今日は私の経験をふまえて、リーダーとは最低こうあるべきだという一つの提案をしていきたいと思います。世の中に完璧なリーダーというのは、いまだにはっきりと言及することはできません。いろんな学者がいろんなタイプのリーダー像というものを提示し、いろんな経営者が経験にもとづく持論で理想的なリーダー像というものを言及しています。それでも万民が納得するようなリーダー像というのは特定できないのではと思います。
知的で論理的、いつも冷静な判断ができるリーダーもいれば、逆に感情的で人間臭いがみんながインスパイア(行き過ぎると洗脳とも言われる可能性もありますが)されるようなカリスマ性のあるリーダーもいます。
ただ日本では自分で起業した創業者でなければ、どちらかといえば独裁的に力づくで組織を引っ張っていくようなパワーのあるリーダーより、人間関係のバランスをとりながら上に上がっていった生え抜きのリーダーが多いように感じます。なぜなら前者のようなタイプは組織の中でいつのまにか浮いた存在になり、昇進のレースからは外される可能性が大きいと思うからです。もちろんそういった人材をうまく組織のトップまで上り詰められる組織は相当組織の上位者たちや同僚においても器のある人たち、あるいは学習することでそういった人材の活用を善しと認めた組織なのかもしれません。
いずれにせよ、上司との関係、部下との関係、そして同僚との関係そして取引先からの印象までもたいへんいい評価を得ているバランス感覚のいい人が組織においてはヒエラルキーを上りつめていく人であると考えてもあながち間違いではないと思います。
ところで今日のタイトルは`リーダーはだれよりも熱く、したたかたれ!’というものです。当然一見するとワンマンで独裁的、わがままでやりたいことは絶対引かずにやり遂げるというイメージがあるかもしれません。当然、だれよりも熱くというのはそういう要素が往々にしてありますが、したたかという観点はやはり空気を読んでバランスよくという話になるのです。当然両方の要素が重要ですが、今日は後者のバランス型のリーダーが陥る問題に関して言及したいと思います。
もともと組織のトップになる人というのはまず業績も重要ですが、そのベースとして、上司として部下から信頼されているというのは絶対必要条件であると思います。部下からの信頼もなく、自分の上位者へのおべっかばかりやっている人はいずれ化けの皮がはがれ、長期政権はむずかしいというのは想像に難くありません。すなわちより上位者が認める前に部下から、同僚から信頼を得られない人はまず上司、組織のトップ、すなわちリーダーとしてふさわしくないだろうというのはだれも否定しないことと思います。
例をあげると、最近数字選択式宝くじのCMがドラマ仕立てになっていてとてもわかりやすいかと思います。ご存じない方はYou Tubeに動画が出ていますので参考にしてみてください。柳場敏郎氏と妻夫木聡氏が演じる上司部下の話です。簡単に紹介すると、尊敬していた上司が役員たちの前で自分の非を認めないことで部下である自分が責任を追及されるのではという危機に立たされるという流れです。最終的には主任であった部下が部長に昇進し、部長が部長職を解かれるというオチがついているのですが。
まあここまでわかりやすく露骨な内容はあまりないかとは思いますが、あのCMをみてかなり共感している人は多いはずです。たとえば上司の指示で行っていた業務であるにもかかわらず、問題が起こったときそんな指示をしたことはないと上司が上役に弁明したり、ひどい場合は部下に対して自分が指示したにもかかわらず、そこまでやれとは言ってないとか苦し紛れの弁解をするといったこともあります。実際、私も部下の立場でそういう体験は何度かしてきました。そのため、問題が起こる可能性が想定される場合はまず、
①反対の意思表示をしてやらない。
②それでもやる場合、全責任をちゃんと上司がとることを確約させる。
絶対にやる価値がなく無駄、あるいは上司が責任を全く持たないが頑固でやらせようとする場合、
③やると言っておいて絶対にやらない。あるいはやってダメだったという証拠をつくりあげる。
などケースバイケースで要領よく対処することをおススメします。
思いつきが激しい上司の場合は特に注意しなければならないのは、指示しておいてホントに指示したことを忘れてしまい、関心さえもっていないといったケースもあります。少なくとも上司が自分より年上であるならば、間違いなく自分より頑固で感情で動いたり忘れることも多いということです。そう思っていれば、自ずと部下の立場でどう対処したらいいかはわかってきます。
とにかく企業にかかわらず、あらゆる組織にはそういった理不尽なことがたくさんあります。頑張っている部下社員が受ける理不尽なことを総合して言うと、いわゆる
‘梯子をはずされる’
問題です。
このことは上司部下という関係だけでなく、人間関係においてよくあることです。私の経験から言うと同僚の上司への不満を上司へ代弁してあげたところ、同僚の問題もあって、結局上司と私がバトるカタチで問題が膨れ上がり、同僚はほとぼりが冷めた頃、自分にも非があると上司と直接的なケンカもせず和解という流れでした。そのことをしった他の社員も私に同情的で彼に対しては不信感をつのらせる結果となってしまいました。
またSNSなどでも似たような事例があります。私が友人のコメントをフォローしたところ、彼は私に賛同、ところがそのあと彼の友人(女性)が私に反論し、彼は手の裏返したように彼女をフォローし私をいさめるコメントを出し、私がブチ切れるということがありました。私は彼の一貫性のないというか人の意見に簡単に左右されコロコロ考えが変わっていくところに不信感をもち、その後一切フォローすることは辞めました。
基本的に私は理不尽なことには当事者以上に熱くなってなんとかしてあげたいという意識が強いのです。結構やりすぎて問題も起きましたが、自分の信念に基づいての行動だったのでまったく後悔していません。ただいろんなことを学習したことは無鉄砲な行動を抑制する要素となっていることは否めません。別に保身に走ったり、保守的になるということはないので、よく言えばよりしたたかになった、もっとよく考えて行動するようになったと自分では考えています。
また感情的になりやすい人やちょっとしたことにすぐひっかかってムカついたりキレたりする人で、気をつけなければならないのはその感情から出る言葉に振り回されてしまうリスクを回避しながら対応しなければなりません。感情から出る言葉というのはとてもパワーを持つのです。したがって真に受けて行動すれば、その人が受けるほどのものではなかったということがあります。これも経験上言えることですが、ものすごく感情的になった人の話を直接聞くと、素直な人はとんでもない理不尽なことで許せないと当事者といっしょにあるいはその人以上に熱くなってしまうことがあります。でも気をつけなければならないことは感情的になりやすい人は時間を置くと冷めやすいということがあります。すなわち瞬間湯沸かし器のように熱くなりますが、保温ポットのように高い温度を維持することができないのです。実はそれで本人はバランスをとっているのです。当然沸騰した状態にずっとあるとそのうち血圧が上がってブチッと血管が切れてしまうかもしれません。だいたい感情的な人は熱しやすく冷めやすい性格になっていると言っても過言ではありません。
そういう感情的で熱しやすく冷めやすい性格の人には、いっしょになって感情的になったりしないということがとても重要です。すぐ人を振り回してしまうし、素直な人は振り回されてしまいます。そういう状況になるとわかっている人はそういう人からは距離を置いて、必要な時だけ対応するという状況になっている人が多いと考えられます。実はそういうことが明確にわかると周囲はさりげなく周囲は距離を置いたり、ひどい場合信頼を失っていたりします。
‘梯子を外される’問題はあらゆる人間関係において起こるのですが、これが上司部下の関係において起これば最悪です。リーダーとしての信頼は地に落ちてしまいます。
ここまで部下あるいは同僚との関係において言及してきましたが、それはどこまでもその部下やフォロワーの気持ちや立場が理解できなければ上司としてリーダーとしての役割を果たせないからです。すなわちリーダーは少なくともフォロワー以上の情熱とそれを持続させる力を持ちえていなければリーダーで居続けることは不可能だということを言いたいのです。フォロワーがリーダー以上の情熱を持っていれば、もうすでにリーダー・フォロワー関係は逆転しています。
リーダーがリーダーの役割を果たし続けるためにはだれよりも熱く燃えていなければなりません。それは感情的で瞬間湯沸かし器ではダメなのです。時間とともに冷めるような状況では部下はだれもついて行かないし、フォロワーは興ざめして、フォローすることを辞めてしまうでしょう。瞬間湯沸かし器ではなく時間をかけて沸かす、すなわち考えに考え抜いて結論を出すことですぐに冷めないモチベーションを維持することができるようになります。付け焼刃の状態ではリーダーとしての役割はすぐ果たせなくなってしまいます。そう考えると世の中死に体の経営者がどれほど多いことでしょうか。イノベーションも起こせず同じことの繰り返し、考え抜く力さえ持ちえていない雇われ経営者も多いのです。
とにかくリーダーは基本的にだれよりも熱く、したたかでいるべきです。
もちろん考えに考え抜いて出した結論に対する自信と確信、そしてだれよりも熱く、その目的達成に対する執着心もだれよりも熱くなければなりません。ただフォロワー、部下の中には瞬間湯沸かし器のような短距離走はうまいが持久走は苦手(モチベーションが長く続かない、テンションが高く忍耐力が欠如)といった人もいます。そういう人がフォロワーとしている場合の注意点は、決してその人の言葉やつくりだす状況に振り回されないということが重要です。一見するとリーダー以上にやる気満々であったりします。さらにリーダーがだしたアイディアや方向性に付加してリーダーが予想していない方向へ行ってしまうことさえあります。これは要注意です。良い方向に行く場合はいいのですが、気分で動くので、まったく無駄だったりあるいはマイナスの結果をもたらすことさえあります。とにかく瞬間湯沸かし器の部下、社員、フォロワーは組織の一時的なカンフル剤として使用はしても使い過ぎると副作用が出てくるということも肝に銘じておくべきです。できることなら持久走ができる人につくりあげていくことがベストですが、なかなか性格や癖というのは簡単に変えられませんので、その特徴をよくつかんで生かすということが大切です。
みなさんがもし会社の経営者、上司、師匠などリーダーたる立場にあるとしたら組織の成員のだれよりも熱く、したたかに行動できていますか?熱くあることと、それを持続することこの両面がだれよりも優れているとしたら当然リーダーとして居続けても大丈夫だと思います。でももしそうでなかったらリーダーとしては交替すべき時期に来ているのかもしれません。不幸にもそのことに気づけなければすでに信頼のない死に体状態かもしれません。以前は進言する社員が多かったが、今はみんな素直に大人しくなったという状況の場合、すでにそういった状態にあるのかもしれません。みなさんがどういった立場にあるかにかかわらず、ぜひ参考になさってみてください。
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2014年4月19日土曜日
2014年4月7日月曜日
マルチタスクな人生のすすめ
最近の若者を見ているとどうもひとつのことに集中はするが、いろいろなことを複合的に行うことはなかなか難しいように見受けられます。もちろん人にもよるが、その傾向は社会の随所にみられるのではないかと思います。
例えば食事ひとつ例に出すと、ごはんを主食としておかずを順繰りに食べるというのではなく、一種類のおかずを食べきって次のおかずに行くという流れです。極端な場合、ごはんだけ食べたり、味噌汁は最後に飲み干すといった具合にいろいろな味を複合的に味わうのではなくて、ひとつの味が終わって、次の味というような食べ方なのです。
こういった食べ方をさせないためには、カレーライスやなべ物などすでにごちゃ混ぜに入っている食事がいいかもしれません。韓国料理のビビンパ(ビビダ【混ぜる】+パプ【ごはん】)は食材の陰陽の要素をすべて混ぜることで調和させて食べるにはちょうどいいかもしれません。
私もこういったことを自分の子どもに見つけて、おやっと思ったのですが、他の人に聞いても結構そういった食べ方をしているというのを聞きました。子どもに言わせると味が混ざっておかしくなると言います。ごはんと食べる分には問題ないと思うのですが、そうでもないようです。
また私の学生時代は、受験勉強と恋愛は別物でした。もちろん、片方に偏りすぎるともう一方はおろそかになる、あるいはうまくバランスよくやっていたものです。さらには二人で勉強したりして(ほとんど口実ではあるのですが)仲良くやっていたものです。ところが最近の学生はひとつのことが完結しないと次の(他の)ことができないという傾向にあるように感じます。恋愛しない若者に訊くと、めんどくさいとか同性と遊んでいるほうが楽しいなんていう答えも返ってきます。確かに男女の関係というのは簡単ではないし、リスクもあることは間違いないわけです。でも人間は互いに異性を求めていくという本能的な部分は人間の三大欲にもあるように誰しも備わっているはずです。それをより合理的、効率的側面からだけ考えていくならば、恋愛や結婚というものは時間の無駄と考える人も出てくるかもしれません。
もうすでに若者という観点で取り上げた時点でジェネレーションギャップがあるのだとは思いますが、ちょっとここらへんで一休みして、おじさんといっしょに非効率的で非合理的な人生の側面というものも考えてみるのはどうでしょうか?実際、エネルギッシュで元気のいい人というのは仕事もプライベートも充実しているというイメージがありますし、みなさんの周りの人びとはどうでしょうか?食べる力、恋する(異性を食べる?)力、寝る(睡眠をむさぼる)力、これらはある面非効率なことがらかもしれませんが、人生においては必要不可欠なことがらであると思います。実はこの三点を私たちの先祖があきらめずやってきてくれたおかげで今の私たちがいるわけです。
健康でない人はこの三点がめんどくさいのです。あるいはすべてにおいてバランスを欠いた行動になっているはずです。少食であまり食べられない、あるいは間食みたいな食事しかできない。逆に過食で間食は別腹状態で肥満になってしまったとか。また健康でないと寝るのもぐっすり熟睡というのができません。当然そういった生活がきちんとできれば、恋愛に対しても意欲的になります。当然、現代社会は結婚も出産もそういった選択をしないということも一つの考え方であると思いますし、それは尊重されてしかるべきとは思います。ただこの欲望はある面人間関係のベースにあると言っても過言ではないと私は考えています。異性とのつきあいが得意な人は当然同性や年齢差を越えた人間関係も上手です。もちろん育った環境等によって対象として苦手意識のある人はいるでしょう。でもそういったことを克服する活力も持ち合わせていると思います。
ちょっと恋愛の話に偏りましたが、今回のテーマは“マルチタスクな人生のすすめ”です。マルチタスクというのはパソコンなどで複数のタスク(仕事、プロセス)を同時に立ち上げておいて切り替えながら実行していくことを言います。したがって人生もひとつのことだけを行うのではなく、いろんなことに人生を費やすことによってより充実して楽しい人生が送れますよという提案です。もちろん私はこれだけでいいという方に無理やりいろんなことをしましょうと促すつもりはありませんが・・・。
会社組織に不満があっていつもそういう意識で日々を過ごしている人は、まさにマルチタスクな人生にしていくことでそういった意識からの脱却を図ることができます。すなわち、会社での仕事は自分の人生の一部であって、あるいは一要素であって自分の人生の支柱は別にあるということが明確に分かれば精神的にとても楽になります。また会社人間、ひいては社畜となってしまうリスクから抜け出せることができるのです。私たちは社会の制度の中で生きているので、そこから抜け出すということは困難ですが、自分がコミットしたいことを複数持つということは可能です。ある人は仕事以外に家庭であったり、子どもであったりするわけです。ただ過剰にそこに依存するような状況になると家族をスポイルしてしまう可能性もあります。特に仕事で満足できない部分をそちらで穴埋めしようとするならば間違いなく問題がおきるはずです。仕事に対しての不満は仕事で解消することが大切です。仕事は家庭に持ち込まないなどという人がいますが、仕事や会社でのさまざまな出来事に不満がある人はその内容を仕事の分野で解消できなければ、家庭にその意識(思念)を持ちこんでしまいそれは家族に伝わってしまいます。
会社組織内で解消あるいは実現できる内容であれば、そこで頑張ればいいわけですし、そこでは実現は困難ということになれば、組織外でつくりあげていけばいいわけです。すなわち複数のタスクを楽しくこなせばいいのです。さらに会社での業務をこなしながらも自分の好きなタスク達成にその時間や思考を費やすということもできるのです。もちろん若くて元気のいい人なら仕事、恋愛、趣味などさまざまなタスクを楽しめばいいと思います。会社組織や上司、同僚、部下などへの不満がつねにあって、人生が楽しくないという人は、それだけに依存状態にあるひとです。タスクが多い人は嫌なことがあってもさほどダメージはないのです。なぜなら楽しいことがそれ以上に多かったりすれば嫌なことが意識に占める割合が少ないからです。
