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2014年3月25日火曜日

日本人にグローバル化の覚悟はあるのか?

つい先日、Jリーグ浦和レッズのサポーターが“Japanese Only”との横断幕をかかげ無観客試合という罰則が科せられたニュースがありました。このことは日本人の情緒としては理解できなくもないのですが、決して容認されるべきことではないと思います。この横断幕をかかげた人びとの考えというものははっきりとはわからないので何とも言えないのですが、もし理解できるとしたら日本人特有の全体主義的一体感をそこなう存在に対する排他的思考です。これは日本が島国という限られた空間の中で培われた和の文化に根ざしていると言っても過言ではないと思います。

日本人は概して全体の空気を読み、それにそった言動を暗黙の了解として強要されているのです。あえて強要としましたが、その空気に従わない人はその場にいれなくなるからです。同調圧力と言ってもいいかもしれません。自然にその環境から離脱するか、そのまま居座ると村八分といった状況に置かれてしまうのです。

空気を読むという考え方は日本人特有の考え方であったり、文化であるように思います。臨機応変に行動するとか気を利かすなどこういったことは日本に限ったことではありませんが、空気を読んで行動するというのは日本社会という独特の環境、日本人のDNAの中に深く根付いたものであると私は考えています。

空気を読むとはどういうことか?苫米地英人氏は空気は目に見えないし、実際には読めないものだと言われています。空気という言葉をそのまま空気と解釈するとそのとおりですが、空気を読むというのは相手や周囲の言動(声の大きさ、高さ、・・・、言葉の内容、表情、行動・・・など)総合してそれらの背後に隠れている(出ている場合もある)本音の部分を解釈、理解して行動するということだと思うのです。

最近はこういった能力はコミュニケーションの濃密さの差から世代的にもずいぶんと差があることと思います。また日本も地域によってずいぶんと違います。それはテレビでも県民ごとの特徴をまとめた番組など見るとそういったことを大いに感じることができます。まあそれでも同じ日本人(外国籍でも日本に生まれ育った人)には誰でも空気を読むということは個人差はあれ、ほとんどの人が身についているのではないでしょうか。

ただ外国の方がやはり日本に来て居住するようになるとどうしても空気を読むというのがなかなか難しいといったことを聞くことがあります。当然日本の文化を完璧理解して行動しろというのはかなり酷な話だとも思います。もちろん日本に来た外国人の多くは日本の文化を学び、日本の様式に従って行動するようにしています。郷に入りては郷に従え(All roads leads to Rome.)は世界共通?の考え方ですから当然日本のやり方に従ってもらうというのは当然と考えてもいいかもしれません。

ここで問題はなんでしょうか。多くの外国人が日本人に対して口をそろえて言うことは、日本人はわかりにくいということです。どのようにしてほしいか、はっきりと意思表示ができていない問題です。すなわち空気を読んで、理解して、察して行動しろという話なのです。でもこれを外国人に要求するのは、はっきりと無理です。これは決して外国人を見下すということではなく日本人特有の文化であるということを日本人が理解しなければならないという話です。

日本人は言いにくいことを直接言うことがとても困難です。やはりコミュニケーションスキルが足りないということだと思います。はっきりと言わず理解してもらおうというのはどう考えても甘えの構造にしか思えません。そうでなければ外国人への対応の仕方がわかっていないという知識不足に他なりません。

基本的に日本人は表向き平和主義で、ぶつかることを極度に嫌います。ところが裏では自分たちの思い通りいかないことに対して愚痴や不満がとても多いのです。そしてそういったことを共有する人びとだけで集まり不満の対象になっている人のいないところでいろいろと言い合うのです。こういった経験がありました。ある会社で外国人が働いていて、やはり日本人社員と考え方に大きな溝ができているのです。もう完全に彼は浮いた存在になってしまったのです。実際彼自身頑固で自分の考えを曲げないこともあってますます日本人の社員からは煙たい存在になってしまったのです。でも私は裏でこそこそというのは嫌なので直接日本人を代弁してはっきりと言いました。それでしょっちゅうバトルに発展してしまうのです。

そういう状況が長く続くとどうなるかというと、はっきり言う私は過激な人、外国人の彼には他の日本人は大人しい人、でも私は過激な日本人という印象になってしまうのです。日本人は概して沈黙を守りながら自分たちの空気にそぐわない行動をする人に対してNOをつきつける傾向にあります。これは今後の日本のグローバル化には大きな障害となってたちはだかるでしょう。すでにもう日本は鎖国をしたほうがいいのではないかといった論調の人もいます。でも日本は日本だけで将来成り立つことができるのでしょうか?いつまでも同じ穴のムジナでいていいのでしょうか?

日本人に欠如していることは和の文化に根差した(極端にぶつかることを嫌う、ちゃんと相手と向き合えない)空気を読んで理解することを過剰に要求してしまうことだと思います。こういったことを明確に理解した上で日本人はもう一歩レベルアップした対応ができないといけないと思います。すなわちちゃんと相手に向き合って、相手が空気を読んで行動できる人なのかどうか、また空気を読まないことは悪いことではなく、相手の文化になかったことであるという理解の下にちゃんと言葉や行動でしっかり伝達するという作業ができるようになることだと思います。

安倍政権になって、国家自体が右傾化していると懸念されている昨今、日本文化至上主義みたいなグローバル化とはまったく逆の方向にいってしまうような思考に陥らないように私たちはよく考えて、コミュニケーションをさらに深めていく必要があるように思います。日本人はそれこそ日本を取り巻く環境をよく理解してさらに卑屈になったり、排他的になるのではなく、より多様な文化を受け入れる器を養うべく成長していかなければならないのではないかと思うものです。

2013年10月4日金曜日

うまくいくコミュニケーションの方法①

家庭においても、会社においても、あるいはそれ以外の人間関係すべてにおいて、コミュニケーションは、すべてがうまくいくためのベースとなるようなものです。それは対面であれ、電話であれ、メール、SNSにいたるまでコミュニケーションがとてもたいせつになってきます。

また相手によっても対応を変えなければならないケースもあります。特に外国人には日本の空気(行間)を読むような理解はできません。それは日本に長年住んでいる外国人でもわかりにくいと言われる人もいます。それくらい難しい感覚的なもので、日本人は日本で育って、日本人のDNAとしてすでに染みついているから理解できるのかもしれません。

ただ最近の若い世代は徐々にそういった感覚は減っているように思えます。それは良いとか悪いといったものではなくて、日本の家庭や社会の環境が大きく変わってきたということが言えるのではないかと思います。欧米の個人主義の影響や、戦後、日本がどんどん豊かになり、大家族から核家族、そして夫婦だけ、その次にはお一人様での生活も増えてきています。現在は祖父母と同居ということも減って二世帯住宅は常識です。また高齢化により高齢者は施設に入ることに抵抗感がない時代になってきました。介護というカタチで家族に負担をかけたくないという認識は高齢者に共通する意識になりつつあり、また子どもたちもそれが最善であるという意識もかなりあります。介護を社会の手にゆだねるということは決して家族の愛情問題とは関係がないのです。むしろ互いに負担をかけないようにすることが愛情であるというひとつのパラダイムシフトがなされているのだと思います。

夫婦関係もそうです。ある程度年齢を重ね、子どもたちもすべて独立すると、夫婦だけの時間が増えてきます。そして夫(あるいは妻)が定年退職をして家庭にいつもいるようになるとストレスであったりします。そうなると妻(あるいは夫)が外に出かけるようになってバランスをとるようになるのです。もちろん夫婦は最初の3~4年くらいはいいのですが、そのあとは夫婦だけの愛情というより子どもを見ながら父母としての役割で家庭を維持しているとも言えます。夫婦は他人です。最初は惹かれあっても、実際生活を共にするようになると、相手の悪いところもどんどん目に入ってきて、半ば好きという気持ちを妥協とかあきらめの気持ちが上回ってきたり、夫婦ってこういうもんだと冷めた精神状態になっていくことさえあります。でもそこに子どもの存在があると緩衝剤のような役割を果たしてくれるのです。

問題は夫婦仲が悪くなりすぎて、子どもに依存してしまうと、完全に子どもの自立を阻害し成長を遅らせたり、歪んだ情緒を育んでしまうことにもなりかねません。妻が家事、夫が仕事(あるいはその逆)に集中すればある面役割を分け、それぞれが集中できることを持つことで夫婦関係を維持することに大きな効果があります。また一般的には新婚時代はダブルベッド、子どもができてはそれぞれのベッド、そして子どもが独立したら部屋も別々なんてのもよくある話です。それでバランスをとって家庭というカタチが維持されていたりします。

歳をとっても仲のいい夫婦というのは新婚当初の夫婦の愛情関係とは違うモチベーションで形成されていると考えられます。詳しく聞けば、だいたいの人びとが口々に言われることは
「いろいろあったのよ~。」
という話です。いろんな心境を通過して熟成しきった関係であると言えるかもしれません。

フラット化している社会の中で夫婦が夫婦としての関係を維持し続けるためには、どこかで妥協したり折り合いをつけながら暮らしていくことであるのかもしれません。現代社会は離婚ということが驚くようなことではなくなったのにはやはり男女同権やジェンダーフリーといった風潮、そしてそのベースはやはり世界がフラット化していることにあると思います。男尊女卑の時代はやはり女性が我慢していたのです。あるいは社会の風土自体からも、女性というものは男性に屈して追従するものというすり込みが女性になされていたこともあると思います。

昔、夫婦が夫婦関係を解消せず維持し続けるには、どうしても片方が我慢したり妥協したりということで成立していたということがいえるかもしれません。現在夫婦関係を維持し続けている人びとは間違いなく、我慢や妥協を互いにしているか、あるいはそれをしないでもいいくらいの距離を互いの間に置いているかのどちらかであると言えます。とにかく、他人であった人同士が夫婦になるということは自分以外の価値観を受け入れるということで、それは妥協以外の何ものでもありません。そして妥協を減らすには価値観がなるべく近い人を選ぶということも方法です。

分かりやすく言うと最後まで妥協できなかった人が離婚を選択するのです。それはそれで一つの選択肢ですから、決して悪いことではないと思います。あるヨーロッパの国のように、最初から結婚という形態にこだわらないという方法もあります。そうすることで良好なパートナー関係が維持できたり、婚外子という概念をなくし同じ権利を与えることで、少子化問題も克服できる方向になっているということも聞きます。今は男女というカテゴリーでだけ人を分けられないのと同じように今後結婚という観点もさまざまな形態が発生していくと考えられます。

最終的には人間はひとりの存在で、種の保存や生活していく上で便宜上、夫婦、家族という形態をなしているのだと思えば、さまざまな選択肢がそこには考えることができそうです。いずれにせよ、人間関係は(その差こそあれ)価値観の違う人同士が交流をもつということなので、そこにはどうしても精神的な触れ合いにおいてさまざまな影響をうけるわけです。すなわち人間関係とはストレスが生じやすく、それを極力いいカタチに転化する方法がコミュニケーションスキルということになると思います。

2013年9月20日金曜日

日中韓はなかよくなれるのか?③

国境を越えてなかよくなる方法、考え方はいろいろあります。とりあえず思いつくことがらをあげると以下のようになります。

①罪(行為)を憎んで、人を憎まず。
②国家レベルでの対応はあっても、前世代の失敗やその報い(ツケ)は次世代に回さない。
③男・女(最近はカテゴリが増えていますが)、という立場、人間という次元まで抽象度をあげてつきあう。

とにかく日中韓の間で人びとは人間として心の通った普通の関係を築きたいわけです。もちろんそのためにはそれぞれが努力して感情論や社会的に受けてきた教育(他の国から見ると洗脳に他ならない)を越えて一人間として見つめる必要があると思います。もちろん全員がそのレベルになることは不可能です。少なくともPSIではそういう関係構築を標榜しています。そしてよりフラットな関係も目指しています。被害者、加害者という関係、権力者、従属者、あるいは強者、弱者の関係などすべてそういう要素を内包した組織はいずれヒエラルキーを形成し、そのうち間違えるとカルト教団のような組織になってしまう可能性があります。もっとも強い権力を持った人が教祖になってしまうのです。

ヒエラルキーがとても強固な国というと北朝鮮を思い浮かべる人もいるかもしれません。やはり強固な思想統一がなされている国家組織は、カルト教団とても似通っているのです。どの国も民主化政策を進めるのはそうならないようにするためで、それが国民の幸せに直結するからです。王は君臨すれど統治せず、王という個人、人間はつねに間違える可能性を内包しているのです。王はいても実際の政治は民間から選ばれた人が行うというのは理想です。では王は必要ないのかというと国民をまとめるシンボルというカタチであればなんら問題はないと考えます。そして統治者はつねに変わる、変えられることができるということが素晴らしいのです。その統治者も同族でないほうがいいと考えられます。

話が大きく外れましたが、人間は誰しも権力欲や野望をもっています。それは悪いことではないのです。要はそれを自己中心的に使ったりせず、ちゃんとコントロールできるということが、大人になることであると思います。暴力もパワーです。批判するのに暴力や破壊行為を行うということはこれは暴君や独裁者の手法となんら変わりません。ガンジーやキング牧師が歴史的に称賛され続けるのはそういった手法で訴えなかったということがあります。どんな違法な行動をしても反日無罪という観点には、はっきりとNOと言える民度をもてるように誰かがはじめて欲しいものです。

もちろんあまりにそれを容認、あるいは賛成意見が多い社会でNOということは、自殺行為であるかもしれません。国を正すにはその国にいてできないこともたくさんあります。反体制運動家はいつも自由主義の国に亡命して、訴え続けてきました。声を上げることができる国に来て声を上げる、訴えることでその国や国民が少しずつでも気づくことができれば大きな成果です。いずれにせよ改革や変革はたいへんな作業です。ただ革命はとてもリスクがあります。犠牲者もたくさん出ます。

