今日は私の経験をふまえて、リーダーとは最低こうあるべきだという一つの提案をしていきたいと思います。世の中に完璧なリーダーというのは、いまだにはっきりと言及することはできません。いろんな学者がいろんなタイプのリーダー像というものを提示し、いろんな経営者が経験にもとづく持論で理想的なリーダー像というものを言及しています。それでも万民が納得するようなリーダー像というのは特定できないのではと思います。
知的で論理的、いつも冷静な判断ができるリーダーもいれば、逆に感情的で人間臭いがみんながインスパイア(行き過ぎると洗脳とも言われる可能性もありますが)されるようなカリスマ性のあるリーダーもいます。
ただ日本では自分で起業した創業者でなければ、どちらかといえば独裁的に力づくで組織を引っ張っていくようなパワーのあるリーダーより、人間関係のバランスをとりながら上に上がっていった生え抜きのリーダーが多いように感じます。なぜなら前者のようなタイプは組織の中でいつのまにか浮いた存在になり、昇進のレースからは外される可能性が大きいと思うからです。もちろんそういった人材をうまく組織のトップまで上り詰められる組織は相当組織の上位者たちや同僚においても器のある人たち、あるいは学習することでそういった人材の活用を善しと認めた組織なのかもしれません。
いずれにせよ、上司との関係、部下との関係、そして同僚との関係そして取引先からの印象までもたいへんいい評価を得ているバランス感覚のいい人が組織においてはヒエラルキーを上りつめていく人であると考えてもあながち間違いではないと思います。
ところで今日のタイトルは`リーダーはだれよりも熱く、したたかたれ!’というものです。当然一見するとワンマンで独裁的、わがままでやりたいことは絶対引かずにやり遂げるというイメージがあるかもしれません。当然、だれよりも熱くというのはそういう要素が往々にしてありますが、したたかという観点はやはり空気を読んでバランスよくという話になるのです。当然両方の要素が重要ですが、今日は後者のバランス型のリーダーが陥る問題に関して言及したいと思います。
もともと組織のトップになる人というのはまず業績も重要ですが、そのベースとして、上司として部下から信頼されているというのは絶対必要条件であると思います。部下からの信頼もなく、自分の上位者へのおべっかばかりやっている人はいずれ化けの皮がはがれ、長期政権はむずかしいというのは想像に難くありません。すなわちより上位者が認める前に部下から、同僚から信頼を得られない人はまず上司、組織のトップ、すなわちリーダーとしてふさわしくないだろうというのはだれも否定しないことと思います。
例をあげると、最近数字選択式宝くじのCMがドラマ仕立てになっていてとてもわかりやすいかと思います。ご存じない方はYou Tubeに動画が出ていますので参考にしてみてください。柳場敏郎氏と妻夫木聡氏が演じる上司部下の話です。簡単に紹介すると、尊敬していた上司が役員たちの前で自分の非を認めないことで部下である自分が責任を追及されるのではという危機に立たされるという流れです。最終的には主任であった部下が部長に昇進し、部長が部長職を解かれるというオチがついているのですが。
まあここまでわかりやすく露骨な内容はあまりないかとは思いますが、あのCMをみてかなり共感している人は多いはずです。たとえば上司の指示で行っていた業務であるにもかかわらず、問題が起こったときそんな指示をしたことはないと上司が上役に弁明したり、ひどい場合は部下に対して自分が指示したにもかかわらず、そこまでやれとは言ってないとか苦し紛れの弁解をするといったこともあります。実際、私も部下の立場でそういう体験は何度かしてきました。そのため、問題が起こる可能性が想定される場合はまず、
①反対の意思表示をしてやらない。
②それでもやる場合、全責任をちゃんと上司がとることを確約させる。
絶対にやる価値がなく無駄、あるいは上司が責任を全く持たないが頑固でやらせようとする場合、
③やると言っておいて絶対にやらない。あるいはやってダメだったという証拠をつくりあげる。
などケースバイケースで要領よく対処することをおススメします。
思いつきが激しい上司の場合は特に注意しなければならないのは、指示しておいてホントに指示したことを忘れてしまい、関心さえもっていないといったケースもあります。少なくとも上司が自分より年上であるならば、間違いなく自分より頑固で感情で動いたり忘れることも多いということです。そう思っていれば、自ずと部下の立場でどう対処したらいいかはわかってきます。
とにかく企業にかかわらず、あらゆる組織にはそういった理不尽なことがたくさんあります。頑張っている部下社員が受ける理不尽なことを総合して言うと、いわゆる
‘梯子をはずされる’
問題です。
このことは上司部下という関係だけでなく、人間関係においてよくあることです。私の経験から言うと同僚の上司への不満を上司へ代弁してあげたところ、同僚の問題もあって、結局上司と私がバトるカタチで問題が膨れ上がり、同僚はほとぼりが冷めた頃、自分にも非があると上司と直接的なケンカもせず和解という流れでした。そのことをしった他の社員も私に同情的で彼に対しては不信感をつのらせる結果となってしまいました。
またSNSなどでも似たような事例があります。私が友人のコメントをフォローしたところ、彼は私に賛同、ところがそのあと彼の友人(女性)が私に反論し、彼は手の裏返したように彼女をフォローし私をいさめるコメントを出し、私がブチ切れるということがありました。私は彼の一貫性のないというか人の意見に簡単に左右されコロコロ考えが変わっていくところに不信感をもち、その後一切フォローすることは辞めました。
基本的に私は理不尽なことには当事者以上に熱くなってなんとかしてあげたいという意識が強いのです。結構やりすぎて問題も起きましたが、自分の信念に基づいての行動だったのでまったく後悔していません。ただいろんなことを学習したことは無鉄砲な行動を抑制する要素となっていることは否めません。別に保身に走ったり、保守的になるということはないので、よく言えばよりしたたかになった、もっとよく考えて行動するようになったと自分では考えています。
また感情的になりやすい人やちょっとしたことにすぐひっかかってムカついたりキレたりする人で、気をつけなければならないのはその感情から出る言葉に振り回されてしまうリスクを回避しながら対応しなければなりません。感情から出る言葉というのはとてもパワーを持つのです。したがって真に受けて行動すれば、その人が受けるほどのものではなかったということがあります。これも経験上言えることですが、ものすごく感情的になった人の話を直接聞くと、素直な人はとんでもない理不尽なことで許せないと当事者といっしょにあるいはその人以上に熱くなってしまうことがあります。でも気をつけなければならないことは感情的になりやすい人は時間を置くと冷めやすいということがあります。すなわち瞬間湯沸かし器のように熱くなりますが、保温ポットのように高い温度を維持することができないのです。実はそれで本人はバランスをとっているのです。当然沸騰した状態にずっとあるとそのうち血圧が上がってブチッと血管が切れてしまうかもしれません。だいたい感情的な人は熱しやすく冷めやすい性格になっていると言っても過言ではありません。
そういう感情的で熱しやすく冷めやすい性格の人には、いっしょになって感情的になったりしないということがとても重要です。すぐ人を振り回してしまうし、素直な人は振り回されてしまいます。そういう状況になるとわかっている人はそういう人からは距離を置いて、必要な時だけ対応するという状況になっている人が多いと考えられます。実はそういうことが明確にわかると周囲はさりげなく周囲は距離を置いたり、ひどい場合信頼を失っていたりします。
‘梯子を外される’問題はあらゆる人間関係において起こるのですが、これが上司部下の関係において起これば最悪です。リーダーとしての信頼は地に落ちてしまいます。
ここまで部下あるいは同僚との関係において言及してきましたが、それはどこまでもその部下やフォロワーの気持ちや立場が理解できなければ上司としてリーダーとしての役割を果たせないからです。すなわちリーダーは少なくともフォロワー以上の情熱とそれを持続させる力を持ちえていなければリーダーで居続けることは不可能だということを言いたいのです。フォロワーがリーダー以上の情熱を持っていれば、もうすでにリーダー・フォロワー関係は逆転しています。
