日本が経済の高度成長を通じ、物質的にも豊かになって誰もが贅沢しなければ食べていける時代となりました。その後、バブル景気から飽食の時代を迎えてメタボリック症候群に気をつけなければ生活習慣病(癌、脳疾患、心臓疾患、糖尿病……)になってしまうと政府は健康日本21というタイトルで国家的な取り組みを行ってきました。
http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/metabo02/
http://www.kenkounippon21.gr.jp/
前置きはこれぐらいにして、本題に入ります。
今朝軽くジョギングしてきました。以前はよくマラソンにエントリーしていましたので定期的に走っていたのですが、最近は休みの日にときどき軽く走ることにしています。基本は無理をしないということで(そこまでパワーはないのですが)街並みの風景や外の空気を楽しみながらやっております。
で最初はホントにノロノロと早歩きのスピードですが、後半エンジンがかかると徐々にスピードがあがります。でもそこで問題発生。やはり膝に負担が来るのです。
以前仕事の関係で全国に出張しているときは取引先で接待を受けたり、結構グルメな状況にあって尿酸値がなんと9.4まで上がり、痛風状態。それで右足の親指に違和感を感じつつも痛みは一度も出なかったのでその痛風の痛みは味わったことはないのです。もちろんその頃はメタボリック寸前の状態で写真を見たらこれ誰って言いたくなります。それで心配した家内は家では肉やプリン帯の多い食品は一切なしということで対応してくれました。そのおかげで、出張中は痛風気味、家に戻って会社勤務のときは貧血気味でフラフラという状況でした。その後マラソンを始めた当初、マラソンは血中のヘモグロビンが消費され減るそうで、結構貧血気味でした。
そのうち出張が減って社内のデスクワークが主な業務になってやっと正常な健康状態になった気がします。ただ問題は年齢とともにやはり代謝機能が下がりますので、なかなかベスト体重にもっていくのが困難です。でも生活に何も支障がないのでそんなに気にもかけないのですが、今朝のように運動することで気づきが与えられるのです。運動はただ健康維持の為とかではなく、運動することで実は問題点が明確になる可能性があります。やはり人間は動物(動くモノ)なので動かしてみることでいろいろと自分のからだの問題を認識することができます。日頃デスクワークだけの人、出勤は車、普段の買い物も車、一日に歩く距離が極端に少ない人など、足腰の衰えとかメタボとか大丈夫でしょうか?せっかくこのブログを読んでいただいているなら、これをきっかけに自分の健康を考えてみましょう。
ジョギングをしているといろんなインスピレーションが来るのですが、今朝もいろいろな思いや考えに浸りながら走っていました。その一つに、私がもし家を新築するなら地下室に楽器もおいて映画も見れる防音のシアタールームを作りたいと考えていたのですが、それにプラスしてトレーニングルームが必要だなと思ったのです。運動が続かない理由は手軽でないとか、冬だと寒くて、夏だと暑くて外に出るのに気が引けるというのがあります。今の家では狭くてトレーニング器具を置くには困難です。やはりそれ専用の部屋が欲しいものです。まあ今は妄想レベルですのでツッコまないでください。
みなさんもいかに健康に過ごすか、いろいろと考えてみてください。継続は力なりですが、それを実現できるような工夫、環境づくりがとても大切だと思います。
かけがえのない人生、大切な人に伝えましょう!トラックバックも大歓迎。しあわせの輪をひろげていきましょう!
2013年2月17日日曜日
2013年2月16日土曜日
ストレス回避の極意④
人生にはストレスはつきもので、仏教でも生老病死という4つの苦しみが人生にはあると言われているように楽しいことばかりではありません。
私たちの一般的価値観から、この世に生を受ける時は喜ばしくお祝いしますが、死ぬときは別れを意味し、悲しみであります。人生そのものの意味というものは哲学や宗教の分野に任せるとして、ただ私たちは自然の摂理に心も身もゆだねて行くしか方法はありません。私たちは生を受けたときから死に向かって間違いなく歩んでいるのです。そして最期のときが近づくほど寂しい気持ちになっていきます。10代、20代はさほど思いませんが、30を越えて、40、50代以降になると、より若かった時期を恋しく思うようになることも多いのではないでしょうか?そしてこうつぶやくのです。
「もう10年若かったらなあ」
なんてことはないですか?でもこのブログを読んでいただいている方々は今がいちばん輝いていることを再度認識していただけたらいいなと思います。なぜなら自分軸、自然体という観点は年齢も含めて自然体でいることがもっともしあわせ感を持てるからです。「もう10年若かったら」という人は10年後もそう言うに決まっています。もしかしたら10年前からそのフレーズを繰り返していた人もいるかもしれません。PSI的考えを理解されたなら、そろそろ年齢に関してもあきらめましょう。あなたにとっては今のあなたのそのままが最高に魅力ある姿です。そう実感しながら人生を謳歌しましょう。人生は楽しいことばかりではありません。逆に悲しいこと、辛いことばかりでもありません。谷あり山あり、谷のときに落ち込みすぎず、山のときに傲慢になることなくつねに人生うまくコントロールしていきましょう。もちろん楽しむときには羽目を外して、目一杯楽しみましょう。そして落ち込んだときは、我慢せず声を出して心行くまで泣くこともいいことです。それは我慢して無理をすると心がとても負担になり、ストレスからダメージを受けてしまうから、自分の心に素直に行動することも大切です。
いずれにせよ、今の自分というものは自分の年齢で築き上げられたものです。私が学生時代によく親から聞かされた話は大人になってもっと勉強しておけばよかったと思うんだよということです。最近は少子化の影響で大学も社会人や外国人、主婦までも学生を必死に募集しなければ経営が成り立たないくらいになってきました。高校から入学してきた学生に比べ、社会人学生はとても頑張るのです。それは学習の目的が明確になっているからであり、また自分で学費を払ったりしていれば自ずと元を取るということも考えるでしょう。人生いつも意味が分かるのは当事者であるときではなく、その時期を過ぎて分かるようになったりします。
何が言いたいのかというと、気づきや悟りが訪れるのはそのときではなく、だいぶ過ぎ去ってからだということです。人生いつもその繰り返しだったりします。後悔先に立たずとか、覆水盆に返らずなどということわざがありますが、その通りなのです。では人生においてどうとらえるのが、いいのでしょうか。とにかくそのときは自分にとっては精一杯であったとして自分を責めないということが重要です。今の自分があのときの自分になりえることは不可能です。したがって過去を悔やむ対象としてとらえるのでなく、今の自分を形成してくれている要因になっているので。まあいい意味で過去の受け入れがたいことに対してはあきらめるということです。そして今の自分が最高に輝くように満足のいく自分であるようにするということです。今の自分を心から好きになれたら、過去はすべて許容できます。なぜなら過去の土台の上に現在の自分があるからなのです。どんな人生を歩んできたとしても、今の自分がもっとも大切で重要なのです。
過去に対してはそういうふうに考えることができれば心はラクになります。完璧主義的な人はいつまでも過去に引きずられていたりします。また今度は夢が実現できていない現在の自分に対しても悩んだりします。ホントはもう自分の年齢ならこのレベルに行ってなければならないのにと。でもその未来のことに関してもいい意味であきらめることが重要です。もちろん夢や目標をあきらめろというのではありません。本来こうなっているべきであるという理想的な自分像に対してあきらめるということです。ではそれに対してはどう考えればいいかというと、夢や目標に向かって頑張っている自分を素晴らしいと受け入れることです。よく一般的に夢半ばで亡くなられたという表現をされますが、夢を実現しようが、そのプロセスであろうが、すべて素晴らしいことなのです。今生きているあなたが最高に素晴らしいのです。ディズニーは永遠に完成しないテーマパークという考え方でつねに発展を遂げてきていますし、企業に終わりはなく、永遠に目標実現までのプロセスにあることが重要であると思います。人生も同じです。もしあなたがなさなければならないことだと思うのなら、きっと後継者がそれを受け継いで成し遂げようとしてくれることでしょう。
ここで私たちが考えないといけないのは目標というものが成し遂げられた後のことです。人間はたいへんな仕事を成し遂げて終えたときに達成感は味わいますが、その後に燃え尽き症候群のようになる場合もあります。以前、管理職として会社の重責を担ってきた人が定年退職後、急激に老けてしまうといったことをよく聞きました。統計的にはわかりませんが、団塊の世代は特に激しい競争社会を生き抜いてきた人びとなので燃え尽き症候群になりやすいのではないかとか勝手に思っています。
