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2013年5月30日木曜日

成長する人は内省できる人、内省できる人はつねに学習する人②

世の中に完成というものは存在しません。ひとつのプロジェクトやひとつの目標は達成されてもそれはさらに次の段階に移行するためのステップに過ぎないのです。言葉を変えれば、完成は一旦停止であり、小休止であるとも言えます。完成するということをネタにつねに人を動かすということは宗教でも企業でもありますが、PSI的観点から言うと完成は不可能であるということです。ここであえて完成ということを何とか認めろというのであれば、このように言い換えてもいいかもしれません。完成の領域(完成とは言い切れないので)に至るということは世の中のすべてにおいて完成という概念は存在しないということを実感的に認識できたということであると言ってもいいかもしれません。

某カルト教団では完成することを目標に毎日「完成することを誓います」と念仏のように唱えさせられています。このことは何を表しているのでしょうか。それは生きているうちに完成できないということを表しているのです。とてもパラドクシカルな感じですが、実際そうなのです。毎日それを唱えることによって自分は完成していないというすり込みがなされていきます。また死を迎える前日まで「完成することを誓う」のですからいまだ完成していないということを認めてこの世を去るということです。したがって通常の宗教とカルト教団の違いはそこにあります。

完成や成功を標榜する、すなわちそれを餌にしている組織はとてもカルトチックです。なぜなら非現実的要素を取り入れているからであり、完成、成功という目標に向けてそれ以外の思考が入らないように完全にファンタジーの世界をつくりあげているからです。これは組織のトップや上層部には都合がいいのです。彼らの実現したい目標だけにすべてを投入してくれるからです。組織の成員がそういう思考行動にだけ走るように組織の上層部は教育します。彼らにとっては教育ですが、外部の人びとからみると洗脳以外のなにものでもありません。彼らのもつパラダイムは完成を標榜しながら完成させないパラダイムです。なぜなら完成されると都合が悪いのです。その組織にいる必要がなくなるからです。私、完成しました、もうこの組織は私に必要ありませんと言われると困るのです。

基本的に普通の宗教は完成できるとは言いません。むしろ罪人であったり業が深いということを認識し、だからこそ善を行おうと努力するというレベルに人はおかれています。もちろんその指導者も同じ罪人であり、業があるのです。でもカルト教団には罪人ではない完成した人間がいたりします。だいたい教祖がそういう立場に祭り上げられます。それをまた目標とさせられるのですが、絶対に同じ立場に立つことは不可能です。むしろ罪や業が深いとされ、そのために多額のお金や労働、また反社会的な活動を強要されたり、それをあおられます。カルト教団は完成というあまりに非現実的で甘いアメを用意してそれをちらつかせながら、実際にはあまりに法外で実際には無理な要求を平気でしてきます。それでも追い込まれてやってしまうほどの思想のすり込みがあるのです。

カルト教団だけではありません。カルトチックな企業や組織もエゴイスティックな権力者の目標達成のために大いに利用されるのです。それを脱却する、あるいは改善していくためには組織の成員が内省し、具体的に行動する人が増えていかなくてはなりません。そして内省し成長する人は必ず学習意欲があり、外部や新しい情報に耳を傾ける器のある人です。硬直した企業や組織が生まれ変われるかどうかはそこに所属している人びとを観察すればよくわかります。仕事自体は決まりきったルーティンを卒なくこなすいわば職人が必要ですが、その仕事自体を見直したり考えることができるメタ認知能力のある人材が必要なのです。

企業もさまざまな組織も職人肌の人は当然必要ですが、そういう人ばかりだと、時代の流れや社会の情勢を読むことができず、いつの間にか限界を迎えてしまうということになります。あらゆる組織は変容の必要性に直面しているのです。昨今の話ですとレスリングがオリンピック競技から外されるのではといった問題があります。やはり組織は組織内だけで仕事ができる人は組織を守れないのです。組織をつねに外部視点で見たりものごとの本質を見極め変えていく力が必要なのです。そういった人は内省ができ、つねに学習している人にほかなりません。

人間はある程度、不自由なく安定した上がりの状態になると学習の必要性は感じませんし、成長はなくなります。それはピーターの法則でもわかるように、人はやはり無能レベルまで成長するのです。そういったことを回避するには、自分はまだまだだといつも成長シロを残した状態に置いておくのがもっとも最善な方法です。組織のトップになってそれで満足している人は成長シロを失って土ツボにはまってしまっています。自信を持つことは重要ですが、傲慢になった人にはもう成長する余地は残されていません。いつも自分を内省し成長しようという意識自体が、学習意欲を高め、学習することでさらに知恵や情報を得てさらに内省する機会を与えてくれます。学習→内省→成長→意欲→学習→内省→……というサイクルにつねに自分がおかれているならば、成長がありますし、知的老いとは関係のない人生が送れそうです。

成長する人は内省できる人、内省できる人はつねに学習する人①

発展し成長し続ける企業はつねに変化に対応できる組織です。ダーウィンが強いものが残るのでない、変化できるものが残るのであるといったことはまさに人や企業にもあてはまると思います。

世界は間違いなく、最善を求めてその方向に動いているとは考えられるのですが、実際、その反面全く改善されず、いまだに最悪の事態を回避できない状態も続いています。たとえば、これだけ文明社会になって、多くの国々がどんどん先進国入りして豊かさを手にしようとしている一方で貧困はなかなか解消されず、いまだに世界のあちらこちらで紛争や戦争が続いています。

より先進国に成長していくということはよりモラルが高くなるということであり、自国だけのエゴイスティックな思考から脱却し、世界規模、地球規模でものごとを考えられるようになることであると思います。でも先進国であってもやはり戦争を回避することができないという実情があります。それは正義という名目もあるでしょうが、軍需産業等、戦争によって恩恵を受ける企業や組織が存在していることもあります。アメリカでオバマ大統領がなかなか銃規制を実現できないのも、ことの本質を解消できないからという問題があります。

銃規制に反対する人びとは、自分の生活は自分で守るという主張をします。これは決して間違いではないのですが、暴力に対して暴力で報復すると終わりなき戦いとなるのです。人間の情の中で怨みの情だけが‘時間薬’が利かないのです。時間とともに大きく膨らむのが怨みの情なのです。それは日本を取り巻く環境を見てもすぐに理解できます。実は歴史的に体験した世代以上に戦後の教育を受けた世代のほうが怨みが強かったりします。自分たちが直接体験してないのにです。理不尽な話を聞いて当事者以上に熱くなってしまうということもよくありがちなケースです。

