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2013年3月23日土曜日

体罰について⑤

いじめ、体罰の問題と教育界ではこういった問題が相変わらず取りざたされています。

こういった問題は過去全くなかったわけではなく、近代、価値観の多様化やフラットな社会状況、情報社会、……などさまざまな理由で明るみに出てきているという現象であると考えられます。

そんな中、また以下のような記事が載っていました。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130322-00000124-mai-soci

保護者の中でもやはり力関係のあるヒエラルキーがどうしても存在してしまうんだというもどかしさというか残念さというか…。

長年にわたって実績をつくりあげた体罰教師に対して、多くの教師や上位者である校長や教頭でさえ何も言えないという状況は教職員という組織の中でありうるわけですが、保護者というのはある面そういった中に取り込まれない第三者機関のような役割が果たせるのかと思いきや、決してそうではないという例が今回のこの記事に現れていると思います。

軍国主義の時代は全体主義であり、全体が向かおうとする方向に異を唱える者は非国民とレッテルを貼られ、日本社会から排除あるいは村八分状態に置かれてきたわけですが、戦後急激な民主化に戸惑いながらも、国民の意識も徐々に徐々に民主的でフラットな思考になってきたわけです。そしてグローバル化の波に影響を受けながら多様な価値観を受け入れなければ、日本社会も生きていけない時代になってきました。

特に企業ではいち早くそういった観点から、独裁権力をもった鋭利なヒエラルキー組織からよりフラットな組織に移行することでCSRやコンプライアンスといった観点からさまざまリスクマネジメントの必要性が訴えられてきました。ただ教育界においてはやはり師匠と弟子、教師と生徒、学生という観点は大きな勘違いとともに権力の主従関係とみなされ、組織風土として守らなければならないと思い込んでいる伝統という名の旧いしきたり、慣習等が問題を隠蔽しつづけ、最近になってようやく問題の可視化が起こってきたというのが実情です。

今回のこの記事を読んで考えさせられるのは、やはり教師や教育界の問題は決して彼らだけの問題でなく、親たちがそういった問題を起こす温床となっているという事実です。つねに親の問題は教育の分野では半ばタブー視され、つねに教育者(加害者)と保護者(被害者)という構図で論じられてきました。でも実際は教育者をさらに加害者たらしめているのはすでにメジョリティを獲得している保護者たちの集団圧力、同調圧力に他ならないのです。もちろんそういった保護者の中にもおかしいと気づく人はいるのですが、全体の声が体罰を擁護するような状況にあれば声をあげることは困難です。

大阪桜宮高校の生徒自殺問題も体罰教師を擁護する親たちは相当数あったと聞きます。したがって真の被害者である生徒の親は体罰教師とそれを容認してきた学校、そして行政、そして本来同情してくれるべき同じ親たちの集団圧力と闘わなければならないという苦しみを受けるわけです。私は自分の子どもを体罰を容認する教師に預ける気持ちはさらさらありません。私自身が受けてきた経験からもそうですが、体罰は怨みは残しても心からの感謝は生まれません。もし体罰を受けて自分が更正してまともになったという人がいたならば、それは体罰をした教師に感謝する前に、なぜそういう境遇にならないといけなかったのかという原因をもっと明確にするべきです。自分の足りなさや家庭での問題を明確にするべきです。そして体罰を容認するような発言は慎むべきであると思います。

たいへんな過激な体罰重視の教育機関に預けて子どもが更正して感謝しているという話はよく聞きます。しかしそういった親は自分たちの子どもに対する力のなさを認めるようなもので、家庭内でちゃんとした躾や人間としての道理を教えることができなかった事実をはっきりと知るべきであると思います。もともと障碍があって難しい場合は除いて、健常者でありながら問題行動を起こすとしたらそれは何をさておき、家庭内での育て方に問題があるのではと親たちはまず自問自答すべきであるのです。ちゃんと子どもと向き合ってきたのかどうなのか、自分たちが子育てを放棄して、過激な体罰の教育機関に子どもを預け、それで更正してもそれは親としての役割を果たしたとホントに言えるのでしょうか。

暴走族のような組織は強固なヒエラルキーが出来上がっていて、上下関係がはっきりしています。上位者には絶対服従です。保護者の組織の中にも役員として力のある人は組織の中心的役割を担いいつの間にか権限や権力を持つようになります。そしてその人の主張に全体が徐々に従うようになるのです。見た目は親たちのやさしい仮面をかぶった中身は陰湿な権力構造の暴走族のような組織になる危険性もはらんでいるのです。リーダーシップがあることと独裁的要素とは見極めなければなりません。

本来保護者の集まりはよりフラットな組織構造でみんなが自由闊達に意見を出し合える風土を醸成していかなくてはならないのです。中心的存在はリーダーと言うよりみんなの意見をまとめるファシリテーターのような役割をするのがいいのですが、なかなかそういうことはできないので問題が生じやすいのです。

体罰問題もいじめ問題も、そして企業におけるパワハラ、モラハラといった問題もすべて加害者をさらに加害者たる者に仕向けているものがあるのです。それは、加害者を支える集団内のパワーのある支援者に従属しやすい全体主義の意識が集団圧力や同調圧力を生み出し、「臭いものには蓋」式の膿を出さず早く問題を収拾させようとする隠蔽体質と相まって問題は抹殺されるのです。

旧共産圏の体制批判の運動家はやはりその国では活動できないのです。地下に潜るか自由主義の国にわたって活動するしかありません。体罰やいじめの被害者は下手をすると学校だけでなく、保護者たちも敵に回す可能性が重々あるという認識で知恵深く行動すべきです。今はマスメディアがある程度被害者を擁護する立場に立ってはくれますが、保護者たちの状況には踏み込まないというまだまだ社会的なタブーが存在しています。企業も未だに告発者は会社にとどまることが困難であることは会社の社員全体も会社や経営者側に立っていて味方になりえないという事実を表しています。

企業も組織風土や会社の手法ど、組織のほとんどの成員がおかしいと思っているにもかかわらずそれに異を唱えるとはじき出されるというとても不思議な状況が起こっていたりします。経営者でさえその風土に埋め込まれていて、変えたいけど変えられないという状況に陥っていることさえあります。そういった場合その組織に一切の利害関係のない第三者機関が介入するしか変えることは難しいかもしれません。

そういった面で学校という半ば密室になりやすい組織形態には、心理学関連の専門家のみならず、組織の専門家であるコンサルタントなどに依頼することや、実際問題が起こったら躊躇せず警察などの機関に依頼したりマスメディアを通じた社会的な監視を要請することは正しいことだと思います。またそれができる教育者こそ今の時代に必要なのだと思います。

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