またとても楽しかったことが過ぎた後に虚無感に襲われたりといったこともあります。夏休みが終わった後とか旅行の後、とっても楽しいイベントが終わった後など。もちろんそういった内容は楽しいできごとでまた計画すればできるような内容ですから燃え尽き症候群のようにはなりません。とにかく急激に状況が変わると適応しきれない部分が起こったりします。すなわちオンとオフの切り替えが重要です。ただ長年にわたってたいへんな仕事をしてきた人ほど燃え尽きる可能性は高いのです。
PSIで推奨していることは自分軸、自然体で楽しい人生を送るということですので、そのフレームワークができるようになれば、まず燃え尽き症候群のようなことにはなりません。それでもやはり仕事はたいへんな仕事がありますし、どうしても負荷がかかりやすい労働環境にある人は燃え尽きてしまう可能性は否めません。したがって人生すべてを仕事(自分が始めた仕事は別ですが)にかけるという方法はあまりおススメできません。案外仕事にだけコミットしているような人は人間的魅力が少ないばかりか、仕事自体にも幅を持たせることはできません。識見が狭かったり、人間的器が小さくなりやすいと思います。仕事ができるかとどうかといった部分はプライベートがいかに充実しているかということにも関係してきます。
ここで燃え尽き症候群にならない方法は仕事自体をどれだけ楽しんでできるかということと同時に、退職後の目標もあったほうがいいということです。退職後の目標とはどこどこに家を建ててのんびり自給自足の生活するぞとかいうことではなく、生きているうちに実現はできないけど社会的にはとても意義深い公的な目標です。退職後にNPO法人を立ち上げて社会に寄与する活動をされたりしているのを聞くことがあります。すなわち、人生におけるライフワークを持つということをおススメします。それは就業しているときからできれば考えて準備、あるいは活動していくことがいいかと思います。そうすると定年退職や娘の結婚などは一つの通過点に過ぎず、生きがいを持ち続け生き生きと生きていくことができるのです。
結論から申し上げるならば、今を最高に楽しく充実した人生を生きること、それは人生の目標達成に向かって活動しつづけ、その自分が今もっとも輝いているということを実感しつつ生きることです。ライフワークには完成という観点がないし、取り組んでいることそのものが完成とも言えます。したがって始まりはあっても終わりはあるとは言えないかもしれません。したがって目標達成のプロセスこそ最高の輝きであるのです。そしてそれ以外にも趣味や友だち関係など楽しいことがらが多ければストレスとは関係のない人生が期待できると思います。
私たちの一般的価値観から、この世に生を受ける時は喜ばしくお祝いしますが、死ぬときは別れを意味し、悲しみであります。人生そのものの意味というものは哲学や宗教の分野に任せるとして、ただ私たちは自然の摂理に心も身もゆだねて行くしか方法はありません。私たちは生を受けたときから死に向かって間違いなく歩んでいるのです。そして最期のときが近づくほど寂しい気持ちになっていきます。10代、20代はさほど思いませんが、30を越えて、40、50代以降になると、より若かった時期を恋しく思うようになることも多いのではないでしょうか?そしてこうつぶやくのです。
「もう10年若かったらなあ」
なんてことはないですか?でもこのブログを読んでいただいている方々は今がいちばん輝いていることを再度認識していただけたらいいなと思います。なぜなら自分軸、自然体という観点は年齢も含めて自然体でいることがもっともしあわせ感を持てるからです。「もう10年若かったら」という人は10年後もそう言うに決まっています。もしかしたら10年前からそのフレーズを繰り返していた人もいるかもしれません。PSI的考えを理解されたなら、そろそろ年齢に関してもあきらめましょう。あなたにとっては今のあなたのそのままが最高に魅力ある姿です。そう実感しながら人生を謳歌しましょう。人生は楽しいことばかりではありません。逆に悲しいこと、辛いことばかりでもありません。谷あり山あり、谷のときに落ち込みすぎず、山のときに傲慢になることなくつねに人生うまくコントロールしていきましょう。もちろん楽しむときには羽目を外して、目一杯楽しみましょう。そして落ち込んだときは、我慢せず声を出して心行くまで泣くこともいいことです。それは我慢して無理をすると心がとても負担になり、ストレスからダメージを受けてしまうから、自分の心に素直に行動することも大切です。
いずれにせよ、今の自分というものは自分の年齢で築き上げられたものです。私が学生時代によく親から聞かされた話は大人になってもっと勉強しておけばよかったと思うんだよということです。最近は少子化の影響で大学も社会人や外国人、主婦までも学生を必死に募集しなければ経営が成り立たないくらいになってきました。高校から入学してきた学生に比べ、社会人学生はとても頑張るのです。それは学習の目的が明確になっているからであり、また自分で学費を払ったりしていれば自ずと元を取るということも考えるでしょう。人生いつも意味が分かるのは当事者であるときではなく、その時期を過ぎて分かるようになったりします。
何が言いたいのかというと、気づきや悟りが訪れるのはそのときではなく、だいぶ過ぎ去ってからだということです。人生いつもその繰り返しだったりします。後悔先に立たずとか、覆水盆に返らずなどということわざがありますが、その通りなのです。では人生においてどうとらえるのが、いいのでしょうか。とにかくそのときは自分にとっては精一杯であったとして自分を責めないということが重要です。今の自分があのときの自分になりえることは不可能です。したがって過去を悔やむ対象としてとらえるのでなく、今の自分を形成してくれている要因になっているので。まあいい意味で過去の受け入れがたいことに対してはあきらめるということです。そして今の自分が最高に輝くように満足のいく自分であるようにするということです。今の自分を心から好きになれたら、過去はすべて許容できます。なぜなら過去の土台の上に現在の自分があるからなのです。どんな人生を歩んできたとしても、今の自分がもっとも大切で重要なのです。
過去に対してはそういうふうに考えることができれば心はラクになります。完璧主義的な人はいつまでも過去に引きずられていたりします。また今度は夢が実現できていない現在の自分に対しても悩んだりします。ホントはもう自分の年齢ならこのレベルに行ってなければならないのにと。でもその未来のことに関してもいい意味であきらめることが重要です。もちろん夢や目標をあきらめろというのではありません。本来こうなっているべきであるという理想的な自分像に対してあきらめるということです。ではそれに対してはどう考えればいいかというと、夢や目標に向かって頑張っている自分を素晴らしいと受け入れることです。よく一般的に夢半ばで亡くなられたという表現をされますが、夢を実現しようが、そのプロセスであろうが、すべて素晴らしいことなのです。今生きているあなたが最高に素晴らしいのです。ディズニーは永遠に完成しないテーマパークという考え方でつねに発展を遂げてきていますし、企業に終わりはなく、永遠に目標実現までのプロセスにあることが重要であると思います。人生も同じです。もしあなたがなさなければならないことだと思うのなら、きっと後継者がそれを受け継いで成し遂げようとしてくれることでしょう。
ここで私たちが考えないといけないのは目標というものが成し遂げられた後のことです。人間はたいへんな仕事を成し遂げて終えたときに達成感は味わいますが、その後に燃え尽き症候群のようになる場合もあります。以前、管理職として会社の重責を担ってきた人が定年退職後、急激に老けてしまうといったことをよく聞きました。統計的にはわかりませんが、団塊の世代は特に激しい競争社会を生き抜いてきた人びとなので燃え尽き症候群になりやすいのではないかとか勝手に思っています。
またとても楽しかったことが過ぎた後に虚無感に襲われたりといったこともあります。夏休みが終わった後とか旅行の後、とっても楽しいイベントが終わった後など。もちろんそういった内容は楽しいできごとでまた計画すればできるような内容ですから燃え尽き症候群のようにはなりません。とにかく急激に状況が変わると適応しきれない部分が起こったりします。すなわちオンとオフの切り替えが重要です。ただ長年にわたってたいへんな仕事をしてきた人ほど燃え尽きる可能性は高いのです。
PSIで推奨していることは自分軸、自然体で楽しい人生を送るということですので、そのフレームワークができるようになれば、まず燃え尽き症候群のようなことにはなりません。それでもやはり仕事はたいへんな仕事がありますし、どうしても負荷がかかりやすい労働環境にある人は燃え尽きてしまう可能性は否めません。したがって人生すべてを仕事(自分が始めた仕事は別ですが)にかけるという方法はあまりおススメできません。案外仕事にだけコミットしているような人は人間的魅力が少ないばかりか、仕事自体にも幅を持たせることはできません。識見が狭かったり、人間的器が小さくなりやすいと思います。仕事ができるかとどうかといった部分はプライベートがいかに充実しているかということにも関係してきます。