自分を守るために武器を持つということは相手の暴力に対して暴力で対応することなので、結果的に互いの怨みが深まるだけです。ただ現実問題として、目の前に起こる犯罪に対してそのままにしておくことは社会不安を助長されるだけなのでとうぜん警察といった公的機関が必要なのです。すなわち、当事者でない第三者が介入することで怨みをさらに拡大させることを防ぐこともできます。ホントに銃が必要だと思っている人はどれだけいるでしょうか。実は銃規制に反対する人びとは、本音の部分では、自分たちが銃を生産することで仕事ができ、生活ができているという現実があるということです。そして銃の市場のニーズをうったえることで自分たちの仕事が確保されるのです。

まだまだ無法な人びとや、無法な国家の存在があるため、銃や兵器等の武器の需要はなくなることはありませんが、遠い未来に健全な世界を築くならそういった必要悪はいずれ地球上から無くしていくことが必要です。あとは展示する博物館に残すぐらいです。ひとりの人間が変わることさえ困難であるのに、組織が変わるということは大変な忍耐とパワーが必要になってきます。考え方の転換から企業であるなら業態の転換も含めてパラダイムシフトが必要なのです。

日本ではJTが日本たばこ産業という不健康な商材を売ってきて、ドリンクや食品に商材を拡げて既存の業界に参入しながらも、財力と認知度を武器に必死に頑張っています。社会の流れは健康志向になってきており、いずれ淘汰される市場に固執し続けて消滅する企業になってはいけないという切実な心情を感じます。それは単に利潤追求という単純な理由ではなく、その会社に従事している社員たちの生活があるということも実感します。

銃の会社も警察という公的機関だけへの供給に制限し、その一般市場を無くした部分の収益の補てんをより近接領域、あるいはまったく別の事業創造が必要であるのです。JTはたばこから食品への事業転換、シフトを必死に行っているのです。その部分を企業だけでなくオバマ大統領はじめシンクタンクが取り組み、国家全体のプロジェクトとしてその企業に従事している人びとの生活を守るアイディアを出さなければならないのです。相変わらず、本音の部分に踏み込むことができない状況になっています。選挙の件もあるし、とにかく変革というのはさまざまな制度に埋め込まれていてなかなか前に進まないという実情があります。

軍需産業がなくなるというのは私たちが生きている間に実現されることはありませんし、地球が滅ぶまでに実現できるかどうかもわかりません。その実現は宗教問題の解決やモラルが高められ利他的な思想が世界中にあふれるようにならなければ無理だと思います。権力を持つとどうしても自己中心的な思考に陥り、独裁的になっていく、また独裁者に仕立てていく組織の成員の問題なども研究されつくさなければならないし、またそれが現実に実行されるまでいかなければならないと考えます。

話がとても大きなところから始まりましたが、実際、歴史の教訓を生かすには内省が必要なのですが、その内省ができるかどうかは新しい情報をつねに取り入れる柔軟性や学習といったことが不可欠なのです。組織は個人の集まりです。個人が考えに考え抜いてより最善な方法を選択していくときに組織は成長し、発展するのです。そのためには学習し、内省し、さらに成長発展しようとする個人の声を全体に反映させることができるように制度に埋没しない取り組みや組織のあり方を考えておかなければなりません。

2013年5月28日火曜日

ものごとの本質と向き合う力②

会社での会議はいつの間にかものごとの本質からズレて結局建前論が先行してしまうことがよくあります。起業間もないベンチャー企業などはまだしも、もう何年も安定して経営を行ってきた企業ほどそういう状況になっているのではないかと思います。なぜなら現状を変えたり、イノベーションを起こす必然性をあまり感じないからです。そういった会社の社員は会議はいつものルーティンの一部に他ならず、そこで新しいものを生み出そうとか、何か変えていかなくてはならないといった雰囲気、意識はなく、そういった気概も感じられません。

もちろん上層部も社員たちもそれを善しとして、全くそういった状況を問題視することなく、ただ徒に時間を消化することだけを考えているという状況になっていたりします。そういう中でたまに血の気の多い社員や中途採用のまだ組織の色に染まっていない社員なんかがいたりすると、組織的な問題や業務や商品開発などさまざまなことがらに本音をぶつけ、一石を投じるなんてこともあるのですが、そういった行動には会議参加者の大半は火消しに回るということになります。

実は彼らが思っていることはみんな思っていたことで、すでにそれができないほど組織の制度にがんじがらめに埋め込まれた状態にあるので、そういった提案や意見はできないこと、無駄なことというカテゴリーにふるい分けられ、議題にあがることはないのです。まさに非効率的で理不尽であったりすることが公然と組織の成員の暗黙の了解の下にまかり通っているという状況があったりするのです。

すでに組織の上層部のみならず成員全体が、本音のところではその部分の改革が必要だと思いながらもそれはできないことといういわば‘思い込みサイクル’に陥っているのです。実際は力を合わせてやればできることであったりするのですが、できないという思い込みです。個人においては自分自身が思い込みサイクルにはまっていると思えば、自己啓発セミナーに出たり、本やさまざまなメディアから情報を得たりして、自ら努力することでそこから脱却できるかもしれません。でも組織となれば簡単ではありません。

組織の中でたった一人で改革をやろうと思ってもたいへん困難です。経営トップでさえ困難であったりします。組織の一社員であれば、間違いなくもっと難しいでしょう。それでも何とかしようと思えば、まず経営トップや執行部を動かすだけのパワーを持たなければならなくなります。地位がなければ、まず意識や行動をともにする人的基盤を築いて上層部に訴えるという作業が必要になってきます。ところがその作業のプロセスの段階でその流れはつぶされてしまうという可能性も大きいのです。下手をすると組織の方向性とは違うとレッテルを貼られ、その組織の中にあって組織のために行動しているにも関わらず重要なポストから排除されてしまう危険性だってあります。そして信頼していた人びとさえ組織の論理を代弁しているとされる上層部のや会社側の論理に引き込まれ、脱落していくという人が出てきます。

