ずいぶんご無沙汰しております。今日は久々にアップします。
今日は普段、私が感じていることを述べてみたいと思います。
ビジネスの基本は何か?ということですが、まずビジネスとは何かを考えてみると、
市場(顧客)が必要とする商品(価値も含めて)をそれらが納得する価格で提供することで収益を上げること
と言えるのではないかと思います。
したがってそこに関わる人びとが納得して、あるいは自ら進んで取り組むことができる内容が必要であると思います。
ところで、ビジネスは二通りあると思います。
ひとつは「市場にあまり必要でない(魅力のない)、納得されない価格設定など」の商品を人間力(説得能力、話術、テンションの高さ、…)でもって販売する。
もうひとつは「市場に必要とされ(十分魅力のある)、納得できる価格設定など」の商品をシステマチックに(宣伝や流通できるスキームの構築をめざして)個々の人間力に依存しないカタチで販売する。
通常、一般の企業では後者の手法でビジネスは進められており、売れるシステムづくりに意識や時間の多くを割いていると考えられます。ただネットワークビジネスや訪販、通販などにおいて、前者のようなかなり人間力に依存した販売というのも行われております。
ただ前者のようなビジネススタイルでもビジネスに関わる人、顧客も含めて何らかの納得できる要因があれば、多少は業績は上がると考えられます。それはビジネスで取り組む人へのインセンティヴ(頑張る誘発要素)があればこそなのです。
よく小売の販売会社の経営者が、社員が頑張らない理由がわからず悩んでいるというのを目にするのですが、原因はいたって明確です。それは
戦える武器(商品やそのコンセプト、販売ノウハウ)がないにも関わらず、戦場に出て戦えとお尻を叩いているケースです。老朽化した武器では戦うことはできないのです。部下や社員は
“これならいける!”
というものが欲しいのです。案外できる社員、部下ならそういった武器をすでに提案していたかも知れないのです。ただ経営者や上司の盲点は社員や部下よりも長年にわたり既存の商品やビジネスコンセプトに依存してきたため、経路依存の考え方というのが身に染みていて、自分より目下のもの、若い人びとが提案する内容が耳に入ってこないということがあるのです。それで結局社員や部下は提案して聞いてもらえないことは、言うだけ無意味なので口を閉ざしてしまうのです。
ホントにできる経営者、上司というのは、自己内省ができる人であり、さらに社員や部下、そして外部の情報や考え方を積極的に取り入れようとする人です。長年にわたり経営者、上司という立場にある人びとの多くが陥りやすいのはすべて自分が正しい、あるいは自分にしか策はないと傲慢になってしまい、部下や社員の提案を聞かないという状況なるということです。とくにずっと内向きのビジネスで既存の流通、既存の手法、既存の商品に頼ってきた人は、開拓精神はすでに消滅して、内弁慶体質から社内では裸の王様状態となってしまっている人も結構見てきました。
社員や部下のモチベーションを上げるにはどうしたらいいか?ビジネスを軌道にのせるにはどうしたらいいか?経営者や管理職ができることと営業社員ができることは明確に違います。ただビジネスがうまくいくかどうかは明らかに前者です。社員の悪口を言う経営者とかもいますが、そういう人を見ると、この会社はもうダメだなと思ってしまいます。
経営者や上司ができるビジネスで収益をあげる方法は、再三言いますが、
“これならいける!”
という武器(商品、そのコンセプト、…)を提示することだと思います。ちなみにその武器というのは灯台下暗し、案外目の前の部下や社員の頭の中にあったりするのですが、それに気づかないケースがあります。とにかく経営者はそこに気づくような柔軟な思考ができるように意識するというのが重要です。性格的なものもありますが、ある面新しもの好きのミーハーを目指すというのがおススメです。
最近の若い者は…といった言葉は以前よく聞きましたが、実際は逆でダメなお年寄りも増えているというのは現代社会の犯罪を見ると明白です。年を取ることが悪いことではなく、それに伴い人(特に自分より若い人や部下)の話を聞かない、提案や指摘すると逆ギレするなどするようになることが問題だと言いたいわけです。そういう人は概して過去の栄光にしがみつく人が多く、過去の話しかしません(できません)。でもビジネスシーンというのは今この時、さらには未来を見通して、考えなければならないものです。私は「若者は未来を語るが、老人は過去を語る。なぜなら未来はもうないから。」という話をするのですが、私の言っているのは決して年齢的なものではなくあくまで思考、考え方のことを言っているわけです。事実私の知っている年配の方がたはとても謙虚で純粋、若者よりもエネルギッシュでバイタリティもあり、生き生きされてみんなから愛されるキャラです。
経営者や上司の立場にある人びとの中には耳が痛い?それならば救いようがありますが、全く自分のこととは考えない人もいるでしょう。そういう方はあまり参考にならないかもしれません。ただビジネスを何とかうまく軌道にのせたい、本気で何とかしたいという人には多少は少なからず参考にしていただけるのではないかと思います。
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2015年6月11日木曜日
2013年10月4日金曜日
うまくいくコミュニケーションの方法①
家庭においても、会社においても、あるいはそれ以外の人間関係すべてにおいて、コミュニケーションは、すべてがうまくいくためのベースとなるようなものです。それは対面であれ、電話であれ、メール、SNSにいたるまでコミュニケーションがとてもたいせつになってきます。
また相手によっても対応を変えなければならないケースもあります。特に外国人には日本の空気(行間)を読むような理解はできません。それは日本に長年住んでいる外国人でもわかりにくいと言われる人もいます。それくらい難しい感覚的なもので、日本人は日本で育って、日本人のDNAとしてすでに染みついているから理解できるのかもしれません。