ここで燃え尽き症候群にならない方法は仕事自体をどれだけ楽しんでできるかということと同時に、退職後の目標もあったほうがいいということです。退職後の目標とはどこどこに家を建ててのんびり自給自足の生活するぞとかいうことではなく、生きているうちに実現はできないけど社会的にはとても意義深い公的な目標です。退職後にNPO法人を立ち上げて社会に寄与する活動をされたりしているのを聞くことがあります。すなわち、人生におけるライフワークを持つということをおススメします。それは就業しているときからできれば考えて準備、あるいは活動していくことがいいかと思います。そうすると定年退職や娘の結婚などは一つの通過点に過ぎず、生きがいを持ち続け生き生きと生きていくことができるのです。
結論から申し上げるならば、今を最高に楽しく充実した人生を生きること、それは人生の目標達成に向かって活動しつづけ、その自分が今もっとも輝いているということを実感しつつ生きることです。ライフワークには完成という観点がないし、取り組んでいることそのものが完成とも言えます。したがって始まりはあっても終わりはあるとは言えないかもしれません。したがって目標達成のプロセスこそ最高の輝きであるのです。そしてそれ以外にも趣味や友だち関係など楽しいことがらが多ければストレスとは関係のない人生が期待できると思います。
体罰について④
最近、楽天の星野仙一監督が体罰に関して持論を展開しています。
http://www.tokyo-sports.co.jp/sports/95907/
ネット上では、かなり体罰容認の論調があるのですが、こういった著名人による話は大きな影響を与えます。私は絶対的に体罰否定の立場ではありますが、こういった考えが出てくるのは民主主義国家として、何でもかんでもマスコミ等の一貫した考えに従属しないためにも意義あることだと思います。
今、いじめにしても体罰にしても、そういった言動自体が大きくクローズアップされ、それが起こってくる原因や背景があまり深く論じられていません。加害者である人はその個人的な性格や手法のみが問題として取り上げられ、マスメディア等で連日放送されることで社会的制裁を大いに受けています。しかしPSI的には、そういった個人的な性格や手法はもちろんのこと、そういった理不尽なことがらが容認されてしまう組織的な背景などまで考えてこそ問題解決に至ると思っています。またいじめに関していうと加害者になってしまう人、被害者になってしまう人、それぞれそうなってしまう要素があるのです。どちらの側にも心の傷や問題を抱えている場合が多いのです。その件に関してはまた機会があればお話ししたいと思います。
とにかくいじめや体罰に関する現象に対する部分だけを論じ、深く掘り下げないことは、プライバシーの問題に踏み込むことになるのでしないのか、あるいは組織的問題や、責任ある立場の人びとの進退問題まで生じるのでそうしないのか、具体的にはわかりません。いずれにせよ、女子柔道の体罰告発も結局、全柔連の組織改革を要求しているのであって、当事者はある程度、どこに問題があるかを認識しているように思います。加害者とされている監督を一方的に糾弾しようという姿勢ではなく、むしろそういったことが容認されてしまう組織のシステムこそ変えてほしいと思っているのです。いじめで自殺した子を持つ親たちも、実際いじめた加害者よりもそれに対してなにも対処できなかった学校側の責任を追及しているのです。もちろん彼らに個人的な怨みが全くないということは言えないと思います。ただそういった理不尽なことがらをどうにもできない組織や権限をもつ責任者に対する怒りのほうがよほど大きいのではないかと思います。
そろそろいじめも体罰問題もことの本質に踏み込むことが必要であると思います。まだまだ組織の問題にはタブーが数多く存在していて、こういった本質や核心部分を言及しようとすると組織全体は黙殺するか、あるいは権力者たちによって潰そうとされてしまいます。なかなか難しい問題でもあります。マスメディアもきっちり裏を取らなければ、報道責任が生じ、下手をすると訴えられかねない立場もありタブーに踏み込めない部分は大いにあると思います。ただタブー視されていることがらは数多くの人びとが認識しているにも関わらず、具体的に言葉に言えない部分でもあります。半ば暗黙知的な内容であったりします。でもPSIのブログではそれをはっきり具体的な形式知に置き換える作業をすることでタブーを無くす努力をしたいと思っています。すなわち誰もが理解できる言葉に置き換えてお伝えしたいと思っているのです。
話はまた星野監督の持論に戻りますが、彼はリーダーとしてとても優秀であると思いますが、あまり組織という観点はお分かりではないと思います。彼の観点は鉄拳制裁で代表されるように体罰ありきでもちろん怪我をさせてはいけないと言われています。しかしそれはホントにそうなのでしょうか。やはり私としてはその考えには異を唱えざるをえません。体罰無くして成長させることはできないのでしょうか。もちろん人間としてやってはいけないこと(犯罪や法律を犯すようなことがら)に関しては当然それはあり得るでしょう。文字通り、体罰ですから。でも選手は人道的に問題行動を起こしたのですか。そうではありません。選手が成長していく過程で気合を入れる意味でそれを望んでいたなら許されることかもしれません。でも選手が受けたくない体罰であると認識していればそれは暴力以外のなにものでもありません。与える側(主体者)と受ける側(対象者)で、前者がどういう意識でするか以上に、後者がどう受け止めているかが重要です。私はいつも殺人事件などで加害者には殺意はなかったとして情状酌量を求めるというのをよく聞きますが、じゃあ殺意がなければ殺していいのかという問題を考えてしまいます。もちろん逮捕後は国家権力による裁きの場に立たせられるわけでそこから加害者の権利を保護するという意味は分かりますが、実際殺人の現場では被害者の権利は完全に守られなかったわけで、とてもいたたまれない気持ちになります。おそらく被害者側の願う判決が出ないときには、自分たちの前に立ちはだかる法律や法廷という大きな権力の前に虚無な心情を感じるのではないかと思います。
指導者や教師、企業なら上司の立場にある人は弟子や学生、部下が自分の言動をどう受け止めているか明確に認識できる能力、またそれを言葉だけではなく空気として読み取る能力がない人は間違っても組織において上位者に立つべきではないのです。人間関係は上下左右と180°さまざまな人びととたくさんつきあって人間力を磨いて卓越したコミュニケーション能力と愛情を育むことができます。企業で言うならば、友だちもあまりなく、プライベートは充実しておらず、家庭でも存在感がなく、会社でだけ上司の立場で部下にエラそうに命令だけして自分はあまり動かないという人は上に立ってはいけません。
また星野監督はみんながいじめを認識していたら、みんなで一緒に止めたらいいと言われていますが、それは組織というものがどういうものなのかよくわからない立場での答えです。あまりに単純過ぎる見解に少々引いてしまいましたが、やはり鉄拳制裁で精神論中心のマネジメントしかできない闘将のレベルが理解できました。いじめの加害者には、実は被害者のみならず、大衆も沈黙というカタチですでに従わせているのです。そういった大衆の一人が他者と結託して加害者に対して訴えることはすでに加害者に対する裏切りを意味するので、絶対に沈黙の大衆はそういった行動には出ないのです。そのことは星野氏にはわからないのです。唯一それができるとしたら、加害者以上の人心を集めて加害者の支持者以上の支持基盤をつくることができるリーダーが出てくるしかないのです。大衆は力のある個人に従属するようになっています。大衆は独立した個人の集まりではありません。集団規範の制約の中で身動きがとりにくい状態でいるのです。そのことに気づいて理不尽な状況を打開しようと立ち上がる人がリーダーになれます。ここで暴力などのパワーでもってトップに立ったいじめの加害者はで独裁者のような立場です。独裁者は恐怖政治を引いて恐怖でもって人びとを縛って管理しますが、リーダーは信頼と愛情で人びとを啓発し自立を促します。
体罰を多く使う指導者は恐怖で集団を管理している傾向が大きいと考えられます。そういう指導者でより上位者にもはっきり言える人はそれでもまだ下位者から信頼も持たれる可能性はありますが、そういう人に限って、案外上位者にはペコペコの人が多いのも事実なのです。力でねじ伏せる人は力に弱いのでより上位者には弱いのです。上下に強い人はなかなかいません。権威主義者とはそういった人びとのことです。
信頼と愛情で管理する人は師弟関係や上司部下の関係にあまり私的な感情を持ち込むことはありません。したがって上位者にもはっきりものを言える人が多く、下位者にも権力を行使して無理難題を押し付けるということはありません。そしてもともとフラット思考なので全体を分け隔てなく見渡しもっとも効果的にチームとしてのポテンシャルを最大限に引き出す手法を活用し、結果にも責任を持とうとします。
