ずいぶんご無沙汰しております。今日は久々にアップします。
今日は普段、私が感じていることを述べてみたいと思います。
ビジネスの基本は何か?ということですが、まずビジネスとは何かを考えてみると、
市場(顧客)が必要とする商品(価値も含めて)をそれらが納得する価格で提供することで収益を上げること
と言えるのではないかと思います。
したがってそこに関わる人びとが納得して、あるいは自ら進んで取り組むことができる内容が必要であると思います。
ところで、ビジネスは二通りあると思います。
ひとつは「市場にあまり必要でない(魅力のない)、納得されない価格設定など」の商品を人間力(説得能力、話術、テンションの高さ、…)でもって販売する。
もうひとつは「市場に必要とされ(十分魅力のある)、納得できる価格設定など」の商品をシステマチックに(宣伝や流通できるスキームの構築をめざして)個々の人間力に依存しないカタチで販売する。
通常、一般の企業では後者の手法でビジネスは進められており、売れるシステムづくりに意識や時間の多くを割いていると考えられます。ただネットワークビジネスや訪販、通販などにおいて、前者のようなかなり人間力に依存した販売というのも行われております。
ただ前者のようなビジネススタイルでもビジネスに関わる人、顧客も含めて何らかの納得できる要因があれば、多少は業績は上がると考えられます。それはビジネスで取り組む人へのインセンティヴ(頑張る誘発要素)があればこそなのです。
よく小売の販売会社の経営者が、社員が頑張らない理由がわからず悩んでいるというのを目にするのですが、原因はいたって明確です。それは
戦える武器(商品やそのコンセプト、販売ノウハウ)がないにも関わらず、戦場に出て戦えとお尻を叩いているケースです。老朽化した武器では戦うことはできないのです。部下や社員は
“これならいける!”
というものが欲しいのです。案外できる社員、部下ならそういった武器をすでに提案していたかも知れないのです。ただ経営者や上司の盲点は社員や部下よりも長年にわたり既存の商品やビジネスコンセプトに依存してきたため、経路依存の考え方というのが身に染みていて、自分より目下のもの、若い人びとが提案する内容が耳に入ってこないということがあるのです。それで結局社員や部下は提案して聞いてもらえないことは、言うだけ無意味なので口を閉ざしてしまうのです。
ホントにできる経営者、上司というのは、自己内省ができる人であり、さらに社員や部下、そして外部の情報や考え方を積極的に取り入れようとする人です。長年にわたり経営者、上司という立場にある人びとの多くが陥りやすいのはすべて自分が正しい、あるいは自分にしか策はないと傲慢になってしまい、部下や社員の提案を聞かないという状況なるということです。とくにずっと内向きのビジネスで既存の流通、既存の手法、既存の商品に頼ってきた人は、開拓精神はすでに消滅して、内弁慶体質から社内では裸の王様状態となってしまっている人も結構見てきました。
社員や部下のモチベーションを上げるにはどうしたらいいか?ビジネスを軌道にのせるにはどうしたらいいか?経営者や管理職ができることと営業社員ができることは明確に違います。ただビジネスがうまくいくかどうかは明らかに前者です。社員の悪口を言う経営者とかもいますが、そういう人を見ると、この会社はもうダメだなと思ってしまいます。
経営者や上司ができるビジネスで収益をあげる方法は、再三言いますが、
“これならいける!”
という武器(商品、そのコンセプト、…)を提示することだと思います。ちなみにその武器というのは灯台下暗し、案外目の前の部下や社員の頭の中にあったりするのですが、それに気づかないケースがあります。とにかく経営者はそこに気づくような柔軟な思考ができるように意識するというのが重要です。性格的なものもありますが、ある面新しもの好きのミーハーを目指すというのがおススメです。
最近の若い者は…といった言葉は以前よく聞きましたが、実際は逆でダメなお年寄りも増えているというのは現代社会の犯罪を見ると明白です。年を取ることが悪いことではなく、それに伴い人(特に自分より若い人や部下)の話を聞かない、提案や指摘すると逆ギレするなどするようになることが問題だと言いたいわけです。そういう人は概して過去の栄光にしがみつく人が多く、過去の話しかしません(できません)。でもビジネスシーンというのは今この時、さらには未来を見通して、考えなければならないものです。私は「若者は未来を語るが、老人は過去を語る。なぜなら未来はもうないから。」という話をするのですが、私の言っているのは決して年齢的なものではなくあくまで思考、考え方のことを言っているわけです。事実私の知っている年配の方がたはとても謙虚で純粋、若者よりもエネルギッシュでバイタリティもあり、生き生きされてみんなから愛されるキャラです。
経営者や上司の立場にある人びとの中には耳が痛い?それならば救いようがありますが、全く自分のこととは考えない人もいるでしょう。そういう方はあまり参考にならないかもしれません。ただビジネスを何とかうまく軌道にのせたい、本気で何とかしたいという人には多少は少なからず参考にしていただけるのではないかと思います。
パラダイムシフト研究所
ものごとのとらえ方、考え方を変える(フレームワーク)だけで問題解決の糸口が見つかります。重荷を下ろして人生を楽しみましょう!!
かけがえのない人生、大切な人に伝えましょう!トラックバックも大歓迎。しあわせの輪をひろげていきましょう!
2015年6月11日木曜日
2015年1月1日木曜日
新年を迎えて
PSIブログを愛読してくださっている皆様、新年あけましておめでとうございます。
昨年は皆様にとってどんな一年だったでしょうか?
ここ2年の自公政権の日本は戦後、 類を見ないほど急激な変化を見せています。
個人的には円安誘導の経済体制から輸入業界は大打撃、 きびしい環境になっております。
一部の輸出中心の企業をはじめ収益上位の大企業と公務員はアベノ ミクスの恩恵によって潤ってはいるもののほぼ9割以上の国民には福祉カット、円安倒産、物価上昇、消費増税、… でとても暮らしにくい社会と化しています。結局大企業からの収益のトリクルダウンはまったく実行はきたいできず。
今年も低い投票率で再度実権を握った自公政権はさらに民意と真逆の 原発推進、武器輸出、集団自衛権行使、特定秘密保護法乱用、憲法改正、消費増税、 大企業優遇による格差社会拡大…と国民は全体的にどんどんきびしい状況に追いやられるであろうことが予想されます。
とにかく香港で起こったデモや沖縄の県知事選にみるような市民パワーは与えられた民主主義の国、日本では表出することはないでしょう。我慢強いということの裏には邑社会、排他主義といった同調圧力、集団圧力が根強い日本であることは間違いありません。
日本は民主主義というより比較的理想的な社会主義体制が維持されてきたのではないかと思うのですが、今後、日本人はそれぞれが情報リテラシー度を高め、事の核心部分を見極めて問題に取り組むことが必要であると思います。明らかに受難の時代はもうすぐ目の前に来ているわけですから。今までの見て見ぬふり、臭いものには蓋、長いものに巻かれろといった日本人的発想では限界を迎えることは間違いないと考えざるをえません。
ということで私も今年は自分に甘んじることなく、能動的に精力的に活動していきたいと思っております。
今年もよろしくお願いします(^0^)/
2014年12月24日水曜日
ストレスフリーを目指す生き方
食品添加物、環境ホルモン、PM2.5、放射能、薬害…と現代人を取り巻く環境は明らかに不自然な人工的なものであふれています。
本来人間のからだが摂取してはいけないもの、自然界にないとされるものがどんどん蓄積されてさまざまなからだの悩みや疾病を引き起こしていることは紛れもない事実であると言えます。それに加えて人間関係や人間が作り出す制度的な制約により、精神的なストレスもどんどん増える傾向にあります。前者に対する対処はここではお話ししませんが、少なくとも後者の与える影響に関しては少しでも軽減して健康づくりに役立てていただきたいと思うわけです。
PSIブログにおいてはストレスを回避する方法として二点お話ししました。それは自分に対してと自分を取り巻く環境に対してのとらえ方です。
①あきらめる(他者はじぶんとは違うという前提)
②どう思われてもいい(自分軸を立てて周りに左右されない思考)
の二点ですが、これはなかなか実践するのは難しい面があります。人間は「人」という字を見てみればわかるように互いに支え合って(関係性を持ちながら)生きているのが実情だからです。
無理だよと最初からあきらめる方はこの二つの考え方の奥深さを知っていただくとなるほどと実感いただけるのではと思います。実はこの二つのことがらは再三にわたって私がお話ししてまいりました「空気を読む」ということができてこそこの二点が生きてくるのです。ただ空気を読み過ぎてこれはできないという方は自分中心に空気を読み過ぎるといういうことになっているはずです。
例えば守りに走ったり、保身に走る人は自分が可愛いあまりこれができなくなります。割り切りが足りない、客観的に自分を見れない。自分の置かれた立場が理解できていないという自分本位の意識が強すぎると結果としてこれはできなくなります。わかりやすく例をあげてご説明しますと、警察が犯人を追う映画で主人公のパートナーの一人はもう数か月で定年退職を控えています。この期間事件も起きず無難に仕事を終えて終わりたいのですが、そういうときに限って(本人にしたらそう感じる)とんでもない事件に巻き込まれるのです。結果的にもうそういう宿命だと思ってやりきると事件は解決という話なのです。
