企業も企業風土も老朽化するとどうしてもその時代の要請にこたえてそれらを改革し、現代の経営環境に順応させることができる政策が必要です。高齢社会を迎え、さらに65歳定年制ということになってくればなおさら問題なのは、企業の組織内における老害の問題です。組織のご意見番ということで経営の一線からは退いていただいてたまに知恵を拝借ということならまだしも、相当の高齢にもなってなお会社経営のハンドルを握っているとしたらたまったものではないというのです。そういった老害の存在ゆえにいまだに経営悪化を防げず、改革に着手もできずという状況の企業は潜在的にはとても多いことと思います。
そういった経営者や幹部、役員には独裁的な人が多く、多くの社員が引退や辞任を期待しているにも関わらず、なかなかそれは実現できないのです。そういった独裁者に誰が引導を渡すのか、とても難しい問題です。誰かが明智光秀やブルータスになって刺し違えて引退をせまるなんてことはなかなかできません。みんなの声を代弁して訴えて具体的に政権交代しようと思ったら、その政権につくのは引導を渡した自分ではなく、他の人であったりするのです。集団はとても薄情です。個に対して平気でデリートするのです。実際の手を下した人ではなく、クリーンな人をまた持ち上げていたりするのです。それは次期政権でもちゃんとポストを確保するという独裁者の残党がちゃんと幹部の中にいるからなのです。彼らは組織で抹殺しやすい人を汚れ役にしたてて最終的にはポイ捨てにするのです。
改革の道具にならずに改革を実行し、次期政権でもちゃんと生きていけるようにするにはどうしたらいいのでしょう。もちろん汚れ役を踏み台にして次期政権を掌握した人も独裁者と同じ道をたどります。クーデターで政権を握ると、結果的にクーデターで倒されます。汚れ役を利用し、自分の利益を得た人を信用する部下はいないからです。改革の成功と組織風土のパラダイムシフトとその定着はしたたかさと決して独裁者にはならないという気概が必要です。そしてそのように行動するしか次期政権を握って、それを維持し続けることはできません。
組織改革において、誰かを踏み台にしたり、捨石にしたりするようなことをしてはいけません。独裁者は恐怖によって支配しているのです。それを勘違いしてカリスマとかいう人がいますが、実際、カリスマと恐怖政治は違います。恐怖政治を敷く人は、恐怖で人を従わせる、名目や思想を持っています。それが血統(血筋)であったり過去の実績であったり、なんらかの正当性をつくりあげているのです。それらは人びとを屈服させ従える理由になっているのですが、心の奥底から従っているわけではありません。また過剰なリスペクトは、人びとが理想とするモデルとかけ離れた部分が独裁者に見え始めると、まったく違う怨みの情と化すのです。
改革を成し遂げるリーダーには大衆の過剰なリスペクトもカリスマ性も要りません。必要なことは大衆に対する愛情と自分ではなにもできないという現実を見る力です。それがみんなで成し遂げるという意識となって互いを信じる意識や力になっていきます。組織で独裁者がのさばる理由はその独裁者のパワーを利用する、あるいはその恩恵に預かっている取り巻きがいるからなのです。そして彼らを信奉する信者たちが組織の末端までいるからなのです。独裁者の老害をもっとも実感しているのは側近もいますが中間管理職たちです。現場にも精通しなおかつ上層部の状況も見えている人びとです。
組織改革の危険性は独裁者とその取り巻き、そのシンパです。彼らの毒牙にひっかからないように組織改革は進めていかなければなりません。すなわち敵のレーダーにひっかからないステルス機のように行動しなければならないのです。ホントに信頼信用できる人材だけを中心に行うしかありません。いつ寝返るかわからないような貞操観念のない人材は気をつけなければなりません。旧東欧諸国で地下活動がなされたのも独裁者がつくりあげた思想に合わない行動をする人は粛清されるからです。地下活動をする際、もっとも危険なことは家族であろうと密告者が出るのではということです。洗脳は血筋を越えるのです。
独裁体制の政権下での話は決してどこかの国のことではなく、身近な企業に普通にあることでもあるのです。組織はある面、政治的人間関係でなりたっています。人間で形成された組織はすべて政治です。今一度組織をシビアに見つめなおすことはとても重要です。組織改革は絶対的にステルス戦略が必要です。改革を目指すその人的基盤がメジョリティを占めるようになったとき、徐々にその存在をほのめかしながら個ではなく全体の力でひっくり返すということも一つの手です。もちろん具体的には独裁者自らが集団によって血祭りにあげられるという恐怖を感じて退くという流れが理想的です。誰かが独裁者の怨みの対象になる必要もなく、独裁者の残党を牽制するのはあくまで既存の政権に反対する大衆であるということです。
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2013年6月25日火曜日
都議選(6.23)に思うこと
今週日曜日に東京都都議選の投票が行われました。結果はおそらくだいたいの人びとが予想したであろう通りの自民、公明の圧倒的勝利ということでした。維新の会は橋下共同代表の問題(失言?本音が出ただけ?)発言から完全に敗北、それに対して躍進したのはみんなの党でした。
みなさんは今回の都議選どう見られていますか?私は明らかに民主党政権から自民党政権に代わってアベノミクスの名のもと、それをあおってきたマスコミの方向性に従った国民の選択であったと思います。そもそも円安誘導でもっとも恩恵に預かっているのは、輸出中心の大企業であり、彼らが躍進することで恩恵を受けるのは、政財界もそうですが、マスコミでもあります。そういった企業がテレビのスポンサーになっているわけですから、当然マスコミとしてはアベノミクスを後押しせざるをえません。そしてそれに同調する人しかコメンテーターとしてテレビなどに露出することはできないわけですから、ますます自民党に追い風になっているわけです。
ここで自民党のこの流れを批判しようというわけではありません。ただ現時点でアベノミクスの恩恵を受けているのは間違いなく輸出企業であり、一部の富裕層であると考えざるをえません。今後どうなるかは国民全体にその恩恵が波及するかどうかということにつきると思います。専門家によっては国民全体がその効果を実感するのは半年後とか一年半後とか言う人がいます。ただ一般国民はマスコミの洗脳的宣伝によって、なんとなく踊らされている面が多いのですが、実際のところ、給料が上がる前に物価がどんどん上がってきていて決して生活がラクになっているとは言えないのが現状です。
