またはお腹をかかえて笑えるコメディもおススメです。とにかく大きく感動したり自分の思考の枠を超えるようなものがいいと思います。感動するは英語でdeeply movedですが、直訳すると深く動かされるということです。心や感情が大きく揺れ動かされるような体験こそが素の自分を引き出すのには最適であると考えられます。
素の自分は、普段の本音と建前を使い分けている自分ではありません。喜怒哀楽がストレートに表現できてこそ自分の本来の姿を認識することができるようになります。背伸びをする必要はありません。引け目を感じることも必要ありません。強い自分も弱い自分もいずれも愛すべき、愛されるはずのあなたに備わったキャラです。それがあなたの本当の人格であり、魅力的な姿なのです。
自分以外の誰か、他者によって決められてしまう人生でなく、心から自分が納得し、楽しい人生を送るためにもぜひ自分のホントの姿に出会って心から解放感を感じつつ、いままでの自分(環境によってつくられた思考や姿)からの解放、さまざまなストレスを回避できる自分を目指していきましょう。
ストレス回避はもともと勝てない敵とは戦わないという考え方です。逃げるが勝ち(孫氏の兵法)は決して卑怯でも何でもありません。人生賢く生きる術です。そして自分軸を立てにくい環境を排除するということも必要ですので、それについてはまたお話したいと思います。
自分の個性を押し殺さずに生かしながら周囲にもいいイメージで受け取られるというのが実際PSIで標榜するところの自分軸の立った生き方です。あの人は自己中ねと言われるか、あの人みたいに自由に生きたいわと羨ましがられるかの違いです。実際前者はホントの意味で自分軸が立った人ではありません。前者は明らかに組織の論理にしたがって権威をふりかざしたり人間の尊厳を理解しない人であったりします。ホントの意味で個性を生かして自分軸を立てて生きる人は決して周囲に苦痛を与えたり、他者を自分の利益のために利用したりすることはありません。
まず自分軸を立てるには自然体で生きることであり、それを実現するためにはまず素の自分が何であるのかを知ることからはじめる必要があります。したがって押し殺していた感情もむき出しにしていいのです。でもいままで生きてきた中で、すぐに自分の感情をコントロールしてしまう癖がついています。それを引き出すのです。そのためには自分が心から体験してみたいことを実践してみるというのがあります。心の奥底で自分がしたいことをいわば、恥ずかしげもなく、年甲斐もなくやってみるということです。最近はずいぶんとアンダーグラウンドな世界が日の目をみるようになってきました。コスプレをしたり、子どもよりもおじさんたちがプラモデルやフィギュアにはまり、おじさんバンドを結成したりしています。街で見かける母娘は娘より母親の方が若くて可愛い格好をした人が結構いたりします。現代社会ではいい歳こいてとか、はしたないなんて批判する老人はいなくなりました。自然体で生きるにはとてもいい環境ができあがりつつあります。ちなみに私もオフのときは平気で若い世代が着るような服を着て、以前は家内に「あなた、それ、あなたの息子が着るような服よ。」と白い目で見られていました。でもいまはもう慣れたのでしょう。何も言わなくなり、家内のほうが娘と服を共有できることを自慢にする状況になっています。恥ずかしがらずにやってみてください。自分の殻を打ち壊すことで本来の自分の姿が現れてきます。
またストレス解消にいいと言われるのが現実逃避という内容です。現実逃避は日常で隠されていた素の自分を引き出すのにはもってこいです。皆さんも体験があると思いますが、居酒屋に行って酔っ払って豹変する女性とか、カラオケで人格が変わってしまう人、ゲームなどでいきなり過激になる人などいろいろあげられることと思います。テーマパークなどに行くのもおススメですし、映画もその世界にどっぷり入るとストレス解消や素の自分に戻れるいい機会を与えてくれます。特に私がおススメするのは非現実的な映画です。アクションものでもファンタジーなものでも、またはお腹をかかえて笑えるコメディもおススメです。とにかく大きく感動したり自分の思考の枠を超えるようなものがいいと思います。感動するは英語でdeeply movedですが、直訳すると深く動かされるということです。心や感情が大きく揺れ動かされるような体験こそが素の自分を引き出すのには最適であると考えられます。
素の自分は、普段の本音と建前を使い分けている自分ではありません。喜怒哀楽がストレートに表現できてこそ自分の本来の姿を認識することができるようになります。背伸びをする必要はありません。引け目を感じることも必要ありません。強い自分も弱い自分もいずれも愛すべき、愛されるはずのあなたに備わったキャラです。それがあなたの本当の人格であり、魅力的な姿なのです。
自分以外の誰か、他者によって決められてしまう人生でなく、心から自分が納得し、楽しい人生を送るためにもぜひ自分のホントの姿に出会って心から解放感を感じつつ、いままでの自分(環境によってつくられた思考や姿)からの解放、さまざまなストレスを回避できる自分を目指していきましょう。
ストレス回避はもともと勝てない敵とは戦わないという考え方です。逃げるが勝ち(孫氏の兵法)は決して卑怯でも何でもありません。人生賢く生きる術です。そして自分軸を立てにくい環境を排除するということも必要ですので、それについてはまたお話したいと思います。
ストレス回避の極意②
PSIでは自分軸という概念に自然体という観点をとても重要視しています。自分軸という概念の定義も必要ですが、とりあえずその話は次の機会にしたいと思います。
まず自分軸を立てるには、自分自身が自然体でなければならないという話です。なぜそうなのかというと自然体でないという状態は自分以外の第三者や環境による影響を受けて本来の自分自身の姿が著しく損なわれているという状態であると考えられます。
長きにわたって自分の意見や考え、また感情を押し殺させられるような環境にどっぷりとつかった状態では本来の自分の姿を見失っている状態であり、自分軸を立てるどころか自分の人生自体の主体性が著しく損なわれ、自分という存在さえわからなくなってしまう状況に至ることさえあります。特にうつ状態になりやすい人はいつも人の意見や周りの目が気になり、自分がどうしたらいいか自分で判断することさえできない状態、すなわち限界を超えたしまった状態にあると考えられます。またパワハラやモラハラが常態化している企業や組織、カルト教団等では自分自身の意見や考えを否定しなければ生きていけないので自分軸という考え方は許容されず、本当の自分を見失っている人が多いのです。したがってそういう人びとは自分軸を立てる以前にまずそういった環境下で培われた、あるいはすり込まれたフレーム(ものごとの考え方やとらえ方)を崩していく作業が必要となります。まず白紙の状態に戻すということが必要です。そのためには
「いままであたりまえと思っていたことを疑問視する。」
ということが必要で、まずそのレベルまで到達しなければ、自然体になって自分軸を立てるところまでは行きません。要するにリハビリをしないといけない自分であるという認識がまず必要だということです。
実は上記のような硬直したヒエラルキー組織やカルトチックな組織でなくとも、人間は一つのことをずっとやりつづけると専門家になりプロになりますが、無能化したり自分を見失ったりします。それでよく大きな仕事をなして順風満帆で生きているような人がいきなり旅人になって自分探しのたびに出たりするのです。人間は行くところまで行くとこれでいいのだろうかという思いになることがあるのです。発展途上の国々にはうつはあまりいません。先進国になるほどうつや精神疾患が増えてくるのはなぜでしょうか。食べることに必死な状況にある人びとが人生について悩むゆとりがあるでしょうか。経済的にも豊かで食べることに悩まない状況になると人間はより本質的な問題を考えるようになります。このことはマズローの欲求五段階説を参考にしていただければご理解いただけると思います。
また人は無能レベルまで昇進する(ピーターの法則)という話がありますが、そうならないためにはつねに発展シロがある状況に自分を保っていくという方法があります。長年にわたって経営トップにいるような人で誰からも何も指摘されないような立場ではすでに無能レベルになってしまっている人も多いと考えられます。こういった人びとは自分軸というより環境により作られた自己中心軸が立っているとでも言ったほうがいいのかもしれません。それはその組織の論理に基づく極めて不自然な思考による軸であるのです。もちろんそのことは自分では分かりません。そういう危険性に気づいている人は最近は社外から専門家を招いてエグゼクティヴコーチングを受ける人もいます。
とにかく年齢をかさねるごとに経験則による思考と自分を押し殺してうまく立ち回る人間関係のスキルができあがっているのです。自然体になるには、まず素の自分をもう一度出してみることも必要です。ただ日常生活の中ではどうしてもできない状況もあるでしょう。会社や所属している組織内では、急に素を出すと「えっ、○○さんってそんなキャラだった?」とビックリされるかもしれません。自然体になるにはまず素の自分を出せる環境に行きましょう。人がいて恥ずかしいなら自分の部屋やひとりになれる環境に行く、すなわち素を出せない環境、現実から逃避してみるのがとても効果的です。