会社、企業でも組織のトップも中枢に近い人びとほど制度に埋め込まれていて身動きがとれません。そういった環境下で気づいてもなかなか行動は起こせないのです。したがって周辺企業、部署から改革の波は徐々に中央に行くとか、第三者委員会など外部人材をつかってやるかしかなかなか方法がありません。ただ周辺過ぎたり、外部では見えてこない部分もあったりして改革のモチベーションが低いというマイナス面もあります。北朝鮮という国も地方にいる人民より、平壌にいる市民や政府高官が亡命したりするのを見ると、やはり中枢ほど問題も見えるということは事実だと思います。

日本と韓国でどちらがより社会的文化の強制度が高いかというとこれは間違いなく韓国です。ひとつの例をあげてみたいのですが、それは国際結婚から垣間見えます。わかりやすく言うと

韓国に嫁に行った日本女性はキムチを漬ける。
日本に嫁に来た韓国女性はキムチを漬ける。

ということです。日本女性ももともと男尊女卑の時代があったのでそのDNAを受け継いでいるからか、韓国社会の旧い風土には適応できるのです。日本では最近見受けられない嫁姑関係が存在していて、その風土に組み込まれています。それをさらに強固にしているのがマザコンに近い韓国の母息子の関係です。韓国に嫁入りした日本女性たちの話を聞くと、かなり精神的には抑圧された生活になっていることを感じます。彼女たちはイベントとしてお好み焼きは作っても、普段の生活ではチヂミをつくるのです。また中には独島(竹島の韓国名)はウリタン(我が【韓国の】領土)と言ってる(言わされている?)日本女性もいます。日本のネット上では目茶苦茶叩かれていますが、韓国ではそうしないと生きていけないのです。

それに比べ、日本に嫁入りした韓国女性は解放されます。キムチもつくれば、竹島は日本の領土なんて言う人はほとんどいません。また日本の男性は台所仕事をする人も多く、主夫も増えています。そして最近は韓国も多いのですが、日本はずいぶん前から核家族化も進み、長男でも親と暮らさない人が多いのです。それでたまに会う嫁姑関係はとてもフラットでカジュアルです。精神的に抑圧される要因は韓国よりは少ないと思います。それに、日本人は悪口は韓国人のいないところで言ってくれるので・・・・。ちなみに直接言ってくれる日本人がいたら、ある面愛情があるのかもしれませんね。

日本には全世界の料理がありますし、今は学校やさまざま自治体で外国の文化を取り入れることを推進しています。その中にはもちろん韓国の民俗文化なども含まれています。日本では日韓のイベントがたくさんあります。韓国では日本の民俗文化紹介やイベントなどはどうなのでしょう。ちなみに中国は政治や歴史問題と民間の交流はかなり分けて行われているように思います。中国は民主主義でない時代を長く続けてきたことと、国が大きすぎることもあり、ある面国家が交渉カードとして使っていることがらに民間があまり振り回されないという面もあります。

日本では九州などはすでに道路標識や街の案内標識などに英語、中国語、韓国語が使われています。韓国では日本人観光客がもっとも多いようですが、標識などはどうなのでしょう。やはり政府が反日ということをカードにつかっているので、それを行政で行うというのはなかなかできないのでしょうか。それでも南大門市場などに行くと販売者はほとんど日本語が話せます。民間レベルでは本音の部分でほとんどの人が日本語の必要性を感じているのでしょう。

韓国には日本の和食、寿司やカレーのチェーン店などが増えています。衣食住から徐々に文化、そして日本そのものを受け入れる状況が公式的に表れるようになることを期待したいものです。すでに日本在住の韓国の人びとはまた違った観点で祖国を見ているのでまた違った考察もできることかと思いますが、韓流好きな日本女性が日本にはたくさんいるように、韓国でも親日であると言っても別に批判されない国になることを願ってやみません。

2013年9月19日木曜日

日中韓はなかよくなれるのか?②

今月22日日曜日にすべてのレイシズムやヘイトスピーチに反対する集会がもたれるようです。

http://antiracism.jp/march_for_freedom

最近は日本でも海外でしかお目にかかれないような過激なデモが見られるようになってきました。そのあまりに過激な汚い罵りは、とても日本人とは思えない、もしかしたら日本人ではない人たちが日本人の皮をまとってやっているのではないかと疑いたくなるようなものです。そういったことがコリアタウンと言われる地域で行われています。

同じ日本人として恥ずかしい限りですが、その方法は反日運動で見受けられるような手法と似通ってきています。海外でどんなに反日的な活動があったとしても日本人はつねに冷静に対処する(もちろん反日運動家?からはそういった日本の態度自体も気に食わないのでしょうが)というのがある面、先進国、大人の国という自負心でもあったわけです。ところが最近のもうレイシズムと言わざるをえない状況のデモを見たりするとあっけにとられるしかないのです。

韓国では親日発言の高齢者を殴り殺すという事件が起き、さらにそれを擁護するようなネット上の論調も数多くあったりして、とにかく感情的に冷静さに欠ける行動というのが目につきます。今日のYahooニュースでは下記のような記事が載っています。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130919-00000053-chosun-kr

とにかく最近のアジア三国の状況を見ると領土問題、歴史問題で感情的な行動が激しくなっています。このことは社会情勢自体がより個人に対してストレスの多い病的人格を生み出す要因をつくっているということがあげられると思います。日中韓に共通して言えることは少子高齢化が急速に進んでいて、人間関係の力が著しく低下しているということがあげられると考えます。縦型の上下関係は崩れていき、すでに年長者がえらく、年長者を大切にするという考え方はもうなくなってます。日本ではずいぶん前にそういった上下関係はかなり崩壊し、家族から会社組織までよりフラット化した関係になっています。

韓国も昔の映画と最近の映画やドラマでは大きく変わってきています。昔の映画やドラマでは大人や親の言うことが絶対で子どもや若者は間違っていても従うという社会でした。今は違います。最近のドラマの共通点は親たちの問題が子どもの代に露見して子どもたちの人生が翻弄されるというシチュエーションです。あの有名な冬のソナタも純愛と言いながら、親の世代は純愛じゃなかったよねというお話です。

今は年長者だからといって年下に命令したり強要するような態度の人は、逆に反感を買ってたいへんな目にあいます。何を言いたいかというと権力構造の上下のヒエラルキーがキツイ社会は抑圧された社会なので、徐々にそれらが爆発してしまう状況になっているということを感じます。権力や固定された思想で抑圧している社会は目に見えないフラストレーションがあふれているということなのです。韓国で高齢者を殴り殺した人はもちろん許されるべきではありません。ただそういう親日的言動に対してあまりに過激な行動に出てしまった原因は抑圧された社会やあまりに過激な反日に対するすり込みがなされている教育にもあります。

日本では反韓教育も、反中教育もしません。すなわち歴史教育に感情を持ち込まないのです。また教師が感情的にそういった意識で教育することもありません。いかに感情を入れず、歴史の史実を伝えるかが重要であり、間違っていれば上書きされていくというだけです。感情と言えばむしろ日教組の影響で日本政府に対しての反発を持つような教育のほうが知らぬ間になされていたかもしれません。他国に対して憎悪を抱かせるような教育は絶対しません。

韓国は戦後ずいぶんと民主化がなされてきました。でもまだ民主主義と言い切れないのは、社会の風潮として反対意見や異論が述べれないということがあります。日本では日本人が韓国や中国の立場を擁護する見解を述べても殺されることはありません。政治家が中国でリップサービスをしても、多少のバッシングを受けるくらいで日本にちゃんと帰国して暮らせるのです。歌手のチョ・ヨンナムさんや大学教授オ・ソナさんのこともやはり韓国はきびしいと思わざるをえません。

韓国は半島でつねに他国からの侵略に対峙しなければいけない都合上、また北朝鮮と対峙している関係上思想的な統一が不可欠であったという国家の哀しい事情があります。過去の韓国の歴史をみてもアカ狩りでかなりの人びとが犠牲になっています。でも今、反日感情を子どもたちにどんどん教育しすり込んで何かメリットがあるのでしょうか?反日運動やその意識の高揚がメリットがあるのは二点です。それは

・政権に対する不満や支持率低下に対する国民のガス抜き
・歴史問題の謝罪を通じた賠償金

です。でもよく考えるとあまりおいしいものではありません。たしかにアメリカも戦争をすると支持率が上がります。でも今回のイランへの武力行使にはアメリカ国民は懐疑的です。イギリスは参加しないことを議会で決定しました。アメリカ国民もイラク進攻の際、大量秘密兵器は無かったとか、過去のことから学習しているのです。もう政府に振り回されないよという民主主義国家としての行動をしているわけです。韓国も政府はつねに反日を利用しガス抜きをしているのですが、そういったことは良識ある韓国国民はわかっています。でも幼少時からすり込まれた反日精神はなかなか脱却できない人も多いのです。

経済援助も歴史問題にかけてやるよりは素直に日本への支援を要望したほうが日本国民は歓迎します。まあ韓国ではそういうカタチで支援を受けるということは韓国世論の反対を考えて仕方なくそういう手法しか使えないのかもしれません。北風政策では人の心は開きません。もうほとんどの日本人の心の中には、何回でも謝るけど、結局お金欲しんでしょという認識になってしまっています。もう謝罪要求は金銭要求であるとほとんどの日本人は認識しています。

反日運動は必ずしも韓国や中国の全国民の意識の反映とは考えられません。実際韓国では高齢者の方がたがとても親日の場合が多いのです。私はあの時代はご苦労されたでしょうというと、全く違う答えが返ってくるので恐縮してしまうのです。むしろ植民地時代を体験していない若い人びとの中にとてつもない反日意識を持っている場合を数多く見てきました。これは私としてはとても不思議なことでした。たしかに五情の中で唯一‘怨み’の情だけが時間薬が効かず、時間の経過とともに大きくなるのです。まさに世代が変わると多少消えるのかと思ったら、逆に世代交代とともに怨みや被害者意識は大きくなっているのです。

日本はアメリカに対して過剰な被害者意識は持ちません。というよりそういう教育自体受けていないのです。過剰な被害者意識も加害者意識も、ともに個人の人格に良い影響は与えませんし、ひいては国の発展にもマイナスです。韓国のドラマを見ていていつも思うのは親の問題が子どもに影響を及ぼすのです。でも私は結構ドライなので、親は親、子は子と考えればいいじゃないかと思ったりします。親は先に行く世代、子はこれから歩む世代。親は過去の因習にとらわれ身動きがとれないのです。親に今更価値観を変えろというのは酷です。親は子の幸せを願っています。親離れをすることが結果的に親孝行です。それで子は幸せになれるのですから。親は理解できなくていいのです。

日本の場合は欧米の個人主義や核家族化の影響で、親はもう子どもに親の考えを押し付けなくなりました。韓国はまだまだ家族主義というアジア特有の良きにつけ悪しきにつけそういった考え方が根強いのでそのパラダイムの呪縛ゆえにたいへん苦労するかもしれません。いずれにせよ抑圧が強い国から抑圧が少ない国に来れば、いろんな価値観と接し、もう一度自分や自身の人生を見つめなおす機会が得られます。日本に長年暮らして韓国に帰った知人が、日韓の領土問題になったとき、「日本には日本の言い分がある」とだけ言ったとき、たいへんなことになったそうです。

グローバル化とは多様な価値観を受け入れる、せめて受け止めることから始まります。ダイバーシティという考え方もそうです。韓国ももうそろそろ二回目の民主主義(一回目は軍事政権からの脱却)に飛躍するときを迎えているのではないかと思います。感情に任せた行動による社会で起こっているさまざまな事件はその過渡期に来ている気がします。韓国国民がそれを深刻にとらえ、もっともっと客観的視点に立ってものごとを分析、吟味してほしいものです。韓国はもともと優秀な力のある民族です。それが国自体がもつ制度的埋め込み(制度は文化も含めます)から個の意見が抑圧されて来ました。これを解くのはなかなか困難なことです。

現代グループ創始者の鄭周永(チョン・ジュヨン)氏が生前、「韓国に共産党があってもいい」という発言をし波紋を拡げたことがありました。ここまで成熟した韓国はもういろんな価値観が入っても国が揺るぐことはありません。もう一歩本来的な民主主義が浸透すれば日本の嫌韓感情も溶けて行きます。レイシズム運動も消えていくでしょう。おとなしい日本もあまり追いつめるとそういうことが増えていきます。それでもそういったことは辞めようと日本は日本なりに努力しています。韓国もそういった声が少しずつでも増えていくことを期待したいものです。

2013年9月18日水曜日

日中韓はなかよくなれるのか?①

日中韓、このアジアでもっとも重要で困難で、ひとくくりにできないこの三国の問題に関してはずっと避けてきた議題です。このブログはコラム式に書いていて、読むのもたいへんだけど、コメント書くのも書きづらいので、いまだにどなたのコメントもいただいておりません。管理人が削除したコメントもありません。

かなり主観的な観点が含まれているように思われるでしょうし、実際八方美人的な論調でないことは間違いありません。それでも読者の方がたが、とりあえず読んでいただいてもコメントまではされないのは、そこまで感情的にヒートアップするような議題をあまりとりあげていないということもあるかもしれません。

今回日中韓というテーマはある面たいへんリスキーなものであるとは思います。でもやはりこの件は避けて通れないものであると思います。PSI的見解をいつか出さないといけないとは思いつつもリスキーなテーマであることから、なかなか踏み切れない部分はありました。なぜならこのブログは中国の人も韓国の人も読んでいただいているからです。私自身中国・韓国の友人がいますし、決して嫌韓でも、嫌中でもないということは断っておきたいと思います。逆に下手な主張をするとネトウヨと呼ばれる人びとの反感を買う可能性もありますが、基本的に私は日本人ですから日本人のごく一般的な価値観をもっていることは否定できません。したがって彼らの気持ちも十分理解できますし、同調したい気にもなります。とりあえずそういったリスクはさておいて、今後少しづつ小出しに見解を述べていきたいと思います。

まず最初に日中韓はなかよくなれるのか?