いつも忙しいと言っている人は実は忙しくない人です。嫌なことばかりやらされている(実際は自分で選んでやっているわけですが)人はやっていることが好きではないので時間も長く、自分の大切な時間を占有されているようで自分の時間がない、すなわち忙しいと感じるわけです。ホントに忙しい人はタスクがたくさんある人ですが、そういう人は楽しいことをたくさんしているので、忙しいという認識はなく、充実していると感じているはずです。
自分軸を確立していくためには、自分がどうなのかということを常にチェックすることをおススメしています。タスク自体が自分の意思、すなわちやりたくてやっていることなのか、やりたくなくて嫌々やらされているとおもっているのかで大きく違ってきます。結果もそうでしょうが、なによりやっている時間は自分の貴重な人生の時間であって、それらが後者の意識だとものすごくもったいないのです。少なくとも自分にとってメリットがあるタスクの遂行の仕方を考えるのがいいかと思います。たとえば、ある会議が全く無意味だと思うようなものであったとするならば、私は会議の参加者を調べて人脈づくりに活用します。会議の内容自体はどうでもいいわけです。そこに参加している彼(彼女)がどういった考えなのか、プレゼンのスキルは持ち合わせているのかとか・・・。まあこれは一例ですが、会社の業務という一側面だけで動いていてはとてももったいないのです。仕事(嫌な仕事であっても)を通じてなにか得ることができるものはないか探せば、仕事はすでに複数のタスクが実行されているということなのです。取引先に可愛い彼女がいて、うまくしとめたなんていう話を聞きますが、それも複数のタスクを同時にこなしていたということに他なりません。その人は彼女にあえるのが楽しくて仕事自体はモノにならなくても楽しく通っていたことでしょう。
会社人間、社畜からの脱却は物理的な要素以上に精神的なとらえ方が大きいのです。会社に生活の糧を依存しているという状況ではそれは無理と言われるかもしれませんが、逆に会社があることでもっと楽しいタスクも見つけられると意識転換すれば、見えてこなかったことがらも見えてきて楽しいタスクが増えていくのではないでしょうか?そうなれば人生さらに充実して楽しい時間をすごせるに違いありません。まず自分がやりたいこと、したいことを書き出してそのために自分の置かれた環境をどう利用するか、活用するか考えてみましょう。きっといままで嫌だと思っていたことがらまでも大きな利用価値のあるものに変わるかもしれませんよ。案外見ているのに見えてなかったものというのはたくさんあると思います。それこそセレンディピティ(掘り出し物)と言える価値を見出すことができれば人生、大逆転も夢ではありません。そのためにはいろんなことに関心をもって、中途半端でもいいのです。とにかくいろんなことをやって見なければ探すこともできません。理性などという小奇麗な言葉に惑わされず、本性のおもむくままに行動してみることも人生においてはとても意義深いものであると思います。
例えば食事ひとつ例に出すと、ごはんを主食としておかずを順繰りに食べるというのではなく、一種類のおかずを食べきって次のおかずに行くという流れです。極端な場合、ごはんだけ食べたり、味噌汁は最後に飲み干すといった具合にいろいろな味を複合的に味わうのではなくて、ひとつの味が終わって、次の味というような食べ方なのです。
こういった食べ方をさせないためには、カレーライスやなべ物などすでにごちゃ混ぜに入っている食事がいいかもしれません。韓国料理のビビンパ(ビビダ【混ぜる】+パプ【ごはん】)は食材の陰陽の要素をすべて混ぜることで調和させて食べるにはちょうどいいかもしれません。
私もこういったことを自分の子どもに見つけて、おやっと思ったのですが、他の人に聞いても結構そういった食べ方をしているというのを聞きました。子どもに言わせると味が混ざっておかしくなると言います。ごはんと食べる分には問題ないと思うのですが、そうでもないようです。
また私の学生時代は、受験勉強と恋愛は別物でした。もちろん、片方に偏りすぎるともう一方はおろそかになる、あるいはうまくバランスよくやっていたものです。さらには二人で勉強したりして(ほとんど口実ではあるのですが)仲良くやっていたものです。ところが最近の学生はひとつのことが完結しないと次の(他の)ことができないという傾向にあるように感じます。恋愛しない若者に訊くと、めんどくさいとか同性と遊んでいるほうが楽しいなんていう答えも返ってきます。確かに男女の関係というのは簡単ではないし、リスクもあることは間違いないわけです。でも人間は互いに異性を求めていくという本能的な部分は人間の三大欲にもあるように誰しも備わっているはずです。それをより合理的、効率的側面からだけ考えていくならば、恋愛や結婚というものは時間の無駄と考える人も出てくるかもしれません。
もうすでに若者という観点で取り上げた時点でジェネレーションギャップがあるのだとは思いますが、ちょっとここらへんで一休みして、おじさんといっしょに非効率的で非合理的な人生の側面というものも考えてみるのはどうでしょうか?実際、エネルギッシュで元気のいい人というのは仕事もプライベートも充実しているというイメージがありますし、みなさんの周りの人びとはどうでしょうか?食べる力、恋する(異性を食べる?)力、寝る(睡眠をむさぼる)力、これらはある面非効率なことがらかもしれませんが、人生においては必要不可欠なことがらであると思います。実はこの三点を私たちの先祖があきらめずやってきてくれたおかげで今の私たちがいるわけです。
健康でない人はこの三点がめんどくさいのです。あるいはすべてにおいてバランスを欠いた行動になっているはずです。少食であまり食べられない、あるいは間食みたいな食事しかできない。逆に過食で間食は別腹状態で肥満になってしまったとか。また健康でないと寝るのもぐっすり熟睡というのができません。当然そういった生活がきちんとできれば、恋愛に対しても意欲的になります。当然、現代社会は結婚も出産もそういった選択をしないということも一つの考え方であると思いますし、それは尊重されてしかるべきとは思います。ただこの欲望はある面人間関係のベースにあると言っても過言ではないと私は考えています。異性とのつきあいが得意な人は当然同性や年齢差を越えた人間関係も上手です。もちろん育った環境等によって対象として苦手意識のある人はいるでしょう。でもそういったことを克服する活力も持ち合わせていると思います。
ちょっと恋愛の話に偏りましたが、今回のテーマは“マルチタスクな人生のすすめ”です。マルチタスクというのはパソコンなどで複数のタスク(仕事、プロセス)を同時に立ち上げておいて切り替えながら実行していくことを言います。したがって人生もひとつのことだけを行うのではなく、いろんなことに人生を費やすことによってより充実して楽しい人生が送れますよという提案です。もちろん私はこれだけでいいという方に無理やりいろんなことをしましょうと促すつもりはありませんが・・・。
会社組織に不満があっていつもそういう意識で日々を過ごしている人は、まさにマルチタスクな人生にしていくことでそういった意識からの脱却を図ることができます。すなわち、会社での仕事は自分の人生の一部であって、あるいは一要素であって自分の人生の支柱は別にあるということが明確に分かれば精神的にとても楽になります。また会社人間、ひいては社畜となってしまうリスクから抜け出せることができるのです。私たちは社会の制度の中で生きているので、そこから抜け出すということは困難ですが、自分がコミットしたいことを複数持つということは可能です。ある人は仕事以外に家庭であったり、子どもであったりするわけです。ただ過剰にそこに依存するような状況になると家族をスポイルしてしまう可能性もあります。特に仕事で満足できない部分をそちらで穴埋めしようとするならば間違いなく問題がおきるはずです。仕事に対しての不満は仕事で解消することが大切です。仕事は家庭に持ち込まないなどという人がいますが、仕事や会社でのさまざまな出来事に不満がある人はその内容を仕事の分野で解消できなければ、家庭にその意識(思念)を持ちこんでしまいそれは家族に伝わってしまいます。
会社組織内で解消あるいは実現できる内容であれば、そこで頑張ればいいわけですし、そこでは実現は困難ということになれば、組織外でつくりあげていけばいいわけです。すなわち複数のタスクを楽しくこなせばいいのです。さらに会社での業務をこなしながらも自分の好きなタスク達成にその時間や思考を費やすということもできるのです。もちろん若くて元気のいい人なら仕事、恋愛、趣味などさまざまなタスクを楽しめばいいと思います。会社組織や上司、同僚、部下などへの不満がつねにあって、人生が楽しくないという人は、それだけに依存状態にあるひとです。タスクが多い人は嫌なことがあってもさほどダメージはないのです。なぜなら楽しいことがそれ以上に多かったりすれば嫌なことが意識に占める割合が少ないからです。
いつも忙しいと言っている人は実は忙しくない人です。嫌なことばかりやらされている(実際は自分で選んでやっているわけですが)人はやっていることが好きではないので時間も長く、自分の大切な時間を占有されているようで自分の時間がない、すなわち忙しいと感じるわけです。ホントに忙しい人はタスクがたくさんある人ですが、そういう人は楽しいことをたくさんしているので、忙しいという認識はなく、充実していると感じているはずです。
自分軸を確立していくためには、自分がどうなのかということを常にチェックすることをおススメしています。タスク自体が自分の意思、すなわちやりたくてやっていることなのか、やりたくなくて嫌々やらされているとおもっているのかで大きく違ってきます。結果もそうでしょうが、なによりやっている時間は自分の貴重な人生の時間であって、それらが後者の意識だとものすごくもったいないのです。少なくとも自分にとってメリットがあるタスクの遂行の仕方を考えるのがいいかと思います。たとえば、ある会議が全く無意味だと思うようなものであったとするならば、私は会議の参加者を調べて人脈づくりに活用します。会議の内容自体はどうでもいいわけです。そこに参加している彼(彼女)がどういった考えなのか、プレゼンのスキルは持ち合わせているのかとか・・・。まあこれは一例ですが、会社の業務という一側面だけで動いていてはとてももったいないのです。仕事(嫌な仕事であっても)を通じてなにか得ることができるものはないか探せば、仕事はすでに複数のタスクが実行されているということなのです。取引先に可愛い彼女がいて、うまくしとめたなんていう話を聞きますが、それも複数のタスクを同時にこなしていたということに他なりません。その人は彼女にあえるのが楽しくて仕事自体はモノにならなくても楽しく通っていたことでしょう。
会社人間、社畜からの脱却は物理的な要素以上に精神的なとらえ方が大きいのです。会社に生活の糧を依存しているという状況ではそれは無理と言われるかもしれませんが、逆に会社があることでもっと楽しいタスクも見つけられると意識転換すれば、見えてこなかったことがらも見えてきて楽しいタスクが増えていくのではないでしょうか?そうなれば人生さらに充実して楽しい時間をすごせるに違いありません。まず自分がやりたいこと、したいことを書き出してそのために自分の置かれた環境をどう利用するか、活用するか考えてみましょう。きっといままで嫌だと思っていたことがらまでも大きな利用価値のあるものに変わるかもしれませんよ。案外見ているのに見えてなかったものというのはたくさんあると思います。それこそセレンディピティ(掘り出し物)と言える価値を見出すことができれば人生、大逆転も夢ではありません。そのためにはいろんなことに関心をもって、中途半端でもいいのです。とにかくいろんなことをやって見なければ探すこともできません。理性などという小奇麗な言葉に惑わされず、本性のおもむくままに行動してみることも人生においてはとても意義深いものであると思います。
2014年3月25日火曜日
日本人にグローバル化の覚悟はあるのか?
つい先日、Jリーグ浦和レッズのサポーターが“Japanese Only”との横断幕をかかげ無観客試合という罰則が科せられたニュースがありました。このことは日本人の情緒としては理解できなくもないのですが、決して容認されるべきことではないと思います。この横断幕をかかげた人びとの考えというものははっきりとはわからないので何とも言えないのですが、もし理解できるとしたら日本人特有の全体主義的一体感をそこなう存在に対する排他的思考です。これは日本が島国という限られた空間の中で培われた和の文化に根ざしていると言っても過言ではないと思います。
日本人は概して全体の空気を読み、それにそった言動を暗黙の了解として強要されているのです。あえて強要としましたが、その空気に従わない人はその場にいれなくなるからです。同調圧力と言ってもいいかもしれません。自然にその環境から離脱するか、そのまま居座ると村八分といった状況に置かれてしまうのです。
空気を読むという考え方は日本人特有の考え方であったり、文化であるように思います。臨機応変に行動するとか気を利かすなどこういったことは日本に限ったことではありませんが、空気を読んで行動するというのは日本社会という独特の環境、日本人のDNAの中に深く根付いたものであると私は考えています。
空気を読むとはどういうことか?苫米地英人氏は空気は目に見えないし、実際には読めないものだと言われています。空気という言葉をそのまま空気と解釈するとそのとおりですが、空気を読むというのは相手や周囲の言動(声の大きさ、高さ、・・・、言葉の内容、表情、行動・・・など)総合してそれらの背後に隠れている(出ている場合もある)本音の部分を解釈、理解して行動するということだと思うのです。
最近はこういった能力はコミュニケーションの濃密さの差から世代的にもずいぶんと差があることと思います。また日本も地域によってずいぶんと違います。それはテレビでも県民ごとの特徴をまとめた番組など見るとそういったことを大いに感じることができます。まあそれでも同じ日本人(外国籍でも日本に生まれ育った人)には誰でも空気を読むということは個人差はあれ、ほとんどの人が身についているのではないでしょうか。
ただ外国の方がやはり日本に来て居住するようになるとどうしても空気を読むというのがなかなか難しいといったことを聞くことがあります。当然日本の文化を完璧理解して行動しろというのはかなり酷な話だとも思います。もちろん日本に来た外国人の多くは日本の文化を学び、日本の様式に従って行動するようにしています。郷に入りては郷に従え(All roads leads to Rome.)は世界共通?の考え方ですから当然日本のやり方に従ってもらうというのは当然と考えてもいいかもしれません。
ここで問題はなんでしょうか。多くの外国人が日本人に対して口をそろえて言うことは、日本人はわかりにくいということです。どのようにしてほしいか、はっきりと意思表示ができていない問題です。すなわち空気を読んで、理解して、察して行動しろという話なのです。でもこれを外国人に要求するのは、はっきりと無理です。これは決して外国人を見下すということではなく日本人特有の文化であるということを日本人が理解しなければならないという話です。
日本人は言いにくいことを直接言うことがとても困難です。やはりコミュニケーションスキルが足りないということだと思います。はっきりと言わず理解してもらおうというのはどう考えても甘えの構造にしか思えません。そうでなければ外国人への対応の仕方がわかっていないという知識不足に他なりません。
基本的に日本人は表向き平和主義で、ぶつかることを極度に嫌います。ところが裏では自分たちの思い通りいかないことに対して愚痴や不満がとても多いのです。そしてそういったことを共有する人びとだけで集まり不満の対象になっている人のいないところでいろいろと言い合うのです。こういった経験がありました。ある会社で外国人が働いていて、やはり日本人社員と考え方に大きな溝ができているのです。もう完全に彼は浮いた存在になってしまったのです。実際彼自身頑固で自分の考えを曲げないこともあってますます日本人の社員からは煙たい存在になってしまったのです。でも私は裏でこそこそというのは嫌なので直接日本人を代弁してはっきりと言いました。それでしょっちゅうバトルに発展してしまうのです。
そういう状況が長く続くとどうなるかというと、はっきり言う私は過激な人、外国人の彼には他の日本人は大人しい人、でも私は過激な日本人という印象になってしまうのです。日本人は概して沈黙を守りながら自分たちの空気にそぐわない行動をする人に対してNOをつきつける傾向にあります。これは今後の日本のグローバル化には大きな障害となってたちはだかるでしょう。すでにもう日本は鎖国をしたほうがいいのではないかといった論調の人もいます。でも日本は日本だけで将来成り立つことができるのでしょうか?いつまでも同じ穴のムジナでいていいのでしょうか?