ただ最近の若い世代は徐々にそういった感覚は減っているように思えます。それは良いとか悪いといったものではなくて、日本の家庭や社会の環境が大きく変わってきたということが言えるのではないかと思います。欧米の個人主義の影響や、戦後、日本がどんどん豊かになり、大家族から核家族、そして夫婦だけ、その次にはお一人様での生活も増えてきています。現在は祖父母と同居ということも減って二世帯住宅は常識です。また高齢化により高齢者は施設に入ることに抵抗感がない時代になってきました。介護というカタチで家族に負担をかけたくないという認識は高齢者に共通する意識になりつつあり、また子どもたちもそれが最善であるという意識もかなりあります。介護を社会の手にゆだねるということは決して家族の愛情問題とは関係がないのです。むしろ互いに負担をかけないようにすることが愛情であるというひとつのパラダイムシフトがなされているのだと思います。
夫婦関係もそうです。ある程度年齢を重ね、子どもたちもすべて独立すると、夫婦だけの時間が増えてきます。そして夫(あるいは妻)が定年退職をして家庭にいつもいるようになるとストレスであったりします。そうなると妻(あるいは夫)が外に出かけるようになってバランスをとるようになるのです。もちろん夫婦は最初の3~4年くらいはいいのですが、そのあとは夫婦だけの愛情というより子どもを見ながら父母としての役割で家庭を維持しているとも言えます。夫婦は他人です。最初は惹かれあっても、実際生活を共にするようになると、相手の悪いところもどんどん目に入ってきて、半ば好きという気持ちを妥協とかあきらめの気持ちが上回ってきたり、夫婦ってこういうもんだと冷めた精神状態になっていくことさえあります。でもそこに子どもの存在があると緩衝剤のような役割を果たしてくれるのです。
問題は夫婦仲が悪くなりすぎて、子どもに依存してしまうと、完全に子どもの自立を阻害し成長を遅らせたり、歪んだ情緒を育んでしまうことにもなりかねません。妻が家事、夫が仕事(あるいはその逆)に集中すればある面役割を分け、それぞれが集中できることを持つことで夫婦関係を維持することに大きな効果があります。また一般的には新婚時代はダブルベッド、子どもができてはそれぞれのベッド、そして子どもが独立したら部屋も別々なんてのもよくある話です。それでバランスをとって家庭というカタチが維持されていたりします。
歳をとっても仲のいい夫婦というのは新婚当初の夫婦の愛情関係とは違うモチベーションで形成されていると考えられます。詳しく聞けば、だいたいの人びとが口々に言われることは
「いろいろあったのよ~。」
という話です。いろんな心境を通過して熟成しきった関係であると言えるかもしれません。
フラット化している社会の中で夫婦が夫婦としての関係を維持し続けるためには、どこかで妥協したり折り合いをつけながら暮らしていくことであるのかもしれません。現代社会は離婚ということが驚くようなことではなくなったのにはやはり男女同権やジェンダーフリーといった風潮、そしてそのベースはやはり世界がフラット化していることにあると思います。男尊女卑の時代はやはり女性が我慢していたのです。あるいは社会の風土自体からも、女性というものは男性に屈して追従するものというすり込みが女性になされていたこともあると思います。
昔、夫婦が夫婦関係を解消せず維持し続けるには、どうしても片方が我慢したり妥協したりということで成立していたということがいえるかもしれません。現在夫婦関係を維持し続けている人びとは間違いなく、我慢や妥協を互いにしているか、あるいはそれをしないでもいいくらいの距離を互いの間に置いているかのどちらかであると言えます。とにかく、他人であった人同士が夫婦になるということは自分以外の価値観を受け入れるということで、それは妥協以外の何ものでもありません。そして妥協を減らすには価値観がなるべく近い人を選ぶということも方法です。
分かりやすく言うと最後まで妥協できなかった人が離婚を選択するのです。それはそれで一つの選択肢ですから、決して悪いことではないと思います。あるヨーロッパの国のように、最初から結婚という形態にこだわらないという方法もあります。そうすることで良好なパートナー関係が維持できたり、婚外子という概念をなくし同じ権利を与えることで、少子化問題も克服できる方向になっているということも聞きます。今は男女というカテゴリーでだけ人を分けられないのと同じように今後結婚という観点もさまざまな形態が発生していくと考えられます。
最終的には人間はひとりの存在で、種の保存や生活していく上で便宜上、夫婦、家族という形態をなしているのだと思えば、さまざまな選択肢がそこには考えることができそうです。いずれにせよ、人間関係は(その差こそあれ)価値観の違う人同士が交流をもつということなので、そこにはどうしても精神的な触れ合いにおいてさまざまな影響をうけるわけです。すなわち人間関係とはストレスが生じやすく、それを極力いいカタチに転化する方法がコミュニケーションスキルということになると思います。
また相手によっても対応を変えなければならないケースもあります。特に外国人には日本の空気(行間)を読むような理解はできません。それは日本に長年住んでいる外国人でもわかりにくいと言われる人もいます。それくらい難しい感覚的なもので、日本人は日本で育って、日本人のDNAとしてすでに染みついているから理解できるのかもしれません。
ただ最近の若い世代は徐々にそういった感覚は減っているように思えます。それは良いとか悪いといったものではなくて、日本の家庭や社会の環境が大きく変わってきたということが言えるのではないかと思います。欧米の個人主義の影響や、戦後、日本がどんどん豊かになり、大家族から核家族、そして夫婦だけ、その次にはお一人様での生活も増えてきています。現在は祖父母と同居ということも減って二世帯住宅は常識です。また高齢化により高齢者は施設に入ることに抵抗感がない時代になってきました。介護というカタチで家族に負担をかけたくないという認識は高齢者に共通する意識になりつつあり、また子どもたちもそれが最善であるという意識もかなりあります。介護を社会の手にゆだねるということは決して家族の愛情問題とは関係がないのです。むしろ互いに負担をかけないようにすることが愛情であるというひとつのパラダイムシフトがなされているのだと思います。