みなさんも少なからずそういった体験をされているのではないでしょうか?泣きっ面に蜂という状況もそうですし、すべてがうまくいって悠長に構えていたら、寸前に問題がいろいろ明らかになってたいへんだったとか…。とにかくそういう時こそ、いつもと変わらない意識でいればなんとかうまく乗り切れるものです。やはりこういったことは圧倒的に場数を踏んでいる人のほうが強いということは言えると思います。
私の場合は半ばそういったことがあまりに多く、それでこの二点に集約されると結論を出してつねにこの二点を肝に銘じながら対処していると言えます。
空気を読み過ぎて、緊張してどうしたらいいかわからなくなるとかパニくるといった状況になるのは空気を自分本位に読み過ぎているだけだと言えるわけです。例えば会社の会議で会議が反対意見も何も出ないが明らかに誰から見ても変な方向に行っている状況というのがあります。よく集団浅慮(グループシンク)という状態です。その時いわゆる空気を読み過ぎて(自分本位で守りに入る)という人はそのまま流れに流されてしまう人です。でも空気を察して全体の状況を俯瞰したり第三者の視点で見ることができれば、その空気感を壊すことこそ、ホントの意味で空気を読んで行動するということだと言えます。すなわち空気を読むのはどの視点で空気を読むかによって大きく行動が異なってくるということになります。
守りに入るあまり空気に飲み込まれる(長いものに巻かれる)人と全体の(自分を含めた)空気を全体の目的意識という観点から見て読むのかによって全然行動が変わってきます。より個人的な立場を重視した前者と全体やみんなの目的を意識した後者では最初は後者は理解されないかもしれませんが、結果的には信頼を得ることにつながります。
聖書でイエスキリストの「生きんとするものは死に、死なんとするものは生きる」という言葉にも通じるかもしれません。なるべく自分を客観視し、俯瞰し、自分の人生は自分が主人公であるという以上に自分が監督や脚本家、演出家の立場に立つとするならば、もっと楽しくゆとりをもって行動できるかもしれません。
俳優の高倉健さんは「不器用ですから」と言いながら自分を演出していたような気がします。ホントに不器用なのではなく不器用という謙虚な立場を表明することで独特の個性を周りが受容できるように演出したと感じるのは私だけでしょうか?もしそうだとするならば不器用どころか、計算された演出力というのをかんじてしまいます。
さまざまな健康上の悩みがある現代社会、その要因の一つがストレスであると言われています。少なくとも自分で何とかできる手っ取り早い方法としてストレスだけでも軽減できるならばどれほどいいでしょうか。このブログを読んでいただいてもしこれは使えるなと思っていただければ、ぜひ実践してみてください。私は極力ストレス要因は寄せ付けないようにしています。このまま放置しておくとストレス要因となるものは徹底して無くすよう行動しています。またそれは当然のようにあることなのでそのプロセスがゲームのように楽しみながら対処しています。
楽しむことができるようなものであるならば、それは生活に刺激を与え、細胞を活性化させるようなものでもあったりするわけです。とにかくあげればきりがないほど病気を引き起こすような原因にあふれている現代社会、ストレスくらいは自分で管理できる生活を心がけたいものですね。
本来人間のからだが摂取してはいけないもの、自然界にないとされるものがどんどん蓄積されてさまざまなからだの悩みや疾病を引き起こしていることは紛れもない事実であると言えます。それに加えて人間関係や人間が作り出す制度的な制約により、精神的なストレスもどんどん増える傾向にあります。前者に対する対処はここではお話ししませんが、少なくとも後者の与える影響に関しては少しでも軽減して健康づくりに役立てていただきたいと思うわけです。
PSIブログにおいてはストレスを回避する方法として二点お話ししました。それは自分に対してと自分を取り巻く環境に対してのとらえ方です。
①あきらめる(他者はじぶんとは違うという前提)
②どう思われてもいい(自分軸を立てて周りに左右されない思考)
の二点ですが、これはなかなか実践するのは難しい面があります。人間は「人」という字を見てみればわかるように互いに支え合って(関係性を持ちながら)生きているのが実情だからです。
無理だよと最初からあきらめる方はこの二つの考え方の奥深さを知っていただくとなるほどと実感いただけるのではと思います。実はこの二つのことがらは再三にわたって私がお話ししてまいりました「空気を読む」ということができてこそこの二点が生きてくるのです。ただ空気を読み過ぎてこれはできないという方は自分中心に空気を読み過ぎるといういうことになっているはずです。
例えば守りに走ったり、保身に走る人は自分が可愛いあまりこれができなくなります。割り切りが足りない、客観的に自分を見れない。自分の置かれた立場が理解できていないという自分本位の意識が強すぎると結果としてこれはできなくなります。わかりやすく例をあげてご説明しますと、警察が犯人を追う映画で主人公のパートナーの一人はもう数か月で定年退職を控えています。この期間事件も起きず無難に仕事を終えて終わりたいのですが、そういうときに限って(本人にしたらそう感じる)とんでもない事件に巻き込まれるのです。結果的にもうそういう宿命だと思ってやりきると事件は解決という話なのです。
みなさんも少なからずそういった体験をされているのではないでしょうか?泣きっ面に蜂という状況もそうですし、すべてがうまくいって悠長に構えていたら、寸前に問題がいろいろ明らかになってたいへんだったとか…。とにかくそういう時こそ、いつもと変わらない意識でいればなんとかうまく乗り切れるものです。やはりこういったことは圧倒的に場数を踏んでいる人のほうが強いということは言えると思います。
私の場合は半ばそういったことがあまりに多く、それでこの二点に集約されると結論を出してつねにこの二点を肝に銘じながら対処していると言えます。
空気を読み過ぎて、緊張してどうしたらいいかわからなくなるとかパニくるといった状況になるのは空気を自分本位に読み過ぎているだけだと言えるわけです。例えば会社の会議で会議が反対意見も何も出ないが明らかに誰から見ても変な方向に行っている状況というのがあります。よく集団浅慮(グループシンク)という状態です。その時いわゆる空気を読み過ぎて(自分本位で守りに入る)という人はそのまま流れに流されてしまう人です。でも空気を察して全体の状況を俯瞰したり第三者の視点で見ることができれば、その空気感を壊すことこそ、ホントの意味で空気を読んで行動するということだと言えます。すなわち空気を読むのはどの視点で空気を読むかによって大きく行動が異なってくるということになります。
守りに入るあまり空気に飲み込まれる(長いものに巻かれる)人と全体の(自分を含めた)空気を全体の目的意識という観点から見て読むのかによって全然行動が変わってきます。より個人的な立場を重視した前者と全体やみんなの目的を意識した後者では最初は後者は理解されないかもしれませんが、結果的には信頼を得ることにつながります。
聖書でイエスキリストの「生きんとするものは死に、死なんとするものは生きる」という言葉にも通じるかもしれません。なるべく自分を客観視し、俯瞰し、自分の人生は自分が主人公であるという以上に自分が監督や脚本家、演出家の立場に立つとするならば、もっと楽しくゆとりをもって行動できるかもしれません。
俳優の高倉健さんは「不器用ですから」と言いながら自分を演出していたような気がします。ホントに不器用なのではなく不器用という謙虚な立場を表明することで独特の個性を周りが受容できるように演出したと感じるのは私だけでしょうか?もしそうだとするならば不器用どころか、計算された演出力というのをかんじてしまいます。
さまざまな健康上の悩みがある現代社会、その要因の一つがストレスであると言われています。少なくとも自分で何とかできる手っ取り早い方法としてストレスだけでも軽減できるならばどれほどいいでしょうか。このブログを読んでいただいてもしこれは使えるなと思っていただければ、ぜひ実践してみてください。私は極力ストレス要因は寄せ付けないようにしています。このまま放置しておくとストレス要因となるものは徹底して無くすよう行動しています。またそれは当然のようにあることなのでそのプロセスがゲームのように楽しみながら対処しています。
楽しむことができるようなものであるならば、それは生活に刺激を与え、細胞を活性化させるようなものでもあったりするわけです。とにかくあげればきりがないほど病気を引き起こすような原因にあふれている現代社会、ストレスくらいは自分で管理できる生活を心がけたいものですね。
2014年10月3日金曜日
学習:座学と体験から得られること
私は権威主義、属人思考の弊害というのをいつも考えて行動しています。
会社という組織では前任の上司がひどかったりして、後任にいい人が来たりするとそのコントラスト効果から実際以上にいい人に見えてしまうことがあります。それでその人の方向性という以上にその人の考えや人間性自体に傾倒してしまうことがあります。