日本人に欠如していることは和の文化に根差した(極端にぶつかることを嫌う、ちゃんと相手と向き合えない)空気を読んで理解することを過剰に要求してしまうことだと思います。こういったことを明確に理解した上で日本人はもう一歩レベルアップした対応ができないといけないと思います。すなわちちゃんと相手に向き合って、相手が空気を読んで行動できる人なのかどうか、また空気を読まないことは悪いことではなく、相手の文化になかったことであるという理解の下にちゃんと言葉や行動でしっかり伝達するという作業ができるようになることだと思います。
安倍政権になって、国家自体が右傾化していると懸念されている昨今、日本文化至上主義みたいなグローバル化とはまったく逆の方向にいってしまうような思考に陥らないように私たちはよく考えて、コミュニケーションをさらに深めていく必要があるように思います。日本人はそれこそ日本を取り巻く環境をよく理解してさらに卑屈になったり、排他的になるのではなく、より多様な文化を受け入れる器を養うべく成長していかなければならないのではないかと思うものです。
日本人は概して全体の空気を読み、それにそった言動を暗黙の了解として強要されているのです。あえて強要としましたが、その空気に従わない人はその場にいれなくなるからです。同調圧力と言ってもいいかもしれません。自然にその環境から離脱するか、そのまま居座ると村八分といった状況に置かれてしまうのです。
空気を読むという考え方は日本人特有の考え方であったり、文化であるように思います。臨機応変に行動するとか気を利かすなどこういったことは日本に限ったことではありませんが、空気を読んで行動するというのは日本社会という独特の環境、日本人のDNAの中に深く根付いたものであると私は考えています。
空気を読むとはどういうことか?苫米地英人氏は空気は目に見えないし、実際には読めないものだと言われています。空気という言葉をそのまま空気と解釈するとそのとおりですが、空気を読むというのは相手や周囲の言動(声の大きさ、高さ、・・・、言葉の内容、表情、行動・・・など)総合してそれらの背後に隠れている(出ている場合もある)本音の部分を解釈、理解して行動するということだと思うのです。
最近はこういった能力はコミュニケーションの濃密さの差から世代的にもずいぶんと差があることと思います。また日本も地域によってずいぶんと違います。それはテレビでも県民ごとの特徴をまとめた番組など見るとそういったことを大いに感じることができます。まあそれでも同じ日本人(外国籍でも日本に生まれ育った人)には誰でも空気を読むということは個人差はあれ、ほとんどの人が身についているのではないでしょうか。
ただ外国の方がやはり日本に来て居住するようになるとどうしても空気を読むというのがなかなか難しいといったことを聞くことがあります。当然日本の文化を完璧理解して行動しろというのはかなり酷な話だとも思います。もちろん日本に来た外国人の多くは日本の文化を学び、日本の様式に従って行動するようにしています。郷に入りては郷に従え(All roads leads to Rome.)は世界共通?の考え方ですから当然日本のやり方に従ってもらうというのは当然と考えてもいいかもしれません。
ここで問題はなんでしょうか。多くの外国人が日本人に対して口をそろえて言うことは、日本人はわかりにくいということです。どのようにしてほしいか、はっきりと意思表示ができていない問題です。すなわち空気を読んで、理解して、察して行動しろという話なのです。でもこれを外国人に要求するのは、はっきりと無理です。これは決して外国人を見下すということではなく日本人特有の文化であるということを日本人が理解しなければならないという話です。
日本人は言いにくいことを直接言うことがとても困難です。やはりコミュニケーションスキルが足りないということだと思います。はっきりと言わず理解してもらおうというのはどう考えても甘えの構造にしか思えません。そうでなければ外国人への対応の仕方がわかっていないという知識不足に他なりません。
基本的に日本人は表向き平和主義で、ぶつかることを極度に嫌います。ところが裏では自分たちの思い通りいかないことに対して愚痴や不満がとても多いのです。そしてそういったことを共有する人びとだけで集まり不満の対象になっている人のいないところでいろいろと言い合うのです。こういった経験がありました。ある会社で外国人が働いていて、やはり日本人社員と考え方に大きな溝ができているのです。もう完全に彼は浮いた存在になってしまったのです。実際彼自身頑固で自分の考えを曲げないこともあってますます日本人の社員からは煙たい存在になってしまったのです。でも私は裏でこそこそというのは嫌なので直接日本人を代弁してはっきりと言いました。それでしょっちゅうバトルに発展してしまうのです。
そういう状況が長く続くとどうなるかというと、はっきり言う私は過激な人、外国人の彼には他の日本人は大人しい人、でも私は過激な日本人という印象になってしまうのです。日本人は概して沈黙を守りながら自分たちの空気にそぐわない行動をする人に対してNOをつきつける傾向にあります。これは今後の日本のグローバル化には大きな障害となってたちはだかるでしょう。すでにもう日本は鎖国をしたほうがいいのではないかといった論調の人もいます。でも日本は日本だけで将来成り立つことができるのでしょうか?いつまでも同じ穴のムジナでいていいのでしょうか?
日本人に欠如していることは和の文化に根差した(極端にぶつかることを嫌う、ちゃんと相手と向き合えない)空気を読んで理解することを過剰に要求してしまうことだと思います。こういったことを明確に理解した上で日本人はもう一歩レベルアップした対応ができないといけないと思います。すなわちちゃんと相手に向き合って、相手が空気を読んで行動できる人なのかどうか、また空気を読まないことは悪いことではなく、相手の文化になかったことであるという理解の下にちゃんと言葉や行動でしっかり伝達するという作業ができるようになることだと思います。
安倍政権になって、国家自体が右傾化していると懸念されている昨今、日本文化至上主義みたいなグローバル化とはまったく逆の方向にいってしまうような思考に陥らないように私たちはよく考えて、コミュニケーションをさらに深めていく必要があるように思います。日本人はそれこそ日本を取り巻く環境をよく理解してさらに卑屈になったり、排他的になるのではなく、より多様な文化を受け入れる器を養うべく成長していかなければならないのではないかと思うものです。
2013年10月4日金曜日
うまくいくコミュニケーションの方法①
家庭においても、会社においても、あるいはそれ以外の人間関係すべてにおいて、コミュニケーションは、すべてがうまくいくためのベースとなるようなものです。それは対面であれ、電話であれ、メール、SNSにいたるまでコミュニケーションがとてもたいせつになってきます。
また相手によっても対応を変えなければならないケースもあります。特に外国人には日本の空気(行間)を読むような理解はできません。それは日本に長年住んでいる外国人でもわかりにくいと言われる人もいます。それくらい難しい感覚的なもので、日本人は日本で育って、日本人のDNAとしてすでに染みついているから理解できるのかもしれません。
ただ最近の若い世代は徐々にそういった感覚は減っているように思えます。それは良いとか悪いといったものではなくて、日本の家庭や社会の環境が大きく変わってきたということが言えるのではないかと思います。欧米の個人主義の影響や、戦後、日本がどんどん豊かになり、大家族から核家族、そして夫婦だけ、その次にはお一人様での生活も増えてきています。現在は祖父母と同居ということも減って二世帯住宅は常識です。また高齢化により高齢者は施設に入ることに抵抗感がない時代になってきました。介護というカタチで家族に負担をかけたくないという認識は高齢者に共通する意識になりつつあり、また子どもたちもそれが最善であるという意識もかなりあります。介護を社会の手にゆだねるということは決して家族の愛情問題とは関係がないのです。むしろ互いに負担をかけないようにすることが愛情であるというひとつのパラダイムシフトがなされているのだと思います。
夫婦関係もそうです。ある程度年齢を重ね、子どもたちもすべて独立すると、夫婦だけの時間が増えてきます。そして夫(あるいは妻)が定年退職をして家庭にいつもいるようになるとストレスであったりします。そうなると妻(あるいは夫)が外に出かけるようになってバランスをとるようになるのです。もちろん夫婦は最初の3~4年くらいはいいのですが、そのあとは夫婦だけの愛情というより子どもを見ながら父母としての役割で家庭を維持しているとも言えます。夫婦は他人です。最初は惹かれあっても、実際生活を共にするようになると、相手の悪いところもどんどん目に入ってきて、半ば好きという気持ちを妥協とかあきらめの気持ちが上回ってきたり、夫婦ってこういうもんだと冷めた精神状態になっていくことさえあります。でもそこに子どもの存在があると緩衝剤のような役割を果たしてくれるのです。
問題は夫婦仲が悪くなりすぎて、子どもに依存してしまうと、完全に子どもの自立を阻害し成長を遅らせたり、歪んだ情緒を育んでしまうことにもなりかねません。妻が家事、夫が仕事(あるいはその逆)に集中すればある面役割を分け、それぞれが集中できることを持つことで夫婦関係を維持することに大きな効果があります。また一般的には新婚時代はダブルベッド、子どもができてはそれぞれのベッド、そして子どもが独立したら部屋も別々なんてのもよくある話です。それでバランスをとって家庭というカタチが維持されていたりします。
歳をとっても仲のいい夫婦というのは新婚当初の夫婦の愛情関係とは違うモチベーションで形成されていると考えられます。詳しく聞けば、だいたいの人びとが口々に言われることは
「いろいろあったのよ~。」
という話です。いろんな心境を通過して熟成しきった関係であると言えるかもしれません。
フラット化している社会の中で夫婦が夫婦としての関係を維持し続けるためには、どこかで妥協したり折り合いをつけながら暮らしていくことであるのかもしれません。現代社会は離婚ということが驚くようなことではなくなったのにはやはり男女同権やジェンダーフリーといった風潮、そしてそのベースはやはり世界がフラット化していることにあると思います。男尊女卑の時代はやはり女性が我慢していたのです。あるいは社会の風土自体からも、女性というものは男性に屈して追従するものというすり込みが女性になされていたこともあると思います。
昔、夫婦が夫婦関係を解消せず維持し続けるには、どうしても片方が我慢したり妥協したりということで成立していたということがいえるかもしれません。現在夫婦関係を維持し続けている人びとは間違いなく、我慢や妥協を互いにしているか、あるいはそれをしないでもいいくらいの距離を互いの間に置いているかのどちらかであると言えます。とにかく、他人であった人同士が夫婦になるということは自分以外の価値観を受け入れるということで、それは妥協以外の何ものでもありません。そして妥協を減らすには価値観がなるべく近い人を選ぶということも方法です。
分かりやすく言うと最後まで妥協できなかった人が離婚を選択するのです。それはそれで一つの選択肢ですから、決して悪いことではないと思います。あるヨーロッパの国のように、最初から結婚という形態にこだわらないという方法もあります。そうすることで良好なパートナー関係が維持できたり、婚外子という概念をなくし同じ権利を与えることで、少子化問題も克服できる方向になっているということも聞きます。今は男女というカテゴリーでだけ人を分けられないのと同じように今後結婚という観点もさまざまな形態が発生していくと考えられます。
最終的には人間はひとりの存在で、種の保存や生活していく上で便宜上、夫婦、家族という形態をなしているのだと思えば、さまざまな選択肢がそこには考えることができそうです。いずれにせよ、人間関係は(その差こそあれ)価値観の違う人同士が交流をもつということなので、そこにはどうしても精神的な触れ合いにおいてさまざまな影響をうけるわけです。すなわち人間関係とはストレスが生じやすく、それを極力いいカタチに転化する方法がコミュニケーションスキルということになると思います。
また相手によっても対応を変えなければならないケースもあります。特に外国人には日本の空気(行間)を読むような理解はできません。それは日本に長年住んでいる外国人でもわかりにくいと言われる人もいます。それくらい難しい感覚的なもので、日本人は日本で育って、日本人のDNAとしてすでに染みついているから理解できるのかもしれません。
ただ最近の若い世代は徐々にそういった感覚は減っているように思えます。それは良いとか悪いといったものではなくて、日本の家庭や社会の環境が大きく変わってきたということが言えるのではないかと思います。欧米の個人主義の影響や、戦後、日本がどんどん豊かになり、大家族から核家族、そして夫婦だけ、その次にはお一人様での生活も増えてきています。現在は祖父母と同居ということも減って二世帯住宅は常識です。また高齢化により高齢者は施設に入ることに抵抗感がない時代になってきました。介護というカタチで家族に負担をかけたくないという認識は高齢者に共通する意識になりつつあり、また子どもたちもそれが最善であるという意識もかなりあります。介護を社会の手にゆだねるということは決して家族の愛情問題とは関係がないのです。むしろ互いに負担をかけないようにすることが愛情であるというひとつのパラダイムシフトがなされているのだと思います。
夫婦関係もそうです。ある程度年齢を重ね、子どもたちもすべて独立すると、夫婦だけの時間が増えてきます。そして夫(あるいは妻)が定年退職をして家庭にいつもいるようになるとストレスであったりします。そうなると妻(あるいは夫)が外に出かけるようになってバランスをとるようになるのです。もちろん夫婦は最初の3~4年くらいはいいのですが、そのあとは夫婦だけの愛情というより子どもを見ながら父母としての役割で家庭を維持しているとも言えます。夫婦は他人です。最初は惹かれあっても、実際生活を共にするようになると、相手の悪いところもどんどん目に入ってきて、半ば好きという気持ちを妥協とかあきらめの気持ちが上回ってきたり、夫婦ってこういうもんだと冷めた精神状態になっていくことさえあります。でもそこに子どもの存在があると緩衝剤のような役割を果たしてくれるのです。
問題は夫婦仲が悪くなりすぎて、子どもに依存してしまうと、完全に子どもの自立を阻害し成長を遅らせたり、歪んだ情緒を育んでしまうことにもなりかねません。妻が家事、夫が仕事(あるいはその逆)に集中すればある面役割を分け、それぞれが集中できることを持つことで夫婦関係を維持することに大きな効果があります。また一般的には新婚時代はダブルベッド、子どもができてはそれぞれのベッド、そして子どもが独立したら部屋も別々なんてのもよくある話です。それでバランスをとって家庭というカタチが維持されていたりします。
歳をとっても仲のいい夫婦というのは新婚当初の夫婦の愛情関係とは違うモチベーションで形成されていると考えられます。詳しく聞けば、だいたいの人びとが口々に言われることは
「いろいろあったのよ~。」
という話です。いろんな心境を通過して熟成しきった関係であると言えるかもしれません。
フラット化している社会の中で夫婦が夫婦としての関係を維持し続けるためには、どこかで妥協したり折り合いをつけながら暮らしていくことであるのかもしれません。現代社会は離婚ということが驚くようなことではなくなったのにはやはり男女同権やジェンダーフリーといった風潮、そしてそのベースはやはり世界がフラット化していることにあると思います。男尊女卑の時代はやはり女性が我慢していたのです。あるいは社会の風土自体からも、女性というものは男性に屈して追従するものというすり込みが女性になされていたこともあると思います。
昔、夫婦が夫婦関係を解消せず維持し続けるには、どうしても片方が我慢したり妥協したりということで成立していたということがいえるかもしれません。現在夫婦関係を維持し続けている人びとは間違いなく、我慢や妥協を互いにしているか、あるいはそれをしないでもいいくらいの距離を互いの間に置いているかのどちらかであると言えます。とにかく、他人であった人同士が夫婦になるということは自分以外の価値観を受け入れるということで、それは妥協以外の何ものでもありません。そして妥協を減らすには価値観がなるべく近い人を選ぶということも方法です。
分かりやすく言うと最後まで妥協できなかった人が離婚を選択するのです。それはそれで一つの選択肢ですから、決して悪いことではないと思います。あるヨーロッパの国のように、最初から結婚という形態にこだわらないという方法もあります。そうすることで良好なパートナー関係が維持できたり、婚外子という概念をなくし同じ権利を与えることで、少子化問題も克服できる方向になっているということも聞きます。今は男女というカテゴリーでだけ人を分けられないのと同じように今後結婚という観点もさまざまな形態が発生していくと考えられます。