星野監督の手法は弱小球団の底上げには大きな効果を発揮すると思います。当時、負け続けていた阪神を優勝にまで導いたのは星野監督の力量だと思います。負け癖がついて自分でどうしたらいいかわからないレベルはパワーで引っ張るのが手っ取り早い再生方法です。しかし一人ひとりが実力者のスター選手の集まりではそういう手法は通用しません。WBCでの大敗はその内容をはっきりと投影させたできごとであったと私は実感しています。組織の成員の成熟度合いによってリーダーシップの在り方を変えるという「リーダーシップの状況適応理論」というのがあります。したがって原監督のWBCでの優勝は納得できるものでした。名前も侍ジャパンで、原ジャパンでなかったところもすごく良かったと思います。あくまで選手の持ち味を十二分に生かしてそれを支えるというサーバントリーダー的な手法こそが成熟したチームには有効に働きます。
オリンピックを目指すような選手はもう十分成熟したプロ意識を持っている選手として扱うほうがよっぽど才能を開花させるのではないかと思います。
これからの指導者になる人は、組織論、心理学、リーダーシップ、モチベーション、……などちゃんと勉強して、過去の自己の経験則にだけ依存する管理手法からは脱却できる内容と愛情まで持ち合わせた人になってほしいところです。
http://www.tokyo-sports.co.jp/sports/95907/
ネット上では、かなり体罰容認の論調があるのですが、こういった著名人による話は大きな影響を与えます。私は絶対的に体罰否定の立場ではありますが、こういった考えが出てくるのは民主主義国家として、何でもかんでもマスコミ等の一貫した考えに従属しないためにも意義あることだと思います。
今、いじめにしても体罰にしても、そういった言動自体が大きくクローズアップされ、それが起こってくる原因や背景があまり深く論じられていません。加害者である人はその個人的な性格や手法のみが問題として取り上げられ、マスメディア等で連日放送されることで社会的制裁を大いに受けています。しかしPSI的には、そういった個人的な性格や手法はもちろんのこと、そういった理不尽なことがらが容認されてしまう組織的な背景などまで考えてこそ問題解決に至ると思っています。またいじめに関していうと加害者になってしまう人、被害者になってしまう人、それぞれそうなってしまう要素があるのです。どちらの側にも心の傷や問題を抱えている場合が多いのです。その件に関してはまた機会があればお話ししたいと思います。
とにかくいじめや体罰に関する現象に対する部分だけを論じ、深く掘り下げないことは、プライバシーの問題に踏み込むことになるのでしないのか、あるいは組織的問題や、責任ある立場の人びとの進退問題まで生じるのでそうしないのか、具体的にはわかりません。いずれにせよ、女子柔道の体罰告発も結局、全柔連の組織改革を要求しているのであって、当事者はある程度、どこに問題があるかを認識しているように思います。加害者とされている監督を一方的に糾弾しようという姿勢ではなく、むしろそういったことが容認されてしまう組織のシステムこそ変えてほしいと思っているのです。いじめで自殺した子を持つ親たちも、実際いじめた加害者よりもそれに対してなにも対処できなかった学校側の責任を追及しているのです。もちろん彼らに個人的な怨みが全くないということは言えないと思います。ただそういった理不尽なことがらをどうにもできない組織や権限をもつ責任者に対する怒りのほうがよほど大きいのではないかと思います。
そろそろいじめも体罰問題もことの本質に踏み込むことが必要であると思います。まだまだ組織の問題にはタブーが数多く存在していて、こういった本質や核心部分を言及しようとすると組織全体は黙殺するか、あるいは権力者たちによって潰そうとされてしまいます。なかなか難しい問題でもあります。マスメディアもきっちり裏を取らなければ、報道責任が生じ、下手をすると訴えられかねない立場もありタブーに踏み込めない部分は大いにあると思います。ただタブー視されていることがらは数多くの人びとが認識しているにも関わらず、具体的に言葉に言えない部分でもあります。半ば暗黙知的な内容であったりします。でもPSIのブログではそれをはっきり具体的な形式知に置き換える作業をすることでタブーを無くす努力をしたいと思っています。すなわち誰もが理解できる言葉に置き換えてお伝えしたいと思っているのです。
話はまた星野監督の持論に戻りますが、彼はリーダーとしてとても優秀であると思いますが、あまり組織という観点はお分かりではないと思います。彼の観点は鉄拳制裁で代表されるように体罰ありきでもちろん怪我をさせてはいけないと言われています。しかしそれはホントにそうなのでしょうか。やはり私としてはその考えには異を唱えざるをえません。体罰無くして成長させることはできないのでしょうか。もちろん人間としてやってはいけないこと(犯罪や法律を犯すようなことがら)に関しては当然それはあり得るでしょう。文字通り、体罰ですから。でも選手は人道的に問題行動を起こしたのですか。そうではありません。選手が成長していく過程で気合を入れる意味でそれを望んでいたなら許されることかもしれません。でも選手が受けたくない体罰であると認識していればそれは暴力以外のなにものでもありません。与える側(主体者)と受ける側(対象者)で、前者がどういう意識でするか以上に、後者がどう受け止めているかが重要です。私はいつも殺人事件などで加害者には殺意はなかったとして情状酌量を求めるというのをよく聞きますが、じゃあ殺意がなければ殺していいのかという問題を考えてしまいます。もちろん逮捕後は国家権力による裁きの場に立たせられるわけでそこから加害者の権利を保護するという意味は分かりますが、実際殺人の現場では被害者の権利は完全に守られなかったわけで、とてもいたたまれない気持ちになります。おそらく被害者側の願う判決が出ないときには、自分たちの前に立ちはだかる法律や法廷という大きな権力の前に虚無な心情を感じるのではないかと思います。
指導者や教師、企業なら上司の立場にある人は弟子や学生、部下が自分の言動をどう受け止めているか明確に認識できる能力、またそれを言葉だけではなく空気として読み取る能力がない人は間違っても組織において上位者に立つべきではないのです。人間関係は上下左右と180°さまざまな人びととたくさんつきあって人間力を磨いて卓越したコミュニケーション能力と愛情を育むことができます。企業で言うならば、友だちもあまりなく、プライベートは充実しておらず、家庭でも存在感がなく、会社でだけ上司の立場で部下にエラそうに命令だけして自分はあまり動かないという人は上に立ってはいけません。
また星野監督はみんながいじめを認識していたら、みんなで一緒に止めたらいいと言われていますが、それは組織というものがどういうものなのかよくわからない立場での答えです。あまりに単純過ぎる見解に少々引いてしまいましたが、やはり鉄拳制裁で精神論中心のマネジメントしかできない闘将のレベルが理解できました。いじめの加害者には、実は被害者のみならず、大衆も沈黙というカタチですでに従わせているのです。そういった大衆の一人が他者と結託して加害者に対して訴えることはすでに加害者に対する裏切りを意味するので、絶対に沈黙の大衆はそういった行動には出ないのです。そのことは星野氏にはわからないのです。唯一それができるとしたら、加害者以上の人心を集めて加害者の支持者以上の支持基盤をつくることができるリーダーが出てくるしかないのです。大衆は力のある個人に従属するようになっています。大衆は独立した個人の集まりではありません。集団規範の制約の中で身動きがとりにくい状態でいるのです。そのことに気づいて理不尽な状況を打開しようと立ち上がる人がリーダーになれます。ここで暴力などのパワーでもってトップに立ったいじめの加害者はで独裁者のような立場です。独裁者は恐怖政治を引いて恐怖でもって人びとを縛って管理しますが、リーダーは信頼と愛情で人びとを啓発し自立を促します。
体罰を多く使う指導者は恐怖で集団を管理している傾向が大きいと考えられます。そういう指導者でより上位者にもはっきり言える人はそれでもまだ下位者から信頼も持たれる可能性はありますが、そういう人に限って、案外上位者にはペコペコの人が多いのも事実なのです。力でねじ伏せる人は力に弱いのでより上位者には弱いのです。上下に強い人はなかなかいません。権威主義者とはそういった人びとのことです。
信頼と愛情で管理する人は師弟関係や上司部下の関係にあまり私的な感情を持ち込むことはありません。したがって上位者にもはっきりものを言える人が多く、下位者にも権力を行使して無理難題を押し付けるということはありません。そしてもともとフラット思考なので全体を分け隔てなく見渡しもっとも効果的にチームとしてのポテンシャルを最大限に引き出す手法を活用し、結果にも責任を持とうとします。
星野監督の手法は弱小球団の底上げには大きな効果を発揮すると思います。当時、負け続けていた阪神を優勝にまで導いたのは星野監督の力量だと思います。負け癖がついて自分でどうしたらいいかわからないレベルはパワーで引っ張るのが手っ取り早い再生方法です。しかし一人ひとりが実力者のスター選手の集まりではそういう手法は通用しません。WBCでの大敗はその内容をはっきりと投影させたできごとであったと私は実感しています。組織の成員の成熟度合いによってリーダーシップの在り方を変えるという「リーダーシップの状況適応理論」というのがあります。したがって原監督のWBCでの優勝は納得できるものでした。名前も侍ジャパンで、原ジャパンでなかったところもすごく良かったと思います。あくまで選手の持ち味を十二分に生かしてそれを支えるというサーバントリーダー的な手法こそが成熟したチームには有効に働きます。