というテーマに対しての結論をいきなり申しますとそれは可能だということです。というよりすでにそういう関係を築いている人は多いのです。その方法という考え方は極めてシンプルです。それは

男と女(最近は中間の方もおられますが)、人間というレベルまで抽象度をあげてつきあえば可能である。

ということなのです。芸術や文化は国境を越えますが、男女関係も国境を越えやすいのです。そして人間としての関係性はまったく問題がありません。ただその際、どう考えても平行線にしかならない課題はとりあえず棚上げしておくということです。これは個人レベルのつきあいでは可能です。棚上げというと、とても無責任なようですが、実は棚上げせざるえないことがらというのは私たちの人間としての生物学的な価値とはまったく関係がありません。すなわちたまたま生まれた国の立場や主張を押し付けられて、さらに言うとすり込まれているにすぎないのです。

国家的、社会的レベルにおける都合をお仕着せられているのが人間であるということです。そういったことも含めてアイデンティティというものが形成されているのですが、国の領土もこれは歴史の流れの中で人間が勝手に決めたものであって、もし神様がおられるとしたら、まったく関係の無いものであると思います。もちろん直接聞いたわけではないので断定はできません。

国とか社会、さまざまな組織にはそれぞれ人間一個人が巻き込まれるパラダイムを擁しています。その存続のために必要な考え方や都合に合わせての主張は各国、各社会、各組織において違います。そしてそこに異論をとなえると危険であることは周知のとおりです。リスクを負って異論を唱えたり変えようとするのは変革であったり、さらに過激になると革命になったりしますが、それはなかなかたいへんなことです。

日中韓の間に横たわる問題も組織変革みたいなレベルでとらえれる問題ではありません。おそらく今私たちが生きているうちに解決できるなどとは到底考えられないことばかりです。でも私たちは今を生きています。個人レベルにおいてはなかよく暮らしたいし、つきあいたいわけです。だから棚上げというか、生物としての人間とは直接関係の無い社会的な影響から変容している部分は置いといてつきあいましょうということなのです。

もちろん国が違うわけですから、やはり領土問題をはじめ、さまざまな歴史問題など食い違う部分においては大いに議論することはいいことです。むしろどんどんするべきだとも思います。日本人はとくにその部分においてはなかなか下手なのです。本音と建前でつねに和の文化の中で暮らしてきたので、欧米の大学や企業で平気で行われているディベートが上手ではないのです。では中国、韓国の人が得意かというとそうでもありません。感情論に陥りがちになって議論ができなくなる可能性があるのです。

この三国がディベートを成功させるにはスキルとセルフコントロールが必要です。それは内省やセルフコーゼーションというなんでも相手が問題だと批判するのでなく自己批判できる器も必要です。
韓国人の努力目標は、感情的にならず、威圧的になったり、強迫じみた言い回しをすることをさけることです。これは交渉術としては有効な場合がありますが、交渉して自分の要求を相手に飲ませるのが目的ではないということです。負けるが勝ちという言葉がありますが、無理やり追い込めて勝つと後で分が悪くなり、結局人間関係で劣位に転じる可能性が大です。

日本人は本音と建前が人間関係の潤滑油みたいなところが強く、言いにくいことは極力オブラートに包んで表現してしまうということが多いのです。で、結果的に相手にちゃんと伝わっていないということが多く。また甘えの構造からなんで理解してないのと相手を責めるところがあるのです。空気を読んでとか、行間を読んで理解してというのは日本でしか通用しません。最近は世代的に空気が読めなくなっているので、空気を呼んで相手の意図を察して行動できる人は減っています。とにかくはっきりと意見を述べるということが重要です。議論のとき言いたいことを我慢してあとでこそこそ言うのは日本人の悪いところです。

日本人は喧嘩もできない人が多く、裏ではいろいろ言っているのに本人の前ではいい顔で通るというのがあります。そういう人は似非平和主義と私は言っていますが、たまには感情的になったり喧嘩したりするのも人間的でいいのではと思います。日本の犯罪はそういった面でとても陰湿なものが多い気がします。

中国人は過激な反日運動ばかりがメディアに露出されているので、とんでもない過激で感情的だと思われがちですが、それは一部の人です。実際はかなり冷静な人も多いのです。何しろ4000年の歴史がありますし、忍耐強いところもあるのです。ただ自己主張は強いので、相手の事情をよく理解するというスキルは必要な気がします。また計算づくで考えるのでなく、本音で自分をさらけ出すことも必要かと思います。日本人とまたちがって奥深い部分があります。

それぞれ個々のマイナス部分を自覚した人びとが集まって冷静に議論すればとても面白いと思います。もちろん育った環境や遺伝的要素も違いますが、いまあげたような内容を抑えて話し合うというのはとても大変なことです。しゃべり方もすぐ民族性がすぐでてしまいます。それは仕方のないことです。ただ知的にはそういったマイナス部分を念頭に置いておくというのは大切です。受容できる部分は自分にとってプラスになるわけで、どうしても譲れない部分を譲る必要もないのです。平行線になっていいのです。

2013年5月30日木曜日

成長する人は内省できる人、内省できる人はつねに学習する人②

世の中に完成というものは存在しません。ひとつのプロジェクトやひとつの目標は達成されてもそれはさらに次の段階に移行するためのステップに過ぎないのです。言葉を変えれば、完成は一旦停止であり、小休止であるとも言えます。完成するということをネタにつねに人を動かすということは宗教でも企業でもありますが、PSI的観点から言うと完成は不可能であるということです。ここであえて完成ということを何とか認めろというのであれば、このように言い換えてもいいかもしれません。完成の領域(完成とは言い切れないので)に至るということは世の中のすべてにおいて完成という概念は存在しないということを実感的に認識できたということであると言ってもいいかもしれません。

某カルト教団では完成することを目標に毎日「完成することを誓います」と念仏のように唱えさせられています。このことは何を表しているのでしょうか。それは生きているうちに完成できないということを表しているのです。とてもパラドクシカルな感じですが、実際そうなのです。毎日それを唱えることによって自分は完成していないというすり込みがなされていきます。また死を迎える前日まで「完成することを誓う」のですからいまだ完成していないということを認めてこの世を去るということです。したがって通常の宗教とカルト教団の違いはそこにあります。

完成や成功を標榜する、すなわちそれを餌にしている組織はとてもカルトチックです。なぜなら非現実的要素を取り入れているからであり、完成、成功という目標に向けてそれ以外の思考が入らないように完全にファンタジーの世界をつくりあげているからです。これは組織のトップや上層部には都合がいいのです。彼らの実現したい目標だけにすべてを投入してくれるからです。組織の成員がそういう思考行動にだけ走るように組織の上層部は教育します。彼らにとっては教育ですが、外部の人びとからみると洗脳以外のなにものでもありません。彼らのもつパラダイムは完成を標榜しながら完成させないパラダイムです。なぜなら完成されると都合が悪いのです。その組織にいる必要がなくなるからです。私、完成しました、もうこの組織は私に必要ありませんと言われると困るのです。

基本的に普通の宗教は完成できるとは言いません。むしろ罪人であったり業が深いということを認識し、だからこそ善を行おうと努力するというレベルに人はおかれています。もちろんその指導者も同じ罪人であり、業があるのです。でもカルト教団には罪人ではない完成した人間がいたりします。だいたい教祖がそういう立場に祭り上げられます。それをまた目標とさせられるのですが、絶対に同じ立場に立つことは不可能です。むしろ罪や業が深いとされ、そのために多額のお金や労働、また反社会的な活動を強要されたり、それをあおられます。カルト教団は完成というあまりに非現実的で甘いアメを用意してそれをちらつかせながら、実際にはあまりに法外で実際には無理な要求を平気でしてきます。それでも追い込まれてやってしまうほどの思想のすり込みがあるのです。

カルト教団だけではありません。カルトチックな企業や組織もエゴイスティックな権力者の目標達成のために大いに利用されるのです。それを脱却する、あるいは改善していくためには組織の成員が内省し、具体的に行動する人が増えていかなくてはなりません。そして内省し成長する人は必ず学習意欲があり、外部や新しい情報に耳を傾ける器のある人です。硬直した企業や組織が生まれ変われるかどうかはそこに所属している人びとを観察すればよくわかります。仕事自体は決まりきったルーティンを卒なくこなすいわば職人が必要ですが、その仕事自体を見直したり考えることができるメタ認知能力のある人材が必要なのです。

企業もさまざまな組織も職人肌の人は当然必要ですが、そういう人ばかりだと、時代の流れや社会の情勢を読むことができず、いつの間にか限界を迎えてしまうということになります。あらゆる組織は変容の必要性に直面しているのです。昨今の話ですとレスリングがオリンピック競技から外されるのではといった問題があります。やはり組織は組織内だけで仕事ができる人は組織を守れないのです。組織をつねに外部視点で見たりものごとの本質を見極め変えていく力が必要なのです。そういった人は内省ができ、つねに学習している人にほかなりません。

人間はある程度、不自由なく安定した上がりの状態になると学習の必要性は感じませんし、成長はなくなります。それはピーターの法則でもわかるように、人はやはり無能レベルまで成長するのです。そういったことを回避するには、自分はまだまだだといつも成長シロを残した状態に置いておくのがもっとも最善な方法です。組織のトップになってそれで満足している人は成長シロを失って土ツボにはまってしまっています。自信を持つことは重要ですが、傲慢になった人にはもう成長する余地は残されていません。いつも自分を内省し成長しようという意識自体が、学習意欲を高め、学習することでさらに知恵や情報を得てさらに内省する機会を与えてくれます。学習→内省→成長→意欲→学習→内省→……というサイクルにつねに自分がおかれているならば、成長がありますし、知的老いとは関係のない人生が送れそうです。

成長する人は内省できる人、内省できる人はつねに学習する人①

発展し成長し続ける企業はつねに変化に対応できる組織です。ダーウィンが強いものが残るのでない、変化できるものが残るのであるといったことはまさに人や企業にもあてはまると思います。

世界は間違いなく、最善を求めてその方向に動いているとは考えられるのですが、実際、その反面全く改善されず、いまだに最悪の事態を回避できない状態も続いています。たとえば、これだけ文明社会になって、多くの国々がどんどん先進国入りして豊かさを手にしようとしている一方で貧困はなかなか解消されず、いまだに世界のあちらこちらで紛争や戦争が続いています。

より先進国に成長していくということはよりモラルが高くなるということであり、自国だけのエゴイスティックな思考から脱却し、世界規模、地球規模でものごとを考えられるようになることであると思います。でも先進国であってもやはり戦争を回避することができないという実情があります。それは正義という名目もあるでしょうが、軍需産業等、戦争によって恩恵を受ける企業や組織が存在していることもあります。アメリカでオバマ大統領がなかなか銃規制を実現できないのも、ことの本質を解消できないからという問題があります。

銃規制に反対する人びとは、自分の生活は自分で守るという主張をします。これは決して間違いではないのですが、暴力に対して暴力で報復すると終わりなき戦いとなるのです。人間の情の中で怨みの情だけが‘時間薬’が利かないのです。時間とともに大きく膨らむのが怨みの情なのです。それは日本を取り巻く環境を見てもすぐに理解できます。実は歴史的に体験した世代以上に戦後の教育を受けた世代のほうが怨みが強かったりします。自分たちが直接体験してないのにです。理不尽な話を聞いて当事者以上に熱くなってしまうということもよくありがちなケースです。

自分を守るために武器を持つということは相手の暴力に対して暴力で対応することなので、結果的に互いの怨みが深まるだけです。ただ現実問題として、目の前に起こる犯罪に対してそのままにしておくことは社会不安を助長されるだけなのでとうぜん警察といった公的機関が必要なのです。すなわち、当事者でない第三者が介入することで怨みをさらに拡大させることを防ぐこともできます。ホントに銃が必要だと思っている人はどれだけいるでしょうか。実は銃規制に反対する人びとは、本音の部分では、自分たちが銃を生産することで仕事ができ、生活ができているという現実があるということです。そして銃の市場のニーズをうったえることで自分たちの仕事が確保されるのです。

まだまだ無法な人びとや、無法な国家の存在があるため、銃や兵器等の武器の需要はなくなることはありませんが、遠い未来に健全な世界を築くならそういった必要悪はいずれ地球上から無くしていくことが必要です。あとは展示する博物館に残すぐらいです。ひとりの人間が変わることさえ困難であるのに、組織が変わるということは大変な忍耐とパワーが必要になってきます。考え方の転換から企業であるなら業態の転換も含めてパラダイムシフトが必要なのです。

日本ではJTが日本たばこ産業という不健康な商材を売ってきて、ドリンクや食品に商材を拡げて既存の業界に参入しながらも、財力と認知度を武器に必死に頑張っています。社会の流れは健康志向になってきており、いずれ淘汰される市場に固執し続けて消滅する企業になってはいけないという切実な心情を感じます。それは単に利潤追求という単純な理由ではなく、その会社に従事している社員たちの生活があるということも実感します。

銃の会社も警察という公的機関だけへの供給に制限し、その一般市場を無くした部分の収益の補てんをより近接領域、あるいはまったく別の事業創造が必要であるのです。JTはたばこから食品への事業転換、シフトを必死に行っているのです。その部分を企業だけでなくオバマ大統領はじめシンクタンクが取り組み、国家全体のプロジェクトとしてその企業に従事している人びとの生活を守るアイディアを出さなければならないのです。相変わらず、本音の部分に踏み込むことができない状況になっています。選挙の件もあるし、とにかく変革というのはさまざまな制度に埋め込まれていてなかなか前に進まないという実情があります。