それ自体は悪いことではありませんが、人間は完璧でないという前提でつねに接することが必要だと思います。人間はちやほやされたり持ち上げられたりすると知らず知らず傲慢になって独裁的な思考、行動に変容してしまったりするからです。上司や自分が信じてたり、あこがれていた人が変貌したとき、あまりにのめりこんでいたらそこから抜け出すことはできません。パートナーのDVがひどいのになかなか別れられない人はそういう状況であろうと思います。最初からDVがひどい人などいないし、人間が変容、あるいは本性が出たと言ってもいいかもしれません。部下やフォロワーの立場は属人思考に注意しなければならないと思うのです。
地位を与えられた人で傲慢になったり勘違いしてしまう人は本人の問題もあるし、周囲がそのようにつくってしまうということもある。ただ考えが深かったり、いろいろ勉強している人は「裸の王様」にされないようにわざと役職で呼ばせなかったり、組織内での地位は役割分担であると明確にして部下に対してエラそうにしない人もいます。
役職で呼ばせないことを上司としての責任回避だという人がいるがそれは違うと思います。むしろ役職で呼ばせている人ほど、責任をとらない傾向にあるのではと思います。それは私の経験上そうだということです。とにかく、傲慢で内省、学習しない人は、何か失敗があっても自分に責任があるとか問題がるととらえないからです。とにかく威厳、権威、権力だけで統治しようという考え方はとても危険だと思いますし、そういう組織のほうがモラルハザードやコンプラ違反も起きやすのです。なぜなら部下はマイナス評価となる事がらをどんどん隠蔽するようになるからです。
企業として業績を上げたいのか、自分がよく思われたのか(裏では陰口のオンパレードだが)どちらなのかよく考える必要があります。実利をとるか見栄をとるか、それが重要です。失敗を許容する器をもって社員により学習環境を提供できたと前向きに考えることができるかどうかが重要だと思うのです。
人間も企業も失敗を肥やしに成長したほうがよほどいいと思います。
剛腕にやりすぎて部下や取引先からしっぺ返しを受けたような経験こそ人間を成長させるきっかけになります。そういった学習ができることはとても本人にとっても周囲にとってもいいことだと思います。また私は不祥事を起こした企業はずっと悪いというイメージを持っていません。もちろん経営者が内省し、考えを改めないような企業はだめですが…。むしろ膿が出て改善ができた企業は信用できます。逆に優等生の企業の中でコンプライアンス違反やさまざまな問題が常態化していることもあるかもしれません。そういった負の部分がまったく明るみに出ない企業や組織こそ怖いと言えなくもありません。
したがって人間も組織も一度大きな失敗して新しく出直せば、逆に偏見を持たず受け入れてあげることも大切だと思います。もちろん最善なのは自分たちで問題に気づく力が備わっていて改善できるに越したことはないのですが、社会的制裁を受けることで正すことができればそれはそれでいいことだと思います。
会社という組織では前任の上司がひどかったりして、後任にいい人が来たりするとそのコントラスト効果から実際以上にいい人に見えてしまうことがあります。それでその人の方向性という以上にその人の考えや人間性自体に傾倒してしまうことがあります。
それ自体は悪いことではありませんが、人間は完璧でないという前提でつねに接することが必要だと思います。人間はちやほやされたり持ち上げられたりすると知らず知らず傲慢になって独裁的な思考、行動に変容してしまったりするからです。上司や自分が信じてたり、あこがれていた人が変貌したとき、あまりにのめりこんでいたらそこから抜け出すことはできません。パートナーのDVがひどいのになかなか別れられない人はそういう状況であろうと思います。最初からDVがひどい人などいないし、人間が変容、あるいは本性が出たと言ってもいいかもしれません。部下やフォロワーの立場は属人思考に注意しなければならないと思うのです。
地位を与えられた人で傲慢になったり勘違いしてしまう人は本人の問題もあるし、周囲がそのようにつくってしまうということもある。ただ考えが深かったり、いろいろ勉強している人は「裸の王様」にされないようにわざと役職で呼ばせなかったり、組織内での地位は役割分担であると明確にして部下に対してエラそうにしない人もいます。
役職で呼ばせないことを上司としての責任回避だという人がいるがそれは違うと思います。むしろ役職で呼ばせている人ほど、責任をとらない傾向にあるのではと思います。それは私の経験上そうだということです。とにかく、傲慢で内省、学習しない人は、何か失敗があっても自分に責任があるとか問題がるととらえないからです。とにかく威厳、権威、権力だけで統治しようという考え方はとても危険だと思いますし、そういう組織のほうがモラルハザードやコンプラ違反も起きやすのです。なぜなら部下はマイナス評価となる事がらをどんどん隠蔽するようになるからです。
企業として業績を上げたいのか、自分がよく思われたのか(裏では陰口のオンパレードだが)どちらなのかよく考える必要があります。実利をとるか見栄をとるか、それが重要です。失敗を許容する器をもって社員により学習環境を提供できたと前向きに考えることができるかどうかが重要だと思うのです。
人間も企業も失敗を肥やしに成長したほうがよほどいいと思います。
剛腕にやりすぎて部下や取引先からしっぺ返しを受けたような経験こそ人間を成長させるきっかけになります。そういった学習ができることはとても本人にとっても周囲にとってもいいことだと思います。また私は不祥事を起こした企業はずっと悪いというイメージを持っていません。もちろん経営者が内省し、考えを改めないような企業はだめですが…。むしろ膿が出て改善ができた企業は信用できます。逆に優等生の企業の中でコンプライアンス違反やさまざまな問題が常態化していることもあるかもしれません。そういった負の部分がまったく明るみに出ない企業や組織こそ怖いと言えなくもありません。
したがって人間も組織も一度大きな失敗して新しく出直せば、逆に偏見を持たず受け入れてあげることも大切だと思います。もちろん最善なのは自分たちで問題に気づく力が備わっていて改善できるに越したことはないのですが、社会的制裁を受けることで正すことができればそれはそれでいいことだと思います。
2014年4月19日土曜日
リーダーはだれよりも熱く、したたかたれ!
今日は私の経験をふまえて、リーダーとは最低こうあるべきだという一つの提案をしていきたいと思います。世の中に完璧なリーダーというのは、いまだにはっきりと言及することはできません。いろんな学者がいろんなタイプのリーダー像というものを提示し、いろんな経営者が経験にもとづく持論で理想的なリーダー像というものを言及しています。それでも万民が納得するようなリーダー像というのは特定できないのではと思います。
知的で論理的、いつも冷静な判断ができるリーダーもいれば、逆に感情的で人間臭いがみんながインスパイア(行き過ぎると洗脳とも言われる可能性もありますが)されるようなカリスマ性のあるリーダーもいます。
ただ日本では自分で起業した創業者でなければ、どちらかといえば独裁的に力づくで組織を引っ張っていくようなパワーのあるリーダーより、人間関係のバランスをとりながら上に上がっていった生え抜きのリーダーが多いように感じます。なぜなら前者のようなタイプは組織の中でいつのまにか浮いた存在になり、昇進のレースからは外される可能性が大きいと思うからです。もちろんそういった人材をうまく組織のトップまで上り詰められる組織は相当組織の上位者たちや同僚においても器のある人たち、あるいは学習することでそういった人材の活用を善しと認めた組織なのかもしれません。
いずれにせよ、上司との関係、部下との関係、そして同僚との関係そして取引先からの印象までもたいへんいい評価を得ているバランス感覚のいい人が組織においてはヒエラルキーを上りつめていく人であると考えてもあながち間違いではないと思います。
ところで今日のタイトルは`リーダーはだれよりも熱く、したたかたれ!’というものです。当然一見するとワンマンで独裁的、わがままでやりたいことは絶対引かずにやり遂げるというイメージがあるかもしれません。当然、だれよりも熱くというのはそういう要素が往々にしてありますが、したたかという観点はやはり空気を読んでバランスよくという話になるのです。当然両方の要素が重要ですが、今日は後者のバランス型のリーダーが陥る問題に関して言及したいと思います。
もともと組織のトップになる人というのはまず業績も重要ですが、そのベースとして、上司として部下から信頼されているというのは絶対必要条件であると思います。部下からの信頼もなく、自分の上位者へのおべっかばかりやっている人はいずれ化けの皮がはがれ、長期政権はむずかしいというのは想像に難くありません。すなわちより上位者が認める前に部下から、同僚から信頼を得られない人はまず上司、組織のトップ、すなわちリーダーとしてふさわしくないだろうというのはだれも否定しないことと思います。