最終的には人間はひとりの存在で、種の保存や生活していく上で便宜上、夫婦、家族という形態をなしているのだと思えば、さまざまな選択肢がそこには考えることができそうです。いずれにせよ、人間関係は(その差こそあれ)価値観の違う人同士が交流をもつということなので、そこにはどうしても精神的な触れ合いにおいてさまざまな影響をうけるわけです。すなわち人間関係とはストレスが生じやすく、それを極力いいカタチに転化する方法がコミュニケーションスキルということになると思います。
ラベル:
コミュニケーション,
会社経営(組織運営),
学習,
教育,
自分軸(PSI的フレームワーク),
販売、営業
2013年9月20日金曜日
日中韓はなかよくなれるのか?③
国境を越えてなかよくなる方法、考え方はいろいろあります。とりあえず思いつくことがらをあげると以下のようになります。
①罪(行為)を憎んで、人を憎まず。
②国家レベルでの対応はあっても、前世代の失敗やその報い(ツケ)は次世代に回さない。
③男・女(最近はカテゴリが増えていますが)、という立場、人間という次元まで抽象度をあげてつきあう。
とにかく日中韓の間で人びとは人間として心の通った普通の関係を築きたいわけです。もちろんそのためにはそれぞれが努力して感情論や社会的に受けてきた教育(他の国から見ると洗脳に他ならない)を越えて一人間として見つめる必要があると思います。もちろん全員がそのレベルになることは不可能です。少なくともPSIではそういう関係構築を標榜しています。そしてよりフラットな関係も目指しています。被害者、加害者という関係、権力者、従属者、あるいは強者、弱者の関係などすべてそういう要素を内包した組織はいずれヒエラルキーを形成し、そのうち間違えるとカルト教団のような組織になってしまう可能性があります。もっとも強い権力を持った人が教祖になってしまうのです。
ヒエラルキーがとても強固な国というと北朝鮮を思い浮かべる人もいるかもしれません。やはり強固な思想統一がなされている国家組織は、カルト教団とても似通っているのです。どの国も民主化政策を進めるのはそうならないようにするためで、それが国民の幸せに直結するからです。王は君臨すれど統治せず、王という個人、人間はつねに間違える可能性を内包しているのです。王はいても実際の政治は民間から選ばれた人が行うというのは理想です。では王は必要ないのかというと国民をまとめるシンボルというカタチであればなんら問題はないと考えます。そして統治者はつねに変わる、変えられることができるということが素晴らしいのです。その統治者も同族でないほうがいいと考えられます。
話が大きく外れましたが、人間は誰しも権力欲や野望をもっています。それは悪いことではないのです。要はそれを自己中心的に使ったりせず、ちゃんとコントロールできるということが、大人になることであると思います。暴力もパワーです。批判するのに暴力や破壊行為を行うということはこれは暴君や独裁者の手法となんら変わりません。ガンジーやキング牧師が歴史的に称賛され続けるのはそういった手法で訴えなかったということがあります。どんな違法な行動をしても反日無罪という観点には、はっきりとNOと言える民度をもてるように誰かがはじめて欲しいものです。
もちろんあまりにそれを容認、あるいは賛成意見が多い社会でNOということは、自殺行為であるかもしれません。国を正すにはその国にいてできないこともたくさんあります。反体制運動家はいつも自由主義の国に亡命して、訴え続けてきました。声を上げることができる国に来て声を上げる、訴えることでその国や国民が少しずつでも気づくことができれば大きな成果です。いずれにせよ改革や変革はたいへんな作業です。ただ革命はとてもリスクがあります。犠牲者もたくさん出ます。
会社、企業でも組織のトップも中枢に近い人びとほど制度に埋め込まれていて身動きがとれません。そういった環境下で気づいてもなかなか行動は起こせないのです。したがって周辺企業、部署から改革の波は徐々に中央に行くとか、第三者委員会など外部人材をつかってやるかしかなかなか方法がありません。ただ周辺過ぎたり、外部では見えてこない部分もあったりして改革のモチベーションが低いというマイナス面もあります。北朝鮮という国も地方にいる人民より、平壌にいる市民や政府高官が亡命したりするのを見ると、やはり中枢ほど問題も見えるということは事実だと思います。
日本と韓国でどちらがより社会的文化の強制度が高いかというとこれは間違いなく韓国です。ひとつの例をあげてみたいのですが、それは国際結婚から垣間見えます。わかりやすく言うと
韓国に嫁に行った日本女性はキムチを漬ける。
日本に嫁に来た韓国女性はキムチを漬ける。
ということです。日本女性ももともと男尊女卑の時代があったのでそのDNAを受け継いでいるからか、韓国社会の旧い風土には適応できるのです。日本では最近見受けられない嫁姑関係が存在していて、その風土に組み込まれています。それをさらに強固にしているのがマザコンに近い韓国の母息子の関係です。韓国に嫁入りした日本女性たちの話を聞くと、かなり精神的には抑圧された生活になっていることを感じます。彼女たちはイベントとしてお好み焼きは作っても、普段の生活ではチヂミをつくるのです。また中には独島(竹島の韓国名)はウリタン(我が【韓国の】領土)と言ってる(言わされている?)日本女性もいます。日本のネット上では目茶苦茶叩かれていますが、韓国ではそうしないと生きていけないのです。
それに比べ、日本に嫁入りした韓国女性は解放されます。キムチもつくれば、竹島は日本の領土なんて言う人はほとんどいません。また日本の男性は台所仕事をする人も多く、主夫も増えています。そして最近は韓国も多いのですが、日本はずいぶん前から核家族化も進み、長男でも親と暮らさない人が多いのです。それでたまに会う嫁姑関係はとてもフラットでカジュアルです。精神的に抑圧される要因は韓国よりは少ないと思います。それに、日本人は悪口は韓国人のいないところで言ってくれるので・・・・。ちなみに直接言ってくれる日本人がいたら、ある面愛情があるのかもしれませんね。
日本には全世界の料理がありますし、今は学校やさまざま自治体で外国の文化を取り入れることを推進しています。その中にはもちろん韓国の民俗文化なども含まれています。日本では日韓のイベントがたくさんあります。韓国では日本の民俗文化紹介やイベントなどはどうなのでしょう。ちなみに中国は政治や歴史問題と民間の交流はかなり分けて行われているように思います。中国は民主主義でない時代を長く続けてきたことと、国が大きすぎることもあり、ある面国家が交渉カードとして使っていることがらに民間があまり振り回されないという面もあります。
日本では九州などはすでに道路標識や街の案内標識などに英語、中国語、韓国語が使われています。韓国では日本人観光客がもっとも多いようですが、標識などはどうなのでしょう。やはり政府が反日ということをカードにつかっているので、それを行政で行うというのはなかなかできないのでしょうか。それでも南大門市場などに行くと販売者はほとんど日本語が話せます。民間レベルでは本音の部分でほとんどの人が日本語の必要性を感じているのでしょう。
韓国には日本の和食、寿司やカレーのチェーン店などが増えています。衣食住から徐々に文化、そして日本そのものを受け入れる状況が公式的に表れるようになることを期待したいものです。すでに日本在住の韓国の人びとはまた違った観点で祖国を見ているのでまた違った考察もできることかと思いますが、韓流好きな日本女性が日本にはたくさんいるように、韓国でも親日であると言っても別に批判されない国になることを願ってやみません。
①罪(行為)を憎んで、人を憎まず。
②国家レベルでの対応はあっても、前世代の失敗やその報い(ツケ)は次世代に回さない。
③男・女(最近はカテゴリが増えていますが)、という立場、人間という次元まで抽象度をあげてつきあう。
とにかく日中韓の間で人びとは人間として心の通った普通の関係を築きたいわけです。もちろんそのためにはそれぞれが努力して感情論や社会的に受けてきた教育(他の国から見ると洗脳に他ならない)を越えて一人間として見つめる必要があると思います。もちろん全員がそのレベルになることは不可能です。少なくともPSIではそういう関係構築を標榜しています。そしてよりフラットな関係も目指しています。被害者、加害者という関係、権力者、従属者、あるいは強者、弱者の関係などすべてそういう要素を内包した組織はいずれヒエラルキーを形成し、そのうち間違えるとカルト教団のような組織になってしまう可能性があります。もっとも強い権力を持った人が教祖になってしまうのです。
ヒエラルキーがとても強固な国というと北朝鮮を思い浮かべる人もいるかもしれません。やはり強固な思想統一がなされている国家組織は、カルト教団とても似通っているのです。どの国も民主化政策を進めるのはそうならないようにするためで、それが国民の幸せに直結するからです。王は君臨すれど統治せず、王という個人、人間はつねに間違える可能性を内包しているのです。王はいても実際の政治は民間から選ばれた人が行うというのは理想です。では王は必要ないのかというと国民をまとめるシンボルというカタチであればなんら問題はないと考えます。そして統治者はつねに変わる、変えられることができるということが素晴らしいのです。その統治者も同族でないほうがいいと考えられます。
話が大きく外れましたが、人間は誰しも権力欲や野望をもっています。それは悪いことではないのです。要はそれを自己中心的に使ったりせず、ちゃんとコントロールできるということが、大人になることであると思います。暴力もパワーです。批判するのに暴力や破壊行為を行うということはこれは暴君や独裁者の手法となんら変わりません。ガンジーやキング牧師が歴史的に称賛され続けるのはそういった手法で訴えなかったということがあります。どんな違法な行動をしても反日無罪という観点には、はっきりとNOと言える民度をもてるように誰かがはじめて欲しいものです。
もちろんあまりにそれを容認、あるいは賛成意見が多い社会でNOということは、自殺行為であるかもしれません。国を正すにはその国にいてできないこともたくさんあります。反体制運動家はいつも自由主義の国に亡命して、訴え続けてきました。声を上げることができる国に来て声を上げる、訴えることでその国や国民が少しずつでも気づくことができれば大きな成果です。いずれにせよ改革や変革はたいへんな作業です。ただ革命はとてもリスクがあります。犠牲者もたくさん出ます。
会社、企業でも組織のトップも中枢に近い人びとほど制度に埋め込まれていて身動きがとれません。そういった環境下で気づいてもなかなか行動は起こせないのです。したがって周辺企業、部署から改革の波は徐々に中央に行くとか、第三者委員会など外部人材をつかってやるかしかなかなか方法がありません。ただ周辺過ぎたり、外部では見えてこない部分もあったりして改革のモチベーションが低いというマイナス面もあります。北朝鮮という国も地方にいる人民より、平壌にいる市民や政府高官が亡命したりするのを見ると、やはり中枢ほど問題も見えるということは事実だと思います。
日本と韓国でどちらがより社会的文化の強制度が高いかというとこれは間違いなく韓国です。ひとつの例をあげてみたいのですが、それは国際結婚から垣間見えます。わかりやすく言うと
韓国に嫁に行った日本女性はキムチを漬ける。
日本に嫁に来た韓国女性はキムチを漬ける。
ということです。日本女性ももともと男尊女卑の時代があったのでそのDNAを受け継いでいるからか、韓国社会の旧い風土には適応できるのです。日本では最近見受けられない嫁姑関係が存在していて、その風土に組み込まれています。それをさらに強固にしているのがマザコンに近い韓国の母息子の関係です。韓国に嫁入りした日本女性たちの話を聞くと、かなり精神的には抑圧された生活になっていることを感じます。彼女たちはイベントとしてお好み焼きは作っても、普段の生活ではチヂミをつくるのです。また中には独島(竹島の韓国名)はウリタン(我が【韓国の】領土)と言ってる(言わされている?)日本女性もいます。日本のネット上では目茶苦茶叩かれていますが、韓国ではそうしないと生きていけないのです。
それに比べ、日本に嫁入りした韓国女性は解放されます。キムチもつくれば、竹島は日本の領土なんて言う人はほとんどいません。また日本の男性は台所仕事をする人も多く、主夫も増えています。そして最近は韓国も多いのですが、日本はずいぶん前から核家族化も進み、長男でも親と暮らさない人が多いのです。それでたまに会う嫁姑関係はとてもフラットでカジュアルです。精神的に抑圧される要因は韓国よりは少ないと思います。それに、日本人は悪口は韓国人のいないところで言ってくれるので・・・・。ちなみに直接言ってくれる日本人がいたら、ある面愛情があるのかもしれませんね。
日本には全世界の料理がありますし、今は学校やさまざま自治体で外国の文化を取り入れることを推進しています。その中にはもちろん韓国の民俗文化なども含まれています。日本では日韓のイベントがたくさんあります。韓国では日本の民俗文化紹介やイベントなどはどうなのでしょう。ちなみに中国は政治や歴史問題と民間の交流はかなり分けて行われているように思います。中国は民主主義でない時代を長く続けてきたことと、国が大きすぎることもあり、ある面国家が交渉カードとして使っていることがらに民間があまり振り回されないという面もあります。
日本では九州などはすでに道路標識や街の案内標識などに英語、中国語、韓国語が使われています。韓国では日本人観光客がもっとも多いようですが、標識などはどうなのでしょう。やはり政府が反日ということをカードにつかっているので、それを行政で行うというのはなかなかできないのでしょうか。それでも南大門市場などに行くと販売者はほとんど日本語が話せます。民間レベルでは本音の部分でほとんどの人が日本語の必要性を感じているのでしょう。
韓国には日本の和食、寿司やカレーのチェーン店などが増えています。衣食住から徐々に文化、そして日本そのものを受け入れる状況が公式的に表れるようになることを期待したいものです。すでに日本在住の韓国の人びとはまた違った観点で祖国を見ているのでまた違った考察もできることかと思いますが、韓流好きな日本女性が日本にはたくさんいるように、韓国でも親日であると言っても別に批判されない国になることを願ってやみません。
ラベル:
学習,
教育,
自分軸(PSI的フレームワーク),
政治
2013年9月19日木曜日
日中韓はなかよくなれるのか?②
今月22日日曜日にすべてのレイシズムやヘイトスピーチに反対する集会がもたれるようです。
http://antiracism.jp/march_for_freedom
最近は日本でも海外でしかお目にかかれないような過激なデモが見られるようになってきました。そのあまりに過激な汚い罵りは、とても日本人とは思えない、もしかしたら日本人ではない人たちが日本人の皮をまとってやっているのではないかと疑いたくなるようなものです。そういったことがコリアタウンと言われる地域で行われています。
同じ日本人として恥ずかしい限りですが、その方法は反日運動で見受けられるような手法と似通ってきています。海外でどんなに反日的な活動があったとしても日本人はつねに冷静に対処する(もちろん反日運動家?からはそういった日本の態度自体も気に食わないのでしょうが)というのがある面、先進国、大人の国という自負心でもあったわけです。ところが最近のもうレイシズムと言わざるをえない状況のデモを見たりするとあっけにとられるしかないのです。
韓国では親日発言の高齢者を殴り殺すという事件が起き、さらにそれを擁護するようなネット上の論調も数多くあったりして、とにかく感情的に冷静さに欠ける行動というのが目につきます。今日のYahooニュースでは下記のような記事が載っています。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130919-00000053-chosun-kr
とにかく最近のアジア三国の状況を見ると領土問題、歴史問題で感情的な行動が激しくなっています。このことは社会情勢自体がより個人に対してストレスの多い病的人格を生み出す要因をつくっているということがあげられると思います。日中韓に共通して言えることは少子高齢化が急速に進んでいて、人間関係の力が著しく低下しているということがあげられると考えます。縦型の上下関係は崩れていき、すでに年長者がえらく、年長者を大切にするという考え方はもうなくなってます。日本ではずいぶん前にそういった上下関係はかなり崩壊し、家族から会社組織までよりフラット化した関係になっています。
韓国も昔の映画と最近の映画やドラマでは大きく変わってきています。昔の映画やドラマでは大人や親の言うことが絶対で子どもや若者は間違っていても従うという社会でした。今は違います。最近のドラマの共通点は親たちの問題が子どもの代に露見して子どもたちの人生が翻弄されるというシチュエーションです。あの有名な冬のソナタも純愛と言いながら、親の世代は純愛じゃなかったよねというお話です。