軍需産業がなくなるというのは私たちが生きている間に実現されることはありませんし、地球が滅ぶまでに実現できるかどうかもわかりません。その実現は宗教問題の解決やモラルが高められ利他的な思想が世界中にあふれるようにならなければ無理だと思います。権力を持つとどうしても自己中心的な思考に陥り、独裁的になっていく、また独裁者に仕立てていく組織の成員の問題なども研究されつくさなければならないし、またそれが現実に実行されるまでいかなければならないと考えます。

話がとても大きなところから始まりましたが、実際、歴史の教訓を生かすには内省が必要なのですが、その内省ができるかどうかは新しい情報をつねに取り入れる柔軟性や学習といったことが不可欠なのです。組織は個人の集まりです。個人が考えに考え抜いてより最善な方法を選択していくときに組織は成長し、発展するのです。そのためには学習し、内省し、さらに成長発展しようとする個人の声を全体に反映させることができるように制度に埋没しない取り組みや組織のあり方を考えておかなければなりません。

2013年5月9日木曜日

教育の現場に現れるモンスターペアレント③

私の経験からお話しすると、クレームは企業においては損失ではなく、チャンスであると考えます。なぜならば企業の商品に関して組織の外の視点からものを言ってくれるからなのです。そこには企業も商品も大きな成長しろができます。もちろんただそういったクレームをうのみにするのでなく、それは実際よく吟味して変えていけるところは取り入れて生かすことができます。クレームが企業側の商品自体に問題があるのかどうなのか、あるいは消費者の提案であることもあります。提案の場合はひとつの案として取り上げ参考にしますが、部分的最適化が全体を滅ぼすとあるように必ずしもその提案が市場全体を代表しているのではないことも肝に銘じておく必要があります。

またクレーム処理を担当するということは個人的にはコミュニケーション能力を高める最高のチャンスでもあります。クレーム処理は場数を踏むしかなかなかできるようになりません。ホントになれてくると逆にどんなことを消費者が言ってこようがでんと構えて堂々と対応することができるようになります。さらにそのレベルを越えていくと、こんな無理難題を言ってくるなんていったいどんなひとなんだろう。どういう育ち方をすればこういう人格にできあがるのだろうとその人自身にとても関心をもつということもあります。そこまで行くには相当心のゆとりがなければなりませんし、自分以外の他者に対する関心や愛情など人間的器も必要になってきます。実際クレームをよく言う人をクレーマーとレッテルを貼った段階でもうクレーム処理は負けてしまっている。すなわち受け取る側が壁をつくっているようなものだと思います。

学校側にいろいろ言ってくるものもクレームであるのか、提案であるのか一方的で自己中心的な要求であるのかを区別して考えなくてはなりません。もちろんモンスターペアレントと言われている人びとは圧倒的に無理難題の要求なのでしょうが。とりあえずいろいろ言ってくる人のその背後の意図をいかに読み取るかという問題になります。いずれにせよ、相手の言動に振り回されず確固たる態度を貫くことも重要です。あとはうまく相手の気持ちを察して理解し、人間的な関係を構築することができればもうほとんどは終結に向かっています。

モンスターペアレントになってしまっている(もちろん本人はそういう認識はないですが)親というのは何かが欠けているのです。ホントに愛情を受けて育った人は相手の気持ちも察し、相手に自分の都合のいい要求ばかりすることはありません。何か不自然なカタチで育ったか、性格的にいつもイライラしていたり、被害妄想が多いタイプであるかもしれません。相手を負かすという考え方は必要ありません。逆に負けることで勝てたりします。要は最初から負けてしまうという認識を持たないことが重要です。それはどういうことかと言うと相手を‘モンスターペアレント’とレッテルを貼った時点でその教師は自分の心の中に「怖い」「勝てない」「難しい」「自分には無理」といったすり込みをしてしまっているということです。そしてモンスターペアレントは加害者で自分は被害者という認識に立つことがすでにクレーム対応に大きな精神的負担を負わせてしまっているのです。企業の場合は明らかに消費者が被害者で、企業側はいつも加害者になる可能性という観点で顧客に対応するので丁寧に受容できる精神状態でクレーム処理に臨むことができるのです。

基本的に被害者意識も加害者意識も持たないほうが最高にいい結果を生みます。とくに教職員は親たちといっしょにより良い教育ができるように改善していきましょうという認識を持ってもらうことが大切です。今企業はどこも顧客をファン化するアプローチをしています。味方につけるということです。親をモンスターペアレントとみなしているレベルでは味方につけるどころか敵愾心を持たれてしまいます。まずクレーム対応をする側から心の壁を取り払っていくこと、どんなことでも受け止める精神的ゆとりが必要であると思います。

もちろん世の中にはとんでもない人はいるはずですし、到底手の施しようがない場合は当然しかるべき措置は必要です。いじめ問題や体罰などで学校に警察などの公権力を導入することはグローバル化してきた日本でも一つの案として選択肢から除外すべきでないということは付け加えておきたいと思います。

教育の現場に現れるモンスターペアレント②

現在、全国の教職者のだいたい200人に一人がうつなどの精神疾患をわずらい休職状態にあるようです。東京都においては100人に一人がそのようです。その原因はつい最近話題となった「学級崩壊」などによりこどもたちが教師の言うことを聞かず、好き勝手な行動に出たり、あとは保護者とのさまざまな誤解やトラブルによるものなどがあるようです。もちろん一般企業でも精神疾患になる社員というのは多いわけで、産業カウンセラーや心療内科のお世話になる人びとは増え続けているという状況です。

マズローの欲求5階層説に照らし合わせても、経済が豊かになり、社会が成熟していくと逆に人間は内面的、精神面の問題が増えてくるようです。お隣の韓国でも若年層の自殺が問題になっていますし、学歴社会という社会が生み出したプレッシャーや社会的価値観についていけない状況が多くの若者を追い込んでいるということが見てとれます。日本ではナンバーワンよりオンリーワンを善しとし、学歴至上主義からはだいぶ解放された感じはありますが、就職氷河期と言われる時代が長きにわたって続いたため、社会不安が増大し若者のストレスも継続的にあると実感します。

団塊の世代はそれなりに経済の高度成長やバブル期の恩恵を受けてきたことと、競争社会を生き抜いてきたということで他の世代よりもかなりのパワーがあるように感じます。ただその次の世代はちょうど新人類世代という今までのものさしでは量れないかなり価値観に開きがある世代との間に挟まれサンドイッチ症候群のような状況下に置かれていることもあるかもしれません。ちょうど団塊の次の世代は現在学校で言うと校長や教頭といった役職にある方々です。

もともと「うつ」などの精神疾患になってしまう人は教職者に多いタイプの性格です。几帳面で真面目、そして責任感、正義感がつよく、人からも頼りにされるタイプが多く、教職者はとくに社会の模範というイメージで見られまたそうあるべきと自分を抑圧的に縛ってしまうタイプ(完璧主義)が多いと考えられます。また内面の弱みを見せず黙々と頑張る人ほどストレス状態が限界を越えるとそういった症状を引き起こすわけです。基本的にストレスが少ない人はストレス要因をつねに吐き出している人です。愚痴をこぼし、聞いてくれる人もいて、いい具合にバランスをとっている人です。

長年にわたって教職に携わってきた人も社会的な使命感や夢を描いて教職についた若い人も理想とする教育とはかけ離れた問題の多い教育現場の現実を目の当たりにして、自分の考える教育観との整合性を得るにはたいへんなストレスを感じざるえないことでしょう。もともと人間は最低の生活を体験した人は現状に満足して気楽に考えることができるかもしれませんが、最高の夢や理想を抱きながら教育の現場に入ってきた人はストレス以外の何ものでもありません。

こどもたちの教育現場での離反やモンスター化した親たちに対応するには、今では真面目一辺倒で穢れのないような先生にはかなり酷です。私が考えるに、そういった過酷な現場には修羅場を何度もくぐったような営業の叩き上げくらいの人がやっと対応できるのではないかと思います。勉強ばかりやってきて人の模範となるべく教職についた人はそういったアウトローな人びとに対する免疫はないので精神的には相当の苦痛を感じるはずです。実際の教育の現場に入るともともと抱いていたイメージとのギャップで苦しむことになるわけです。

こどもをちゃんと座らせて、教えるだけでもたいへんなのに、こどもの背後にもっとでかいこどもがいてこども以上に手ごわいこどもだったという話でしょうか。こどもよりももっと大人げない大人というのがモンスターペアレントだと考えると、今後の教職員の仕事はこどもの教育と同時に親の再教育かもしれません。いずれにせよ教育の現場ではこどもに勉強を教えるといったスキル以外のスキルが必要となっていることは間違いありません。

クレームは正しいもの、ごもっともということは多々ありますが、ただの言いがかりであったり、無理難題を言ってくるのはもうクレームというふうにひとくくりにはできないと思います。例えば、こどもが学校の授業についていけないから、家に来て勉強を教えて欲しいとか学校の教師という立場以上のことを要求されたりすることはこれはもう理不尽極まりない話だと思います。ただ社会的に価値観の多様化が進んでいる中で、一般の社会通念も逸脱したような人も多くいるわけで、そういった人びとに対してはきちっと対応できる企業のクレームマニュアルのようなものも学校という教育の現場にも必要かもしれません。

教育の現場に現れるモンスターペアレント①

昨今、学校は児童、生徒の保護者のモンスター化に手を焼いているようです。給食費の未納にはじまり、卒業アルバムに自分のこどもがあまり写っていないとクレームをつけ、成績が悪いと教師のせいにして、とまああげたらきりがないほどとんでもないことを言ってくる親たちが増殖しているようです。成績が悪いのは遺伝です。あなたはそんなにできたんですかと訊くわけにもいかず、明らかにこの親にしてこの子ありと言える状況が多いのだと思います。

私が小中学校の頃は親が学校の教育に口を出すことは恥ずかしいというイメージでした。できるだけ授業参観も含め、親には学校に来てほしくないくらいに思っていましたが、どうやら最近はそうではないようです。もちろんPTAという組織があり、学校行事に親たちが昔よりたくさん駆り出される状況ができあがっているので、親たちのパワーもずいぶん強くなっているのかもしれません。すでに先生という言葉に威厳や尊敬の念という意味合いは消えてしまっていると思わざるをえません。私もこどもの学校に行ってみると、親たちと先生は友だち感覚でおしゃべりしているなんてのを垣間見たりします。今や先生という言葉は呼び名でしかありません。

このことは何を表しているのでしょうか。企業に遅れて、教育の現場にも大きなパラダイムシフトのときを迎えているのだということです。すなわち組織の在り方を変革する、そしてそのためには教職員の内省による自己変革がベースになければならない時代になってきているのではないかと痛感するのです。

一般企業では収益をあげなければならないという現実的な問題がつねにあります。収益が上がらない場合、徹底してその原因を見つけ出していかなくてはなりません。そうしたところ、結局マーケティング(市場のニーズを知る)から商品開発のアイディア(イノベーション)を出し、さらにそれを促進させるには組織風土改革まで行わなければならないという状況に至ります。背に腹は替えられない現実問題があるわけです。

日本では戦前の軍国主義の時代から民主化が実現されて、どんどん社会はフラット化してきました。今はテレビでもお笑い芸人が主流のバラエティ番組がゴールデンタイムは席巻しています。お笑いのポイントは非現実的アプローチであり、現実社会をアイロニーで笑い飛ばすところにあります。すなわち権力をもっている年長者にタメ口を平然と言ってかます。常識とは大きなギャップがある行動(本音ではみんなそうしたいこと)をすることで笑いを誘うのです。それは視聴者からすると解消には最高なのです。

団塊の世代は激しい競争社会を生きて上下関係もしっかりわきまえて、企業組織のヒエラルキーを空気を読みながら周囲とバランスをとって駆け上がって行った人びとです。それに追従したのがその次のシラケ世代です。団塊の世代がいるせいでシラケ世代は重要なポストはなかなかもらえず半ばあきらめの心境、惰性で上の世代に従ってきた感じがあります。その次の50代前半から40代に人びとは新人類世代と呼ばれ、より上の世代の出世競争に辟易とし、独自路線をとることやポストよりも仕事の中身で勝負するタイプが増えてきました。

新人類世代は会社にそれほどコミットせず、企業横断的なスキルを持ち、待遇がいいところがあれば平気で転職を考えます。この会社に骨をうずめてなんて考えはほとんどありません。でもそういった考え方のほうが会社が生き残れるのです。上の世代はその会社愛ゆえに会社をダメにしたという事実もあります。まさにホントに会社のことを思うならば、会社人間になって組織の中に埋没するのではなく、ある面冷めた目で会社全体を客観視したり、俯瞰するというパラドクシカルな経営や組織の運営が必要となってきます。これはこどもに執着しすぎるとこどもをスポイルして自立を遅らせてしまうということにも似ています。

こういった新人類世代がマスメディアを動かしているので、視聴者ごころをよくとらえた番組づくりができていると言っても過言ではないと思います。バラエティが好きかどうか、もちろん賛否両論ありますが、やはりお茶の間を笑いの渦に巻き込んでしまう手法はすごいのです。特別面白そうなところは繰り返し見せたり、面白いトークには必ずテロップをつけて、これでもかこれでもかと視聴者の本音の部分にぐいぐい入ってきます。おそらくこういったセンスある手法があって視聴者もスポンサーも取り込むことができているのだと思います。

また新人類世代は上司や上役に対してただ単に年上というだけでのリスペクトはありません。また権威や権力には団塊、シラケ世代のやり取りを見て嫌悪感もあるので、地位よりは仕事ができるかどうか才能がある人に対するリスペクトは当然あります。したがって上司だからというものさしでなく、この人と組めば、あるいはこの人のもとで働くならば自分を生かせるという観点から従うということはあります。新人類世代以降の世代はさらに会社にも地位にもコミットしないので、仕事そのものに愛着があれば続ける人びとです。

