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2014年12月24日水曜日

ストレスフリーを目指す生き方

食品添加物、環境ホルモン、PM2.5、放射能、薬害…と現代人を取り巻く環境は明らかに不自然な人工的なものであふれています。

本来人間のからだが摂取してはいけないもの、自然界にないとされるものがどんどん蓄積されてさまざまなからだの悩みや疾病を引き起こしていることは紛れもない事実であると言えます。それに加えて人間関係や人間が作り出す制度的な制約により、精神的なストレスもどんどん増える傾向にあります。前者に対する対処はここではお話ししませんが、少なくとも後者の与える影響に関しては少しでも軽減して健康づくりに役立てていただきたいと思うわけです。

PSIブログにおいてはストレスを回避する方法として二点お話ししました。それは自分に対してと自分を取り巻く環境に対してのとらえ方です。

①あきらめる(他者はじぶんとは違うという前提)

②どう思われてもいい(自分軸を立てて周りに左右されない思考)

の二点ですが、これはなかなか実践するのは難しい面があります。人間は「人」という字を見てみればわかるように互いに支え合って(関係性を持ちながら)生きているのが実情だからです。

無理だよと最初からあきらめる方はこの二つの考え方の奥深さを知っていただくとなるほどと実感いただけるのではと思います。実はこの二つのことがらは再三にわたって私がお話ししてまいりました「空気を読む」ということができてこそこの二点が生きてくるのです。ただ空気を読み過ぎてこれはできないという方は自分中心に空気を読み過ぎるといういうことになっているはずです。

例えば守りに走ったり、保身に走る人は自分が可愛いあまりこれができなくなります。割り切りが足りない、客観的に自分を見れない。自分の置かれた立場が理解できていないという自分本位の意識が強すぎると結果としてこれはできなくなります。わかりやすく例をあげてご説明しますと、警察が犯人を追う映画で主人公のパートナーの一人はもう数か月で定年退職を控えています。この期間事件も起きず無難に仕事を終えて終わりたいのですが、そういうときに限って(本人にしたらそう感じる)とんでもない事件に巻き込まれるのです。結果的にもうそういう宿命だと思ってやりきると事件は解決という話なのです。

みなさんも少なからずそういった体験をされているのではないでしょうか?泣きっ面に蜂という状況もそうですし、すべてがうまくいって悠長に構えていたら、寸前に問題がいろいろ明らかになってたいへんだったとか…。とにかくそういう時こそ、いつもと変わらない意識でいればなんとかうまく乗り切れるものです。やはりこういったことは圧倒的に場数を踏んでいる人のほうが強いということは言えると思います。

私の場合は半ばそういったことがあまりに多く、それでこの二点に集約されると結論を出してつねにこの二点を肝に銘じながら対処していると言えます。

空気を読み過ぎて、緊張してどうしたらいいかわからなくなるとかパニくるといった状況になるのは空気を自分本位に読み過ぎているだけだと言えるわけです。例えば会社の会議で会議が反対意見も何も出ないが明らかに誰から見ても変な方向に行っている状況というのがあります。よく集団浅慮(グループシンク)という状態です。その時いわゆる空気を読み過ぎて(自分本位で守りに入る)という人はそのまま流れに流されてしまう人です。でも空気を察して全体の状況を俯瞰したり第三者の視点で見ることができれば、その空気感を壊すことこそ、ホントの意味で空気を読んで行動するということだと言えます。すなわち空気を読むのはどの視点で空気を読むかによって大きく行動が異なってくるということになります。

守りに入るあまり空気に飲み込まれる(長いものに巻かれる)人と全体の(自分を含めた)空気を全体の目的意識という観点から見て読むのかによって全然行動が変わってきます。より個人的な立場を重視した前者と全体やみんなの目的を意識した後者では最初は後者は理解されないかもしれませんが、結果的には信頼を得ることにつながります。

聖書でイエスキリストの「生きんとするものは死に、死なんとするものは生きる」という言葉にも通じるかもしれません。なるべく自分を客観視し、俯瞰し、自分の人生は自分が主人公であるという以上に自分が監督や脚本家、演出家の立場に立つとするならば、もっと楽しくゆとりをもって行動できるかもしれません。

俳優の高倉健さんは「不器用ですから」と言いながら自分を演出していたような気がします。ホントに不器用なのではなく不器用という謙虚な立場を表明することで独特の個性を周りが受容できるように演出したと感じるのは私だけでしょうか?もしそうだとするならば不器用どころか、計算された演出力というのをかんじてしまいます。

さまざまな健康上の悩みがある現代社会、その要因の一つがストレスであると言われています。少なくとも自分で何とかできる手っ取り早い方法としてストレスだけでも軽減できるならばどれほどいいでしょうか。このブログを読んでいただいてもしこれは使えるなと思っていただければ、ぜひ実践してみてください。私は極力ストレス要因は寄せ付けないようにしています。このまま放置しておくとストレス要因となるものは徹底して無くすよう行動しています。またそれは当然のようにあることなのでそのプロセスがゲームのように楽しみながら対処しています。

楽しむことができるようなものであるならば、それは生活に刺激を与え、細胞を活性化させるようなものでもあったりするわけです。とにかくあげればきりがないほど病気を引き起こすような原因にあふれている現代社会、ストレスくらいは自分で管理できる生活を心がけたいものですね。

2014年4月7日月曜日

マルチタスクな人生のすすめ

最近の若者を見ているとどうもひとつのことに集中はするが、いろいろなことを複合的に行うことはなかなか難しいように見受けられます。もちろん人にもよるが、その傾向は社会の随所にみられるのではないかと思います。

例えば食事ひとつ例に出すと、ごはんを主食としておかずを順繰りに食べるというのではなく、一種類のおかずを食べきって次のおかずに行くという流れです。極端な場合、ごはんだけ食べたり、味噌汁は最後に飲み干すといった具合にいろいろな味を複合的に味わうのではなくて、ひとつの味が終わって、次の味というような食べ方なのです。

こういった食べ方をさせないためには、カレーライスやなべ物などすでにごちゃ混ぜに入っている食事がいいかもしれません。韓国料理のビビンパ(ビビダ【混ぜる】+パプ【ごはん】)は食材の陰陽の要素をすべて混ぜることで調和させて食べるにはちょうどいいかもしれません。

私もこういったことを自分の子どもに見つけて、おやっと思ったのですが、他の人に聞いても結構そういった食べ方をしているというのを聞きました。子どもに言わせると味が混ざっておかしくなると言います。ごはんと食べる分には問題ないと思うのですが、そうでもないようです。

また私の学生時代は、受験勉強と恋愛は別物でした。もちろん、片方に偏りすぎるともう一方はおろそかになる、あるいはうまくバランスよくやっていたものです。さらには二人で勉強したりして(ほとんど口実ではあるのですが)仲良くやっていたものです。ところが最近の学生はひとつのことが完結しないと次の(他の)ことができないという傾向にあるように感じます。恋愛しない若者に訊くと、めんどくさいとか同性と遊んでいるほうが楽しいなんていう答えも返ってきます。確かに男女の関係というのは簡単ではないし、リスクもあることは間違いないわけです。でも人間は互いに異性を求めていくという本能的な部分は人間の三大欲にもあるように誰しも備わっているはずです。それをより合理的、効率的側面からだけ考えていくならば、恋愛や結婚というものは時間の無駄と考える人も出てくるかもしれません。

もうすでに若者という観点で取り上げた時点でジェネレーションギャップがあるのだとは思いますが、ちょっとここらへんで一休みして、おじさんといっしょに非効率的で非合理的な人生の側面というものも考えてみるのはどうでしょうか?実際、エネルギッシュで元気のいい人というのは仕事もプライベートも充実しているというイメージがありますし、みなさんの周りの人びとはどうでしょうか?食べる力、恋する(異性を食べる?)力、寝る(睡眠をむさぼる)力、これらはある面非効率なことがらかもしれませんが、人生においては必要不可欠なことがらであると思います。実はこの三点を私たちの先祖があきらめずやってきてくれたおかげで今の私たちがいるわけです。

健康でない人はこの三点がめんどくさいのです。あるいはすべてにおいてバランスを欠いた行動になっているはずです。少食であまり食べられない、あるいは間食みたいな食事しかできない。逆に過食で間食は別腹状態で肥満になってしまったとか。また健康でないと寝るのもぐっすり熟睡というのができません。当然そういった生活がきちんとできれば、恋愛に対しても意欲的になります。当然、現代社会は結婚も出産もそういった選択をしないということも一つの考え方であると思いますし、それは尊重されてしかるべきとは思います。ただこの欲望はある面人間関係のベースにあると言っても過言ではないと私は考えています。異性とのつきあいが得意な人は当然同性や年齢差を越えた人間関係も上手です。もちろん育った環境等によって対象として苦手意識のある人はいるでしょう。でもそういったことを克服する活力も持ち合わせていると思います。

ちょっと恋愛の話に偏りましたが、今回のテーマは“マルチタスクな人生のすすめ”です。マルチタスクというのはパソコンなどで複数のタスク(仕事、プロセス)を同時に立ち上げておいて切り替えながら実行していくことを言います。したがって人生もひとつのことだけを行うのではなく、いろんなことに人生を費やすことによってより充実して楽しい人生が送れますよという提案です。もちろん私はこれだけでいいという方に無理やりいろんなことをしましょうと促すつもりはありませんが・・・。

会社組織に不満があっていつもそういう意識で日々を過ごしている人は、まさにマルチタスクな人生にしていくことでそういった意識からの脱却を図ることができます。すなわち、会社での仕事は自分の人生の一部であって、あるいは一要素であって自分の人生の支柱は別にあるということが明確に分かれば精神的にとても楽になります。また会社人間、ひいては社畜となってしまうリスクから抜け出せることができるのです。私たちは社会の制度の中で生きているので、そこから抜け出すということは困難ですが、自分がコミットしたいことを複数持つということは可能です。ある人は仕事以外に家庭であったり、子どもであったりするわけです。ただ過剰にそこに依存するような状況になると家族をスポイルしてしまう可能性もあります。特に仕事で満足できない部分をそちらで穴埋めしようとするならば間違いなく問題がおきるはずです。仕事に対しての不満は仕事で解消することが大切です。仕事は家庭に持ち込まないなどという人がいますが、仕事や会社でのさまざまな出来事に不満がある人はその内容を仕事の分野で解消できなければ、家庭にその意識(思念)を持ちこんでしまいそれは家族に伝わってしまいます。

会社組織内で解消あるいは実現できる内容であれば、そこで頑張ればいいわけですし、そこでは実現は困難ということになれば、組織外でつくりあげていけばいいわけです。すなわち複数のタスクを楽しくこなせばいいのです。さらに会社での業務をこなしながらも自分の好きなタスク達成にその時間や思考を費やすということもできるのです。もちろん若くて元気のいい人なら仕事、恋愛、趣味などさまざまなタスクを楽しめばいいと思います。会社組織や上司、同僚、部下などへの不満がつねにあって、人生が楽しくないという人は、それだけに依存状態にあるひとです。タスクが多い人は嫌なことがあってもさほどダメージはないのです。なぜなら楽しいことがそれ以上に多かったりすれば嫌なことが意識に占める割合が少ないからです。

いつも忙しいと言っている人は実は忙しくない人です。嫌なことばかりやらされている(実際は自分で選んでやっているわけですが)人はやっていることが好きではないので時間も長く、自分の大切な時間を占有されているようで自分の時間がない、すなわち忙しいと感じるわけです。ホントに忙しい人はタスクがたくさんある人ですが、そういう人は楽しいことをたくさんしているので、忙しいという認識はなく、充実していると感じているはずです。

自分軸を確立していくためには、自分がどうなのかということを常にチェックすることをおススメしています。タスク自体が自分の意思、すなわちやりたくてやっていることなのか、やりたくなくて嫌々やらされているとおもっているのかで大きく違ってきます。結果もそうでしょうが、なによりやっている時間は自分の貴重な人生の時間であって、それらが後者の意識だとものすごくもったいないのです。少なくとも自分にとってメリットがあるタスクの遂行の仕方を考えるのがいいかと思います。たとえば、ある会議が全く無意味だと思うようなものであったとするならば、私は会議の参加者を調べて人脈づくりに活用します。会議の内容自体はどうでもいいわけです。そこに参加している彼(彼女)がどういった考えなのか、プレゼンのスキルは持ち合わせているのかとか・・・。まあこれは一例ですが、会社の業務という一側面だけで動いていてはとてももったいないのです。仕事(嫌な仕事であっても)を通じてなにか得ることができるものはないか探せば、仕事はすでに複数のタスクが実行されているということなのです。取引先に可愛い彼女がいて、うまくしとめたなんていう話を聞きますが、それも複数のタスクを同時にこなしていたということに他なりません。その人は彼女にあえるのが楽しくて仕事自体はモノにならなくても楽しく通っていたことでしょう。

会社人間、社畜からの脱却は物理的な要素以上に精神的なとらえ方が大きいのです。会社に生活の糧を依存しているという状況ではそれは無理と言われるかもしれませんが、逆に会社があることでもっと楽しいタスクも見つけられると意識転換すれば、見えてこなかったことがらも見えてきて楽しいタスクが増えていくのではないでしょうか?そうなれば人生さらに充実して楽しい時間をすごせるに違いありません。まず自分がやりたいこと、したいことを書き出してそのために自分の置かれた環境をどう利用するか、活用するか考えてみましょう。きっといままで嫌だと思っていたことがらまでも大きな利用価値のあるものに変わるかもしれませんよ。案外見ているのに見えてなかったものというのはたくさんあると思います。それこそセレンディピティ(掘り出し物)と言える価値を見出すことができれば人生、大逆転も夢ではありません。そのためにはいろんなことに関心をもって、中途半端でもいいのです。とにかくいろんなことをやって見なければ探すこともできません。理性などという小奇麗な言葉に惑わされず、本性のおもむくままに行動してみることも人生においてはとても意義深いものであると思います。