ガソリンの価格もさまざまな交通機関の料金においても、また荷物の配送料金なども、デフレのときでさえ、とても高い状況にあったわけです。マスコミによって過去の状況をデフレであるとすり込まれているのですが、実際それはどうなのと言いたい部分もあります。とにかくテレビでは高所得の芸能人ばかりが出て市場の価格がいかに安いかをアピールし、反面高級なものや生活を自慢し、挙句の果ては、一般人の貧乏生活をネタにした番組をつくるというどう考えても世間一般の常識とはかけ離れた観点で番組をつくっているとしか言いようがありません。
私たちは情報リテラシーを高める必要があると思います。明らかに政治に対して大きな影響力を持っているのは国民を洗脳してしまうメディアであることは否めません。そうやって国民の世論というのは形成されているわけですが、何分保守的な日本人の特質はそんなに変わるわけではないというのも私の実感です。そして日本人はファッション、ブームに極端に弱いのです。イメージにすぐ左右されてしまうという国民の弱点があります。
今回の失言とも言われている橋下市長の発言、これを石原共同代表が言っていたらどうでしょう。昔、三国人発言も結局、うやむやになって終わりです。とにかくマスコミもそれ以上ツッコめないオーラを出しているのです。橋下さんの言動には決して賛同はできませんが、同じ発言でも人によっては喉元過ぎればで終わる場合もあります。政治家は自分のキャラをよくわきまえておくことも重要かもしれません。自分の思い込みでなく、自分が周りからどう見られているかということをある程度認識した上で行動することも必要であると思います。
基本的に日本人の現在の思考は保守、右寄りに傾いています。その原因の一つは隣国の領土問題等がさらにそれを加速化しているのです。近隣諸国は自国の利益を優先するという認識が強いあまり、‘急がば回れ’的な思考ができないでいるのです。領土問題や過去の戦争責任を追及すればするほど日本を右傾化させ、結果的に経済関係も冷え込むことで自国の首を絞める構図になっているということなのです。損して得とれという考え方は冷静にものごとを見る能力を養わなければ難しいようです。
今回の都議選での共産党の躍進は単に左翼政党が共産党しかなくなったということに集約されます。決して共産党の理念や共産主義を信じている人などほぼ皆無ではないかと思います。すでに共産主義という思想自体は歴史的に非実現的なものとして証明されたわけですし、おそらく共産党の執行部の方自体がそれは十分認知されていると思います。共産党に投票された方もいれるところがないからというのがかなりの数になるのだろうと思います。すでに社会党系はすでに保守に飲み込まれ、社民党の存在も風前の灯状態です。憲法9条を死守するという党は共産党しかないわけですから、存在意義は十分大きいものと考えられます。
今回みんなの党の躍進も維新の会の票が横に流れただけで本来なら両党でシェアするような状況だったのでしょうが、先の橋下発言でこのような状況になったのではないかと思っています。また本来民主党の票であったはずの票は他の保守政党に分配されたという見方でいいのではと思います。今回の都議選で言えることは明らかに自民党の安倍政権になって日銀政策から円安誘導などはっきりとした内容を打ち出すということがどうやら国民にウケているような気がします。無所属議員が一人しか当選しなかったことなどもその表れのような気がします。
いずれにせよ、東京都は日本の縮図、この度の都議選に表れた都民の意識もやはりマスメディア主導のイメージに大きく左右されたものと感じざるをえないのが感想です。参院選はあまりイメージやマスメディアの発信内容に左右されず、ホントに日本の国益に副う政党、政治家はだれなのか見極めての投票を期待したいものです。
みなさんは今回の都議選どう見られていますか?私は明らかに民主党政権から自民党政権に代わってアベノミクスの名のもと、それをあおってきたマスコミの方向性に従った国民の選択であったと思います。そもそも円安誘導でもっとも恩恵に預かっているのは、輸出中心の大企業であり、彼らが躍進することで恩恵を受けるのは、政財界もそうですが、マスコミでもあります。そういった企業がテレビのスポンサーになっているわけですから、当然マスコミとしてはアベノミクスを後押しせざるをえません。そしてそれに同調する人しかコメンテーターとしてテレビなどに露出することはできないわけですから、ますます自民党に追い風になっているわけです。
ここで自民党のこの流れを批判しようというわけではありません。ただ現時点でアベノミクスの恩恵を受けているのは間違いなく輸出企業であり、一部の富裕層であると考えざるをえません。今後どうなるかは国民全体にその恩恵が波及するかどうかということにつきると思います。専門家によっては国民全体がその効果を実感するのは半年後とか一年半後とか言う人がいます。ただ一般国民はマスコミの洗脳的宣伝によって、なんとなく踊らされている面が多いのですが、実際のところ、給料が上がる前に物価がどんどん上がってきていて決して生活がラクになっているとは言えないのが現状です。
ガソリンの価格もさまざまな交通機関の料金においても、また荷物の配送料金なども、デフレのときでさえ、とても高い状況にあったわけです。マスコミによって過去の状況をデフレであるとすり込まれているのですが、実際それはどうなのと言いたい部分もあります。とにかくテレビでは高所得の芸能人ばかりが出て市場の価格がいかに安いかをアピールし、反面高級なものや生活を自慢し、挙句の果ては、一般人の貧乏生活をネタにした番組をつくるというどう考えても世間一般の常識とはかけ離れた観点で番組をつくっているとしか言いようがありません。
私たちは情報リテラシーを高める必要があると思います。明らかに政治に対して大きな影響力を持っているのは国民を洗脳してしまうメディアであることは否めません。そうやって国民の世論というのは形成されているわけですが、何分保守的な日本人の特質はそんなに変わるわけではないというのも私の実感です。そして日本人はファッション、ブームに極端に弱いのです。イメージにすぐ左右されてしまうという国民の弱点があります。
今回の失言とも言われている橋下市長の発言、これを石原共同代表が言っていたらどうでしょう。昔、三国人発言も結局、うやむやになって終わりです。とにかくマスコミもそれ以上ツッコめないオーラを出しているのです。橋下さんの言動には決して賛同はできませんが、同じ発言でも人によっては喉元過ぎればで終わる場合もあります。政治家は自分のキャラをよくわきまえておくことも重要かもしれません。自分の思い込みでなく、自分が周りからどう見られているかということをある程度認識した上で行動することも必要であると思います。
基本的に日本人の現在の思考は保守、右寄りに傾いています。その原因の一つは隣国の領土問題等がさらにそれを加速化しているのです。近隣諸国は自国の利益を優先するという認識が強いあまり、‘急がば回れ’的な思考ができないでいるのです。領土問題や過去の戦争責任を追及すればするほど日本を右傾化させ、結果的に経済関係も冷え込むことで自国の首を絞める構図になっているということなのです。損して得とれという考え方は冷静にものごとを見る能力を養わなければ難しいようです。