企業ではそういう観点で経営者や管理職の人びとは地位があるからなどと甘えていては部下はだれもついてこない状況に至っています。そういった現実を早期に受け止め、考え方のフレームを改めた経営者や上司がたくさんいる企業が生き残っているのです。すなわち既存の管理手法から大きくパラダイムシフトを行えた企業が強いのです。モノをつくれば売れた時代は殿様商売ができたかもしれませんが、モノが市場にあふれて飽和状態になっている今では、マーケティングの手法でより顧客満足を推進しなければならない状況になりました。さらに核心部分に踏み込めば、イノベーション(技術革新や商品開発、そのアイディアなど)を起こすためにはフラットな職場環境による従業員満足まで必要となってくるという話です。

こういった考え方は昨今の教育現場にも必要とされ始めているのではないかということを痛感します。教職員の組織は互いを先生と呼び合い、親しき仲にも礼儀ありという日本的文化が残っている感じでいいイメージはあるのですが、逆に遠慮があり、一般企業ほど人間関係を深めるということは容易ではない感じを受けます。毎回問題が起きて初めて、教頭や校長が当事者の教師にブリーフィングを行うという現状が記者会見などを通じて見受けられます。やはりヒエラルキー組織であることでより部下の状況把握が厳しいというのが実情ではと思います。でさらに把握できないのが先生と生徒の関係です。それで毎回、いじめられているとは知らなかったという担任教師のコメントが出てくるのです。

教育の現場も一般企業と同じでそろそろ保護者へのアプローチを変えなければならない時期にきていると思います。企業は努力しなければ経営が危ぶまれます。でも学校、特に公立の学校はそういった努力をそんなにしなくてもある程度は生徒数は目途がたち、保証されています。すでに私立の学校は保護者を半ば顧客という観点でとらえる考え方に大きくシフトしています。私立大学などは生き残りをかけて大学の先生は高校に赴き営業活動を行っています。教育環境の充実は顧客である学生満足であるわけです。そして学費を出す親たちにそれをアピールするわけです。

実はモンスターペアレントの発生はその親自身の問題だけでなく、学校組織の運営自体にも少なからず問題があると考えられます。社会全体の思考が大きく変わってきている中、企業はどんどん変わって生き残ってきましたが、そのことは教育界にも昔のままでは対応できないよという一石をモンスターペアレントという存在が投じているのかもしれません。実はモンスター化した親たちに変われといっても難しいのですが、それに対応する学校側が変わることはある面可能です。それによって大きく状況を変えていくことができると思います。

2013年4月8日月曜日

新入学、入社のシーズン

学校の入学式や卒業式に参加すると、学校の方針や風土までなんとなく感じとれます。そういった学校の行事でよく問題になるのが、教師が君が代斉唱のときそれを拒否して立たなかったとか、日の丸の国旗を掲げないとか、思想的な行動です。最近そういったニュースを聞かないのは、昨今のアジア情勢から政府や国民全体の意識が右傾化しているというのがあるのでしょうか。PSIとしては別に右でも左でもありません。

人間の価値において平等であるという観点でのフラット思考です。フラット思考というと中には左翼的だと考える人もいるかもしれませんが、それは全くの誤解です。過去、共産主義体制だったところはすべて強固なヒエラルキーを形成し、人間の価値が不平等であったという事実があります。また左翼勢力がいつも人権や平等という耳障りのいい言葉を使ってきたため、フラットな考え方を左翼的だと誤解している人が多いのです。公平さというものを無視した平等、すなわち頑張る人もそうでない人も同じ評価であれば人間の意欲を損なってしまいます。共産主義が発展しなかったのはそこに原因があると思います。結果としてそういった社会をまとめるため結果的に特権階級が生まれ、平等な社会を模索していた左翼組織もヒエラルキーを形成するようになるのです。したがってPSIは右でも左でもありません。

話が飛躍しましたが、今日は娘の中学校入学式でした。私の娘の入学した学校はごく一般的で、きっちりとしたカタチで式は挙行されていました。ただ新入生が入ってくる前に在校生がいていきなり生徒の制服チェックが始まりました。男子は襟がしまっているか、腕のボタンがちゃんとついているか、女子はスカートの丈のチェックです。今チェックしてもし校則?にひっかかった場合、どうするのだろうと思ってしまいましたが……。まあある程度統制をとる意味でそういったことは必要なんだなと私としては理解しました。私が中学、高校の頃は風紀委員というのがいて、その風紀担当の先生はものさしを持って、よく女子のスカート丈を測っていたことが思い出されます。ちなみにその時代はスカート丈が長いのが不良です。

人生の中でそういった儀式は厳かな雰囲気を出すためにどうしても権威的な雰囲気を造成して執り行う必要はあります。身も心も引き締まる思いというのはある面人生の転機を迎えて必要な感覚であると思います。人生のトランジション(転換期)をうまく切り替えるためにはそういった儀式は一つの動機付けとして自分自身に自覚を与えると同時に新たな出発をさせてくれます。入学式や卒業式、そして入社式もそういった面でとても意義深いものであると思います。また国旗掲揚や国歌斉唱も自身のアイデンティティを見つめなおす意味で必要であると思います。それは日本人として生きているなら当然行事に組み込まれるべきものであると思います。厳かな雰囲気は誰もが認める権威がどうしてもベースになるからです。それは宗教なら神や仏であるわけですし、国の教育ならやはり国そのものがそれに該当すると思います。

守るべき伝統と壊すべき因習、もしかしたら伝統と思っていたものの中に、すでに現代ではその考え方、パラダイム自体が老朽化して遺物と化しているものもあるかもしれません。今日入学式で校長先生の式辞の一節がとても印象的でした。それは

「君たちはナンバーワンじゃなくて、オンリーワンを目指して欲しい。誰にもできないものを見つけ、それで一番になって欲しい。」

ということでした。なんだかんだ言っても、やっぱりナンバーワンなんやなと思って苦笑してしまいました。校長先生は私より若干上の世代、やはりナンバーワンが素晴らしいという教育を受けて育っています。私もそうなのですが、オンリーワンがいいとか言いながら、その実ナンバーワンをどうしても目指してしまうというのは長年教育されてきて、すり込まれた意識から剥ぐことはできないのです。半ばオンリーワンがいいというのはナンバーワンになれなかった人への慰めの概念であるという一面もあるように思います。また順位をつけることを悪であると言い始めた保護者たち(モンスターペアレントとは言いませんが)の怒りを和らげるカモフラージュの意味もあったのかもしれません。

オンリーワンがいいと言えるのは、そのオンリーワンである世界で誰もそれを取り組んでないときだけです。あるいは希少な世界でナンバーワンになったときだけです。なぜならば誰もやっていないことでもそれを取り組むようになればその世界(業界)でトップを目指さなければならないという競争がまた始まるのです。経営の分野で言うならば、だれも考えないようなニッチな市場を発見したり、誰も考えない発明をするということになるのでしょうが、やはりそれがいずれ常識となることは間違いないわけですし、最初の段階で言える話です。

PSIはナンバーワンであれビリであれ人間の価値が平等であるということを前提にしているのであまりこだわる必要はないと考えています。また視点を変えるとナンバーワンであることは業績の価値を言っているのであって、オンリーワンであることはそれぞれの個性を言っているので、その二つの概念を比較すること自体がナンセンスなのかもしれません。

またナンバーワンを逆手にとって、たとえばお笑いの業界ではブサイク芸人ナンバーワンとか、抱かれたくない芸能人ナンバーワンとかビリがいきなりトップに躍り出るという方法もあります。そういうことを考えると、ホントに現在は視点を変えるだけで、逆転、あるいはすべてがフラット化する柔軟な価値概念を日本国民は持っているのかもしれません。

ナンバーワンであれ、オンリーワンであれ、要は自分自身、本人が人生を楽しんでいるかどうか、これが最も大切であるという結論は誰もが納得できるものであると思います。

2013年4月3日水曜日

体罰について⑥

相変わらず、ネット上では大阪桜宮高校の体罰教師を擁護する記事がかなり出ています。でもネチズンたちの大多数が体罰否定の論調であることに心をなでおろします。

http://zapzapjp.com/archives/25995521.html

体罰容認派、中には体罰推進派と言ってもいいような感じを受ける人もいますが、やはり自殺された遺族の方の気持ちは置き去りにされているように思えてなりません。もともとスポーツは指導という名のもとに指導教官は強固な権威をもち、そこに絶対的服従を強いられるような組織形態を維持せざるえないような内容があります。すなわち軍隊と似ているのではないでしょうか。そして指導教官の指示や指導は絶対的であり、それに従って多くの人びとが成績を上げてきたことは間違いと思います。ただ果たして、そのシステムに体罰という名の正当化された暴力が果たして必要なのかというと疑問を持たざるをえません。

気合を入れるために平手打ちなんてアントニオ猪木氏から受けたいという人はもちろん自ら進んで自分の意思で受けるわけですが、実際自殺したり、告訴したりした人びとは決してそれを願っていたわけではありません。明らかに一方通行の暴力に他なりません。上記のサイトのコメント欄にも多くの方々が意見を述べているように、やはり教官の体罰をふくめた指導方法を正しいと主張する人は、まず権威をもった教官の指導下において洗脳されていたということは完璧正しいと言えないまでも、決して間違ってはないと思うのです。異様なまでに体罰教師を擁護する人びとの主張を見ると今回の措置に対してとても感情的に同情し、やはり属人的思考が強いことをとても感じます。本来ならその教師を擁護したいなら、早く先生には気づいてほしかったとか、その指導方法は時代錯誤的だとか逆に教師に対して反省を求めるコメントを出すべきところが、全面的に教師の犯した罪までも正当化する論調になっています。

私はやはりこの現象を見て、体罰教師を養護している人びとに共通してるのは、属人的で権威主義的思考であると感じるのです。またそういう人びとはものごとを客観視したり、メタ認知的な視点は持ちえなくなりますから当然、過激な表現をすると体罰教師に洗脳された一つの集団と見てもおかしくない感じを受けます。

どうしてもからだを傷つけるような(もちろん精神的なハラスメントもですが)ことがまかり通る組織はカルト組織と考えざるをえませんし、ストックホルム症候群やパトリシアハースト事件が想起されてしまうのです。最初はみんなおかしいと異論を唱えていたのがいつのまにか犯人の虜になり、犯人側に立ってしまうのです。

現実問題として、自殺された犠牲者がおられるにもかかわらず、その気持ちは置き去りにしてあくまで加害者の立場に立った人を擁護するというのは、なにかゾッとする気持ちになってしまうのは私だけでしょうか。体罰やその教師、その行為を擁護している人びとは、本当にその教師のことを思うのならば、属人思考に陥らず、よくものごとの様相を見極め、体罰教師に反省を促し、遺族や社会に対してゆるしを乞うことを支援してほしいと心から思うのです。

2013年3月25日月曜日

集団行動の危うさ②

先日、私の勤める会社の商品を扱いたいということでアクセスしてきた会社の営業マンが訪ねて来られました。どうやら展示会に出展していたとき、名刺を受取ってアクセスしてきたようです。実際私が対応したわけでないのでどういう理由で来られたのかは来られて話を聞いているうちにわかりました。

会社にいるとさまざまな営業の電話もかかってきます。とにかく話だけでも聞いてくださいと。もちろんハナから来てもらってもなにもメリットないとわかればはっきり断るのですが、とりあえず情報を得る意味でもそれに応じて受ける場合もあります。

今回来られた方は弊社の商品を販売する広告を出してあげるかわりに月3~4万円の健康ドリンクを買うというものでした。何か変だなと思ってあとで会社を調べたらもともとネットワークビジネスのような会社でした。話を聞いているときおかしいと感じたのは、その営業マンが自分の会社の会長をだんだん称賛しだしたことです。普通の会社の営業マンは会社のトップをほめたりはしません。彼は自分の会社の会長をほめ、彼の考えや作ったシステムをほめはじめました。

ネットワークビジネスにかかわらず、危うい会社や組織は、とても属人的傾向が強いのです。もちろん素晴らしい企業の素晴らしい経営者はたくさんいますが、最終的にその経営者や会社がまともでいつづけることができるのは、独裁に陥らないということだと思います。そして組織のトップ自身も自分が作った企業理念や経営理念であったとしてもその縛りは本人自身にも及んでいるということだと思います。独裁でカルトチックな組織というのは、組織のトップがどんなにいいことを言ってもそのトップ自体の行動はその考え方が適応されないという矛盾を抱えています。そしてそのことに多くの者たちがおかしいと思いながらも何も言えないという権力構造ができあがっています。

属人的な組織はどんなに組織の理念や信条が素晴らしいものであったとしても、そういった考え方とは別途に違うパラダイムができあがっていて、もっとも権力を持つ独裁者に従うことが正しいというダブルスタンダードになっています。そういった組織は中に入るととんでもない組織だったりするのですが、対外的には超模範的なスローガンや理念を掲げているので外にいる人には見えないのです。

私は組織の状況を見るときにトップもそうですが、No.2や側近と言われる取り巻き連中を見るのです。彼らが異常なまでにペコペコしていたり、対外的にめちゃくちゃ組織のトップを賛美する言動があるとしたら、この組織はかなり属人的な組織で、上部組織と下部組織の温度差や隠蔽体質が根付いていると考えてしまいます。ネットワークビジネスははっきりとピラミッド組織を形成しますのでそういった問題を考えるにはとてもわかりやすい組織です。

属人思考から脱却するのは、経営者や上司の立場にあれば、自分に対して異常なまでにおべっか使ったり、従順な人に気をつけなければなりません。そういう人は地位のある人には従いますが、自分の部下や同僚には上から目線という人も結構います。松井証券の松井会長が管理職の人を評価するとき、彼の部下からの印象を参考にするのはとても面白い試みです。要するに上から見るのと下から見るのはまったくその人の評価が変わってくるということをよく認識して、決して自分に従順だからといって真に受けないというのが重要です。そして何より、自分自身が間違う可能性があるという認識をつねに持って、自分も企業理念や信条に従うということも大切です。