2013年11月11日月曜日

上手な年齢の重ね方①

最近は高齢社会ということで、世間話もメディアで取り上げられる話題も老後や介護の話が多くなってきました。それは若い世代にも大いに言えることです。なぜなら介護という問題は決して本人だけの話ではないからです。20代前半で結婚していた時代から、30代、40代で結婚ということになれば、当然その子どもたちは30代くらいからすでに親の介護という問題に直面する可能性も大きいのです。年をとるということは避けて通れないことですし、老いということに対する考え方、パラダイムを大きく変えていかなければならない時期に来ているのかもしれないと思います。

年齢を重ねて、体力的にも、さまざまな肉体的な限界などを感じるようになると、老いということを実感するようになりますし、若いころがよかったということをやたら口にするようになります。また若い頃に比べてとても歳月の流れが速いように感じます。10代20代はそれなりに長く感じていたのに、30過ぎてから40代はあっという間という感じになります。そして50代は40代が、60代は50代がというふうにもう10年若かったらと考えるようになってしまいます。

なぜ年齢を重ねるほど、時の流れが速く感じるのでしょうか?時間の流れは誰にとっても同じはずです。でもなぜか自分の人生においても違って感じるのは私だけでしょうか?年齢をとるほど時間の流れが速く感じるのは若い時に比べてからだの代謝機能が低下しているためだという話を聞いたことがあります。若いころはちょっと怪我をしてもすぐ治ってましたが、年齢をとるとなかなか治るのに時間がかかるものです。なぜ代謝機能が低下すると時間の流れを速く感じるのでしょうか?わかりやすく説明しますと細胞の生まれ変わりが若いころに比べて遅いから、相対的に時間は速く感じられるということなのです。つまり、細胞の生まれ変わりが若いころは1日に100回生まれ変わっていたのに、今は1日10回しか生まれ変わってないとするならば、相対的に若いころより時間が10倍速く感じてしまうという話です。ご理解いただけたでしょうか。

したがってアンチエイジング(という認識をし始めた時点で老いが始まっているかもしれませんが)にもっとも最適な方法は、代謝機能を高めるということが重要だとおわかりいただけたでしょうか?代謝機能が高いということは、細胞の生まれ変わりが活発であったり、全身の細胞が生き生きと活動している状態であると言えます。もちろん血圧も標準で脈も正常、からだも冷えてなくて温かいし、お通じもちゃんとあるという健康な状態です。ただ人間の老いというのは自然なものです。無理して50代なのに20代の肉体を取り戻したいとか欲を出すのは少々無理があります。瞬間風速的にそれに該当するようなパワーが出たとしても、若い時のようにその状態がある程度維持し続けられるものではありません。

アンチエイジングというより、老いの勾配をなだらかにするという健康法を取り入れたほうがずっとからだにも心にも負担なく続けられるのではないでしょうか。一念発起して、急に無理な運動を始めるとか、ダイエットしなきゃと食事制限をいきなりするというのはリスクがあると思います。まずは自分の性格や弱みをよく理解した上で、長続きすることを少しずつ始めるのがいいかと思います。ここではその健康法をお伝えすることが目的ではないので皆さんがよく考えて行っていただくようにお願いします。

老いというのは、今までできていたことができなくなったり、体力的にもずいぶんと落ちてきますから、とてもさびしい気持ちになったりします。でもそれは決して悪いことではありません。からだはもちろん心でさえ、使いすぎると休養が必要ですし、ある程度消耗すると、補充も利かなくなってきます。老いは次世代をより大きくするために必ず必要なのです。高齢でありながら若い人以上にパワフルだったら、若い人びとの芽を摘んでしまうことにもなりかねません。なぜならば時代の流れとともに価値観も大きく変わっていくからです。その大きな変化にはより若い世代のほうが柔軟に適応できるのだということは歴史が証明している通りです。年齢を重ねるということは次世代へバトンを渡して温かく見守る時期に入っていくということでもあるのです。

アンチエイジングというのが誰もが目標としなければならないものであるかのように、健康産業界はこぞって宣伝しますが、実際は老いに抵抗することよりも上手に老いて行くということがとても重要だと思います。20代くらいまではあまり若くいたいという意識はないと思いますが、30代をすぎて40、50代に移行すると若かったころを懐かしく感じてしまうのです。

「もう10年若かったらなあ~。」
「今あの年齢だったらもっとこうだったの・・・。」

とついつい思ってしまうことが多くなるのです。でもよく考えてください。今から10年経ったらおそらく今の時期を懐かしがっているに違いありません。ですから取り戻すことのできない若いころを思うのではなく、将来のことを考えて、今がいちばん輝いているときだと思えばいいのです。30代なら40代を、40代なら50代、50代なら60代を・・・というふうにです。そう考えると今自分の置かれている立場がものすごく可能性がありもっともっとできる年齢なのだということに気づくはずです。では80代、90代の人はもう10年後を考えられないかもしれません。いえ考えられます。人生たくさんがんばってゆっくりおやすみしている自分を考えてください。ですから、いま最高に輝いているのだからもうちょっと頑張ろうと思えばいいのです。そうすればゆっくりやすませてもらえるのです。

死は決して忌み嫌われるようなものではありません。ギリシアの哲人ソクラテスが死は睡眠のようなものでとても甘美なものであると以前にもお話ししました。私はよく講演会で、聴衆の方がたに質問をしました。寝るのが好きな人って聞くと、いつもほとんどの方がそうですとお答えになります。不眠症の方は寝れなくて苦しいのです。誰しも寝ることを嫌いな人はいないはずです。むしろ起きるのは一苦労という方はたくさんおられます。目覚ましをかけても、もう少し寝かせてと寝坊した経験があるのは私だけではないはずです。

したがって、死とちゃんと向き合うということは、今をちゃんと生きるということにつながってきます。ちゃんとからだと心が生き生きと過ごせてこそ、人生を有意義で最高のものにすることになり、最高の死も迎えることができるということだと思います。

若い人には若い人の魅力がありますし、年長者には年長者なりの魅力があふれています。要はそれを比較するのではなく、今の自分を最高に輝かせるということ、すなわちまず今の自分を受け入れて、今の自分のポテンシャル(潜在能力)を最大限引き出し、楽しく生きるということがたいせつであると思うのです。

2013年10月4日金曜日

うまくいくコミュニケーションの方法①

家庭においても、会社においても、あるいはそれ以外の人間関係すべてにおいて、コミュニケーションは、すべてがうまくいくためのベースとなるようなものです。それは対面であれ、電話であれ、メール、SNSにいたるまでコミュニケーションがとてもたいせつになってきます。

また相手によっても対応を変えなければならないケースもあります。特に外国人には日本の空気(行間)を読むような理解はできません。それは日本に長年住んでいる外国人でもわかりにくいと言われる人もいます。それくらい難しい感覚的なもので、日本人は日本で育って、日本人のDNAとしてすでに染みついているから理解できるのかもしれません。

ただ最近の若い世代は徐々にそういった感覚は減っているように思えます。それは良いとか悪いといったものではなくて、日本の家庭や社会の環境が大きく変わってきたということが言えるのではないかと思います。欧米の個人主義の影響や、戦後、日本がどんどん豊かになり、大家族から核家族、そして夫婦だけ、その次にはお一人様での生活も増えてきています。現在は祖父母と同居ということも減って二世帯住宅は常識です。また高齢化により高齢者は施設に入ることに抵抗感がない時代になってきました。介護というカタチで家族に負担をかけたくないという認識は高齢者に共通する意識になりつつあり、また子どもたちもそれが最善であるという意識もかなりあります。介護を社会の手にゆだねるということは決して家族の愛情問題とは関係がないのです。むしろ互いに負担をかけないようにすることが愛情であるというひとつのパラダイムシフトがなされているのだと思います。

夫婦関係もそうです。ある程度年齢を重ね、子どもたちもすべて独立すると、夫婦だけの時間が増えてきます。そして夫(あるいは妻)が定年退職をして家庭にいつもいるようになるとストレスであったりします。そうなると妻(あるいは夫)が外に出かけるようになってバランスをとるようになるのです。もちろん夫婦は最初の3~4年くらいはいいのですが、そのあとは夫婦だけの愛情というより子どもを見ながら父母としての役割で家庭を維持しているとも言えます。夫婦は他人です。最初は惹かれあっても、実際生活を共にするようになると、相手の悪いところもどんどん目に入ってきて、半ば好きという気持ちを妥協とかあきらめの気持ちが上回ってきたり、夫婦ってこういうもんだと冷めた精神状態になっていくことさえあります。でもそこに子どもの存在があると緩衝剤のような役割を果たしてくれるのです。

問題は夫婦仲が悪くなりすぎて、子どもに依存してしまうと、完全に子どもの自立を阻害し成長を遅らせたり、歪んだ情緒を育んでしまうことにもなりかねません。妻が家事、夫が仕事(あるいはその逆)に集中すればある面役割を分け、それぞれが集中できることを持つことで夫婦関係を維持することに大きな効果があります。また一般的には新婚時代はダブルベッド、子どもができてはそれぞれのベッド、そして子どもが独立したら部屋も別々なんてのもよくある話です。それでバランスをとって家庭というカタチが維持されていたりします。

歳をとっても仲のいい夫婦というのは新婚当初の夫婦の愛情関係とは違うモチベーションで形成されていると考えられます。詳しく聞けば、だいたいの人びとが口々に言われることは
「いろいろあったのよ~。」
という話です。いろんな心境を通過して熟成しきった関係であると言えるかもしれません。

フラット化している社会の中で夫婦が夫婦としての関係を維持し続けるためには、どこかで妥協したり折り合いをつけながら暮らしていくことであるのかもしれません。現代社会は離婚ということが驚くようなことではなくなったのにはやはり男女同権やジェンダーフリーといった風潮、そしてそのベースはやはり世界がフラット化していることにあると思います。男尊女卑の時代はやはり女性が我慢していたのです。あるいは社会の風土自体からも、女性というものは男性に屈して追従するものというすり込みが女性になされていたこともあると思います。

昔、夫婦が夫婦関係を解消せず維持し続けるには、どうしても片方が我慢したり妥協したりということで成立していたということがいえるかもしれません。現在夫婦関係を維持し続けている人びとは間違いなく、我慢や妥協を互いにしているか、あるいはそれをしないでもいいくらいの距離を互いの間に置いているかのどちらかであると言えます。とにかく、他人であった人同士が夫婦になるということは自分以外の価値観を受け入れるということで、それは妥協以外の何ものでもありません。そして妥協を減らすには価値観がなるべく近い人を選ぶということも方法です。

分かりやすく言うと最後まで妥協できなかった人が離婚を選択するのです。それはそれで一つの選択肢ですから、決して悪いことではないと思います。あるヨーロッパの国のように、最初から結婚という形態にこだわらないという方法もあります。そうすることで良好なパートナー関係が維持できたり、婚外子という概念をなくし同じ権利を与えることで、少子化問題も克服できる方向になっているということも聞きます。今は男女というカテゴリーでだけ人を分けられないのと同じように今後結婚という観点もさまざまな形態が発生していくと考えられます。

最終的には人間はひとりの存在で、種の保存や生活していく上で便宜上、夫婦、家族という形態をなしているのだと思えば、さまざまな選択肢がそこには考えることができそうです。いずれにせよ、人間関係は(その差こそあれ)価値観の違う人同士が交流をもつということなので、そこにはどうしても精神的な触れ合いにおいてさまざまな影響をうけるわけです。すなわち人間関係とはストレスが生じやすく、それを極力いいカタチに転化する方法がコミュニケーションスキルということになると思います。

2013年9月20日金曜日

日中韓はなかよくなれるのか?③

国境を越えてなかよくなる方法、考え方はいろいろあります。とりあえず思いつくことがらをあげると以下のようになります。

①罪(行為)を憎んで、人を憎まず。
②国家レベルでの対応はあっても、前世代の失敗やその報い(ツケ)は次世代に回さない。
③男・女(最近はカテゴリが増えていますが)、という立場、人間という次元まで抽象度をあげてつきあう。

とにかく日中韓の間で人びとは人間として心の通った普通の関係を築きたいわけです。もちろんそのためにはそれぞれが努力して感情論や社会的に受けてきた教育(他の国から見ると洗脳に他ならない)を越えて一人間として見つめる必要があると思います。もちろん全員がそのレベルになることは不可能です。少なくともPSIではそういう関係構築を標榜しています。そしてよりフラットな関係も目指しています。被害者、加害者という関係、権力者、従属者、あるいは強者、弱者の関係などすべてそういう要素を内包した組織はいずれヒエラルキーを形成し、そのうち間違えるとカルト教団のような組織になってしまう可能性があります。もっとも強い権力を持った人が教祖になってしまうのです。

ヒエラルキーがとても強固な国というと北朝鮮を思い浮かべる人もいるかもしれません。やはり強固な思想統一がなされている国家組織は、カルト教団とても似通っているのです。どの国も民主化政策を進めるのはそうならないようにするためで、それが国民の幸せに直結するからです。王は君臨すれど統治せず、王という個人、人間はつねに間違える可能性を内包しているのです。王はいても実際の政治は民間から選ばれた人が行うというのは理想です。では王は必要ないのかというと国民をまとめるシンボルというカタチであればなんら問題はないと考えます。そして統治者はつねに変わる、変えられることができるということが素晴らしいのです。その統治者も同族でないほうがいいと考えられます。

話が大きく外れましたが、人間は誰しも権力欲や野望をもっています。それは悪いことではないのです。要はそれを自己中心的に使ったりせず、ちゃんとコントロールできるということが、大人になることであると思います。暴力もパワーです。批判するのに暴力や破壊行為を行うということはこれは暴君や独裁者の手法となんら変わりません。ガンジーやキング牧師が歴史的に称賛され続けるのはそういった手法で訴えなかったということがあります。どんな違法な行動をしても反日無罪という観点には、はっきりとNOと言える民度をもてるように誰かがはじめて欲しいものです。

もちろんあまりにそれを容認、あるいは賛成意見が多い社会でNOということは、自殺行為であるかもしれません。国を正すにはその国にいてできないこともたくさんあります。反体制運動家はいつも自由主義の国に亡命して、訴え続けてきました。声を上げることができる国に来て声を上げる、訴えることでその国や国民が少しずつでも気づくことができれば大きな成果です。いずれにせよ改革や変革はたいへんな作業です。ただ革命はとてもリスクがあります。犠牲者もたくさん出ます。