今回の都議選での共産党の躍進は単に左翼政党が共産党しかなくなったということに集約されます。決して共産党の理念や共産主義を信じている人などほぼ皆無ではないかと思います。すでに共産主義という思想自体は歴史的に非実現的なものとして証明されたわけですし、おそらく共産党の執行部の方自体がそれは十分認知されていると思います。共産党に投票された方もいれるところがないからというのがかなりの数になるのだろうと思います。すでに社会党系はすでに保守に飲み込まれ、社民党の存在も風前の灯状態です。憲法9条を死守するという党は共産党しかないわけですから、存在意義は十分大きいものと考えられます。
今回みんなの党の躍進も維新の会の票が横に流れただけで本来なら両党でシェアするような状況だったのでしょうが、先の橋下発言でこのような状況になったのではないかと思っています。また本来民主党の票であったはずの票は他の保守政党に分配されたという見方でいいのではと思います。今回の都議選で言えることは明らかに自民党の安倍政権になって日銀政策から円安誘導などはっきりとした内容を打ち出すということがどうやら国民にウケているような気がします。無所属議員が一人しか当選しなかったことなどもその表れのような気がします。
いずれにせよ、東京都は日本の縮図、この度の都議選に表れた都民の意識もやはりマスメディア主導のイメージに大きく左右されたものと感じざるをえないのが感想です。参院選はあまりイメージやマスメディアの発信内容に左右されず、ホントに日本の国益に副う政党、政治家はだれなのか見極めての投票を期待したいものです。
2013年6月12日水曜日
人間って死んだらどうなるの?②
生の問題同様、死に対する問題は人間にとってはとても大きなテーマです。ただ生とは何か、死とは何かという問題は万人が納得できる答えというものはありません。哲学や宗教の分野で扱われていてもそれらの主義主張、思想、教理というものはひとつの考え方として、あるいは信仰的な観点で依存の対象としてあるだけで、決して一般化できるものではないと考えられます。なぜなら、誰もが納得する結論が出ないからです。
そう考えると、半ば生や死に関して論じることはとてもナンセンスな気持ちにもなってしまうのです。世の中では不確定なことがらには言及せず、今を生きる上で必要な営みを毎日、瞬間瞬間繰り返しているだけで、またそれに集中している以上はそういった人間の本質的な問題を意識しなくていいので、ストレスなく悩むことなく生きていけるのです。でも身内や友人の死に直面したときにはどうしても死という問題に向き合わなければなりません。
実際問題として、人生を生きるということは、人間の本質に対して知りたいという欲求を半ば覆い隠して生きるようなもので、どうしても人生という刹那的な時間をただ楽しく有意義(意義あると決めて)に暮らすということにつきるのかもしれません。若ければ死はまだまだ先の話と考えて生きてもなんら不安も恐怖心も実感としてないかもしれません。でも今実際、高齢で死というものが現実問題としてふりかかってくるとか、若くても悩んで自殺願望があったりする人にとっては先送りできない問題です。
ここで死に対して、不安や恐怖心を抱いている人にちょっとラクになれる話をします。ギリシヤの哲人ソクラテスは死は睡眠のようなものであるとしたら、死とはとても甘美なものであると言っています。みなさんは基本的に健康であるなら毎日睡眠をとっておられることと思います。以前よく健康関連の講演をしたとき、睡眠、寝ることがきらいな人はいますかと質問したところ、ひとりもきらいな人はいませんでした。朝起きるのが苦手で、もうちょっと寝かせてえなんてことがあるくらいです。
それで寝るということがきらいな人はひとりもいないわけですから、もういつでも死を迎える準備はできてますよなんて笑いを誘うネタにしたりしていたわけです。実はそう考えると人間は人生のなかで生死を繰り返しているとも考えられます。朝起きるときは生まれるということですし、夜疲れて寝るときは肉体的活動を休めるということで死を迎えるようなものです。もちろん心臓や副交感神経は動いているわけですが、(これが止まるとホントの死です)意識としては無の境地、すなわち自分という存在がなくなる状態になるわけです。
でも夢を見たりします。では夢というのはなんなんだと言われれば、それは潜在意識がフローしてきたもの、あるいは死後の世界につながっていて霊的な世界に心はつながっているからという人もいます。とりあえずここでは夢の話は置いておきます。ただここで言えることは人間には精神世界といえるもの、すなわち物質という観点では説明がつかないようなイシューがあるのだということです。脳科学の分野とかでさまざま研究はされていますが、やはり脳の機能という観点だけでは説明はできないのだと思います。
人生は生老病死という苦しみがあると仏教では解きます。キリスト教では堕落によって罪人になったがゆえに無知になって真理がわからない、それゆえに人は生死に対しても無知なのだそうです。
それゆえさまざまな宗教が死生観に対しては明確に決めてあり、信者はそれを信じることでそれらの不安をすべてとりのぞくことができているのです。それは死に対する恐怖からの解放であり、人生における苦痛の除去にほかなりません。私もいくつかの宗教の話を聞いて共感し、死生観といいうものがある程度固定されていたことでたいへん精神的にはラクに生きてくることができました。
宗教が麻薬(アヘン)であるという話はあながち間違ってはいないと考えられます。なぜなら死生観を明確にすることで人生の痛みを除去することができるのです。そしてその死生観が正しいかどうかなんていうことは極端な話、どうでもいいのです。なぜなら死んでからわかることなので死んだあと、間違っていたぞなんてクレームを言ってくる人はひとりもいないからです。したがって宗教のどの教理が正しいとか間違っているとか、輪廻があるとかないとか、霊界があるとかないとかすべては論じること自体があまり意味を持たないと思います。なぜならだれも立証できないからです。要は一人ひとりが自分でもっともそうだと思うものを信じて人生においてそれがとても有効な役割をしてくれるのならばそれでいいと思うのです。
ここで断っておきますが、私は決して宗教への入信をおすすめしているわけではありません。もうすでに宗教をお持ちの方はそれで納得されていれば、それはそれでいいのではないでしょうかという話です。ただ宗教もいろいろあるので、テロや反社会的活動がある宗教、すなわちカルトのような宗教は、結果的に自分の含め周囲の人びとを巻き込んでとんでもない人生を棒に振るようになってしまうので注意してほしいところです。社会的に安全な宗教はある面、国の法律や枠組みを大きく逸脱するような思想や活動はありません。また個人の生活が脅かされたり、人がものすごく変わるような洗脳も行われません。カルトの恐ろしいところは死という不確定なものをあまりに明確に描き上げ、それをネタに法外な金銭の要求をしたり、反社会的な活動へと駆り立てていくという危険性をはらんでいます。そして具体的に実現不可能と思われるようなことを具体的にやっていこうという実現主義とでも言ったらいいのか、そういうところに希望を感じて多くの信者を扇動していくのです。そして自分たちがすべて正しくて、世界の中心だくらいにすり込まれて社会一般の通常の価値観とはかけ離れた思考に陥りますので気を付けることが大切です。