組織のトップも成員も‘人間は間違う’という認識を持ちながら、組織内に経営トップ、上司、部下、同僚と360°どの人に対しても組織の理念や信条、また一般的な常識や社会通念に大きく逸脱した人には従わないという意思を明確にしておくことが重要です。いい意味でそこは譲らないという‘貞操観念’をもっておくことはとても大切です。属人的になりやすい人は素直で感動しやすい人です。すぐ自分が感動するとその感動させた人についていこうとします。ある面、猜疑心や人を見たら疑えみたいな意識も重要です。ただ完全に属人思考に陥って完全にはまってしまうとなかなか第三者がなんとかしようとしても困難です。そういう属人思考から、騙されて大変な状況に至って人生を棒にふったなんて人も聞きます。

集団行動の中に入れば、いつでも同調圧力にさらされ、長いものに巻かれろ式でパワーのある統率者に心酔し、入れ込んだ結果、取り返しのつかない行動をしてしまったというケースは世間一般いくらでもあります。少なくともこのブログを読んでいただいている人はそういう状況には至らない人で、ものごとを客観視したり俯瞰したり、メタ認知の能力がある人であると思います。なぜなら属人思考が強い人はPSIのブログにはかなりの違和感を持つに違いないからです。

2013年3月23日土曜日

体罰について⑤

いじめ、体罰の問題と教育界ではこういった問題が相変わらず取りざたされています。

こういった問題は過去全くなかったわけではなく、近代、価値観の多様化やフラットな社会状況、情報社会、……などさまざまな理由で明るみに出てきているという現象であると考えられます。

そんな中、また以下のような記事が載っていました。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130322-00000124-mai-soci

保護者の中でもやはり力関係のあるヒエラルキーがどうしても存在してしまうんだというもどかしさというか残念さというか…。

長年にわたって実績をつくりあげた体罰教師に対して、多くの教師や上位者である校長や教頭でさえ何も言えないという状況は教職員という組織の中でありうるわけですが、保護者というのはある面そういった中に取り込まれない第三者機関のような役割が果たせるのかと思いきや、決してそうではないという例が今回のこの記事に現れていると思います。

軍国主義の時代は全体主義であり、全体が向かおうとする方向に異を唱える者は非国民とレッテルを貼られ、日本社会から排除あるいは村八分状態に置かれてきたわけですが、戦後急激な民主化に戸惑いながらも、国民の意識も徐々に徐々に民主的でフラットな思考になってきたわけです。そしてグローバル化の波に影響を受けながら多様な価値観を受け入れなければ、日本社会も生きていけない時代になってきました。

特に企業ではいち早くそういった観点から、独裁権力をもった鋭利なヒエラルキー組織からよりフラットな組織に移行することでCSRやコンプライアンスといった観点からさまざまリスクマネジメントの必要性が訴えられてきました。ただ教育界においてはやはり師匠と弟子、教師と生徒、学生という観点は大きな勘違いとともに権力の主従関係とみなされ、組織風土として守らなければならないと思い込んでいる伝統という名の旧いしきたり、慣習等が問題を隠蔽しつづけ、最近になってようやく問題の可視化が起こってきたというのが実情です。

今回のこの記事を読んで考えさせられるのは、やはり教師や教育界の問題は決して彼らだけの問題でなく、親たちがそういった問題を起こす温床となっているという事実です。つねに親の問題は教育の分野では半ばタブー視され、つねに教育者(加害者)と保護者(被害者)という構図で論じられてきました。でも実際は教育者をさらに加害者たらしめているのはすでにメジョリティを獲得している保護者たちの集団圧力、同調圧力に他ならないのです。もちろんそういった保護者の中にもおかしいと気づく人はいるのですが、全体の声が体罰を擁護するような状況にあれば声をあげることは困難です。

大阪桜宮高校の生徒自殺問題も体罰教師を擁護する親たちは相当数あったと聞きます。したがって真の被害者である生徒の親は体罰教師とそれを容認してきた学校、そして行政、そして本来同情してくれるべき同じ親たちの集団圧力と闘わなければならないという苦しみを受けるわけです。私は自分の子どもを体罰を容認する教師に預ける気持ちはさらさらありません。私自身が受けてきた経験からもそうですが、体罰は怨みは残しても心からの感謝は生まれません。もし体罰を受けて自分が更正してまともになったという人がいたならば、それは体罰をした教師に感謝する前に、なぜそういう境遇にならないといけなかったのかという原因をもっと明確にするべきです。自分の足りなさや家庭での問題を明確にするべきです。そして体罰を容認するような発言は慎むべきであると思います。

たいへんな過激な体罰重視の教育機関に預けて子どもが更正して感謝しているという話はよく聞きます。しかしそういった親は自分たちの子どもに対する力のなさを認めるようなもので、家庭内でちゃんとした躾や人間としての道理を教えることができなかった事実をはっきりと知るべきであると思います。もともと障碍があって難しい場合は除いて、健常者でありながら問題行動を起こすとしたらそれは何をさておき、家庭内での育て方に問題があるのではと親たちはまず自問自答すべきであるのです。ちゃんと子どもと向き合ってきたのかどうなのか、自分たちが子育てを放棄して、過激な体罰の教育機関に子どもを預け、それで更正してもそれは親としての役割を果たしたとホントに言えるのでしょうか。

暴走族のような組織は強固なヒエラルキーが出来上がっていて、上下関係がはっきりしています。上位者には絶対服従です。保護者の組織の中にも役員として力のある人は組織の中心的役割を担いいつの間にか権限や権力を持つようになります。そしてその人の主張に全体が徐々に従うようになるのです。見た目は親たちのやさしい仮面をかぶった中身は陰湿な権力構造の暴走族のような組織になる危険性もはらんでいるのです。リーダーシップがあることと独裁的要素とは見極めなければなりません。

本来保護者の集まりはよりフラットな組織構造でみんなが自由闊達に意見を出し合える風土を醸成していかなくてはならないのです。中心的存在はリーダーと言うよりみんなの意見をまとめるファシリテーターのような役割をするのがいいのですが、なかなかそういうことはできないので問題が生じやすいのです。

体罰問題もいじめ問題も、そして企業におけるパワハラ、モラハラといった問題もすべて加害者をさらに加害者たる者に仕向けているものがあるのです。それは、加害者を支える集団内のパワーのある支援者に従属しやすい全体主義の意識が集団圧力や同調圧力を生み出し、「臭いものには蓋」式の膿を出さず早く問題を収拾させようとする隠蔽体質と相まって問題は抹殺されるのです。

旧共産圏の体制批判の運動家はやはりその国では活動できないのです。地下に潜るか自由主義の国にわたって活動するしかありません。体罰やいじめの被害者は下手をすると学校だけでなく、保護者たちも敵に回す可能性が重々あるという認識で知恵深く行動すべきです。今はマスメディアがある程度被害者を擁護する立場に立ってはくれますが、保護者たちの状況には踏み込まないというまだまだ社会的なタブーが存在しています。企業も未だに告発者は会社にとどまることが困難であることは会社の社員全体も会社や経営者側に立っていて味方になりえないという事実を表しています。

企業も組織風土や会社の手法ど、組織のほとんどの成員がおかしいと思っているにもかかわらずそれに異を唱えるとはじき出されるというとても不思議な状況が起こっていたりします。経営者でさえその風土に埋め込まれていて、変えたいけど変えられないという状況に陥っていることさえあります。そういった場合その組織に一切の利害関係のない第三者機関が介入するしか変えることは難しいかもしれません。

そういった面で学校という半ば密室になりやすい組織形態には、心理学関連の専門家のみならず、組織の専門家であるコンサルタントなどに依頼することや、実際問題が起こったら躊躇せず警察などの機関に依頼したりマスメディアを通じた社会的な監視を要請することは正しいことだと思います。またそれができる教育者こそ今の時代に必要なのだと思います。

2013年3月3日日曜日

集団行動の危うさ①

最近の少年犯罪などと見るととても短絡的な犯罪が多いと感じます。まったく計画性がなく、単純な動機で犯罪に及んでいるケースが多いのです。金が欲しいから人を殺したとか、誰でもいいから殺したかったとか、自己中心的、身勝手で無責任極まりない事件が起こるたびにいろいろと考えさせられます。いわゆる一種の‘ノリ’でやってしまっているケースがあると思うのです。そして悪党と言われるだけに悪は徒党を組みやすいこともあります。犯罪を犯すのに一人での単独犯も多いが、複数で集団による犯罪も多いのです。

いじめや体罰もある面、集団心理が陥りやすい問題も含めての集団の問題行動と言えなくもないわけです。当事者だけの問題として片づけてしまったら、なんら問題解決はできず、ずっと同じことの繰り返しになります。なぜなら、いじめも体罰もそれを容認する沈黙の大衆やそれに対して何も言えない当事者に関係ある人びとの問題があるからです。

実は少年犯罪もあまりに残虐な犯罪が衝撃的に報道されたりすることで、近年あまりに増えているような錯覚に陥りますが、実は別に増えているわけではないとのことです。むしろ高齢化社会になって年長者の犯罪が増えてきていることは付け加えておきたいと思います。ただ若年層の犯罪と要素が違うのは、ある面加齢により、理性が利かなくなりあまり深く考えず、感情のまま行動した結果、犯罪に及んでしまったというケースが多いように思えます。要するに大人げない年長者が増えていることはどこの企業や組織でも感じることがあるかと思います。

http://kogoroy.tripod.com/hanzai-h19.html

歳を重ねるにはオシャレに品よくしたいものです。

ちょっと脱線しましたが、今回取り上げたい問題は、集団行動の問題点です。なぜ人は集団になると間違いを犯してしまうのか。企業に勤めている方々はよく体験したという方も多いかと思います。たとえば、会議で、ワンマンな経営者や声がいちばん大きい上司や社員の主張が全部通ってしまうという理不尽な現場です。会議に参加している99%の人びとがそれはおかしいと思っているのにです。さらに言うならば、とんでもない方向性を打ち出そうとしている経営者や上司の太鼓持ちの部下や社員でさえ、おかしいと思いながら、「素晴らしい~!」などとやっているわけです。

まだおかしいと感じている状況ならば、まだ救われます。ところがそれがだんだん麻痺してくると、ものごとを客観視できなくなり、集団のもっとも権力のある人にすべて従い、それを正しいと思い込んでしまうという現象が起きます。ストックホルム症候群というのを聞いたことがあるかもしれません。銀行強盗に入った犯人に人質が従い、最終的には恋心を抱き、結婚までしてしまったという話です。またパトリシア・ハースト事件では誘拐された大富豪の孫娘が犯人グループの仲間に入って活動していたという衝撃的な話があります。

洗脳という問題があるのですが、日本では洗脳されやすい民族性をある面、育まれてきたということもあります。

長いものには巻かれろ、出る杭は打たれる、郷に入りては郷に従え、……。

もともと和の文化を善しとしてきた日本では集団になると集団を取りまとめている人の意向に沿うように全体が行動するという風土があります。その空気を乱す者はとても嫌がられますし、ひどい場合には、空気が読めない、協調性がない、……などと異端者扱いされ、レッテルを貼られ、ひどい場合には村八分状態に置かれてしまいます。しかしその場合、必ずしもその集団の管理者や集団自体の方向性や考えが正しいとは言えません。

個人と違って集団になると、どうしても集団、あるいは集団の管理者やトップが持つ考え方に従おうという意識ができあがります。そうすることで秩序が形成され、心地よい集団がつくりだす一見美しいと感じるまでの流れができあがっていくのです。そこに水を差すことは集団全体が許さないのです。私の長女は知的障害で養護学校に通っていますが、そこでは障碍者が多いので、入学式や卒業式で、騒いでいる生徒がいても父兄たちもなんら気に留めません。なぜならそういう学校であるという共通前提のもとに集まっているからです。でも健常児だけが通う学校で、誰かが奇声を発しているとしたら、間違いなく全員がびっくりしてその子を抑えるでしょう。

集団の危うさは、一般的な良識や常識、あるいは法律さえも越えてしまうくらいの一体感を持ってしまいます。個人においてそれに気づいて、そこにいる状態でそのことに言及すると間違いなくその集団から排除されます。問題行動が起こっている集団のその場での発言はおろか、告発するというカタチをとっても最終的にはその組織には居れなくなったりします。企業、学校、その他どんな組織にも独特なパラダイムが存在します。それに適合していない考え方は排除されて当然と言えば当然です。

とにかく組織のトップは人格的素養が備わっていない人は絶対立つべきではありませんが、そういう立場に立つと、その人がもつ権力や権威の恩恵に預かろうと必ず太鼓持ちの部下が出てきます。そのとき頭のいい学習する人はいいのですが、そうでない人はまずその罠にはまってしまって、いつの間にか裸の王様に仕立て上げられてしまうのです。いつの間にか大きな勘違いをして傲慢になって自己中心的な経営、組織運営をしだすと、いつの間にか、世間の法律は飛び越えて、自分が法律になってしまうのです。そしてその集団の成員全体も間違っていることに気づきながらも従うようになり、次第に善悪の基準は一般の法律ではなく、組織のトップの、あるいはその組織のトップを影で動かす人間の思いのままに、疑問も持たず従うようになっていくのです。

集団がもつ秩序だった行動に各個人が同胞感というか仲間意識を強烈に抱くようになると、さまざまな集団行動は一つの儀式のようになって、その中でエクスタシーを感じるようになり、その高揚感を味わうとその集団への虜になってしまうのです。ある面、犯罪がなぜ社会的に法律を犯す問題行動であるにも関わらず集団で起こしてしまうのかという原因がそこにあります。犯罪が集団で起こるのは集団が織りなす現実からかけ離れたファンタジーの世界の虜になって、その集団のいちばんの権力者が持っていきたい方向に全体が動くようになっていくのです。