夫婦関係もそうです。ある程度年齢を重ね、子どもたちもすべて独立すると、夫婦だけの時間が増えてきます。そして夫(あるいは妻)が定年退職をして家庭にいつもいるようになるとストレスであったりします。そうなると妻(あるいは夫)が外に出かけるようになってバランスをとるようになるのです。もちろん夫婦は最初の3~4年くらいはいいのですが、そのあとは夫婦だけの愛情というより子どもを見ながら父母としての役割で家庭を維持しているとも言えます。夫婦は他人です。最初は惹かれあっても、実際生活を共にするようになると、相手の悪いところもどんどん目に入ってきて、半ば好きという気持ちを妥協とかあきらめの気持ちが上回ってきたり、夫婦ってこういうもんだと冷めた精神状態になっていくことさえあります。でもそこに子どもの存在があると緩衝剤のような役割を果たしてくれるのです。
問題は夫婦仲が悪くなりすぎて、子どもに依存してしまうと、完全に子どもの自立を阻害し成長を遅らせたり、歪んだ情緒を育んでしまうことにもなりかねません。妻が家事、夫が仕事(あるいはその逆)に集中すればある面役割を分け、それぞれが集中できることを持つことで夫婦関係を維持することに大きな効果があります。また一般的には新婚時代はダブルベッド、子どもができてはそれぞれのベッド、そして子どもが独立したら部屋も別々なんてのもよくある話です。それでバランスをとって家庭というカタチが維持されていたりします。
歳をとっても仲のいい夫婦というのは新婚当初の夫婦の愛情関係とは違うモチベーションで形成されていると考えられます。詳しく聞けば、だいたいの人びとが口々に言われることは
「いろいろあったのよ~。」
という話です。いろんな心境を通過して熟成しきった関係であると言えるかもしれません。
フラット化している社会の中で夫婦が夫婦としての関係を維持し続けるためには、どこかで妥協したり折り合いをつけながら暮らしていくことであるのかもしれません。現代社会は離婚ということが驚くようなことではなくなったのにはやはり男女同権やジェンダーフリーといった風潮、そしてそのベースはやはり世界がフラット化していることにあると思います。男尊女卑の時代はやはり女性が我慢していたのです。あるいは社会の風土自体からも、女性というものは男性に屈して追従するものというすり込みが女性になされていたこともあると思います。
昔、夫婦が夫婦関係を解消せず維持し続けるには、どうしても片方が我慢したり妥協したりということで成立していたということがいえるかもしれません。現在夫婦関係を維持し続けている人びとは間違いなく、我慢や妥協を互いにしているか、あるいはそれをしないでもいいくらいの距離を互いの間に置いているかのどちらかであると言えます。とにかく、他人であった人同士が夫婦になるということは自分以外の価値観を受け入れるということで、それは妥協以外の何ものでもありません。そして妥協を減らすには価値観がなるべく近い人を選ぶということも方法です。
分かりやすく言うと最後まで妥協できなかった人が離婚を選択するのです。それはそれで一つの選択肢ですから、決して悪いことではないと思います。あるヨーロッパの国のように、最初から結婚という形態にこだわらないという方法もあります。そうすることで良好なパートナー関係が維持できたり、婚外子という概念をなくし同じ権利を与えることで、少子化問題も克服できる方向になっているということも聞きます。今は男女というカテゴリーでだけ人を分けられないのと同じように今後結婚という観点もさまざまな形態が発生していくと考えられます。
最終的には人間はひとりの存在で、種の保存や生活していく上で便宜上、夫婦、家族という形態をなしているのだと思えば、さまざまな選択肢がそこには考えることができそうです。いずれにせよ、人間関係は(その差こそあれ)価値観の違う人同士が交流をもつということなので、そこにはどうしても精神的な触れ合いにおいてさまざまな影響をうけるわけです。すなわち人間関係とはストレスが生じやすく、それを極力いいカタチに転化する方法がコミュニケーションスキルということになると思います。
ラベル:
コミュニケーション,
会社経営(組織運営),
学習,
教育,
自分軸(PSI的フレームワーク),
販売、営業
2013年5月28日火曜日
ものごとの本質と向き合う力②
会社での会議はいつの間にかものごとの本質からズレて結局建前論が先行してしまうことがよくあります。起業間もないベンチャー企業などはまだしも、もう何年も安定して経営を行ってきた企業ほどそういう状況になっているのではないかと思います。なぜなら現状を変えたり、イノベーションを起こす必然性をあまり感じないからです。そういった会社の社員は会議はいつものルーティンの一部に他ならず、そこで新しいものを生み出そうとか、何か変えていかなくてはならないといった雰囲気、意識はなく、そういった気概も感じられません。
もちろん上層部も社員たちもそれを善しとして、全くそういった状況を問題視することなく、ただ徒に時間を消化することだけを考えているという状況になっていたりします。そういう中でたまに血の気の多い社員や中途採用のまだ組織の色に染まっていない社員なんかがいたりすると、組織的な問題や業務や商品開発などさまざまなことがらに本音をぶつけ、一石を投じるなんてこともあるのですが、そういった行動には会議参加者の大半は火消しに回るということになります。
実は彼らが思っていることはみんな思っていたことで、すでにそれができないほど組織の制度にがんじがらめに埋め込まれた状態にあるので、そういった提案や意見はできないこと、無駄なことというカテゴリーにふるい分けられ、議題にあがることはないのです。まさに非効率的で理不尽であったりすることが公然と組織の成員の暗黙の了解の下にまかり通っているという状況があったりするのです。
すでに組織の上層部のみならず成員全体が、本音のところではその部分の改革が必要だと思いながらもそれはできないことといういわば‘思い込みサイクル’に陥っているのです。実際は力を合わせてやればできることであったりするのですが、できないという思い込みです。個人においては自分自身が思い込みサイクルにはまっていると思えば、自己啓発セミナーに出たり、本やさまざまなメディアから情報を得たりして、自ら努力することでそこから脱却できるかもしれません。でも組織となれば簡単ではありません。