例をあげると、最近数字選択式宝くじのCMがドラマ仕立てになっていてとてもわかりやすいかと思います。ご存じない方はYou Tubeに動画が出ていますので参考にしてみてください。柳場敏郎氏と妻夫木聡氏が演じる上司部下の話です。簡単に紹介すると、尊敬していた上司が役員たちの前で自分の非を認めないことで部下である自分が責任を追及されるのではという危機に立たされるという流れです。最終的には主任であった部下が部長に昇進し、部長が部長職を解かれるというオチがついているのですが。
まあここまでわかりやすく露骨な内容はあまりないかとは思いますが、あのCMをみてかなり共感している人は多いはずです。たとえば上司の指示で行っていた業務であるにもかかわらず、問題が起こったときそんな指示をしたことはないと上司が上役に弁明したり、ひどい場合は部下に対して自分が指示したにもかかわらず、そこまでやれとは言ってないとか苦し紛れの弁解をするといったこともあります。実際、私も部下の立場でそういう体験は何度かしてきました。そのため、問題が起こる可能性が想定される場合はまず、
①反対の意思表示をしてやらない。
②それでもやる場合、全責任をちゃんと上司がとることを確約させる。
絶対にやる価値がなく無駄、あるいは上司が責任を全く持たないが頑固でやらせようとする場合、
③やると言っておいて絶対にやらない。あるいはやってダメだったという証拠をつくりあげる。
などケースバイケースで要領よく対処することをおススメします。
思いつきが激しい上司の場合は特に注意しなければならないのは、指示しておいてホントに指示したことを忘れてしまい、関心さえもっていないといったケースもあります。少なくとも上司が自分より年上であるならば、間違いなく自分より頑固で感情で動いたり忘れることも多いということです。そう思っていれば、自ずと部下の立場でどう対処したらいいかはわかってきます。
とにかく企業にかかわらず、あらゆる組織にはそういった理不尽なことがたくさんあります。頑張っている部下社員が受ける理不尽なことを総合して言うと、いわゆる
‘梯子をはずされる’
問題です。
このことは上司部下という関係だけでなく、人間関係においてよくあることです。私の経験から言うと同僚の上司への不満を上司へ代弁してあげたところ、同僚の問題もあって、結局上司と私がバトるカタチで問題が膨れ上がり、同僚はほとぼりが冷めた頃、自分にも非があると上司と直接的なケンカもせず和解という流れでした。そのことをしった他の社員も私に同情的で彼に対しては不信感をつのらせる結果となってしまいました。
またSNSなどでも似たような事例があります。私が友人のコメントをフォローしたところ、彼は私に賛同、ところがそのあと彼の友人(女性)が私に反論し、彼は手の裏返したように彼女をフォローし私をいさめるコメントを出し、私がブチ切れるということがありました。私は彼の一貫性のないというか人の意見に簡単に左右されコロコロ考えが変わっていくところに不信感をもち、その後一切フォローすることは辞めました。
基本的に私は理不尽なことには当事者以上に熱くなってなんとかしてあげたいという意識が強いのです。結構やりすぎて問題も起きましたが、自分の信念に基づいての行動だったのでまったく後悔していません。ただいろんなことを学習したことは無鉄砲な行動を抑制する要素となっていることは否めません。別に保身に走ったり、保守的になるということはないので、よく言えばよりしたたかになった、もっとよく考えて行動するようになったと自分では考えています。
また感情的になりやすい人やちょっとしたことにすぐひっかかってムカついたりキレたりする人で、気をつけなければならないのはその感情から出る言葉に振り回されてしまうリスクを回避しながら対応しなければなりません。感情から出る言葉というのはとてもパワーを持つのです。したがって真に受けて行動すれば、その人が受けるほどのものではなかったということがあります。これも経験上言えることですが、ものすごく感情的になった人の話を直接聞くと、素直な人はとんでもない理不尽なことで許せないと当事者といっしょにあるいはその人以上に熱くなってしまうことがあります。でも気をつけなければならないことは感情的になりやすい人は時間を置くと冷めやすいということがあります。すなわち瞬間湯沸かし器のように熱くなりますが、保温ポットのように高い温度を維持することができないのです。実はそれで本人はバランスをとっているのです。当然沸騰した状態にずっとあるとそのうち血圧が上がってブチッと血管が切れてしまうかもしれません。だいたい感情的な人は熱しやすく冷めやすい性格になっていると言っても過言ではありません。
そういう感情的で熱しやすく冷めやすい性格の人には、いっしょになって感情的になったりしないということがとても重要です。すぐ人を振り回してしまうし、素直な人は振り回されてしまいます。そういう状況になるとわかっている人はそういう人からは距離を置いて、必要な時だけ対応するという状況になっている人が多いと考えられます。実はそういうことが明確にわかると周囲はさりげなく周囲は距離を置いたり、ひどい場合信頼を失っていたりします。
‘梯子を外される’問題はあらゆる人間関係において起こるのですが、これが上司部下の関係において起これば最悪です。リーダーとしての信頼は地に落ちてしまいます。
ここまで部下あるいは同僚との関係において言及してきましたが、それはどこまでもその部下やフォロワーの気持ちや立場が理解できなければ上司としてリーダーとしての役割を果たせないからです。すなわちリーダーは少なくともフォロワー以上の情熱とそれを持続させる力を持ちえていなければリーダーで居続けることは不可能だということを言いたいのです。フォロワーがリーダー以上の情熱を持っていれば、もうすでにリーダー・フォロワー関係は逆転しています。
リーダーがリーダーの役割を果たし続けるためにはだれよりも熱く燃えていなければなりません。それは感情的で瞬間湯沸かし器ではダメなのです。時間とともに冷めるような状況では部下はだれもついて行かないし、フォロワーは興ざめして、フォローすることを辞めてしまうでしょう。瞬間湯沸かし器ではなく時間をかけて沸かす、すなわち考えに考え抜いて結論を出すことですぐに冷めないモチベーションを維持することができるようになります。付け焼刃の状態ではリーダーとしての役割はすぐ果たせなくなってしまいます。そう考えると世の中死に体の経営者がどれほど多いことでしょうか。イノベーションも起こせず同じことの繰り返し、考え抜く力さえ持ちえていない雇われ経営者も多いのです。
とにかくリーダーは基本的にだれよりも熱く、したたかでいるべきです。
もちろん考えに考え抜いて出した結論に対する自信と確信、そしてだれよりも熱く、その目的達成に対する執着心もだれよりも熱くなければなりません。ただフォロワー、部下の中には瞬間湯沸かし器のような短距離走はうまいが持久走は苦手(モチベーションが長く続かない、テンションが高く忍耐力が欠如)といった人もいます。そういう人がフォロワーとしている場合の注意点は、決してその人の言葉やつくりだす状況に振り回されないということが重要です。一見するとリーダー以上にやる気満々であったりします。さらにリーダーがだしたアイディアや方向性に付加してリーダーが予想していない方向へ行ってしまうことさえあります。これは要注意です。良い方向に行く場合はいいのですが、気分で動くので、まったく無駄だったりあるいはマイナスの結果をもたらすことさえあります。とにかく瞬間湯沸かし器の部下、社員、フォロワーは組織の一時的なカンフル剤として使用はしても使い過ぎると副作用が出てくるということも肝に銘じておくべきです。できることなら持久走ができる人につくりあげていくことがベストですが、なかなか性格や癖というのは簡単に変えられませんので、その特徴をよくつかんで生かすということが大切です。
みなさんがもし会社の経営者、上司、師匠などリーダーたる立場にあるとしたら組織の成員のだれよりも熱く、したたかに行動できていますか?熱くあることと、それを持続することこの両面がだれよりも優れているとしたら当然リーダーとして居続けても大丈夫だと思います。でももしそうでなかったらリーダーとしては交替すべき時期に来ているのかもしれません。不幸にもそのことに気づけなければすでに信頼のない死に体状態かもしれません。以前は進言する社員が多かったが、今はみんな素直に大人しくなったという状況の場合、すでにそういった状態にあるのかもしれません。みなさんがどういった立場にあるかにかかわらず、ぜひ参考になさってみてください。
知的で論理的、いつも冷静な判断ができるリーダーもいれば、逆に感情的で人間臭いがみんながインスパイア(行き過ぎると洗脳とも言われる可能性もありますが)されるようなカリスマ性のあるリーダーもいます。
ただ日本では自分で起業した創業者でなければ、どちらかといえば独裁的に力づくで組織を引っ張っていくようなパワーのあるリーダーより、人間関係のバランスをとりながら上に上がっていった生え抜きのリーダーが多いように感じます。なぜなら前者のようなタイプは組織の中でいつのまにか浮いた存在になり、昇進のレースからは外される可能性が大きいと思うからです。もちろんそういった人材をうまく組織のトップまで上り詰められる組織は相当組織の上位者たちや同僚においても器のある人たち、あるいは学習することでそういった人材の活用を善しと認めた組織なのかもしれません。