若年者の犯罪や最近では少なくなりましたが、暴走族などといった組織もそういった集団行動ゆえに集団内では行動は正当化され組織の成員は何ら疑問を持つことなくすべてを受け入れるといった現象が起きるのです。そして最近の犯罪はとても短絡的で、自分たちの仲間意識とその高揚感から単に‘ノリ’でやってしまっているという身勝手な内容があります。

ストレス解消には現実逃避がもっとも有効であると言っていますが、PSIはあくまでそれは人に迷惑をかけないということが前提であるのです。人気歌手のライブやサッカーのサポーターたちの一体感のある応援もある面、集団がもつ高揚感、エクスタシーを味わえる最高の場です。ただそれらは誰かに迷惑をかけたり、犯罪行為に手を染めるといったことはまずありません。ただ他国でそういった集団が暴徒化したり、建物を破壊したりする行為に及ぶことがあるのはやはり集団とはそういう危うさがつねにあるからです。日本でも、さまざまなデモに警官が配備されるのもそういった内容も含めて集団行動はつねに危険が伴うからではないかと思います。

集団では個の意見や考え方は抹殺されやすいのです。でも集団という組織はつねに個々人の良識や客観的視点をもって見守っていかなければ、いつ誤った方向に行くかわからないということを重々認識しておくべきです。それができなければ、いつ被害者になるか、加害者になってしまうかという危険性があるということを認識すべきです。企業でのコンプライアンス違反も集団になると善悪の基準はその組織独自のものさしで量られるのです。これがカルト教団などになると集団行動の中に個人の良識は抹殺され、被害者になるか、加害者になるか、とにかく人生を棒にふってしまうことさえあります。殺人や詐欺行為をしたり、集団自殺を引き起こしたりカルトになると集団的パワーを利用してそこに所属している組織の成員は同じ空気を共有しているという仲間意識とともにある種の危うさの美的感覚もあいまってエクスタシーを感じながらとんでもない違法行為に手を染めてしまうのです。

PSIでは独裁者の意のままに動かされており、それに対して盲目的に従がっていて、なおかつ組織内ではパワハラ、モラハラなど理不尽な行為が平気でまかり通っている、そういった組織はカルトと位置づけております。その上、反社会的な行為が行われていたならば、完全にそれは集団の問題を明確に露見しています。今後の企業経営、組織運営の為にはそういった集団を組織論的観点から細部にわたって研究する意義は大きいのではないかと思います。

  

2013年2月16日土曜日

体罰について④

最近、楽天の星野仙一監督が体罰に関して持論を展開しています。

http://www.tokyo-sports.co.jp/sports/95907/

ネット上では、かなり体罰容認の論調があるのですが、こういった著名人による話は大きな影響を与えます。私は絶対的に体罰否定の立場ではありますが、こういった考えが出てくるのは民主主義国家として、何でもかんでもマスコミ等の一貫した考えに従属しないためにも意義あることだと思います。

今、いじめにしても体罰にしても、そういった言動自体が大きくクローズアップされ、それが起こってくる原因や背景があまり深く論じられていません。加害者である人はその個人的な性格や手法のみが問題として取り上げられ、マスメディア等で連日放送されることで社会的制裁を大いに受けています。しかしPSI的には、そういった個人的な性格や手法はもちろんのこと、そういった理不尽なことがらが容認されてしまう組織的な背景などまで考えてこそ問題解決に至ると思っています。またいじめに関していうと加害者になってしまう人、被害者になってしまう人、それぞれそうなってしまう要素があるのです。どちらの側にも心の傷や問題を抱えている場合が多いのです。その件に関してはまた機会があればお話ししたいと思います。

とにかくいじめや体罰に関する現象に対する部分だけを論じ、深く掘り下げないことは、プライバシーの問題に踏み込むことになるのでしないのか、あるいは組織的問題や、責任ある立場の人びとの進退問題まで生じるのでそうしないのか、具体的にはわかりません。いずれにせよ、女子柔道の体罰告発も結局、全柔連の組織改革を要求しているのであって、当事者はある程度、どこに問題があるかを認識しているように思います。加害者とされている監督を一方的に糾弾しようという姿勢ではなく、むしろそういったことが容認されてしまう組織のシステムこそ変えてほしいと思っているのです。いじめで自殺した子を持つ親たちも、実際いじめた加害者よりもそれに対してなにも対処できなかった学校側の責任を追及しているのです。もちろん彼らに個人的な怨みが全くないということは言えないと思います。ただそういった理不尽なことがらをどうにもできない組織や権限をもつ責任者に対する怒りのほうがよほど大きいのではないかと思います。

そろそろいじめも体罰問題もことの本質に踏み込むことが必要であると思います。まだまだ組織の問題にはタブーが数多く存在していて、こういった本質や核心部分を言及しようとすると組織全体は黙殺するか、あるいは権力者たちによって潰そうとされてしまいます。なかなか難しい問題でもあります。マスメディアもきっちり裏を取らなければ、報道責任が生じ、下手をすると訴えられかねない立場もありタブーに踏み込めない部分は大いにあると思います。ただタブー視されていることがらは数多くの人びとが認識しているにも関わらず、具体的に言葉に言えない部分でもあります。半ば暗黙知的な内容であったりします。でもPSIのブログではそれをはっきり具体的な形式知に置き換える作業をすることでタブーを無くす努力をしたいと思っています。すなわち誰もが理解できる言葉に置き換えてお伝えしたいと思っているのです。

話はまた星野監督の持論に戻りますが、彼はリーダーとしてとても優秀であると思いますが、あまり組織という観点はお分かりではないと思います。彼の観点は鉄拳制裁で代表されるように体罰ありきでもちろん怪我をさせてはいけないと言われています。しかしそれはホントにそうなのでしょうか。やはり私としてはその考えには異を唱えざるをえません。体罰無くして成長させることはできないのでしょうか。もちろん人間としてやってはいけないこと(犯罪や法律を犯すようなことがら)に関しては当然それはあり得るでしょう。文字通り、体罰ですから。でも選手は人道的に問題行動を起こしたのですか。そうではありません。選手が成長していく過程で気合を入れる意味でそれを望んでいたなら許されることかもしれません。でも選手が受けたくない体罰であると認識していればそれは暴力以外のなにものでもありません。与える側(主体者)と受ける側(対象者)で、前者がどういう意識でするか以上に、後者がどう受け止めているかが重要です。私はいつも殺人事件などで加害者には殺意はなかったとして情状酌量を求めるというのをよく聞きますが、じゃあ殺意がなければ殺していいのかという問題を考えてしまいます。もちろん逮捕後は国家権力による裁きの場に立たせられるわけでそこから加害者の権利を保護するという意味は分かりますが、実際殺人の現場では被害者の権利は完全に守られなかったわけで、とてもいたたまれない気持ちになります。おそらく被害者側の願う判決が出ないときには、自分たちの前に立ちはだかる法律や法廷という大きな権力の前に虚無な心情を感じるのではないかと思います。

指導者や教師、企業なら上司の立場にある人は弟子や学生、部下が自分の言動をどう受け止めているか明確に認識できる能力、またそれを言葉だけではなく空気として読み取る能力がない人は間違っても組織において上位者に立つべきではないのです。人間関係は上下左右と180°さまざまな人びととたくさんつきあって人間力を磨いて卓越したコミュニケーション能力と愛情を育むことができます。企業で言うならば、友だちもあまりなく、プライベートは充実しておらず、家庭でも存在感がなく、会社でだけ上司の立場で部下にエラそうに命令だけして自分はあまり動かないという人は上に立ってはいけません。

また星野監督はみんながいじめを認識していたら、みんなで一緒に止めたらいいと言われていますが、それは組織というものがどういうものなのかよくわからない立場での答えです。あまりに単純過ぎる見解に少々引いてしまいましたが、やはり鉄拳制裁で精神論中心のマネジメントしかできない闘将のレベルが理解できました。いじめの加害者には、実は被害者のみならず、大衆も沈黙というカタチですでに従わせているのです。そういった大衆の一人が他者と結託して加害者に対して訴えることはすでに加害者に対する裏切りを意味するので、絶対に沈黙の大衆はそういった行動には出ないのです。そのことは星野氏にはわからないのです。唯一それができるとしたら、加害者以上の人心を集めて加害者の支持者以上の支持基盤をつくることができるリーダーが出てくるしかないのです。大衆は力のある個人に従属するようになっています。大衆は独立した個人の集まりではありません。集団規範の制約の中で身動きがとりにくい状態でいるのです。そのことに気づいて理不尽な状況を打開しようと立ち上がる人がリーダーになれます。ここで暴力などのパワーでもってトップに立ったいじめの加害者はで独裁者のような立場です。独裁者は恐怖政治を引いて恐怖でもって人びとを縛って管理しますが、リーダーは信頼と愛情で人びとを啓発し自立を促します。

体罰を多く使う指導者は恐怖で集団を管理している傾向が大きいと考えられます。そういう指導者でより上位者にもはっきり言える人はそれでもまだ下位者から信頼も持たれる可能性はありますが、そういう人に限って、案外上位者にはペコペコの人が多いのも事実なのです。力でねじ伏せる人は力に弱いのでより上位者には弱いのです。上下に強い人はなかなかいません。権威主義者とはそういった人びとのことです。

信頼と愛情で管理する人は師弟関係や上司部下の関係にあまり私的な感情を持ち込むことはありません。したがって上位者にもはっきりものを言える人が多く、下位者にも権力を行使して無理難題を押し付けるということはありません。そしてもともとフラット思考なので全体を分け隔てなく見渡しもっとも効果的にチームとしてのポテンシャルを最大限に引き出す手法を活用し、結果にも責任を持とうとします。

星野監督の手法は弱小球団の底上げには大きな効果を発揮すると思います。当時、負け続けていた阪神を優勝にまで導いたのは星野監督の力量だと思います。負け癖がついて自分でどうしたらいいかわからないレベルはパワーで引っ張るのが手っ取り早い再生方法です。しかし一人ひとりが実力者のスター選手の集まりではそういう手法は通用しません。WBCでの大敗はその内容をはっきりと投影させたできごとであったと私は実感しています。組織の成員の成熟度合いによってリーダーシップの在り方を変えるという「リーダーシップの状況適応理論」というのがあります。したがって原監督のWBCでの優勝は納得できるものでした。名前も侍ジャパンで、原ジャパンでなかったところもすごく良かったと思います。あくまで選手の持ち味を十二分に生かしてそれを支えるというサーバントリーダー的な手法こそが成熟したチームには有効に働きます。

オリンピックを目指すような選手はもう十分成熟したプロ意識を持っている選手として扱うほうがよっぽど才能を開花させるのではないかと思います。

これからの指導者になる人は、組織論、心理学、リーダーシップ、モチベーション、……などちゃんと勉強して、過去の自己の経験則にだけ依存する管理手法からは脱却できる内容と愛情まで持ち合わせた人になってほしいところです。

  

2013年2月1日金曜日

組織は守ってくれない②

真実の告発者は加害者によってというよりも、組織論理の暗黙の圧力によってつぶされてしまいます。組織はつねにより上位者を擁護する傾向にあります。もともと日本では礼を重んじつねに上位者への忠誠を誓わされてきました。したがって欧米のキリスト教文化のように神の前にみんな平等だとかそういうフラットな思考はあまりなく、国の統治者やそれを代弁する教育者に圧倒的な権威、権力があって、それに意見する者や反対する者はすぐレッテルを貼られて組織的な圧力を受けてきた歴史があります。またそうでないと国家という組織形態の維持ができなかったという側面もあろうかと思います。

でも現代はすでに民主主義が根付き、倫理観やモラルが組織内でも重要視され、理不尽なことは声をあげることのできる環境が整いつつあります。それでもまだまだ正義が主張できない本音と建前論がまかり通っているという実情もあります。

ではそういう組織風土や環境の中で正しいことを言ってもつぶされないようにするにはどうしたらいいのでしょうか。正しいことを言っても組織は守ってくれません。またその正しいことを聞いてそれに追従することと、沈黙を守っておとなしく過ごすのと天秤にかけたらやはり後者を選んでしまう社員が圧倒的に多いのではないでしょうか。日本では和の文化を重んじ、とにかくぶつからないことを美化します。金持ちケンカせず、君子危うきに近寄らず、長いものには巻かれろ、……とにかく組織論理に適応して素直に生きることが日本人のDNAの中にすり込まれているように思います。

私は何度か声をあげてその組織的な圧力のすごさを実感したことがあります。それで学習したと言えばすごく賢いようですが、とにかく場数を踏んでたくさんの失敗もしました。

正しいことを言っても組織は守ってくれません。

正しいことを言う、正しい行動をする(正しいと言い切る危険性はもちろんありますが、とりあえずここではそういう観点でお話しします)にはただがむしゃらにぶつかって行っても意味がありません。最初から勝てない勝負はする必要がないのです。逃げるが勝ちとは孫子の兵法から来てるのですが、逃げることも必要です。でもその会社や組織を愛して、何とかしたいのであれば、それを変えなければなりません。その際、より上位者は権威も権力も権限も行使しているという事実をよく認識する必要があります。したがってそれらに匹敵する武器を持ち得なければ、絶対に勝てることはないのです。それが数の論理です。それらが屈するだけの人的な基盤無くして何も変えることはできないのです。世界の独裁政権が倒されるプロセスを見ていくとやはり情報とそれに基づく人的基盤が独裁政権をひっくり返すのです。自分がいじめられているだけでは誰も親身になってくれず、沈黙の大衆でいるだけです。当事者でないので自覚がないのです。みんなが不公平感や被害者であるという認識になってこそ結束できるのです。