とりあえず、日本は信教の自由が憲法でうたってあり、あらゆる宗教が存在し、心の拠り所として信仰をすることは精神安定上、有益な部分がたくさんあります。ホテルに泊まるとよく聖書や仏教書が置いてあるのも心のケアにそういったものが有効だからでしょう。刑務所でそういった書を手にして更生されるというのもあります。宗教は世界的にはさまざまな国々で紛争の火種となっているのも事実ですが、人類の心の平安を与えてくれているということも事実であると思います。今は私は無宗教な立場ですが、死ぬときはとりあえず実家が檀家になっているお寺のお世話になるか、あるいは最近は公共の墓地は無宗教の人も多いようで、そうなるかはわかりません。私自身は葬式や法事、また宗教というのは生きている人びとに必要なものという認識であるので、それは成り行きに任せたいと思っています。
とりあえず宗教の話はこれくらいにして、ここである程度の結論とまでいかなくても、方向性を出したいのは死というもの、死後の世界というものは一体あるのかないのか、どうとらえればいいのかということです。宗教的な観点でのとらえ方は個人個人に任せて、ここでは科学的に立証できないまでもせめて論理的に納得できるくらいの基準での話にしたいなとは思っています。もちろんそれをどうとらえるかも個人個人の話ですし、最初に漫談風味の話と前提してあるので、あまりムキになってケンカ腰で議論を交わすつもりもありません。おぼろげにそうなのかなあくらいに受け止めてもらえて人生、またがんばる気持ちになれたと言っていただけたらいいかと考えています。次回に尾のレベルを目指したいと思います。
そう考えると、半ば生や死に関して論じることはとてもナンセンスな気持ちにもなってしまうのです。世の中では不確定なことがらには言及せず、今を生きる上で必要な営みを毎日、瞬間瞬間繰り返しているだけで、またそれに集中している以上はそういった人間の本質的な問題を意識しなくていいので、ストレスなく悩むことなく生きていけるのです。でも身内や友人の死に直面したときにはどうしても死という問題に向き合わなければなりません。
実際問題として、人生を生きるということは、人間の本質に対して知りたいという欲求を半ば覆い隠して生きるようなもので、どうしても人生という刹那的な時間をただ楽しく有意義(意義あると決めて)に暮らすということにつきるのかもしれません。若ければ死はまだまだ先の話と考えて生きてもなんら不安も恐怖心も実感としてないかもしれません。でも今実際、高齢で死というものが現実問題としてふりかかってくるとか、若くても悩んで自殺願望があったりする人にとっては先送りできない問題です。
ここで死に対して、不安や恐怖心を抱いている人にちょっとラクになれる話をします。ギリシヤの哲人ソクラテスは死は睡眠のようなものであるとしたら、死とはとても甘美なものであると言っています。みなさんは基本的に健康であるなら毎日睡眠をとっておられることと思います。以前よく健康関連の講演をしたとき、睡眠、寝ることがきらいな人はいますかと質問したところ、ひとりもきらいな人はいませんでした。朝起きるのが苦手で、もうちょっと寝かせてえなんてことがあるくらいです。
それで寝るということがきらいな人はひとりもいないわけですから、もういつでも死を迎える準備はできてますよなんて笑いを誘うネタにしたりしていたわけです。実はそう考えると人間は人生のなかで生死を繰り返しているとも考えられます。朝起きるときは生まれるということですし、夜疲れて寝るときは肉体的活動を休めるということで死を迎えるようなものです。もちろん心臓や副交感神経は動いているわけですが、(これが止まるとホントの死です)意識としては無の境地、すなわち自分という存在がなくなる状態になるわけです。
でも夢を見たりします。では夢というのはなんなんだと言われれば、それは潜在意識がフローしてきたもの、あるいは死後の世界につながっていて霊的な世界に心はつながっているからという人もいます。とりあえずここでは夢の話は置いておきます。ただここで言えることは人間には精神世界といえるもの、すなわち物質という観点では説明がつかないようなイシューがあるのだということです。脳科学の分野とかでさまざま研究はされていますが、やはり脳の機能という観点だけでは説明はできないのだと思います。
人生は生老病死という苦しみがあると仏教では解きます。キリスト教では堕落によって罪人になったがゆえに無知になって真理がわからない、それゆえに人は生死に対しても無知なのだそうです。
それゆえさまざまな宗教が死生観に対しては明確に決めてあり、信者はそれを信じることでそれらの不安をすべてとりのぞくことができているのです。それは死に対する恐怖からの解放であり、人生における苦痛の除去にほかなりません。私もいくつかの宗教の話を聞いて共感し、死生観といいうものがある程度固定されていたことでたいへん精神的にはラクに生きてくることができました。
宗教が麻薬(アヘン)であるという話はあながち間違ってはいないと考えられます。なぜなら死生観を明確にすることで人生の痛みを除去することができるのです。そしてその死生観が正しいかどうかなんていうことは極端な話、どうでもいいのです。なぜなら死んでからわかることなので死んだあと、間違っていたぞなんてクレームを言ってくる人はひとりもいないからです。したがって宗教のどの教理が正しいとか間違っているとか、輪廻があるとかないとか、霊界があるとかないとかすべては論じること自体があまり意味を持たないと思います。なぜならだれも立証できないからです。要は一人ひとりが自分でもっともそうだと思うものを信じて人生においてそれがとても有効な役割をしてくれるのならばそれでいいと思うのです。
ここで断っておきますが、私は決して宗教への入信をおすすめしているわけではありません。もうすでに宗教をお持ちの方はそれで納得されていれば、それはそれでいいのではないでしょうかという話です。ただ宗教もいろいろあるので、テロや反社会的活動がある宗教、すなわちカルトのような宗教は、結果的に自分の含め周囲の人びとを巻き込んでとんでもない人生を棒に振るようになってしまうので注意してほしいところです。社会的に安全な宗教はある面、国の法律や枠組みを大きく逸脱するような思想や活動はありません。また個人の生活が脅かされたり、人がものすごく変わるような洗脳も行われません。カルトの恐ろしいところは死という不確定なものをあまりに明確に描き上げ、それをネタに法外な金銭の要求をしたり、反社会的な活動へと駆り立てていくという危険性をはらんでいます。そして具体的に実現不可能と思われるようなことを具体的にやっていこうという実現主義とでも言ったらいいのか、そういうところに希望を感じて多くの信者を扇動していくのです。そして自分たちがすべて正しくて、世界の中心だくらいにすり込まれて社会一般の通常の価値観とはかけ離れた思考に陥りますので気を付けることが大切です。