会社、企業でも組織のトップも中枢に近い人びとほど制度に埋め込まれていて身動きがとれません。そういった環境下で気づいてもなかなか行動は起こせないのです。したがって周辺企業、部署から改革の波は徐々に中央に行くとか、第三者委員会など外部人材をつかってやるかしかなかなか方法がありません。ただ周辺過ぎたり、外部では見えてこない部分もあったりして改革のモチベーションが低いというマイナス面もあります。北朝鮮という国も地方にいる人民より、平壌にいる市民や政府高官が亡命したりするのを見ると、やはり中枢ほど問題も見えるということは事実だと思います。

日本と韓国でどちらがより社会的文化の強制度が高いかというとこれは間違いなく韓国です。ひとつの例をあげてみたいのですが、それは国際結婚から垣間見えます。わかりやすく言うと

韓国に嫁に行った日本女性はキムチを漬ける。
日本に嫁に来た韓国女性はキムチを漬ける。

ということです。日本女性ももともと男尊女卑の時代があったのでそのDNAを受け継いでいるからか、韓国社会の旧い風土には適応できるのです。日本では最近見受けられない嫁姑関係が存在していて、その風土に組み込まれています。それをさらに強固にしているのがマザコンに近い韓国の母息子の関係です。韓国に嫁入りした日本女性たちの話を聞くと、かなり精神的には抑圧された生活になっていることを感じます。彼女たちはイベントとしてお好み焼きは作っても、普段の生活ではチヂミをつくるのです。また中には独島(竹島の韓国名)はウリタン(我が【韓国の】領土)と言ってる(言わされている?)日本女性もいます。日本のネット上では目茶苦茶叩かれていますが、韓国ではそうしないと生きていけないのです。

それに比べ、日本に嫁入りした韓国女性は解放されます。キムチもつくれば、竹島は日本の領土なんて言う人はほとんどいません。また日本の男性は台所仕事をする人も多く、主夫も増えています。そして最近は韓国も多いのですが、日本はずいぶん前から核家族化も進み、長男でも親と暮らさない人が多いのです。それでたまに会う嫁姑関係はとてもフラットでカジュアルです。精神的に抑圧される要因は韓国よりは少ないと思います。それに、日本人は悪口は韓国人のいないところで言ってくれるので・・・・。ちなみに直接言ってくれる日本人がいたら、ある面愛情があるのかもしれませんね。

日本には全世界の料理がありますし、今は学校やさまざま自治体で外国の文化を取り入れることを推進しています。その中にはもちろん韓国の民俗文化なども含まれています。日本では日韓のイベントがたくさんあります。韓国では日本の民俗文化紹介やイベントなどはどうなのでしょう。ちなみに中国は政治や歴史問題と民間の交流はかなり分けて行われているように思います。中国は民主主義でない時代を長く続けてきたことと、国が大きすぎることもあり、ある面国家が交渉カードとして使っていることがらに民間があまり振り回されないという面もあります。

日本では九州などはすでに道路標識や街の案内標識などに英語、中国語、韓国語が使われています。韓国では日本人観光客がもっとも多いようですが、標識などはどうなのでしょう。やはり政府が反日ということをカードにつかっているので、それを行政で行うというのはなかなかできないのでしょうか。それでも南大門市場などに行くと販売者はほとんど日本語が話せます。民間レベルでは本音の部分でほとんどの人が日本語の必要性を感じているのでしょう。

韓国には日本の和食、寿司やカレーのチェーン店などが増えています。衣食住から徐々に文化、そして日本そのものを受け入れる状況が公式的に表れるようになることを期待したいものです。すでに日本在住の韓国の人びとはまた違った観点で祖国を見ているのでまた違った考察もできることかと思いますが、韓流好きな日本女性が日本にはたくさんいるように、韓国でも親日であると言っても別に批判されない国になることを願ってやみません。

2013年9月19日木曜日

日中韓はなかよくなれるのか?②

今月22日日曜日にすべてのレイシズムやヘイトスピーチに反対する集会がもたれるようです。

http://antiracism.jp/march_for_freedom

最近は日本でも海外でしかお目にかかれないような過激なデモが見られるようになってきました。そのあまりに過激な汚い罵りは、とても日本人とは思えない、もしかしたら日本人ではない人たちが日本人の皮をまとってやっているのではないかと疑いたくなるようなものです。そういったことがコリアタウンと言われる地域で行われています。

同じ日本人として恥ずかしい限りですが、その方法は反日運動で見受けられるような手法と似通ってきています。海外でどんなに反日的な活動があったとしても日本人はつねに冷静に対処する(もちろん反日運動家?からはそういった日本の態度自体も気に食わないのでしょうが)というのがある面、先進国、大人の国という自負心でもあったわけです。ところが最近のもうレイシズムと言わざるをえない状況のデモを見たりするとあっけにとられるしかないのです。

韓国では親日発言の高齢者を殴り殺すという事件が起き、さらにそれを擁護するようなネット上の論調も数多くあったりして、とにかく感情的に冷静さに欠ける行動というのが目につきます。今日のYahooニュースでは下記のような記事が載っています。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130919-00000053-chosun-kr

とにかく最近のアジア三国の状況を見ると領土問題、歴史問題で感情的な行動が激しくなっています。このことは社会情勢自体がより個人に対してストレスの多い病的人格を生み出す要因をつくっているということがあげられると思います。日中韓に共通して言えることは少子高齢化が急速に進んでいて、人間関係の力が著しく低下しているということがあげられると考えます。縦型の上下関係は崩れていき、すでに年長者がえらく、年長者を大切にするという考え方はもうなくなってます。日本ではずいぶん前にそういった上下関係はかなり崩壊し、家族から会社組織までよりフラット化した関係になっています。

韓国も昔の映画と最近の映画やドラマでは大きく変わってきています。昔の映画やドラマでは大人や親の言うことが絶対で子どもや若者は間違っていても従うという社会でした。今は違います。最近のドラマの共通点は親たちの問題が子どもの代に露見して子どもたちの人生が翻弄されるというシチュエーションです。あの有名な冬のソナタも純愛と言いながら、親の世代は純愛じゃなかったよねというお話です。

今は年長者だからといって年下に命令したり強要するような態度の人は、逆に反感を買ってたいへんな目にあいます。何を言いたいかというと権力構造の上下のヒエラルキーがキツイ社会は抑圧された社会なので、徐々にそれらが爆発してしまう状況になっているということを感じます。権力や固定された思想で抑圧している社会は目に見えないフラストレーションがあふれているということなのです。韓国で高齢者を殴り殺した人はもちろん許されるべきではありません。ただそういう親日的言動に対してあまりに過激な行動に出てしまった原因は抑圧された社会やあまりに過激な反日に対するすり込みがなされている教育にもあります。

日本では反韓教育も、反中教育もしません。すなわち歴史教育に感情を持ち込まないのです。また教師が感情的にそういった意識で教育することもありません。いかに感情を入れず、歴史の史実を伝えるかが重要であり、間違っていれば上書きされていくというだけです。感情と言えばむしろ日教組の影響で日本政府に対しての反発を持つような教育のほうが知らぬ間になされていたかもしれません。他国に対して憎悪を抱かせるような教育は絶対しません。

韓国は戦後ずいぶんと民主化がなされてきました。でもまだ民主主義と言い切れないのは、社会の風潮として反対意見や異論が述べれないということがあります。日本では日本人が韓国や中国の立場を擁護する見解を述べても殺されることはありません。政治家が中国でリップサービスをしても、多少のバッシングを受けるくらいで日本にちゃんと帰国して暮らせるのです。歌手のチョ・ヨンナムさんや大学教授オ・ソナさんのこともやはり韓国はきびしいと思わざるをえません。

韓国は半島でつねに他国からの侵略に対峙しなければいけない都合上、また北朝鮮と対峙している関係上思想的な統一が不可欠であったという国家の哀しい事情があります。過去の韓国の歴史をみてもアカ狩りでかなりの人びとが犠牲になっています。でも今、反日感情を子どもたちにどんどん教育しすり込んで何かメリットがあるのでしょうか?反日運動やその意識の高揚がメリットがあるのは二点です。それは

・政権に対する不満や支持率低下に対する国民のガス抜き
・歴史問題の謝罪を通じた賠償金

です。でもよく考えるとあまりおいしいものではありません。たしかにアメリカも戦争をすると支持率が上がります。でも今回のイランへの武力行使にはアメリカ国民は懐疑的です。イギリスは参加しないことを議会で決定しました。アメリカ国民もイラク進攻の際、大量秘密兵器は無かったとか、過去のことから学習しているのです。もう政府に振り回されないよという民主主義国家としての行動をしているわけです。韓国も政府はつねに反日を利用しガス抜きをしているのですが、そういったことは良識ある韓国国民はわかっています。でも幼少時からすり込まれた反日精神はなかなか脱却できない人も多いのです。

経済援助も歴史問題にかけてやるよりは素直に日本への支援を要望したほうが日本国民は歓迎します。まあ韓国ではそういうカタチで支援を受けるということは韓国世論の反対を考えて仕方なくそういう手法しか使えないのかもしれません。北風政策では人の心は開きません。もうほとんどの日本人の心の中には、何回でも謝るけど、結局お金欲しんでしょという認識になってしまっています。もう謝罪要求は金銭要求であるとほとんどの日本人は認識しています。

反日運動は必ずしも韓国や中国の全国民の意識の反映とは考えられません。実際韓国では高齢者の方がたがとても親日の場合が多いのです。私はあの時代はご苦労されたでしょうというと、全く違う答えが返ってくるので恐縮してしまうのです。むしろ植民地時代を体験していない若い人びとの中にとてつもない反日意識を持っている場合を数多く見てきました。これは私としてはとても不思議なことでした。たしかに五情の中で唯一‘怨み’の情だけが時間薬が効かず、時間の経過とともに大きくなるのです。まさに世代が変わると多少消えるのかと思ったら、逆に世代交代とともに怨みや被害者意識は大きくなっているのです。

日本はアメリカに対して過剰な被害者意識は持ちません。というよりそういう教育自体受けていないのです。過剰な被害者意識も加害者意識も、ともに個人の人格に良い影響は与えませんし、ひいては国の発展にもマイナスです。韓国のドラマを見ていていつも思うのは親の問題が子どもに影響を及ぼすのです。でも私は結構ドライなので、親は親、子は子と考えればいいじゃないかと思ったりします。親は先に行く世代、子はこれから歩む世代。親は過去の因習にとらわれ身動きがとれないのです。親に今更価値観を変えろというのは酷です。親は子の幸せを願っています。親離れをすることが結果的に親孝行です。それで子は幸せになれるのですから。親は理解できなくていいのです。

日本の場合は欧米の個人主義や核家族化の影響で、親はもう子どもに親の考えを押し付けなくなりました。韓国はまだまだ家族主義というアジア特有の良きにつけ悪しきにつけそういった考え方が根強いのでそのパラダイムの呪縛ゆえにたいへん苦労するかもしれません。いずれにせよ抑圧が強い国から抑圧が少ない国に来れば、いろんな価値観と接し、もう一度自分や自身の人生を見つめなおす機会が得られます。日本に長年暮らして韓国に帰った知人が、日韓の領土問題になったとき、「日本には日本の言い分がある」とだけ言ったとき、たいへんなことになったそうです。

グローバル化とは多様な価値観を受け入れる、せめて受け止めることから始まります。ダイバーシティという考え方もそうです。韓国ももうそろそろ二回目の民主主義(一回目は軍事政権からの脱却)に飛躍するときを迎えているのではないかと思います。感情に任せた行動による社会で起こっているさまざまな事件はその過渡期に来ている気がします。韓国国民がそれを深刻にとらえ、もっともっと客観的視点に立ってものごとを分析、吟味してほしいものです。韓国はもともと優秀な力のある民族です。それが国自体がもつ制度的埋め込み(制度は文化も含めます)から個の意見が抑圧されて来ました。これを解くのはなかなか困難なことです。

現代グループ創始者の鄭周永(チョン・ジュヨン)氏が生前、「韓国に共産党があってもいい」という発言をし波紋を拡げたことがありました。ここまで成熟した韓国はもういろんな価値観が入っても国が揺るぐことはありません。もう一歩本来的な民主主義が浸透すれば日本の嫌韓感情も溶けて行きます。レイシズム運動も消えていくでしょう。おとなしい日本もあまり追いつめるとそういうことが増えていきます。それでもそういったことは辞めようと日本は日本なりに努力しています。韓国もそういった声が少しずつでも増えていくことを期待したいものです。

2013年9月18日水曜日

日中韓はなかよくなれるのか?①

日中韓、このアジアでもっとも重要で困難で、ひとくくりにできないこの三国の問題に関してはずっと避けてきた議題です。このブログはコラム式に書いていて、読むのもたいへんだけど、コメント書くのも書きづらいので、いまだにどなたのコメントもいただいておりません。管理人が削除したコメントもありません。

かなり主観的な観点が含まれているように思われるでしょうし、実際八方美人的な論調でないことは間違いありません。それでも読者の方がたが、とりあえず読んでいただいてもコメントまではされないのは、そこまで感情的にヒートアップするような議題をあまりとりあげていないということもあるかもしれません。

今回日中韓というテーマはある面たいへんリスキーなものであるとは思います。でもやはりこの件は避けて通れないものであると思います。PSI的見解をいつか出さないといけないとは思いつつもリスキーなテーマであることから、なかなか踏み切れない部分はありました。なぜならこのブログは中国の人も韓国の人も読んでいただいているからです。私自身中国・韓国の友人がいますし、決して嫌韓でも、嫌中でもないということは断っておきたいと思います。逆に下手な主張をするとネトウヨと呼ばれる人びとの反感を買う可能性もありますが、基本的に私は日本人ですから日本人のごく一般的な価値観をもっていることは否定できません。したがって彼らの気持ちも十分理解できますし、同調したい気にもなります。とりあえずそういったリスクはさておいて、今後少しづつ小出しに見解を述べていきたいと思います。

まず最初に日中韓はなかよくなれるのか?