まず自分軸を立てるには、自分自身が自然体でなければならないという話です。なぜそうなのかというと自然体でないという状態は自分以外の第三者や環境による影響を受けて本来の自分自身の姿が著しく損なわれているという状態であると考えられます。
長きにわたって自分の意見や考え、また感情を押し殺させられるような環境にどっぷりとつかった状態では本来の自分の姿を見失っている状態であり、自分軸を立てるどころか自分の人生自体の主体性が著しく損なわれ、自分という存在さえわからなくなってしまう状況に至ることさえあります。特にうつ状態になりやすい人はいつも人の意見や周りの目が気になり、自分がどうしたらいいか自分で判断することさえできない状態、すなわち限界を超えたしまった状態にあると考えられます。またパワハラやモラハラが常態化している企業や組織、カルト教団等では自分自身の意見や考えを否定しなければ生きていけないので自分軸という考え方は許容されず、本当の自分を見失っている人が多いのです。したがってそういう人びとは自分軸を立てる以前にまずそういった環境下で培われた、あるいはすり込まれたフレーム(ものごとの考え方やとらえ方)を崩していく作業が必要となります。まず白紙の状態に戻すということが必要です。そのためには
「いままであたりまえと思っていたことを疑問視する。」
ということが必要で、まずそのレベルまで到達しなければ、自然体になって自分軸を立てるところまでは行きません。要するにリハビリをしないといけない自分であるという認識がまず必要だということです。
実は上記のような硬直したヒエラルキー組織やカルトチックな組織でなくとも、人間は一つのことをずっとやりつづけると専門家になりプロになりますが、無能化したり自分を見失ったりします。それでよく大きな仕事をなして順風満帆で生きているような人がいきなり旅人になって自分探しのたびに出たりするのです。人間は行くところまで行くとこれでいいのだろうかという思いになることがあるのです。発展途上の国々にはうつはあまりいません。先進国になるほどうつや精神疾患が増えてくるのはなぜでしょうか。食べることに必死な状況にある人びとが人生について悩むゆとりがあるでしょうか。経済的にも豊かで食べることに悩まない状況になると人間はより本質的な問題を考えるようになります。このことはマズローの欲求五段階説を参考にしていただければご理解いただけると思います。
また人は無能レベルまで昇進する(ピーターの法則)という話がありますが、そうならないためにはつねに発展シロがある状況に自分を保っていくという方法があります。長年にわたって経営トップにいるような人で誰からも何も指摘されないような立場ではすでに無能レベルになってしまっている人も多いと考えられます。こういった人びとは自分軸というより環境により作られた自己中心軸が立っているとでも言ったほうがいいのかもしれません。それはその組織の論理に基づく極めて不自然な思考による軸であるのです。もちろんそのことは自分では分かりません。そういう危険性に気づいている人は最近は社外から専門家を招いてエグゼクティヴコーチングを受ける人もいます。
とにかく年齢をかさねるごとに経験則による思考と自分を押し殺してうまく立ち回る人間関係のスキルができあがっているのです。自然体になるには、まず素の自分をもう一度出してみることも必要です。ただ日常生活の中ではどうしてもできない状況もあるでしょう。会社や所属している組織内では、急に素を出すと「えっ、○○さんってそんなキャラだった?」とビックリされるかもしれません。自然体になるにはまず素の自分を出せる環境に行きましょう。人がいて恥ずかしいなら自分の部屋やひとりになれる環境に行く、すなわち素を出せない環境、現実から逃避してみるのがとても効果的です。
2013年1月6日日曜日
ストレス回避の極意①
長い休日が続くと、出勤もなかなか億劫になります。特に年末年始やゴールデンウィークにお盆休み、最近ではシルバーウィークと長期休暇があると、心もからだも緩みきってストレス多い会社勤めに適応できないレベルになってしまいます。
でも確実に楽しい休日の日々は過ぎ去り、現実的な普段と変わらない日常が来るのです。そのためにはストレス回避の二つのポイントをまた肝に銘じて踏み出すしかありません。
①あきらめる(他者に対して要求しない、他人は別人格)
②どう思われてもいい(人目を気にしない、よく思われなくていい)
人(他者)と自分に対しての自分のスタンス(立ち位置)。これなかなか難しい。上司に対して、あるいは部下に対して、ついつい話しが通じると理解できるんじゃないかと思って、いろいろ提案したり、指示したりします。でもやっぱり、理解できず意見は却下され、指示事項は実行しきれず、結果的に無駄骨を折ることになるのです。
何とかなるんじゃないかという期待感(思い込みでもあったりします)が意欲的行動を後押しするのですが、やはり無理だったりすのです。やはり熱を帯びてくると集中していろいろアイディアも出てくるし、いろいろできそうな気がして行動に移すのですが、そういう時って案外自分を客観視できてなかったり、自分を取り巻く状況を俯瞰する意識が欠如した状態になるので勢いでいってしまう傾向にあります。もちろんそれでうまくいけばいいのですが、スパッと竹を割ったように切り捨てられる状況が生まれると、自信は地に落とされ、そのような体験が続くとトラウマのようになって新しい試みができない人になってしまう可能性もあります。まあ企業で上司の前に徹底的にイエスマンになって組織の論理の中で自分の魂を売ってしまった人びとにはそういう人が多いのではないかと思ってしまいます。
そういう人格にならないためには、自分自身で防御する術も知らないといけないと思います。組織という、ともすればすぐ硬直してしまう得体の知れないパワーをもった存在、そういう中で経路依存の考え方しかできない上司を動かし、あるいは空気を読めない部下を動かし自分の目指す方向にもっていくというのは並大抵のパワーではいかんともしがたいものです。したがって組織で生き抜く上で精神的にもダメージを受けないコツは
A.したたかさ
B.見極めと切り替え
が重要だと思うのです。まず前提は①のあきらめるが重要で、上司や部下、あるいは同僚にも過剰な期待をしないということが大切で、期待値を相当低く設定していれば、うまくいかなくても常に対処方法があります。よく上司は部下に対して、信じる力が必要だという話がありますが、信じるという概念は要求するという意識に変換されやすいので要注意です。信じて委ねて、結果はどう出ようが受け止めるという気概がないなら、すでに要求の情になっていますから、その時点で相手には伝わってプレッシャーを与える状況になっているでしょう。
いずれにせよ、その前提を常に確認しながら、したたかに行動し続けるということがとても大切だと思います。そうすれば上司が自分の意見を却下しようが、部下が自分の指示通り動いてくれなくてもなんらストレスにならないのです。そしてその次にはやはりホントにダメな上司で会社の未来もないなら、さっさと次の準備をするという見極めと切り替えが重要です。部下に対してはできることをやらせて、到底できないことはやらせないというアプローチをとればいいだけです。そうすれば部下は自信を失うことはなくなるでしょう。
とにかく
「自分より年上は自分より大人気ない、自分より年下は空気が読めない」
という前提でつき合えば気がラクです。したがって、年上の上司なら、頑固で硬く、理性が欠如していたり、論理的な話が苦手で理詰めで提案したりすると自分が追い詰められていると錯覚し、すぐ怒り出すとか感情的になって話にならない上司というのがいます。年下の部下ならはっきり何度も念を押さなければいけないですし、はっきり指示しないとそのように動かないということが生じます。年齢が上になるだけアナログ思考ですし、若年になるほどデジタル思考です。今の若い世代はパソコンであれ、スマートフォンやゲームといったあらゆる端末は説明書なんか見なくてもすぐ使いこなすようになります。ある面アナログ世代にはない才能をもっているのです。空気を読んで上司の意図を理解して行動せよなんてのはありません。良いことか悪いことかさえ、行動が先にあって学習するタイプです。若いので行動力やパワーはありますが、それに振り回されずコントロールできるポイントを押さえておくことが重要です。それは「はっきり伝える」、「念を押す」、「褒める」といったことが重要です。
でも確実に楽しい休日の日々は過ぎ去り、現実的な普段と変わらない日常が来るのです。そのためにはストレス回避の二つのポイントをまた肝に銘じて踏み出すしかありません。
①あきらめる(他者に対して要求しない、他人は別人格)
②どう思われてもいい(人目を気にしない、よく思われなくていい)
人(他者)と自分に対しての自分のスタンス(立ち位置)。これなかなか難しい。上司に対して、あるいは部下に対して、ついつい話しが通じると理解できるんじゃないかと思って、いろいろ提案したり、指示したりします。でもやっぱり、理解できず意見は却下され、指示事項は実行しきれず、結果的に無駄骨を折ることになるのです。