リーダーがリーダーの役割を果たし続けるためにはだれよりも熱く燃えていなければなりません。それは感情的で瞬間湯沸かし器ではダメなのです。時間とともに冷めるような状況では部下はだれもついて行かないし、フォロワーは興ざめして、フォローすることを辞めてしまうでしょう。瞬間湯沸かし器ではなく時間をかけて沸かす、すなわち考えに考え抜いて結論を出すことですぐに冷めないモチベーションを維持することができるようになります。付け焼刃の状態ではリーダーとしての役割はすぐ果たせなくなってしまいます。そう考えると世の中死に体の経営者がどれほど多いことでしょうか。イノベーションも起こせず同じことの繰り返し、考え抜く力さえ持ちえていない雇われ経営者も多いのです。
とにかくリーダーは基本的にだれよりも熱く、したたかでいるべきです。
もちろん考えに考え抜いて出した結論に対する自信と確信、そしてだれよりも熱く、その目的達成に対する執着心もだれよりも熱くなければなりません。ただフォロワー、部下の中には瞬間湯沸かし器のような短距離走はうまいが持久走は苦手(モチベーションが長く続かない、テンションが高く忍耐力が欠如)といった人もいます。そういう人がフォロワーとしている場合の注意点は、決してその人の言葉やつくりだす状況に振り回されないということが重要です。一見するとリーダー以上にやる気満々であったりします。さらにリーダーがだしたアイディアや方向性に付加してリーダーが予想していない方向へ行ってしまうことさえあります。これは要注意です。良い方向に行く場合はいいのですが、気分で動くので、まったく無駄だったりあるいはマイナスの結果をもたらすことさえあります。とにかく瞬間湯沸かし器の部下、社員、フォロワーは組織の一時的なカンフル剤として使用はしても使い過ぎると副作用が出てくるということも肝に銘じておくべきです。できることなら持久走ができる人につくりあげていくことがベストですが、なかなか性格や癖というのは簡単に変えられませんので、その特徴をよくつかんで生かすということが大切です。
みなさんがもし会社の経営者、上司、師匠などリーダーたる立場にあるとしたら組織の成員のだれよりも熱く、したたかに行動できていますか?熱くあることと、それを持続することこの両面がだれよりも優れているとしたら当然リーダーとして居続けても大丈夫だと思います。でももしそうでなかったらリーダーとしては交替すべき時期に来ているのかもしれません。不幸にもそのことに気づけなければすでに信頼のない死に体状態かもしれません。以前は進言する社員が多かったが、今はみんな素直に大人しくなったという状況の場合、すでにそういった状態にあるのかもしれません。みなさんがどういった立場にあるかにかかわらず、ぜひ参考になさってみてください。
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2014年4月19日土曜日
2014年4月7日月曜日
マルチタスクな人生のすすめ
最近の若者を見ているとどうもひとつのことに集中はするが、いろいろなことを複合的に行うことはなかなか難しいように見受けられます。もちろん人にもよるが、その傾向は社会の随所にみられるのではないかと思います。
例えば食事ひとつ例に出すと、ごはんを主食としておかずを順繰りに食べるというのではなく、一種類のおかずを食べきって次のおかずに行くという流れです。極端な場合、ごはんだけ食べたり、味噌汁は最後に飲み干すといった具合にいろいろな味を複合的に味わうのではなくて、ひとつの味が終わって、次の味というような食べ方なのです。
こういった食べ方をさせないためには、カレーライスやなべ物などすでにごちゃ混ぜに入っている食事がいいかもしれません。韓国料理のビビンパ(ビビダ【混ぜる】+パプ【ごはん】)は食材の陰陽の要素をすべて混ぜることで調和させて食べるにはちょうどいいかもしれません。
私もこういったことを自分の子どもに見つけて、おやっと思ったのですが、他の人に聞いても結構そういった食べ方をしているというのを聞きました。子どもに言わせると味が混ざっておかしくなると言います。ごはんと食べる分には問題ないと思うのですが、そうでもないようです。
また私の学生時代は、受験勉強と恋愛は別物でした。もちろん、片方に偏りすぎるともう一方はおろそかになる、あるいはうまくバランスよくやっていたものです。さらには二人で勉強したりして(ほとんど口実ではあるのですが)仲良くやっていたものです。ところが最近の学生はひとつのことが完結しないと次の(他の)ことができないという傾向にあるように感じます。恋愛しない若者に訊くと、めんどくさいとか同性と遊んでいるほうが楽しいなんていう答えも返ってきます。確かに男女の関係というのは簡単ではないし、リスクもあることは間違いないわけです。でも人間は互いに異性を求めていくという本能的な部分は人間の三大欲にもあるように誰しも備わっているはずです。それをより合理的、効率的側面からだけ考えていくならば、恋愛や結婚というものは時間の無駄と考える人も出てくるかもしれません。
もうすでに若者という観点で取り上げた時点でジェネレーションギャップがあるのだとは思いますが、ちょっとここらへんで一休みして、おじさんといっしょに非効率的で非合理的な人生の側面というものも考えてみるのはどうでしょうか?実際、エネルギッシュで元気のいい人というのは仕事もプライベートも充実しているというイメージがありますし、みなさんの周りの人びとはどうでしょうか?食べる力、恋する(異性を食べる?)力、寝る(睡眠をむさぼる)力、これらはある面非効率なことがらかもしれませんが、人生においては必要不可欠なことがらであると思います。実はこの三点を私たちの先祖があきらめずやってきてくれたおかげで今の私たちがいるわけです。
健康でない人はこの三点がめんどくさいのです。あるいはすべてにおいてバランスを欠いた行動になっているはずです。少食であまり食べられない、あるいは間食みたいな食事しかできない。逆に過食で間食は別腹状態で肥満になってしまったとか。また健康でないと寝るのもぐっすり熟睡というのができません。当然そういった生活がきちんとできれば、恋愛に対しても意欲的になります。当然、現代社会は結婚も出産もそういった選択をしないということも一つの考え方であると思いますし、それは尊重されてしかるべきとは思います。ただこの欲望はある面人間関係のベースにあると言っても過言ではないと私は考えています。異性とのつきあいが得意な人は当然同性や年齢差を越えた人間関係も上手です。もちろん育った環境等によって対象として苦手意識のある人はいるでしょう。でもそういったことを克服する活力も持ち合わせていると思います。
ちょっと恋愛の話に偏りましたが、今回のテーマは“マルチタスクな人生のすすめ”です。マルチタスクというのはパソコンなどで複数のタスク(仕事、プロセス)を同時に立ち上げておいて切り替えながら実行していくことを言います。したがって人生もひとつのことだけを行うのではなく、いろんなことに人生を費やすことによってより充実して楽しい人生が送れますよという提案です。もちろん私はこれだけでいいという方に無理やりいろんなことをしましょうと促すつもりはありませんが・・・。
会社組織に不満があっていつもそういう意識で日々を過ごしている人は、まさにマルチタスクな人生にしていくことでそういった意識からの脱却を図ることができます。すなわち、会社での仕事は自分の人生の一部であって、あるいは一要素であって自分の人生の支柱は別にあるということが明確に分かれば精神的にとても楽になります。また会社人間、ひいては社畜となってしまうリスクから抜け出せることができるのです。私たちは社会の制度の中で生きているので、そこから抜け出すということは困難ですが、自分がコミットしたいことを複数持つということは可能です。ある人は仕事以外に家庭であったり、子どもであったりするわけです。ただ過剰にそこに依存するような状況になると家族をスポイルしてしまう可能性もあります。特に仕事で満足できない部分をそちらで穴埋めしようとするならば間違いなく問題がおきるはずです。仕事に対しての不満は仕事で解消することが大切です。仕事は家庭に持ち込まないなどという人がいますが、仕事や会社でのさまざまな出来事に不満がある人はその内容を仕事の分野で解消できなければ、家庭にその意識(思念)を持ちこんでしまいそれは家族に伝わってしまいます。
会社組織内で解消あるいは実現できる内容であれば、そこで頑張ればいいわけですし、そこでは実現は困難ということになれば、組織外でつくりあげていけばいいわけです。すなわち複数のタスクを楽しくこなせばいいのです。さらに会社での業務をこなしながらも自分の好きなタスク達成にその時間や思考を費やすということもできるのです。もちろん若くて元気のいい人なら仕事、恋愛、趣味などさまざまなタスクを楽しめばいいと思います。会社組織や上司、同僚、部下などへの不満がつねにあって、人生が楽しくないという人は、それだけに依存状態にあるひとです。タスクが多い人は嫌なことがあってもさほどダメージはないのです。なぜなら楽しいことがそれ以上に多かったりすれば嫌なことが意識に占める割合が少ないからです。