今は年長者だからといって年下に命令したり強要するような態度の人は、逆に反感を買ってたいへんな目にあいます。何を言いたいかというと権力構造の上下のヒエラルキーがキツイ社会は抑圧された社会なので、徐々にそれらが爆発してしまう状況になっているということを感じます。権力や固定された思想で抑圧している社会は目に見えないフラストレーションがあふれているということなのです。韓国で高齢者を殴り殺した人はもちろん許されるべきではありません。ただそういう親日的言動に対してあまりに過激な行動に出てしまった原因は抑圧された社会やあまりに過激な反日に対するすり込みがなされている教育にもあります。
日本では反韓教育も、反中教育もしません。すなわち歴史教育に感情を持ち込まないのです。また教師が感情的にそういった意識で教育することもありません。いかに感情を入れず、歴史の史実を伝えるかが重要であり、間違っていれば上書きされていくというだけです。感情と言えばむしろ日教組の影響で日本政府に対しての反発を持つような教育のほうが知らぬ間になされていたかもしれません。他国に対して憎悪を抱かせるような教育は絶対しません。
韓国は戦後ずいぶんと民主化がなされてきました。でもまだ民主主義と言い切れないのは、社会の風潮として反対意見や異論が述べれないということがあります。日本では日本人が韓国や中国の立場を擁護する見解を述べても殺されることはありません。政治家が中国でリップサービスをしても、多少のバッシングを受けるくらいで日本にちゃんと帰国して暮らせるのです。歌手のチョ・ヨンナムさんや大学教授オ・ソナさんのこともやはり韓国はきびしいと思わざるをえません。
韓国は半島でつねに他国からの侵略に対峙しなければいけない都合上、また北朝鮮と対峙している関係上思想的な統一が不可欠であったという国家の哀しい事情があります。過去の韓国の歴史をみてもアカ狩りでかなりの人びとが犠牲になっています。でも今、反日感情を子どもたちにどんどん教育しすり込んで何かメリットがあるのでしょうか?反日運動やその意識の高揚がメリットがあるのは二点です。それは
・政権に対する不満や支持率低下に対する国民のガス抜き
・歴史問題の謝罪を通じた賠償金
です。でもよく考えるとあまりおいしいものではありません。たしかにアメリカも戦争をすると支持率が上がります。でも今回のイランへの武力行使にはアメリカ国民は懐疑的です。イギリスは参加しないことを議会で決定しました。アメリカ国民もイラク進攻の際、大量秘密兵器は無かったとか、過去のことから学習しているのです。もう政府に振り回されないよという民主主義国家としての行動をしているわけです。韓国も政府はつねに反日を利用しガス抜きをしているのですが、そういったことは良識ある韓国国民はわかっています。でも幼少時からすり込まれた反日精神はなかなか脱却できない人も多いのです。
経済援助も歴史問題にかけてやるよりは素直に日本への支援を要望したほうが日本国民は歓迎します。まあ韓国ではそういうカタチで支援を受けるということは韓国世論の反対を考えて仕方なくそういう手法しか使えないのかもしれません。北風政策では人の心は開きません。もうほとんどの日本人の心の中には、何回でも謝るけど、結局お金欲しんでしょという認識になってしまっています。もう謝罪要求は金銭要求であるとほとんどの日本人は認識しています。
反日運動は必ずしも韓国や中国の全国民の意識の反映とは考えられません。実際韓国では高齢者の方がたがとても親日の場合が多いのです。私はあの時代はご苦労されたでしょうというと、全く違う答えが返ってくるので恐縮してしまうのです。むしろ植民地時代を体験していない若い人びとの中にとてつもない反日意識を持っている場合を数多く見てきました。これは私としてはとても不思議なことでした。たしかに五情の中で唯一‘怨み’の情だけが時間薬が効かず、時間の経過とともに大きくなるのです。まさに世代が変わると多少消えるのかと思ったら、逆に世代交代とともに怨みや被害者意識は大きくなっているのです。
日本はアメリカに対して過剰な被害者意識は持ちません。というよりそういう教育自体受けていないのです。過剰な被害者意識も加害者意識も、ともに個人の人格に良い影響は与えませんし、ひいては国の発展にもマイナスです。韓国のドラマを見ていていつも思うのは親の問題が子どもに影響を及ぼすのです。でも私は結構ドライなので、親は親、子は子と考えればいいじゃないかと思ったりします。親は先に行く世代、子はこれから歩む世代。親は過去の因習にとらわれ身動きがとれないのです。親に今更価値観を変えろというのは酷です。親は子の幸せを願っています。親離れをすることが結果的に親孝行です。それで子は幸せになれるのですから。親は理解できなくていいのです。
日本の場合は欧米の個人主義や核家族化の影響で、親はもう子どもに親の考えを押し付けなくなりました。韓国はまだまだ家族主義というアジア特有の良きにつけ悪しきにつけそういった考え方が根強いのでそのパラダイムの呪縛ゆえにたいへん苦労するかもしれません。いずれにせよ抑圧が強い国から抑圧が少ない国に来れば、いろんな価値観と接し、もう一度自分や自身の人生を見つめなおす機会が得られます。日本に長年暮らして韓国に帰った知人が、日韓の領土問題になったとき、「日本には日本の言い分がある」とだけ言ったとき、たいへんなことになったそうです。
グローバル化とは多様な価値観を受け入れる、せめて受け止めることから始まります。ダイバーシティという考え方もそうです。韓国ももうそろそろ二回目の民主主義(一回目は軍事政権からの脱却)に飛躍するときを迎えているのではないかと思います。感情に任せた行動による社会で起こっているさまざまな事件はその過渡期に来ている気がします。韓国国民がそれを深刻にとらえ、もっともっと客観的視点に立ってものごとを分析、吟味してほしいものです。韓国はもともと優秀な力のある民族です。それが国自体がもつ制度的埋め込み(制度は文化も含めます)から個の意見が抑圧されて来ました。これを解くのはなかなか困難なことです。
現代グループ創始者の鄭周永(チョン・ジュヨン)氏が生前、「韓国に共産党があってもいい」という発言をし波紋を拡げたことがありました。ここまで成熟した韓国はもういろんな価値観が入っても国が揺るぐことはありません。もう一歩本来的な民主主義が浸透すれば日本の嫌韓感情も溶けて行きます。レイシズム運動も消えていくでしょう。おとなしい日本もあまり追いつめるとそういうことが増えていきます。それでもそういったことは辞めようと日本は日本なりに努力しています。韓国もそういった声が少しずつでも増えていくことを期待したいものです。
http://antiracism.jp/march_for_freedom
最近は日本でも海外でしかお目にかかれないような過激なデモが見られるようになってきました。そのあまりに過激な汚い罵りは、とても日本人とは思えない、もしかしたら日本人ではない人たちが日本人の皮をまとってやっているのではないかと疑いたくなるようなものです。そういったことがコリアタウンと言われる地域で行われています。
同じ日本人として恥ずかしい限りですが、その方法は反日運動で見受けられるような手法と似通ってきています。海外でどんなに反日的な活動があったとしても日本人はつねに冷静に対処する(もちろん反日運動家?からはそういった日本の態度自体も気に食わないのでしょうが)というのがある面、先進国、大人の国という自負心でもあったわけです。ところが最近のもうレイシズムと言わざるをえない状況のデモを見たりするとあっけにとられるしかないのです。
韓国では親日発言の高齢者を殴り殺すという事件が起き、さらにそれを擁護するようなネット上の論調も数多くあったりして、とにかく感情的に冷静さに欠ける行動というのが目につきます。今日のYahooニュースでは下記のような記事が載っています。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130919-00000053-chosun-kr
とにかく最近のアジア三国の状況を見ると領土問題、歴史問題で感情的な行動が激しくなっています。このことは社会情勢自体がより個人に対してストレスの多い病的人格を生み出す要因をつくっているということがあげられると思います。日中韓に共通して言えることは少子高齢化が急速に進んでいて、人間関係の力が著しく低下しているということがあげられると考えます。縦型の上下関係は崩れていき、すでに年長者がえらく、年長者を大切にするという考え方はもうなくなってます。日本ではずいぶん前にそういった上下関係はかなり崩壊し、家族から会社組織までよりフラット化した関係になっています。
韓国も昔の映画と最近の映画やドラマでは大きく変わってきています。昔の映画やドラマでは大人や親の言うことが絶対で子どもや若者は間違っていても従うという社会でした。今は違います。最近のドラマの共通点は親たちの問題が子どもの代に露見して子どもたちの人生が翻弄されるというシチュエーションです。あの有名な冬のソナタも純愛と言いながら、親の世代は純愛じゃなかったよねというお話です。
今は年長者だからといって年下に命令したり強要するような態度の人は、逆に反感を買ってたいへんな目にあいます。何を言いたいかというと権力構造の上下のヒエラルキーがキツイ社会は抑圧された社会なので、徐々にそれらが爆発してしまう状況になっているということを感じます。権力や固定された思想で抑圧している社会は目に見えないフラストレーションがあふれているということなのです。韓国で高齢者を殴り殺した人はもちろん許されるべきではありません。ただそういう親日的言動に対してあまりに過激な行動に出てしまった原因は抑圧された社会やあまりに過激な反日に対するすり込みがなされている教育にもあります。
日本では反韓教育も、反中教育もしません。すなわち歴史教育に感情を持ち込まないのです。また教師が感情的にそういった意識で教育することもありません。いかに感情を入れず、歴史の史実を伝えるかが重要であり、間違っていれば上書きされていくというだけです。感情と言えばむしろ日教組の影響で日本政府に対しての反発を持つような教育のほうが知らぬ間になされていたかもしれません。他国に対して憎悪を抱かせるような教育は絶対しません。
韓国は戦後ずいぶんと民主化がなされてきました。でもまだ民主主義と言い切れないのは、社会の風潮として反対意見や異論が述べれないということがあります。日本では日本人が韓国や中国の立場を擁護する見解を述べても殺されることはありません。政治家が中国でリップサービスをしても、多少のバッシングを受けるくらいで日本にちゃんと帰国して暮らせるのです。歌手のチョ・ヨンナムさんや大学教授オ・ソナさんのこともやはり韓国はきびしいと思わざるをえません。
韓国は半島でつねに他国からの侵略に対峙しなければいけない都合上、また北朝鮮と対峙している関係上思想的な統一が不可欠であったという国家の哀しい事情があります。過去の韓国の歴史をみてもアカ狩りでかなりの人びとが犠牲になっています。でも今、反日感情を子どもたちにどんどん教育しすり込んで何かメリットがあるのでしょうか?反日運動やその意識の高揚がメリットがあるのは二点です。それは
・政権に対する不満や支持率低下に対する国民のガス抜き
・歴史問題の謝罪を通じた賠償金
です。でもよく考えるとあまりおいしいものではありません。たしかにアメリカも戦争をすると支持率が上がります。でも今回のイランへの武力行使にはアメリカ国民は懐疑的です。イギリスは参加しないことを議会で決定しました。アメリカ国民もイラク進攻の際、大量秘密兵器は無かったとか、過去のことから学習しているのです。もう政府に振り回されないよという民主主義国家としての行動をしているわけです。韓国も政府はつねに反日を利用しガス抜きをしているのですが、そういったことは良識ある韓国国民はわかっています。でも幼少時からすり込まれた反日精神はなかなか脱却できない人も多いのです。
経済援助も歴史問題にかけてやるよりは素直に日本への支援を要望したほうが日本国民は歓迎します。まあ韓国ではそういうカタチで支援を受けるということは韓国世論の反対を考えて仕方なくそういう手法しか使えないのかもしれません。北風政策では人の心は開きません。もうほとんどの日本人の心の中には、何回でも謝るけど、結局お金欲しんでしょという認識になってしまっています。もう謝罪要求は金銭要求であるとほとんどの日本人は認識しています。
反日運動は必ずしも韓国や中国の全国民の意識の反映とは考えられません。実際韓国では高齢者の方がたがとても親日の場合が多いのです。私はあの時代はご苦労されたでしょうというと、全く違う答えが返ってくるので恐縮してしまうのです。むしろ植民地時代を体験していない若い人びとの中にとてつもない反日意識を持っている場合を数多く見てきました。これは私としてはとても不思議なことでした。たしかに五情の中で唯一‘怨み’の情だけが時間薬が効かず、時間の経過とともに大きくなるのです。まさに世代が変わると多少消えるのかと思ったら、逆に世代交代とともに怨みや被害者意識は大きくなっているのです。
日本はアメリカに対して過剰な被害者意識は持ちません。というよりそういう教育自体受けていないのです。過剰な被害者意識も加害者意識も、ともに個人の人格に良い影響は与えませんし、ひいては国の発展にもマイナスです。韓国のドラマを見ていていつも思うのは親の問題が子どもに影響を及ぼすのです。でも私は結構ドライなので、親は親、子は子と考えればいいじゃないかと思ったりします。親は先に行く世代、子はこれから歩む世代。親は過去の因習にとらわれ身動きがとれないのです。親に今更価値観を変えろというのは酷です。親は子の幸せを願っています。親離れをすることが結果的に親孝行です。それで子は幸せになれるのですから。親は理解できなくていいのです。
日本の場合は欧米の個人主義や核家族化の影響で、親はもう子どもに親の考えを押し付けなくなりました。韓国はまだまだ家族主義というアジア特有の良きにつけ悪しきにつけそういった考え方が根強いのでそのパラダイムの呪縛ゆえにたいへん苦労するかもしれません。いずれにせよ抑圧が強い国から抑圧が少ない国に来れば、いろんな価値観と接し、もう一度自分や自身の人生を見つめなおす機会が得られます。日本に長年暮らして韓国に帰った知人が、日韓の領土問題になったとき、「日本には日本の言い分がある」とだけ言ったとき、たいへんなことになったそうです。
グローバル化とは多様な価値観を受け入れる、せめて受け止めることから始まります。ダイバーシティという考え方もそうです。韓国ももうそろそろ二回目の民主主義(一回目は軍事政権からの脱却)に飛躍するときを迎えているのではないかと思います。感情に任せた行動による社会で起こっているさまざまな事件はその過渡期に来ている気がします。韓国国民がそれを深刻にとらえ、もっともっと客観的視点に立ってものごとを分析、吟味してほしいものです。韓国はもともと優秀な力のある民族です。それが国自体がもつ制度的埋め込み(制度は文化も含めます)から個の意見が抑圧されて来ました。これを解くのはなかなか困難なことです。
現代グループ創始者の鄭周永(チョン・ジュヨン)氏が生前、「韓国に共産党があってもいい」という発言をし波紋を拡げたことがありました。ここまで成熟した韓国はもういろんな価値観が入っても国が揺るぐことはありません。もう一歩本来的な民主主義が浸透すれば日本の嫌韓感情も溶けて行きます。レイシズム運動も消えていくでしょう。おとなしい日本もあまり追いつめるとそういうことが増えていきます。それでもそういったことは辞めようと日本は日本なりに努力しています。韓国もそういった声が少しずつでも増えていくことを期待したいものです。
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2013年9月18日水曜日
日中韓はなかよくなれるのか?①
日中韓、このアジアでもっとも重要で困難で、ひとくくりにできないこの三国の問題に関してはずっと避けてきた議題です。このブログはコラム式に書いていて、読むのもたいへんだけど、コメント書くのも書きづらいので、いまだにどなたのコメントもいただいておりません。管理人が削除したコメントもありません。
かなり主観的な観点が含まれているように思われるでしょうし、実際八方美人的な論調でないことは間違いありません。それでも読者の方がたが、とりあえず読んでいただいてもコメントまではされないのは、そこまで感情的にヒートアップするような議題をあまりとりあげていないということもあるかもしれません。
今回日中韓というテーマはある面たいへんリスキーなものであるとは思います。でもやはりこの件は避けて通れないものであると思います。PSI的見解をいつか出さないといけないとは思いつつもリスキーなテーマであることから、なかなか踏み切れない部分はありました。なぜならこのブログは中国の人も韓国の人も読んでいただいているからです。私自身中国・韓国の友人がいますし、決して嫌韓でも、嫌中でもないということは断っておきたいと思います。逆に下手な主張をするとネトウヨと呼ばれる人びとの反感を買う可能性もありますが、基本的に私は日本人ですから日本人のごく一般的な価値観をもっていることは否定できません。したがって彼らの気持ちも十分理解できますし、同調したい気にもなります。とりあえずそういったリスクはさておいて、今後少しづつ小出しに見解を述べていきたいと思います。
まず最初に日中韓はなかよくなれるのか?