オリンピックを目指すような選手はもう十分成熟したプロ意識を持っている選手として扱うほうがよっぽど才能を開花させるのではないかと思います。
これからの指導者になる人は、組織論、心理学、リーダーシップ、モチベーション、……などちゃんと勉強して、過去の自己の経験則にだけ依存する管理手法からは脱却できる内容と愛情まで持ち合わせた人になってほしいところです。
2013年2月5日火曜日
組織変革は体質改善③
企業やその他の組織の中には権威、権力、権限といったものが当然要素の一つにあります。組織の上位者は当然それらの要素を利用して、組織を回すようになっています。したがって、人格的に優れた素養を持ちえない上位者は概して独裁的手法を使うようになってしまうのです。組織内でより上位の立場に立つ人は人格的な素養が備わっていない者は立たせるべきではありません。
体罰やパワハラ、モラハラといったものは必ず背後にそういった要素があり、それを傘に自分の手法を正当化し、組織を回そうとします。そしてそういった人を組織としてより上層部が簡単に辞めさせることができないのは、そういった人ほど、多くの実績をつくり会社に貢献してきたという事実があるからです。その事実を裏付けとした信頼でより上層部とつながっているために、加害者であるにもかかわらず、問題を起こした当事者をすぐ解任させることができないのです。
こういう話をすると、よく体罰は悪いが、過去の彼の業績を思ったら、一方的に悪者にしてはいけないという言い出す人がいます。もちろん、それも一理あるかもしれません。でもそれはやはりものごとの本質からずれている気がします。もしかしたら、その人でなくより人格的な手法で管理したほうがもっと大きな実績が出ていたかもしれないということも考えてみる必要があります。抑圧されたり、暴力によって瞬間風速的にモチベーションをアップさせ、実績を出したからといって、組織全体の能力の底上げにはつながりません。体罰という名の暴力に耐えた人だけが優秀な成績を残し、それに耐えられない者は落ちこぼれとレッテルを貼られる。これは理不尽な気がします。そういう手法じゃなければ、逆に能力を開花させ優秀な実績を出すことができた者がいたとしたら、組織全体の損失に他なりません。
いずれにせよ、加害者となった当事者を擁護する前に、起こした問題行動自体は糾弾されるべきであると思います。その本人の反省のもとに同情票を入れてあげるべきです。
組織のトップや上層部はどうしても末端の人びとの意見より、自分たちが立てた人の意見を尊重し、彼を擁護するのは仕方のないことです。またヒエラルキー度が鋭利な権力構造のピラミッド組織であればあるほど末端の状況は上層部には見えなくなっています。情報はすぐ下の部下からの情報しか入ってこないので、いわゆる報告バイアスの問題にひっかかっているということはほぼ予測できます。
企業、その他の組織の上層部は過去の実績と加害者となっている当事者の問題行動は切り分けて考えるべきです。実績を出したからといって問題行動を容認するという風潮は払拭しなければなりません。そういった実績のある人が問題行動を起こしたということがあれば、その問題をよく吟味し、次に生かしていくべきであると考えます。実際、営業の現場などではそういった問題を起こすくらいの人が実績をバンバン出したりします。パワーが必要なのです。会社によってはつねに営業職の求人募集をしているようなところもあります。営業実績に対する圧力がとてもキツイのでその圧力に耐えて馴染んだ人だけが残り、屈した人は辞めて行きます。良く言えば新陳代謝の活発な会社、悪く言えば定着率の悪い会社となります。でもそういう会社は管理職はまったく変わりません。だから同じ手法を使い続け、瞬間風速的な、刹那的な実績の連続で会社経営を維持しているのです。またそれを辞めたら一気にダメになるという恐れもあるのでその手法を辞めることはできません。
やはり会社の風土や管理手法の問題は引き続き問題を起こし続けます。私が経営者なら営業実績の問題は、営業部員の人間力に依存しないカタチに作り上げます。それはマーケティング理論がどうしても必要となってきますが、売れないのは君の根性が足りないからだなどという精神論は排除します。営業の問題は、売れないモノを売っている(市場のニーズに合っていない)、価格の問題、販売システムの問題、……など問題を明確にし、営業部員が生き生きと活動できるようにします。なぜなら怨みをもって辞めていった社員も会社の製品を買って使ってくれる市場の一人だからです。発展していく会社とそうでない会社は、社員の会社に対してのイメージの違いもあると思います。今はネット社会です。人を人として扱わない会社はネット上ですぐにターゲットにされて、社会におけるマイナスイメージを造成されてしまいます。
話が大きくそれてしまいましたが、とにかく問題行動を起こした加害者を組織の上層部が簡単に切れないのは過去の実績が大きいのです。それはそれで基本的には報酬というカタチで代価が支払われているはずですので、問題に対してはちゃんと人情を入れないで冷静に対処することが大切です。ただどうしても付き合いが深くなれば馴れ合い、なあなあ体質ができあがってしまいますから、やはり第三者に頼るしかないという結論ですね。
体罰やパワハラ、モラハラといったものは必ず背後にそういった要素があり、それを傘に自分の手法を正当化し、組織を回そうとします。そしてそういった人を組織としてより上層部が簡単に辞めさせることができないのは、そういった人ほど、多くの実績をつくり会社に貢献してきたという事実があるからです。その事実を裏付けとした信頼でより上層部とつながっているために、加害者であるにもかかわらず、問題を起こした当事者をすぐ解任させることができないのです。
こういう話をすると、よく体罰は悪いが、過去の彼の業績を思ったら、一方的に悪者にしてはいけないという言い出す人がいます。もちろん、それも一理あるかもしれません。でもそれはやはりものごとの本質からずれている気がします。もしかしたら、その人でなくより人格的な手法で管理したほうがもっと大きな実績が出ていたかもしれないということも考えてみる必要があります。抑圧されたり、暴力によって瞬間風速的にモチベーションをアップさせ、実績を出したからといって、組織全体の能力の底上げにはつながりません。体罰という名の暴力に耐えた人だけが優秀な成績を残し、それに耐えられない者は落ちこぼれとレッテルを貼られる。これは理不尽な気がします。そういう手法じゃなければ、逆に能力を開花させ優秀な実績を出すことができた者がいたとしたら、組織全体の損失に他なりません。
いずれにせよ、加害者となった当事者を擁護する前に、起こした問題行動自体は糾弾されるべきであると思います。その本人の反省のもとに同情票を入れてあげるべきです。
組織のトップや上層部はどうしても末端の人びとの意見より、自分たちが立てた人の意見を尊重し、彼を擁護するのは仕方のないことです。またヒエラルキー度が鋭利な権力構造のピラミッド組織であればあるほど末端の状況は上層部には見えなくなっています。情報はすぐ下の部下からの情報しか入ってこないので、いわゆる報告バイアスの問題にひっかかっているということはほぼ予測できます。
企業、その他の組織の上層部は過去の実績と加害者となっている当事者の問題行動は切り分けて考えるべきです。実績を出したからといって問題行動を容認するという風潮は払拭しなければなりません。そういった実績のある人が問題行動を起こしたということがあれば、その問題をよく吟味し、次に生かしていくべきであると考えます。実際、営業の現場などではそういった問題を起こすくらいの人が実績をバンバン出したりします。パワーが必要なのです。会社によってはつねに営業職の求人募集をしているようなところもあります。営業実績に対する圧力がとてもキツイのでその圧力に耐えて馴染んだ人だけが残り、屈した人は辞めて行きます。良く言えば新陳代謝の活発な会社、悪く言えば定着率の悪い会社となります。でもそういう会社は管理職はまったく変わりません。だから同じ手法を使い続け、瞬間風速的な、刹那的な実績の連続で会社経営を維持しているのです。またそれを辞めたら一気にダメになるという恐れもあるのでその手法を辞めることはできません。
やはり会社の風土や管理手法の問題は引き続き問題を起こし続けます。私が経営者なら営業実績の問題は、営業部員の人間力に依存しないカタチに作り上げます。それはマーケティング理論がどうしても必要となってきますが、売れないのは君の根性が足りないからだなどという精神論は排除します。営業の問題は、売れないモノを売っている(市場のニーズに合っていない)、価格の問題、販売システムの問題、……など問題を明確にし、営業部員が生き生きと活動できるようにします。なぜなら怨みをもって辞めていった社員も会社の製品を買って使ってくれる市場の一人だからです。発展していく会社とそうでない会社は、社員の会社に対してのイメージの違いもあると思います。今はネット社会です。人を人として扱わない会社はネット上ですぐにターゲットにされて、社会におけるマイナスイメージを造成されてしまいます。