いつも忙しいと言っている人は実は忙しくない人です。嫌なことばかりやらされている(実際は自分で選んでやっているわけですが)人はやっていることが好きではないので時間も長く、自分の大切な時間を占有されているようで自分の時間がない、すなわち忙しいと感じるわけです。ホントに忙しい人はタスクがたくさんある人ですが、そういう人は楽しいことをたくさんしているので、忙しいという認識はなく、充実していると感じているはずです。
自分軸を確立していくためには、自分がどうなのかということを常にチェックすることをおススメしています。タスク自体が自分の意思、すなわちやりたくてやっていることなのか、やりたくなくて嫌々やらされているとおもっているのかで大きく違ってきます。結果もそうでしょうが、なによりやっている時間は自分の貴重な人生の時間であって、それらが後者の意識だとものすごくもったいないのです。少なくとも自分にとってメリットがあるタスクの遂行の仕方を考えるのがいいかと思います。たとえば、ある会議が全く無意味だと思うようなものであったとするならば、私は会議の参加者を調べて人脈づくりに活用します。会議の内容自体はどうでもいいわけです。そこに参加している彼(彼女)がどういった考えなのか、プレゼンのスキルは持ち合わせているのかとか・・・。まあこれは一例ですが、会社の業務という一側面だけで動いていてはとてももったいないのです。仕事(嫌な仕事であっても)を通じてなにか得ることができるものはないか探せば、仕事はすでに複数のタスクが実行されているということなのです。取引先に可愛い彼女がいて、うまくしとめたなんていう話を聞きますが、それも複数のタスクを同時にこなしていたということに他なりません。その人は彼女にあえるのが楽しくて仕事自体はモノにならなくても楽しく通っていたことでしょう。
会社人間、社畜からの脱却は物理的な要素以上に精神的なとらえ方が大きいのです。会社に生活の糧を依存しているという状況ではそれは無理と言われるかもしれませんが、逆に会社があることでもっと楽しいタスクも見つけられると意識転換すれば、見えてこなかったことがらも見えてきて楽しいタスクが増えていくのではないでしょうか?そうなれば人生さらに充実して楽しい時間をすごせるに違いありません。まず自分がやりたいこと、したいことを書き出してそのために自分の置かれた環境をどう利用するか、活用するか考えてみましょう。きっといままで嫌だと思っていたことがらまでも大きな利用価値のあるものに変わるかもしれませんよ。案外見ているのに見えてなかったものというのはたくさんあると思います。それこそセレンディピティ(掘り出し物)と言える価値を見出すことができれば人生、大逆転も夢ではありません。そのためにはいろんなことに関心をもって、中途半端でもいいのです。とにかくいろんなことをやって見なければ探すこともできません。理性などという小奇麗な言葉に惑わされず、本性のおもむくままに行動してみることも人生においてはとても意義深いものであると思います。
例えば食事ひとつ例に出すと、ごはんを主食としておかずを順繰りに食べるというのではなく、一種類のおかずを食べきって次のおかずに行くという流れです。極端な場合、ごはんだけ食べたり、味噌汁は最後に飲み干すといった具合にいろいろな味を複合的に味わうのではなくて、ひとつの味が終わって、次の味というような食べ方なのです。
こういった食べ方をさせないためには、カレーライスやなべ物などすでにごちゃ混ぜに入っている食事がいいかもしれません。韓国料理のビビンパ(ビビダ【混ぜる】+パプ【ごはん】)は食材の陰陽の要素をすべて混ぜることで調和させて食べるにはちょうどいいかもしれません。
私もこういったことを自分の子どもに見つけて、おやっと思ったのですが、他の人に聞いても結構そういった食べ方をしているというのを聞きました。子どもに言わせると味が混ざっておかしくなると言います。ごはんと食べる分には問題ないと思うのですが、そうでもないようです。
また私の学生時代は、受験勉強と恋愛は別物でした。もちろん、片方に偏りすぎるともう一方はおろそかになる、あるいはうまくバランスよくやっていたものです。さらには二人で勉強したりして(ほとんど口実ではあるのですが)仲良くやっていたものです。ところが最近の学生はひとつのことが完結しないと次の(他の)ことができないという傾向にあるように感じます。恋愛しない若者に訊くと、めんどくさいとか同性と遊んでいるほうが楽しいなんていう答えも返ってきます。確かに男女の関係というのは簡単ではないし、リスクもあることは間違いないわけです。でも人間は互いに異性を求めていくという本能的な部分は人間の三大欲にもあるように誰しも備わっているはずです。それをより合理的、効率的側面からだけ考えていくならば、恋愛や結婚というものは時間の無駄と考える人も出てくるかもしれません。
もうすでに若者という観点で取り上げた時点でジェネレーションギャップがあるのだとは思いますが、ちょっとここらへんで一休みして、おじさんといっしょに非効率的で非合理的な人生の側面というものも考えてみるのはどうでしょうか?実際、エネルギッシュで元気のいい人というのは仕事もプライベートも充実しているというイメージがありますし、みなさんの周りの人びとはどうでしょうか?食べる力、恋する(異性を食べる?)力、寝る(睡眠をむさぼる)力、これらはある面非効率なことがらかもしれませんが、人生においては必要不可欠なことがらであると思います。実はこの三点を私たちの先祖があきらめずやってきてくれたおかげで今の私たちがいるわけです。
健康でない人はこの三点がめんどくさいのです。あるいはすべてにおいてバランスを欠いた行動になっているはずです。少食であまり食べられない、あるいは間食みたいな食事しかできない。逆に過食で間食は別腹状態で肥満になってしまったとか。また健康でないと寝るのもぐっすり熟睡というのができません。当然そういった生活がきちんとできれば、恋愛に対しても意欲的になります。当然、現代社会は結婚も出産もそういった選択をしないということも一つの考え方であると思いますし、それは尊重されてしかるべきとは思います。ただこの欲望はある面人間関係のベースにあると言っても過言ではないと私は考えています。異性とのつきあいが得意な人は当然同性や年齢差を越えた人間関係も上手です。もちろん育った環境等によって対象として苦手意識のある人はいるでしょう。でもそういったことを克服する活力も持ち合わせていると思います。
ちょっと恋愛の話に偏りましたが、今回のテーマは“マルチタスクな人生のすすめ”です。マルチタスクというのはパソコンなどで複数のタスク(仕事、プロセス)を同時に立ち上げておいて切り替えながら実行していくことを言います。したがって人生もひとつのことだけを行うのではなく、いろんなことに人生を費やすことによってより充実して楽しい人生が送れますよという提案です。もちろん私はこれだけでいいという方に無理やりいろんなことをしましょうと促すつもりはありませんが・・・。
会社組織に不満があっていつもそういう意識で日々を過ごしている人は、まさにマルチタスクな人生にしていくことでそういった意識からの脱却を図ることができます。すなわち、会社での仕事は自分の人生の一部であって、あるいは一要素であって自分の人生の支柱は別にあるということが明確に分かれば精神的にとても楽になります。また会社人間、ひいては社畜となってしまうリスクから抜け出せることができるのです。私たちは社会の制度の中で生きているので、そこから抜け出すということは困難ですが、自分がコミットしたいことを複数持つということは可能です。ある人は仕事以外に家庭であったり、子どもであったりするわけです。ただ過剰にそこに依存するような状況になると家族をスポイルしてしまう可能性もあります。特に仕事で満足できない部分をそちらで穴埋めしようとするならば間違いなく問題がおきるはずです。仕事に対しての不満は仕事で解消することが大切です。仕事は家庭に持ち込まないなどという人がいますが、仕事や会社でのさまざまな出来事に不満がある人はその内容を仕事の分野で解消できなければ、家庭にその意識(思念)を持ちこんでしまいそれは家族に伝わってしまいます。