こういったことは一つの大きな組織の秩序や統制を維持するためには仕方のない一面もありますが、結果的に個を重要視しないことがもたらす全体の滅びでもあるのです。部分的最適化が全体を滅ぼす逆パターンです。経営トップや組織の上層部はそういったキラリと光る原石を見極め、一旦耳を貸すという勇気も必要です。もちろん振り回されて会社を破たんさせるような方向に行くことは避けなければなりませんから、当然慎重になる気持ちはよく理解できます。でもつねにそういった組織内の核心部分をついた本音の声を封じ込めることばかりやっていると何も変わらないし、企業の成長はストップした状況が続くのです。

個人も組織もものごとの本質に向き合う力がとても弱いのです。これは日本的な経営の弊害部分でもあると思います。戦後の経済の高度成長の時代にはヒエラルキー組織で統率してがんがん生産効率を高めていくことが企業の収益につながっていたのですが、モノがあふれていて知的労働のほうが重要とされる現代では旧態依然たる組織風土や思考にとらわれていては全く成長できないのだと思います。そういったことに気づいて企業のトップや上層部が行動を起こしてもやはり過去の既成概念が邪魔をしてやはり思い切った改革、転換ということはなかなか困難です。

世界的に成長しつづける企業の多くはそういった既成概念を崩して通常の理解を越えた取り組みをしています。世界的企業のグーグルなどは社員が散歩しながら会議をしたり、いいアイディアを捻出できるようにさまざまな工夫をしています。そして社員の健康まで自己管理できるようにトレーニングジムや24時間無料の社員食堂もあったりします。毎日決まった時間に出社して決まった時間でなく遅くまでサービス残業を課すような会社ではまったく理解不能な取り組みです。

労働価値説的な思考から脱却できないレベルはもう言うに及びませんが、今までの日本の会社という枠組みを崩すくらいの発想ができなければものごとの本質に向き合って会社を大きく変えていくなどという行動はできないのです。名を捨てて実をとるということこそ今の日本的経営を行ってきて行き詰っている企業には必要なのです。社員の行動をがんじがらめに縛る会社ほど非効率的で逆に自由な思考や行動を受け入れ、ものごとの本質が見えてくるような組織風土を築いたほうがよっぽど効率的であると考えます。そして減点主義でなく評価主義に切り替えつつ仕事に誇りをもって取り組める風土にすることが企業や組織のトップや上層部がもっとも考えていかなければならないことだと思います。

2013年5月24日金曜日

ものごとの本質と向き合う力①

人間は基本的に尊厳を大切にします。それは意識的にも無意識的にも、そして感情的にも行動的にも自己の尊厳を毀損されることがらに対してをれを回避する方向に動きます。それは明らかに人が人として存在することになにごとにも替えられない尊厳を有しているからだと思います。

したがって人間は傷つけられるような言動や理不尽な対応をされたときなどには、それを回避したり、断固として拒絶したりする意識がはたらき、自分を擁護したり正当化するような言動をとるわけです。会社の中にも学校の中、家庭の中でさえ、人間があつまり社会を形成するところでは必ずそういったやりとりがあるわけです。みなさんが会社などに勤めたり、所属しているコミュニティで活動されているなかで、そういった場面によく出くわすことがあると思います。

私の経験からちょっとお話ししますが、以前世話になった上司はとてもいい人で、上役の中にとても理不尽なことを言う人がいてその人への対応にいつも苦慮していました。実際、仕事とは関係のないあくまで個人的な感情を中心の言動をする人で、思いつきでなんでも指示命令をしてしまうような人でした。その上役に怒鳴られたり、目茶苦茶いじめられたり、それも怒鳴るにしても会議の場で見せしめのように怒鳴るのです。自分の上司がそこまで理不尽な対応をされることに気持ちのいい部下はいないと思います。でもだれもそれに対してどうこう言うことができないのです。すでにその人にもの申す人はいなくて、裸の王様状態になっていました。したがって無言の同調圧力の中で上司はペコペコしているだけという状況でした。そういった会議には基本的に私は参加しませんが、たまたま参加した会議の中でそういう状況であったことを知りました。

上司が怒鳴られたり、いじめられているのが常態化していて、一時期はうつ気味のときもありました。ところが上司のことを思って、その上役をいろいろやってつぶしますか(少々過激表現が多いですが…)と提案しても、上司はまったくそれにはのってこないのです。それは一つはあまりに抑圧されいじめられてきた内容が大きいのですでに学習性無力感の状態に至っているというのがひとつはあると思いました。そういうポジションだからというのです。したがって自分に非があるわけでもなく、上役のキャラに問題があるのは当然ですが、あくまでそういう地位にあるからだという訳のわからない説明をするのです。

みなさんは経験ありませんか。
「あんなに言われてなんで黙っているんですか?」
「明らかに変じゃないですか、はっきり言ってやったらいいですよ!」
「なんなら私たちがみんなで訴えますか?」
ここまで言ってものってこない上役に言われぱなしのダメ上司。

上司の話を聞いて部下たちは熱くなっているにもかかわらず、挙句の果てはいじめられている上役のことを擁護までするのです。そんな悪い人じゃないよとか、短気だけど言っていることは正論だとか、もうこの上司なに考えているのかと部下たちからは逆に信頼を失ってしまうようになりました。
そりゃそうです、さんざ上役の問題を聞かされて熱しているところに水をかける、部下からすればどうせそう考えるなら、あんたの心の中でうまく整理して終わりにしてよという話です。もし私が上司の立場なら一緒に闘おうとしてくれる部下の言葉が嬉しくていろいろ考え、クーデターのひとつでも企てるところですが、そうはならないのです。

ずっとそういう上司を理解できなかったのですが、よくよく考えると彼は彼なりに自分の人間としての尊厳を守り通そうと必死であったということです。それはとりあえず自分を立てて使っているのは上役なので、彼がそのポジションから外れるようにすることには言及しないのです。そうでありながらも自分の行動の足りなさは決して認めないというカタチでスルリスルリとものごとも本質からどんどんはずしながら、誰にも責任問題は追及しないというカタチをとるのです。これはある面日本社会のうまくやっていく人間関係やその立ち位置のありかたかもしれません。そして自分自身の尊厳も守られるのです。