いずれにせよ、上司との関係、部下との関係、そして同僚との関係そして取引先からの印象までもたいへんいい評価を得ているバランス感覚のいい人が組織においてはヒエラルキーを上りつめていく人であると考えてもあながち間違いではないと思います。
ところで今日のタイトルは`リーダーはだれよりも熱く、したたかたれ!’というものです。当然一見するとワンマンで独裁的、わがままでやりたいことは絶対引かずにやり遂げるというイメージがあるかもしれません。当然、だれよりも熱くというのはそういう要素が往々にしてありますが、したたかという観点はやはり空気を読んでバランスよくという話になるのです。当然両方の要素が重要ですが、今日は後者のバランス型のリーダーが陥る問題に関して言及したいと思います。
もともと組織のトップになる人というのはまず業績も重要ですが、そのベースとして、上司として部下から信頼されているというのは絶対必要条件であると思います。部下からの信頼もなく、自分の上位者へのおべっかばかりやっている人はいずれ化けの皮がはがれ、長期政権はむずかしいというのは想像に難くありません。すなわちより上位者が認める前に部下から、同僚から信頼を得られない人はまず上司、組織のトップ、すなわちリーダーとしてふさわしくないだろうというのはだれも否定しないことと思います。
例をあげると、最近数字選択式宝くじのCMがドラマ仕立てになっていてとてもわかりやすいかと思います。ご存じない方はYou Tubeに動画が出ていますので参考にしてみてください。柳場敏郎氏と妻夫木聡氏が演じる上司部下の話です。簡単に紹介すると、尊敬していた上司が役員たちの前で自分の非を認めないことで部下である自分が責任を追及されるのではという危機に立たされるという流れです。最終的には主任であった部下が部長に昇進し、部長が部長職を解かれるというオチがついているのですが。
まあここまでわかりやすく露骨な内容はあまりないかとは思いますが、あのCMをみてかなり共感している人は多いはずです。たとえば上司の指示で行っていた業務であるにもかかわらず、問題が起こったときそんな指示をしたことはないと上司が上役に弁明したり、ひどい場合は部下に対して自分が指示したにもかかわらず、そこまでやれとは言ってないとか苦し紛れの弁解をするといったこともあります。実際、私も部下の立場でそういう体験は何度かしてきました。そのため、問題が起こる可能性が想定される場合はまず、
①反対の意思表示をしてやらない。
②それでもやる場合、全責任をちゃんと上司がとることを確約させる。
絶対にやる価値がなく無駄、あるいは上司が責任を全く持たないが頑固でやらせようとする場合、
③やると言っておいて絶対にやらない。あるいはやってダメだったという証拠をつくりあげる。
などケースバイケースで要領よく対処することをおススメします。
思いつきが激しい上司の場合は特に注意しなければならないのは、指示しておいてホントに指示したことを忘れてしまい、関心さえもっていないといったケースもあります。少なくとも上司が自分より年上であるならば、間違いなく自分より頑固で感情で動いたり忘れることも多いということです。そう思っていれば、自ずと部下の立場でどう対処したらいいかはわかってきます。
とにかく企業にかかわらず、あらゆる組織にはそういった理不尽なことがたくさんあります。頑張っている部下社員が受ける理不尽なことを総合して言うと、いわゆる
‘梯子をはずされる’
問題です。
このことは上司部下という関係だけでなく、人間関係においてよくあることです。私の経験から言うと同僚の上司への不満を上司へ代弁してあげたところ、同僚の問題もあって、結局上司と私がバトるカタチで問題が膨れ上がり、同僚はほとぼりが冷めた頃、自分にも非があると上司と直接的なケンカもせず和解という流れでした。そのことをしった他の社員も私に同情的で彼に対しては不信感をつのらせる結果となってしまいました。
またSNSなどでも似たような事例があります。私が友人のコメントをフォローしたところ、彼は私に賛同、ところがそのあと彼の友人(女性)が私に反論し、彼は手の裏返したように彼女をフォローし私をいさめるコメントを出し、私がブチ切れるということがありました。私は彼の一貫性のないというか人の意見に簡単に左右されコロコロ考えが変わっていくところに不信感をもち、その後一切フォローすることは辞めました。
基本的に私は理不尽なことには当事者以上に熱くなってなんとかしてあげたいという意識が強いのです。結構やりすぎて問題も起きましたが、自分の信念に基づいての行動だったのでまったく後悔していません。ただいろんなことを学習したことは無鉄砲な行動を抑制する要素となっていることは否めません。別に保身に走ったり、保守的になるということはないので、よく言えばよりしたたかになった、もっとよく考えて行動するようになったと自分では考えています。
また感情的になりやすい人やちょっとしたことにすぐひっかかってムカついたりキレたりする人で、気をつけなければならないのはその感情から出る言葉に振り回されてしまうリスクを回避しながら対応しなければなりません。感情から出る言葉というのはとてもパワーを持つのです。したがって真に受けて行動すれば、その人が受けるほどのものではなかったということがあります。これも経験上言えることですが、ものすごく感情的になった人の話を直接聞くと、素直な人はとんでもない理不尽なことで許せないと当事者といっしょにあるいはその人以上に熱くなってしまうことがあります。でも気をつけなければならないことは感情的になりやすい人は時間を置くと冷めやすいということがあります。すなわち瞬間湯沸かし器のように熱くなりますが、保温ポットのように高い温度を維持することができないのです。実はそれで本人はバランスをとっているのです。当然沸騰した状態にずっとあるとそのうち血圧が上がってブチッと血管が切れてしまうかもしれません。だいたい感情的な人は熱しやすく冷めやすい性格になっていると言っても過言ではありません。
そういう感情的で熱しやすく冷めやすい性格の人には、いっしょになって感情的になったりしないということがとても重要です。すぐ人を振り回してしまうし、素直な人は振り回されてしまいます。そういう状況になるとわかっている人はそういう人からは距離を置いて、必要な時だけ対応するという状況になっている人が多いと考えられます。実はそういうことが明確にわかると周囲はさりげなく周囲は距離を置いたり、ひどい場合信頼を失っていたりします。
‘梯子を外される’問題はあらゆる人間関係において起こるのですが、これが上司部下の関係において起これば最悪です。リーダーとしての信頼は地に落ちてしまいます。
ここまで部下あるいは同僚との関係において言及してきましたが、それはどこまでもその部下やフォロワーの気持ちや立場が理解できなければ上司としてリーダーとしての役割を果たせないからです。すなわちリーダーは少なくともフォロワー以上の情熱とそれを持続させる力を持ちえていなければリーダーで居続けることは不可能だということを言いたいのです。フォロワーがリーダー以上の情熱を持っていれば、もうすでにリーダー・フォロワー関係は逆転しています。
リーダーがリーダーの役割を果たし続けるためにはだれよりも熱く燃えていなければなりません。それは感情的で瞬間湯沸かし器ではダメなのです。時間とともに冷めるような状況では部下はだれもついて行かないし、フォロワーは興ざめして、フォローすることを辞めてしまうでしょう。瞬間湯沸かし器ではなく時間をかけて沸かす、すなわち考えに考え抜いて結論を出すことですぐに冷めないモチベーションを維持することができるようになります。付け焼刃の状態ではリーダーとしての役割はすぐ果たせなくなってしまいます。そう考えると世の中死に体の経営者がどれほど多いことでしょうか。イノベーションも起こせず同じことの繰り返し、考え抜く力さえ持ちえていない雇われ経営者も多いのです。
とにかくリーダーは基本的にだれよりも熱く、したたかでいるべきです。
もちろん考えに考え抜いて出した結論に対する自信と確信、そしてだれよりも熱く、その目的達成に対する執着心もだれよりも熱くなければなりません。ただフォロワー、部下の中には瞬間湯沸かし器のような短距離走はうまいが持久走は苦手(モチベーションが長く続かない、テンションが高く忍耐力が欠如)といった人もいます。そういう人がフォロワーとしている場合の注意点は、決してその人の言葉やつくりだす状況に振り回されないということが重要です。一見するとリーダー以上にやる気満々であったりします。さらにリーダーがだしたアイディアや方向性に付加してリーダーが予想していない方向へ行ってしまうことさえあります。これは要注意です。良い方向に行く場合はいいのですが、気分で動くので、まったく無駄だったりあるいはマイナスの結果をもたらすことさえあります。とにかく瞬間湯沸かし器の部下、社員、フォロワーは組織の一時的なカンフル剤として使用はしても使い過ぎると副作用が出てくるということも肝に銘じておくべきです。できることなら持久走ができる人につくりあげていくことがベストですが、なかなか性格や癖というのは簡単に変えられませんので、その特徴をよくつかんで生かすということが大切です。