会社組織内で解消あるいは実現できる内容であれば、そこで頑張ればいいわけですし、そこでは実現は困難ということになれば、組織外でつくりあげていけばいいわけです。すなわち複数のタスクを楽しくこなせばいいのです。さらに会社での業務をこなしながらも自分の好きなタスク達成にその時間や思考を費やすということもできるのです。もちろん若くて元気のいい人なら仕事、恋愛、趣味などさまざまなタスクを楽しめばいいと思います。会社組織や上司、同僚、部下などへの不満がつねにあって、人生が楽しくないという人は、それだけに依存状態にあるひとです。タスクが多い人は嫌なことがあってもさほどダメージはないのです。なぜなら楽しいことがそれ以上に多かったりすれば嫌なことが意識に占める割合が少ないからです。
いつも忙しいと言っている人は実は忙しくない人です。嫌なことばかりやらされている(実際は自分で選んでやっているわけですが)人はやっていることが好きではないので時間も長く、自分の大切な時間を占有されているようで自分の時間がない、すなわち忙しいと感じるわけです。ホントに忙しい人はタスクがたくさんある人ですが、そういう人は楽しいことをたくさんしているので、忙しいという認識はなく、充実していると感じているはずです。
自分軸を確立していくためには、自分がどうなのかということを常にチェックすることをおススメしています。タスク自体が自分の意思、すなわちやりたくてやっていることなのか、やりたくなくて嫌々やらされているとおもっているのかで大きく違ってきます。結果もそうでしょうが、なによりやっている時間は自分の貴重な人生の時間であって、それらが後者の意識だとものすごくもったいないのです。少なくとも自分にとってメリットがあるタスクの遂行の仕方を考えるのがいいかと思います。たとえば、ある会議が全く無意味だと思うようなものであったとするならば、私は会議の参加者を調べて人脈づくりに活用します。会議の内容自体はどうでもいいわけです。そこに参加している彼(彼女)がどういった考えなのか、プレゼンのスキルは持ち合わせているのかとか・・・。まあこれは一例ですが、会社の業務という一側面だけで動いていてはとてももったいないのです。仕事(嫌な仕事であっても)を通じてなにか得ることができるものはないか探せば、仕事はすでに複数のタスクが実行されているということなのです。取引先に可愛い彼女がいて、うまくしとめたなんていう話を聞きますが、それも複数のタスクを同時にこなしていたということに他なりません。その人は彼女にあえるのが楽しくて仕事自体はモノにならなくても楽しく通っていたことでしょう。
会社人間、社畜からの脱却は物理的な要素以上に精神的なとらえ方が大きいのです。会社に生活の糧を依存しているという状況ではそれは無理と言われるかもしれませんが、逆に会社があることでもっと楽しいタスクも見つけられると意識転換すれば、見えてこなかったことがらも見えてきて楽しいタスクが増えていくのではないでしょうか?そうなれば人生さらに充実して楽しい時間をすごせるに違いありません。まず自分がやりたいこと、したいことを書き出してそのために自分の置かれた環境をどう利用するか、活用するか考えてみましょう。きっといままで嫌だと思っていたことがらまでも大きな利用価値のあるものに変わるかもしれませんよ。案外見ているのに見えてなかったものというのはたくさんあると思います。それこそセレンディピティ(掘り出し物)と言える価値を見出すことができれば人生、大逆転も夢ではありません。そのためにはいろんなことに関心をもって、中途半端でもいいのです。とにかくいろんなことをやって見なければ探すこともできません。理性などという小奇麗な言葉に惑わされず、本性のおもむくままに行動してみることも人生においてはとても意義深いものであると思います。
2014年3月25日火曜日
日本人にグローバル化の覚悟はあるのか?
つい先日、Jリーグ浦和レッズのサポーターが“Japanese Only”との横断幕をかかげ無観客試合という罰則が科せられたニュースがありました。このことは日本人の情緒としては理解できなくもないのですが、決して容認されるべきことではないと思います。この横断幕をかかげた人びとの考えというものははっきりとはわからないので何とも言えないのですが、もし理解できるとしたら日本人特有の全体主義的一体感をそこなう存在に対する排他的思考です。これは日本が島国という限られた空間の中で培われた和の文化に根ざしていると言っても過言ではないと思います。
日本人は概して全体の空気を読み、それにそった言動を暗黙の了解として強要されているのです。あえて強要としましたが、その空気に従わない人はその場にいれなくなるからです。同調圧力と言ってもいいかもしれません。自然にその環境から離脱するか、そのまま居座ると村八分といった状況に置かれてしまうのです。
空気を読むという考え方は日本人特有の考え方であったり、文化であるように思います。臨機応変に行動するとか気を利かすなどこういったことは日本に限ったことではありませんが、空気を読んで行動するというのは日本社会という独特の環境、日本人のDNAの中に深く根付いたものであると私は考えています。
空気を読むとはどういうことか?苫米地英人氏は空気は目に見えないし、実際には読めないものだと言われています。空気という言葉をそのまま空気と解釈するとそのとおりですが、空気を読むというのは相手や周囲の言動(声の大きさ、高さ、・・・、言葉の内容、表情、行動・・・など)総合してそれらの背後に隠れている(出ている場合もある)本音の部分を解釈、理解して行動するということだと思うのです。
最近はこういった能力はコミュニケーションの濃密さの差から世代的にもずいぶんと差があることと思います。また日本も地域によってずいぶんと違います。それはテレビでも県民ごとの特徴をまとめた番組など見るとそういったことを大いに感じることができます。まあそれでも同じ日本人(外国籍でも日本に生まれ育った人)には誰でも空気を読むということは個人差はあれ、ほとんどの人が身についているのではないでしょうか。
ただ外国の方がやはり日本に来て居住するようになるとどうしても空気を読むというのがなかなか難しいといったことを聞くことがあります。当然日本の文化を完璧理解して行動しろというのはかなり酷な話だとも思います。もちろん日本に来た外国人の多くは日本の文化を学び、日本の様式に従って行動するようにしています。郷に入りては郷に従え(All roads leads to Rome.)は世界共通?の考え方ですから当然日本のやり方に従ってもらうというのは当然と考えてもいいかもしれません。
ここで問題はなんでしょうか。多くの外国人が日本人に対して口をそろえて言うことは、日本人はわかりにくいということです。どのようにしてほしいか、はっきりと意思表示ができていない問題です。すなわち空気を読んで、理解して、察して行動しろという話なのです。でもこれを外国人に要求するのは、はっきりと無理です。これは決して外国人を見下すということではなく日本人特有の文化であるということを日本人が理解しなければならないという話です。
日本人は言いにくいことを直接言うことがとても困難です。やはりコミュニケーションスキルが足りないということだと思います。はっきりと言わず理解してもらおうというのはどう考えても甘えの構造にしか思えません。そうでなければ外国人への対応の仕方がわかっていないという知識不足に他なりません。
基本的に日本人は表向き平和主義で、ぶつかることを極度に嫌います。ところが裏では自分たちの思い通りいかないことに対して愚痴や不満がとても多いのです。そしてそういったことを共有する人びとだけで集まり不満の対象になっている人のいないところでいろいろと言い合うのです。こういった経験がありました。ある会社で外国人が働いていて、やはり日本人社員と考え方に大きな溝ができているのです。もう完全に彼は浮いた存在になってしまったのです。実際彼自身頑固で自分の考えを曲げないこともあってますます日本人の社員からは煙たい存在になってしまったのです。でも私は裏でこそこそというのは嫌なので直接日本人を代弁してはっきりと言いました。それでしょっちゅうバトルに発展してしまうのです。
そういう状況が長く続くとどうなるかというと、はっきり言う私は過激な人、外国人の彼には他の日本人は大人しい人、でも私は過激な日本人という印象になってしまうのです。日本人は概して沈黙を守りながら自分たちの空気にそぐわない行動をする人に対してNOをつきつける傾向にあります。これは今後の日本のグローバル化には大きな障害となってたちはだかるでしょう。すでにもう日本は鎖国をしたほうがいいのではないかといった論調の人もいます。でも日本は日本だけで将来成り立つことができるのでしょうか?いつまでも同じ穴のムジナでいていいのでしょうか?