怒鳴られても、いじめられても、自分に非があるわけでもなければ、相手も立場上そうしなければならないのだろうという理解は明らかにものごとの本質からは大きく外れています。私が経験した場合には明らかにその上役の人格的な問題があったわけです。でもそのことに誰も触れようとしないのです。社内のほとんどの人びとがそれがわかっているにもかかわらずです。もちろん被害を受けている当の本人自体が被害という認識から逃げているので周囲はもうそれ以上言うこともできないのです。

長い期間にわたって抑圧された環境下の中では、抑圧されている人びとは自然に自己の尊厳を守るために‘置き換え’や‘すり替え’ができる思考になってしまっています。これは気づかなければ、そのまま過ごしているわけです。でも意識、あるいは無意識の領域には明らかにストレスがたまっているはずですので、管理職の中で急にうつになったり、バタッと倒れるような人が出てくるのだと思います。

職場での人格的な問題がある人びとによる理不尽な言動はいつの間にか立場的な行為として置き換えがなされ、容認、あるいは賛同されるようになってしまっているケースがあります。オフィシャルでない場ではその本質(地位でなく人格問題であること)は話し合われているのですが、オフィシャルな場ではまったくその話は息を潜めるのです。すなわち本質と向き合う力が極端に弱まってしまうのです。ですから、そういう場合、結果的にアンオフィシャルな裏工作でそういった問題を処理する作業が進んでいくのです。裏工作であったとしても問題解決ができればいいのですが、それさえもできない組織はもう致命的です。唯一そういった組織がことの本質に向き合う機会ができるとしたら、そういった問題が社会的に露呈される場合です。

産業界にしても教育界にしてもそういった問題の本質がわかる人は数多くいるのですが、それと向き合う力、あるいはそれを容易にできるシステムづくりが急がれます。企業ならコンプライアンス違反、教育界は体罰、いじめ問題、家庭ならDVから具体的な事件になって初めて問題の本質が明らかになるのです。

組織はなかなか本音と建前で動きますからとても難しい面がありますが、少なくとも個人においては自分の思考がものごとの本質から目を背けて自分の言動を正当化して周囲から信頼を失うということだけは避けたいものです。

2013年5月14日火曜日

健康は自分を過信せずに疑心暗鬼でちょうどいい!

つい最近、女優の天海祐希さんが軽い心筋梗塞で舞台を降板されました。結構40代50代でもあるいは半ば年齢に関係なくそういった病気になってしまうことを聞きます。現在のそういった病気と言っていいのか、症状はいついかなるときに起きるかわかりません。予想がつくようなものならば、ある程度予防もできるのですが、そういうわけでもないようです。

もちろん目に見えて不摂生をしている人は当然そういったリスクは高いでしょうが、全くそういう予兆もなくとても元気そうに見える人が急にそういう症状になるとホントにビックリしてしまいます。平成8年度から厚労省(当時は厚生省)が成人病とは呼ばずに「生活習慣病」と呼ぶと定めてそういう疾患は全く減る気配がありません。やはり人間って努力することはなかなか難しいのでしょう。どうしてもラクなほうに流されてしまいます。煙草やアルコールといったこともなかなかやめるのはたいへんです。挙句の果てには、どうせ死ぬなら浴びるほど飲んでなんて悪態つく人も出てきます。

昔の病気は結核や肺炎など感染症による病気が多かったのですが、今は人にうつらない病気、すなわち自分が自分の体を管理しきれずに起こってしまう病気なのです。癌が死因のトップですが、心臓疾患、脳疾患と自分が自分で守るしかない病気ばかりです。生活習慣にその病気の原因があるというのですが、具体的には食生活や運動不足、そしてストレスが原因と言われています。この中でいちばん重要なのはやはりストレスであると思います。なぜならからだの問題はそのベースとなる心の部分が大きく影響しているからです。

心が楽しくなければ、運動する気力さえ起こりません。またストレスが多いと食生活も乱れてきます。どうしてもアルコールの量が増えたり、煙草の本数が増えたりします。私は煙草は吸ったことがないのでよく分かりませんが、やはりストレスがあると吸うことで落ち着くようです。ではストレスはどういうときに最も多く感じるのでしょうか。それは忙しくてたいへんなときでしょうか、あるいは逆にやることがないけど時間を過ごさないといけないというときでしょうか。私の経験上から申し上げると間違いなく後者のほうです。実際、多くの年長者の方にお会いするとストレスが多い方は一人暮らしであまり外出しない人です。逆に元気な人は家にじっとしていないで、たくさんの友だちと会ったり趣味を満喫している人です。

会社でも要職についていて寝る間も惜しんで仕事をしていた人がそのポストを外れたり、引退したりすると一気に老け込むという話があります。ラクな仕事は決してラクではなくて精神的に負担を与えたりします。そのことに気づかない自分がいるとしたらそれほど恐ろしいことはありません。いつも心配ばかりする神経症や強迫症のような思考を持つことはもちろんいいわけはありませんが、自分はストレスはまったくないと思い込んでいるのも致命的だなと思うのです。

職場はすべての人が自分と気のあった仲間で居心地がいいということはまずないはずです。やはり自分が気づかないところでさりげなく神経を使っていたりすることが往々にしてあるのです。大丈夫なようでも知らずのうちに神経が過敏になっているようなシチュエーションが会社や職場にはたくさんあります。自分の心と同時に職場環境などもよく俯瞰したり、客観視してなるべくストレスを減らす工夫をすることが重要かと思います。結論から申しますと自分に過信する人はリスクが大きいのです。仕事ができて健康も自信があるという人こそ、今一度自分を見直し、疑心暗鬼なくらいに心とからだをいたわる時間をもったりすることが必要かと思います。

2013年5月9日木曜日

教育の現場に現れるモンスターペアレント③

私の経験からお話しすると、クレームは企業においては損失ではなく、チャンスであると考えます。なぜならば企業の商品に関して組織の外の視点からものを言ってくれるからなのです。そこには企業も商品も大きな成長しろができます。もちろんただそういったクレームをうのみにするのでなく、それは実際よく吟味して変えていけるところは取り入れて生かすことができます。クレームが企業側の商品自体に問題があるのかどうなのか、あるいは消費者の提案であることもあります。提案の場合はひとつの案として取り上げ参考にしますが、部分的最適化が全体を滅ぼすとあるように必ずしもその提案が市場全体を代表しているのではないことも肝に銘じておく必要があります。