何とかなるんじゃないかという期待感(思い込みでもあったりします)が意欲的行動を後押しするのですが、やはり無理だったりすのです。やはり熱を帯びてくると集中していろいろアイディアも出てくるし、いろいろできそうな気がして行動に移すのですが、そういう時って案外自分を客観視できてなかったり、自分を取り巻く状況を俯瞰する意識が欠如した状態になるので勢いでいってしまう傾向にあります。もちろんそれでうまくいけばいいのですが、スパッと竹を割ったように切り捨てられる状況が生まれると、自信は地に落とされ、そのような体験が続くとトラウマのようになって新しい試みができない人になってしまう可能性もあります。まあ企業で上司の前に徹底的にイエスマンになって組織の論理の中で自分の魂を売ってしまった人びとにはそういう人が多いのではないかと思ってしまいます。
そういう人格にならないためには、自分自身で防御する術も知らないといけないと思います。組織という、ともすればすぐ硬直してしまう得体の知れないパワーをもった存在、そういう中で経路依存の考え方しかできない上司を動かし、あるいは空気を読めない部下を動かし自分の目指す方向にもっていくというのは並大抵のパワーではいかんともしがたいものです。したがって組織で生き抜く上で精神的にもダメージを受けないコツは
A.したたかさ
B.見極めと切り替え
が重要だと思うのです。まず前提は①のあきらめるが重要で、上司や部下、あるいは同僚にも過剰な期待をしないということが大切で、期待値を相当低く設定していれば、うまくいかなくても常に対処方法があります。よく上司は部下に対して、信じる力が必要だという話がありますが、信じるという概念は要求するという意識に変換されやすいので要注意です。信じて委ねて、結果はどう出ようが受け止めるという気概がないなら、すでに要求の情になっていますから、その時点で相手には伝わってプレッシャーを与える状況になっているでしょう。
いずれにせよ、その前提を常に確認しながら、したたかに行動し続けるということがとても大切だと思います。そうすれば上司が自分の意見を却下しようが、部下が自分の指示通り動いてくれなくてもなんらストレスにならないのです。そしてその次にはやはりホントにダメな上司で会社の未来もないなら、さっさと次の準備をするという見極めと切り替えが重要です。部下に対してはできることをやらせて、到底できないことはやらせないというアプローチをとればいいだけです。そうすれば部下は自信を失うことはなくなるでしょう。
とにかく
「自分より年上は自分より大人気ない、自分より年下は空気が読めない」
という前提でつき合えば気がラクです。したがって、年上の上司なら、頑固で硬く、理性が欠如していたり、論理的な話が苦手で理詰めで提案したりすると自分が追い詰められていると錯覚し、すぐ怒り出すとか感情的になって話にならない上司というのがいます。年下の部下ならはっきり何度も念を押さなければいけないですし、はっきり指示しないとそのように動かないということが生じます。年齢が上になるだけアナログ思考ですし、若年になるほどデジタル思考です。今の若い世代はパソコンであれ、スマートフォンやゲームといったあらゆる端末は説明書なんか見なくてもすぐ使いこなすようになります。ある面アナログ世代にはない才能をもっているのです。空気を読んで上司の意図を理解して行動せよなんてのはありません。良いことか悪いことかさえ、行動が先にあって学習するタイプです。若いので行動力やパワーはありますが、それに振り回されずコントロールできるポイントを押さえておくことが重要です。それは「はっきり伝える」、「念を押す」、「褒める」といったことが重要です。
2013年1月3日木曜日
健康で長生きする秘訣⑤
どう思われてもいいという考え方は、自分に関するとらえ方です。そして自分軸を立てるためにはとても大切なキーワードであり、考え方です。ただストレス要因は自分がどんなにそういうふうに行動したところで、人(他人)や環境といった他者によるものも大きいのです。その場合どうしたらいいのかということですが、もう一つの重要な考え方があります。それは
B.「あきらめる」
ということです。もちろんあきらめるというのはとてもネガティヴなイメージがありますが、ここでいうところの「あきらめる」は超ポジティヴ思考です。そしてスポーツなどでいうところのあきらめないで勝ちにこだわるというのは少々意味合いが違います。無理してスポーツにもこの概念を当てはめるとするならば、結果を気にしすぎて緊張しいいプレイができない状態に陥ったときに一旦勝ちをあきらめて自然体に戻るということです。その上で最善のプレイを試みる、その結果勝てるということが起こってくると考えればわかりやすいと思います。
実はこのBの考え方ほど難しいものはありません。あきらめる、ある面責任放棄のような言葉です。しかし、世の中あきらめられないことですべて問題が起こってきています。ストーカー行為もそうです。怨みの情もそうです。あきらめられないから色んな事件が起こってきています。なぜこの「あきらめる」ということが大切かというと、人生すべてが自分の思うようにいくということはまず無いからです。もともと生まれたのも自分の意思ではありません。その人を親にしたのもそうです。生まれて物心ついたら親が決まっていたのです。そして自分以外は自分ではありません。自分以外はすべて自分とは別の人格をもった人間なのです。なので自分の思うように動かなくて当然なのです。いい意味であきらめて相手と向き合うということが重要です。すべてはあきらめて冷静になってから出発すると言っても過言ではありません。許容とか受容なんて言葉がありますが、一旦あきらめてからできる行動です。あきらめきれていない状態ではどこかに要求の念が残っていて、言葉の節々に下心が出てきます。それを察知する相手はやはり自分を受け入れてくれないでしょう。
「あきらめる」ことはとても困難です。それも近い存在ほど、身内ほど難しいのです。学校の先生や塾の先生は冷静に生徒に教えることができます。なぜなら最初から他人だからです。すなわちあきらめた状態、期待もしていない状態、自分の子どもでないからそこまでその子の成績の良し悪しにコミットしないのです。でも親は違います。自分の子どもであるし、○○家の将来まで託さないといけない対象であるのであきらめられないのです。あきらめるどころか、過剰な期待を膨らまし子どもにプレッシャーを与えるまでしてしまいます。よく言えば愛情があるからなのですが、スキル(ここで言うスキルとは教えることができる学力ではなく子どもへの対応方法のスキルです)が無いとアプローチに失敗して子どものレベルをむしろ下げてしまうという弊害も出てきます。
子どもの教育に関してはいい意味であきらめて冷静になって子どものポテンシャルを引き出す環境づくりをしてあげるということが重要です。基本的に親は子どもに対して躾はできても教育はできません。教育は第三者に任せるのがもっとも最善な方法です。せいぜい相談にのったり、学習環境を整えるぐらいです。
夫婦関係もそうです。あきらめられない関係です。最後まであきらめられなかった忍耐強い方が熟年離婚に至ったりします。PSIでは決して離婚を悪いこととは考えません。心底嫌いなのに互いに我慢して夫婦のように暮らすのも不健全でストレスがたまるだけです。ただことわざに“観察力の欠如で結婚し、忍耐力の欠如で離婚し、記憶力の欠如で再婚する”というのがあります。恋愛中や結婚四年目くらいまでは脳内麻薬といわれるしあわせホルモンが分泌されるのでとても夫婦はいい関係で楽しくいけます。しかしその後はとても現実志向に陥り、夫婦関係に倦怠期を迎える状況が起こってきます。その際夫婦関係を維持するのにとても有効な存在が二人の間の子どもです。夫婦が冷める頃子どもがかわいく成長してくるのです。子はかすがいなんて言葉もありますね。
とにかくここではっきり申し上げたいのは、結婚を控えている方には酷なようですが、恋愛中や新婚当初はファンタジーの中で生活するので楽しいのですが、結婚とは現実生活と同義語であるという認識が必要です。浮気もそのファンタジーの時期を過ぎ、現実生活に辟易としてきたときに起こってくるケースが多いと思われます。独身の人たちからこういう話をすると、よく夢を壊さないでくださいと言われますが、知らずに結婚してあとで悩むより知っておいて対処する方がずっと簡単です。
子どもはやがて育って独立していきますが、夫婦はずっと人生のパートナーです。もっとも身近にいる、もっともあきらめられない存在なのです。夫婦こそあきらめましょう。それがずっと永く添い遂げることのできる方法です。夫が引退して家に入れば妻はやたら外出するようになる。すれ違いの関係こそが良好な関係を維持できるスキルです。どんなに何十年寄り添おうがやはり自分とは違う人格をもった人間です。そして男と女という観点からも考え方も違います。今は第二、第三の人生といわれるように、子どもが育って夫婦だけの生活がきます。互いに束縛しないで楽しく生きていくためにはやはりまず互いのことを「あきらめる」ということから出発すると気がラクになります。
ちなみに老いらくの恋はこれはこれでまたファンタジーの世界に入りますから、ストレスはなく、体も元気になるようです。とにかく恋は脳内麻薬(しあわせホルモン、βエンドルフィン)の作用で心もからだも生き生きとするようです。恋はまた(亦、注〕股ではありません)のこころ(心)と書きますが、あの気持ちを再びということで、思春期のもっとも輝いていた時代の気持ちをよみがえらせるようです。どうでしょう、皆さんときめいていますか。
B.「あきらめる」