日本人に欠如していることは和の文化に根差した(極端にぶつかることを嫌う、ちゃんと相手と向き合えない)空気を読んで理解することを過剰に要求してしまうことだと思います。こういったことを明確に理解した上で日本人はもう一歩レベルアップした対応ができないといけないと思います。すなわちちゃんと相手に向き合って、相手が空気を読んで行動できる人なのかどうか、また空気を読まないことは悪いことではなく、相手の文化になかったことであるという理解の下にちゃんと言葉や行動でしっかり伝達するという作業ができるようになることだと思います。
安倍政権になって、国家自体が右傾化していると懸念されている昨今、日本文化至上主義みたいなグローバル化とはまったく逆の方向にいってしまうような思考に陥らないように私たちはよく考えて、コミュニケーションをさらに深めていく必要があるように思います。日本人はそれこそ日本を取り巻く環境をよく理解してさらに卑屈になったり、排他的になるのではなく、より多様な文化を受け入れる器を養うべく成長していかなければならないのではないかと思うものです。
日本人は概して全体の空気を読み、それにそった言動を暗黙の了解として強要されているのです。あえて強要としましたが、その空気に従わない人はその場にいれなくなるからです。同調圧力と言ってもいいかもしれません。自然にその環境から離脱するか、そのまま居座ると村八分といった状況に置かれてしまうのです。
空気を読むという考え方は日本人特有の考え方であったり、文化であるように思います。臨機応変に行動するとか気を利かすなどこういったことは日本に限ったことではありませんが、空気を読んで行動するというのは日本社会という独特の環境、日本人のDNAの中に深く根付いたものであると私は考えています。
空気を読むとはどういうことか?苫米地英人氏は空気は目に見えないし、実際には読めないものだと言われています。空気という言葉をそのまま空気と解釈するとそのとおりですが、空気を読むというのは相手や周囲の言動(声の大きさ、高さ、・・・、言葉の内容、表情、行動・・・など)総合してそれらの背後に隠れている(出ている場合もある)本音の部分を解釈、理解して行動するということだと思うのです。
最近はこういった能力はコミュニケーションの濃密さの差から世代的にもずいぶんと差があることと思います。また日本も地域によってずいぶんと違います。それはテレビでも県民ごとの特徴をまとめた番組など見るとそういったことを大いに感じることができます。まあそれでも同じ日本人(外国籍でも日本に生まれ育った人)には誰でも空気を読むということは個人差はあれ、ほとんどの人が身についているのではないでしょうか。
ただ外国の方がやはり日本に来て居住するようになるとどうしても空気を読むというのがなかなか難しいといったことを聞くことがあります。当然日本の文化を完璧理解して行動しろというのはかなり酷な話だとも思います。もちろん日本に来た外国人の多くは日本の文化を学び、日本の様式に従って行動するようにしています。郷に入りては郷に従え(All roads leads to Rome.)は世界共通?の考え方ですから当然日本のやり方に従ってもらうというのは当然と考えてもいいかもしれません。
ここで問題はなんでしょうか。多くの外国人が日本人に対して口をそろえて言うことは、日本人はわかりにくいということです。どのようにしてほしいか、はっきりと意思表示ができていない問題です。すなわち空気を読んで、理解して、察して行動しろという話なのです。でもこれを外国人に要求するのは、はっきりと無理です。これは決して外国人を見下すということではなく日本人特有の文化であるということを日本人が理解しなければならないという話です。
日本人は言いにくいことを直接言うことがとても困難です。やはりコミュニケーションスキルが足りないということだと思います。はっきりと言わず理解してもらおうというのはどう考えても甘えの構造にしか思えません。そうでなければ外国人への対応の仕方がわかっていないという知識不足に他なりません。
基本的に日本人は表向き平和主義で、ぶつかることを極度に嫌います。ところが裏では自分たちの思い通りいかないことに対して愚痴や不満がとても多いのです。そしてそういったことを共有する人びとだけで集まり不満の対象になっている人のいないところでいろいろと言い合うのです。こういった経験がありました。ある会社で外国人が働いていて、やはり日本人社員と考え方に大きな溝ができているのです。もう完全に彼は浮いた存在になってしまったのです。実際彼自身頑固で自分の考えを曲げないこともあってますます日本人の社員からは煙たい存在になってしまったのです。でも私は裏でこそこそというのは嫌なので直接日本人を代弁してはっきりと言いました。それでしょっちゅうバトルに発展してしまうのです。
そういう状況が長く続くとどうなるかというと、はっきり言う私は過激な人、外国人の彼には他の日本人は大人しい人、でも私は過激な日本人という印象になってしまうのです。日本人は概して沈黙を守りながら自分たちの空気にそぐわない行動をする人に対してNOをつきつける傾向にあります。これは今後の日本のグローバル化には大きな障害となってたちはだかるでしょう。すでにもう日本は鎖国をしたほうがいいのではないかといった論調の人もいます。でも日本は日本だけで将来成り立つことができるのでしょうか?いつまでも同じ穴のムジナでいていいのでしょうか?
日本人に欠如していることは和の文化に根差した(極端にぶつかることを嫌う、ちゃんと相手と向き合えない)空気を読んで理解することを過剰に要求してしまうことだと思います。こういったことを明確に理解した上で日本人はもう一歩レベルアップした対応ができないといけないと思います。すなわちちゃんと相手に向き合って、相手が空気を読んで行動できる人なのかどうか、また空気を読まないことは悪いことではなく、相手の文化になかったことであるという理解の下にちゃんと言葉や行動でしっかり伝達するという作業ができるようになることだと思います。
安倍政権になって、国家自体が右傾化していると懸念されている昨今、日本文化至上主義みたいなグローバル化とはまったく逆の方向にいってしまうような思考に陥らないように私たちはよく考えて、コミュニケーションをさらに深めていく必要があるように思います。日本人はそれこそ日本を取り巻く環境をよく理解してさらに卑屈になったり、排他的になるのではなく、より多様な文化を受け入れる器を養うべく成長していかなければならないのではないかと思うものです。
2013年10月4日金曜日
うまくいくコミュニケーションの方法①
家庭においても、会社においても、あるいはそれ以外の人間関係すべてにおいて、コミュニケーションは、すべてがうまくいくためのベースとなるようなものです。それは対面であれ、電話であれ、メール、SNSにいたるまでコミュニケーションがとてもたいせつになってきます。
また相手によっても対応を変えなければならないケースもあります。特に外国人には日本の空気(行間)を読むような理解はできません。それは日本に長年住んでいる外国人でもわかりにくいと言われる人もいます。それくらい難しい感覚的なもので、日本人は日本で育って、日本人のDNAとしてすでに染みついているから理解できるのかもしれません。
ただ最近の若い世代は徐々にそういった感覚は減っているように思えます。それは良いとか悪いといったものではなくて、日本の家庭や社会の環境が大きく変わってきたということが言えるのではないかと思います。欧米の個人主義の影響や、戦後、日本がどんどん豊かになり、大家族から核家族、そして夫婦だけ、その次にはお一人様での生活も増えてきています。現在は祖父母と同居ということも減って二世帯住宅は常識です。また高齢化により高齢者は施設に入ることに抵抗感がない時代になってきました。介護というカタチで家族に負担をかけたくないという認識は高齢者に共通する意識になりつつあり、また子どもたちもそれが最善であるという意識もかなりあります。介護を社会の手にゆだねるということは決して家族の愛情問題とは関係がないのです。むしろ互いに負担をかけないようにすることが愛情であるというひとつのパラダイムシフトがなされているのだと思います。
夫婦関係もそうです。ある程度年齢を重ね、子どもたちもすべて独立すると、夫婦だけの時間が増えてきます。そして夫(あるいは妻)が定年退職をして家庭にいつもいるようになるとストレスであったりします。そうなると妻(あるいは夫)が外に出かけるようになってバランスをとるようになるのです。もちろん夫婦は最初の3~4年くらいはいいのですが、そのあとは夫婦だけの愛情というより子どもを見ながら父母としての役割で家庭を維持しているとも言えます。夫婦は他人です。最初は惹かれあっても、実際生活を共にするようになると、相手の悪いところもどんどん目に入ってきて、半ば好きという気持ちを妥協とかあきらめの気持ちが上回ってきたり、夫婦ってこういうもんだと冷めた精神状態になっていくことさえあります。でもそこに子どもの存在があると緩衝剤のような役割を果たしてくれるのです。