組織の中でたった一人で改革をやろうと思ってもたいへん困難です。経営トップでさえ困難であったりします。組織の一社員であれば、間違いなくもっと難しいでしょう。それでも何とかしようと思えば、まず経営トップや執行部を動かすだけのパワーを持たなければならなくなります。地位がなければ、まず意識や行動をともにする人的基盤を築いて上層部に訴えるという作業が必要になってきます。ところがその作業のプロセスの段階でその流れはつぶされてしまうという可能性も大きいのです。下手をすると組織の方向性とは違うとレッテルを貼られ、その組織の中にあって組織のために行動しているにも関わらず重要なポストから排除されてしまう危険性だってあります。そして信頼していた人びとさえ組織の論理を代弁しているとされる上層部のや会社側の論理に引き込まれ、脱落していくという人が出てきます。
こういったことは一つの大きな組織の秩序や統制を維持するためには仕方のない一面もありますが、結果的に個を重要視しないことがもたらす全体の滅びでもあるのです。部分的最適化が全体を滅ぼす逆パターンです。経営トップや組織の上層部はそういったキラリと光る原石を見極め、一旦耳を貸すという勇気も必要です。もちろん振り回されて会社を破たんさせるような方向に行くことは避けなければなりませんから、当然慎重になる気持ちはよく理解できます。でもつねにそういった組織内の核心部分をついた本音の声を封じ込めることばかりやっていると何も変わらないし、企業の成長はストップした状況が続くのです。
個人も組織もものごとの本質に向き合う力がとても弱いのです。これは日本的な経営の弊害部分でもあると思います。戦後の経済の高度成長の時代にはヒエラルキー組織で統率してがんがん生産効率を高めていくことが企業の収益につながっていたのですが、モノがあふれていて知的労働のほうが重要とされる現代では旧態依然たる組織風土や思考にとらわれていては全く成長できないのだと思います。そういったことに気づいて企業のトップや上層部が行動を起こしてもやはり過去の既成概念が邪魔をしてやはり思い切った改革、転換ということはなかなか困難です。
世界的に成長しつづける企業の多くはそういった既成概念を崩して通常の理解を越えた取り組みをしています。世界的企業のグーグルなどは社員が散歩しながら会議をしたり、いいアイディアを捻出できるようにさまざまな工夫をしています。そして社員の健康まで自己管理できるようにトレーニングジムや24時間無料の社員食堂もあったりします。毎日決まった時間に出社して決まった時間でなく遅くまでサービス残業を課すような会社ではまったく理解不能な取り組みです。
労働価値説的な思考から脱却できないレベルはもう言うに及びませんが、今までの日本の会社という枠組みを崩すくらいの発想ができなければものごとの本質に向き合って会社を大きく変えていくなどという行動はできないのです。名を捨てて実をとるということこそ今の日本的経営を行ってきて行き詰っている企業には必要なのです。社員の行動をがんじがらめに縛る会社ほど非効率的で逆に自由な思考や行動を受け入れ、ものごとの本質が見えてくるような組織風土を築いたほうがよっぽど効率的であると考えます。そして減点主義でなく評価主義に切り替えつつ仕事に誇りをもって取り組める風土にすることが企業や組織のトップや上層部がもっとも考えていかなければならないことだと思います。
もちろん上層部も社員たちもそれを善しとして、全くそういった状況を問題視することなく、ただ徒に時間を消化することだけを考えているという状況になっていたりします。そういう中でたまに血の気の多い社員や中途採用のまだ組織の色に染まっていない社員なんかがいたりすると、組織的な問題や業務や商品開発などさまざまなことがらに本音をぶつけ、一石を投じるなんてこともあるのですが、そういった行動には会議参加者の大半は火消しに回るということになります。
実は彼らが思っていることはみんな思っていたことで、すでにそれができないほど組織の制度にがんじがらめに埋め込まれた状態にあるので、そういった提案や意見はできないこと、無駄なことというカテゴリーにふるい分けられ、議題にあがることはないのです。まさに非効率的で理不尽であったりすることが公然と組織の成員の暗黙の了解の下にまかり通っているという状況があったりするのです。
すでに組織の上層部のみならず成員全体が、本音のところではその部分の改革が必要だと思いながらもそれはできないことといういわば‘思い込みサイクル’に陥っているのです。実際は力を合わせてやればできることであったりするのですが、できないという思い込みです。個人においては自分自身が思い込みサイクルにはまっていると思えば、自己啓発セミナーに出たり、本やさまざまなメディアから情報を得たりして、自ら努力することでそこから脱却できるかもしれません。でも組織となれば簡単ではありません。
組織の中でたった一人で改革をやろうと思ってもたいへん困難です。経営トップでさえ困難であったりします。組織の一社員であれば、間違いなくもっと難しいでしょう。それでも何とかしようと思えば、まず経営トップや執行部を動かすだけのパワーを持たなければならなくなります。地位がなければ、まず意識や行動をともにする人的基盤を築いて上層部に訴えるという作業が必要になってきます。ところがその作業のプロセスの段階でその流れはつぶされてしまうという可能性も大きいのです。下手をすると組織の方向性とは違うとレッテルを貼られ、その組織の中にあって組織のために行動しているにも関わらず重要なポストから排除されてしまう危険性だってあります。そして信頼していた人びとさえ組織の論理を代弁しているとされる上層部のや会社側の論理に引き込まれ、脱落していくという人が出てきます。
こういったことは一つの大きな組織の秩序や統制を維持するためには仕方のない一面もありますが、結果的に個を重要視しないことがもたらす全体の滅びでもあるのです。部分的最適化が全体を滅ぼす逆パターンです。経営トップや組織の上層部はそういったキラリと光る原石を見極め、一旦耳を貸すという勇気も必要です。もちろん振り回されて会社を破たんさせるような方向に行くことは避けなければなりませんから、当然慎重になる気持ちはよく理解できます。でもつねにそういった組織内の核心部分をついた本音の声を封じ込めることばかりやっていると何も変わらないし、企業の成長はストップした状況が続くのです。