とりあえず、日本は信教の自由が憲法でうたってあり、あらゆる宗教が存在し、心の拠り所として信仰をすることは精神安定上、有益な部分がたくさんあります。ホテルに泊まるとよく聖書や仏教書が置いてあるのも心のケアにそういったものが有効だからでしょう。刑務所でそういった書を手にして更生されるというのもあります。宗教は世界的にはさまざまな国々で紛争の火種となっているのも事実ですが、人類の心の平安を与えてくれているということも事実であると思います。今は私は無宗教な立場ですが、死ぬときはとりあえず実家が檀家になっているお寺のお世話になるか、あるいは最近は公共の墓地は無宗教の人も多いようで、そうなるかはわかりません。私自身は葬式や法事、また宗教というのは生きている人びとに必要なものという認識であるので、それは成り行きに任せたいと思っています。
とりあえず宗教の話はこれくらいにして、ここである程度の結論とまでいかなくても、方向性を出したいのは死というもの、死後の世界というものは一体あるのかないのか、どうとらえればいいのかということです。宗教的な観点でのとらえ方は個人個人に任せて、ここでは科学的に立証できないまでもせめて論理的に納得できるくらいの基準での話にしたいなとは思っています。もちろんそれをどうとらえるかも個人個人の話ですし、最初に漫談風味の話と前提してあるので、あまりムキになってケンカ腰で議論を交わすつもりもありません。おぼろげにそうなのかなあくらいに受け止めてもらえて人生、またがんばる気持ちになれたと言っていただけたらいいかと考えています。次回に尾のレベルを目指したいと思います。
2013年6月11日火曜日
個の自立無くしてチームワークは成立しない!
日本のサッカーは選手間でパスを回しながら、なかなかシュートを打たず、結局いつの間にか相手にボールをとられてしまうというシーンをよく目の当たりにしました。それはまさに企業で稟議書が回っているようなイメージとオーバーラップしてしまうのです。勝手に蹴ってはずすと責任問題が生じるから、完璧なシチュエーションでないと決断できないという(石橋を叩いて渡る)日本人的な文化が根底にあることを実感するのです。失敗しない人は成功はしないなんて言葉がありますが、行動に出なければ、結果は出るはずがありません。私がサッカーファン全体の声を代弁できるとは思いませんが、おそらくシュートせずに負けるよりシュートしてはずして負けたほうがよほどスッキリするに違いありません。
先日ワールドカップ日本代表の本田選手が、「個」の力無くして勝つことはできないとチームの問題に言及しました。ヤンキースのイチロー選手にしてもチームがいくら勝っても自分が打てなかったら意味がないというスタンスをとります。海外でもまれた選手は日本的な和の文化や控えめな姿勢というのは勝負の世界ではマイナスと映るようです。本田選手の言いにくいことを公の場で語った勇気には敬服しますが、イチロー選手がWBCのとき低迷気味のチームを憂慮して選手全員に食事をご馳走しながらチームの一体感をつくりあげたことにはさらに感動します。
日本的な価値観ではみんなでつくりあげたとか、みんなで勝ち取ったというのは全体に波風立てずうまいまとめ方であるのかもしれません。松井選手においては自分が打つよりチームが勝つことが最優先という話をされているのを聞いたことがあります。彼の主張は日本人の美的感覚にしっくりきて日本人はとても共感できる考え方だと思います。またイチロー選手の自分は最低打てて、さらにチームも勝つという考え方にも共感できます。私としてはもっと露骨にチームがどうあれ自分が打てなきゃクビになるし、そうなれば試合に出れないから意味がないと露骨に本音を言う選手がいてもいいと思います。だってみんな職業としてやっているわけですから。
日本的な美的価値観というのは間違えると自己の責任というのがうやむやになる危険性もあります。組織、チームで行動しているとどうしても社会的手抜きというのはどうしても起こるようです。そういった組織的なマイナス面はあったとしても、やはり結果が出るにはちゃんと仕事をしている人がいるのです。もちろん試合というものも、やはり誰かがシュートしてゴールを決めている、あるいは打って点を入れたから勝てたわけで、プロ野球でも必ず試合後にヒーローインタビューがありますし、もっとも活躍した人を称えるわけです。
組織もチームワークのいいところは業績もあがり、さらに組織が活性化しパワーがあります。逆にダメになる企業は責任の所在がはっきりせず、みんなで頑張ったけど、やっぱりダメだった、だから倒産したというカタチになります。すなわち赤信号みんなで渡れば怖くないという集団心理の中で結局集団でおこなえば大丈夫という大きな錯覚の世界で生きているのです。ただ組織がまだまだ成熟、ある面老朽化といったほうがいいかもしれませんが、みんな真剣に頑張ろうとしているときは純粋に組織の問題があればそれと向き合い、なんとかしようとするのですが、そのうちどうにもならない壁にぶつかり、その状態が常態化すると徐々に学習性無力感から個の力は無責任な集団心理の中に埋没してしまうのです。
今まで不祥事を起こしたり、ダメになった企業を見ていると、ホントの意味でチームワークがとれているところはないように思います。イノベーションを起こし、企業再生が始まる企業はいわゆる「気づく個」がたくさん存在しているところであると思います。またそういう個をつぶさないように生かせる組織であり、組織風土があるところです。それには司令官や監督である経営トップや組織の上層部がそれぞれの個の能力が最大限に引き出される環境づくりが必要であると思います。
個人プレイとチームワークということで何か対立軸であるかのようにいつも議論されますが、実はこれは表裏一体の関係であるということがわかればよりうまくチームを回るようにあると考えられます。すなわち一般的に個人プレイと言われているのはチームの論理というよりもチームにおける自分の役割分担を認識せず、自己中心的な行動をさすのであって、ここでいうのはその逆の個の役割分担を明確に知りながら、柔軟に対処できる個人プレイのことです。それはすなわちチームの中で個の内容が有益に生かされていくことになるわけです。
チームプレイに矛盾しないカタチの個人プレイです。当然それぞれの個が強固になれば、チームの中で一見するとチームワークを乱すような動きに見えるときもあるかもしれません。でもそういった動きも含めてチームが無機質ではなく有機質に自由にカタチを変えていけるような動きができれば最高のチーム、組織になれると思います。個の自立とはチームや組織の中で自分の役割を明確に認識し、さらにそれをこなしたうえでプラスアルファで考えられるレベルに成熟しておくということであると思います。なぜなら自分のことさえできていれば、他人はどうでもいいというセクト主義的な組織、すなわち成果主義の弊害として副次的に出てくる思考をもってしまうからです。