問題は夫婦仲が悪くなりすぎて、子どもに依存してしまうと、完全に子どもの自立を阻害し成長を遅らせたり、歪んだ情緒を育んでしまうことにもなりかねません。妻が家事、夫が仕事(あるいはその逆)に集中すればある面役割を分け、それぞれが集中できることを持つことで夫婦関係を維持することに大きな効果があります。また一般的には新婚時代はダブルベッド、子どもができてはそれぞれのベッド、そして子どもが独立したら部屋も別々なんてのもよくある話です。それでバランスをとって家庭というカタチが維持されていたりします。
歳をとっても仲のいい夫婦というのは新婚当初の夫婦の愛情関係とは違うモチベーションで形成されていると考えられます。詳しく聞けば、だいたいの人びとが口々に言われることは
「いろいろあったのよ~。」
という話です。いろんな心境を通過して熟成しきった関係であると言えるかもしれません。
フラット化している社会の中で夫婦が夫婦としての関係を維持し続けるためには、どこかで妥協したり折り合いをつけながら暮らしていくことであるのかもしれません。現代社会は離婚ということが驚くようなことではなくなったのにはやはり男女同権やジェンダーフリーといった風潮、そしてそのベースはやはり世界がフラット化していることにあると思います。男尊女卑の時代はやはり女性が我慢していたのです。あるいは社会の風土自体からも、女性というものは男性に屈して追従するものというすり込みが女性になされていたこともあると思います。
昔、夫婦が夫婦関係を解消せず維持し続けるには、どうしても片方が我慢したり妥協したりということで成立していたということがいえるかもしれません。現在夫婦関係を維持し続けている人びとは間違いなく、我慢や妥協を互いにしているか、あるいはそれをしないでもいいくらいの距離を互いの間に置いているかのどちらかであると言えます。とにかく、他人であった人同士が夫婦になるということは自分以外の価値観を受け入れるということで、それは妥協以外の何ものでもありません。そして妥協を減らすには価値観がなるべく近い人を選ぶということも方法です。
分かりやすく言うと最後まで妥協できなかった人が離婚を選択するのです。それはそれで一つの選択肢ですから、決して悪いことではないと思います。あるヨーロッパの国のように、最初から結婚という形態にこだわらないという方法もあります。そうすることで良好なパートナー関係が維持できたり、婚外子という概念をなくし同じ権利を与えることで、少子化問題も克服できる方向になっているということも聞きます。今は男女というカテゴリーでだけ人を分けられないのと同じように今後結婚という観点もさまざまな形態が発生していくと考えられます。
最終的には人間はひとりの存在で、種の保存や生活していく上で便宜上、夫婦、家族という形態をなしているのだと思えば、さまざまな選択肢がそこには考えることができそうです。いずれにせよ、人間関係は(その差こそあれ)価値観の違う人同士が交流をもつということなので、そこにはどうしても精神的な触れ合いにおいてさまざまな影響をうけるわけです。すなわち人間関係とはストレスが生じやすく、それを極力いいカタチに転化する方法がコミュニケーションスキルということになると思います。
また相手によっても対応を変えなければならないケースもあります。特に外国人には日本の空気(行間)を読むような理解はできません。それは日本に長年住んでいる外国人でもわかりにくいと言われる人もいます。それくらい難しい感覚的なもので、日本人は日本で育って、日本人のDNAとしてすでに染みついているから理解できるのかもしれません。
ただ最近の若い世代は徐々にそういった感覚は減っているように思えます。それは良いとか悪いといったものではなくて、日本の家庭や社会の環境が大きく変わってきたということが言えるのではないかと思います。欧米の個人主義の影響や、戦後、日本がどんどん豊かになり、大家族から核家族、そして夫婦だけ、その次にはお一人様での生活も増えてきています。現在は祖父母と同居ということも減って二世帯住宅は常識です。また高齢化により高齢者は施設に入ることに抵抗感がない時代になってきました。介護というカタチで家族に負担をかけたくないという認識は高齢者に共通する意識になりつつあり、また子どもたちもそれが最善であるという意識もかなりあります。介護を社会の手にゆだねるということは決して家族の愛情問題とは関係がないのです。むしろ互いに負担をかけないようにすることが愛情であるというひとつのパラダイムシフトがなされているのだと思います。
夫婦関係もそうです。ある程度年齢を重ね、子どもたちもすべて独立すると、夫婦だけの時間が増えてきます。そして夫(あるいは妻)が定年退職をして家庭にいつもいるようになるとストレスであったりします。そうなると妻(あるいは夫)が外に出かけるようになってバランスをとるようになるのです。もちろん夫婦は最初の3~4年くらいはいいのですが、そのあとは夫婦だけの愛情というより子どもを見ながら父母としての役割で家庭を維持しているとも言えます。夫婦は他人です。最初は惹かれあっても、実際生活を共にするようになると、相手の悪いところもどんどん目に入ってきて、半ば好きという気持ちを妥協とかあきらめの気持ちが上回ってきたり、夫婦ってこういうもんだと冷めた精神状態になっていくことさえあります。でもそこに子どもの存在があると緩衝剤のような役割を果たしてくれるのです。
問題は夫婦仲が悪くなりすぎて、子どもに依存してしまうと、完全に子どもの自立を阻害し成長を遅らせたり、歪んだ情緒を育んでしまうことにもなりかねません。妻が家事、夫が仕事(あるいはその逆)に集中すればある面役割を分け、それぞれが集中できることを持つことで夫婦関係を維持することに大きな効果があります。また一般的には新婚時代はダブルベッド、子どもができてはそれぞれのベッド、そして子どもが独立したら部屋も別々なんてのもよくある話です。それでバランスをとって家庭というカタチが維持されていたりします。
歳をとっても仲のいい夫婦というのは新婚当初の夫婦の愛情関係とは違うモチベーションで形成されていると考えられます。詳しく聞けば、だいたいの人びとが口々に言われることは
「いろいろあったのよ~。」
という話です。いろんな心境を通過して熟成しきった関係であると言えるかもしれません。
フラット化している社会の中で夫婦が夫婦としての関係を維持し続けるためには、どこかで妥協したり折り合いをつけながら暮らしていくことであるのかもしれません。現代社会は離婚ということが驚くようなことではなくなったのにはやはり男女同権やジェンダーフリーといった風潮、そしてそのベースはやはり世界がフラット化していることにあると思います。男尊女卑の時代はやはり女性が我慢していたのです。あるいは社会の風土自体からも、女性というものは男性に屈して追従するものというすり込みが女性になされていたこともあると思います。
昔、夫婦が夫婦関係を解消せず維持し続けるには、どうしても片方が我慢したり妥協したりということで成立していたということがいえるかもしれません。現在夫婦関係を維持し続けている人びとは間違いなく、我慢や妥協を互いにしているか、あるいはそれをしないでもいいくらいの距離を互いの間に置いているかのどちらかであると言えます。とにかく、他人であった人同士が夫婦になるということは自分以外の価値観を受け入れるということで、それは妥協以外の何ものでもありません。そして妥協を減らすには価値観がなるべく近い人を選ぶということも方法です。
分かりやすく言うと最後まで妥協できなかった人が離婚を選択するのです。それはそれで一つの選択肢ですから、決して悪いことではないと思います。あるヨーロッパの国のように、最初から結婚という形態にこだわらないという方法もあります。そうすることで良好なパートナー関係が維持できたり、婚外子という概念をなくし同じ権利を与えることで、少子化問題も克服できる方向になっているということも聞きます。今は男女というカテゴリーでだけ人を分けられないのと同じように今後結婚という観点もさまざまな形態が発生していくと考えられます。
最終的には人間はひとりの存在で、種の保存や生活していく上で便宜上、夫婦、家族という形態をなしているのだと思えば、さまざまな選択肢がそこには考えることができそうです。いずれにせよ、人間関係は(その差こそあれ)価値観の違う人同士が交流をもつということなので、そこにはどうしても精神的な触れ合いにおいてさまざまな影響をうけるわけです。すなわち人間関係とはストレスが生じやすく、それを極力いいカタチに転化する方法がコミュニケーションスキルということになると思います。
ラベル:
コミュニケーション,
会社経営(組織運営),
学習,
教育,
自分軸(PSI的フレームワーク),
販売、営業