ということです。もちろんあきらめるというのはとてもネガティヴなイメージがありますが、ここでいうところの「あきらめる」は超ポジティヴ思考です。そしてスポーツなどでいうところのあきらめないで勝ちにこだわるというのは少々意味合いが違います。無理してスポーツにもこの概念を当てはめるとするならば、結果を気にしすぎて緊張しいいプレイができない状態に陥ったときに一旦勝ちをあきらめて自然体に戻るということです。その上で最善のプレイを試みる、その結果勝てるということが起こってくると考えればわかりやすいと思います。
実はこのBの考え方ほど難しいものはありません。あきらめる、ある面責任放棄のような言葉です。しかし、世の中あきらめられないことですべて問題が起こってきています。ストーカー行為もそうです。怨みの情もそうです。あきらめられないから色んな事件が起こってきています。なぜこの「あきらめる」ということが大切かというと、人生すべてが自分の思うようにいくということはまず無いからです。もともと生まれたのも自分の意思ではありません。その人を親にしたのもそうです。生まれて物心ついたら親が決まっていたのです。そして自分以外は自分ではありません。自分以外はすべて自分とは別の人格をもった人間なのです。なので自分の思うように動かなくて当然なのです。いい意味であきらめて相手と向き合うということが重要です。すべてはあきらめて冷静になってから出発すると言っても過言ではありません。許容とか受容なんて言葉がありますが、一旦あきらめてからできる行動です。あきらめきれていない状態ではどこかに要求の念が残っていて、言葉の節々に下心が出てきます。それを察知する相手はやはり自分を受け入れてくれないでしょう。
「あきらめる」ことはとても困難です。それも近い存在ほど、身内ほど難しいのです。学校の先生や塾の先生は冷静に生徒に教えることができます。なぜなら最初から他人だからです。すなわちあきらめた状態、期待もしていない状態、自分の子どもでないからそこまでその子の成績の良し悪しにコミットしないのです。でも親は違います。自分の子どもであるし、○○家の将来まで託さないといけない対象であるのであきらめられないのです。あきらめるどころか、過剰な期待を膨らまし子どもにプレッシャーを与えるまでしてしまいます。よく言えば愛情があるからなのですが、スキル(ここで言うスキルとは教えることができる学力ではなく子どもへの対応方法のスキルです)が無いとアプローチに失敗して子どものレベルをむしろ下げてしまうという弊害も出てきます。
子どもの教育に関してはいい意味であきらめて冷静になって子どものポテンシャルを引き出す環境づくりをしてあげるということが重要です。基本的に親は子どもに対して躾はできても教育はできません。教育は第三者に任せるのがもっとも最善な方法です。せいぜい相談にのったり、学習環境を整えるぐらいです。
夫婦関係もそうです。あきらめられない関係です。最後まであきらめられなかった忍耐強い方が熟年離婚に至ったりします。PSIでは決して離婚を悪いこととは考えません。心底嫌いなのに互いに我慢して夫婦のように暮らすのも不健全でストレスがたまるだけです。ただことわざに“観察力の欠如で結婚し、忍耐力の欠如で離婚し、記憶力の欠如で再婚する”というのがあります。恋愛中や結婚四年目くらいまでは脳内麻薬といわれるしあわせホルモンが分泌されるのでとても夫婦はいい関係で楽しくいけます。しかしその後はとても現実志向に陥り、夫婦関係に倦怠期を迎える状況が起こってきます。その際夫婦関係を維持するのにとても有効な存在が二人の間の子どもです。夫婦が冷める頃子どもがかわいく成長してくるのです。子はかすがいなんて言葉もありますね。
とにかくここではっきり申し上げたいのは、結婚を控えている方には酷なようですが、恋愛中や新婚当初はファンタジーの中で生活するので楽しいのですが、結婚とは現実生活と同義語であるという認識が必要です。浮気もそのファンタジーの時期を過ぎ、現実生活に辟易としてきたときに起こってくるケースが多いと思われます。独身の人たちからこういう話をすると、よく夢を壊さないでくださいと言われますが、知らずに結婚してあとで悩むより知っておいて対処する方がずっと簡単です。
子どもはやがて育って独立していきますが、夫婦はずっと人生のパートナーです。もっとも身近にいる、もっともあきらめられない存在なのです。夫婦こそあきらめましょう。それがずっと永く添い遂げることのできる方法です。夫が引退して家に入れば妻はやたら外出するようになる。すれ違いの関係こそが良好な関係を維持できるスキルです。どんなに何十年寄り添おうがやはり自分とは違う人格をもった人間です。そして男と女という観点からも考え方も違います。今は第二、第三の人生といわれるように、子どもが育って夫婦だけの生活がきます。互いに束縛しないで楽しく生きていくためにはやはりまず互いのことを「あきらめる」ということから出発すると気がラクになります。
ちなみに老いらくの恋はこれはこれでまたファンタジーの世界に入りますから、ストレスはなく、体も元気になるようです。とにかく恋は脳内麻薬(しあわせホルモン、βエンドルフィン)の作用で心もからだも生き生きとするようです。恋はまた(亦、注〕股ではありません)のこころ(心)と書きますが、あの気持ちを再びということで、思春期のもっとも輝いていた時代の気持ちをよみがえらせるようです。どうでしょう、皆さんときめいていますか。
健康で長生きする秘訣④
人(他人)は自分が思うほど、自分に関心を持っていないので、気楽に自分のスタイルを楽しむということができるようになればストレスからはかなり解放されます。一昔前は男は男らしく、女は女らしくとそういうことを美化する封建的な風土がありましたが、現在ではほとんど崩れています。草食系男子に肉食系女子、共働きで家事は分担、さらに主婦から主夫をしている男性もいるようです。PSI的思考では男性と女性は人間としての価値は同等ですが、役割分担の区別はした方が効率的と考えます。したがって女性がどんどん率先して力仕事をし、女性特有の感覚が必要となる仕事にどんどん男性が入ってくるというのは男女の垣根を解放するという観点ではいいのですが、男女の生理的機能を無視してまでそうすべきであるという観点には疑問を呈します。なぜなら女性が子どもを産むという機能が備わっていているようにもともとできあがっている機能に則して行動した方がより自然でいいと思うからです。男性は女性を守るように力が強いし、女性は子どもを育てることができるように母性が備わっています。男女の機能まで無視するような過激なジェンダーフリーの考え方には距離を置かざるを得ません。
話が横道にそれましたが、Aの考え方を少しずつ実践していくと徐々に解放感にもひたれるようになりますし、ある種の自信も生まれてきます。私は男ですが、アクセサリーが大好きです。よく講演のときなどにノーネクタイにちょっとしたアクセサリーをしたりすると最初踏み出すときは勇気が要りますが、今ではオシャレですねと声をかけてただけるようになりました。男が女装し、女が男装するなんてのもアンダーグラウンドな世界では結構あるようです。秋葉原発信のオタク文化もある種最初は違和感をもってとらえられましたが、今では完全に定着しています。コスプレなんてのも最初は風俗色が濃かったのが最近はアニメのコスプレや原宿ファッションにも影響を与えています。ロリータファッションなんて渋谷だけでなくあちこちで見かけたりしますね。
年齢は関係ありません。かけがえのない人生、一度きりの人生であるとしたなら、自分が楽しむことに制限は必要ありません。今はさまざまな服装もいくらでもできますし、パーティグッズのコーナーなどにもなりきりセットみたいなコスプレ用の服なんかも売っています。皆さんが小さい頃抱いていた夢、かなわなかった夢、擬似的にも実現させて楽しむこともストレス解消にはとても効果的です。一歩踏み出すと次からはよりラクにスムーズに行動できるようになります。カタチから入って自分の殻を壊して素の自分を出せるようになると大きな自信につながります。
そしていつも気になっていた上司の言動に対しても、
「そのしゃべり方、育ちが出てますねえ~。」
とか
「その言い方、パワハラになりますけど、直してもらっちゃっていいですかー!」
など平気で言えるようになったりします。もちろん同僚がたくさんいるところでやれば人気者になること間違いなしです。
話が横道にそれましたが、Aの考え方を少しずつ実践していくと徐々に解放感にもひたれるようになりますし、ある種の自信も生まれてきます。私は男ですが、アクセサリーが大好きです。よく講演のときなどにノーネクタイにちょっとしたアクセサリーをしたりすると最初踏み出すときは勇気が要りますが、今ではオシャレですねと声をかけてただけるようになりました。男が女装し、女が男装するなんてのもアンダーグラウンドな世界では結構あるようです。秋葉原発信のオタク文化もある種最初は違和感をもってとらえられましたが、今では完全に定着しています。コスプレなんてのも最初は風俗色が濃かったのが最近はアニメのコスプレや原宿ファッションにも影響を与えています。ロリータファッションなんて渋谷だけでなくあちこちで見かけたりしますね。