というテーマに対しての結論をいきなり申しますとそれは可能だということです。というよりすでにそういう関係を築いている人は多いのです。その方法という考え方は極めてシンプルです。それは

男と女(最近は中間の方もおられますが)、人間というレベルまで抽象度をあげてつきあえば可能である。

ということなのです。芸術や文化は国境を越えますが、男女関係も国境を越えやすいのです。そして人間としての関係性はまったく問題がありません。ただその際、どう考えても平行線にしかならない課題はとりあえず棚上げしておくということです。これは個人レベルのつきあいでは可能です。棚上げというと、とても無責任なようですが、実は棚上げせざるえないことがらというのは私たちの人間としての生物学的な価値とはまったく関係がありません。すなわちたまたま生まれた国の立場や主張を押し付けられて、さらに言うとすり込まれているにすぎないのです。

国家的、社会的レベルにおける都合をお仕着せられているのが人間であるということです。そういったことも含めてアイデンティティというものが形成されているのですが、国の領土もこれは歴史の流れの中で人間が勝手に決めたものであって、もし神様がおられるとしたら、まったく関係の無いものであると思います。もちろん直接聞いたわけではないので断定はできません。

国とか社会、さまざまな組織にはそれぞれ人間一個人が巻き込まれるパラダイムを擁しています。その存続のために必要な考え方や都合に合わせての主張は各国、各社会、各組織において違います。そしてそこに異論をとなえると危険であることは周知のとおりです。リスクを負って異論を唱えたり変えようとするのは変革であったり、さらに過激になると革命になったりしますが、それはなかなかたいへんなことです。

日中韓の間に横たわる問題も組織変革みたいなレベルでとらえれる問題ではありません。おそらく今私たちが生きているうちに解決できるなどとは到底考えられないことばかりです。でも私たちは今を生きています。個人レベルにおいてはなかよく暮らしたいし、つきあいたいわけです。だから棚上げというか、生物としての人間とは直接関係の無い社会的な影響から変容している部分は置いといてつきあいましょうということなのです。

もちろん国が違うわけですから、やはり領土問題をはじめ、さまざまな歴史問題など食い違う部分においては大いに議論することはいいことです。むしろどんどんするべきだとも思います。日本人はとくにその部分においてはなかなか下手なのです。本音と建前でつねに和の文化の中で暮らしてきたので、欧米の大学や企業で平気で行われているディベートが上手ではないのです。では中国、韓国の人が得意かというとそうでもありません。感情論に陥りがちになって議論ができなくなる可能性があるのです。

この三国がディベートを成功させるにはスキルとセルフコントロールが必要です。それは内省やセルフコーゼーションというなんでも相手が問題だと批判するのでなく自己批判できる器も必要です。
韓国人の努力目標は、感情的にならず、威圧的になったり、強迫じみた言い回しをすることをさけることです。これは交渉術としては有効な場合がありますが、交渉して自分の要求を相手に飲ませるのが目的ではないということです。負けるが勝ちという言葉がありますが、無理やり追い込めて勝つと後で分が悪くなり、結局人間関係で劣位に転じる可能性が大です。

日本人は本音と建前が人間関係の潤滑油みたいなところが強く、言いにくいことは極力オブラートに包んで表現してしまうということが多いのです。で、結果的に相手にちゃんと伝わっていないということが多く。また甘えの構造からなんで理解してないのと相手を責めるところがあるのです。空気を読んでとか、行間を読んで理解してというのは日本でしか通用しません。最近は世代的に空気が読めなくなっているので、空気を呼んで相手の意図を察して行動できる人は減っています。とにかくはっきりと意見を述べるということが重要です。議論のとき言いたいことを我慢してあとでこそこそ言うのは日本人の悪いところです。

日本人は喧嘩もできない人が多く、裏ではいろいろ言っているのに本人の前ではいい顔で通るというのがあります。そういう人は似非平和主義と私は言っていますが、たまには感情的になったり喧嘩したりするのも人間的でいいのではと思います。日本の犯罪はそういった面でとても陰湿なものが多い気がします。

中国人は過激な反日運動ばかりがメディアに露出されているので、とんでもない過激で感情的だと思われがちですが、それは一部の人です。実際はかなり冷静な人も多いのです。何しろ4000年の歴史がありますし、忍耐強いところもあるのです。ただ自己主張は強いので、相手の事情をよく理解するというスキルは必要な気がします。また計算づくで考えるのでなく、本音で自分をさらけ出すことも必要かと思います。日本人とまたちがって奥深い部分があります。

それぞれ個々のマイナス部分を自覚した人びとが集まって冷静に議論すればとても面白いと思います。もちろん育った環境や遺伝的要素も違いますが、いまあげたような内容を抑えて話し合うというのはとても大変なことです。しゃべり方もすぐ民族性がすぐでてしまいます。それは仕方のないことです。ただ知的にはそういったマイナス部分を念頭に置いておくというのは大切です。受容できる部分は自分にとってプラスになるわけで、どうしても譲れない部分を譲る必要もないのです。平行線になっていいのです。

2013年9月4日水曜日

自虐ネタの及ぼす影響

お笑いブームはテレビ業界ではすでに完全に定着し、ゴールデンタイムはドラマ以上に人気を博しています。お笑いがなぜウケるかというとやはり現実に言えない本音を笑いを交えていうことで、市民権を得ているのだと思います。すなわち普段言えない上司や権力者に対する無礼講を笑いというオブラートに包みながら行っていると言えるかもしれません。映画でもドラマでもお笑いでさえ、権力者はすべて悪で権力も富もない庶民が善です。世界的にも圧倒的に後者がメジョリティで前者がマイノリティです。世界も企業もあらゆる組織は働き蜂と女王蜂の構図のように一部の権力者によって握られているといっても過言ではありません。それでも日本は世界の中で格差が少ないほうでかなりフラットな社会と言えるのではと思います。

お笑いの本質は、世の中の秩序と逆のケースを見せることもあるのかもしれません。また自虐ネタはまともに見える人ほど効果的です。外見はしっかりしたアナウンサーや芸能人で稼ぎもいいのに私生活はたいへんな恐妻家でかなりたいへんな状況に置かれているということになれば、とても面白いのです。今までの羨望のまなざしから同情のまなざしが向けられ、親近感も好感度もアップしたりします。お笑い芸人は変に思われたり、ブスやブ男に見られるとそれをウリにして結構おいしいわけです。とにかくお笑いという分野はとても奥が深く、なおかつ簡単に定義するのも困難なものではないかと思います。

最近はそういった観点で自虐ネタは視聴者の人気を得る手っ取り早いアイテムです。恐妻家で妻に奴隷のように支配される夫というのは結構面白い話ではありますが、度が過ぎるとあまりいいイメージはもたれなくなります。挙句の果ては恐妻家とレッテルを貼られ、ふがいない男として見られ続けるというリスクもあります。恐妻家になるには妻という第三者の存在があります。妻も芸能人の妻だからと割り切れるならいいのですが、毎回ネタにされてとんでもない鬼嫁というレッテルを貼られるのはあまりいい気はしないでしょう。

昔その手の自虐ネタを連発していた上司がして、結局は部下全員に三下り半をつきつけられるという結果になってしまいました。よく考えると家庭で妻ひとりに手をこまねいている人が部下を管理できるはずがありません。やはりできる上司は会社だけでなく、プライベートも充実しているものです。家庭での不満がたまっていると会社でいい仕事もできるはずはないと考えてしまうのはごく普通のとらえ方だと思います。ということで自虐ネタというのは使い方を間違えたり、度が過ぎるとマイナスに働くこともあるのだということを認識しておくのがいいかと思います。

したがって自虐ネタでもマイナスに働かないように使うのはどうしたらいいのかと考えてみました。それはやはり相手に対して、優越感をあたえ、自分に対しては同情を引き出す、それも自然に、ウザくとられないような方法がいいのではということなのです。昔はよく愚妻とか愚息といった言葉がありましたが、結局自分を含めた家族を引き下げることで相手や相手の家族や境遇を善しとさせてあげるということがありました。日本人の美徳とするところの謙虚、謙遜という観点で相手を持ち上げ気分よくしてあげるというのがコツです。もちろんこれは性格のいい人にするというのが前提で、性格が悪い人はそのまま傲慢になってしまう場合があるので要注意です。

自虐ネタを言ったときに、すかさずそんなことありませんよとフォローするような人にはとても有効かと思います。そういう人には自分をさらけ出して、特にその人よりレベルの低いところをさらけ出して笑いを誘うというのがコミュニケーションの潤滑油としては最高にいいのではないかと思います。学歴が低くかったり、こどもの出来が悪かったりすれば、逆に最高の武器をもっているとでも思えばいいのです。そのことを卑下せず、自虐的にさらっとオシャレに言えたらセンスがいいと思われます。相手が目上の人であったらなおさらグーッと親近感をもってくれて、可愛がってもらえます。

人間は自分よりレベルの高い人とつきあうのは苦手で、自分よりレベルが低いほうがつきあいやすいのです。美人はひいてしまうけど、ブスは気がラクです。イケメンの前では緊張しますが、ブサイクな男には気軽に話せます。

ただ人を選んでください。権威主義的人格の人には効果は逆に出ます。必要以上に傲慢にしてしまい、自分を支配しようとどんどんつけいって来ます。要注意です。フラット感覚のあまり格式ばらないいい人には最適です。微笑ましく思って向こうから友だちリクエストがくるはずです。自虐ネタの有効活用、それはだれも傷つく人がいなくて自分の境遇を話すということです。そして心情面ではけっして卑下したり、劣等感を持たずサラッと笑い話にできるということです。劣等感やホントに不幸だと深刻に思いながら相手に話すと、相手は人生相談を受けるカタチになるので要注意です。

健康管理は自己管理の第一歩

欧米では健康管理ができない人は自己管理ができない人として、まして会社の管理者としてもふさわしくないという風潮もあるとか。健康管理には精神管理と、肉体管理があるわけですが、もちろん前者ができないと当然後者に影響を及ぼすということは明確です。そういう面ではストレスをなるべく受けないようにするという、その考え方や行動はとても重要であると思います。その件に関しては過去ログでいろいろと記してあるので、ご関心がある方は読んでみてください。

ストレスはない、あるいはストレス耐性は高いと思い込んでいても、実際は結構ストレスがたまっていたりします。それは自分では認識できないような場合も多いと思うのです。私はかなり自分が嫌なこと、やりたくないことははっきりとやらないタイプではあるのですが、実際は環境的にストレスは知らないうちにたまっていたりするのを感じます。あまり正確に測れるものではないのですが、気楽にやってみたストレスチェックでストレスは88%でした。もっと気楽にやりましょうとアドバイスが……。気楽に適当にと推進している当の本人がこんな結果ではお話になりません。

ストレスの影響や食生活等の不摂生からか、最近は尿路結石に、緑内障の疑いといろいろと検査で病院、会社、出張となんだか充実してきた最近の生活……。とにかく健康だけは過信せず、健康診断や何か問題があったら、やはり躊躇せず専門家にゆだねる気持ちも重要です。自然療法で治癒させるんだと手遅れになったケースも何件か知っているだけに無理をしないことも大切かなと思うわけです。ちなみに緑内障は最近眼圧が高くなくても起こるということがわかってきているようです。幸いなことに私はたまたま素晴らしい眼科医に出会えたのでよかったのかなと思います。

医師との関係もなんでもぶっちゃけで言えて、はっきりとまた指摘してくれる関係が築けるといいのかなと思います。病気になるといういことは、えっ、なんで私がとショックなこともありますが、それが発見できて、自分のからだに対して少しでもわかることが増えるということは決して悪いことではありません。病気は生活を見直すきっかけを与えてくれますし、そのときの気持ちを忘れずに生活するということはとても大切なことです。人間は誰しもどうしてもラクなほうに行ってしまいがちです。歯磨きを一生懸命するのも虫歯を治療したあとの数か月まで、不摂生な食事を改めて、自然な食事を心がけるのも病気で寝込んだあと数か月程度。とにかく人間って喉元過ぎればって感じでそのときの苦しみや痛みを忘れてしまうのです。

元の生活に戻っていることを認識して、罪悪感を感じつつも、なかなかからだにいいことは始められなければ、続けることもなかなかできないものです。罪を犯した人が留置場で規則正しい生活と食生活で健康になって、からだが健康になることで、心も正されるということで更生するのに環境はとても大切だと思います。ただ出所してまたもとの不健全な生活に戻ると結局再犯してしまうのかもしれません。ということでホントに経済的にもゆとりがあれば、自分が完全に健康になれる環境に自分を置いて管理してもらいたい気にもなります。

人間は努力することはなかなかできません。勉強も社会的な成長も環境に大きく左右されます。それなりの進学校に行けば、落ちこぼれて脱落しない限り、それなりの学校に入学できるでしょう。周りが成長志向だと自分も成長できます。アメリカに行ってしまえば英語はペラペラになれます。とにかく健康も環境がとても大切です。ヘビースモーカーはヘビースモーカーで集まり、アル中の人はアル中仲間ができます。

まず自分でなりたい自分というのを考えて、そうなりたいと思ったら、そうなれる環境に自分を置くことがとても重要です。環境的な与件を一切無視して一人、こういうふうになりたいと思ってもなかなか実現できません。努力するなら、そのもの自体を努力する以上に努力しやすい環境づくりを努力してすることが最も近道であると思います。もちろん病院や薬に対して賛否両論あることは事実です。やたら検査してくださいと粘り強く患者に向き合うのを、病院側の商売、営業と考えるか、素直になってありがたいと思うかもとらえ方で大きく違ってきます。

とにかく一歩踏み出せない場合、何かをきっかけに自分が変われる環境に身を置いてみることはたいへん意義ある選択であると思います。安住の地にずっととどまっていることが自分にとって必ずしもいいことであるのかどうかはシビアに見つめなおす必要もあるようです。いずれにせよ、健康においても何においてもそれを実現するのにもっとも近い方法を考え抜いてそれを勇気をもって踏み出すことを考えたいものです。なぜならその安住の地は自分を完全にスポイルする環境であるかもしれないからです。

2013年8月22日木曜日

組織風土と病気の関係

ある会社の元社長が癌になって余命3ヶ月と宣告されたという話を最近聞きました。大腸癌で手術はとりあえず成功したようですが、すでに肺にも転移しているとのことでなかなか状況はきびしいのではと思います。