やはりチームも組織も感情をもった人間によって形成されていることを考えると機械部品のような個になってしまってはホントの意味で結果を出すことはできません。そういった面では選手みんなでがんばろうと優勝にむけてチームをひとつにするためにイチロー選手がとった男気のある行動はとても印象に残っています。
最終的に人は他者によって変えられることはまずありません。もちろん洗脳するなら別です。それは本来のその人以外の人格を人為的にかぶせてつくってしまうものですから。でもホントに本人にとってもチームや組織にとっても大きくプラスになる方向に変えていくためには、本人自身の気づきしかありえないと考えます。個の自立、それは個の気づきから始まって成長、成熟がなされていくはずです。よく上司で部下の欠点ばかり見つけてはそれを指摘し、怒鳴ったり、叱ることばかりしている人がいますが、それは部下の自立どころか、部下の意識や思考を委縮させ、自立を阻害してしまう結果につながります。
私の信条として、ずっと心がけてきたのは、他人には10くらいしてあげたら、2ぐらいお願いしたらやってくれるかなということです。このレベルでつねに考えていれば、決して上から頭ごなしに叱ったりすることもないし、受容できる心の幅も広がります。よく叱れない上司は失格みたいな論調の本が出てたりしますが、その類の本に対して私は否定的です。叱ってうまくいくような部下は一時的には瞬間風速的な力を発揮したりしますが、長続きしません。それどころか心の奥底に傷を負っていて精神的には上司との間に間違いなく溝ができてしまうのです。
一昔前の体罰で育てられ、成長し、それを感謝しているという人ほど、今の若者への対処はできなくなっています。俺のときは殴られてなんぼだった、それにくらべ今の若者ときたら軟弱で…。時代が変わり、世代も組織や社会のあり方も大きく変わってきている中で旧態依然たる思考では対処できるはずがありません。時代の流れに左右されず支持される考え方ももちろんたくさんありますが、時代の流れとともに捨て去っていい考え方やそういった本もたくさんあることと思います。
チームも組織も人間のからだと同じでそれぞれの細胞や臓器が健康でそれぞれの役割をまっとうしてくれているからこそ、活動できるのです。でもどこかに支障が起きれば、全体が苦しむことになります。個人プレイの集大成こそが全体を形成し、最高のコンディションを維持し続けることができます。個を抑圧し、生きた人間でなく、ロボット化することで最終的には変化に対応できない組織になります。逆に個の能力が最大限に引き出されそういった個が融合して形成された組織こそがもっとも効率的な組織であると考えられます。
先日ワールドカップ日本代表の本田選手が、「個」の力無くして勝つことはできないとチームの問題に言及しました。ヤンキースのイチロー選手にしてもチームがいくら勝っても自分が打てなかったら意味がないというスタンスをとります。海外でもまれた選手は日本的な和の文化や控えめな姿勢というのは勝負の世界ではマイナスと映るようです。本田選手の言いにくいことを公の場で語った勇気には敬服しますが、イチロー選手がWBCのとき低迷気味のチームを憂慮して選手全員に食事をご馳走しながらチームの一体感をつくりあげたことにはさらに感動します。
日本的な価値観ではみんなでつくりあげたとか、みんなで勝ち取ったというのは全体に波風立てずうまいまとめ方であるのかもしれません。松井選手においては自分が打つよりチームが勝つことが最優先という話をされているのを聞いたことがあります。彼の主張は日本人の美的感覚にしっくりきて日本人はとても共感できる考え方だと思います。またイチロー選手の自分は最低打てて、さらにチームも勝つという考え方にも共感できます。私としてはもっと露骨にチームがどうあれ自分が打てなきゃクビになるし、そうなれば試合に出れないから意味がないと露骨に本音を言う選手がいてもいいと思います。だってみんな職業としてやっているわけですから。
日本的な美的価値観というのは間違えると自己の責任というのがうやむやになる危険性もあります。組織、チームで行動しているとどうしても社会的手抜きというのはどうしても起こるようです。そういった組織的なマイナス面はあったとしても、やはり結果が出るにはちゃんと仕事をしている人がいるのです。もちろん試合というものも、やはり誰かがシュートしてゴールを決めている、あるいは打って点を入れたから勝てたわけで、プロ野球でも必ず試合後にヒーローインタビューがありますし、もっとも活躍した人を称えるわけです。
組織もチームワークのいいところは業績もあがり、さらに組織が活性化しパワーがあります。逆にダメになる企業は責任の所在がはっきりせず、みんなで頑張ったけど、やっぱりダメだった、だから倒産したというカタチになります。すなわち赤信号みんなで渡れば怖くないという集団心理の中で結局集団でおこなえば大丈夫という大きな錯覚の世界で生きているのです。ただ組織がまだまだ成熟、ある面老朽化といったほうがいいかもしれませんが、みんな真剣に頑張ろうとしているときは純粋に組織の問題があればそれと向き合い、なんとかしようとするのですが、そのうちどうにもならない壁にぶつかり、その状態が常態化すると徐々に学習性無力感から個の力は無責任な集団心理の中に埋没してしまうのです。
今まで不祥事を起こしたり、ダメになった企業を見ていると、ホントの意味でチームワークがとれているところはないように思います。イノベーションを起こし、企業再生が始まる企業はいわゆる「気づく個」がたくさん存在しているところであると思います。またそういう個をつぶさないように生かせる組織であり、組織風土があるところです。それには司令官や監督である経営トップや組織の上層部がそれぞれの個の能力が最大限に引き出される環境づくりが必要であると思います。
個人プレイとチームワークということで何か対立軸であるかのようにいつも議論されますが、実はこれは表裏一体の関係であるということがわかればよりうまくチームを回るようにあると考えられます。すなわち一般的に個人プレイと言われているのはチームの論理というよりもチームにおける自分の役割分担を認識せず、自己中心的な行動をさすのであって、ここでいうのはその逆の個の役割分担を明確に知りながら、柔軟に対処できる個人プレイのことです。それはすなわちチームの中で個の内容が有益に生かされていくことになるわけです。