またクレーム処理を担当するということは個人的にはコミュニケーション能力を高める最高のチャンスでもあります。クレーム処理は場数を踏むしかなかなかできるようになりません。ホントになれてくると逆にどんなことを消費者が言ってこようがでんと構えて堂々と対応することができるようになります。さらにそのレベルを越えていくと、こんな無理難題を言ってくるなんていったいどんなひとなんだろう。どういう育ち方をすればこういう人格にできあがるのだろうとその人自身にとても関心をもつということもあります。そこまで行くには相当心のゆとりがなければなりませんし、自分以外の他者に対する関心や愛情など人間的器も必要になってきます。実際クレームをよく言う人をクレーマーとレッテルを貼った段階でもうクレーム処理は負けてしまっている。すなわち受け取る側が壁をつくっているようなものだと思います。

学校側にいろいろ言ってくるものもクレームであるのか、提案であるのか一方的で自己中心的な要求であるのかを区別して考えなくてはなりません。もちろんモンスターペアレントと言われている人びとは圧倒的に無理難題の要求なのでしょうが。とりあえずいろいろ言ってくる人のその背後の意図をいかに読み取るかという問題になります。いずれにせよ、相手の言動に振り回されず確固たる態度を貫くことも重要です。あとはうまく相手の気持ちを察して理解し、人間的な関係を構築することができればもうほとんどは終結に向かっています。

モンスターペアレントになってしまっている(もちろん本人はそういう認識はないですが)親というのは何かが欠けているのです。ホントに愛情を受けて育った人は相手の気持ちも察し、相手に自分の都合のいい要求ばかりすることはありません。何か不自然なカタチで育ったか、性格的にいつもイライラしていたり、被害妄想が多いタイプであるかもしれません。相手を負かすという考え方は必要ありません。逆に負けることで勝てたりします。要は最初から負けてしまうという認識を持たないことが重要です。それはどういうことかと言うと相手を‘モンスターペアレント’とレッテルを貼った時点でその教師は自分の心の中に「怖い」「勝てない」「難しい」「自分には無理」といったすり込みをしてしまっているということです。そしてモンスターペアレントは加害者で自分は被害者という認識に立つことがすでにクレーム対応に大きな精神的負担を負わせてしまっているのです。企業の場合は明らかに消費者が被害者で、企業側はいつも加害者になる可能性という観点で顧客に対応するので丁寧に受容できる精神状態でクレーム処理に臨むことができるのです。

基本的に被害者意識も加害者意識も持たないほうが最高にいい結果を生みます。とくに教職員は親たちといっしょにより良い教育ができるように改善していきましょうという認識を持ってもらうことが大切です。今企業はどこも顧客をファン化するアプローチをしています。味方につけるということです。親をモンスターペアレントとみなしているレベルでは味方につけるどころか敵愾心を持たれてしまいます。まずクレーム対応をする側から心の壁を取り払っていくこと、どんなことでも受け止める精神的ゆとりが必要であると思います。

もちろん世の中にはとんでもない人はいるはずですし、到底手の施しようがない場合は当然しかるべき措置は必要です。いじめ問題や体罰などで学校に警察などの公権力を導入することはグローバル化してきた日本でも一つの案として選択肢から除外すべきでないということは付け加えておきたいと思います。

教育の現場に現れるモンスターペアレント②

現在、全国の教職者のだいたい200人に一人がうつなどの精神疾患をわずらい休職状態にあるようです。東京都においては100人に一人がそのようです。その原因はつい最近話題となった「学級崩壊」などによりこどもたちが教師の言うことを聞かず、好き勝手な行動に出たり、あとは保護者とのさまざまな誤解やトラブルによるものなどがあるようです。もちろん一般企業でも精神疾患になる社員というのは多いわけで、産業カウンセラーや心療内科のお世話になる人びとは増え続けているという状況です。

マズローの欲求5階層説に照らし合わせても、経済が豊かになり、社会が成熟していくと逆に人間は内面的、精神面の問題が増えてくるようです。お隣の韓国でも若年層の自殺が問題になっていますし、学歴社会という社会が生み出したプレッシャーや社会的価値観についていけない状況が多くの若者を追い込んでいるということが見てとれます。日本ではナンバーワンよりオンリーワンを善しとし、学歴至上主義からはだいぶ解放された感じはありますが、就職氷河期と言われる時代が長きにわたって続いたため、社会不安が増大し若者のストレスも継続的にあると実感します。

団塊の世代はそれなりに経済の高度成長やバブル期の恩恵を受けてきたことと、競争社会を生き抜いてきたということで他の世代よりもかなりのパワーがあるように感じます。ただその次の世代はちょうど新人類世代という今までのものさしでは量れないかなり価値観に開きがある世代との間に挟まれサンドイッチ症候群のような状況下に置かれていることもあるかもしれません。ちょうど団塊の次の世代は現在学校で言うと校長や教頭といった役職にある方々です。

もともと「うつ」などの精神疾患になってしまう人は教職者に多いタイプの性格です。几帳面で真面目、そして責任感、正義感がつよく、人からも頼りにされるタイプが多く、教職者はとくに社会の模範というイメージで見られまたそうあるべきと自分を抑圧的に縛ってしまうタイプ(完璧主義)が多いと考えられます。また内面の弱みを見せず黙々と頑張る人ほどストレス状態が限界を越えるとそういった症状を引き起こすわけです。基本的にストレスが少ない人はストレス要因をつねに吐き出している人です。愚痴をこぼし、聞いてくれる人もいて、いい具合にバランスをとっている人です。

長年にわたって教職に携わってきた人も社会的な使命感や夢を描いて教職についた若い人も理想とする教育とはかけ離れた問題の多い教育現場の現実を目の当たりにして、自分の考える教育観との整合性を得るにはたいへんなストレスを感じざるえないことでしょう。もともと人間は最低の生活を体験した人は現状に満足して気楽に考えることができるかもしれませんが、最高の夢や理想を抱きながら教育の現場に入ってきた人はストレス以外の何ものでもありません。

こどもたちの教育現場での離反やモンスター化した親たちに対応するには、今では真面目一辺倒で穢れのないような先生にはかなり酷です。私が考えるに、そういった過酷な現場には修羅場を何度もくぐったような営業の叩き上げくらいの人がやっと対応できるのではないかと思います。勉強ばかりやってきて人の模範となるべく教職についた人はそういったアウトローな人びとに対する免疫はないので精神的には相当の苦痛を感じるはずです。実際の教育の現場に入るともともと抱いていたイメージとのギャップで苦しむことになるわけです。