みなさんがもし会社の経営者、上司、師匠などリーダーたる立場にあるとしたら組織の成員のだれよりも熱く、したたかに行動できていますか?熱くあることと、それを持続することこの両面がだれよりも優れているとしたら当然リーダーとして居続けても大丈夫だと思います。でももしそうでなかったらリーダーとしては交替すべき時期に来ているのかもしれません。不幸にもそのことに気づけなければすでに信頼のない死に体状態かもしれません。以前は進言する社員が多かったが、今はみんな素直に大人しくなったという状況の場合、すでにそういった状態にあるのかもしれません。みなさんがどういった立場にあるかにかかわらず、ぜひ参考になさってみてください。
2014年4月7日月曜日
マルチタスクな人生のすすめ
最近の若者を見ているとどうもひとつのことに集中はするが、いろいろなことを複合的に行うことはなかなか難しいように見受けられます。もちろん人にもよるが、その傾向は社会の随所にみられるのではないかと思います。
例えば食事ひとつ例に出すと、ごはんを主食としておかずを順繰りに食べるというのではなく、一種類のおかずを食べきって次のおかずに行くという流れです。極端な場合、ごはんだけ食べたり、味噌汁は最後に飲み干すといった具合にいろいろな味を複合的に味わうのではなくて、ひとつの味が終わって、次の味というような食べ方なのです。
こういった食べ方をさせないためには、カレーライスやなべ物などすでにごちゃ混ぜに入っている食事がいいかもしれません。韓国料理のビビンパ(ビビダ【混ぜる】+パプ【ごはん】)は食材の陰陽の要素をすべて混ぜることで調和させて食べるにはちょうどいいかもしれません。
私もこういったことを自分の子どもに見つけて、おやっと思ったのですが、他の人に聞いても結構そういった食べ方をしているというのを聞きました。子どもに言わせると味が混ざっておかしくなると言います。ごはんと食べる分には問題ないと思うのですが、そうでもないようです。
また私の学生時代は、受験勉強と恋愛は別物でした。もちろん、片方に偏りすぎるともう一方はおろそかになる、あるいはうまくバランスよくやっていたものです。さらには二人で勉強したりして(ほとんど口実ではあるのですが)仲良くやっていたものです。ところが最近の学生はひとつのことが完結しないと次の(他の)ことができないという傾向にあるように感じます。恋愛しない若者に訊くと、めんどくさいとか同性と遊んでいるほうが楽しいなんていう答えも返ってきます。確かに男女の関係というのは簡単ではないし、リスクもあることは間違いないわけです。でも人間は互いに異性を求めていくという本能的な部分は人間の三大欲にもあるように誰しも備わっているはずです。それをより合理的、効率的側面からだけ考えていくならば、恋愛や結婚というものは時間の無駄と考える人も出てくるかもしれません。
もうすでに若者という観点で取り上げた時点でジェネレーションギャップがあるのだとは思いますが、ちょっとここらへんで一休みして、おじさんといっしょに非効率的で非合理的な人生の側面というものも考えてみるのはどうでしょうか?実際、エネルギッシュで元気のいい人というのは仕事もプライベートも充実しているというイメージがありますし、みなさんの周りの人びとはどうでしょうか?食べる力、恋する(異性を食べる?)力、寝る(睡眠をむさぼる)力、これらはある面非効率なことがらかもしれませんが、人生においては必要不可欠なことがらであると思います。実はこの三点を私たちの先祖があきらめずやってきてくれたおかげで今の私たちがいるわけです。
健康でない人はこの三点がめんどくさいのです。あるいはすべてにおいてバランスを欠いた行動になっているはずです。少食であまり食べられない、あるいは間食みたいな食事しかできない。逆に過食で間食は別腹状態で肥満になってしまったとか。また健康でないと寝るのもぐっすり熟睡というのができません。当然そういった生活がきちんとできれば、恋愛に対しても意欲的になります。当然、現代社会は結婚も出産もそういった選択をしないということも一つの考え方であると思いますし、それは尊重されてしかるべきとは思います。ただこの欲望はある面人間関係のベースにあると言っても過言ではないと私は考えています。異性とのつきあいが得意な人は当然同性や年齢差を越えた人間関係も上手です。もちろん育った環境等によって対象として苦手意識のある人はいるでしょう。でもそういったことを克服する活力も持ち合わせていると思います。
ちょっと恋愛の話に偏りましたが、今回のテーマは“マルチタスクな人生のすすめ”です。マルチタスクというのはパソコンなどで複数のタスク(仕事、プロセス)を同時に立ち上げておいて切り替えながら実行していくことを言います。したがって人生もひとつのことだけを行うのではなく、いろんなことに人生を費やすことによってより充実して楽しい人生が送れますよという提案です。もちろん私はこれだけでいいという方に無理やりいろんなことをしましょうと促すつもりはありませんが・・・。
会社組織に不満があっていつもそういう意識で日々を過ごしている人は、まさにマルチタスクな人生にしていくことでそういった意識からの脱却を図ることができます。すなわち、会社での仕事は自分の人生の一部であって、あるいは一要素であって自分の人生の支柱は別にあるということが明確に分かれば精神的にとても楽になります。また会社人間、ひいては社畜となってしまうリスクから抜け出せることができるのです。私たちは社会の制度の中で生きているので、そこから抜け出すということは困難ですが、自分がコミットしたいことを複数持つということは可能です。ある人は仕事以外に家庭であったり、子どもであったりするわけです。ただ過剰にそこに依存するような状況になると家族をスポイルしてしまう可能性もあります。特に仕事で満足できない部分をそちらで穴埋めしようとするならば間違いなく問題がおきるはずです。仕事に対しての不満は仕事で解消することが大切です。仕事は家庭に持ち込まないなどという人がいますが、仕事や会社でのさまざまな出来事に不満がある人はその内容を仕事の分野で解消できなければ、家庭にその意識(思念)を持ちこんでしまいそれは家族に伝わってしまいます。
会社組織内で解消あるいは実現できる内容であれば、そこで頑張ればいいわけですし、そこでは実現は困難ということになれば、組織外でつくりあげていけばいいわけです。すなわち複数のタスクを楽しくこなせばいいのです。さらに会社での業務をこなしながらも自分の好きなタスク達成にその時間や思考を費やすということもできるのです。もちろん若くて元気のいい人なら仕事、恋愛、趣味などさまざまなタスクを楽しめばいいと思います。会社組織や上司、同僚、部下などへの不満がつねにあって、人生が楽しくないという人は、それだけに依存状態にあるひとです。タスクが多い人は嫌なことがあってもさほどダメージはないのです。なぜなら楽しいことがそれ以上に多かったりすれば嫌なことが意識に占める割合が少ないからです。
いつも忙しいと言っている人は実は忙しくない人です。嫌なことばかりやらされている(実際は自分で選んでやっているわけですが)人はやっていることが好きではないので時間も長く、自分の大切な時間を占有されているようで自分の時間がない、すなわち忙しいと感じるわけです。ホントに忙しい人はタスクがたくさんある人ですが、そういう人は楽しいことをたくさんしているので、忙しいという認識はなく、充実していると感じているはずです。
自分軸を確立していくためには、自分がどうなのかということを常にチェックすることをおススメしています。タスク自体が自分の意思、すなわちやりたくてやっていることなのか、やりたくなくて嫌々やらされているとおもっているのかで大きく違ってきます。結果もそうでしょうが、なによりやっている時間は自分の貴重な人生の時間であって、それらが後者の意識だとものすごくもったいないのです。少なくとも自分にとってメリットがあるタスクの遂行の仕方を考えるのがいいかと思います。たとえば、ある会議が全く無意味だと思うようなものであったとするならば、私は会議の参加者を調べて人脈づくりに活用します。会議の内容自体はどうでもいいわけです。そこに参加している彼(彼女)がどういった考えなのか、プレゼンのスキルは持ち合わせているのかとか・・・。まあこれは一例ですが、会社の業務という一側面だけで動いていてはとてももったいないのです。仕事(嫌な仕事であっても)を通じてなにか得ることができるものはないか探せば、仕事はすでに複数のタスクが実行されているということなのです。取引先に可愛い彼女がいて、うまくしとめたなんていう話を聞きますが、それも複数のタスクを同時にこなしていたということに他なりません。その人は彼女にあえるのが楽しくて仕事自体はモノにならなくても楽しく通っていたことでしょう。
会社人間、社畜からの脱却は物理的な要素以上に精神的なとらえ方が大きいのです。会社に生活の糧を依存しているという状況ではそれは無理と言われるかもしれませんが、逆に会社があることでもっと楽しいタスクも見つけられると意識転換すれば、見えてこなかったことがらも見えてきて楽しいタスクが増えていくのではないでしょうか?そうなれば人生さらに充実して楽しい時間をすごせるに違いありません。まず自分がやりたいこと、したいことを書き出してそのために自分の置かれた環境をどう利用するか、活用するか考えてみましょう。きっといままで嫌だと思っていたことがらまでも大きな利用価値のあるものに変わるかもしれませんよ。案外見ているのに見えてなかったものというのはたくさんあると思います。それこそセレンディピティ(掘り出し物)と言える価値を見出すことができれば人生、大逆転も夢ではありません。そのためにはいろんなことに関心をもって、中途半端でもいいのです。とにかくいろんなことをやって見なければ探すこともできません。理性などという小奇麗な言葉に惑わされず、本性のおもむくままに行動してみることも人生においてはとても意義深いものであると思います。