2013年9月9日月曜日
東京五輪招致決定にみる日本のチームワーク
はじめに、日本人として東京のオリンピック・パラリンピック招致決定をうれしく思います。そして安倍首相、猪瀬都知事はじめ関係者の方々への労をねぎらいたいと思います。
最初、日本は他の二国に比べ、自国での五輪招致に対する支持率がとても低く、実際のところ私もそんなに意識はありませんでした。でもそれは国民の多くがおそらく3.11の復興もままならない状態で自国の復興がまず最初ではないかという意識があったからではないかと思います。
でも実際、五輪招致に名乗りを上げたのは、3.11以前ですし、さまざまな苦難があったとはいえ、五輪招致にかぎつけた日本の意地というか底力はたいしたものだと思います。何をやるにも賛否両論あるものです。どんなにいいことだと思ってもそう思わない人もいます。100%一致する政策もなければ、100%好かれる人格の人もいません。ただ、私としては五輪招致に関する活動はどうも東北の人びとの気持ちを置いて行っているようで、いまひとつ納得できないものもあったのですが、最終的には安倍首相や猪瀬都知事の東北の人びとへの配慮の言葉があったことで救われる気持ちになり、今回の五輪招致をいっしょに祝いたいという気持ちに変わりました。
ということで前置きはこれくらいにして、今回の五輪招致の活動のために組織された人びとのチームワークの素晴らしさには敬服しました。もちろんプレゼンの素晴らしさはともかく、それぞれがそれぞれの立場で役割をうまく果たした結果であったと思います。そこにはプレゼン能力や折衝能力といったスキルもさることながら、それのベースとなった目に見えない日本人の文化や価値観があったことは間違いないと思います。そしてそれらをうまく引き出し、アドバイスした五輪招致デザイナーの存在は大きいでしょう。
今回のこのチームはまさに五輪招致というビジョンをもとに寄せ集められた個性派集団です。しかしそのチームワークの素晴らしさはさまざまなメディアを通じて伝わってきました。それはよっぽどうがった見方をしないかぎり、国民の多くがそう感じたのではないかと思います。会社組織のような集団ではない、やはりスポーツらしい全員が一丸となって取り組むという姿勢が随所にみられました。やはり目標が明確でそれにむかっていかに勝利を勝ち取るかという意識、そしてチームの構成員のすべてのモチベーションにあまり格差が見られない状態なのだと感じました。
会社組織や学校の運動会などでも、リンゲルマン効果(集団になると手抜きが発生する)が見られるというのはありますが、今回のチームではそういう感じを受けません。それは東京招致が決定した瞬間、みんなが抱き合って涙した姿にそう感じました。もちろん、これはあくまで私が感じたことを述べているにすぎないので断定はできませんが……。
会社や学校という集団、組織も寄せ集めです。今回のチームが寄せ集めと言っても会社や学校とは違います。会社や学校のビジョンは全体目標以上に個人の幸せにも主眼が置かれています。そしてその二者は必ずしも一致はしていないのです。会社や学校の方針に従わない社員や学生も存在します。でも少なくともこの度のチームにはそういう人はいないはずです。それは日本人というアイデンティティをベースにしているという点も大きいと思います。そこに五輪招致という共通のビジョンを掲げてひとつになれるという集団凝集性がたいへん高い組織です。
普通、集団凝集性が高く、ものすごい一体感をもって動くような組織というと権威主義的である面ビジョンも明確で、組織のトップの独裁色も強いイメージがあります。特に反社会的団体やカルト教団のような組織はとくにそういう傾向が強いと思われます。でも集団凝集性が強いのにそのように権威的にもならなければ、独裁者の存在もいないという状況でそれぞれが役割を果たし、結果も出したというケースです。
これは私はスポーツのチームにみるチームワークは本質的に会社の組織構造とは違うのだということを感じるのです。すなわちひとつの結果を出すために役割分担で形成された組織で、そこに権威的な要素はほとんど見られません。それぞれの役割に対する敬意は払いながらもうまく連係プレーを行い、そこに主従関係という人間関係は皆無と言えます。またビジョンだけで一つになれるかというと、やはりそこには日本人という共通のアイデンティティと日本という国がもつパラダイムが根底にあることは否めません。
いずれにせよ、組織としてのあり方としてかなり理想的なカタチを見ることができたということは今後の組織づくりに参考になる要素がたくさんあったと思います。
最初、日本は他の二国に比べ、自国での五輪招致に対する支持率がとても低く、実際のところ私もそんなに意識はありませんでした。でもそれは国民の多くがおそらく3.11の復興もままならない状態で自国の復興がまず最初ではないかという意識があったからではないかと思います。
でも実際、五輪招致に名乗りを上げたのは、3.11以前ですし、さまざまな苦難があったとはいえ、五輪招致にかぎつけた日本の意地というか底力はたいしたものだと思います。何をやるにも賛否両論あるものです。どんなにいいことだと思ってもそう思わない人もいます。100%一致する政策もなければ、100%好かれる人格の人もいません。ただ、私としては五輪招致に関する活動はどうも東北の人びとの気持ちを置いて行っているようで、いまひとつ納得できないものもあったのですが、最終的には安倍首相や猪瀬都知事の東北の人びとへの配慮の言葉があったことで救われる気持ちになり、今回の五輪招致をいっしょに祝いたいという気持ちに変わりました。
ということで前置きはこれくらいにして、今回の五輪招致の活動のために組織された人びとのチームワークの素晴らしさには敬服しました。もちろんプレゼンの素晴らしさはともかく、それぞれがそれぞれの立場で役割をうまく果たした結果であったと思います。そこにはプレゼン能力や折衝能力といったスキルもさることながら、それのベースとなった目に見えない日本人の文化や価値観があったことは間違いないと思います。そしてそれらをうまく引き出し、アドバイスした五輪招致デザイナーの存在は大きいでしょう。
今回のこのチームはまさに五輪招致というビジョンをもとに寄せ集められた個性派集団です。しかしそのチームワークの素晴らしさはさまざまなメディアを通じて伝わってきました。それはよっぽどうがった見方をしないかぎり、国民の多くがそう感じたのではないかと思います。会社組織のような集団ではない、やはりスポーツらしい全員が一丸となって取り組むという姿勢が随所にみられました。やはり目標が明確でそれにむかっていかに勝利を勝ち取るかという意識、そしてチームの構成員のすべてのモチベーションにあまり格差が見られない状態なのだと感じました。
会社組織や学校の運動会などでも、リンゲルマン効果(集団になると手抜きが発生する)が見られるというのはありますが、今回のチームではそういう感じを受けません。それは東京招致が決定した瞬間、みんなが抱き合って涙した姿にそう感じました。もちろん、これはあくまで私が感じたことを述べているにすぎないので断定はできませんが……。
会社や学校という集団、組織も寄せ集めです。今回のチームが寄せ集めと言っても会社や学校とは違います。会社や学校のビジョンは全体目標以上に個人の幸せにも主眼が置かれています。そしてその二者は必ずしも一致はしていないのです。会社や学校の方針に従わない社員や学生も存在します。でも少なくともこの度のチームにはそういう人はいないはずです。それは日本人というアイデンティティをベースにしているという点も大きいと思います。そこに五輪招致という共通のビジョンを掲げてひとつになれるという集団凝集性がたいへん高い組織です。
普通、集団凝集性が高く、ものすごい一体感をもって動くような組織というと権威主義的である面ビジョンも明確で、組織のトップの独裁色も強いイメージがあります。特に反社会的団体やカルト教団のような組織はとくにそういう傾向が強いと思われます。でも集団凝集性が強いのにそのように権威的にもならなければ、独裁者の存在もいないという状況でそれぞれが役割を果たし、結果も出したというケースです。
これは私はスポーツのチームにみるチームワークは本質的に会社の組織構造とは違うのだということを感じるのです。すなわちひとつの結果を出すために役割分担で形成された組織で、そこに権威的な要素はほとんど見られません。それぞれの役割に対する敬意は払いながらもうまく連係プレーを行い、そこに主従関係という人間関係は皆無と言えます。またビジョンだけで一つになれるかというと、やはりそこには日本人という共通のアイデンティティと日本という国がもつパラダイムが根底にあることは否めません。
いずれにせよ、組織としてのあり方としてかなり理想的なカタチを見ることができたということは今後の組織づくりに参考になる要素がたくさんあったと思います。
2013年9月4日水曜日
自虐ネタの及ぼす影響