こどもをちゃんと座らせて、教えるだけでもたいへんなのに、こどもの背後にもっとでかいこどもがいてこども以上に手ごわいこどもだったという話でしょうか。こどもよりももっと大人げない大人というのがモンスターペアレントだと考えると、今後の教職員の仕事はこどもの教育と同時に親の再教育かもしれません。いずれにせよ教育の現場ではこどもに勉強を教えるといったスキル以外のスキルが必要となっていることは間違いありません。

クレームは正しいもの、ごもっともということは多々ありますが、ただの言いがかりであったり、無理難題を言ってくるのはもうクレームというふうにひとくくりにはできないと思います。例えば、こどもが学校の授業についていけないから、家に来て勉強を教えて欲しいとか学校の教師という立場以上のことを要求されたりすることはこれはもう理不尽極まりない話だと思います。ただ社会的に価値観の多様化が進んでいる中で、一般の社会通念も逸脱したような人も多くいるわけで、そういった人びとに対してはきちっと対応できる企業のクレームマニュアルのようなものも学校という教育の現場にも必要かもしれません。

教育の現場に現れるモンスターペアレント①

昨今、学校は児童、生徒の保護者のモンスター化に手を焼いているようです。給食費の未納にはじまり、卒業アルバムに自分のこどもがあまり写っていないとクレームをつけ、成績が悪いと教師のせいにして、とまああげたらきりがないほどとんでもないことを言ってくる親たちが増殖しているようです。成績が悪いのは遺伝です。あなたはそんなにできたんですかと訊くわけにもいかず、明らかにこの親にしてこの子ありと言える状況が多いのだと思います。

私が小中学校の頃は親が学校の教育に口を出すことは恥ずかしいというイメージでした。できるだけ授業参観も含め、親には学校に来てほしくないくらいに思っていましたが、どうやら最近はそうではないようです。もちろんPTAという組織があり、学校行事に親たちが昔よりたくさん駆り出される状況ができあがっているので、親たちのパワーもずいぶん強くなっているのかもしれません。すでに先生という言葉に威厳や尊敬の念という意味合いは消えてしまっていると思わざるをえません。私もこどもの学校に行ってみると、親たちと先生は友だち感覚でおしゃべりしているなんてのを垣間見たりします。今や先生という言葉は呼び名でしかありません。

このことは何を表しているのでしょうか。企業に遅れて、教育の現場にも大きなパラダイムシフトのときを迎えているのだということです。すなわち組織の在り方を変革する、そしてそのためには教職員の内省による自己変革がベースになければならない時代になってきているのではないかと痛感するのです。

一般企業では収益をあげなければならないという現実的な問題がつねにあります。収益が上がらない場合、徹底してその原因を見つけ出していかなくてはなりません。そうしたところ、結局マーケティング(市場のニーズを知る)から商品開発のアイディア(イノベーション)を出し、さらにそれを促進させるには組織風土改革まで行わなければならないという状況に至ります。背に腹は替えられない現実問題があるわけです。

日本では戦前の軍国主義の時代から民主化が実現されて、どんどん社会はフラット化してきました。今はテレビでもお笑い芸人が主流のバラエティ番組がゴールデンタイムは席巻しています。お笑いのポイントは非現実的アプローチであり、現実社会をアイロニーで笑い飛ばすところにあります。すなわち権力をもっている年長者にタメ口を平然と言ってかます。常識とは大きなギャップがある行動(本音ではみんなそうしたいこと)をすることで笑いを誘うのです。それは視聴者からすると解消には最高なのです。

団塊の世代は激しい競争社会を生きて上下関係もしっかりわきまえて、企業組織のヒエラルキーを空気を読みながら周囲とバランスをとって駆け上がって行った人びとです。それに追従したのがその次のシラケ世代です。団塊の世代がいるせいでシラケ世代は重要なポストはなかなかもらえず半ばあきらめの心境、惰性で上の世代に従ってきた感じがあります。その次の50代前半から40代に人びとは新人類世代と呼ばれ、より上の世代の出世競争に辟易とし、独自路線をとることやポストよりも仕事の中身で勝負するタイプが増えてきました。

新人類世代は会社にそれほどコミットせず、企業横断的なスキルを持ち、待遇がいいところがあれば平気で転職を考えます。この会社に骨をうずめてなんて考えはほとんどありません。でもそういった考え方のほうが会社が生き残れるのです。上の世代はその会社愛ゆえに会社をダメにしたという事実もあります。まさにホントに会社のことを思うならば、会社人間になって組織の中に埋没するのではなく、ある面冷めた目で会社全体を客観視したり、俯瞰するというパラドクシカルな経営や組織の運営が必要となってきます。これはこどもに執着しすぎるとこどもをスポイルして自立を遅らせてしまうということにも似ています。

こういった新人類世代がマスメディアを動かしているので、視聴者ごころをよくとらえた番組づくりができていると言っても過言ではないと思います。バラエティが好きかどうか、もちろん賛否両論ありますが、やはりお茶の間を笑いの渦に巻き込んでしまう手法はすごいのです。特別面白そうなところは繰り返し見せたり、面白いトークには必ずテロップをつけて、これでもかこれでもかと視聴者の本音の部分にぐいぐい入ってきます。おそらくこういったセンスある手法があって視聴者もスポンサーも取り込むことができているのだと思います。

また新人類世代は上司や上役に対してただ単に年上というだけでのリスペクトはありません。また権威や権力には団塊、シラケ世代のやり取りを見て嫌悪感もあるので、地位よりは仕事ができるかどうか才能がある人に対するリスペクトは当然あります。したがって上司だからというものさしでなく、この人と組めば、あるいはこの人のもとで働くならば自分を生かせるという観点から従うということはあります。新人類世代以降の世代はさらに会社にも地位にもコミットしないので、仕事そのものに愛着があれば続ける人びとです。