というテーマに対しての結論をいきなり申しますとそれは可能だということです。というよりすでにそういう関係を築いている人は多いのです。その方法という考え方は極めてシンプルです。それは
男と女(最近は中間の方もおられますが)、人間というレベルまで抽象度をあげてつきあえば可能である。
ということなのです。芸術や文化は国境を越えますが、男女関係も国境を越えやすいのです。そして人間としての関係性はまったく問題がありません。ただその際、どう考えても平行線にしかならない課題はとりあえず棚上げしておくということです。これは個人レベルのつきあいでは可能です。棚上げというと、とても無責任なようですが、実は棚上げせざるえないことがらというのは私たちの人間としての生物学的な価値とはまったく関係がありません。すなわちたまたま生まれた国の立場や主張を押し付けられて、さらに言うとすり込まれているにすぎないのです。
国家的、社会的レベルにおける都合をお仕着せられているのが人間であるということです。そういったことも含めてアイデンティティというものが形成されているのですが、国の領土もこれは歴史の流れの中で人間が勝手に決めたものであって、もし神様がおられるとしたら、まったく関係の無いものであると思います。もちろん直接聞いたわけではないので断定はできません。
国とか社会、さまざまな組織にはそれぞれ人間一個人が巻き込まれるパラダイムを擁しています。その存続のために必要な考え方や都合に合わせての主張は各国、各社会、各組織において違います。そしてそこに異論をとなえると危険であることは周知のとおりです。リスクを負って異論を唱えたり変えようとするのは変革であったり、さらに過激になると革命になったりしますが、それはなかなかたいへんなことです。
日中韓の間に横たわる問題も組織変革みたいなレベルでとらえれる問題ではありません。おそらく今私たちが生きているうちに解決できるなどとは到底考えられないことばかりです。でも私たちは今を生きています。個人レベルにおいてはなかよく暮らしたいし、つきあいたいわけです。だから棚上げというか、生物としての人間とは直接関係の無い社会的な影響から変容している部分は置いといてつきあいましょうということなのです。
もちろん国が違うわけですから、やはり領土問題をはじめ、さまざまな歴史問題など食い違う部分においては大いに議論することはいいことです。むしろどんどんするべきだとも思います。日本人はとくにその部分においてはなかなか下手なのです。本音と建前でつねに和の文化の中で暮らしてきたので、欧米の大学や企業で平気で行われているディベートが上手ではないのです。では中国、韓国の人が得意かというとそうでもありません。感情論に陥りがちになって議論ができなくなる可能性があるのです。
この三国がディベートを成功させるにはスキルとセルフコントロールが必要です。それは内省やセルフコーゼーションというなんでも相手が問題だと批判するのでなく自己批判できる器も必要です。
韓国人の努力目標は、感情的にならず、威圧的になったり、強迫じみた言い回しをすることをさけることです。これは交渉術としては有効な場合がありますが、交渉して自分の要求を相手に飲ませるのが目的ではないということです。負けるが勝ちという言葉がありますが、無理やり追い込めて勝つと後で分が悪くなり、結局人間関係で劣位に転じる可能性が大です。
日本人は本音と建前が人間関係の潤滑油みたいなところが強く、言いにくいことは極力オブラートに包んで表現してしまうということが多いのです。で、結果的に相手にちゃんと伝わっていないということが多く。また甘えの構造からなんで理解してないのと相手を責めるところがあるのです。空気を読んでとか、行間を読んで理解してというのは日本でしか通用しません。最近は世代的に空気が読めなくなっているので、空気を呼んで相手の意図を察して行動できる人は減っています。とにかくはっきりと意見を述べるということが重要です。議論のとき言いたいことを我慢してあとでこそこそ言うのは日本人の悪いところです。
日本人は喧嘩もできない人が多く、裏ではいろいろ言っているのに本人の前ではいい顔で通るというのがあります。そういう人は似非平和主義と私は言っていますが、たまには感情的になったり喧嘩したりするのも人間的でいいのではと思います。日本の犯罪はそういった面でとても陰湿なものが多い気がします。
中国人は過激な反日運動ばかりがメディアに露出されているので、とんでもない過激で感情的だと思われがちですが、それは一部の人です。実際はかなり冷静な人も多いのです。何しろ4000年の歴史がありますし、忍耐強いところもあるのです。ただ自己主張は強いので、相手の事情をよく理解するというスキルは必要な気がします。また計算づくで考えるのでなく、本音で自分をさらけ出すことも必要かと思います。日本人とまたちがって奥深い部分があります。
それぞれ個々のマイナス部分を自覚した人びとが集まって冷静に議論すればとても面白いと思います。もちろん育った環境や遺伝的要素も違いますが、いまあげたような内容を抑えて話し合うというのはとても大変なことです。しゃべり方もすぐ民族性がすぐでてしまいます。それは仕方のないことです。ただ知的にはそういったマイナス部分を念頭に置いておくというのは大切です。受容できる部分は自分にとってプラスになるわけで、どうしても譲れない部分を譲る必要もないのです。平行線になっていいのです。
かなり主観的な観点が含まれているように思われるでしょうし、実際八方美人的な論調でないことは間違いありません。それでも読者の方がたが、とりあえず読んでいただいてもコメントまではされないのは、そこまで感情的にヒートアップするような議題をあまりとりあげていないということもあるかもしれません。
今回日中韓というテーマはある面たいへんリスキーなものであるとは思います。でもやはりこの件は避けて通れないものであると思います。PSI的見解をいつか出さないといけないとは思いつつもリスキーなテーマであることから、なかなか踏み切れない部分はありました。なぜならこのブログは中国の人も韓国の人も読んでいただいているからです。私自身中国・韓国の友人がいますし、決して嫌韓でも、嫌中でもないということは断っておきたいと思います。逆に下手な主張をするとネトウヨと呼ばれる人びとの反感を買う可能性もありますが、基本的に私は日本人ですから日本人のごく一般的な価値観をもっていることは否定できません。したがって彼らの気持ちも十分理解できますし、同調したい気にもなります。とりあえずそういったリスクはさておいて、今後少しづつ小出しに見解を述べていきたいと思います。
まず最初に日中韓はなかよくなれるのか?
というテーマに対しての結論をいきなり申しますとそれは可能だということです。というよりすでにそういう関係を築いている人は多いのです。その方法という考え方は極めてシンプルです。それは
男と女(最近は中間の方もおられますが)、人間というレベルまで抽象度をあげてつきあえば可能である。
ということなのです。芸術や文化は国境を越えますが、男女関係も国境を越えやすいのです。そして人間としての関係性はまったく問題がありません。ただその際、どう考えても平行線にしかならない課題はとりあえず棚上げしておくということです。これは個人レベルのつきあいでは可能です。棚上げというと、とても無責任なようですが、実は棚上げせざるえないことがらというのは私たちの人間としての生物学的な価値とはまったく関係がありません。すなわちたまたま生まれた国の立場や主張を押し付けられて、さらに言うとすり込まれているにすぎないのです。
国家的、社会的レベルにおける都合をお仕着せられているのが人間であるということです。そういったことも含めてアイデンティティというものが形成されているのですが、国の領土もこれは歴史の流れの中で人間が勝手に決めたものであって、もし神様がおられるとしたら、まったく関係の無いものであると思います。もちろん直接聞いたわけではないので断定はできません。
国とか社会、さまざまな組織にはそれぞれ人間一個人が巻き込まれるパラダイムを擁しています。その存続のために必要な考え方や都合に合わせての主張は各国、各社会、各組織において違います。そしてそこに異論をとなえると危険であることは周知のとおりです。リスクを負って異論を唱えたり変えようとするのは変革であったり、さらに過激になると革命になったりしますが、それはなかなかたいへんなことです。
日中韓の間に横たわる問題も組織変革みたいなレベルでとらえれる問題ではありません。おそらく今私たちが生きているうちに解決できるなどとは到底考えられないことばかりです。でも私たちは今を生きています。個人レベルにおいてはなかよく暮らしたいし、つきあいたいわけです。だから棚上げというか、生物としての人間とは直接関係の無い社会的な影響から変容している部分は置いといてつきあいましょうということなのです。
もちろん国が違うわけですから、やはり領土問題をはじめ、さまざまな歴史問題など食い違う部分においては大いに議論することはいいことです。むしろどんどんするべきだとも思います。日本人はとくにその部分においてはなかなか下手なのです。本音と建前でつねに和の文化の中で暮らしてきたので、欧米の大学や企業で平気で行われているディベートが上手ではないのです。では中国、韓国の人が得意かというとそうでもありません。感情論に陥りがちになって議論ができなくなる可能性があるのです。
この三国がディベートを成功させるにはスキルとセルフコントロールが必要です。それは内省やセルフコーゼーションというなんでも相手が問題だと批判するのでなく自己批判できる器も必要です。
韓国人の努力目標は、感情的にならず、威圧的になったり、強迫じみた言い回しをすることをさけることです。これは交渉術としては有効な場合がありますが、交渉して自分の要求を相手に飲ませるのが目的ではないということです。負けるが勝ちという言葉がありますが、無理やり追い込めて勝つと後で分が悪くなり、結局人間関係で劣位に転じる可能性が大です。
日本人は本音と建前が人間関係の潤滑油みたいなところが強く、言いにくいことは極力オブラートに包んで表現してしまうということが多いのです。で、結果的に相手にちゃんと伝わっていないということが多く。また甘えの構造からなんで理解してないのと相手を責めるところがあるのです。空気を読んでとか、行間を読んで理解してというのは日本でしか通用しません。最近は世代的に空気が読めなくなっているので、空気を呼んで相手の意図を察して行動できる人は減っています。とにかくはっきりと意見を述べるということが重要です。議論のとき言いたいことを我慢してあとでこそこそ言うのは日本人の悪いところです。
日本人は喧嘩もできない人が多く、裏ではいろいろ言っているのに本人の前ではいい顔で通るというのがあります。そういう人は似非平和主義と私は言っていますが、たまには感情的になったり喧嘩したりするのも人間的でいいのではと思います。日本の犯罪はそういった面でとても陰湿なものが多い気がします。
中国人は過激な反日運動ばかりがメディアに露出されているので、とんでもない過激で感情的だと思われがちですが、それは一部の人です。実際はかなり冷静な人も多いのです。何しろ4000年の歴史がありますし、忍耐強いところもあるのです。ただ自己主張は強いので、相手の事情をよく理解するというスキルは必要な気がします。また計算づくで考えるのでなく、本音で自分をさらけ出すことも必要かと思います。日本人とまたちがって奥深い部分があります。
それぞれ個々のマイナス部分を自覚した人びとが集まって冷静に議論すればとても面白いと思います。もちろん育った環境や遺伝的要素も違いますが、いまあげたような内容を抑えて話し合うというのはとても大変なことです。しゃべり方もすぐ民族性がすぐでてしまいます。それは仕方のないことです。ただ知的にはそういったマイナス部分を念頭に置いておくというのは大切です。受容できる部分は自分にとってプラスになるわけで、どうしても譲れない部分を譲る必要もないのです。平行線になっていいのです。
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2013年7月6日土曜日
負のエネルギーをうまく活用する方法
人生、生きていく中でさまざまな体験をします。もちろん喜怒哀楽、さまざまな心情を感じていくわけですが、なかなか怒りや怨みの情だけはなかなかコントロールが難しいものです。「金持ち喧嘩せず」というのは色んな意味合いがあるでしょうが、基本的にいい人生を送っているなと感じる方々は比較的穏やかでジェントルな方が多いような気がします。
PSIでは金持ちになること、成功することを別に奨励はしていませんが、人生豊かに楽しく有意義な過ごし方ができると幸せをたくさん感じることができると思います。そのためにはやはり感情のコントロールというのはとても重要で、それができなければ成功することはもちろんのこと、人生を謳歌することはとても困難であると思います。うまくいっている経営者の中には、あまり神経質でいつもイライラして殺気立っているような人は見たことがありません。もしそういう人が経営者であったらその企業はブラック企業に選定されているかもしれません。
できる人というのは熱い志を持ちながらも、感情はコントロールし、自分の目標に対してつねに前向きで努力しつづけることができる人だと思います。優良企業の経営者の人びとを見てみると、比較的人当たりもよく穏やかでありながら、胸に秘めた燃える思いというものがひしひしと伝わってきます。そして経営においてもっとも効率的なアプローチをすることができる人です。それは業務もそうですし、組織を形成している社員に対してもそうです。優秀な経営者というのは会社の誰よりも学んでいる人で、新しいことにもっとも好奇心があって誰よりも意欲的である人だと思います。そして社員に対して最高のパフォーマンスが上がるようにうまくアプローチできる人です。間違えても自分が正しいと怒鳴ったり、大人気なく社員や部下と喧嘩したりということはまずありません。
反対にできる社員や部下というのも上司に対してうまく動かすコツをわきまえている人です。もちろん情熱的に訴えてぶつかったりすることもあるかもしれません。でもある程度のところで上司のレベルを見抜いてどう対処するかという対応策が頭の中にあって行動できることが重要です。もちろんダメ上司でどう考えてもその上司の下で働くメリットがないことが明確ならば、転職や独立、起業といったことも考えることができるのができる人です。感情的に行動し、扱いにくい部下だと上司や経営者からレッテルを貼られてしまうのは自分にとってまったくメリットはありません。
経営者や上司は組織という観点ではやはり権威ある立場なのです。自分ひとりがどんなに訴えたところで、社内のだれも自分と同調する人がいなかったならば、出る杭ではなく、ただのわがまま坊主に映るだけです。部下や社員の立場でより上位者に訴えそれを聞き入れてもらうためには、まず自分の同僚以下、そして上位者の中でも自分を後押ししてくれる社内的人脈ができていなければならないわけです。たとえば上司にある提案をするとき、上司がより理解できるかたちで話をすることも重要ですし、その時点で上司以外は全員が自分の意見とコンセンサスを得ているという暗黙の了解もあれば最高です。
社内である程度、模範的な言動ができ、なおかつつねに学習していて周囲がついてくるぐらいの人間力を発揮しながら、より上位者のレベルも理解した上で意見ができなければ、社内で浮いてしまう可能性もあります。逆に経営者や上司の立場にある人は何でも自分の思うようにいっていると思って社員が納得しないことも要求し続けていると間違いなく裸の王様になることは間違いなしです。部下がやたら自分のことをほめて、自分に対する意見や新しいアイディアなどの提案がなくなっているとすれば、もう完全に上司、経営者としては部下や社員は見限っているということであると認識すべきです。すなわち、ジジ殺し、褒め殺しの状態まで言ってて、最悪のときには裏切られてしまうケースです。部下がやたら自分にとって心地いいことしか言わない状況になっている時点で早く気づくことが重要です。
とにかく感情をコントロールできない人は絶対に大成しません。それは社会的地位という以前に人間として、人格的にも幼いレベルにとどまっていると考えてよいでしょう。ものすごいワンマンで独裁者の経営者で存在できている会社があれば、それはすでに超権威主義を許容しているカルトチックな組織になっているはずです。ブラック企業に上げられている企業にもそういった組織の企業があるかもしれません。会社には社是や社訓が掲げてある程度ならいいのですが、創立者の写真などが掲げてある会社はひとつの宗教になっています。
話がそれましたが、とにかく感情をコントロールできる人格、言動を養っていかなければなりません。感情的な人は見方を変えれば情熱的でやる気のある人です。ある面会社でいつもネガティヴ発言で、「どうせ~」とか「やっぱり~」から始まったり、「でも」「そうは言っても」といった逆接の言葉が多い人は、すでに学習性無力感から意欲さえ失っていたりします。そういう人はもう何をやるにも意欲が足りなかったりつねに言い訳ばかりが口に出るようになっています。感情的な人は感情のコントロールさえできればまだ可能性があります。
会社をはじめ、人間によって形成されるあらゆる組織にはさまざまな人間関係があります。自分と相性が合う人しかいないという組織は稀です。もしそういう人がいるとしたならば相当人間的器の広い方だと思います。むしろ組織の中には許せないとかムカつくとかウザイといった人が必ずいるはずです。でそういった人にその気持ちをいつも持ち続けているのは精神衛生上よくありません。それでそれを解消する方法はそういったことにかかわっていられないくらいの自分の目標を持つということが重要です。そしてそれを達成することが、ストレスの原因になっている人びとを見返すことにもつながれば尚更です。ムカついたり、カッとくる負のパワーを、よし見ておれ、必ず見返してやると自分の目標を達成するための正のエネルギーに全面的に転化させるのです。それが普段の生活の中でスムーズにできるようになれば、人生の時間を無駄に使わないで済むことになるはずです。
自分の人生は会社のため、まして会社のダメな人びとのためにあるわけではないのです。その人たちのレベルの低い人格のゆえに自分の感情や心情、そして貴重な時間や行動までも無駄にする必要はないのです。困った人が助けを求めてきてそれに心情や行動、時間を割くことはとても意義深く、いずれ自分にいいかたちで返ってきます。でも自分が勝手に自分を苦しめる感情を持つことはとてももったいないことなのです。少しでも早く負のエネルギーは正のエネルギーに転化して人生の意義あることに活用していきましょう。私たちの人生は自分の人生を有意義に生きることと社会的に意義ある人生にしていくことが大切ではないかと思うのです。