話が大きくそれてしまいましたが、とにかく問題行動を起こした加害者を組織の上層部が簡単に切れないのは過去の実績が大きいのです。それはそれで基本的には報酬というカタチで代価が支払われているはずですので、問題に対してはちゃんと人情を入れないで冷静に対処することが大切です。ただどうしても付き合いが深くなれば馴れ合い、なあなあ体質ができあがってしまいますから、やはり第三者に頼るしかないという結論ですね。
組織変革は体質改善②
組織変革の体質、すなわち組織風土を変えるには組織のトップがそれに気づいて変えていかなければならないという結論をお話ししたが、組織の問題はそんなに簡単ではないのです。
一般的に病気になって自分の自然治癒力のレベルでなんとかできる場合はいいのだが、どうしようもないレベルになっていれば、やはり専門家の医師のもとに力を借りに行くしかありません。企業やその他の組織も同じでやはり組織のトップも組織の成員たちもどうすることもできない状況になってしまっているケースがあります。いくら経営トップが自分の力でどうにかしようと思ってみても、長年その組織にどっぷり浸かっていると、すでに経営トップといえど組織の制度や文化に埋め込まれてしまい、がんじがらめの状態であるということは往々にしてありえます。
組織のトップが行動すべきは、ただ一つ
「第三者機関に協力を要請する」
ことです。その力だけは残して置いてください。自分でどうにかなる、組織内で問題解決できるなどと絶対に自分の能力や組織の能力に期待したり、過信しないことです。とにかく専門家に要請することです。最近、滋賀県大津市の中学2年生が自殺したいじめ問題なども第三者委員会がちゃんと調査することによって、やっとその全容解明ができたわけではないですか。
経営者や組織のトップの才能は、自分で問題解決するということ以上に、問題が起こって、困難な状況に至ったとき、すぐに第三者の専門家の戸を叩けるという勇気や柔軟な思考です。そして組織のトップや管理職のみならず、被害者となった人びと、組織的な圧力でもって、加害者に仕立てられている人、とにかく気づいたら組織内で訴えてもどうにもならないケースをすぐ見抜いて外部のそういった機関に協力要請をすぐすることが重要です。その勇気だけは残しておいてください。もちろん組織内で与えられた地位を利用してそれを武器に暴力やいじめをして加害者になっている人に対しては当然糾弾されるべきです。ただその人だけを問題視し、スケープゴートとして切り捨てたところでさまざまな不祥事や問題は起き続けるのだということをよく認識しておくことが必要であると思います。
組織という馬鹿でかい存在にひるむことなく、勇気を出して、でも組織と喧嘩してはいけません。絶対負けます。だから問題のある組織と戦わず、その組織を動かせる、変えることができる他の機関に行きましょう。それは逃げているのではなく、知恵です。逃げるのではなく、不可能なことを回避してもっとも効率的に行動するという表現がもっとも合っていると思います。
一般的に病気になって自分の自然治癒力のレベルでなんとかできる場合はいいのだが、どうしようもないレベルになっていれば、やはり専門家の医師のもとに力を借りに行くしかありません。企業やその他の組織も同じでやはり組織のトップも組織の成員たちもどうすることもできない状況になってしまっているケースがあります。いくら経営トップが自分の力でどうにかしようと思ってみても、長年その組織にどっぷり浸かっていると、すでに経営トップといえど組織の制度や文化に埋め込まれてしまい、がんじがらめの状態であるということは往々にしてありえます。
組織のトップが行動すべきは、ただ一つ
「第三者機関に協力を要請する」
ことです。その力だけは残して置いてください。自分でどうにかなる、組織内で問題解決できるなどと絶対に自分の能力や組織の能力に期待したり、過信しないことです。とにかく専門家に要請することです。最近、滋賀県大津市の中学2年生が自殺したいじめ問題なども第三者委員会がちゃんと調査することによって、やっとその全容解明ができたわけではないですか。
経営者や組織のトップの才能は、自分で問題解決するということ以上に、問題が起こって、困難な状況に至ったとき、すぐに第三者の専門家の戸を叩けるという勇気や柔軟な思考です。そして組織のトップや管理職のみならず、被害者となった人びと、組織的な圧力でもって、加害者に仕立てられている人、とにかく気づいたら組織内で訴えてもどうにもならないケースをすぐ見抜いて外部のそういった機関に協力要請をすぐすることが重要です。その勇気だけは残しておいてください。もちろん組織内で与えられた地位を利用してそれを武器に暴力やいじめをして加害者になっている人に対しては当然糾弾されるべきです。ただその人だけを問題視し、スケープゴートとして切り捨てたところでさまざまな不祥事や問題は起き続けるのだということをよく認識しておくことが必要であると思います。
組織という馬鹿でかい存在にひるむことなく、勇気を出して、でも組織と喧嘩してはいけません。絶対負けます。だから問題のある組織と戦わず、その組織を動かせる、変えることができる他の機関に行きましょう。それは逃げているのではなく、知恵です。逃げるのではなく、不可能なことを回避してもっとも効率的に行動するという表現がもっとも合っていると思います。
組織変革は体質改善①
女子柔道の選手15人が体罰、パワハラを告発した問題で、彼女たちが望んでいたことは、監督の辞任だけではなく、根本的な組織改革でした。
スポーツ界からこのような主張が起こったことはとても画期的なことであると私は感じています。いままで、スポーツの世界では言われたことをただひたすらにやり続け、記録の更新に全力を傾けていくとところに全身全霊を集中させていくという世界であると思っていましたが、そういう組織風土の中で体罰(であると気づくこともすごい画期的な発想である)をきっかけにホントにこの手法で自分たちがより高みを目指すことができるのかという疑問を持ったということに驚くかぎりです。
企業等ではもうずいぶん前からセクハラ、パワハラ、モラハラと理不尽なことがらが取り沙汰され、問題視されるようになっていますが、教育界やスポーツ界ではまだまだ上位者の絶対権力というものが容認されてきたことや、そういった指導方法がより結果を出してきたという事実、実績が裏付けされることでそういった問題はつねに隠蔽される傾向にありました。今回の事件はそういった分野においても問題が明るみに出るきっかけになっていますし、このまま終息することなく、さらに問題が起こる原因、要因まで議論がなされていくことを期待せざるを得ません。
長年、健康産業に携わってきた経験上、組織の問題は人間の体の問題に似ているなといつも感じています。人間の体も組織であると言えますし、やはり脳から指示命令がなされて各器官がちゃんと動かなければそれは病気の状況です。病気の前の状況を未病と言いますが、まだ病気としては認知されない状況です。ただ病気になる兆候は表れてきているのです。でよくお話ししてきたのは、体質改善という話です。要するに病気になるにはその病気になりやすい体質であるということ。そしてそういう体質を作り上げているのはその人の考え方の部分なので、ホントの健康維持というのは考え方の部分まで掘り下げていかなければ実現できないものであると私は考えてきました。
ただ企業やさまざまな組織と人間の体の決定的な違いは、学校や企業、その他の人間が寄り集まって形成される組織には自然治癒力が備わっていない、あるいは極めてその能力が欠如しているということです。人間の体は悪いとことがあるとすぐに症状として目に見えるカタチで出てきますが(もちろんわかりにくいものもあります)、人間が形成した組織はすぐ問題を隠そうとしてしまう性質があります。膿を出さなければならないのに出すどころか出ないように隠してしまうのです。
基本的に人間には自然治癒力が備わっていますし、具体的に症状や病気を通じ、本人にそうなる原因を訴え、その部分を改善することをあいまいにすることなく要求してきます。人間はだいたい病気になったりするとその原因は本人がわかっているケースが多いのです。病院に行って医師は問診によって本人からその原因を引き出そうとします。ただ医師ほどの知識がないので、いわゆる症状や病気の原因を解明できるフレームを持ち合わせてないのでそこで気づくケースも多いのです。
あらゆる組織の問題も当事者はなんとなくわかっているケースもあります。でもわかってもその問題解決をしていく力は個人にはなかったりします。やはり組織は第三者機関を通じなければ何の処方箋も与えられないばかりか病状は悪化して、最終的には企業は不祥事や問題を繰り返し、やがて倒産に追い込まれるといったこともあります。
人間は健康を回復したり、病気にならないようにするには病気にならないように体質改善を行うということがとても重要です。その病気にならないような体質にするということです。一時的に治っても体質が変わらなければまた同じ病気になってしまいます。その体質を作りあげているのはその人の生活習慣で、さらにベースとなっているのはその人自身の価値観、考え方です。すなわち企業その他の組織もさまざまな問題の原因は組織の構造の問題があります。そしてそれを支えているのが組織風土の問題です。組織風土は組織の成員が作り出している側面は大いにありますが、基本的には経営トップの考え方がその主軸となっています。