年齢は関係ありません。かけがえのない人生、一度きりの人生であるとしたなら、自分が楽しむことに制限は必要ありません。今はさまざまな服装もいくらでもできますし、パーティグッズのコーナーなどにもなりきりセットみたいなコスプレ用の服なんかも売っています。皆さんが小さい頃抱いていた夢、かなわなかった夢、擬似的にも実現させて楽しむこともストレス解消にはとても効果的です。一歩踏み出すと次からはよりラクにスムーズに行動できるようになります。カタチから入って自分の殻を壊して素の自分を出せるようになると大きな自信につながります。
そしていつも気になっていた上司の言動に対しても、
「そのしゃべり方、育ちが出てますねえ~。」
とか
「その言い方、パワハラになりますけど、直してもらっちゃっていいですかー!」
など平気で言えるようになったりします。もちろん同僚がたくさんいるところでやれば人気者になること間違いなしです。
健康で長生きする秘訣③
空気を読むということは、円滑な人間関係のためにはとても重要なことで、気が利く、融通が利くとか機転が利く人というのはとても好印象を与えます。ただ空気が読めすぎるきらいもあります。ひどい場合には深読みしすぎて、もう思い込みや妄想が広がるなど、実際は本人が思うほど周りは何も思っていなかったりということもあります。その場合空気を読むというより勘違いや被害妄想になっている場合もあります。これは生活の中で体験を通して得られる一つのスキルなのでとても難しい問題です。また空気を読みすぎる場合、やはり①の人にやさしく自分にきびしい、いい人ではあるのですが、やはり気疲れしてしまいます。
この反対の概念も重要で、あえて空気を読まないということも大切です。特に会社の会議などでは、みんなおかしいと思っているのに上司や経営トップが提案したことなので異議を唱えることができないといった状況に陥っている場合があります。それを助長しているのは多数派を占めている権威主義的な思考の人びとだったり、目に見えない同調圧力であったりするのですが、その空気を割ってスパッと核心部分を指摘したりすることによって全体に気づきを与えることができたりします。もちろん発言のスキルも当然必要ではありますが。
実はさらに話をすすめると、空気は読む必要がないという考え方もできます。それは、そこまで人(他人)は自分のことを見ていないという事実です。たとえば団体で旅行など行ったとき、名所などで撮った集合写真、渡されたらみんな自分の顔を捜すのです。なぜならば自分がどう映っているかがもっとも重要なことがらだからです。実はみんな自分のことにしか関心がない、自分のことで精一杯だとでも思っておけば、あながち間違いではありません。最近テレビなどにニューハーフやゲイの人びとがたくさん露出するようになりました。最初出た頃はビックリしましたが、最近ではすっかり定番になってしまいました。最初は周囲にエッて思われるかも知れませんが、次第に馴れてくるのです。誰も何も言わなくなります。キャラが立つと言ったらいいのか出る杭は打たれる可能性はありますが、出すぎると打てなくなって、それが当たり前のこととして定着します。
④の性格に近づくためにはまず自然体で素で生きることで自分自身をラクにすることが重要です。もう誰もあなたのことそんなに思っていないのです。割り切って行動してみましょう。吹っ切って、割り切って行動するためのフレーズを提示しましょう。
A.「(誰に)どう思われてもいい!」
です。だって誰もどうも思っていないからです。この意識が定着するようになるととても人生ラクになります。ストレスがなくなります。人前でアガルということもなくなります。旅の恥は掻き捨てとか人の噂も七十五日なんて言葉がありますが、まさにそのとおりです。皆さんが重要な式典などの場でたいへん恥ずかしい失敗をしたとしてもなんの問題もありません。地球という大きな観点から見ると日本のある地域の小さな出来事に過ぎません。歴史にも残りません。世界史に残るような話でもないでしょう。残ってもいずれ忘れ去られます。
Aの考え方はストレス回避にはとても有効な思考方法です。これが実践できるようになるとさらに上のレベルとしては注目されたいというナルシストのレベルです。お笑い芸人などはその最たる例で、変に思われたいとか失敗して笑われるのが“おいしい”という話です。まあそこまでは今のところ考える必要はないのでとりあえずAの考え方を念頭にいつでも行動できるようにしてみてください。
この反対の概念も重要で、あえて空気を読まないということも大切です。特に会社の会議などでは、みんなおかしいと思っているのに上司や経営トップが提案したことなので異議を唱えることができないといった状況に陥っている場合があります。それを助長しているのは多数派を占めている権威主義的な思考の人びとだったり、目に見えない同調圧力であったりするのですが、その空気を割ってスパッと核心部分を指摘したりすることによって全体に気づきを与えることができたりします。もちろん発言のスキルも当然必要ではありますが。
実はさらに話をすすめると、空気は読む必要がないという考え方もできます。それは、そこまで人(他人)は自分のことを見ていないという事実です。たとえば団体で旅行など行ったとき、名所などで撮った集合写真、渡されたらみんな自分の顔を捜すのです。なぜならば自分がどう映っているかがもっとも重要なことがらだからです。実はみんな自分のことにしか関心がない、自分のことで精一杯だとでも思っておけば、あながち間違いではありません。最近テレビなどにニューハーフやゲイの人びとがたくさん露出するようになりました。最初出た頃はビックリしましたが、最近ではすっかり定番になってしまいました。最初は周囲にエッて思われるかも知れませんが、次第に馴れてくるのです。誰も何も言わなくなります。キャラが立つと言ったらいいのか出る杭は打たれる可能性はありますが、出すぎると打てなくなって、それが当たり前のこととして定着します。
④の性格に近づくためにはまず自然体で素で生きることで自分自身をラクにすることが重要です。もう誰もあなたのことそんなに思っていないのです。割り切って行動してみましょう。吹っ切って、割り切って行動するためのフレーズを提示しましょう。
A.「(誰に)どう思われてもいい!」
です。だって誰もどうも思っていないからです。この意識が定着するようになるととても人生ラクになります。ストレスがなくなります。人前でアガルということもなくなります。旅の恥は掻き捨てとか人の噂も七十五日なんて言葉がありますが、まさにそのとおりです。皆さんが重要な式典などの場でたいへん恥ずかしい失敗をしたとしてもなんの問題もありません。地球という大きな観点から見ると日本のある地域の小さな出来事に過ぎません。歴史にも残りません。世界史に残るような話でもないでしょう。残ってもいずれ忘れ去られます。
Aの考え方はストレス回避にはとても有効な思考方法です。これが実践できるようになるとさらに上のレベルとしては注目されたいというナルシストのレベルです。お笑い芸人などはその最たる例で、変に思われたいとか失敗して笑われるのが“おいしい”という話です。まあそこまでは今のところ考える必要はないのでとりあえずAの考え方を念頭にいつでも行動できるようにしてみてください。
健康で長生きする秘訣②
健康にはストレス要因をいかに排除していくかということがとても重要であることを話しました。もちろんアスリートがわざと負荷をかけてより高い目標をクリアしていくという観点のストレスは違います。ここでいうストレスは精神衛生上受けたくない精神的苦痛ということです。
ストレスを受けているような環境ではいかにそこから脱却するか、ストレスを解消するかということが必要になってきますが、できるならばストレスにならないようにうまく立ち回るといったほうがよりストレスに対して積極的なアプローチであると思います。ストレスを回避するということが生き生きとした楽しい生活を送るにはとても有効です。
ではストレスになっている理由はもちろん自分自身のものごとのとらえ方ですが、ストレス原因の多くは人間関係によるものです。人間関係を円滑にうまくコントロールするというと同時にまず自分自身の性格や思考方法を吟味しておく必要があります。
なぜ若年世代にいくほど空気が読めないのでしょうか。それは社会状況が大きく関わっていると考えられます。昔は家族は大家族、兄弟も多く、地域社会も家族が多く、親族が多く子どもたちも社会の財産という認識が強く、隣人間のコミュニケーションが密接であったといえます。したがってそういう中で人間関係の力(人間力とかPSIでは人間関係力と言っています)がよく育まれたのですが、近年、核家族、単家族(一人暮らし)が増え、人間関係によるストレスを避けるために二世帯住宅なども増えてきています。さらに少子化により兄弟間のコミュニケーションをとる機会が減り、地域社会にも子どもたちが減ったことで友だち同士の横のつながりも希薄になってきました。当然そういったことでコミュニケーション不足から人間関係力の低下を引き起こし若年世代にいくほど空気を読むとか間合いとかが感覚的になくなってきています。
欧米は当然、空気を読むなどという観点はあまりありませんが、アジア圏でも空気を読むとか本音と建前なんて文化は日本ぐらいです。それは日本という島国の限られた空間でいかにうまく生活していくかという知恵に根ざしたものがあると考えられます。聖徳太子の和をもって尊しとなすとか長いものに巻かれろのような観点は半島や大陸のような喧嘩してもいくらでも逃げ道があるようなところでは根付かない文化であると思います。