その会社は現在はないのですが、20名くらいの小規模の会社でその当時、社員がどんどん癌になり亡くなっていくということで業界では知られていました。癌になった人は6人、そのうち2人が亡くなっています。亡くなられた2人はとてもいい人で、ひとりは私と同い年で胃がんでした。 

ついに元社長がそういう病気になったということは不幸なことではあるのですが、なにか因縁めいたものを感じざるをえません。なぜその会社はあんなに癌になる人が多かったのでしょうか。私は当時からその会社の組織風土に問題があるとずっと見ていました。その当時、私の講演を聞かれた元社長が講演終了後、私にあなたの講演は何が言いたいのかわからないと言ったことがとても印象に残っていて、いまだに鮮明に覚えています。その社長もあまり定性的な感覚はなく、とても頭の固いイメージで、役員連中にはペコペコで下には結構ガミガミのタイプでした。もちろん私はその会社の社員ではないので被害を受けたことはありませんが、こういう組織風土というのが理解できない人もいるのだと実感したわけです。
 
そして元社長の会社は権威主義的人格の人が多く、権威には絶対服従でそうとう抑圧された精神構造の人が多かったですし、とにかく真面目で完璧主義、カマトトっぽい人も多く、下ネタにはまったく反応できないし、冗談も通じないアソビのない人びとが多かった組織であったのです。まあ類は類を呼ぶというのが実際に表れたような人びとの集まりでした。
 
権威主義的で抑圧された組織風土の中の社員は目に見えないストレスで充満し、その結果癌という病気になりやすいのではないかと思います。組織風土と病気に相関について研究すればそれはとても面白い研究になるのではと思いますが、何分ネガティヴな研究になるので、企業自体がそういったデータを出さない可能性が高いと思います。

ちなみにブラック企業と言われている企業の社員たちはどうなんでしょう?うつになる人は一般的にかなりの数に上るようですし、それに付随して自殺者などはなかなか自殺の原因を企業やその経営者の責任にすることがなかなか困難な状況ではないかと思います。でも今後勤務内容と同時に組織風土なども含めて人材管理の中には精神面の管理が不可欠であると思います。 

いずれにせよ、一つの組織を率いている経営者は組織の長として、どんどん社員が倒れていくのを何ら問題に思わず、平気でいるというのは全く理解できないことです。どこに問題があるのか、自分で勝手に判断するのでなく、第三者である専門家に相談すべきです。病気や精神疾患を個人の問題として決めつけないで、企業として経営者として、上司として対処すべきであると言いたいわけです。 

少なくとも社内のストレス環境など問題があるのではないかと考えてみるべきです。経営者は自分の会社の社員は自分のこども、家族同様に考えるべきだと思いますが、雇われ経営者でオーナーシップがとれない会社であったり、経営者自身がサイコパスのような人格になってしまっているという観点では社員の病気などは、他人事に過ぎないという人が多いのです。

その元社長も癌になったことをただ病気として治そうというのでなく、その意味合いを痛感してほしい気がします。もし病気が神様が与えるものだとするならば、なにか悟るべきことがらがあるはずです。それを考えないとしたら、癌になった意味が生かされません。
 
ただもともと悟れないような人だからその会社の雇われ社長としていたのかもしれません。悟れるような人であれば、社員があまりに倒れていくならばどこに問題があるのかと真剣に考え、組織風土(人間関係も含め)や勤務状況を変えていったことでしょう。 

まここらへんにしておきます。あまり解釈しすぎるとオカルトっぽくなるので。

いずれにせよ、経営者や人の上に立つ人は人を追い込んだりいじめるのはやるべきではないと思います。フロイトやユングによると人間は受け入れがたいことがらは自分の無意識に閉じ込めて抑圧された状態にして普段の意識には出てこないようです。ただそれが表れるのは催眠術をかけたときで、覚醒されると一切それらは覚えていないということのようです。社員に催眠術を施しその無意識に抑圧されたことがらを引き出してみると上位者に対する怨みつらみが出てくるかもしれません。よくわら人形なんてありますが、あまりに多くの人に怨まれるとその意識が具体的に対象物に顕在化するのではと思ったりします。祈りの力なんてのもそういうことかも知れません。思い続ければ必ず実現するといったことも同じような精神世界の内容が現実世界に顕在化するといった内容なのかも知れません。
 
経営者であるということ、組織のトップに立つということは、ある面組織の成員の命も預かっている、その家族までも責任をもたなければならないのだということを肝に銘じ、逆に不幸な状態がどんどん起きるようなことがあるならば、早期に問題発見、問題抽出をして問題解決に取り組むべきです。人を預かる立場である重大性を認識できず、気楽に考えていると間接的な殺人を犯しているかもしれないということをしってもらいたいものです。そういう認識すらできない人は経営者や組織のトップに立つべきではないと思うのです。

2013年7月19日金曜日

認知的不協和に苦しむ経営者

認知的不協和とはアメリカの社会心理学者フェスティンガーが唱えた理論です。人間はつねに自分の思いや認知と行動が矛盾のないようにつねにバランスをとるという性質があります。すなわち自己矛盾が生じている状態にずっととどまっていることは誰しも嫌なのです。ホメオスタシス(恒常性維持機能)という観点もそれに似たものがあります。とにかく人間は変化に対して弱いということもありますし、まして自分が願わない不本意なことを要求され、行動を強いられるときには精神的に大きなストレスを感じるのです。

会社経営の中でも、経営者は認知的不協和を低減しようと努めるのです。ここでご紹介するのは一例です。基本的に社長に抜擢されたら経営権を握って自分の信じたとおり会社経営できるのが筋であるが、世の中には引退しているはずの会長なる存在がいまだに権限を行使していたりするケースがあったりします。また外面的にはわからないがうまく院政を引いて、ことあるごとに社長を呼びつけ、指示をだすような会長という存在がいたりします。そのうち社長は勝手にやって文句言われるくらいなら会長の言うとおりに従ってやっていれば、文句も言われずに済むということで完全に経営権が会長にあり、会長が経営をし、社長はただその業務を遂行するだけの仕事をしているということがあったりします。(ここでは会長―社長という関係で話しますが、みなさんは社長―上司と置きかえてもいいかもしれません)

分かりやすく示しますと以下のような矛盾を抱えて社長が経営しているわけです。

認知A:会長の命令に従う。
認知B:会長の命令に従うと会社が経営破たんする。(会長に従わなければ経営できる)

社長の仕事は当然業績アップをめざし、経営を上向きにするというのが仕事ですから、こういう状況は明らかに本来自分がすべき行動とは矛盾するわけです。そこでこの矛盾を解消するのにどのように行動するかという問題なのです。それは認知Aを変えるか、認知Bを変えるかです。まず認知Aを

認知A':命令に対して拒否し、社長の考えを押し通す。

という認知A'に変えると自分のすべき仕事に対して矛盾が解消されます。ただその場合命令に従わなかったとして社長はクビになるかもしれません。なかなか企業トップが独裁を敷いているところはその権力のゆえにその部下は直立不動の経営しかできないケースが往々としてあるのです。したがって意見を言うとか、反論するなんてことはもう自殺行為に等しかったりします。そういう組織で生き延びていく、出世するにはとにかく上位者にうまく取り入っておべっかは言っても絶対に上司の言うことを否定しないという行動が必然です。

しかし社員からしたら、せっかく社長でいるのだからリーダーシップを発揮して新しいことをいろいろと試したり何とかg黒字にしよう業績を上げようと頑張るのですが、まったく埒があかないという状況にあります。おまけに現場の事情がよくわかっていない会長に振り回されて、社長はトンチンカンな指示命令ばかり下すという状況になってしまっていたりします。そして実際に、経営状態はさらに悪化してどんどん厳しい状況に追い込まれ、給料も減らされ、社員の不満はピークになってしまうのです。

そういう状況にいたっても社長は認知A'の行動に出ることはできないでいます。でも社長としてはなんとか経営はちゃんとしたいという矛盾をかかえてしまうのです。でもクビにはなりたくありませんから、A'の選択はまずありえません。それで会長の命令に従うのです。それで会社の経営破たんをを見越して自分なりに矛盾、すなわち認知的不協和を低減できる理由をさがすのです。

・どうせこの会社はもう潮時だった。
・命令に従ったから経営責任は回避できる。
・社員もあの会長のワンマンさを知っているから理解してくれるだろう。

などなど、でも実際の経営責任者は社長です。経営責任は免れはしません。

こういった場合、どうしたらいいのでしょう。すでに経営破たんを受け入れているような社長は完全に会長に直立不動を強いられる管理下にある状況です。すでに自分の立場を客観視したり、俯瞰しシビアに現実志向で見つめるというレベルは失われていたりします。ひどい場合はアメとムチで完全に洗脳状態、学習性無力感で精神状態が崩壊しているケースもあります。とにかくこういう場合は部下の意見も聞かない状態になっていますし(なぜなら会長の命令以外の意見は受け入れないので)、相談をするという選択肢は皆無です。そういう状況にあることに気づけさえすれば、希望が見えます。ホントはできる(できそうな)部下を集めて、会長への対策会議を行えばいいのです。
それが無理なら、社外のコンサルタントか会長が一目置くような人に相談することが重要です。ただ社外であったり、経営から長く退いていると状況がイマイチ把握できない場合もあります。

とにかく気づきが必要ですし、問題の核心部分が明確に分かる、すなわち問題抽出能力がなければいい方向に展開することは困難です。そうであるがためには歪んだ持論や処世術だけで凝り固まった経営者、上司という企業組織の上位者はつねに学習してほしいものです。

2013年7月6日土曜日

負のエネルギーをうまく活用する方法

人生、生きていく中でさまざまな体験をします。もちろん喜怒哀楽、さまざまな心情を感じていくわけですが、なかなか怒りや怨みの情だけはなかなかコントロールが難しいものです。「金持ち喧嘩せず」というのは色んな意味合いがあるでしょうが、基本的にいい人生を送っているなと感じる方々は比較的穏やかでジェントルな方が多いような気がします。

PSIでは金持ちになること、成功することを別に奨励はしていませんが、人生豊かに楽しく有意義な過ごし方ができると幸せをたくさん感じることができると思います。そのためにはやはり感情のコントロールというのはとても重要で、それができなければ成功することはもちろんのこと、人生を謳歌することはとても困難であると思います。うまくいっている経営者の中には、あまり神経質でいつもイライラして殺気立っているような人は見たことがありません。もしそういう人が経営者であったらその企業はブラック企業に選定されているかもしれません。

できる人というのは熱い志を持ちながらも、感情はコントロールし、自分の目標に対してつねに前向きで努力しつづけることができる人だと思います。優良企業の経営者の人びとを見てみると、比較的人当たりもよく穏やかでありながら、胸に秘めた燃える思いというものがひしひしと伝わってきます。そして経営においてもっとも効率的なアプローチをすることができる人です。それは業務もそうですし、組織を形成している社員に対してもそうです。優秀な経営者というのは会社の誰よりも学んでいる人で、新しいことにもっとも好奇心があって誰よりも意欲的である人だと思います。そして社員に対して最高のパフォーマンスが上がるようにうまくアプローチできる人です。間違えても自分が正しいと怒鳴ったり、大人気なく社員や部下と喧嘩したりということはまずありません。

反対にできる社員や部下というのも上司に対してうまく動かすコツをわきまえている人です。もちろん情熱的に訴えてぶつかったりすることもあるかもしれません。でもある程度のところで上司のレベルを見抜いてどう対処するかという対応策が頭の中にあって行動できることが重要です。もちろんダメ上司でどう考えてもその上司の下で働くメリットがないことが明確ならば、転職や独立、起業といったことも考えることができるのができる人です。感情的に行動し、扱いにくい部下だと上司や経営者からレッテルを貼られてしまうのは自分にとってまったくメリットはありません。

経営者や上司は組織という観点ではやはり権威ある立場なのです。自分ひとりがどんなに訴えたところで、社内のだれも自分と同調する人がいなかったならば、出る杭ではなく、ただのわがまま坊主に映るだけです。部下や社員の立場でより上位者に訴えそれを聞き入れてもらうためには、まず自分の同僚以下、そして上位者の中でも自分を後押ししてくれる社内的人脈ができていなければならないわけです。たとえば上司にある提案をするとき、上司がより理解できるかたちで話をすることも重要ですし、その時点で上司以外は全員が自分の意見とコンセンサスを得ているという暗黙の了解もあれば最高です。

社内である程度、模範的な言動ができ、なおかつつねに学習していて周囲がついてくるぐらいの人間力を発揮しながら、より上位者のレベルも理解した上で意見ができなければ、社内で浮いてしまう可能性もあります。逆に経営者や上司の立場にある人は何でも自分の思うようにいっていると思って社員が納得しないことも要求し続けていると間違いなく裸の王様になることは間違いなしです。部下がやたら自分のことをほめて、自分に対する意見や新しいアイディアなどの提案がなくなっているとすれば、もう完全に上司、経営者としては部下や社員は見限っているということであると認識すべきです。すなわち、ジジ殺し、褒め殺しの状態まで言ってて、最悪のときには裏切られてしまうケースです。部下がやたら自分にとって心地いいことしか言わない状況になっている時点で早く気づくことが重要です。

とにかく感情をコントロールできない人は絶対に大成しません。それは社会的地位という以前に人間として、人格的にも幼いレベルにとどまっていると考えてよいでしょう。ものすごいワンマンで独裁者の経営者で存在できている会社があれば、それはすでに超権威主義を許容しているカルトチックな組織になっているはずです。ブラック企業に上げられている企業にもそういった組織の企業があるかもしれません。会社には社是や社訓が掲げてある程度ならいいのですが、創立者の写真などが掲げてある会社はひとつの宗教になっています。

話がそれましたが、とにかく感情をコントロールできる人格、言動を養っていかなければなりません。感情的な人は見方を変えれば情熱的でやる気のある人です。ある面会社でいつもネガティヴ発言で、「どうせ~」とか「やっぱり~」から始まったり、「でも」「そうは言っても」といった逆接の言葉が多い人は、すでに学習性無力感から意欲さえ失っていたりします。そういう人はもう何をやるにも意欲が足りなかったりつねに言い訳ばかりが口に出るようになっています。感情的な人は感情のコントロールさえできればまだ可能性があります。