企業ではそういう観点で経営者や管理職の人びとは地位があるからなどと甘えていては部下はだれもついてこない状況に至っています。そういった現実を早期に受け止め、考え方のフレームを改めた経営者や上司がたくさんいる企業が生き残っているのです。すなわち既存の管理手法から大きくパラダイムシフトを行えた企業が強いのです。モノをつくれば売れた時代は殿様商売ができたかもしれませんが、モノが市場にあふれて飽和状態になっている今では、マーケティングの手法でより顧客満足を推進しなければならない状況になりました。さらに核心部分に踏み込めば、イノベーション(技術革新や商品開発、そのアイディアなど)を起こすためにはフラットな職場環境による従業員満足まで必要となってくるという話です。

こういった考え方は昨今の教育現場にも必要とされ始めているのではないかということを痛感します。教職員の組織は互いを先生と呼び合い、親しき仲にも礼儀ありという日本的文化が残っている感じでいいイメージはあるのですが、逆に遠慮があり、一般企業ほど人間関係を深めるということは容易ではない感じを受けます。毎回問題が起きて初めて、教頭や校長が当事者の教師にブリーフィングを行うという現状が記者会見などを通じて見受けられます。やはりヒエラルキー組織であることでより部下の状況把握が厳しいというのが実情ではと思います。でさらに把握できないのが先生と生徒の関係です。それで毎回、いじめられているとは知らなかったという担任教師のコメントが出てくるのです。

教育の現場も一般企業と同じでそろそろ保護者へのアプローチを変えなければならない時期にきていると思います。企業は努力しなければ経営が危ぶまれます。でも学校、特に公立の学校はそういった努力をそんなにしなくてもある程度は生徒数は目途がたち、保証されています。すでに私立の学校は保護者を半ば顧客という観点でとらえる考え方に大きくシフトしています。私立大学などは生き残りをかけて大学の先生は高校に赴き営業活動を行っています。教育環境の充実は顧客である学生満足であるわけです。そして学費を出す親たちにそれをアピールするわけです。

実はモンスターペアレントの発生はその親自身の問題だけでなく、学校組織の運営自体にも少なからず問題があると考えられます。社会全体の思考が大きく変わってきている中、企業はどんどん変わって生き残ってきましたが、そのことは教育界にも昔のままでは対応できないよという一石をモンスターペアレントという存在が投じているのかもしれません。実はモンスター化した親たちに変われといっても難しいのですが、それに対応する学校側が変わることはある面可能です。それによって大きく状況を変えていくことができると思います。

2013年5月7日火曜日

GWも終わっていつもの日常

今日はゴールデンウィークが終わって最初の出勤日という人がほとんどではないでしょうか。今回の長期休暇は皆さんはいかがお過ごしだったでしょうか。どうしても休みが長く続くと普段の生活のリズムを取り戻すのに苦労してしまうというのが実際のところではないでしょうか。

楽しい時間というのはあっという間に過ぎてしまうもので、ファンタジーの世界からいきなり現実へと引き戻される残酷さも感じざるをえません。でも仕事が大好きで、仕事自体が非現実的な楽しみの中にある人は休むという概念すらないかもしれません。誰しもそういう生活は希望するのでしょうが、現実そうは行きません。趣味が仕事になった人も、そこにノルマやプレッシャーがかかるようになるともともと好きだったこともホントに仕事と化して面白みがなくなるなんてこともあります。趣味はずっと続けるためには仕事にしないという方法もありますが、趣味が実益を兼ねればこれほどラッキーなことはありません。

逆に仕事を趣味化できればこれほど面白いことはありません。ただ問題は、仕事が趣味になった人、さらに言えば仕事しか関心がない仕事人間というのは、それはそれで周囲はひいていたりします。会社に実績にしか関心がない上司のもとで働くということを考えてみてください。いっしょに飲みに行ってもいつの間にか仕事の話でひとり熱く語りはじめる、こういう上司や同僚はどうですか。もちろんご意見はさまざまあるでしょうが、私的には面白くない人に見えてしまいます。オンとオフと使い分けれない人、あるいは家庭やプライベートではあまり必要とされていないのかななんて憶測ではありますがそう判断してしまいます。

仕事一辺倒で熱く語る人は語りまくるあまり周囲が見えていないケースが往々としてあります。こういう人はワーカホリックに近い状態だと、とにかく部下や他の同僚の状況は見えていないので彼らから徐々に距離を置かれたりします。今企業でもうつという診断される人びとが増えていますが、特に休み明けの日は要注意です。ブルーマンデイ(月曜病)とかサザエさん症候群、笑点症候群なるものがありますが、普段の日常生活が結構大変なほど休み明けの現実に引き戻される日は拒否したいという気持ちが起こってきます。

特に営業系で上からのノルマや目標が高くプレッシャーの多いような職場は精神的にたいへんかもしれません。できる上司はどういうアプローチがいいのか。休み明けの会社の朝礼ではファンタジーの世界から現実に引き戻す儀式?に匹敵するかもしれませんが、その際、ソフトランディングにするかハードランディングにするかは朝礼を担当する経営者、上司の話ひとつにかかっています。前者の場合はスムーズに業務の遂行につながりますが、後者の場合は消化不良気味なカタチで業務に突入という感じでしょうか。

こういう話をすると、旧い価値観の人びとは、会社は学校じゃないとか、仕事はお遊びじゃないなんて言い出す人も結構いるでしょう。でもその管理手法のおかげで会社は多くの精神疾患の病人を出すに至っています。センスのある人なら、朝礼の場で、あるいは職場の昼休みとかには休みはどうだったかとか聞いて楽しかった思い出話を傾聴するくらいの心のゆとりは欲しいところです。みなさんの職場はどうですか。ひさびさの会社はどうでしょう。シーンとして会話のない職場になっていないですか。

PSIとしては自分軸ということを主軸に据えています。仕事も趣味もプライベートも自分の意思を中心として楽しみながら過ごしたいものです。また変わらない日常の中にファンタジックな楽しい時間を埋め込みながら、ストレスをためず人生のかけがえのない時間をエンジョイしてまいりましょう。そのためにも短期の楽しみと同時に、より長いスパン、すなわち人生をかけてやり遂げたいことも目標に据えてそれもひとつひとつ積み上げていく楽しみも持ちながら生活するととても有意義です。