PSIでは金持ちになること、成功することを別に奨励はしていませんが、人生豊かに楽しく有意義な過ごし方ができると幸せをたくさん感じることができると思います。そのためにはやはり感情のコントロールというのはとても重要で、それができなければ成功することはもちろんのこと、人生を謳歌することはとても困難であると思います。うまくいっている経営者の中には、あまり神経質でいつもイライラして殺気立っているような人は見たことがありません。もしそういう人が経営者であったらその企業はブラック企業に選定されているかもしれません。
できる人というのは熱い志を持ちながらも、感情はコントロールし、自分の目標に対してつねに前向きで努力しつづけることができる人だと思います。優良企業の経営者の人びとを見てみると、比較的人当たりもよく穏やかでありながら、胸に秘めた燃える思いというものがひしひしと伝わってきます。そして経営においてもっとも効率的なアプローチをすることができる人です。それは業務もそうですし、組織を形成している社員に対してもそうです。優秀な経営者というのは会社の誰よりも学んでいる人で、新しいことにもっとも好奇心があって誰よりも意欲的である人だと思います。そして社員に対して最高のパフォーマンスが上がるようにうまくアプローチできる人です。間違えても自分が正しいと怒鳴ったり、大人気なく社員や部下と喧嘩したりということはまずありません。
反対にできる社員や部下というのも上司に対してうまく動かすコツをわきまえている人です。もちろん情熱的に訴えてぶつかったりすることもあるかもしれません。でもある程度のところで上司のレベルを見抜いてどう対処するかという対応策が頭の中にあって行動できることが重要です。もちろんダメ上司でどう考えてもその上司の下で働くメリットがないことが明確ならば、転職や独立、起業といったことも考えることができるのができる人です。感情的に行動し、扱いにくい部下だと上司や経営者からレッテルを貼られてしまうのは自分にとってまったくメリットはありません。
経営者や上司は組織という観点ではやはり権威ある立場なのです。自分ひとりがどんなに訴えたところで、社内のだれも自分と同調する人がいなかったならば、出る杭ではなく、ただのわがまま坊主に映るだけです。部下や社員の立場でより上位者に訴えそれを聞き入れてもらうためには、まず自分の同僚以下、そして上位者の中でも自分を後押ししてくれる社内的人脈ができていなければならないわけです。たとえば上司にある提案をするとき、上司がより理解できるかたちで話をすることも重要ですし、その時点で上司以外は全員が自分の意見とコンセンサスを得ているという暗黙の了解もあれば最高です。
社内である程度、模範的な言動ができ、なおかつつねに学習していて周囲がついてくるぐらいの人間力を発揮しながら、より上位者のレベルも理解した上で意見ができなければ、社内で浮いてしまう可能性もあります。逆に経営者や上司の立場にある人は何でも自分の思うようにいっていると思って社員が納得しないことも要求し続けていると間違いなく裸の王様になることは間違いなしです。部下がやたら自分のことをほめて、自分に対する意見や新しいアイディアなどの提案がなくなっているとすれば、もう完全に上司、経営者としては部下や社員は見限っているということであると認識すべきです。すなわち、ジジ殺し、褒め殺しの状態まで言ってて、最悪のときには裏切られてしまうケースです。部下がやたら自分にとって心地いいことしか言わない状況になっている時点で早く気づくことが重要です。
とにかく感情をコントロールできない人は絶対に大成しません。それは社会的地位という以前に人間として、人格的にも幼いレベルにとどまっていると考えてよいでしょう。ものすごいワンマンで独裁者の経営者で存在できている会社があれば、それはすでに超権威主義を許容しているカルトチックな組織になっているはずです。ブラック企業に上げられている企業にもそういった組織の企業があるかもしれません。会社には社是や社訓が掲げてある程度ならいいのですが、創立者の写真などが掲げてある会社はひとつの宗教になっています。
話がそれましたが、とにかく感情をコントロールできる人格、言動を養っていかなければなりません。感情的な人は見方を変えれば情熱的でやる気のある人です。ある面会社でいつもネガティヴ発言で、「どうせ~」とか「やっぱり~」から始まったり、「でも」「そうは言っても」といった逆接の言葉が多い人は、すでに学習性無力感から意欲さえ失っていたりします。そういう人はもう何をやるにも意欲が足りなかったりつねに言い訳ばかりが口に出るようになっています。感情的な人は感情のコントロールさえできればまだ可能性があります。
会社をはじめ、人間によって形成されるあらゆる組織にはさまざまな人間関係があります。自分と相性が合う人しかいないという組織は稀です。もしそういう人がいるとしたならば相当人間的器の広い方だと思います。むしろ組織の中には許せないとかムカつくとかウザイといった人が必ずいるはずです。でそういった人にその気持ちをいつも持ち続けているのは精神衛生上よくありません。それでそれを解消する方法はそういったことにかかわっていられないくらいの自分の目標を持つということが重要です。そしてそれを達成することが、ストレスの原因になっている人びとを見返すことにもつながれば尚更です。ムカついたり、カッとくる負のパワーを、よし見ておれ、必ず見返してやると自分の目標を達成するための正のエネルギーに全面的に転化させるのです。それが普段の生活の中でスムーズにできるようになれば、人生の時間を無駄に使わないで済むことになるはずです。
自分の人生は会社のため、まして会社のダメな人びとのためにあるわけではないのです。その人たちのレベルの低い人格のゆえに自分の感情や心情、そして貴重な時間や行動までも無駄にする必要はないのです。困った人が助けを求めてきてそれに心情や行動、時間を割くことはとても意義深く、いずれ自分にいいかたちで返ってきます。でも自分が勝手に自分を苦しめる感情を持つことはとてももったいないことなのです。少しでも早く負のエネルギーは正のエネルギーに転化して人生の意義あることに活用していきましょう。私たちの人生は自分の人生を有意義に生きることと社会的に意義ある人生にしていくことが大切ではないかと思うのです。
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2013年5月30日木曜日
成長する人は内省できる人、内省できる人はつねに学習する人②
世の中に完成というものは存在しません。ひとつのプロジェクトやひとつの目標は達成されてもそれはさらに次の段階に移行するためのステップに過ぎないのです。言葉を変えれば、完成は一旦停止であり、小休止であるとも言えます。完成するということをネタにつねに人を動かすということは宗教でも企業でもありますが、PSI的観点から言うと完成は不可能であるということです。ここであえて完成ということを何とか認めろというのであれば、このように言い換えてもいいかもしれません。完成の領域(完成とは言い切れないので)に至るということは世の中のすべてにおいて完成という概念は存在しないということを実感的に認識できたということであると言ってもいいかもしれません。
某カルト教団では完成することを目標に毎日「完成することを誓います」と念仏のように唱えさせられています。このことは何を表しているのでしょうか。それは生きているうちに完成できないということを表しているのです。とてもパラドクシカルな感じですが、実際そうなのです。毎日それを唱えることによって自分は完成していないというすり込みがなされていきます。また死を迎える前日まで「完成することを誓う」のですからいまだ完成していないということを認めてこの世を去るということです。したがって通常の宗教とカルト教団の違いはそこにあります。
完成や成功を標榜する、すなわちそれを餌にしている組織はとてもカルトチックです。なぜなら非現実的要素を取り入れているからであり、完成、成功という目標に向けてそれ以外の思考が入らないように完全にファンタジーの世界をつくりあげているからです。これは組織のトップや上層部には都合がいいのです。彼らの実現したい目標だけにすべてを投入してくれるからです。組織の成員がそういう思考行動にだけ走るように組織の上層部は教育します。彼らにとっては教育ですが、外部の人びとからみると洗脳以外のなにものでもありません。彼らのもつパラダイムは完成を標榜しながら完成させないパラダイムです。なぜなら完成されると都合が悪いのです。その組織にいる必要がなくなるからです。私、完成しました、もうこの組織は私に必要ありませんと言われると困るのです。
基本的に普通の宗教は完成できるとは言いません。むしろ罪人であったり業が深いということを認識し、だからこそ善を行おうと努力するというレベルに人はおかれています。もちろんその指導者も同じ罪人であり、業があるのです。でもカルト教団には罪人ではない完成した人間がいたりします。だいたい教祖がそういう立場に祭り上げられます。それをまた目標とさせられるのですが、絶対に同じ立場に立つことは不可能です。むしろ罪や業が深いとされ、そのために多額のお金や労働、また反社会的な活動を強要されたり、それをあおられます。カルト教団は完成というあまりに非現実的で甘いアメを用意してそれをちらつかせながら、実際にはあまりに法外で実際には無理な要求を平気でしてきます。それでも追い込まれてやってしまうほどの思想のすり込みがあるのです。
カルト教団だけではありません。カルトチックな企業や組織もエゴイスティックな権力者の目標達成のために大いに利用されるのです。それを脱却する、あるいは改善していくためには組織の成員が内省し、具体的に行動する人が増えていかなくてはなりません。そして内省し成長する人は必ず学習意欲があり、外部や新しい情報に耳を傾ける器のある人です。硬直した企業や組織が生まれ変われるかどうかはそこに所属している人びとを観察すればよくわかります。仕事自体は決まりきったルーティンを卒なくこなすいわば職人が必要ですが、その仕事自体を見直したり考えることができるメタ認知能力のある人材が必要なのです。
企業もさまざまな組織も職人肌の人は当然必要ですが、そういう人ばかりだと、時代の流れや社会の情勢を読むことができず、いつの間にか限界を迎えてしまうということになります。あらゆる組織は変容の必要性に直面しているのです。昨今の話ですとレスリングがオリンピック競技から外されるのではといった問題があります。やはり組織は組織内だけで仕事ができる人は組織を守れないのです。組織をつねに外部視点で見たりものごとの本質を見極め変えていく力が必要なのです。そういった人は内省ができ、つねに学習している人にほかなりません。
人間はある程度、不自由なく安定した上がりの状態になると学習の必要性は感じませんし、成長はなくなります。それはピーターの法則でもわかるように、人はやはり無能レベルまで成長するのです。そういったことを回避するには、自分はまだまだだといつも成長シロを残した状態に置いておくのがもっとも最善な方法です。組織のトップになってそれで満足している人は成長シロを失って土ツボにはまってしまっています。自信を持つことは重要ですが、傲慢になった人にはもう成長する余地は残されていません。いつも自分を内省し成長しようという意識自体が、学習意欲を高め、学習することでさらに知恵や情報を得てさらに内省する機会を与えてくれます。学習→内省→成長→意欲→学習→内省→……というサイクルにつねに自分がおかれているならば、成長がありますし、知的老いとは関係のない人生が送れそうです。
某カルト教団では完成することを目標に毎日「完成することを誓います」と念仏のように唱えさせられています。このことは何を表しているのでしょうか。それは生きているうちに完成できないということを表しているのです。とてもパラドクシカルな感じですが、実際そうなのです。毎日それを唱えることによって自分は完成していないというすり込みがなされていきます。また死を迎える前日まで「完成することを誓う」のですからいまだ完成していないということを認めてこの世を去るということです。したがって通常の宗教とカルト教団の違いはそこにあります。
完成や成功を標榜する、すなわちそれを餌にしている組織はとてもカルトチックです。なぜなら非現実的要素を取り入れているからであり、完成、成功という目標に向けてそれ以外の思考が入らないように完全にファンタジーの世界をつくりあげているからです。これは組織のトップや上層部には都合がいいのです。彼らの実現したい目標だけにすべてを投入してくれるからです。組織の成員がそういう思考行動にだけ走るように組織の上層部は教育します。彼らにとっては教育ですが、外部の人びとからみると洗脳以外のなにものでもありません。彼らのもつパラダイムは完成を標榜しながら完成させないパラダイムです。なぜなら完成されると都合が悪いのです。その組織にいる必要がなくなるからです。私、完成しました、もうこの組織は私に必要ありませんと言われると困るのです。
基本的に普通の宗教は完成できるとは言いません。むしろ罪人であったり業が深いということを認識し、だからこそ善を行おうと努力するというレベルに人はおかれています。もちろんその指導者も同じ罪人であり、業があるのです。でもカルト教団には罪人ではない完成した人間がいたりします。だいたい教祖がそういう立場に祭り上げられます。それをまた目標とさせられるのですが、絶対に同じ立場に立つことは不可能です。むしろ罪や業が深いとされ、そのために多額のお金や労働、また反社会的な活動を強要されたり、それをあおられます。カルト教団は完成というあまりに非現実的で甘いアメを用意してそれをちらつかせながら、実際にはあまりに法外で実際には無理な要求を平気でしてきます。それでも追い込まれてやってしまうほどの思想のすり込みがあるのです。
カルト教団だけではありません。カルトチックな企業や組織もエゴイスティックな権力者の目標達成のために大いに利用されるのです。それを脱却する、あるいは改善していくためには組織の成員が内省し、具体的に行動する人が増えていかなくてはなりません。そして内省し成長する人は必ず学習意欲があり、外部や新しい情報に耳を傾ける器のある人です。硬直した企業や組織が生まれ変われるかどうかはそこに所属している人びとを観察すればよくわかります。仕事自体は決まりきったルーティンを卒なくこなすいわば職人が必要ですが、その仕事自体を見直したり考えることができるメタ認知能力のある人材が必要なのです。
企業もさまざまな組織も職人肌の人は当然必要ですが、そういう人ばかりだと、時代の流れや社会の情勢を読むことができず、いつの間にか限界を迎えてしまうということになります。あらゆる組織は変容の必要性に直面しているのです。昨今の話ですとレスリングがオリンピック競技から外されるのではといった問題があります。やはり組織は組織内だけで仕事ができる人は組織を守れないのです。組織をつねに外部視点で見たりものごとの本質を見極め変えていく力が必要なのです。そういった人は内省ができ、つねに学習している人にほかなりません。
人間はある程度、不自由なく安定した上がりの状態になると学習の必要性は感じませんし、成長はなくなります。それはピーターの法則でもわかるように、人はやはり無能レベルまで成長するのです。そういったことを回避するには、自分はまだまだだといつも成長シロを残した状態に置いておくのがもっとも最善な方法です。組織のトップになってそれで満足している人は成長シロを失って土ツボにはまってしまっています。自信を持つことは重要ですが、傲慢になった人にはもう成長する余地は残されていません。いつも自分を内省し成長しようという意識自体が、学習意欲を高め、学習することでさらに知恵や情報を得てさらに内省する機会を与えてくれます。学習→内省→成長→意欲→学習→内省→……というサイクルにつねに自分がおかれているならば、成長がありますし、知的老いとは関係のない人生が送れそうです。
成長する人は内省できる人、内省できる人はつねに学習する人①
発展し成長し続ける企業はつねに変化に対応できる組織です。ダーウィンが強いものが残るのでない、変化できるものが残るのであるといったことはまさに人や企業にもあてはまると思います。
世界は間違いなく、最善を求めてその方向に動いているとは考えられるのですが、実際、その反面全く改善されず、いまだに最悪の事態を回避できない状態も続いています。たとえば、これだけ文明社会になって、多くの国々がどんどん先進国入りして豊かさを手にしようとしている一方で貧困はなかなか解消されず、いまだに世界のあちらこちらで紛争や戦争が続いています。
より先進国に成長していくということはよりモラルが高くなるということであり、自国だけのエゴイスティックな思考から脱却し、世界規模、地球規模でものごとを考えられるようになることであると思います。でも先進国であってもやはり戦争を回避することができないという実情があります。それは正義という名目もあるでしょうが、軍需産業等、戦争によって恩恵を受ける企業や組織が存在していることもあります。アメリカでオバマ大統領がなかなか銃規制を実現できないのも、ことの本質を解消できないからという問題があります。
銃規制に反対する人びとは、自分の生活は自分で守るという主張をします。これは決して間違いではないのですが、暴力に対して暴力で報復すると終わりなき戦いとなるのです。人間の情の中で怨みの情だけが‘時間薬’が利かないのです。時間とともに大きく膨らむのが怨みの情なのです。それは日本を取り巻く環境を見てもすぐに理解できます。実は歴史的に体験した世代以上に戦後の教育を受けた世代のほうが怨みが強かったりします。自分たちが直接体験してないのにです。理不尽な話を聞いて当事者以上に熱くなってしまうということもよくありがちなケースです。
自分を守るために武器を持つということは相手の暴力に対して暴力で対応することなので、結果的に互いの怨みが深まるだけです。ただ現実問題として、目の前に起こる犯罪に対してそのままにしておくことは社会不安を助長されるだけなのでとうぜん警察といった公的機関が必要なのです。すなわち、当事者でない第三者が介入することで怨みをさらに拡大させることを防ぐこともできます。ホントに銃が必要だと思っている人はどれだけいるでしょうか。実は銃規制に反対する人びとは、本音の部分では、自分たちが銃を生産することで仕事ができ、生活ができているという現実があるということです。そして銃の市場のニーズをうったえることで自分たちの仕事が確保されるのです。
まだまだ無法な人びとや、無法な国家の存在があるため、銃や兵器等の武器の需要はなくなることはありませんが、遠い未来に健全な世界を築くならそういった必要悪はいずれ地球上から無くしていくことが必要です。あとは展示する博物館に残すぐらいです。ひとりの人間が変わることさえ困難であるのに、組織が変わるということは大変な忍耐とパワーが必要になってきます。考え方の転換から企業であるなら業態の転換も含めてパラダイムシフトが必要なのです。