会社をはじめ、人間によって形成されるあらゆる組織にはさまざまな人間関係があります。自分と相性が合う人しかいないという組織は稀です。もしそういう人がいるとしたならば相当人間的器の広い方だと思います。むしろ組織の中には許せないとかムカつくとかウザイといった人が必ずいるはずです。でそういった人にその気持ちをいつも持ち続けているのは精神衛生上よくありません。それでそれを解消する方法はそういったことにかかわっていられないくらいの自分の目標を持つということが重要です。そしてそれを達成することが、ストレスの原因になっている人びとを見返すことにもつながれば尚更です。ムカついたり、カッとくる負のパワーを、よし見ておれ、必ず見返してやると自分の目標を達成するための正のエネルギーに全面的に転化させるのです。それが普段の生活の中でスムーズにできるようになれば、人生の時間を無駄に使わないで済むことになるはずです。

自分の人生は会社のため、まして会社のダメな人びとのためにあるわけではないのです。その人たちのレベルの低い人格のゆえに自分の感情や心情、そして貴重な時間や行動までも無駄にする必要はないのです。困った人が助けを求めてきてそれに心情や行動、時間を割くことはとても意義深く、いずれ自分にいいかたちで返ってきます。でも自分が勝手に自分を苦しめる感情を持つことはとてももったいないことなのです。少しでも早く負のエネルギーは正のエネルギーに転化して人生の意義あることに活用していきましょう。私たちの人生は自分の人生を有意義に生きることと社会的に意義ある人生にしていくことが大切ではないかと思うのです。

2013年6月12日水曜日

人間って死んだらどうなるの?②

生の問題同様、死に対する問題は人間にとってはとても大きなテーマです。ただ生とは何か、死とは何かという問題は万人が納得できる答えというものはありません。哲学や宗教の分野で扱われていてもそれらの主義主張、思想、教理というものはひとつの考え方として、あるいは信仰的な観点で依存の対象としてあるだけで、決して一般化できるものではないと考えられます。なぜなら、誰もが納得する結論が出ないからです。

そう考えると、半ば生や死に関して論じることはとてもナンセンスな気持ちにもなってしまうのです。世の中では不確定なことがらには言及せず、今を生きる上で必要な営みを毎日、瞬間瞬間繰り返しているだけで、またそれに集中している以上はそういった人間の本質的な問題を意識しなくていいので、ストレスなく悩むことなく生きていけるのです。でも身内や友人の死に直面したときにはどうしても死という問題に向き合わなければなりません。

実際問題として、人生を生きるということは、人間の本質に対して知りたいという欲求を半ば覆い隠して生きるようなもので、どうしても人生という刹那的な時間をただ楽しく有意義(意義あると決めて)に暮らすということにつきるのかもしれません。若ければ死はまだまだ先の話と考えて生きてもなんら不安も恐怖心も実感としてないかもしれません。でも今実際、高齢で死というものが現実問題としてふりかかってくるとか、若くても悩んで自殺願望があったりする人にとっては先送りできない問題です。

ここで死に対して、不安や恐怖心を抱いている人にちょっとラクになれる話をします。ギリシヤの哲人ソクラテスは死は睡眠のようなものであるとしたら、死とはとても甘美なものであると言っています。みなさんは基本的に健康であるなら毎日睡眠をとっておられることと思います。以前よく健康関連の講演をしたとき、睡眠、寝ることがきらいな人はいますかと質問したところ、ひとりもきらいな人はいませんでした。朝起きるのが苦手で、もうちょっと寝かせてえなんてことがあるくらいです。

それで寝るということがきらいな人はひとりもいないわけですから、もういつでも死を迎える準備はできてますよなんて笑いを誘うネタにしたりしていたわけです。実はそう考えると人間は人生のなかで生死を繰り返しているとも考えられます。朝起きるときは生まれるということですし、夜疲れて寝るときは肉体的活動を休めるということで死を迎えるようなものです。もちろん心臓や副交感神経は動いているわけですが、(これが止まるとホントの死です)意識としては無の境地、すなわち自分という存在がなくなる状態になるわけです。

でも夢を見たりします。では夢というのはなんなんだと言われれば、それは潜在意識がフローしてきたもの、あるいは死後の世界につながっていて霊的な世界に心はつながっているからという人もいます。とりあえずここでは夢の話は置いておきます。ただここで言えることは人間には精神世界といえるもの、すなわち物質という観点では説明がつかないようなイシューがあるのだということです。脳科学の分野とかでさまざま研究はされていますが、やはり脳の機能という観点だけでは説明はできないのだと思います。

人生は生老病死という苦しみがあると仏教では解きます。キリスト教では堕落によって罪人になったがゆえに無知になって真理がわからない、それゆえに人は生死に対しても無知なのだそうです。
それゆえさまざまな宗教が死生観に対しては明確に決めてあり、信者はそれを信じることでそれらの不安をすべてとりのぞくことができているのです。それは死に対する恐怖からの解放であり、人生における苦痛の除去にほかなりません。私もいくつかの宗教の話を聞いて共感し、死生観といいうものがある程度固定されていたことでたいへん精神的にはラクに生きてくることができました。

宗教が麻薬(アヘン)であるという話はあながち間違ってはいないと考えられます。なぜなら死生観を明確にすることで人生の痛みを除去することができるのです。そしてその死生観が正しいかどうかなんていうことは極端な話、どうでもいいのです。なぜなら死んでからわかることなので死んだあと、間違っていたぞなんてクレームを言ってくる人はひとりもいないからです。したがって宗教のどの教理が正しいとか間違っているとか、輪廻があるとかないとか、霊界があるとかないとかすべては論じること自体があまり意味を持たないと思います。なぜならだれも立証できないからです。要は一人ひとりが自分でもっともそうだと思うものを信じて人生においてそれがとても有効な役割をしてくれるのならばそれでいいと思うのです。

ここで断っておきますが、私は決して宗教への入信をおすすめしているわけではありません。もうすでに宗教をお持ちの方はそれで納得されていれば、それはそれでいいのではないでしょうかという話です。ただ宗教もいろいろあるので、テロや反社会的活動がある宗教、すなわちカルトのような宗教は、結果的に自分の含め周囲の人びとを巻き込んでとんでもない人生を棒に振るようになってしまうので注意してほしいところです。社会的に安全な宗教はある面、国の法律や枠組みを大きく逸脱するような思想や活動はありません。また個人の生活が脅かされたり、人がものすごく変わるような洗脳も行われません。カルトの恐ろしいところは死という不確定なものをあまりに明確に描き上げ、それをネタに法外な金銭の要求をしたり、反社会的な活動へと駆り立てていくという危険性をはらんでいます。そして具体的に実現不可能と思われるようなことを具体的にやっていこうという実現主義とでも言ったらいいのか、そういうところに希望を感じて多くの信者を扇動していくのです。そして自分たちがすべて正しくて、世界の中心だくらいにすり込まれて社会一般の通常の価値観とはかけ離れた思考に陥りますので気を付けることが大切です。

とりあえず、日本は信教の自由が憲法でうたってあり、あらゆる宗教が存在し、心の拠り所として信仰をすることは精神安定上、有益な部分がたくさんあります。ホテルに泊まるとよく聖書や仏教書が置いてあるのも心のケアにそういったものが有効だからでしょう。刑務所でそういった書を手にして更生されるというのもあります。宗教は世界的にはさまざまな国々で紛争の火種となっているのも事実ですが、人類の心の平安を与えてくれているということも事実であると思います。今は私は無宗教な立場ですが、死ぬときはとりあえず実家が檀家になっているお寺のお世話になるか、あるいは最近は公共の墓地は無宗教の人も多いようで、そうなるかはわかりません。私自身は葬式や法事、また宗教というのは生きている人びとに必要なものという認識であるので、それは成り行きに任せたいと思っています。

とりあえず宗教の話はこれくらいにして、ここである程度の結論とまでいかなくても、方向性を出したいのは死というもの、死後の世界というものは一体あるのかないのか、どうとらえればいいのかということです。宗教的な観点でのとらえ方は個人個人に任せて、ここでは科学的に立証できないまでもせめて論理的に納得できるくらいの基準での話にしたいなとは思っています。もちろんそれをどうとらえるかも個人個人の話ですし、最初に漫談風味の話と前提してあるので、あまりムキになってケンカ腰で議論を交わすつもりもありません。おぼろげにそうなのかなあくらいに受け止めてもらえて人生、またがんばる気持ちになれたと言っていただけたらいいかと考えています。次回に尾のレベルを目指したいと思います。



2013年6月1日土曜日

人間って死んだらどうなるの?①

今日はいつもと趣向を変えて漫談テイストな話をしてみたいと思います。いつもPSIブログを愛読してくださっている方々はちょっとビックリされるかもしれません。えっ、いままでさんざん会社経営だの組織だの、教育だの、はたまた真面目に人生観を論じてきたのに、ここに来てオカルトですかなんて愕然とされるかもしれません。あるいはカルトチックなことをやたら批判してきたのにそんな不確定なことを言ってしまったら宗教、あるいは内容によってはカルトじゃないですかと言われるかもしれません。もちろん私は不確定なことは絶対に断言しません。もちろん宗教的な理由から信じておられる方を批判するつもりもありません。

真面目でかつ、ちょっとうんちくのあるような話をしたいと思うのですが、いずれにせよ人間として生まれたからには絶対避けて通れないのが「死」の問題です。そもそもこの死の問題に関しては誰しも普段の中であまり話題にしません。でもみんなが一度はおそらく考えたり、悩んだりしたことはあると思います。私はそもそも小学校低学年のときにおばあちゃんに可愛がられて育ったことも原因かもしれませんが、とても死に対していろいろ悩んだことがあります。2歳のとき、曽祖父が亡くなりそのことも覚えているのですが、やがて可愛がってくれる祖母との別れもいつも考えながら過ごしていました。

もともと死んだあとは無になる、死後の世界などというものは、ハナから信じなかった私は夕暮れ時になるとよくうつ状態に陥り、ひとり夕日を見ながら涙を流していました。なぜかと言うと死によって自分という存在がなくなるというどうにもやりきれない思いと恐怖心からです。でも死んだらどうなるのとは親には一切相談できませんでした。なぜなら答えが出ない質問であることを知っていたからです。祖母はそんな私をみてどうして泣いているのかと声をかけるのですが、絶対にその胸のうちを明かすことはできませんでした。

今回、死をテーマに選んだのは、私の中にいずれ触れなければならないテーマのひとつという考えがいつもあったからです。そしてそのテーマ自体があまりに重いのです。ですからそれは精神的にホントに落ち着いているときでなければ、なかなか書けないものです。でも今日たまたまそういう心境にいたって今キーボードを叩いているわけです。

年間日本では3万人の方々が自殺という人生の終わり方を選択しています。その理由を簡単に経済問題だとか、病気、人間関係だとかいろいろ言われはしますが、ホントの理由は本人しかわかりません。おそらく死をもってしか解決できないという状況に追い込まれたということは言えるのではないかと思います。日本は物質的にはかなり豊かになって、どんなに悲惨な状況になっても生活保護もありますし、なんとか生きていける国です。でも豊かであるがゆえに、物質的な問題ではない精神的な悩みが多くなっています。まさにマズローの欲求5階層説でも指摘されるように、すでに日本人はより内的な、本質的な問題で悩む時代になっています。

普段、死の問題を気にしながら生活している人は熱心に宗教をしている人くらいしかいないでしょう。ところで日本の宗教人口はゆうに2億人を超えているようです。日本の人口の2倍になるというわけです。それは考えれば納得できます。日本人は育った近くの神社の氏子として登録されていて、なお仏教の檀家にもなっていたりするわけです。そして学生時代や成人して、へんな宗教(失礼)に引っかかればひとりが3つも宗教法人に登録されていたりするわけです。宗教もころころ変わったりすれば、もっと多いかもしれません。いちいち脱会でもしない限り除名されることはなかったりしますから。私も学生時代や若いころに誘われて入会してしまった宗教を入れればもしかしたら4~5つくらい宗教をもっていることになっているかもしれません。もちろん今は特定の宗教には属していない状況です。

宗教は実際の信徒数より多い数になっていてあたりまえと考えるべきです。もし信徒数によって固定資産税みたいに税金がかかるようになれば、宗教は実際の信徒数をもっと正確に把握しようとするかもしれません。ただカルトチックな宗教ほど虚勢を張るので実際の信徒数より大きな数の信者が所属しているようになっているはずです。日本には国教というものもありませんから、宗教の数は増えるいっぽうです。でなぜ日本はカルト宗教が増えたりそれに入る人があとを立たないかといえば、やはり国教がないということと普段の生活が宗教意識とほど遠いため、逆に入りやすいのだと思います。ロシアで某カルト教団が大きな基盤をつくったのも共産主義というひとつの思想が崩壊してそのぽっかり空いたところにたまたまその教団の思想が入っていったということを言う人がいます。日本は雑多な宗教がある反面、ホントの意味で宗教をもっている人がいないという状況なのでカルトな思想が入り込みやすいのです。

国教があったり、宗教がベースとなっている国々は、すでに国民全体が共通した死生観というものを共有しています。でも日本人はさまざまです。それはすばらしいことなのですが、宗教がない事によるカルト宗教の餌食になりやすいというリスクも抱えています。だからと言って国教つくれとか言うつもりもないですし、何かここで宗教を立ち上げようというわけでもありません。PSIのコンセプトは不確定なことは断定、言及しないということなので。ただこの問題に関しては絶対避けて通れませんし、そのことを回避しての人生の喜びというのはホントの意味で深みがないと思います。したがっていずれ取り扱わなければならないテーマなのです。

なにか漫談テイストな話にしようと思いつつ、やはり真面目で深刻な話になってしまいますね。とりあえず重いテーマなので今日はこの辺にしておきます。

2013年5月28日火曜日

ものごとの本質と向き合う力②

会社での会議はいつの間にかものごとの本質からズレて結局建前論が先行してしまうことがよくあります。起業間もないベンチャー企業などはまだしも、もう何年も安定して経営を行ってきた企業ほどそういう状況になっているのではないかと思います。なぜなら現状を変えたり、イノベーションを起こす必然性をあまり感じないからです。そういった会社の社員は会議はいつものルーティンの一部に他ならず、そこで新しいものを生み出そうとか、何か変えていかなくてはならないといった雰囲気、意識はなく、そういった気概も感じられません。