ストレスを受けているような環境ではいかにそこから脱却するか、ストレスを解消するかということが必要になってきますが、できるならばストレスにならないようにうまく立ち回るといったほうがよりストレスに対して積極的なアプローチであると思います。ストレスを回避するということが生き生きとした楽しい生活を送るにはとても有効です。
ではストレスになっている理由はもちろん自分自身のものごとのとらえ方ですが、ストレス原因の多くは人間関係によるものです。人間関係を円滑にうまくコントロールするというと同時にまず自分自身の性格や思考方法を吟味しておく必要があります。
世の中には人間のタイプを大きく分けて、4つのタイプの人がいると考えられます。それをわかりやすく表してみると以下のようになります。
①人(他者)にやさしく、自分にきびしい。(自分が病気になる)
②人にきびしく、自分にやさしい。(周りが病気になる)
③人にきびしく、自分にもきびしい。(みんな病気になる)
④人にやさしく、自分にもやさしい。(みんな元気になる)
①は典型的な日本人タイプで、周りにいつも気を使いながら生活するいわゆる一般的にいい人と言われる人です。②のタイプは自己中心的で、わがまま、またそのことに自分が気づいていない人で、誰もがあまりつきあいたく ないと思う人です。①と②のタイプを世間一般の言葉で表すと「いい人は惜しまれながら早く逝き、憎まれっ子世にはばかる」という感じでしょうか。③のタイプは最近あまり見かけない昔よくいた近所のおせっかいおじさん、おばさんといったタイプです。人の子でもきっちり叱ってくれるような人でたまにそういう人がいるとテレビなんかで取材されたりします。最近そういった人はめっきり減ってしまいました。仕返しされたり、子どもの背後のモンスターペアレントなる存在が怖いですから。貴重なタイプで日本では天然記念物の領域に入ってきているような気がします。
PSI的に皆さんにおススメしたいのは④のタイプの性格です。全くの自然体で無理をしないというところが重要です。自分の素のままに生活するということ、ゆとりがあったり、アソビ心があるという感じです。高田純次さんが適当主義なんてことを広めてますが、いい意味であの感覚は大切だと思います。「いい加減」というのがとても重要です。「いい加減」というのは「いい加減(無責任)」のほうではなく「いい加減(適度な加減)」ということになります。
まず自分自身が④の考え方、とらえ方ができるようになるとかなり精神的に解放されます。でも多くの日本人は①のタイプが多いのです。空気を読んで、周囲に気を使い、逆に空気を読めず無頓着な人にムカつきはすれどはっきり言えずぐっと我慢する、とそういった人が多いのではないでしょうか。ちなみに空気を読むというのは性格のようでスキルでもあります。最近は若年世代にいくほど空気を読めない人が多いように思います。年長者は空気が読めないというよりも、理性が利かなくなってきて感情のままに行動する人が増えているということです。なぜ若年世代にいくほど空気が読めないのでしょうか。それは社会状況が大きく関わっていると考えられます。昔は家族は大家族、兄弟も多く、地域社会も家族が多く、親族が多く子どもたちも社会の財産という認識が強く、隣人間のコミュニケーションが密接であったといえます。したがってそういう中で人間関係の力(人間力とかPSIでは人間関係力と言っています)がよく育まれたのですが、近年、核家族、単家族(一人暮らし)が増え、人間関係によるストレスを避けるために二世帯住宅なども増えてきています。さらに少子化により兄弟間のコミュニケーションをとる機会が減り、地域社会にも子どもたちが減ったことで友だち同士の横のつながりも希薄になってきました。当然そういったことでコミュニケーション不足から人間関係力の低下を引き起こし若年世代にいくほど空気を読むとか間合いとかが感覚的になくなってきています。
欧米は当然、空気を読むなどという観点はあまりありませんが、アジア圏でも空気を読むとか本音と建前なんて文化は日本ぐらいです。それは日本という島国の限られた空間でいかにうまく生活していくかという知恵に根ざしたものがあると考えられます。聖徳太子の和をもって尊しとなすとか長いものに巻かれろのような観点は半島や大陸のような喧嘩してもいくらでも逃げ道があるようなところでは根付かない文化であると思います。
2013年1月2日水曜日
協調性と八方美人
会社やその他多くの人間で構成される組織にはさまざまな人間関係があります。それは人それぞれの千差万別な性格や多様化した価値観のゆえに複雑怪奇とでも言っていいほど理解しがたい人びとも数多くいます。
日本も戦前や戦中の全体主義的な時代ならともかく民主主義が定着した現代では、さまざまな考え方の人を受け入れていかなければ人間関係も会社や組織、また社会も成立しません。もちろん、自己中心的で他者に危害を加えるとかそういった反社会的な性格の人やそういう要素を帯びた組織は当然安全な社会のためには排除されるべき対象ですが、そうでなければ極力うまくやっていく必要があります。
金持ち喧嘩せずという言葉がありますが、これは半ば逃げ口上の一つのようにも聞こえます。ぶつかることを避ける、でも逃げてるのではないという自己正当化とさらにやたら喧嘩をふっかけてくる人に対して見下した言い方でもあります。まあ確かにやたら感情的になって人とぶつかりやすいというのは決してレベルが高い行動とは言えないでしょう。ある面、面白い言葉です。
ただぶつからないことがとても善いことかというとそれも人間味に欠ける感じも受けます。あるときはぶつかってみるのもいいかも知れません。私は大学院に行ってやっとディベートの意義を認識しました。議論することはとても重要です。ただ重要なことは不必要に感情的になって喧嘩をするようになるとこれは本末転倒でよけいに結論は出にくくなります。また結論が出ても自分の意見が通らなかった人は気分がいいはずがありません。アカデミックな世界では互いの成長、向上のために逆に自分とは違った意見を求めるというのもあります。したがって、会社の存亡を欠けた決断や株主総会などでの議論は当然大学のディベートとは違う次元の話になりますし、紛糾して怒号が飛び交うなんてのも理解できます。
そういったさまざまなシチュエーションでどういう行動に出るのがPSI的には賢いのかということを考えてみたいと思います。PSIでは自分軸ということをとても大切に考えています。そして根底は自分の信念を曲げてまで相手の言うなりになるということは避けたいということです。すなわち魂まで売ってしまうともうそれは自分軸どころか他人軸で行動し他者に翻弄される人生になるというリスクもあります。ただプライドをどこまでも押し立てて、相手とずっと平行線のまま行くことがいいのかどうなのかという場合もあるでしょう。
八方美人は敵を作らないのですが、ホントの味方はいません。ただのいい人です。すなわち人畜無害だけどその人について行こうなどという人はあまり現れません。信頼がある人はある面、「まっすぐな人」です。頑固というよりいい意味での貞操観念をもっている人ということです。
PSI的には自分軸を立てることを考えるわけですから、当然自分をとりまく環境の中に自分を理解しない人もいてかまいません。というより全員が全員自分を理解し自分を受け入れるような人がいたらその人はホントの意味で仕事はしていない人かも知れません。
会社やさまざまな組織において、ある程度の協調性、それは人間関係のスキルですが、必要であることは間違いありません。しかし八方美人になってとにかくすべての人からよく思われようと周囲に気をつかいまくるのは決して良策ではありません。
あまりに自分と正反対の価値観をもっていれば、どう考えても意見が合わないということは当然あります。どこまでも平行線です。これは通約不可能性といいますが、どこまで議論しようが結論は出ません。そこで自分の意見を曲げるのではなく、あくまで自分はこう思うと貫き、もし相手の意見が尊重されて用いられたときは従うしかない場合も出てきます。もし自分の方法が正しい、あるいはよりベターであり、相手の方法が間違っているとするならば結論が出たときに皆が自分に賛同してくれるはずです。
また議論している内容が結論に至らない場合は半ば妥協したように見せてさらに抽象度を高めて大同小異であるとするかたちで合意に導くという方法もあります。上司が頑固でどうしても考えを曲げない場合、ある程度のところで素直に従うのも策です。最終的に上司の方法で失敗すれば、上司が責任を取ることになるので。経営者が同じようであるならば、会社の経営自体の問題になっている場合もあります。その場合、いずれこの経営者なら会社は行き詰るという認識で早く独立なり、転職なり準備をする動機づけになったと考えてあまり会社の業務コミットせず、自分の人生を考えるという流れもあります。
かなり極論的な展開になりましたが、本来会社は経営者が理想とするかたちで人材も組織もつくり上げていくものですが、会社が大きくなるにつれ、価値観の違う人びとや世代が入ってきます。その場合、経営者のトップダウンだけのマネジメントではうまくいかない状況も出てきます。また経営者自体も最初の理念とは大きく外れて迷走していくという状況も生まれたりします。