個人も組織もものごとの本質に向き合う力がとても弱いのです。これは日本的な経営の弊害部分でもあると思います。戦後の経済の高度成長の時代にはヒエラルキー組織で統率してがんがん生産効率を高めていくことが企業の収益につながっていたのですが、モノがあふれていて知的労働のほうが重要とされる現代では旧態依然たる組織風土や思考にとらわれていては全く成長できないのだと思います。そういったことに気づいて企業のトップや上層部が行動を起こしてもやはり過去の既成概念が邪魔をしてやはり思い切った改革、転換ということはなかなか困難です。
世界的に成長しつづける企業の多くはそういった既成概念を崩して通常の理解を越えた取り組みをしています。世界的企業のグーグルなどは社員が散歩しながら会議をしたり、いいアイディアを捻出できるようにさまざまな工夫をしています。そして社員の健康まで自己管理できるようにトレーニングジムや24時間無料の社員食堂もあったりします。毎日決まった時間に出社して決まった時間でなく遅くまでサービス残業を課すような会社ではまったく理解不能な取り組みです。
労働価値説的な思考から脱却できないレベルはもう言うに及びませんが、今までの日本の会社という枠組みを崩すくらいの発想ができなければものごとの本質に向き合って会社を大きく変えていくなどという行動はできないのです。名を捨てて実をとるということこそ今の日本的経営を行ってきて行き詰っている企業には必要なのです。社員の行動をがんじがらめに縛る会社ほど非効率的で逆に自由な思考や行動を受け入れ、ものごとの本質が見えてくるような組織風土を築いたほうがよっぽど効率的であると考えます。そして減点主義でなく評価主義に切り替えつつ仕事に誇りをもって取り組める風土にすることが企業や組織のトップや上層部がもっとも考えていかなければならないことだと思います。
2013年5月24日金曜日
ものごとの本質と向き合う力①
人間は基本的に尊厳を大切にします。それは意識的にも無意識的にも、そして感情的にも行動的にも自己の尊厳を毀損されることがらに対してをれを回避する方向に動きます。それは明らかに人が人として存在することになにごとにも替えられない尊厳を有しているからだと思います。
したがって人間は傷つけられるような言動や理不尽な対応をされたときなどには、それを回避したり、断固として拒絶したりする意識がはたらき、自分を擁護したり正当化するような言動をとるわけです。会社の中にも学校の中、家庭の中でさえ、人間があつまり社会を形成するところでは必ずそういったやりとりがあるわけです。みなさんが会社などに勤めたり、所属しているコミュニティで活動されているなかで、そういった場面によく出くわすことがあると思います。
私の経験からちょっとお話ししますが、以前世話になった上司はとてもいい人で、上役の中にとても理不尽なことを言う人がいてその人への対応にいつも苦慮していました。実際、仕事とは関係のないあくまで個人的な感情を中心の言動をする人で、思いつきでなんでも指示命令をしてしまうような人でした。その上役に怒鳴られたり、目茶苦茶いじめられたり、それも怒鳴るにしても会議の場で見せしめのように怒鳴るのです。自分の上司がそこまで理不尽な対応をされることに気持ちのいい部下はいないと思います。でもだれもそれに対してどうこう言うことができないのです。すでにその人にもの申す人はいなくて、裸の王様状態になっていました。したがって無言の同調圧力の中で上司はペコペコしているだけという状況でした。そういった会議には基本的に私は参加しませんが、たまたま参加した会議の中でそういう状況であったことを知りました。
上司が怒鳴られたり、いじめられているのが常態化していて、一時期はうつ気味のときもありました。ところが上司のことを思って、その上役をいろいろやってつぶしますか(少々過激表現が多いですが…)と提案しても、上司はまったくそれにはのってこないのです。それは一つはあまりに抑圧されいじめられてきた内容が大きいのですでに学習性無力感の状態に至っているというのがひとつはあると思いました。そういうポジションだからというのです。したがって自分に非があるわけでもなく、上役のキャラに問題があるのは当然ですが、あくまでそういう地位にあるからだという訳のわからない説明をするのです。
みなさんは経験ありませんか。
「あんなに言われてなんで黙っているんですか?」
「明らかに変じゃないですか、はっきり言ってやったらいいですよ!」
「なんなら私たちがみんなで訴えますか?」
ここまで言ってものってこない上役に言われぱなしのダメ上司。
上司の話を聞いて部下たちは熱くなっているにもかかわらず、挙句の果てはいじめられている上役のことを擁護までするのです。そんな悪い人じゃないよとか、短気だけど言っていることは正論だとか、もうこの上司なに考えているのかと部下たちからは逆に信頼を失ってしまうようになりました。
そりゃそうです、さんざ上役の問題を聞かされて熱しているところに水をかける、部下からすればどうせそう考えるなら、あんたの心の中でうまく整理して終わりにしてよという話です。もし私が上司の立場なら一緒に闘おうとしてくれる部下の言葉が嬉しくていろいろ考え、クーデターのひとつでも企てるところですが、そうはならないのです。
ずっとそういう上司を理解できなかったのですが、よくよく考えると彼は彼なりに自分の人間としての尊厳を守り通そうと必死であったということです。それはとりあえず自分を立てて使っているのは上役なので、彼がそのポジションから外れるようにすることには言及しないのです。そうでありながらも自分の行動の足りなさは決して認めないというカタチでスルリスルリとものごとも本質からどんどんはずしながら、誰にも責任問題は追及しないというカタチをとるのです。これはある面日本社会のうまくやっていく人間関係やその立ち位置のありかたかもしれません。そして自分自身の尊厳も守られるのです。
怒鳴られても、いじめられても、自分に非があるわけでもなければ、相手も立場上そうしなければならないのだろうという理解は明らかにものごとの本質からは大きく外れています。私が経験した場合には明らかにその上役の人格的な問題があったわけです。でもそのことに誰も触れようとしないのです。社内のほとんどの人びとがそれがわかっているにもかかわらずです。もちろん被害を受けている当の本人自体が被害という認識から逃げているので周囲はもうそれ以上言うこともできないのです。