さまざまな問題←組織の構造上の問題←組織風土の問題←組織トップの価値観や思想
とにかく組織のトップがどこに問題があるか、そのことを明確に分析、理解できなければその組織は致命的です。
スポーツ界からこのような主張が起こったことはとても画期的なことであると私は感じています。いままで、スポーツの世界では言われたことをただひたすらにやり続け、記録の更新に全力を傾けていくとところに全身全霊を集中させていくという世界であると思っていましたが、そういう組織風土の中で体罰(であると気づくこともすごい画期的な発想である)をきっかけにホントにこの手法で自分たちがより高みを目指すことができるのかという疑問を持ったということに驚くかぎりです。
企業等ではもうずいぶん前からセクハラ、パワハラ、モラハラと理不尽なことがらが取り沙汰され、問題視されるようになっていますが、教育界やスポーツ界ではまだまだ上位者の絶対権力というものが容認されてきたことや、そういった指導方法がより結果を出してきたという事実、実績が裏付けされることでそういった問題はつねに隠蔽される傾向にありました。今回の事件はそういった分野においても問題が明るみに出るきっかけになっていますし、このまま終息することなく、さらに問題が起こる原因、要因まで議論がなされていくことを期待せざるを得ません。
長年、健康産業に携わってきた経験上、組織の問題は人間の体の問題に似ているなといつも感じています。人間の体も組織であると言えますし、やはり脳から指示命令がなされて各器官がちゃんと動かなければそれは病気の状況です。病気の前の状況を未病と言いますが、まだ病気としては認知されない状況です。ただ病気になる兆候は表れてきているのです。でよくお話ししてきたのは、体質改善という話です。要するに病気になるにはその病気になりやすい体質であるということ。そしてそういう体質を作り上げているのはその人の考え方の部分なので、ホントの健康維持というのは考え方の部分まで掘り下げていかなければ実現できないものであると私は考えてきました。
ただ企業やさまざまな組織と人間の体の決定的な違いは、学校や企業、その他の人間が寄り集まって形成される組織には自然治癒力が備わっていない、あるいは極めてその能力が欠如しているということです。人間の体は悪いとことがあるとすぐに症状として目に見えるカタチで出てきますが(もちろんわかりにくいものもあります)、人間が形成した組織はすぐ問題を隠そうとしてしまう性質があります。膿を出さなければならないのに出すどころか出ないように隠してしまうのです。
基本的に人間には自然治癒力が備わっていますし、具体的に症状や病気を通じ、本人にそうなる原因を訴え、その部分を改善することをあいまいにすることなく要求してきます。人間はだいたい病気になったりするとその原因は本人がわかっているケースが多いのです。病院に行って医師は問診によって本人からその原因を引き出そうとします。ただ医師ほどの知識がないので、いわゆる症状や病気の原因を解明できるフレームを持ち合わせてないのでそこで気づくケースも多いのです。
あらゆる組織の問題も当事者はなんとなくわかっているケースもあります。でもわかってもその問題解決をしていく力は個人にはなかったりします。やはり組織は第三者機関を通じなければ何の処方箋も与えられないばかりか病状は悪化して、最終的には企業は不祥事や問題を繰り返し、やがて倒産に追い込まれるといったこともあります。
人間は健康を回復したり、病気にならないようにするには病気にならないように体質改善を行うということがとても重要です。その病気にならないような体質にするということです。一時的に治っても体質が変わらなければまた同じ病気になってしまいます。その体質を作りあげているのはその人の生活習慣で、さらにベースとなっているのはその人自身の価値観、考え方です。すなわち企業その他の組織もさまざまな問題の原因は組織の構造の問題があります。そしてそれを支えているのが組織風土の問題です。組織風土は組織の成員が作り出している側面は大いにありますが、基本的には経営トップの考え方がその主軸となっています。
さまざまな問題←組織の構造上の問題←組織風土の問題←組織トップの価値観や思想
とにかく組織のトップがどこに問題があるか、そのことを明確に分析、理解できなければその組織は致命的です。
2013年2月1日金曜日
組織は守ってくれない②
真実の告発者は加害者によってというよりも、組織論理の暗黙の圧力によってつぶされてしまいます。組織はつねにより上位者を擁護する傾向にあります。もともと日本では礼を重んじつねに上位者への忠誠を誓わされてきました。したがって欧米のキリスト教文化のように神の前にみんな平等だとかそういうフラットな思考はあまりなく、国の統治者やそれを代弁する教育者に圧倒的な権威、権力があって、それに意見する者や反対する者はすぐレッテルを貼られて組織的な圧力を受けてきた歴史があります。またそうでないと国家という組織形態の維持ができなかったという側面もあろうかと思います。
でも現代はすでに民主主義が根付き、倫理観やモラルが組織内でも重要視され、理不尽なことは声をあげることのできる環境が整いつつあります。それでもまだまだ正義が主張できない本音と建前論がまかり通っているという実情もあります。
ではそういう組織風土や環境の中で正しいことを言ってもつぶされないようにするにはどうしたらいいのでしょうか。正しいことを言っても組織は守ってくれません。またその正しいことを聞いてそれに追従することと、沈黙を守っておとなしく過ごすのと天秤にかけたらやはり後者を選んでしまう社員が圧倒的に多いのではないでしょうか。日本では和の文化を重んじ、とにかくぶつからないことを美化します。金持ちケンカせず、君子危うきに近寄らず、長いものには巻かれろ、……とにかく組織論理に適応して素直に生きることが日本人のDNAの中にすり込まれているように思います。
私は何度か声をあげてその組織的な圧力のすごさを実感したことがあります。それで学習したと言えばすごく賢いようですが、とにかく場数を踏んでたくさんの失敗もしました。
正しいことを言っても組織は守ってくれません。
正しいことを言う、正しい行動をする(正しいと言い切る危険性はもちろんありますが、とりあえずここではそういう観点でお話しします)にはただがむしゃらにぶつかって行っても意味がありません。最初から勝てない勝負はする必要がないのです。逃げるが勝ちとは孫子の兵法から来てるのですが、逃げることも必要です。でもその会社や組織を愛して、何とかしたいのであれば、それを変えなければなりません。その際、より上位者は権威も権力も権限も行使しているという事実をよく認識する必要があります。したがってそれらに匹敵する武器を持ち得なければ、絶対に勝てることはないのです。それが数の論理です。それらが屈するだけの人的な基盤無くして何も変えることはできないのです。世界の独裁政権が倒されるプロセスを見ていくとやはり情報とそれに基づく人的基盤が独裁政権をひっくり返すのです。自分がいじめられているだけでは誰も親身になってくれず、沈黙の大衆でいるだけです。当事者でないので自覚がないのです。みんなが不公平感や被害者であるという認識になってこそ結束できるのです。
労組はある面、経営者側の権力に対応する意味では社員全体の当然の権利でした。今はそれが機能しているかどうかはわかりませんが、それは民主主義を達成する上でも必要なことであったと思います。
組織はかならずと言っていいほど、間違った方向に行きます。またそのトップも絶対的に正しい采配なんてとれるはずもありません。組織内での調整はできても改善は困難です。やはり第三者の視点を取り入れるしかよくなることはありません。教育者や経営者側はその視点をつねに持っていることが重要ですし、教育を受ける立場の人や社員は間違っていることを見たり知ったりしたときに簡単に対処してはつぶされるということはよく認識したうえで行動するべきであると思います。やはり権力や権威には同等のパワーを持ち得なければどうしても難しいのです。組織の上位者には愛情ややさしさといった人格的要素が不可欠ですし、下位者はつねに冷静にものごとを見極め勇気をもって、そして知恵深く行動することが重要です。
でも現代はすでに民主主義が根付き、倫理観やモラルが組織内でも重要視され、理不尽なことは声をあげることのできる環境が整いつつあります。それでもまだまだ正義が主張できない本音と建前論がまかり通っているという実情もあります。
ではそういう組織風土や環境の中で正しいことを言ってもつぶされないようにするにはどうしたらいいのでしょうか。正しいことを言っても組織は守ってくれません。またその正しいことを聞いてそれに追従することと、沈黙を守っておとなしく過ごすのと天秤にかけたらやはり後者を選んでしまう社員が圧倒的に多いのではないでしょうか。日本では和の文化を重んじ、とにかくぶつからないことを美化します。金持ちケンカせず、君子危うきに近寄らず、長いものには巻かれろ、……とにかく組織論理に適応して素直に生きることが日本人のDNAの中にすり込まれているように思います。