もちろん上層部も社員たちもそれを善しとして、全くそういった状況を問題視することなく、ただ徒に時間を消化することだけを考えているという状況になっていたりします。そういう中でたまに血の気の多い社員や中途採用のまだ組織の色に染まっていない社員なんかがいたりすると、組織的な問題や業務や商品開発などさまざまなことがらに本音をぶつけ、一石を投じるなんてこともあるのですが、そういった行動には会議参加者の大半は火消しに回るということになります。

実は彼らが思っていることはみんな思っていたことで、すでにそれができないほど組織の制度にがんじがらめに埋め込まれた状態にあるので、そういった提案や意見はできないこと、無駄なことというカテゴリーにふるい分けられ、議題にあがることはないのです。まさに非効率的で理不尽であったりすることが公然と組織の成員の暗黙の了解の下にまかり通っているという状況があったりするのです。

すでに組織の上層部のみならず成員全体が、本音のところではその部分の改革が必要だと思いながらもそれはできないことといういわば‘思い込みサイクル’に陥っているのです。実際は力を合わせてやればできることであったりするのですが、できないという思い込みです。個人においては自分自身が思い込みサイクルにはまっていると思えば、自己啓発セミナーに出たり、本やさまざまなメディアから情報を得たりして、自ら努力することでそこから脱却できるかもしれません。でも組織となれば簡単ではありません。

組織の中でたった一人で改革をやろうと思ってもたいへん困難です。経営トップでさえ困難であったりします。組織の一社員であれば、間違いなくもっと難しいでしょう。それでも何とかしようと思えば、まず経営トップや執行部を動かすだけのパワーを持たなければならなくなります。地位がなければ、まず意識や行動をともにする人的基盤を築いて上層部に訴えるという作業が必要になってきます。ところがその作業のプロセスの段階でその流れはつぶされてしまうという可能性も大きいのです。下手をすると組織の方向性とは違うとレッテルを貼られ、その組織の中にあって組織のために行動しているにも関わらず重要なポストから排除されてしまう危険性だってあります。そして信頼していた人びとさえ組織の論理を代弁しているとされる上層部のや会社側の論理に引き込まれ、脱落していくという人が出てきます。

こういったことは一つの大きな組織の秩序や統制を維持するためには仕方のない一面もありますが、結果的に個を重要視しないことがもたらす全体の滅びでもあるのです。部分的最適化が全体を滅ぼす逆パターンです。経営トップや組織の上層部はそういったキラリと光る原石を見極め、一旦耳を貸すという勇気も必要です。もちろん振り回されて会社を破たんさせるような方向に行くことは避けなければなりませんから、当然慎重になる気持ちはよく理解できます。でもつねにそういった組織内の核心部分をついた本音の声を封じ込めることばかりやっていると何も変わらないし、企業の成長はストップした状況が続くのです。

個人も組織もものごとの本質に向き合う力がとても弱いのです。これは日本的な経営の弊害部分でもあると思います。戦後の経済の高度成長の時代にはヒエラルキー組織で統率してがんがん生産効率を高めていくことが企業の収益につながっていたのですが、モノがあふれていて知的労働のほうが重要とされる現代では旧態依然たる組織風土や思考にとらわれていては全く成長できないのだと思います。そういったことに気づいて企業のトップや上層部が行動を起こしてもやはり過去の既成概念が邪魔をしてやはり思い切った改革、転換ということはなかなか困難です。

世界的に成長しつづける企業の多くはそういった既成概念を崩して通常の理解を越えた取り組みをしています。世界的企業のグーグルなどは社員が散歩しながら会議をしたり、いいアイディアを捻出できるようにさまざまな工夫をしています。そして社員の健康まで自己管理できるようにトレーニングジムや24時間無料の社員食堂もあったりします。毎日決まった時間に出社して決まった時間でなく遅くまでサービス残業を課すような会社ではまったく理解不能な取り組みです。

労働価値説的な思考から脱却できないレベルはもう言うに及びませんが、今までの日本の会社という枠組みを崩すくらいの発想ができなければものごとの本質に向き合って会社を大きく変えていくなどという行動はできないのです。名を捨てて実をとるということこそ今の日本的経営を行ってきて行き詰っている企業には必要なのです。社員の行動をがんじがらめに縛る会社ほど非効率的で逆に自由な思考や行動を受け入れ、ものごとの本質が見えてくるような組織風土を築いたほうがよっぽど効率的であると考えます。そして減点主義でなく評価主義に切り替えつつ仕事に誇りをもって取り組める風土にすることが企業や組織のトップや上層部がもっとも考えていかなければならないことだと思います。

2013年5月24日金曜日

ものごとの本質と向き合う力①

人間は基本的に尊厳を大切にします。それは意識的にも無意識的にも、そして感情的にも行動的にも自己の尊厳を毀損されることがらに対してをれを回避する方向に動きます。それは明らかに人が人として存在することになにごとにも替えられない尊厳を有しているからだと思います。

したがって人間は傷つけられるような言動や理不尽な対応をされたときなどには、それを回避したり、断固として拒絶したりする意識がはたらき、自分を擁護したり正当化するような言動をとるわけです。会社の中にも学校の中、家庭の中でさえ、人間があつまり社会を形成するところでは必ずそういったやりとりがあるわけです。みなさんが会社などに勤めたり、所属しているコミュニティで活動されているなかで、そういった場面によく出くわすことがあると思います。

私の経験からちょっとお話ししますが、以前世話になった上司はとてもいい人で、上役の中にとても理不尽なことを言う人がいてその人への対応にいつも苦慮していました。実際、仕事とは関係のないあくまで個人的な感情を中心の言動をする人で、思いつきでなんでも指示命令をしてしまうような人でした。その上役に怒鳴られたり、目茶苦茶いじめられたり、それも怒鳴るにしても会議の場で見せしめのように怒鳴るのです。自分の上司がそこまで理不尽な対応をされることに気持ちのいい部下はいないと思います。でもだれもそれに対してどうこう言うことができないのです。すでにその人にもの申す人はいなくて、裸の王様状態になっていました。したがって無言の同調圧力の中で上司はペコペコしているだけという状況でした。そういった会議には基本的に私は参加しませんが、たまたま参加した会議の中でそういう状況であったことを知りました。

上司が怒鳴られたり、いじめられているのが常態化していて、一時期はうつ気味のときもありました。ところが上司のことを思って、その上役をいろいろやってつぶしますか(少々過激表現が多いですが…)と提案しても、上司はまったくそれにはのってこないのです。それは一つはあまりに抑圧されいじめられてきた内容が大きいのですでに学習性無力感の状態に至っているというのがひとつはあると思いました。そういうポジションだからというのです。したがって自分に非があるわけでもなく、上役のキャラに問題があるのは当然ですが、あくまでそういう地位にあるからだという訳のわからない説明をするのです。

みなさんは経験ありませんか。
「あんなに言われてなんで黙っているんですか?」
「明らかに変じゃないですか、はっきり言ってやったらいいですよ!」
「なんなら私たちがみんなで訴えますか?」
ここまで言ってものってこない上役に言われぱなしのダメ上司。

上司の話を聞いて部下たちは熱くなっているにもかかわらず、挙句の果てはいじめられている上役のことを擁護までするのです。そんな悪い人じゃないよとか、短気だけど言っていることは正論だとか、もうこの上司なに考えているのかと部下たちからは逆に信頼を失ってしまうようになりました。
そりゃそうです、さんざ上役の問題を聞かされて熱しているところに水をかける、部下からすればどうせそう考えるなら、あんたの心の中でうまく整理して終わりにしてよという話です。もし私が上司の立場なら一緒に闘おうとしてくれる部下の言葉が嬉しくていろいろ考え、クーデターのひとつでも企てるところですが、そうはならないのです。

ずっとそういう上司を理解できなかったのですが、よくよく考えると彼は彼なりに自分の人間としての尊厳を守り通そうと必死であったということです。それはとりあえず自分を立てて使っているのは上役なので、彼がそのポジションから外れるようにすることには言及しないのです。そうでありながらも自分の行動の足りなさは決して認めないというカタチでスルリスルリとものごとも本質からどんどんはずしながら、誰にも責任問題は追及しないというカタチをとるのです。これはある面日本社会のうまくやっていく人間関係やその立ち位置のありかたかもしれません。そして自分自身の尊厳も守られるのです。

怒鳴られても、いじめられても、自分に非があるわけでもなければ、相手も立場上そうしなければならないのだろうという理解は明らかにものごとの本質からは大きく外れています。私が経験した場合には明らかにその上役の人格的な問題があったわけです。でもそのことに誰も触れようとしないのです。社内のほとんどの人びとがそれがわかっているにもかかわらずです。もちろん被害を受けている当の本人自体が被害という認識から逃げているので周囲はもうそれ以上言うこともできないのです。

長い期間にわたって抑圧された環境下の中では、抑圧されている人びとは自然に自己の尊厳を守るために‘置き換え’や‘すり替え’ができる思考になってしまっています。これは気づかなければ、そのまま過ごしているわけです。でも意識、あるいは無意識の領域には明らかにストレスがたまっているはずですので、管理職の中で急にうつになったり、バタッと倒れるような人が出てくるのだと思います。

職場での人格的な問題がある人びとによる理不尽な言動はいつの間にか立場的な行為として置き換えがなされ、容認、あるいは賛同されるようになってしまっているケースがあります。オフィシャルでない場ではその本質(地位でなく人格問題であること)は話し合われているのですが、オフィシャルな場ではまったくその話は息を潜めるのです。すなわち本質と向き合う力が極端に弱まってしまうのです。ですから、そういう場合、結果的にアンオフィシャルな裏工作でそういった問題を処理する作業が進んでいくのです。裏工作であったとしても問題解決ができればいいのですが、それさえもできない組織はもう致命的です。唯一そういった組織がことの本質に向き合う機会ができるとしたら、そういった問題が社会的に露呈される場合です。

産業界にしても教育界にしてもそういった問題の本質がわかる人は数多くいるのですが、それと向き合う力、あるいはそれを容易にできるシステムづくりが急がれます。企業ならコンプライアンス違反、教育界は体罰、いじめ問題、家庭ならDVから具体的な事件になって初めて問題の本質が明らかになるのです。

組織はなかなか本音と建前で動きますからとても難しい面がありますが、少なくとも個人においては自分の思考がものごとの本質から目を背けて自分の言動を正当化して周囲から信頼を失うということだけは避けたいものです。

2013年5月14日火曜日

健康は自分を過信せずに疑心暗鬼でちょうどいい!

つい最近、女優の天海祐希さんが軽い心筋梗塞で舞台を降板されました。結構40代50代でもあるいは半ば年齢に関係なくそういった病気になってしまうことを聞きます。現在のそういった病気と言っていいのか、症状はいついかなるときに起きるかわかりません。予想がつくようなものならば、ある程度予防もできるのですが、そういうわけでもないようです。

もちろん目に見えて不摂生をしている人は当然そういったリスクは高いでしょうが、全くそういう予兆もなくとても元気そうに見える人が急にそういう症状になるとホントにビックリしてしまいます。平成8年度から厚労省(当時は厚生省)が成人病とは呼ばずに「生活習慣病」と呼ぶと定めてそういう疾患は全く減る気配がありません。やはり人間って努力することはなかなか難しいのでしょう。どうしてもラクなほうに流されてしまいます。煙草やアルコールといったこともなかなかやめるのはたいへんです。挙句の果てには、どうせ死ぬなら浴びるほど飲んでなんて悪態つく人も出てきます。

昔の病気は結核や肺炎など感染症による病気が多かったのですが、今は人にうつらない病気、すなわち自分が自分の体を管理しきれずに起こってしまう病気なのです。癌が死因のトップですが、心臓疾患、脳疾患と自分が自分で守るしかない病気ばかりです。生活習慣にその病気の原因があるというのですが、具体的には食生活や運動不足、そしてストレスが原因と言われています。この中でいちばん重要なのはやはりストレスであると思います。なぜならからだの問題はそのベースとなる心の部分が大きく影響しているからです。

心が楽しくなければ、運動する気力さえ起こりません。またストレスが多いと食生活も乱れてきます。どうしてもアルコールの量が増えたり、煙草の本数が増えたりします。私は煙草は吸ったことがないのでよく分かりませんが、やはりストレスがあると吸うことで落ち着くようです。ではストレスはどういうときに最も多く感じるのでしょうか。それは忙しくてたいへんなときでしょうか、あるいは逆にやることがないけど時間を過ごさないといけないというときでしょうか。私の経験上から申し上げると間違いなく後者のほうです。実際、多くの年長者の方にお会いするとストレスが多い方は一人暮らしであまり外出しない人です。逆に元気な人は家にじっとしていないで、たくさんの友だちと会ったり趣味を満喫している人です。

会社でも要職についていて寝る間も惜しんで仕事をしていた人がそのポストを外れたり、引退したりすると一気に老け込むという話があります。ラクな仕事は決してラクではなくて精神的に負担を与えたりします。そのことに気づかない自分がいるとしたらそれほど恐ろしいことはありません。いつも心配ばかりする神経症や強迫症のような思考を持つことはもちろんいいわけはありませんが、自分はストレスはまったくないと思い込んでいるのも致命的だなと思うのです。

職場はすべての人が自分と気のあった仲間で居心地がいいということはまずないはずです。やはり自分が気づかないところでさりげなく神経を使っていたりすることが往々にしてあるのです。大丈夫なようでも知らずのうちに神経が過敏になっているようなシチュエーションが会社や職場にはたくさんあります。自分の心と同時に職場環境などもよく俯瞰したり、客観視してなるべくストレスを減らす工夫をすることが重要かと思います。結論から申しますと自分に過信する人はリスクが大きいのです。仕事ができて健康も自信があるという人こそ、今一度自分を見直し、疑心暗鬼なくらいに心とからだをいたわる時間をもったりすることが必要かと思います。

2013年5月7日火曜日

GWも終わっていつもの日常

今日はゴールデンウィークが終わって最初の出勤日という人がほとんどではないでしょうか。今回の長期休暇は皆さんはいかがお過ごしだったでしょうか。どうしても休みが長く続くと普段の生活のリズムを取り戻すのに苦労してしまうというのが実際のところではないでしょうか。