長い期間にわたって抑圧された環境下の中では、抑圧されている人びとは自然に自己の尊厳を守るために‘置き換え’や‘すり替え’ができる思考になってしまっています。これは気づかなければ、そのまま過ごしているわけです。でも意識、あるいは無意識の領域には明らかにストレスがたまっているはずですので、管理職の中で急にうつになったり、バタッと倒れるような人が出てくるのだと思います。
職場での人格的な問題がある人びとによる理不尽な言動はいつの間にか立場的な行為として置き換えがなされ、容認、あるいは賛同されるようになってしまっているケースがあります。オフィシャルでない場ではその本質(地位でなく人格問題であること)は話し合われているのですが、オフィシャルな場ではまったくその話は息を潜めるのです。すなわち本質と向き合う力が極端に弱まってしまうのです。ですから、そういう場合、結果的にアンオフィシャルな裏工作でそういった問題を処理する作業が進んでいくのです。裏工作であったとしても問題解決ができればいいのですが、それさえもできない組織はもう致命的です。唯一そういった組織がことの本質に向き合う機会ができるとしたら、そういった問題が社会的に露呈される場合です。
産業界にしても教育界にしてもそういった問題の本質がわかる人は数多くいるのですが、それと向き合う力、あるいはそれを容易にできるシステムづくりが急がれます。企業ならコンプライアンス違反、教育界は体罰、いじめ問題、家庭ならDVから具体的な事件になって初めて問題の本質が明らかになるのです。
組織はなかなか本音と建前で動きますからとても難しい面がありますが、少なくとも個人においては自分の思考がものごとの本質から目を背けて自分の言動を正当化して周囲から信頼を失うということだけは避けたいものです。
したがって人間は傷つけられるような言動や理不尽な対応をされたときなどには、それを回避したり、断固として拒絶したりする意識がはたらき、自分を擁護したり正当化するような言動をとるわけです。会社の中にも学校の中、家庭の中でさえ、人間があつまり社会を形成するところでは必ずそういったやりとりがあるわけです。みなさんが会社などに勤めたり、所属しているコミュニティで活動されているなかで、そういった場面によく出くわすことがあると思います。
私の経験からちょっとお話ししますが、以前世話になった上司はとてもいい人で、上役の中にとても理不尽なことを言う人がいてその人への対応にいつも苦慮していました。実際、仕事とは関係のないあくまで個人的な感情を中心の言動をする人で、思いつきでなんでも指示命令をしてしまうような人でした。その上役に怒鳴られたり、目茶苦茶いじめられたり、それも怒鳴るにしても会議の場で見せしめのように怒鳴るのです。自分の上司がそこまで理不尽な対応をされることに気持ちのいい部下はいないと思います。でもだれもそれに対してどうこう言うことができないのです。すでにその人にもの申す人はいなくて、裸の王様状態になっていました。したがって無言の同調圧力の中で上司はペコペコしているだけという状況でした。そういった会議には基本的に私は参加しませんが、たまたま参加した会議の中でそういう状況であったことを知りました。
上司が怒鳴られたり、いじめられているのが常態化していて、一時期はうつ気味のときもありました。ところが上司のことを思って、その上役をいろいろやってつぶしますか(少々過激表現が多いですが…)と提案しても、上司はまったくそれにはのってこないのです。それは一つはあまりに抑圧されいじめられてきた内容が大きいのですでに学習性無力感の状態に至っているというのがひとつはあると思いました。そういうポジションだからというのです。したがって自分に非があるわけでもなく、上役のキャラに問題があるのは当然ですが、あくまでそういう地位にあるからだという訳のわからない説明をするのです。
みなさんは経験ありませんか。
「あんなに言われてなんで黙っているんですか?」
「明らかに変じゃないですか、はっきり言ってやったらいいですよ!」
「なんなら私たちがみんなで訴えますか?」
ここまで言ってものってこない上役に言われぱなしのダメ上司。
上司の話を聞いて部下たちは熱くなっているにもかかわらず、挙句の果てはいじめられている上役のことを擁護までするのです。そんな悪い人じゃないよとか、短気だけど言っていることは正論だとか、もうこの上司なに考えているのかと部下たちからは逆に信頼を失ってしまうようになりました。
そりゃそうです、さんざ上役の問題を聞かされて熱しているところに水をかける、部下からすればどうせそう考えるなら、あんたの心の中でうまく整理して終わりにしてよという話です。もし私が上司の立場なら一緒に闘おうとしてくれる部下の言葉が嬉しくていろいろ考え、クーデターのひとつでも企てるところですが、そうはならないのです。
ずっとそういう上司を理解できなかったのですが、よくよく考えると彼は彼なりに自分の人間としての尊厳を守り通そうと必死であったということです。それはとりあえず自分を立てて使っているのは上役なので、彼がそのポジションから外れるようにすることには言及しないのです。そうでありながらも自分の行動の足りなさは決して認めないというカタチでスルリスルリとものごとも本質からどんどんはずしながら、誰にも責任問題は追及しないというカタチをとるのです。これはある面日本社会のうまくやっていく人間関係やその立ち位置のありかたかもしれません。そして自分自身の尊厳も守られるのです。
怒鳴られても、いじめられても、自分に非があるわけでもなければ、相手も立場上そうしなければならないのだろうという理解は明らかにものごとの本質からは大きく外れています。私が経験した場合には明らかにその上役の人格的な問題があったわけです。でもそのことに誰も触れようとしないのです。社内のほとんどの人びとがそれがわかっているにもかかわらずです。もちろん被害を受けている当の本人自体が被害という認識から逃げているので周囲はもうそれ以上言うこともできないのです。