例えば食事ひとつ例に出すと、ごはんを主食としておかずを順繰りに食べるというのではなく、一種類のおかずを食べきって次のおかずに行くという流れです。極端な場合、ごはんだけ食べたり、味噌汁は最後に飲み干すといった具合にいろいろな味を複合的に味わうのではなくて、ひとつの味が終わって、次の味というような食べ方なのです。
こういった食べ方をさせないためには、カレーライスやなべ物などすでにごちゃ混ぜに入っている食事がいいかもしれません。韓国料理のビビンパ(ビビダ【混ぜる】+パプ【ごはん】)は食材の陰陽の要素をすべて混ぜることで調和させて食べるにはちょうどいいかもしれません。
私もこういったことを自分の子どもに見つけて、おやっと思ったのですが、他の人に聞いても結構そういった食べ方をしているというのを聞きました。子どもに言わせると味が混ざっておかしくなると言います。ごはんと食べる分には問題ないと思うのですが、そうでもないようです。
また私の学生時代は、受験勉強と恋愛は別物でした。もちろん、片方に偏りすぎるともう一方はおろそかになる、あるいはうまくバランスよくやっていたものです。さらには二人で勉強したりして(ほとんど口実ではあるのですが)仲良くやっていたものです。ところが最近の学生はひとつのことが完結しないと次の(他の)ことができないという傾向にあるように感じます。恋愛しない若者に訊くと、めんどくさいとか同性と遊んでいるほうが楽しいなんていう答えも返ってきます。確かに男女の関係というのは簡単ではないし、リスクもあることは間違いないわけです。でも人間は互いに異性を求めていくという本能的な部分は人間の三大欲にもあるように誰しも備わっているはずです。それをより合理的、効率的側面からだけ考えていくならば、恋愛や結婚というものは時間の無駄と考える人も出てくるかもしれません。
もうすでに若者という観点で取り上げた時点でジェネレーションギャップがあるのだとは思いますが、ちょっとここらへんで一休みして、おじさんといっしょに非効率的で非合理的な人生の側面というものも考えてみるのはどうでしょうか?実際、エネルギッシュで元気のいい人というのは仕事もプライベートも充実しているというイメージがありますし、みなさんの周りの人びとはどうでしょうか?食べる力、恋する(異性を食べる?)力、寝る(睡眠をむさぼる)力、これらはある面非効率なことがらかもしれませんが、人生においては必要不可欠なことがらであると思います。実はこの三点を私たちの先祖があきらめずやってきてくれたおかげで今の私たちがいるわけです。
健康でない人はこの三点がめんどくさいのです。あるいはすべてにおいてバランスを欠いた行動になっているはずです。少食であまり食べられない、あるいは間食みたいな食事しかできない。逆に過食で間食は別腹状態で肥満になってしまったとか。また健康でないと寝るのもぐっすり熟睡というのができません。当然そういった生活がきちんとできれば、恋愛に対しても意欲的になります。当然、現代社会は結婚も出産もそういった選択をしないということも一つの考え方であると思いますし、それは尊重されてしかるべきとは思います。ただこの欲望はある面人間関係のベースにあると言っても過言ではないと私は考えています。異性とのつきあいが得意な人は当然同性や年齢差を越えた人間関係も上手です。もちろん育った環境等によって対象として苦手意識のある人はいるでしょう。でもそういったことを克服する活力も持ち合わせていると思います。
ちょっと恋愛の話に偏りましたが、今回のテーマは“マルチタスクな人生のすすめ”です。マルチタスクというのはパソコンなどで複数のタスク(仕事、プロセス)を同時に立ち上げておいて切り替えながら実行していくことを言います。したがって人生もひとつのことだけを行うのではなく、いろんなことに人生を費やすことによってより充実して楽しい人生が送れますよという提案です。もちろん私はこれだけでいいという方に無理やりいろんなことをしましょうと促すつもりはありませんが・・・。
会社組織に不満があっていつもそういう意識で日々を過ごしている人は、まさにマルチタスクな人生にしていくことでそういった意識からの脱却を図ることができます。すなわち、会社での仕事は自分の人生の一部であって、あるいは一要素であって自分の人生の支柱は別にあるということが明確に分かれば精神的にとても楽になります。また会社人間、ひいては社畜となってしまうリスクから抜け出せることができるのです。私たちは社会の制度の中で生きているので、そこから抜け出すということは困難ですが、自分がコミットしたいことを複数持つということは可能です。ある人は仕事以外に家庭であったり、子どもであったりするわけです。ただ過剰にそこに依存するような状況になると家族をスポイルしてしまう可能性もあります。特に仕事で満足できない部分をそちらで穴埋めしようとするならば間違いなく問題がおきるはずです。仕事に対しての不満は仕事で解消することが大切です。仕事は家庭に持ち込まないなどという人がいますが、仕事や会社でのさまざまな出来事に不満がある人はその内容を仕事の分野で解消できなければ、家庭にその意識(思念)を持ちこんでしまいそれは家族に伝わってしまいます。
会社組織内で解消あるいは実現できる内容であれば、そこで頑張ればいいわけですし、そこでは実現は困難ということになれば、組織外でつくりあげていけばいいわけです。すなわち複数のタスクを楽しくこなせばいいのです。さらに会社での業務をこなしながらも自分の好きなタスク達成にその時間や思考を費やすということもできるのです。もちろん若くて元気のいい人なら仕事、恋愛、趣味などさまざまなタスクを楽しめばいいと思います。会社組織や上司、同僚、部下などへの不満がつねにあって、人生が楽しくないという人は、それだけに依存状態にあるひとです。タスクが多い人は嫌なことがあってもさほどダメージはないのです。なぜなら楽しいことがそれ以上に多かったりすれば嫌なことが意識に占める割合が少ないからです。
いつも忙しいと言っている人は実は忙しくない人です。嫌なことばかりやらされている(実際は自分で選んでやっているわけですが)人はやっていることが好きではないので時間も長く、自分の大切な時間を占有されているようで自分の時間がない、すなわち忙しいと感じるわけです。ホントに忙しい人はタスクがたくさんある人ですが、そういう人は楽しいことをたくさんしているので、忙しいという認識はなく、充実していると感じているはずです。
自分軸を確立していくためには、自分がどうなのかということを常にチェックすることをおススメしています。タスク自体が自分の意思、すなわちやりたくてやっていることなのか、やりたくなくて嫌々やらされているとおもっているのかで大きく違ってきます。結果もそうでしょうが、なによりやっている時間は自分の貴重な人生の時間であって、それらが後者の意識だとものすごくもったいないのです。少なくとも自分にとってメリットがあるタスクの遂行の仕方を考えるのがいいかと思います。たとえば、ある会議が全く無意味だと思うようなものであったとするならば、私は会議の参加者を調べて人脈づくりに活用します。会議の内容自体はどうでもいいわけです。そこに参加している彼(彼女)がどういった考えなのか、プレゼンのスキルは持ち合わせているのかとか・・・。まあこれは一例ですが、会社の業務という一側面だけで動いていてはとてももったいないのです。仕事(嫌な仕事であっても)を通じてなにか得ることができるものはないか探せば、仕事はすでに複数のタスクが実行されているということなのです。取引先に可愛い彼女がいて、うまくしとめたなんていう話を聞きますが、それも複数のタスクを同時にこなしていたということに他なりません。その人は彼女にあえるのが楽しくて仕事自体はモノにならなくても楽しく通っていたことでしょう。
会社人間、社畜からの脱却は物理的な要素以上に精神的なとらえ方が大きいのです。会社に生活の糧を依存しているという状況ではそれは無理と言われるかもしれませんが、逆に会社があることでもっと楽しいタスクも見つけられると意識転換すれば、見えてこなかったことがらも見えてきて楽しいタスクが増えていくのではないでしょうか?そうなれば人生さらに充実して楽しい時間をすごせるに違いありません。まず自分がやりたいこと、したいことを書き出してそのために自分の置かれた環境をどう利用するか、活用するか考えてみましょう。きっといままで嫌だと思っていたことがらまでも大きな利用価値のあるものに変わるかもしれませんよ。案外見ているのに見えてなかったものというのはたくさんあると思います。それこそセレンディピティ(掘り出し物)と言える価値を見出すことができれば人生、大逆転も夢ではありません。そのためにはいろんなことに関心をもって、中途半端でもいいのです。とにかくいろんなことをやって見なければ探すこともできません。理性などという小奇麗な言葉に惑わされず、本性のおもむくままに行動してみることも人生においてはとても意義深いものであると思います。
2014年3月25日火曜日
日本人にグローバル化の覚悟はあるのか?