PSI的にはあくまで組織の存続以上に個に焦点をあてて考えています。個、すなわちひとり一人がしあわせにならずして組織の存在意義はないという観点です。さらにいうならば、あらゆる組織は個のしあわせを無視して存在価値はないと考えています。それは組織外の人=組織内の人という観点から企業の存在意義のひとつにある社会貢献性ということにも同じ観点であると考えます。もともと経営学は経営者の立場に立った学問です。最近ではやっと顧客満足<従業員満足とか顧客満足実現のためには従業員満足という観点がささやかれ始めました。
ピーターセンゲという学者が最強の組織は学習する組織であると言っています。個人個人の自分軸がちゃんと立って、さらに時代の流れに取り残されないようにつねに学習する個人が集まって形成された組織がもっとも強固な組織ではないかと思うのです。もちろんそういった組織がはたしてあるのかどうかは分かりませんが、少なくとも個人においては自分軸を立てて行動していきたいところです。そのためにはすべての人と仲良くして、敵がまったくいない、そういった妄想はやめて自分のカラーをちゃんと出して、尚且つ協調性というスキルを駆使しながらうまく行動していくことが重要なことだと思います。
したがって嫌いな人にわざわざ媚びて取り入るよりも相手の方が逆に寄ってくるくらいの自信と魅力を兼ね備えた人物になるよう努力したいものです。そのためには自己流でなく、自分流で自然体で素のままで行動し人間的な部分を隠さず出してしまうのがより効果的であると思います。
日本も戦前や戦中の全体主義的な時代ならともかく民主主義が定着した現代では、さまざまな考え方の人を受け入れていかなければ人間関係も会社や組織、また社会も成立しません。もちろん、自己中心的で他者に危害を加えるとかそういった反社会的な性格の人やそういう要素を帯びた組織は当然安全な社会のためには排除されるべき対象ですが、そうでなければ極力うまくやっていく必要があります。
金持ち喧嘩せずという言葉がありますが、これは半ば逃げ口上の一つのようにも聞こえます。ぶつかることを避ける、でも逃げてるのではないという自己正当化とさらにやたら喧嘩をふっかけてくる人に対して見下した言い方でもあります。まあ確かにやたら感情的になって人とぶつかりやすいというのは決してレベルが高い行動とは言えないでしょう。ある面、面白い言葉です。
ただぶつからないことがとても善いことかというとそれも人間味に欠ける感じも受けます。あるときはぶつかってみるのもいいかも知れません。私は大学院に行ってやっとディベートの意義を認識しました。議論することはとても重要です。ただ重要なことは不必要に感情的になって喧嘩をするようになるとこれは本末転倒でよけいに結論は出にくくなります。また結論が出ても自分の意見が通らなかった人は気分がいいはずがありません。アカデミックな世界では互いの成長、向上のために逆に自分とは違った意見を求めるというのもあります。したがって、会社の存亡を欠けた決断や株主総会などでの議論は当然大学のディベートとは違う次元の話になりますし、紛糾して怒号が飛び交うなんてのも理解できます。
そういったさまざまなシチュエーションでどういう行動に出るのがPSI的には賢いのかということを考えてみたいと思います。PSIでは自分軸ということをとても大切に考えています。そして根底は自分の信念を曲げてまで相手の言うなりになるということは避けたいということです。すなわち魂まで売ってしまうともうそれは自分軸どころか他人軸で行動し他者に翻弄される人生になるというリスクもあります。ただプライドをどこまでも押し立てて、相手とずっと平行線のまま行くことがいいのかどうなのかという場合もあるでしょう。
八方美人は敵を作らないのですが、ホントの味方はいません。ただのいい人です。すなわち人畜無害だけどその人について行こうなどという人はあまり現れません。信頼がある人はある面、「まっすぐな人」です。頑固というよりいい意味での貞操観念をもっている人ということです。
PSI的には自分軸を立てることを考えるわけですから、当然自分をとりまく環境の中に自分を理解しない人もいてかまいません。というより全員が全員自分を理解し自分を受け入れるような人がいたらその人はホントの意味で仕事はしていない人かも知れません。
会社やさまざまな組織において、ある程度の協調性、それは人間関係のスキルですが、必要であることは間違いありません。しかし八方美人になってとにかくすべての人からよく思われようと周囲に気をつかいまくるのは決して良策ではありません。
あまりに自分と正反対の価値観をもっていれば、どう考えても意見が合わないということは当然あります。どこまでも平行線です。これは通約不可能性といいますが、どこまで議論しようが結論は出ません。そこで自分の意見を曲げるのではなく、あくまで自分はこう思うと貫き、もし相手の意見が尊重されて用いられたときは従うしかない場合も出てきます。もし自分の方法が正しい、あるいはよりベターであり、相手の方法が間違っているとするならば結論が出たときに皆が自分に賛同してくれるはずです。
また議論している内容が結論に至らない場合は半ば妥協したように見せてさらに抽象度を高めて大同小異であるとするかたちで合意に導くという方法もあります。上司が頑固でどうしても考えを曲げない場合、ある程度のところで素直に従うのも策です。最終的に上司の方法で失敗すれば、上司が責任を取ることになるので。経営者が同じようであるならば、会社の経営自体の問題になっている場合もあります。その場合、いずれこの経営者なら会社は行き詰るという認識で早く独立なり、転職なり準備をする動機づけになったと考えてあまり会社の業務コミットせず、自分の人生を考えるという流れもあります。
かなり極論的な展開になりましたが、本来会社は経営者が理想とするかたちで人材も組織もつくり上げていくものですが、会社が大きくなるにつれ、価値観の違う人びとや世代が入ってきます。その場合、経営者のトップダウンだけのマネジメントではうまくいかない状況も出てきます。また経営者自体も最初の理念とは大きく外れて迷走していくという状況も生まれたりします。
PSI的にはあくまで組織の存続以上に個に焦点をあてて考えています。個、すなわちひとり一人がしあわせにならずして組織の存在意義はないという観点です。さらにいうならば、あらゆる組織は個のしあわせを無視して存在価値はないと考えています。それは組織外の人=組織内の人という観点から企業の存在意義のひとつにある社会貢献性ということにも同じ観点であると考えます。もともと経営学は経営者の立場に立った学問です。最近ではやっと顧客満足<従業員満足とか顧客満足実現のためには従業員満足という観点がささやかれ始めました。
ピーターセンゲという学者が最強の組織は学習する組織であると言っています。個人個人の自分軸がちゃんと立って、さらに時代の流れに取り残されないようにつねに学習する個人が集まって形成された組織がもっとも強固な組織ではないかと思うのです。もちろんそういった組織がはたしてあるのかどうかは分かりませんが、少なくとも個人においては自分軸を立てて行動していきたいところです。そのためにはすべての人と仲良くして、敵がまったくいない、そういった妄想はやめて自分のカラーをちゃんと出して、尚且つ協調性というスキルを駆使しながらうまく行動していくことが重要なことだと思います。
したがって嫌いな人にわざわざ媚びて取り入るよりも相手の方が逆に寄ってくるくらいの自信と魅力を兼ね備えた人物になるよう努力したいものです。そのためには自己流でなく、自分流で自然体で素のままで行動し人間的な部分を隠さず出してしまうのがより効果的であると思います。
2013年1月1日火曜日
新年を迎えて…
新年あけましておめでとうございます。
昨年はどのような一年だったでしょうか。人それぞれさまざまな思いを持って新年を迎えられたことと思います。昨年はいいことがなかったから今年こそはと思っている人、昨年に引き続きさらに飛躍の年にしようと意気軒昂と新年を迎えた人。あるいは今年こそは就活を成功させて、とか婚活に終止符を打ってゴールインしたいななどさまざまな悩みをかかえている人もいることと思います。
ただ人生において重要なことは、気づいたときが人生においてもっとも大切なターニングポイント(転換期とでも言ったらいいのでしょうか)になると思います。では何に気づくのかということなのですが、まず自分自身がこの世に生を受けて人生というかけがえのない時間を過ごしているのだという自覚です。案外このことに気づかず、がむしゃらに、あるいはいたずらにただ人生を過ごしているという人が多いのではないでしょうか。
人生悩みがつきものですが、悩む前にまず自分自身の置かれた立場をよく考えてみることが重要であると思います。ほとんど悩みの原因は過去の内容にその原因があります。われわれはその過去のゆえにすでに人生の多くの部分を決定づけられています。したがって多くの人びとがその過去から脱却してよりよい人生に転換していくために闘っていると言っても過言ではありません。もちろん裕福で申し分の無い環境の中で育てば、しあわせであるかも知れません。でも逆にそういう中でそのレベルを維持することを要求されプレッシャーに苦しむとしたらそれはそれで不幸なことです。また親やその家系的な要因から自分が苦しむような立場に置かれるような場合もあるでしょうし、とにかく悩みは人それぞれで千差万別です。