日本ではJTが日本たばこ産業という不健康な商材を売ってきて、ドリンクや食品に商材を拡げて既存の業界に参入しながらも、財力と認知度を武器に必死に頑張っています。社会の流れは健康志向になってきており、いずれ淘汰される市場に固執し続けて消滅する企業になってはいけないという切実な心情を感じます。それは単に利潤追求という単純な理由ではなく、その会社に従事している社員たちの生活があるということも実感します。
銃の会社も警察という公的機関だけへの供給に制限し、その一般市場を無くした部分の収益の補てんをより近接領域、あるいはまったく別の事業創造が必要であるのです。JTはたばこから食品への事業転換、シフトを必死に行っているのです。その部分を企業だけでなくオバマ大統領はじめシンクタンクが取り組み、国家全体のプロジェクトとしてその企業に従事している人びとの生活を守るアイディアを出さなければならないのです。相変わらず、本音の部分に踏み込むことができない状況になっています。選挙の件もあるし、とにかく変革というのはさまざまな制度に埋め込まれていてなかなか前に進まないという実情があります。
軍需産業がなくなるというのは私たちが生きている間に実現されることはありませんし、地球が滅ぶまでに実現できるかどうかもわかりません。その実現は宗教問題の解決やモラルが高められ利他的な思想が世界中にあふれるようにならなければ無理だと思います。権力を持つとどうしても自己中心的な思考に陥り、独裁的になっていく、また独裁者に仕立てていく組織の成員の問題なども研究されつくさなければならないし、またそれが現実に実行されるまでいかなければならないと考えます。
話がとても大きなところから始まりましたが、実際、歴史の教訓を生かすには内省が必要なのですが、その内省ができるかどうかは新しい情報をつねに取り入れる柔軟性や学習といったことが不可欠なのです。組織は個人の集まりです。個人が考えに考え抜いてより最善な方法を選択していくときに組織は成長し、発展するのです。そのためには学習し、内省し、さらに成長発展しようとする個人の声を全体に反映させることができるように制度に埋没しない取り組みや組織のあり方を考えておかなければなりません。
世界は間違いなく、最善を求めてその方向に動いているとは考えられるのですが、実際、その反面全く改善されず、いまだに最悪の事態を回避できない状態も続いています。たとえば、これだけ文明社会になって、多くの国々がどんどん先進国入りして豊かさを手にしようとしている一方で貧困はなかなか解消されず、いまだに世界のあちらこちらで紛争や戦争が続いています。
より先進国に成長していくということはよりモラルが高くなるということであり、自国だけのエゴイスティックな思考から脱却し、世界規模、地球規模でものごとを考えられるようになることであると思います。でも先進国であってもやはり戦争を回避することができないという実情があります。それは正義という名目もあるでしょうが、軍需産業等、戦争によって恩恵を受ける企業や組織が存在していることもあります。アメリカでオバマ大統領がなかなか銃規制を実現できないのも、ことの本質を解消できないからという問題があります。
銃規制に反対する人びとは、自分の生活は自分で守るという主張をします。これは決して間違いではないのですが、暴力に対して暴力で報復すると終わりなき戦いとなるのです。人間の情の中で怨みの情だけが‘時間薬’が利かないのです。時間とともに大きく膨らむのが怨みの情なのです。それは日本を取り巻く環境を見てもすぐに理解できます。実は歴史的に体験した世代以上に戦後の教育を受けた世代のほうが怨みが強かったりします。自分たちが直接体験してないのにです。理不尽な話を聞いて当事者以上に熱くなってしまうということもよくありがちなケースです。
自分を守るために武器を持つということは相手の暴力に対して暴力で対応することなので、結果的に互いの怨みが深まるだけです。ただ現実問題として、目の前に起こる犯罪に対してそのままにしておくことは社会不安を助長されるだけなのでとうぜん警察といった公的機関が必要なのです。すなわち、当事者でない第三者が介入することで怨みをさらに拡大させることを防ぐこともできます。ホントに銃が必要だと思っている人はどれだけいるでしょうか。実は銃規制に反対する人びとは、本音の部分では、自分たちが銃を生産することで仕事ができ、生活ができているという現実があるということです。そして銃の市場のニーズをうったえることで自分たちの仕事が確保されるのです。
まだまだ無法な人びとや、無法な国家の存在があるため、銃や兵器等の武器の需要はなくなることはありませんが、遠い未来に健全な世界を築くならそういった必要悪はいずれ地球上から無くしていくことが必要です。あとは展示する博物館に残すぐらいです。ひとりの人間が変わることさえ困難であるのに、組織が変わるということは大変な忍耐とパワーが必要になってきます。考え方の転換から企業であるなら業態の転換も含めてパラダイムシフトが必要なのです。
日本ではJTが日本たばこ産業という不健康な商材を売ってきて、ドリンクや食品に商材を拡げて既存の業界に参入しながらも、財力と認知度を武器に必死に頑張っています。社会の流れは健康志向になってきており、いずれ淘汰される市場に固執し続けて消滅する企業になってはいけないという切実な心情を感じます。それは単に利潤追求という単純な理由ではなく、その会社に従事している社員たちの生活があるということも実感します。
銃の会社も警察という公的機関だけへの供給に制限し、その一般市場を無くした部分の収益の補てんをより近接領域、あるいはまったく別の事業創造が必要であるのです。JTはたばこから食品への事業転換、シフトを必死に行っているのです。その部分を企業だけでなくオバマ大統領はじめシンクタンクが取り組み、国家全体のプロジェクトとしてその企業に従事している人びとの生活を守るアイディアを出さなければならないのです。相変わらず、本音の部分に踏み込むことができない状況になっています。選挙の件もあるし、とにかく変革というのはさまざまな制度に埋め込まれていてなかなか前に進まないという実情があります。
軍需産業がなくなるというのは私たちが生きている間に実現されることはありませんし、地球が滅ぶまでに実現できるかどうかもわかりません。その実現は宗教問題の解決やモラルが高められ利他的な思想が世界中にあふれるようにならなければ無理だと思います。権力を持つとどうしても自己中心的な思考に陥り、独裁的になっていく、また独裁者に仕立てていく組織の成員の問題なども研究されつくさなければならないし、またそれが現実に実行されるまでいかなければならないと考えます。
話がとても大きなところから始まりましたが、実際、歴史の教訓を生かすには内省が必要なのですが、その内省ができるかどうかは新しい情報をつねに取り入れる柔軟性や学習といったことが不可欠なのです。組織は個人の集まりです。個人が考えに考え抜いてより最善な方法を選択していくときに組織は成長し、発展するのです。そのためには学習し、内省し、さらに成長発展しようとする個人の声を全体に反映させることができるように制度に埋没しない取り組みや組織のあり方を考えておかなければなりません。
2013年5月1日水曜日
悪戦苦闘、効率の上がる学習法
年齢を重ねても、意欲的な人は学習意欲は落ちないと思う今日この頃ですが、みなさんはいかがでしょう。通勤電車の中でラッシュにも関わらず、本を開いて読んでいるサラリーマンやOLの人を見ているととても頑張ってるなと感じてしまいます。
それで私も殺人的なラッシュ時以外は通勤の時間は読書や学習の時間に充てているのですが、これはとても人生の有効活用といった面ではとてもおススメです。私はもともとじっと座って読書というのはできないというか苦手なタイプでして、やはり通勤時間は最高の時間です。以前は出張の新幹線、飛行機なども、そういった面ではかなり有効利用させていただきました。
あとはラッシュでも学習する方法としては、MP3プレイヤーなどにさまざまな講演、学習の音声データを仕込ませて、それを聞きながらというのがあります。ギュウギュウ詰めの電車に揺られて脳は活性化という時間もなかなかオツなものです。以前出張が多かったときはDVDなども使ったのですが、どうも乗り物に揺られている状況で映像を見続けるというのは私は苦手で頭痛が始まる感じを受けます。電車の中でゲームやテレビなど映像を見ている人はすごいなと思ってしまいます。
年齢を重ねても、いや年齢を重ねるほど学習していかなければ、自分より若い世代には置いて行かれてしまいます。若い人たちの関心事に無関心になるのでなく、ちょっと関心を持ってみることも新しい世界が開けていいのかなと思います。テレビでおなじみの獨協大学の森永教授はそういった面では最先端の年長者なのかもしれません。最強の組織は組織の成員がやはり学習する組織という話を考えると、やはり社内に学習の雰囲気があまり感じられない会社は、もう成熟しきっているのか、発展シロがないから新しいものを取り入れる意欲がないのか……。いずれにせよ、そういう会社ならなおさら学習して自己の成長を促す行動に出たいものです。
最近は社会人や主婦も大学、大学院へと通うようになったり、資格をとるために勉強を始める人も多いようです。もちろん環境的にも少子化によって学生数が圧倒的に減少している状況下では教育機関は生き残るのは大変なことです。そこで、すでに既卒者である社会人や主婦、退職した人びと、また外国人などへ市場を広げることで生き残りを図るという実情があり、それも生涯学習の風潮をつくりだしてるのだと思います。
年齢を重ねてからの学習は10代、20代のころの学習と違ってある面、思考が教育者に近いのでとても効率的です。試験を受けるにも出題者と同世代、あるいはそれより上なんてことがあると感覚的に出題の意図が即座に分かってしまうなんてこともありえます。これはある面、大人の知恵っていえるかもしれません。それで大人の感覚でこどもたちの解いている問題を見るとなんで分かんないのかなって思ったりします。それはこども以上に多くの経験を積んできた出題者と同じ大人の視点があるからなのだと思います。
大人になって大学にもどって勉強している人を見てみると、下手をすると、大学教授より同世代あるいは年配の学生のほうが詳しいといったこともよくある話です。アカデミックな世界だけにいた学者より、経営の現場にいて長年社長をやってきた学生のほうがいろんな面で優れていたりします。頭だけでなく、体感しているわけです。もちろん大学の先生もそういったことをよく分かっていて、彼らには敬意を払ったりするわけです。ただ実際、学生として再び学びの場に戻ってくる学生にとっては、会社という閉鎖的な組織の中にだけいることで考え方が硬直化、老朽化してしまうリスクを回避して、大学でまた新鮮な空気を吸うことも意義深いことです。
PSIブログを読んでいただいている方々は、学習意欲が高い方も多くいらっしゃると思うのですが、年齢を重ねての学習は若いころとは違った学習方法を考えなければならないと思うのです。会社や仕事を引退して年金暮らしという方は普通に学生のように学生生活を謳歌するのもいいかもしれません。でも社会人や主婦という立場ならばいかに効率的に時間配分を考えて勉強時間を捻出するかといった課題もあります。そういった面では通勤時間は便利な時間です。料理の合間の時間もいいかもしれません。
もう一つ、私の例でいうと、長年ストレス回避の健康法を訴えてきた関係上?とにかく勉強するにしても一切ストレスを感じることはしたくないという前提があるのです。それで関心があることは本を読めばどんどん頭に入ってきて、そのことを家族や友人に話したりすることで記憶として定着するのです。また仕事や講演で使えるなということがらは当然それをもとにプレゼンデータをつくったりしますから、さらに記憶の定着にはいいわけです。
ところがすぐには使えないけど絶対覚えておかなければならないことは暗記するのがとても疲れるのです。関連付けて覚える暗記法などもあるのですが、どうしても億劫になるのです。ストレスを受けたくない性分なので脳に負荷をかけることはホントに嫌なのです。それでいかに脳に負荷をかけずにこれを覚えようかとあれこれ考えていろいろやっているうちに思いついたことがあったのです。それはちょっと下種な話になりますが、「下ネタ」にかこつけて覚えていくという手法?です。本やテキストにはそれを鉛筆で書いて妄想しながら楽しみながら覚えるというやり方です。なぜ鉛筆かというと完璧覚えた後には消して置きたいからです。いつ家族がそれを見るかもしれませんから…。
年齢とともにオヤジギャグや下ネタは多くなってきます。それは脳の前頭前野が退化することで理性が鈍ってくるからだとか、ならばそれを逆に利用しちゃえということでそういった方法もあります。(もちろん私の独自の考えですが……)男性はそれでいいかもしれませんが、女性はどうしたらいいのか、私は男性なのでよくわかりません。ただ女性も同じ人間、実際問題としてそういったことに関心があるとするならば、イケメンの男性や好きな芸能人との恋とか妄想しながら楽しみながら暗記していくということもいいのではないでしょうか。だれもそんな方法で知識の蓄積がなされているなんて誰も思いませんから。相変わらず言いたい放題のコラムですが、もしよければ参考にしてみてくださいね。
それで私も殺人的なラッシュ時以外は通勤の時間は読書や学習の時間に充てているのですが、これはとても人生の有効活用といった面ではとてもおススメです。私はもともとじっと座って読書というのはできないというか苦手なタイプでして、やはり通勤時間は最高の時間です。以前は出張の新幹線、飛行機なども、そういった面ではかなり有効利用させていただきました。
あとはラッシュでも学習する方法としては、MP3プレイヤーなどにさまざまな講演、学習の音声データを仕込ませて、それを聞きながらというのがあります。ギュウギュウ詰めの電車に揺られて脳は活性化という時間もなかなかオツなものです。以前出張が多かったときはDVDなども使ったのですが、どうも乗り物に揺られている状況で映像を見続けるというのは私は苦手で頭痛が始まる感じを受けます。電車の中でゲームやテレビなど映像を見ている人はすごいなと思ってしまいます。
年齢を重ねても、いや年齢を重ねるほど学習していかなければ、自分より若い世代には置いて行かれてしまいます。若い人たちの関心事に無関心になるのでなく、ちょっと関心を持ってみることも新しい世界が開けていいのかなと思います。テレビでおなじみの獨協大学の森永教授はそういった面では最先端の年長者なのかもしれません。最強の組織は組織の成員がやはり学習する組織という話を考えると、やはり社内に学習の雰囲気があまり感じられない会社は、もう成熟しきっているのか、発展シロがないから新しいものを取り入れる意欲がないのか……。いずれにせよ、そういう会社ならなおさら学習して自己の成長を促す行動に出たいものです。
最近は社会人や主婦も大学、大学院へと通うようになったり、資格をとるために勉強を始める人も多いようです。もちろん環境的にも少子化によって学生数が圧倒的に減少している状況下では教育機関は生き残るのは大変なことです。そこで、すでに既卒者である社会人や主婦、退職した人びと、また外国人などへ市場を広げることで生き残りを図るという実情があり、それも生涯学習の風潮をつくりだしてるのだと思います。
年齢を重ねてからの学習は10代、20代のころの学習と違ってある面、思考が教育者に近いのでとても効率的です。試験を受けるにも出題者と同世代、あるいはそれより上なんてことがあると感覚的に出題の意図が即座に分かってしまうなんてこともありえます。これはある面、大人の知恵っていえるかもしれません。それで大人の感覚でこどもたちの解いている問題を見るとなんで分かんないのかなって思ったりします。それはこども以上に多くの経験を積んできた出題者と同じ大人の視点があるからなのだと思います。
大人になって大学にもどって勉強している人を見てみると、下手をすると、大学教授より同世代あるいは年配の学生のほうが詳しいといったこともよくある話です。アカデミックな世界だけにいた学者より、経営の現場にいて長年社長をやってきた学生のほうがいろんな面で優れていたりします。頭だけでなく、体感しているわけです。もちろん大学の先生もそういったことをよく分かっていて、彼らには敬意を払ったりするわけです。ただ実際、学生として再び学びの場に戻ってくる学生にとっては、会社という閉鎖的な組織の中にだけいることで考え方が硬直化、老朽化してしまうリスクを回避して、大学でまた新鮮な空気を吸うことも意義深いことです。
PSIブログを読んでいただいている方々は、学習意欲が高い方も多くいらっしゃると思うのですが、年齢を重ねての学習は若いころとは違った学習方法を考えなければならないと思うのです。会社や仕事を引退して年金暮らしという方は普通に学生のように学生生活を謳歌するのもいいかもしれません。でも社会人や主婦という立場ならばいかに効率的に時間配分を考えて勉強時間を捻出するかといった課題もあります。そういった面では通勤時間は便利な時間です。料理の合間の時間もいいかもしれません。
もう一つ、私の例でいうと、長年ストレス回避の健康法を訴えてきた関係上?とにかく勉強するにしても一切ストレスを感じることはしたくないという前提があるのです。それで関心があることは本を読めばどんどん頭に入ってきて、そのことを家族や友人に話したりすることで記憶として定着するのです。また仕事や講演で使えるなということがらは当然それをもとにプレゼンデータをつくったりしますから、さらに記憶の定着にはいいわけです。
ところがすぐには使えないけど絶対覚えておかなければならないことは暗記するのがとても疲れるのです。関連付けて覚える暗記法などもあるのですが、どうしても億劫になるのです。ストレスを受けたくない性分なので脳に負荷をかけることはホントに嫌なのです。それでいかに脳に負荷をかけずにこれを覚えようかとあれこれ考えていろいろやっているうちに思いついたことがあったのです。それはちょっと下種な話になりますが、「下ネタ」にかこつけて覚えていくという手法?です。本やテキストにはそれを鉛筆で書いて妄想しながら楽しみながら覚えるというやり方です。なぜ鉛筆かというと完璧覚えた後には消して置きたいからです。いつ家族がそれを見るかもしれませんから…。
年齢とともにオヤジギャグや下ネタは多くなってきます。それは脳の前頭前野が退化することで理性が鈍ってくるからだとか、ならばそれを逆に利用しちゃえということでそういった方法もあります。(もちろん私の独自の考えですが……)男性はそれでいいかもしれませんが、女性はどうしたらいいのか、私は男性なのでよくわかりません。ただ女性も同じ人間、実際問題としてそういったことに関心があるとするならば、イケメンの男性や好きな芸能人との恋とか妄想しながら楽しみながら暗記していくということもいいのではないでしょうか。だれもそんな方法で知識の蓄積がなされているなんて誰も思いませんから。相変わらず言いたい放題のコラムですが、もしよければ参考にしてみてくださいね。
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