楽しい時間というのはあっという間に過ぎてしまうもので、ファンタジーの世界からいきなり現実へと引き戻される残酷さも感じざるをえません。でも仕事が大好きで、仕事自体が非現実的な楽しみの中にある人は休むという概念すらないかもしれません。誰しもそういう生活は希望するのでしょうが、現実そうは行きません。趣味が仕事になった人も、そこにノルマやプレッシャーがかかるようになるともともと好きだったこともホントに仕事と化して面白みがなくなるなんてこともあります。趣味はずっと続けるためには仕事にしないという方法もありますが、趣味が実益を兼ねればこれほどラッキーなことはありません。

逆に仕事を趣味化できればこれほど面白いことはありません。ただ問題は、仕事が趣味になった人、さらに言えば仕事しか関心がない仕事人間というのは、それはそれで周囲はひいていたりします。会社に実績にしか関心がない上司のもとで働くということを考えてみてください。いっしょに飲みに行ってもいつの間にか仕事の話でひとり熱く語りはじめる、こういう上司や同僚はどうですか。もちろんご意見はさまざまあるでしょうが、私的には面白くない人に見えてしまいます。オンとオフと使い分けれない人、あるいは家庭やプライベートではあまり必要とされていないのかななんて憶測ではありますがそう判断してしまいます。

仕事一辺倒で熱く語る人は語りまくるあまり周囲が見えていないケースが往々としてあります。こういう人はワーカホリックに近い状態だと、とにかく部下や他の同僚の状況は見えていないので彼らから徐々に距離を置かれたりします。今企業でもうつという診断される人びとが増えていますが、特に休み明けの日は要注意です。ブルーマンデイ(月曜病)とかサザエさん症候群、笑点症候群なるものがありますが、普段の日常生活が結構大変なほど休み明けの現実に引き戻される日は拒否したいという気持ちが起こってきます。

特に営業系で上からのノルマや目標が高くプレッシャーの多いような職場は精神的にたいへんかもしれません。できる上司はどういうアプローチがいいのか。休み明けの会社の朝礼ではファンタジーの世界から現実に引き戻す儀式?に匹敵するかもしれませんが、その際、ソフトランディングにするかハードランディングにするかは朝礼を担当する経営者、上司の話ひとつにかかっています。前者の場合はスムーズに業務の遂行につながりますが、後者の場合は消化不良気味なカタチで業務に突入という感じでしょうか。

こういう話をすると、旧い価値観の人びとは、会社は学校じゃないとか、仕事はお遊びじゃないなんて言い出す人も結構いるでしょう。でもその管理手法のおかげで会社は多くの精神疾患の病人を出すに至っています。センスのある人なら、朝礼の場で、あるいは職場の昼休みとかには休みはどうだったかとか聞いて楽しかった思い出話を傾聴するくらいの心のゆとりは欲しいところです。みなさんの職場はどうですか。ひさびさの会社はどうでしょう。シーンとして会話のない職場になっていないですか。

PSIとしては自分軸ということを主軸に据えています。仕事も趣味もプライベートも自分の意思を中心として楽しみながら過ごしたいものです。また変わらない日常の中にファンタジックな楽しい時間を埋め込みながら、ストレスをためず人生のかけがえのない時間をエンジョイしてまいりましょう。そのためにも短期の楽しみと同時に、より長いスパン、すなわち人生をかけてやり遂げたいことも目標に据えてそれもひとつひとつ積み上げていく楽しみも持ちながら生活するととても有意義です。

人間は忙しいほど、悩みは減っていきます。忙しい、忙しいと言っている人ほどそう大して忙しくなかったりします。ホントに忙しい人は、充実していると言います。精神疾患になりやすい環境はやることが少なく、考える時間が多いということです。それで私としては自分に短期、中期、長期、人生というスパンでにいろいろ課題を課してやっています。そしてその課題はすべて人生の目標に集約されるようにプログラムするのです。仕事でも趣味でも、また学業やプライベートでもそういうふうにしていくととても充実した人生設計になって生き生き人生を送ることが可能です。

2013年4月23日火曜日

ネットワークビジネスに利用される成功哲学について

成功哲学、人生で何度か関心をもったり、あるいは心酔してはまっていたという人もいるでしょう。特にネットワークビジネスなど体験した人(現在進行形の人もいるかもしれませんが)などは自分を鼓舞するためにいつもそういった本を携帯されたり愛読されたりしたのではないでしょうか。

PSIでは人生は成功するというより、一人ひとりがしあわせになるということに主眼を置いているので、あまり成功するといったことに傾倒することはありません。もちろん成功することが悪でもなければ、成功哲学をまやかしだなんて言うつもりもありませんし、とても人間のモチベーションを上げるには要点をついた考え方が多くあると思います。ただ世の中でホントに成功しているなと思える人で成功哲学を推奨する人はほとんど見たことがありません。

経営者という観点では、たとえばユニクロの柳井会長はドラッガーの信奉者ですし、成功していると言われる経営者の多くはMBAホルダーはいても、成功哲学の話をするのを聞いたことがないのです。経営学と成功哲学はどこが違うのでしょうか。

成功哲学というとネットワークビジネス(以降MLM[マルチレベルマーケティングの略]と表示)やせいぜいベンチャーで成功するというイメージがあるのですが、それで成功したと言われる人たちと経営者として成功した人たちを比べるとまったく世界が違うように思います。前者は一攫千金的な感覚があるのに対して、後者は地道に確実に基盤を築いて成功を収めるというイメージがあります。二項対論的に言うのは避けたいところですが、コントラスト効果でわかりやすくするためにあえてお許し願いたいのですが、前者はギラギラしている感じで、後者は案外地味であったりします。

よくテレビに優良企業の経営者とか出てくると、あまりにイメージと違って拍子抜けすることがあるのですが、私が特に感じるのは少年のような無邪気な気持ちを持っていてなおかつゆったりとしたゆとりを感じるのです。あまり忙しないような人は見かけないように思います。まあ実際はわかりませんが。そして経営者でテンションがメチャメチャ高くて、まくしたてるように喋る人もいません。逆にインタビュアーが社長、そんなんでいいんですかとびっくりするくらい、ゆったりしていたりします。特にうまく会社や社員を回している経営者は権限移譲や社員のポテンシャルとうまく引き出してあまり自分でせかせかと働きまくる人はいないように思います。

MLMなどでは希少性を狙ったアプローチで人びとを動かし、ビジネスへと駆り立てます。そこに成功哲学的思想を植えつけ、成功=善、行動しない=悪としてある面、やる気のなさを排除しにかかります。そしてプライドをいじられた人はついついその話術に乗って行動してしまうのです。でもMLMで成功できる人はほんの一握りの人です。多くの人びとは成功できないのです。でも成功できないからこそ、みんなMLMにはまるのです。すなわち「儲からない」の裏返しは「金持ちになりたい」です。ギャンブルがなぜやめられないか、それは儲からないからです。儲かれば、さらに儲けたいと欲が出ますし、儲からなければ儲かるまでやる、すなわち負け続けるという構図です。

ネットワーカーがジャンキーになるのは簡単です。勝てないギャンブルがやり続ける要因になっていて、さらに勝てるはずだというギャンブルに向かわせるのです。したがって、ネットワーカーは相当上部組織である程度の安定収入でなければ、下部組織の人びとはつねに渡り鳥のようにいろんなMLBを渡り歩くのです。MLBは基本的には本社だけが潤い、末端の販売組織の人びとはつねに新陳代謝を繰り返し、上層部も下層部も残る人はMLBが宗教化してその会社と商材に対する信仰が定着した人びとだけです。そういうMLBの経営トップはほとんどがカリスマがあり教祖と化しているケースが多々あります。

もともとナポレオンヒルも成功した実業家をリサーチすることで成功法則を導き出したわけですが、いつの間にかそういった考え方が成功できないシステムにうまく利用されてしまっています。成功哲学も本来は違った観点でつくられたのかもしれませんが、実際は成功哲学、自己啓発セミナーといったものも多くはマユツバものとしてとらえられている節があります。

MLMでは成功哲学を武器として、いわゆる緊張系のモチベーションをあおり、短期で高額なリターンをウリにして人びとをビジネスに駆り立てます。ちょうど瞬間湯沸かし器のようなもので、急激にお湯が沸いて、なかなか冷めないのです。そのあとは客観的に見たらどう考えても無理なのに、それを維持しようと必死になります。ただやり続ける人もいますが、やめる人も多いのです。なぜかと言うと緊張系のモチベーションで一時的にテンションをあげてガーッと実績をあげる手法です。すなわち短距離走ばかりやりつづけることを要求されるのです。さすがに限界を感じてやめる人も多くいます。ただやめた人びとが多く、その人たちがそのMLMの会社の世間での評価をつくっているわけですから、当然MLMはいいイメージになるわけがありません。私はかねてよりCS(顧客満足)よりES(従業員満足)と訴えてきましたが、それは従業員やその家族が市場でもあるからなのです。

成功哲学を利用したMLMのような外発的動機づけ、すなわち金持ちになるということを前面に押し出して人を動かすという観点は長続きしようがありません。世間に認められる会社経営はより内発的動機づけ、すなわち社会貢献やそれを実践している誇りなどがベースにあって、地道な努力の結果として富の蓄積がなされていくのです。すなわち金儲けはどこまでも結果でしかないのです。結果自体を露骨に目的としてしまったMLMはマネーゲームの様相にならざるをえないのです。こういうことを言うと金儲けが悪のように言うのは間違っていると言う人が必ず出てきます。悪だとは言いませんが、動機が金儲けになれば結果は破たんです。自己中心的動機は自分を滅ぼすのです。利他主義に徹するときにいつの間にか豊かになっているというのが経営であり、成功哲学を利用するMLMの違いだと思います。

もちろん断っておきますが、すべてのMLMが悪いというつもりはありません。ただ人間の心理を巧みに利用するビジネスはどう考えても、コンプライアンス的観点からも疑問を呈せざるえないことも事実です。成功哲学は個人的に自分を鼓舞するのに利用し、あまり人をあおって動かすことに使うのはリスクを感じます。いずれにせよ、PSIは経済的に成功するかどうかという以前に、人間として社会の一員として人に迷惑をかけず、自分自身もしあわせになる(である)ということを中心的テーマにしていますので、くれぐれも甘い言葉には気をつけていきたいものです。

2013年4月16日火曜日

PSIのコンセプト

今日はこのブログの基本的な信条を話したいと思います。実はこのブログを全世界の方々が読んでいただいていることに対してとても驚くと同時に感動しています。PSIブログで訴えている考え方は決して日本人だけでなく、人間として生まれてきたという観点で国を越えてあらゆる人びとに理解してもらえる内容であると確信しています。

PSIをつくったもともとのコンセプトはとても簡単です。それは人間として生まれたからには人間としての尊厳が守られて、一人ひとりの思考や感情、行動が自分以外の他者(組織も含めて)によって蹂躙されてはいけないという動機からです。すなわち一人ひとりの人生は何ごとにも替えがたい尊いものです。そのかけがえのない人生が他人や組織、社会や国家などの影響によって、決して損なわれてはいけないという切なる思いがベースとなって、一人ひとりが幸せな人生を送るということです。

それらを実現するためには、自分軸や自然体の自分らしい生き方を推奨してますし、それをまた実践するためのノウハウに似た内容を書き連ねてあるわけです。もちろん読む人によってはあまりに持論に満ち満ちていて思い込みの強い文章であるととらえられるかもしれません。もちろんそれも覚悟で書いているわけです。

私は日本人だから、当然テレビなどを見ていると世間一般の日本人としての認識をもってそこに帰属意識も強くあります。だからといって他の外国人を偏見で見るわけにはいきません。韓国人はこうで、日本人はこうだという話はもちろんしますが、それは国とか民族という大きな枠組みで見ているに他なりません。歴史の話になるとアジア圏だけでもみんなぶつかるようになってしまいます。テレビではよく韓国、中国の人びとあるいは世界中の人びとを参席させて、ああでもないこうでもないと議論しているのを見ます。半ば喧嘩みたいになっていてまたそれをウリにしているところもあります。

やはり人間は育った祖国や故郷の風土や考え方がしっかり根付いていますから、その部分は否定することも捨て去ることもできません。ただそれにとらわれすぎて自分の人生を位置づけるとしたらとてももったいないと思います。たとえば、過去に戦争等でいろいろ被害を受けたとかあるいは加害者の立場であるとか、それは国としてはもう仕方がない歴史的事実としてありますが、もしそれが個人レベルにおいても国家次元のレベルでつねに思考の根底にあるとしたら、自分自身の人生を有意義に暮らすという観点とはほど遠いものになってしまうと思います。

PSIは自分自身をそういったすべてから解放してホントの幸せを実現するということがとても重要だと思います。愛国心を植えつけられるあまり、外国に対して排他主義的意識をもってしまうとしたらそれは意味合いが違ってくると思います。日本人は基本的に欧米に対して一目置いて、アジア圏では少々傲慢な意識があります。韓国、中国の人びとは日本に対して被害者意識を強く持っている人が多いのも事実です。そういった内容は国家レベルにおいてはいろいろ論じられる内容であるかもしれませんが、そういったことが一個人の思考や感情を大きく左右し互いに壁をつくっていてはせっかくの人生がもったいないと感じます。

PSIはすべての環境的なすり込みに対して、ホントにそういった考え方をもっていていいのか、人間のひとりとして自分の人生においてどうなのかと自分を客観視して最高にハッピーな人生をそれぞれ構築していきましょうということを提案しています。もちろん直接体験したことや幼いころから教育を受けて身についていることからは簡単に脱却することは困難です。国家や民族レベルで傲慢な優越意識や、被害者意識、あるいは逆に加害者意識、それらが個人レベルにすり込まれるときには、そういった個人は人間としての本来の幸せを実現するにはとてもマイナス要因であると思わざるをえません。

もちろん自分が所属する組織や社会、国家、大きくは国際社会の法的秩序は遵守しつつも個人は人間としての尊厳が守られるべきであり、何よりも一度しかない(生まれ変わりがなければ)かけがえのない人生を悔いのないように生きるための知恵と勇気をもって暮らしたいものです。そのための道具をPSIブログで発信続けたいと思います。