人間は忙しいほど、悩みは減っていきます。忙しい、忙しいと言っている人ほどそう大して忙しくなかったりします。ホントに忙しい人は、充実していると言います。精神疾患になりやすい環境はやることが少なく、考える時間が多いということです。それで私としては自分に短期、中期、長期、人生というスパンでにいろいろ課題を課してやっています。そしてその課題はすべて人生の目標に集約されるようにプログラムするのです。仕事でも趣味でも、また学業やプライベートでもそういうふうにしていくととても充実した人生設計になって生き生き人生を送ることが可能です。

2013年5月1日水曜日

悪戦苦闘、効率の上がる学習法

年齢を重ねても、意欲的な人は学習意欲は落ちないと思う今日この頃ですが、みなさんはいかがでしょう。通勤電車の中でラッシュにも関わらず、本を開いて読んでいるサラリーマンやOLの人を見ているととても頑張ってるなと感じてしまいます。

それで私も殺人的なラッシュ時以外は通勤の時間は読書や学習の時間に充てているのですが、これはとても人生の有効活用といった面ではとてもおススメです。私はもともとじっと座って読書というのはできないというか苦手なタイプでして、やはり通勤時間は最高の時間です。以前は出張の新幹線、飛行機なども、そういった面ではかなり有効利用させていただきました。

あとはラッシュでも学習する方法としては、MP3プレイヤーなどにさまざまな講演、学習の音声データを仕込ませて、それを聞きながらというのがあります。ギュウギュウ詰めの電車に揺られて脳は活性化という時間もなかなかオツなものです。以前出張が多かったときはDVDなども使ったのですが、どうも乗り物に揺られている状況で映像を見続けるというのは私は苦手で頭痛が始まる感じを受けます。電車の中でゲームやテレビなど映像を見ている人はすごいなと思ってしまいます。

年齢を重ねても、いや年齢を重ねるほど学習していかなければ、自分より若い世代には置いて行かれてしまいます。若い人たちの関心事に無関心になるのでなく、ちょっと関心を持ってみることも新しい世界が開けていいのかなと思います。テレビでおなじみの獨協大学の森永教授はそういった面では最先端の年長者なのかもしれません。最強の組織は組織の成員がやはり学習する組織という話を考えると、やはり社内に学習の雰囲気があまり感じられない会社は、もう成熟しきっているのか、発展シロがないから新しいものを取り入れる意欲がないのか……。いずれにせよ、そういう会社ならなおさら学習して自己の成長を促す行動に出たいものです。

最近は社会人や主婦も大学、大学院へと通うようになったり、資格をとるために勉強を始める人も多いようです。もちろん環境的にも少子化によって学生数が圧倒的に減少している状況下では教育機関は生き残るのは大変なことです。そこで、すでに既卒者である社会人や主婦、退職した人びと、また外国人などへ市場を広げることで生き残りを図るという実情があり、それも生涯学習の風潮をつくりだしてるのだと思います。

年齢を重ねてからの学習は10代、20代のころの学習と違ってある面、思考が教育者に近いのでとても効率的です。試験を受けるにも出題者と同世代、あるいはそれより上なんてことがあると感覚的に出題の意図が即座に分かってしまうなんてこともありえます。これはある面、大人の知恵っていえるかもしれません。それで大人の感覚でこどもたちの解いている問題を見るとなんで分かんないのかなって思ったりします。それはこども以上に多くの経験を積んできた出題者と同じ大人の視点があるからなのだと思います。

大人になって大学にもどって勉強している人を見てみると、下手をすると、大学教授より同世代あるいは年配の学生のほうが詳しいといったこともよくある話です。アカデミックな世界だけにいた学者より、経営の現場にいて長年社長をやってきた学生のほうがいろんな面で優れていたりします。頭だけでなく、体感しているわけです。もちろん大学の先生もそういったことをよく分かっていて、彼らには敬意を払ったりするわけです。ただ実際、学生として再び学びの場に戻ってくる学生にとっては、会社という閉鎖的な組織の中にだけいることで考え方が硬直化、老朽化してしまうリスクを回避して、大学でまた新鮮な空気を吸うことも意義深いことです。

PSIブログを読んでいただいている方々は、学習意欲が高い方も多くいらっしゃると思うのですが、年齢を重ねての学習は若いころとは違った学習方法を考えなければならないと思うのです。会社や仕事を引退して年金暮らしという方は普通に学生のように学生生活を謳歌するのもいいかもしれません。でも社会人や主婦という立場ならばいかに効率的に時間配分を考えて勉強時間を捻出するかといった課題もあります。そういった面では通勤時間は便利な時間です。料理の合間の時間もいいかもしれません。

もう一つ、私の例でいうと、長年ストレス回避の健康法を訴えてきた関係上?とにかく勉強するにしても一切ストレスを感じることはしたくないという前提があるのです。それで関心があることは本を読めばどんどん頭に入ってきて、そのことを家族や友人に話したりすることで記憶として定着するのです。また仕事や講演で使えるなということがらは当然それをもとにプレゼンデータをつくったりしますから、さらに記憶の定着にはいいわけです。

ところがすぐには使えないけど絶対覚えておかなければならないことは暗記するのがとても疲れるのです。関連付けて覚える暗記法などもあるのですが、どうしても億劫になるのです。ストレスを受けたくない性分なので脳に負荷をかけることはホントに嫌なのです。それでいかに脳に負荷をかけずにこれを覚えようかとあれこれ考えていろいろやっているうちに思いついたことがあったのです。それはちょっと下種な話になりますが、「下ネタ」にかこつけて覚えていくという手法?です。本やテキストにはそれを鉛筆で書いて妄想しながら楽しみながら覚えるというやり方です。なぜ鉛筆かというと完璧覚えた後には消して置きたいからです。いつ家族がそれを見るかもしれませんから…。

年齢とともにオヤジギャグや下ネタは多くなってきます。それは脳の前頭前野が退化することで理性が鈍ってくるからだとか、ならばそれを逆に利用しちゃえということでそういった方法もあります。(もちろん私の独自の考えですが……)男性はそれでいいかもしれませんが、女性はどうしたらいいのか、私は男性なのでよくわかりません。ただ女性も同じ人間、実際問題としてそういったことに関心があるとするならば、イケメンの男性や好きな芸能人との恋とか妄想しながら楽しみながら暗記していくということもいいのではないでしょうか。だれもそんな方法で知識の蓄積がなされているなんて誰も思いませんから。相変わらず言いたい放題のコラムですが、もしよければ参考にしてみてくださいね。