私は何度か声をあげてその組織的な圧力のすごさを実感したことがあります。それで学習したと言えばすごく賢いようですが、とにかく場数を踏んでたくさんの失敗もしました。
正しいことを言っても組織は守ってくれません。
正しいことを言う、正しい行動をする(正しいと言い切る危険性はもちろんありますが、とりあえずここではそういう観点でお話しします)にはただがむしゃらにぶつかって行っても意味がありません。最初から勝てない勝負はする必要がないのです。逃げるが勝ちとは孫子の兵法から来てるのですが、逃げることも必要です。でもその会社や組織を愛して、何とかしたいのであれば、それを変えなければなりません。その際、より上位者は権威も権力も権限も行使しているという事実をよく認識する必要があります。したがってそれらに匹敵する武器を持ち得なければ、絶対に勝てることはないのです。それが数の論理です。それらが屈するだけの人的な基盤無くして何も変えることはできないのです。世界の独裁政権が倒されるプロセスを見ていくとやはり情報とそれに基づく人的基盤が独裁政権をひっくり返すのです。自分がいじめられているだけでは誰も親身になってくれず、沈黙の大衆でいるだけです。当事者でないので自覚がないのです。みんなが不公平感や被害者であるという認識になってこそ結束できるのです。
労組はある面、経営者側の権力に対応する意味では社員全体の当然の権利でした。今はそれが機能しているかどうかはわかりませんが、それは民主主義を達成する上でも必要なことであったと思います。
組織はかならずと言っていいほど、間違った方向に行きます。またそのトップも絶対的に正しい采配なんてとれるはずもありません。組織内での調整はできても改善は困難です。やはり第三者の視点を取り入れるしかよくなることはありません。教育者や経営者側はその視点をつねに持っていることが重要ですし、教育を受ける立場の人や社員は間違っていることを見たり知ったりしたときに簡単に対処してはつぶされるということはよく認識したうえで行動するべきであると思います。やはり権力や権威には同等のパワーを持ち得なければどうしても難しいのです。組織の上位者には愛情ややさしさといった人格的要素が不可欠ですし、下位者はつねに冷静にものごとを見極め勇気をもって、そして知恵深く行動することが重要です。
組織は守ってくれない①
引き続き女子柔道の監督の暴力告発、高校の体罰問題等がマスコミで取りあげられています。賛否両論あることは当然理解できるし、両者の主張にはそれぞれ言い分がある。ただ体験者や当事者の感じた内容を無視して、周囲の単なる思い込みや推測だけで主張することに左右されることは避けたいと思うのです。私は少なくともそういった体罰やいじめに関連する体験に基づきある程度お話ししているわけです。
今回、女子柔道の選手の家族によると、娘は詳しくは話してくれなったという内容が記事に載っていました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130131-00000078-mai-spo
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130131-00000122-san-soci
彼女たちの言動には私もとても共感するものがあります。すなわち彼女たちはあくまで選手として活動していきたいというのが基本的にあるからです。日本の企業その他の組織ではより上位者
の論理が正しく、下位者の意見や考え方は排除されるきらいがあります。したがって素直な気持ちを主張するとそれは組織的にも、告発者の気持ちの上でも不平不満であるような意識に傾き、告発者の気持ち自体も抑圧されるのです。したがって私も中学時代、運動部でおこった体罰に対して親に絶対学校には言わないでと言ったのはそこに理由があります。好きなそのスポーツを続けたいからであり、告発することでそれができなくなるといった予想がつくからです。案の定、私の場合は断念せざるえない状況に追いやられました。でも今回の女子柔道の選手は選手生命を絶対的に守って保護してあげなければなりません。親はなんで話してくれないのだろうと寂しく思ったかもしれませんが、当事者の気持ちはそこまで考えているのです。
自己主張した時に、その主張が組織論理と違う方向であるならば、どんなに正しい主張であってもつぶされる可能性が高いのです。桜宮高校の体罰自殺問題で教師のほうを擁護するコメントがネット上に多く見受けられるのは、私は残念でなりません。もちろん両者の言い分が出ることはより民主主義的で公平でいいのですが、その先生が素晴らしかったとか更生された生徒が多いとかそのこと自体が問題ではないのです。いちばんの問題は体罰自体を社会が受け入れるのかどうかという問題があります。そして教師が体罰ではないと認識していたとしても受けた側がどう受け止めるかという問題です。
教育というのが危険性を含んでいるとしたら教育者が絶対的に善で正しく、教育を受ける人はそれを正しく受ける、そう受け止めることができないのは未熟であるとして、彼らの意見を切ってきた問題があります。最近はモンスターペアレントなる言葉をよく耳にしますが、もちろんそういう親が多いことも事実です。ただそういうふうになってしまう教育の在り方やシステムの問題も考える必要があるのではないでしょうか。
日本では企業風土もよりフラット化してパワハラ、モラハラなどさまざまな問題が起きないように取り組んでいます。最後の牙城は教育界なのかもしれません。その中でも特に上下関係の強い体育会系はさまざまな問題が露見すると予測されます。教育と称して頭ごなしに教育者が絶対的であるという考え方はもう老朽化した考え方に他なりません。そして教育を施す側がどう考えるかでなく、教育を受ける側がどう受け止めているかということを主軸において考えるという考え方の大きなパラダイムシフトがなされなければならない時を迎えていると思います。
今回、女子柔道の選手の家族によると、娘は詳しくは話してくれなったという内容が記事に載っていました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130131-00000078-mai-spo
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130131-00000122-san-soci
彼女たちの言動には私もとても共感するものがあります。すなわち彼女たちはあくまで選手として活動していきたいというのが基本的にあるからです。日本の企業その他の組織ではより上位者
の論理が正しく、下位者の意見や考え方は排除されるきらいがあります。したがって素直な気持ちを主張するとそれは組織的にも、告発者の気持ちの上でも不平不満であるような意識に傾き、告発者の気持ち自体も抑圧されるのです。したがって私も中学時代、運動部でおこった体罰に対して親に絶対学校には言わないでと言ったのはそこに理由があります。好きなそのスポーツを続けたいからであり、告発することでそれができなくなるといった予想がつくからです。案の定、私の場合は断念せざるえない状況に追いやられました。でも今回の女子柔道の選手は選手生命を絶対的に守って保護してあげなければなりません。親はなんで話してくれないのだろうと寂しく思ったかもしれませんが、当事者の気持ちはそこまで考えているのです。
自己主張した時に、その主張が組織論理と違う方向であるならば、どんなに正しい主張であってもつぶされる可能性が高いのです。桜宮高校の体罰自殺問題で教師のほうを擁護するコメントがネット上に多く見受けられるのは、私は残念でなりません。もちろん両者の言い分が出ることはより民主主義的で公平でいいのですが、その先生が素晴らしかったとか更生された生徒が多いとかそのこと自体が問題ではないのです。いちばんの問題は体罰自体を社会が受け入れるのかどうかという問題があります。そして教師が体罰ではないと認識していたとしても受けた側がどう受け止めるかという問題です。
教育というのが危険性を含んでいるとしたら教育者が絶対的に善で正しく、教育を受ける人はそれを正しく受ける、そう受け止めることができないのは未熟であるとして、彼らの意見を切ってきた問題があります。最近はモンスターペアレントなる言葉をよく耳にしますが、もちろんそういう親が多いことも事実です。ただそういうふうになってしまう教育の在り方やシステムの問題も考える必要があるのではないでしょうか。
日本では企業風土もよりフラット化してパワハラ、モラハラなどさまざまな問題が起きないように取り組んでいます。最後の牙城は教育界なのかもしれません。その中でも特に上下関係の強い体育会系はさまざまな問題が露見すると予測されます。教育と称して頭ごなしに教育者が絶対的であるという考え方はもう老朽化した考え方に他なりません。そして教育を施す側がどう考えるかでなく、教育を受ける側がどう受け止めているかということを主軸において考えるという考え方の大きなパラダイムシフトがなされなければならない時を迎えていると思います。
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