チームプレイに矛盾しないカタチの個人プレイです。当然それぞれの個が強固になれば、チームの中で一見するとチームワークを乱すような動きに見えるときもあるかもしれません。でもそういった動きも含めてチームが無機質ではなく有機質に自由にカタチを変えていけるような動きができれば最高のチーム、組織になれると思います。個の自立とはチームや組織の中で自分の役割を明確に認識し、さらにそれをこなしたうえでプラスアルファで考えられるレベルに成熟しておくということであると思います。なぜなら自分のことさえできていれば、他人はどうでもいいというセクト主義的な組織、すなわち成果主義の弊害として副次的に出てくる思考をもってしまうからです。
やはりチームも組織も感情をもった人間によって形成されていることを考えると機械部品のような個になってしまってはホントの意味で結果を出すことはできません。そういった面では選手みんなでがんばろうと優勝にむけてチームをひとつにするためにイチロー選手がとった男気のある行動はとても印象に残っています。
最終的に人は他者によって変えられることはまずありません。もちろん洗脳するなら別です。それは本来のその人以外の人格を人為的にかぶせてつくってしまうものですから。でもホントに本人にとってもチームや組織にとっても大きくプラスになる方向に変えていくためには、本人自身の気づきしかありえないと考えます。個の自立、それは個の気づきから始まって成長、成熟がなされていくはずです。よく上司で部下の欠点ばかり見つけてはそれを指摘し、怒鳴ったり、叱ることばかりしている人がいますが、それは部下の自立どころか、部下の意識や思考を委縮させ、自立を阻害してしまう結果につながります。
私の信条として、ずっと心がけてきたのは、他人には10くらいしてあげたら、2ぐらいお願いしたらやってくれるかなということです。このレベルでつねに考えていれば、決して上から頭ごなしに叱ったりすることもないし、受容できる心の幅も広がります。よく叱れない上司は失格みたいな論調の本が出てたりしますが、その類の本に対して私は否定的です。叱ってうまくいくような部下は一時的には瞬間風速的な力を発揮したりしますが、長続きしません。それどころか心の奥底に傷を負っていて精神的には上司との間に間違いなく溝ができてしまうのです。
一昔前の体罰で育てられ、成長し、それを感謝しているという人ほど、今の若者への対処はできなくなっています。俺のときは殴られてなんぼだった、それにくらべ今の若者ときたら軟弱で…。時代が変わり、世代も組織や社会のあり方も大きく変わってきている中で旧態依然たる思考では対処できるはずがありません。時代の流れに左右されず支持される考え方ももちろんたくさんありますが、時代の流れとともに捨て去っていい考え方やそういった本もたくさんあることと思います。
チームも組織も人間のからだと同じでそれぞれの細胞や臓器が健康でそれぞれの役割をまっとうしてくれているからこそ、活動できるのです。でもどこかに支障が起きれば、全体が苦しむことになります。個人プレイの集大成こそが全体を形成し、最高のコンディションを維持し続けることができます。個を抑圧し、生きた人間でなく、ロボット化することで最終的には変化に対応できない組織になります。逆に個の能力が最大限に引き出されそういった個が融合して形成された組織こそがもっとも効率的な組織であると考えられます。
2013年6月1日土曜日
人間って死んだらどうなるの?①
今日はいつもと趣向を変えて漫談テイストな話をしてみたいと思います。いつもPSIブログを愛読してくださっている方々はちょっとビックリされるかもしれません。えっ、いままでさんざん会社経営だの組織だの、教育だの、はたまた真面目に人生観を論じてきたのに、ここに来てオカルトですかなんて愕然とされるかもしれません。あるいはカルトチックなことをやたら批判してきたのにそんな不確定なことを言ってしまったら宗教、あるいは内容によってはカルトじゃないですかと言われるかもしれません。もちろん私は不確定なことは絶対に断言しません。もちろん宗教的な理由から信じておられる方を批判するつもりもありません。
真面目でかつ、ちょっとうんちくのあるような話をしたいと思うのですが、いずれにせよ人間として生まれたからには絶対避けて通れないのが「死」の問題です。そもそもこの死の問題に関しては誰しも普段の中であまり話題にしません。でもみんなが一度はおそらく考えたり、悩んだりしたことはあると思います。私はそもそも小学校低学年のときにおばあちゃんに可愛がられて育ったことも原因かもしれませんが、とても死に対していろいろ悩んだことがあります。2歳のとき、曽祖父が亡くなりそのことも覚えているのですが、やがて可愛がってくれる祖母との別れもいつも考えながら過ごしていました。
もともと死んだあとは無になる、死後の世界などというものは、ハナから信じなかった私は夕暮れ時になるとよくうつ状態に陥り、ひとり夕日を見ながら涙を流していました。なぜかと言うと死によって自分という存在がなくなるというどうにもやりきれない思いと恐怖心からです。でも死んだらどうなるのとは親には一切相談できませんでした。なぜなら答えが出ない質問であることを知っていたからです。祖母はそんな私をみてどうして泣いているのかと声をかけるのですが、絶対にその胸のうちを明かすことはできませんでした。
今回、死をテーマに選んだのは、私の中にいずれ触れなければならないテーマのひとつという考えがいつもあったからです。そしてそのテーマ自体があまりに重いのです。ですからそれは精神的にホントに落ち着いているときでなければ、なかなか書けないものです。でも今日たまたまそういう心境にいたって今キーボードを叩いているわけです。
年間日本では3万人の方々が自殺という人生の終わり方を選択しています。その理由を簡単に経済問題だとか、病気、人間関係だとかいろいろ言われはしますが、ホントの理由は本人しかわかりません。おそらく死をもってしか解決できないという状況に追い込まれたということは言えるのではないかと思います。日本は物質的にはかなり豊かになって、どんなに悲惨な状況になっても生活保護もありますし、なんとか生きていける国です。でも豊かであるがゆえに、物質的な問題ではない精神的な悩みが多くなっています。まさにマズローの欲求5階層説でも指摘されるように、すでに日本人はより内的な、本質的な問題で悩む時代になっています。
普段、死の問題を気にしながら生活している人は熱心に宗教をしている人くらいしかいないでしょう。ところで日本の宗教人口はゆうに2億人を超えているようです。日本の人口の2倍になるというわけです。それは考えれば納得できます。日本人は育った近くの神社の氏子として登録されていて、なお仏教の檀家にもなっていたりするわけです。そして学生時代や成人して、へんな宗教(失礼)に引っかかればひとりが3つも宗教法人に登録されていたりするわけです。宗教もころころ変わったりすれば、もっと多いかもしれません。いちいち脱会でもしない限り除名されることはなかったりしますから。私も学生時代や若いころに誘われて入会してしまった宗教を入れればもしかしたら4~5つくらい宗教をもっていることになっているかもしれません。もちろん今は特定の宗教には属していない状況です。
