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2013年6月12日水曜日

人間って死んだらどうなるの?②

生の問題同様、死に対する問題は人間にとってはとても大きなテーマです。ただ生とは何か、死とは何かという問題は万人が納得できる答えというものはありません。哲学や宗教の分野で扱われていてもそれらの主義主張、思想、教理というものはひとつの考え方として、あるいは信仰的な観点で依存の対象としてあるだけで、決して一般化できるものではないと考えられます。なぜなら、誰もが納得する結論が出ないからです。

そう考えると、半ば生や死に関して論じることはとてもナンセンスな気持ちにもなってしまうのです。世の中では不確定なことがらには言及せず、今を生きる上で必要な営みを毎日、瞬間瞬間繰り返しているだけで、またそれに集中している以上はそういった人間の本質的な問題を意識しなくていいので、ストレスなく悩むことなく生きていけるのです。でも身内や友人の死に直面したときにはどうしても死という問題に向き合わなければなりません。

実際問題として、人生を生きるということは、人間の本質に対して知りたいという欲求を半ば覆い隠して生きるようなもので、どうしても人生という刹那的な時間をただ楽しく有意義(意義あると決めて)に暮らすということにつきるのかもしれません。若ければ死はまだまだ先の話と考えて生きてもなんら不安も恐怖心も実感としてないかもしれません。でも今実際、高齢で死というものが現実問題としてふりかかってくるとか、若くても悩んで自殺願望があったりする人にとっては先送りできない問題です。

ここで死に対して、不安や恐怖心を抱いている人にちょっとラクになれる話をします。ギリシヤの哲人ソクラテスは死は睡眠のようなものであるとしたら、死とはとても甘美なものであると言っています。みなさんは基本的に健康であるなら毎日睡眠をとっておられることと思います。以前よく健康関連の講演をしたとき、睡眠、寝ることがきらいな人はいますかと質問したところ、ひとりもきらいな人はいませんでした。朝起きるのが苦手で、もうちょっと寝かせてえなんてことがあるくらいです。

それで寝るということがきらいな人はひとりもいないわけですから、もういつでも死を迎える準備はできてますよなんて笑いを誘うネタにしたりしていたわけです。実はそう考えると人間は人生のなかで生死を繰り返しているとも考えられます。朝起きるときは生まれるということですし、夜疲れて寝るときは肉体的活動を休めるということで死を迎えるようなものです。もちろん心臓や副交感神経は動いているわけですが、(これが止まるとホントの死です)意識としては無の境地、すなわち自分という存在がなくなる状態になるわけです。

でも夢を見たりします。では夢というのはなんなんだと言われれば、それは潜在意識がフローしてきたもの、あるいは死後の世界につながっていて霊的な世界に心はつながっているからという人もいます。とりあえずここでは夢の話は置いておきます。ただここで言えることは人間には精神世界といえるもの、すなわち物質という観点では説明がつかないようなイシューがあるのだということです。脳科学の分野とかでさまざま研究はされていますが、やはり脳の機能という観点だけでは説明はできないのだと思います。

人生は生老病死という苦しみがあると仏教では解きます。キリスト教では堕落によって罪人になったがゆえに無知になって真理がわからない、それゆえに人は生死に対しても無知なのだそうです。
それゆえさまざまな宗教が死生観に対しては明確に決めてあり、信者はそれを信じることでそれらの不安をすべてとりのぞくことができているのです。それは死に対する恐怖からの解放であり、人生における苦痛の除去にほかなりません。私もいくつかの宗教の話を聞いて共感し、死生観といいうものがある程度固定されていたことでたいへん精神的にはラクに生きてくることができました。

宗教が麻薬(アヘン)であるという話はあながち間違ってはいないと考えられます。なぜなら死生観を明確にすることで人生の痛みを除去することができるのです。そしてその死生観が正しいかどうかなんていうことは極端な話、どうでもいいのです。なぜなら死んでからわかることなので死んだあと、間違っていたぞなんてクレームを言ってくる人はひとりもいないからです。したがって宗教のどの教理が正しいとか間違っているとか、輪廻があるとかないとか、霊界があるとかないとかすべては論じること自体があまり意味を持たないと思います。なぜならだれも立証できないからです。要は一人ひとりが自分でもっともそうだと思うものを信じて人生においてそれがとても有効な役割をしてくれるのならばそれでいいと思うのです。

ここで断っておきますが、私は決して宗教への入信をおすすめしているわけではありません。もうすでに宗教をお持ちの方はそれで納得されていれば、それはそれでいいのではないでしょうかという話です。ただ宗教もいろいろあるので、テロや反社会的活動がある宗教、すなわちカルトのような宗教は、結果的に自分の含め周囲の人びとを巻き込んでとんでもない人生を棒に振るようになってしまうので注意してほしいところです。社会的に安全な宗教はある面、国の法律や枠組みを大きく逸脱するような思想や活動はありません。また個人の生活が脅かされたり、人がものすごく変わるような洗脳も行われません。カルトの恐ろしいところは死という不確定なものをあまりに明確に描き上げ、それをネタに法外な金銭の要求をしたり、反社会的な活動へと駆り立てていくという危険性をはらんでいます。そして具体的に実現不可能と思われるようなことを具体的にやっていこうという実現主義とでも言ったらいいのか、そういうところに希望を感じて多くの信者を扇動していくのです。そして自分たちがすべて正しくて、世界の中心だくらいにすり込まれて社会一般の通常の価値観とはかけ離れた思考に陥りますので気を付けることが大切です。

とりあえず、日本は信教の自由が憲法でうたってあり、あらゆる宗教が存在し、心の拠り所として信仰をすることは精神安定上、有益な部分がたくさんあります。ホテルに泊まるとよく聖書や仏教書が置いてあるのも心のケアにそういったものが有効だからでしょう。刑務所でそういった書を手にして更生されるというのもあります。宗教は世界的にはさまざまな国々で紛争の火種となっているのも事実ですが、人類の心の平安を与えてくれているということも事実であると思います。今は私は無宗教な立場ですが、死ぬときはとりあえず実家が檀家になっているお寺のお世話になるか、あるいは最近は公共の墓地は無宗教の人も多いようで、そうなるかはわかりません。私自身は葬式や法事、また宗教というのは生きている人びとに必要なものという認識であるので、それは成り行きに任せたいと思っています。

とりあえず宗教の話はこれくらいにして、ここである程度の結論とまでいかなくても、方向性を出したいのは死というもの、死後の世界というものは一体あるのかないのか、どうとらえればいいのかということです。宗教的な観点でのとらえ方は個人個人に任せて、ここでは科学的に立証できないまでもせめて論理的に納得できるくらいの基準での話にしたいなとは思っています。もちろんそれをどうとらえるかも個人個人の話ですし、最初に漫談風味の話と前提してあるので、あまりムキになってケンカ腰で議論を交わすつもりもありません。おぼろげにそうなのかなあくらいに受け止めてもらえて人生、またがんばる気持ちになれたと言っていただけたらいいかと考えています。次回に尾のレベルを目指したいと思います。



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