労組はある面、経営者側の権力に対応する意味では社員全体の当然の権利でした。今はそれが機能しているかどうかはわかりませんが、それは民主主義を達成する上でも必要なことであったと思います。

組織はかならずと言っていいほど、間違った方向に行きます。またそのトップも絶対的に正しい采配なんてとれるはずもありません。組織内での調整はできても改善は困難です。やはり第三者の視点を取り入れるしかよくなることはありません。教育者や経営者側はその視点をつねに持っていることが重要ですし、教育を受ける立場の人や社員は間違っていることを見たり知ったりしたときに簡単に対処してはつぶされるということはよく認識したうえで行動するべきであると思います。やはり権力や権威には同等のパワーを持ち得なければどうしても難しいのです。組織の上位者には愛情ややさしさといった人格的要素が不可欠ですし、下位者はつねに冷静にものごとを見極め勇気をもって、そして知恵深く行動することが重要です。

組織は守ってくれない①

引き続き女子柔道の監督の暴力告発、高校の体罰問題等がマスコミで取りあげられています。賛否両論あることは当然理解できるし、両者の主張にはそれぞれ言い分がある。ただ体験者や当事者の感じた内容を無視して、周囲の単なる思い込みや推測だけで主張することに左右されることは避けたいと思うのです。私は少なくともそういった体罰やいじめに関連する体験に基づきある程度お話ししているわけです。

今回、女子柔道の選手の家族によると、娘は詳しくは話してくれなったという内容が記事に載っていました。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130131-00000078-mai-spo
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130131-00000122-san-soci

彼女たちの言動には私もとても共感するものがあります。すなわち彼女たちはあくまで選手として活動していきたいというのが基本的にあるからです。日本の企業その他の組織ではより上位者
の論理が正しく、下位者の意見や考え方は排除されるきらいがあります。したがって素直な気持ちを主張するとそれは組織的にも、告発者の気持ちの上でも不平不満であるような意識に傾き、告発者の気持ち自体も抑圧されるのです。したがって私も中学時代、運動部でおこった体罰に対して親に絶対学校には言わないでと言ったのはそこに理由があります。好きなそのスポーツを続けたいからであり、告発することでそれができなくなるといった予想がつくからです。案の定、私の場合は断念せざるえない状況に追いやられました。でも今回の女子柔道の選手は選手生命を絶対的に守って保護してあげなければなりません。親はなんで話してくれないのだろうと寂しく思ったかもしれませんが、当事者の気持ちはそこまで考えているのです。

自己主張した時に、その主張が組織論理と違う方向であるならば、どんなに正しい主張であってもつぶされる可能性が高いのです。桜宮高校の体罰自殺問題で教師のほうを擁護するコメントがネット上に多く見受けられるのは、私は残念でなりません。もちろん両者の言い分が出ることはより民主主義的で公平でいいのですが、その先生が素晴らしかったとか更生された生徒が多いとかそのこと自体が問題ではないのです。いちばんの問題は体罰自体を社会が受け入れるのかどうかという問題があります。そして教師が体罰ではないと認識していたとしても受けた側がどう受け止めるかという問題です。

教育というのが危険性を含んでいるとしたら教育者が絶対的に善で正しく、教育を受ける人はそれを正しく受ける、そう受け止めることができないのは未熟であるとして、彼らの意見を切ってきた問題があります。最近はモンスターペアレントなる言葉をよく耳にしますが、もちろんそういう親が多いことも事実です。ただそういうふうになってしまう教育の在り方やシステムの問題も考える必要があるのではないでしょうか。

日本では企業風土もよりフラット化してパワハラ、モラハラなどさまざまな問題が起きないように取り組んでいます。最後の牙城は教育界なのかもしれません。その中でも特に上下関係の強い体育会系はさまざまな問題が露見すると予測されます。教育と称して頭ごなしに教育者が絶対的であるという考え方はもう老朽化した考え方に他なりません。そして教育を施す側がどう考えるかでなく、教育を受ける側がどう受け止めているかということを主軸において考えるという考え方の大きなパラダイムシフトがなされなければならない時を迎えていると思います。

2013年1月31日木曜日

体罰について③

つい最近、女子柔道の15人の選手が女子柔道代表監督の園田氏に対して暴力を受けたことを集団で告発するという問題が起こりました。前回までお話していた大阪市立桜宮高校の体罰による自殺問題に引き続き、またかと思わせるようなできごとです。

今までスポーツの世界では、体罰などという内容は間違いなくあったのですが、半ばタブー視されてきました。私自身も経験したことなので、はっきりと断言したいと思うのですが、社会的にはそれは明るみに出ることはあまりなかったわけです。今回の女子柔道の選手たちによる告発も桜宮高校の一連のできごともおそらく引き金になっているのではないかと考えざるを得ません。今回告発した女子選手たちの実名をJOCは非公開にしていますが、それは当然のことと考えます。なぜならば企業の不祥事などもそうですが、告発した者は必ず保護されるべきなのに、結果として仕事しづらい状況に追いやられ、社員からは裏切り者のようなレッテルを貼られ、最終的には退職せざる得ないことになってしまうのです。

実際、告発者は大衆の意見を代表しているにもかかわらず、大衆は彼を見捨てるのです。いじめがなぜなくならないか。沈黙を守る集団の圧力はいつも加害者側に立ってしまうからなのです。正しいと思って声をあげるとみんなの気持ちを代表しているにもかかわらず潰されてしまうのです。私は中学校のときある運動部に所属し、伝統的に行われてきた体罰に匹敵する儀式を受け、あまりの悔しさに両親に話したところ、両親は学校に訴え、すぐに私がチクッたという話で学校中が持ちきりになりました。私はそのことをある程度予想して、両親には絶対学校には言わないでと言っておいたのですが、やはり親は心配だったのでしょう。ちょうどそれが一年生の入部当初の話だったので、周りの目はとても冷ややかでものすごく辛い思いをしたことがあります。一年生の半年くらいは学校に行くとみんなが私の悪口、陰口を言っているようで、言葉では表せられないほどの苦しみがありました。でも私に非があるわけではないので、気丈に振る舞い、まったく変わらない姿勢でクラスメートや友だちに接し続け、やがて彼らもいままでの友だちに戻ってくれました。それで針のむしろのような生活からは解放されました。

未だにあのときのことを振り返ると苦しくなって思い出したくありません。聖書に出てくるイエスキリストが十字架を背負ってひとりゴルゴダの丘をめざすとき、いわれなき中傷誹謗を受け、石を投げつけられて誰一人として自分を理解する人はいない、そのような心境でした。こんな喩えをすると、次元が違いすぎて敬虔なクリスチャンの方々にはお叱りを受けるかもしれませんが、自分にとってはそれほどたいへんなできごとだったのです。全校生徒を敵に回し、力になってくれる教師は一人もいないどころか、担任のせいで私のチクリだとレッテルを貼られ、本当に辛い思いをしました。

でも私はあのときのことがあるので、とても強い人間になれた気がします。あのときより苦しいできごとは未だに遭遇していません。またPSIで中心的なフレームとしてあげている「どう思われてもいい」という考え方はそのときの体験がベースになっているということもあります。また自分が平然として変わらなければ、いずれ周りが変わるのだという体験もしました。だから今いじめられている人がもしいたら、どうしたらいいかお話してあげたいです。強く気丈に誰が理解してくれなくても、あなた自身があなたを守ってください。神を信じている人は、誰が理解しなくても神様は見守ってくれていると信じることはとても素晴らしいことです。

ちょっと私ごとで長くなりましたが、今回の女子柔道の集団での告発は、ある面画期的なできごとであったと思います。なぜなら告発者が多いからです。企業の不祥事を告発した例で、北海道のミートホープ株式会社の赤羽さんのことを思い出します。彼は自分自身も逮捕されるのを覚悟して社長の食品偽装を告発した人でした。彼の戦いは行政との戦いでもありましたし、取引先まで敵に回して、すなわち組織論理で動く馬鹿でかい存在との戦いでした。最終的には彼は会社を辞めて自分の心に従って正義を貫きました。企業の告発者の多くは正しいことをしたにもかかわらず、犠牲になっています。本当に理不尽極まりないことだと思います。でも今回の女子柔道の告発者はひとりではありません。権威や権力をもつ指導的立場にある人や、組織という強固な相手に立ち向かうには数の論理しかありません。よく15人もの人が一つになって告発できたなと感心せざるえません。と同時にどれほど監督が人心を掌握できず暴力まで使ってみんなに不満をもたれていたかあきれる次第です。もう告発があった段階で、留任なんて選択肢を考える方が馬鹿です。15人という数が自分たちが守られる最大の力です。とにかく告発した女子柔道の15人は絶対に保護されるべきであり、大好きな柔道が続けられる環境をJOCも全柔連(全日本柔道連盟)も全力をあげて整えるべきであると考えます。

ちなみに私は中学校に入って問題が起きたその運動部から別の運動部への転部を余儀なくされ小学校時代から描いていた夢ははかなく散ったということを付け加えておきたいと思います。

2013年1月14日月曜日

体罰について②

前回、体罰に関して意見を述べてきましたが、時代の流れとともに、いままでは問題にもならなかったようなことがらがいまでは大きな問題とされることが多くなりました。いじめ問題も昔の親のアプローチはいじめられたら、やり返して来いでしたが、いまはそうはいきません。

戦後の経済の高度成長時代には、兄弟も多く、地域社会にも子どもたちがあふれていました。いまのように一人っ子が多く友だちもあまりいない時代とは違って、子どもたちだけで社会が形成されていたのです。そういう中でぶつかったり、逃げたり、喧嘩したり、仲直りしたり、親が仕事と家事におわれる中、子どもたちは自分たちで自分たちの問題は解決したのです。そういう中で圧倒的に人間関係のスキルを身につけて、いじめはあってもそれをうまく回避したりする術を得ていたのです。またいじめるほうも、相手に対してどこまでやっていいのかという加減をある程度知っていたとも言えます。手加減という感覚がわかった時代でもありました。しかし、現代ではそういう人間関係の力、すなわちコミュニケーション能力といえるものや、人間同士の間合いなども感覚的にわからないくなってきています。

いじめはいつの間にか傷害事件となり、体罰も暴力事件になっています。いじめの被害者と加害者の問題はその原因が家庭環境にあるということは言われています。ここではそのことには触れませんが、どちらも大きな傷や問題をかかえています。今後教育の分野で必要となるのは、タブーなき家庭での子育てのあり方を研究していかなければならないことです。いじめの加害者になるタイプはどのような家庭環境にあるのか、いじめられやすいのはどのような家庭環境であるのかということに関してです。私は小中学校とどちらの感覚も味わったことがあるので、なんとなくわかる部分があります。もちろん学術的にそういったデータをとって調べていくという必要があると思います。ただ問題はあくまで家庭というプライベートな空間や親たちのプライバシーにも踏み込まなければならないため、こういった研究は簡単ではないでしょう。この件に関してはまた機会があれば論じてみたいと思います。

学校でのいじめや教師による体罰を言う前に、家庭内でのDV(Domestic Violence)の問題があります。DVを行ってしまう親は自分の親から同様のDVを受けていたということがあります。自分はこのような親になってはいけないと思いつつ、実際子どもに対しては自分の親が自分にしたようにしていまうという事実です。人間はダメな親や上司を反面教師として学びますが、知らずのうちに自分がされたように子どもや部下にしてしまうということがあります。特に体育会系の指導というものは間違いなく、代々受け継いできた方法を実践するはずです。指導教官自身も昔受けていた指導方法にのっとって指導するということは当然です。もしそれが変わるとしたら、指導教官が変わるときです。

戦前の軍国主義の時代は全体主義であり、一つの方向性に全体が向かっているため、上官のやり方に異を唱えることはできません。なぜならば上官の指示命令は正しいという前提に立っているからです。ある面体育会系の部活動も一つの目標に向かって全員が取り組んでおり、全員が指導教師に信頼をおいているがゆえに、それに異を唱えることはできないようになっています。今回体罰で自殺された生徒もそのチーム全体の空気は十分読んでいたはずです。それで帰宅して両親にしかその気持ちを打ち明けることはできなかったのだろうと思います。

おそらく彼も指導教師の考えや管理手法に必死でついていこうとしていたはずですし、それに対して批判するという気持ちはもっていたかどうかわかりません。ただ体罰を受けたことに対する悔しさやふがいなさはきっとあったことと思います。実は私も中学校のとき似たような体験をして、彼の気持ちが理解できる気がします。体罰を受けたり、いじめを受ける人びとの傷は受けた人でなければ理解できません。たくさん殴られたり、精神的にあるいは肉体的に傷つけられると、人間はどうなるかというと悔しさから涙が出てきます。それは相手に対する怨みというより、自分という存在を守れなかった自分に対する悔しさです。怨みではなく、恨みです。監督に対する怨みでなく、自分自身に対するやるせない気持ちです。すなわち自分という人間の尊厳が大きく損なわれたことに対する深い悲しみです。難しい言葉で蹂躙という言葉があります。自分という世の中にたった一人しかいないかけがえのない存在が弄ばれたことに対する人間本来の悲しみです。

もちろん加害者となっている人の言い分もあるでしょう。またその人を擁護する人も言いたいことがあるでしょう。しかしここではっきり申し上げたいことは、いじめも、体罰も相手を傷つけることに変わりはないということです。行為としては同じです。相手の尊厳が傷つけられているとしたらそれはすでに犯罪に限りなく近いということを認識するべきです。体罰を行い続けている教師は体罰でしか子どもを管理できない教育、指導スキルの未熟さに気づくべきです。学校も企業も教育、指導などというきれいな言葉で隠して実際は人間の尊厳を弄ぶ慣行ができあがっていないか、まずチェックするべきです。特にその組織のトップにいる人はその部分をいかに注意深く見ていくかが重要になります。