宗教は実際の信徒数より多い数になっていてあたりまえと考えるべきです。もし信徒数によって固定資産税みたいに税金がかかるようになれば、宗教は実際の信徒数をもっと正確に把握しようとするかもしれません。ただカルトチックな宗教ほど虚勢を張るので実際の信徒数より大きな数の信者が所属しているようになっているはずです。日本には国教というものもありませんから、宗教の数は増えるいっぽうです。でなぜ日本はカルト宗教が増えたりそれに入る人があとを立たないかといえば、やはり国教がないということと普段の生活が宗教意識とほど遠いため、逆に入りやすいのだと思います。ロシアで某カルト教団が大きな基盤をつくったのも共産主義というひとつの思想が崩壊してそのぽっかり空いたところにたまたまその教団の思想が入っていったということを言う人がいます。日本は雑多な宗教がある反面、ホントの意味で宗教をもっている人がいないという状況なのでカルトな思想が入り込みやすいのです。
国教があったり、宗教がベースとなっている国々は、すでに国民全体が共通した死生観というものを共有しています。でも日本人はさまざまです。それはすばらしいことなのですが、宗教がない事によるカルト宗教の餌食になりやすいというリスクも抱えています。だからと言って国教つくれとか言うつもりもないですし、何かここで宗教を立ち上げようというわけでもありません。PSIのコンセプトは不確定なことは断定、言及しないということなので。ただこの問題に関しては絶対避けて通れませんし、そのことを回避しての人生の喜びというのはホントの意味で深みがないと思います。したがっていずれ取り扱わなければならないテーマなのです。
なにか漫談テイストな話にしようと思いつつ、やはり真面目で深刻な話になってしまいますね。とりあえず重いテーマなので今日はこの辺にしておきます。
真面目でかつ、ちょっとうんちくのあるような話をしたいと思うのですが、いずれにせよ人間として生まれたからには絶対避けて通れないのが「死」の問題です。そもそもこの死の問題に関しては誰しも普段の中であまり話題にしません。でもみんなが一度はおそらく考えたり、悩んだりしたことはあると思います。私はそもそも小学校低学年のときにおばあちゃんに可愛がられて育ったことも原因かもしれませんが、とても死に対していろいろ悩んだことがあります。2歳のとき、曽祖父が亡くなりそのことも覚えているのですが、やがて可愛がってくれる祖母との別れもいつも考えながら過ごしていました。
もともと死んだあとは無になる、死後の世界などというものは、ハナから信じなかった私は夕暮れ時になるとよくうつ状態に陥り、ひとり夕日を見ながら涙を流していました。なぜかと言うと死によって自分という存在がなくなるというどうにもやりきれない思いと恐怖心からです。でも死んだらどうなるのとは親には一切相談できませんでした。なぜなら答えが出ない質問であることを知っていたからです。祖母はそんな私をみてどうして泣いているのかと声をかけるのですが、絶対にその胸のうちを明かすことはできませんでした。
今回、死をテーマに選んだのは、私の中にいずれ触れなければならないテーマのひとつという考えがいつもあったからです。そしてそのテーマ自体があまりに重いのです。ですからそれは精神的にホントに落ち着いているときでなければ、なかなか書けないものです。でも今日たまたまそういう心境にいたって今キーボードを叩いているわけです。
年間日本では3万人の方々が自殺という人生の終わり方を選択しています。その理由を簡単に経済問題だとか、病気、人間関係だとかいろいろ言われはしますが、ホントの理由は本人しかわかりません。おそらく死をもってしか解決できないという状況に追い込まれたということは言えるのではないかと思います。日本は物質的にはかなり豊かになって、どんなに悲惨な状況になっても生活保護もありますし、なんとか生きていける国です。でも豊かであるがゆえに、物質的な問題ではない精神的な悩みが多くなっています。まさにマズローの欲求5階層説でも指摘されるように、すでに日本人はより内的な、本質的な問題で悩む時代になっています。
普段、死の問題を気にしながら生活している人は熱心に宗教をしている人くらいしかいないでしょう。ところで日本の宗教人口はゆうに2億人を超えているようです。日本の人口の2倍になるというわけです。それは考えれば納得できます。日本人は育った近くの神社の氏子として登録されていて、なお仏教の檀家にもなっていたりするわけです。そして学生時代や成人して、へんな宗教(失礼)に引っかかればひとりが3つも宗教法人に登録されていたりするわけです。宗教もころころ変わったりすれば、もっと多いかもしれません。いちいち脱会でもしない限り除名されることはなかったりしますから。私も学生時代や若いころに誘われて入会してしまった宗教を入れればもしかしたら4~5つくらい宗教をもっていることになっているかもしれません。もちろん今は特定の宗教には属していない状況です。
宗教は実際の信徒数より多い数になっていてあたりまえと考えるべきです。もし信徒数によって固定資産税みたいに税金がかかるようになれば、宗教は実際の信徒数をもっと正確に把握しようとするかもしれません。ただカルトチックな宗教ほど虚勢を張るので実際の信徒数より大きな数の信者が所属しているようになっているはずです。日本には国教というものもありませんから、宗教の数は増えるいっぽうです。でなぜ日本はカルト宗教が増えたりそれに入る人があとを立たないかといえば、やはり国教がないということと普段の生活が宗教意識とほど遠いため、逆に入りやすいのだと思います。ロシアで某カルト教団が大きな基盤をつくったのも共産主義というひとつの思想が崩壊してそのぽっかり空いたところにたまたまその教団の思想が入っていったということを言う人がいます。日本は雑多な宗教がある反面、ホントの意味で宗教をもっている人がいないという状況なのでカルトな思想が入り込みやすいのです。
国教があったり、宗教がベースとなっている国々は、すでに国民全体が共通した死生観というものを共有しています。でも日本人はさまざまです。それはすばらしいことなのですが、宗教がない事によるカルト宗教の餌食になりやすいというリスクも抱えています。だからと言って国教つくれとか言うつもりもないですし、何かここで宗教を立ち上げようというわけでもありません。PSIのコンセプトは不確定なことは断定、言及しないということなので。ただこの問題に関しては絶対避けて通れませんし、そのことを回避しての人生の喜びというのはホントの意味で深みがないと思います。したがっていずれ取り扱わなければならないテーマなのです。
なにか漫談テイストな話にしようと思いつつ、やはり真面目で深刻な話になってしまいますね。とりあえず重いテーマなので今日はこの辺にしておきます。
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