長い期間にわたって抑圧された環境下の中では、抑圧されている人びとは自然に自己の尊厳を守るために‘置き換え’や‘すり替え’ができる思考になってしまっています。これは気づかなければ、そのまま過ごしているわけです。でも意識、あるいは無意識の領域には明らかにストレスがたまっているはずですので、管理職の中で急にうつになったり、バタッと倒れるような人が出てくるのだと思います。
職場での人格的な問題がある人びとによる理不尽な言動はいつの間にか立場的な行為として置き換えがなされ、容認、あるいは賛同されるようになってしまっているケースがあります。オフィシャルでない場ではその本質(地位でなく人格問題であること)は話し合われているのですが、オフィシャルな場ではまったくその話は息を潜めるのです。すなわち本質と向き合う力が極端に弱まってしまうのです。ですから、そういう場合、結果的にアンオフィシャルな裏工作でそういった問題を処理する作業が進んでいくのです。裏工作であったとしても問題解決ができればいいのですが、それさえもできない組織はもう致命的です。唯一そういった組織がことの本質に向き合う機会ができるとしたら、そういった問題が社会的に露呈される場合です。
産業界にしても教育界にしてもそういった問題の本質がわかる人は数多くいるのですが、それと向き合う力、あるいはそれを容易にできるシステムづくりが急がれます。企業ならコンプライアンス違反、教育界は体罰、いじめ問題、家庭ならDVから具体的な事件になって初めて問題の本質が明らかになるのです。
組織はなかなか本音と建前で動きますからとても難しい面がありますが、少なくとも個人においては自分の思考がものごとの本質から目を背けて自分の言動を正当化して周囲から信頼を失うということだけは避けたいものです。
2013年4月28日日曜日
結果よりもプロセスを楽しむということ
最近、また気づいたことですが、モチベーションがなんとなく下がってしまう原因のひとつにやってもやっても結果が出ないということがあります。それで普段の生活の中でそのことに気づかず過ごしていたということに気づいたのです。そうです、何か力が出ない原因は投入したことに対してそれにふさわしい結果が与えられていないということであったのです。
スポーツの世界ならスランプに陥っているという状態なのかもしれません。それで、もがき苦しみながらなんとか結果を出そうと頑張るということになるわけです。ただスポーツの世界ならば、ある面単純で、その結果を判断材料にどこが悪いのかメンタル面もふくめて徹底して分析し、また専門家であるコーチや監督に相談して結果が出るように頑張ればいいわけです。
私たちは普段の生活の中で会社の仕事だけでなく、いろいろなことに取り組むと気楽に始めて、やりまくるわけですが、やはり結果が出ないといつの間にかそのことに関心が行かなくなったり、あきらめたり途中辞めになってしまったりします。モノを売るとしても、やっぱり市場のニーズがなかったのかなとか、みんなこういうものには関心ないんだとか思って投げ出してしまうわけです。
そういう中で気づいたことは、以前営業の仕事をしていたとき、やってもやっても結果が出ず、もう嫌気がさすぐらい嫌になったところで思い返し、とても大きな結果が出たという体験があったのです。それは
「もう結果はずっと出なくていいや、自分がこの仕事を好きで、楽しめばいいんだ。とにかく結果は一切気にせず、この仕事を楽しもう!」
という気持ちになったときのことでした。完全にふっ切れて何かスッキリとした気持ちで再出発したのです。そうしたところ、市場の状況が大きく変わっていったのです。会う人会う人、大きな案件が成立し始めたのです。これには他の誰でもない自分自身がとても驚きました。今思うと、完全に自分の気持ちが変わることによって、顧客の受け止め方も大きく変わったのだと思います。おそらく、そこで少しでも結果を求める下心があるならば、きっと契約は成立せず、同じように結果の出ない日々が続いていたに違いありません。(これは恋愛に関しても言えることですが、それは機会があれば…)
精神的にふっ切れたり、割り切れたりしたら心はスッキリとしますし、大きく気持ちの上でラクになるのです。ですから相手に対して、ある面ハッキリと言うべきところは言えるし、しつこく食い下がるといった相手の気持ちを害するような言動もなくなります。なぜなら結果はどうでもいいからなのです。おそらく営業がうまくいかないという人に多いのは自分の力技でやろうとしているところだと思います。そこに上司からの圧力があれば尚更追い込まれますから結果に執着するようになり、よけいに結果は出なくなるのです。
結果なんかどうでもいいという気持ちで相手との交渉を楽しめれば、きっと相手も気持ちよく提案に応じてくれるはずです。結果が出るかどうかはあくまでこちらの都合であって、相手には何も関係ないからです。心の中でこちらの都合を意識した交渉はうまく行くはずがありません。やはり人間は感情をもつ動物です。こちらの一方的な自己中心的意識は空気として必ず伝わっていくはずです。無私の思いで相手を喜ばせよう、利益を提供しようという意識のみが相手に感動を呼び起こし、自分を受け入れてもらえるきっかけとなるのです。
よく結果に責任を持てなんていう人がいますが、ホントに結果に責任を持とうと思ったら、ある面、結果に一切関心を持たないで営業プロセスを楽しめるかどうかというたいへんパラドクシカルな思考がそこには必要となってくるのです。すなわちカタチだけでない心からあふれてくるような利他的思考こそが結果をもたらしてくれる原因なのです。
営業の統括責任者として立っているような人はそういった部下の精神的な動きを見抜くことができなければホントの意味で営業、販売指導などはスキルだけに終始し、ますます負のスパイラルに入ってしまうのです。そして部下に結果が出ないといって圧力をかけたりするとコンプライアンスの問題まで引き起こす結果となるかもしれません。昔のようにモノを提供すればすぐ購入するような時代ではないのです。そういう時代は自然に結果が出るのでストレスもなく、結果にもそれほど執着せず楽しみながら営業できたはずですが、モノがあふれている今の時代は全く市場環境も違うし、心のゆとりも無くなってきているのです。