お笑いブームはテレビ業界ではすでに完全に定着し、ゴールデンタイムはドラマ以上に人気を博しています。お笑いがなぜウケるかというとやはり現実に言えない本音を笑いを交えていうことで、市民権を得ているのだと思います。すなわち普段言えない上司や権力者に対する無礼講を笑いというオブラートに包みながら行っていると言えるかもしれません。映画でもドラマでもお笑いでさえ、権力者はすべて悪で権力も富もない庶民が善です。世界的にも圧倒的に後者がメジョリティで前者がマイノリティです。世界も企業もあらゆる組織は働き蜂と女王蜂の構図のように一部の権力者によって握られているといっても過言ではありません。それでも日本は世界の中で格差が少ないほうでかなりフラットな社会と言えるのではと思います。
お笑いの本質は、世の中の秩序と逆のケースを見せることもあるのかもしれません。また自虐ネタはまともに見える人ほど効果的です。外見はしっかりしたアナウンサーや芸能人で稼ぎもいいのに私生活はたいへんな恐妻家でかなりたいへんな状況に置かれているということになれば、とても面白いのです。今までの羨望のまなざしから同情のまなざしが向けられ、親近感も好感度もアップしたりします。お笑い芸人は変に思われたり、ブスやブ男に見られるとそれをウリにして結構おいしいわけです。とにかくお笑いという分野はとても奥が深く、なおかつ簡単に定義するのも困難なものではないかと思います。
最近はそういった観点で自虐ネタは視聴者の人気を得る手っ取り早いアイテムです。恐妻家で妻に奴隷のように支配される夫というのは結構面白い話ではありますが、度が過ぎるとあまりいいイメージはもたれなくなります。挙句の果ては恐妻家とレッテルを貼られ、ふがいない男として見られ続けるというリスクもあります。恐妻家になるには妻という第三者の存在があります。妻も芸能人の妻だからと割り切れるならいいのですが、毎回ネタにされてとんでもない鬼嫁というレッテルを貼られるのはあまりいい気はしないでしょう。
昔その手の自虐ネタを連発していた上司がして、結局は部下全員に三下り半をつきつけられるという結果になってしまいました。よく考えると家庭で妻ひとりに手をこまねいている人が部下を管理できるはずがありません。やはりできる上司は会社だけでなく、プライベートも充実しているものです。家庭での不満がたまっていると会社でいい仕事もできるはずはないと考えてしまうのはごく普通のとらえ方だと思います。ということで自虐ネタというのは使い方を間違えたり、度が過ぎるとマイナスに働くこともあるのだということを認識しておくのがいいかと思います。
したがって自虐ネタでもマイナスに働かないように使うのはどうしたらいいのかと考えてみました。それはやはり相手に対して、優越感をあたえ、自分に対しては同情を引き出す、それも自然に、ウザくとられないような方法がいいのではということなのです。昔はよく愚妻とか愚息といった言葉がありましたが、結局自分を含めた家族を引き下げることで相手や相手の家族や境遇を善しとさせてあげるということがありました。日本人の美徳とするところの謙虚、謙遜という観点で相手を持ち上げ気分よくしてあげるというのがコツです。もちろんこれは性格のいい人にするというのが前提で、性格が悪い人はそのまま傲慢になってしまう場合があるので要注意です。
自虐ネタを言ったときに、すかさずそんなことありませんよとフォローするような人にはとても有効かと思います。そういう人には自分をさらけ出して、特にその人よりレベルの低いところをさらけ出して笑いを誘うというのがコミュニケーションの潤滑油としては最高にいいのではないかと思います。学歴が低くかったり、こどもの出来が悪かったりすれば、逆に最高の武器をもっているとでも思えばいいのです。そのことを卑下せず、自虐的にさらっとオシャレに言えたらセンスがいいと思われます。相手が目上の人であったらなおさらグーッと親近感をもってくれて、可愛がってもらえます。
人間は自分よりレベルの高い人とつきあうのは苦手で、自分よりレベルが低いほうがつきあいやすいのです。美人はひいてしまうけど、ブスは気がラクです。イケメンの前では緊張しますが、ブサイクな男には気軽に話せます。
ただ人を選んでください。権威主義的人格の人には効果は逆に出ます。必要以上に傲慢にしてしまい、自分を支配しようとどんどんつけいって来ます。要注意です。フラット感覚のあまり格式ばらないいい人には最適です。微笑ましく思って向こうから友だちリクエストがくるはずです。自虐ネタの有効活用、それはだれも傷つく人がいなくて自分の境遇を話すということです。そして心情面ではけっして卑下したり、劣等感を持たずサラッと笑い話にできるということです。劣等感やホントに不幸だと深刻に思いながら相手に話すと、相手は人生相談を受けるカタチになるので要注意です。
お笑いの本質は、世の中の秩序と逆のケースを見せることもあるのかもしれません。また自虐ネタはまともに見える人ほど効果的です。外見はしっかりしたアナウンサーや芸能人で稼ぎもいいのに私生活はたいへんな恐妻家でかなりたいへんな状況に置かれているということになれば、とても面白いのです。今までの羨望のまなざしから同情のまなざしが向けられ、親近感も好感度もアップしたりします。お笑い芸人は変に思われたり、ブスやブ男に見られるとそれをウリにして結構おいしいわけです。とにかくお笑いという分野はとても奥が深く、なおかつ簡単に定義するのも困難なものではないかと思います。
最近はそういった観点で自虐ネタは視聴者の人気を得る手っ取り早いアイテムです。恐妻家で妻に奴隷のように支配される夫というのは結構面白い話ではありますが、度が過ぎるとあまりいいイメージはもたれなくなります。挙句の果ては恐妻家とレッテルを貼られ、ふがいない男として見られ続けるというリスクもあります。恐妻家になるには妻という第三者の存在があります。妻も芸能人の妻だからと割り切れるならいいのですが、毎回ネタにされてとんでもない鬼嫁というレッテルを貼られるのはあまりいい気はしないでしょう。
昔その手の自虐ネタを連発していた上司がして、結局は部下全員に三下り半をつきつけられるという結果になってしまいました。よく考えると家庭で妻ひとりに手をこまねいている人が部下を管理できるはずがありません。やはりできる上司は会社だけでなく、プライベートも充実しているものです。家庭での不満がたまっていると会社でいい仕事もできるはずはないと考えてしまうのはごく普通のとらえ方だと思います。ということで自虐ネタというのは使い方を間違えたり、度が過ぎるとマイナスに働くこともあるのだということを認識しておくのがいいかと思います。
したがって自虐ネタでもマイナスに働かないように使うのはどうしたらいいのかと考えてみました。それはやはり相手に対して、優越感をあたえ、自分に対しては同情を引き出す、それも自然に、ウザくとられないような方法がいいのではということなのです。昔はよく愚妻とか愚息といった言葉がありましたが、結局自分を含めた家族を引き下げることで相手や相手の家族や境遇を善しとさせてあげるということがありました。日本人の美徳とするところの謙虚、謙遜という観点で相手を持ち上げ気分よくしてあげるというのがコツです。もちろんこれは性格のいい人にするというのが前提で、性格が悪い人はそのまま傲慢になってしまう場合があるので要注意です。
自虐ネタを言ったときに、すかさずそんなことありませんよとフォローするような人にはとても有効かと思います。そういう人には自分をさらけ出して、特にその人よりレベルの低いところをさらけ出して笑いを誘うというのがコミュニケーションの潤滑油としては最高にいいのではないかと思います。学歴が低くかったり、こどもの出来が悪かったりすれば、逆に最高の武器をもっているとでも思えばいいのです。そのことを卑下せず、自虐的にさらっとオシャレに言えたらセンスがいいと思われます。相手が目上の人であったらなおさらグーッと親近感をもってくれて、可愛がってもらえます。
人間は自分よりレベルの高い人とつきあうのは苦手で、自分よりレベルが低いほうがつきあいやすいのです。美人はひいてしまうけど、ブスは気がラクです。イケメンの前では緊張しますが、ブサイクな男には気軽に話せます。
ただ人を選んでください。権威主義的人格の人には効果は逆に出ます。必要以上に傲慢にしてしまい、自分を支配しようとどんどんつけいって来ます。要注意です。フラット感覚のあまり格式ばらないいい人には最適です。微笑ましく思って向こうから友だちリクエストがくるはずです。自虐ネタの有効活用、それはだれも傷つく人がいなくて自分の境遇を話すということです。そして心情面ではけっして卑下したり、劣等感を持たずサラッと笑い話にできるということです。劣等感やホントに不幸だと深刻に思いながら相手に話すと、相手は人生相談を受けるカタチになるので要注意です。
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