つい先日、Jリーグ浦和レッズのサポーターが“Japanese Only”との横断幕をかかげ無観客試合という罰則が科せられたニュースがありました。このことは日本人の情緒としては理解できなくもないのですが、決して容認されるべきことではないと思います。この横断幕をかかげた人びとの考えというものははっきりとはわからないので何とも言えないのですが、もし理解できるとしたら日本人特有の全体主義的一体感をそこなう存在に対する排他的思考です。これは日本が島国という限られた空間の中で培われた和の文化に根ざしていると言っても過言ではないと思います。
日本人は概して全体の空気を読み、それにそった言動を暗黙の了解として強要されているのです。あえて強要としましたが、その空気に従わない人はその場にいれなくなるからです。同調圧力と言ってもいいかもしれません。自然にその環境から離脱するか、そのまま居座ると村八分といった状況に置かれてしまうのです。
空気を読むという考え方は日本人特有の考え方であったり、文化であるように思います。臨機応変に行動するとか気を利かすなどこういったことは日本に限ったことではありませんが、空気を読んで行動するというのは日本社会という独特の環境、日本人のDNAの中に深く根付いたものであると私は考えています。
空気を読むとはどういうことか?苫米地英人氏は空気は目に見えないし、実際には読めないものだと言われています。空気という言葉をそのまま空気と解釈するとそのとおりですが、空気を読むというのは相手や周囲の言動(声の大きさ、高さ、・・・、言葉の内容、表情、行動・・・など)総合してそれらの背後に隠れている(出ている場合もある)本音の部分を解釈、理解して行動するということだと思うのです。
最近はこういった能力はコミュニケーションの濃密さの差から世代的にもずいぶんと差があることと思います。また日本も地域によってずいぶんと違います。それはテレビでも県民ごとの特徴をまとめた番組など見るとそういったことを大いに感じることができます。まあそれでも同じ日本人(外国籍でも日本に生まれ育った人)には誰でも空気を読むということは個人差はあれ、ほとんどの人が身についているのではないでしょうか。
ただ外国の方がやはり日本に来て居住するようになるとどうしても空気を読むというのがなかなか難しいといったことを聞くことがあります。当然日本の文化を完璧理解して行動しろというのはかなり酷な話だとも思います。もちろん日本に来た外国人の多くは日本の文化を学び、日本の様式に従って行動するようにしています。郷に入りては郷に従え(All roads leads to Rome.)は世界共通?の考え方ですから当然日本のやり方に従ってもらうというのは当然と考えてもいいかもしれません。
ここで問題はなんでしょうか。多くの外国人が日本人に対して口をそろえて言うことは、日本人はわかりにくいということです。どのようにしてほしいか、はっきりと意思表示ができていない問題です。すなわち空気を読んで、理解して、察して行動しろという話なのです。でもこれを外国人に要求するのは、はっきりと無理です。これは決して外国人を見下すということではなく日本人特有の文化であるということを日本人が理解しなければならないという話です。
日本人は言いにくいことを直接言うことがとても困難です。やはりコミュニケーションスキルが足りないということだと思います。はっきりと言わず理解してもらおうというのはどう考えても甘えの構造にしか思えません。そうでなければ外国人への対応の仕方がわかっていないという知識不足に他なりません。
基本的に日本人は表向き平和主義で、ぶつかることを極度に嫌います。ところが裏では自分たちの思い通りいかないことに対して愚痴や不満がとても多いのです。そしてそういったことを共有する人びとだけで集まり不満の対象になっている人のいないところでいろいろと言い合うのです。こういった経験がありました。ある会社で外国人が働いていて、やはり日本人社員と考え方に大きな溝ができているのです。もう完全に彼は浮いた存在になってしまったのです。実際彼自身頑固で自分の考えを曲げないこともあってますます日本人の社員からは煙たい存在になってしまったのです。でも私は裏でこそこそというのは嫌なので直接日本人を代弁してはっきりと言いました。それでしょっちゅうバトルに発展してしまうのです。
そういう状況が長く続くとどうなるかというと、はっきり言う私は過激な人、外国人の彼には他の日本人は大人しい人、でも私は過激な日本人という印象になってしまうのです。日本人は概して沈黙を守りながら自分たちの空気にそぐわない行動をする人に対してNOをつきつける傾向にあります。これは今後の日本のグローバル化には大きな障害となってたちはだかるでしょう。すでにもう日本は鎖国をしたほうがいいのではないかといった論調の人もいます。でも日本は日本だけで将来成り立つことができるのでしょうか?いつまでも同じ穴のムジナでいていいのでしょうか?
日本人に欠如していることは和の文化に根差した(極端にぶつかることを嫌う、ちゃんと相手と向き合えない)空気を読んで理解することを過剰に要求してしまうことだと思います。こういったことを明確に理解した上で日本人はもう一歩レベルアップした対応ができないといけないと思います。すなわちちゃんと相手に向き合って、相手が空気を読んで行動できる人なのかどうか、また空気を読まないことは悪いことではなく、相手の文化になかったことであるという理解の下にちゃんと言葉や行動でしっかり伝達するという作業ができるようになることだと思います。
安倍政権になって、国家自体が右傾化していると懸念されている昨今、日本文化至上主義みたいなグローバル化とはまったく逆の方向にいってしまうような思考に陥らないように私たちはよく考えて、コミュニケーションをさらに深めていく必要があるように思います。日本人はそれこそ日本を取り巻く環境をよく理解してさらに卑屈になったり、排他的になるのではなく、より多様な文化を受け入れる器を養うべく成長していかなければならないのではないかと思うものです。
日本人は概して全体の空気を読み、それにそった言動を暗黙の了解として強要されているのです。あえて強要としましたが、その空気に従わない人はその場にいれなくなるからです。同調圧力と言ってもいいかもしれません。自然にその環境から離脱するか、そのまま居座ると村八分といった状況に置かれてしまうのです。
空気を読むという考え方は日本人特有の考え方であったり、文化であるように思います。臨機応変に行動するとか気を利かすなどこういったことは日本に限ったことではありませんが、空気を読んで行動するというのは日本社会という独特の環境、日本人のDNAの中に深く根付いたものであると私は考えています。
空気を読むとはどういうことか?苫米地英人氏は空気は目に見えないし、実際には読めないものだと言われています。空気という言葉をそのまま空気と解釈するとそのとおりですが、空気を読むというのは相手や周囲の言動(声の大きさ、高さ、・・・、言葉の内容、表情、行動・・・など)総合してそれらの背後に隠れている(出ている場合もある)本音の部分を解釈、理解して行動するということだと思うのです。
最近はこういった能力はコミュニケーションの濃密さの差から世代的にもずいぶんと差があることと思います。また日本も地域によってずいぶんと違います。それはテレビでも県民ごとの特徴をまとめた番組など見るとそういったことを大いに感じることができます。まあそれでも同じ日本人(外国籍でも日本に生まれ育った人)には誰でも空気を読むということは個人差はあれ、ほとんどの人が身についているのではないでしょうか。
ただ外国の方がやはり日本に来て居住するようになるとどうしても空気を読むというのがなかなか難しいといったことを聞くことがあります。当然日本の文化を完璧理解して行動しろというのはかなり酷な話だとも思います。もちろん日本に来た外国人の多くは日本の文化を学び、日本の様式に従って行動するようにしています。郷に入りては郷に従え(All roads leads to Rome.)は世界共通?の考え方ですから当然日本のやり方に従ってもらうというのは当然と考えてもいいかもしれません。
ここで問題はなんでしょうか。多くの外国人が日本人に対して口をそろえて言うことは、日本人はわかりにくいということです。どのようにしてほしいか、はっきりと意思表示ができていない問題です。すなわち空気を読んで、理解して、察して行動しろという話なのです。でもこれを外国人に要求するのは、はっきりと無理です。これは決して外国人を見下すということではなく日本人特有の文化であるということを日本人が理解しなければならないという話です。
日本人は言いにくいことを直接言うことがとても困難です。やはりコミュニケーションスキルが足りないということだと思います。はっきりと言わず理解してもらおうというのはどう考えても甘えの構造にしか思えません。そうでなければ外国人への対応の仕方がわかっていないという知識不足に他なりません。
基本的に日本人は表向き平和主義で、ぶつかることを極度に嫌います。ところが裏では自分たちの思い通りいかないことに対して愚痴や不満がとても多いのです。そしてそういったことを共有する人びとだけで集まり不満の対象になっている人のいないところでいろいろと言い合うのです。こういった経験がありました。ある会社で外国人が働いていて、やはり日本人社員と考え方に大きな溝ができているのです。もう完全に彼は浮いた存在になってしまったのです。実際彼自身頑固で自分の考えを曲げないこともあってますます日本人の社員からは煙たい存在になってしまったのです。でも私は裏でこそこそというのは嫌なので直接日本人を代弁してはっきりと言いました。それでしょっちゅうバトルに発展してしまうのです。
そういう状況が長く続くとどうなるかというと、はっきり言う私は過激な人、外国人の彼には他の日本人は大人しい人、でも私は過激な日本人という印象になってしまうのです。日本人は概して沈黙を守りながら自分たちの空気にそぐわない行動をする人に対してNOをつきつける傾向にあります。これは今後の日本のグローバル化には大きな障害となってたちはだかるでしょう。すでにもう日本は鎖国をしたほうがいいのではないかといった論調の人もいます。でも日本は日本だけで将来成り立つことができるのでしょうか?いつまでも同じ穴のムジナでいていいのでしょうか?
日本人に欠如していることは和の文化に根差した(極端にぶつかることを嫌う、ちゃんと相手と向き合えない)空気を読んで理解することを過剰に要求してしまうことだと思います。こういったことを明確に理解した上で日本人はもう一歩レベルアップした対応ができないといけないと思います。すなわちちゃんと相手に向き合って、相手が空気を読んで行動できる人なのかどうか、また空気を読まないことは悪いことではなく、相手の文化になかったことであるという理解の下にちゃんと言葉や行動でしっかり伝達するという作業ができるようになることだと思います。
安倍政権になって、国家自体が右傾化していると懸念されている昨今、日本文化至上主義みたいなグローバル化とはまったく逆の方向にいってしまうような思考に陥らないように私たちはよく考えて、コミュニケーションをさらに深めていく必要があるように思います。日本人はそれこそ日本を取り巻く環境をよく理解してさらに卑屈になったり、排他的になるのではなく、より多様な文化を受け入れる器を養うべく成長していかなければならないのではないかと思うものです。
登録:
投稿 (Atom)