ここでどうすることもできない過去ですし、その過去にいつまでも縛られているとしたら、ホントの意味で解放されて生き生きとした人生を送ることは困難です。実は過去は変えられるが、未来は変えられないという考え方があります。それはどういうことかと言うと、過去に起こった出来事自体は事実としてあるのですが、その過去の体験、経験を自分の人生においてどう位置づけるかは自分自身の考え方、とらえ方にすべて依存しているということなのです。例えば客観的に見てとても恥ずかしい出来事をただ単に恥ずかしかったこととしてだけとらえるのか、教訓として学習内容としてとらえるかによって大きく変わってきます。とても不幸なことがあって悲しかったとだけとらえるのか、人の痛みがわかるためにとても意義ある体験だったととらえるかは自分自身にかかっています。
すなわち過去は変えられるというのは、過去の出来事に対する見方や考え方を変えることで自分の人生において過去を変えてしまうということなのです。すなわちいままでと違ったフレームワークをするということです。いわゆる自分の人生の中でマイナス要因でしかなかった過去をよりプラスに転じることができるようにパラダイムシフトを行うということになります。
私がいままで出会った人の中には、親を怨んでいて、いつまでも素直になれない自分の性格を親のせいにして過ごしている人もいました。でもそういった被害者意識を持ち続けて人生を送って何かプラスになることがあるのでしょうか。親が理想の親でなかった、としたら反面教師としてとらえる、あるいはそういう親だったからちょっとひねくれてしまったけど人よりはずっと自立は早かったとか、いかようにもとらえることはできます。
新年早々このような話をしているのは、誰を親に持ったとか、どこに生まれた、どういう環境に育ったということ以上に、いま気づくべきことは自分自身が生きていま人生を過ごしているという事実です。そして、いま置かれた環境がどうであれ、自分自身が決断さえすればいかようにもなる人生を与えられているという事実です。
もう過去はどうでもいいのです。過去に執着し続ける人は間違いなく人生を楽しむことは困難です。自分にとってつらい過去なら間違いなく自分自身を大きく成長させてくれた過去であると考えより肯定的な過去に作り上げることが重要です。逆にうまくいって輝かしいと思える過去ならそういった過去の栄光にいつまでもぶらさがり続けることも過剰な優越意識を助長させ、最終的には周囲からホントの友だちといった存在が消えていく要因になっているかも知れません。過去の成功体験を通じて自信をもつということはとても大切ですが、変な優越意識(劣等意識と表裏一体)を持つことは傲慢な感情を誘発し、知らず知らずに嫌われてしまう人もいます。
とにかく自分が過去の話をやたらするようになったら、危険な状態です。ちなみに若者は未来の話をします。なぜなら過去があまりないからです。でも老人は過去の話ばかりします。なぜなら老人には未来がもうないからです。会社やさまざまな組織の中には、より上位者でやたら過去の話ばかりする人がいますが、そういう人はすでに時代の変化に対応できない硬直した頭(思考)の持ち主です。また歳をとるにつれて脳の前頭前野というところがどんどん衰えて理性を失いやすく感情的になりやすいと言われています。やたら数十年も前の過去の栄光を持ち出し自慢話ばかりする上司や上位者に対しては、反面教師としてこんな老人にならないように肝に銘じて行動しましょう。
結論ですが、私たちはいま生きて人生を過ごしているということを明確に自覚して、過去のせい、誰かのせい、環境のせいといったすべての問題を他者に起因させるのではなく、私からすべて出発して自分の人生は自分がつくりあげるのだと思って、いまからの人生を最高に楽しい有意義な人生にしていきましょう。PSIブログはそういった皆さんの人生の指針となるべきフレームを提案し続けていくつもりです。
本年もよろしくお願いします。
昨年はどのような一年だったでしょうか。人それぞれさまざまな思いを持って新年を迎えられたことと思います。昨年はいいことがなかったから今年こそはと思っている人、昨年に引き続きさらに飛躍の年にしようと意気軒昂と新年を迎えた人。あるいは今年こそは就活を成功させて、とか婚活に終止符を打ってゴールインしたいななどさまざまな悩みをかかえている人もいることと思います。
ただ人生において重要なことは、気づいたときが人生においてもっとも大切なターニングポイント(転換期とでも言ったらいいのでしょうか)になると思います。では何に気づくのかということなのですが、まず自分自身がこの世に生を受けて人生というかけがえのない時間を過ごしているのだという自覚です。案外このことに気づかず、がむしゃらに、あるいはいたずらにただ人生を過ごしているという人が多いのではないでしょうか。
人生悩みがつきものですが、悩む前にまず自分自身の置かれた立場をよく考えてみることが重要であると思います。ほとんど悩みの原因は過去の内容にその原因があります。われわれはその過去のゆえにすでに人生の多くの部分を決定づけられています。したがって多くの人びとがその過去から脱却してよりよい人生に転換していくために闘っていると言っても過言ではありません。もちろん裕福で申し分の無い環境の中で育てば、しあわせであるかも知れません。でも逆にそういう中でそのレベルを維持することを要求されプレッシャーに苦しむとしたらそれはそれで不幸なことです。また親やその家系的な要因から自分が苦しむような立場に置かれるような場合もあるでしょうし、とにかく悩みは人それぞれで千差万別です。
ここでどうすることもできない過去ですし、その過去にいつまでも縛られているとしたら、ホントの意味で解放されて生き生きとした人生を送ることは困難です。実は過去は変えられるが、未来は変えられないという考え方があります。それはどういうことかと言うと、過去に起こった出来事自体は事実としてあるのですが、その過去の体験、経験を自分の人生においてどう位置づけるかは自分自身の考え方、とらえ方にすべて依存しているということなのです。例えば客観的に見てとても恥ずかしい出来事をただ単に恥ずかしかったこととしてだけとらえるのか、教訓として学習内容としてとらえるかによって大きく変わってきます。とても不幸なことがあって悲しかったとだけとらえるのか、人の痛みがわかるためにとても意義ある体験だったととらえるかは自分自身にかかっています。
すなわち過去は変えられるというのは、過去の出来事に対する見方や考え方を変えることで自分の人生において過去を変えてしまうということなのです。すなわちいままでと違ったフレームワークをするということです。いわゆる自分の人生の中でマイナス要因でしかなかった過去をよりプラスに転じることができるようにパラダイムシフトを行うということになります。
私がいままで出会った人の中には、親を怨んでいて、いつまでも素直になれない自分の性格を親のせいにして過ごしている人もいました。でもそういった被害者意識を持ち続けて人生を送って何かプラスになることがあるのでしょうか。親が理想の親でなかった、としたら反面教師としてとらえる、あるいはそういう親だったからちょっとひねくれてしまったけど人よりはずっと自立は早かったとか、いかようにもとらえることはできます。
新年早々このような話をしているのは、誰を親に持ったとか、どこに生まれた、どういう環境に育ったということ以上に、いま気づくべきことは自分自身が生きていま人生を過ごしているという事実です。そして、いま置かれた環境がどうであれ、自分自身が決断さえすればいかようにもなる人生を与えられているという事実です。
もう過去はどうでもいいのです。過去に執着し続ける人は間違いなく人生を楽しむことは困難です。自分にとってつらい過去なら間違いなく自分自身を大きく成長させてくれた過去であると考えより肯定的な過去に作り上げることが重要です。逆にうまくいって輝かしいと思える過去ならそういった過去の栄光にいつまでもぶらさがり続けることも過剰な優越意識を助長させ、最終的には周囲からホントの友だちといった存在が消えていく要因になっているかも知れません。過去の成功体験を通じて自信をもつということはとても大切ですが、変な優越意識(劣等意識と表裏一体)を持つことは傲慢な感情を誘発し、知らず知らずに嫌われてしまう人もいます。
とにかく自分が過去の話をやたらするようになったら、危険な状態です。ちなみに若者は未来の話をします。なぜなら過去があまりないからです。でも老人は過去の話ばかりします。なぜなら老人には未来がもうないからです。会社やさまざまな組織の中には、より上位者でやたら過去の話ばかりする人がいますが、そういう人はすでに時代の変化に対応できない硬直した頭(思考)の持ち主です。また歳をとるにつれて脳の前頭前野というところがどんどん衰えて理性を失いやすく感情的になりやすいと言われています。やたら数十年も前の過去の栄光を持ち出し自慢話ばかりする上司や上位者に対しては、反面教師としてこんな老人にならないように肝に銘じて行動しましょう。
結論ですが、私たちはいま生きて人生を過ごしているということを明確に自覚して、過去のせい、誰かのせい、環境のせいといったすべての問題を他者に起因させるのではなく、私からすべて出発して自分の人生は自分がつくりあげるのだと思って、いまからの人生を最高に楽しい有意義な人生にしていきましょう。PSIブログはそういった皆さんの人生の指針となるべきフレームを提案し続けていくつもりです。
本年もよろしくお願いします。
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