結論として言えること、それはすべての言動の源泉となるものはやはり利他的愛情に他ならないということにつきるのです。もちろんそういった意識転換がなされた上でやり続け、それでも結果が伴わないとするならば、当然市場のニーズと関係のないものを提供し続けているとか、価格の面が問題だとか、パッケージがどうだとか商品自体の問題や流通ルート、すなわち訴求先自体が間違っていたのではないかというさまざまな疑問を持つことは重要で、それに気づかない上司や経営者、会社はまた違った意味で致命的なのです。
スポーツの世界ならスランプに陥っているという状態なのかもしれません。それで、もがき苦しみながらなんとか結果を出そうと頑張るということになるわけです。ただスポーツの世界ならば、ある面単純で、その結果を判断材料にどこが悪いのかメンタル面もふくめて徹底して分析し、また専門家であるコーチや監督に相談して結果が出るように頑張ればいいわけです。
私たちは普段の生活の中で会社の仕事だけでなく、いろいろなことに取り組むと気楽に始めて、やりまくるわけですが、やはり結果が出ないといつの間にかそのことに関心が行かなくなったり、あきらめたり途中辞めになってしまったりします。モノを売るとしても、やっぱり市場のニーズがなかったのかなとか、みんなこういうものには関心ないんだとか思って投げ出してしまうわけです。
そういう中で気づいたことは、以前営業の仕事をしていたとき、やってもやっても結果が出ず、もう嫌気がさすぐらい嫌になったところで思い返し、とても大きな結果が出たという体験があったのです。それは
「もう結果はずっと出なくていいや、自分がこの仕事を好きで、楽しめばいいんだ。とにかく結果は一切気にせず、この仕事を楽しもう!」
という気持ちになったときのことでした。完全にふっ切れて何かスッキリとした気持ちで再出発したのです。そうしたところ、市場の状況が大きく変わっていったのです。会う人会う人、大きな案件が成立し始めたのです。これには他の誰でもない自分自身がとても驚きました。今思うと、完全に自分の気持ちが変わることによって、顧客の受け止め方も大きく変わったのだと思います。おそらく、そこで少しでも結果を求める下心があるならば、きっと契約は成立せず、同じように結果の出ない日々が続いていたに違いありません。(これは恋愛に関しても言えることですが、それは機会があれば…)
精神的にふっ切れたり、割り切れたりしたら心はスッキリとしますし、大きく気持ちの上でラクになるのです。ですから相手に対して、ある面ハッキリと言うべきところは言えるし、しつこく食い下がるといった相手の気持ちを害するような言動もなくなります。なぜなら結果はどうでもいいからなのです。おそらく営業がうまくいかないという人に多いのは自分の力技でやろうとしているところだと思います。そこに上司からの圧力があれば尚更追い込まれますから結果に執着するようになり、よけいに結果は出なくなるのです。
結果なんかどうでもいいという気持ちで相手との交渉を楽しめれば、きっと相手も気持ちよく提案に応じてくれるはずです。結果が出るかどうかはあくまでこちらの都合であって、相手には何も関係ないからです。心の中でこちらの都合を意識した交渉はうまく行くはずがありません。やはり人間は感情をもつ動物です。こちらの一方的な自己中心的意識は空気として必ず伝わっていくはずです。無私の思いで相手を喜ばせよう、利益を提供しようという意識のみが相手に感動を呼び起こし、自分を受け入れてもらえるきっかけとなるのです。
よく結果に責任を持てなんていう人がいますが、ホントに結果に責任を持とうと思ったら、ある面、結果に一切関心を持たないで営業プロセスを楽しめるかどうかというたいへんパラドクシカルな思考がそこには必要となってくるのです。すなわちカタチだけでない心からあふれてくるような利他的思考こそが結果をもたらしてくれる原因なのです。
営業の統括責任者として立っているような人はそういった部下の精神的な動きを見抜くことができなければホントの意味で営業、販売指導などはスキルだけに終始し、ますます負のスパイラルに入ってしまうのです。そして部下に結果が出ないといって圧力をかけたりするとコンプライアンスの問題まで引き起こす結果となるかもしれません。昔のようにモノを提供すればすぐ購入するような時代ではないのです。そういう時代は自然に結果が出るのでストレスもなく、結果にもそれほど執着せず楽しみながら営業できたはずですが、モノがあふれている今の時代は全く市場環境も違うし、心のゆとりも無くなってきているのです。
結論として言えること、それはすべての言動の源泉となるものはやはり利他的愛情に他ならないということにつきるのです。もちろんそういった意識転換がなされた上でやり続け、それでも結果が伴わないとするならば、当然市場のニーズと関係のないものを提供し続けているとか、価格の面が問題だとか、パッケージがどうだとか商品自体の問題や流通ルート、すなわち訴求先自体が間違っていたのではないかというさまざまな疑問を持つことは重要で、それに気づかない上司や経営者、会社はまた違った意味で致命的なのです。
2013年4月23日火曜日
ネットワークビジネスに利用される成功哲学について
成功哲学、人生で何度か関心をもったり、あるいは心酔してはまっていたという人もいるでしょう。特にネットワークビジネスなど体験した人(現在進行形の人もいるかもしれませんが)などは自分を鼓舞するためにいつもそういった本を携帯されたり愛読されたりしたのではないでしょうか。
PSIでは人生は成功するというより、一人ひとりがしあわせになるということに主眼を置いているので、あまり成功するといったことに傾倒することはありません。もちろん成功することが悪でもなければ、成功哲学をまやかしだなんて言うつもりもありませんし、とても人間のモチベーションを上げるには要点をついた考え方が多くあると思います。ただ世の中でホントに成功しているなと思える人で成功哲学を推奨する人はほとんど見たことがありません。
経営者という観点では、たとえばユニクロの柳井会長はドラッガーの信奉者ですし、成功していると言われる経営者の多くはMBAホルダーはいても、成功哲学の話をするのを聞いたことがないのです。経営学と成功哲学はどこが違うのでしょうか。
成功哲学というとネットワークビジネス(以降MLM[マルチレベルマーケティングの略]と表示)やせいぜいベンチャーで成功するというイメージがあるのですが、それで成功したと言われる人たちと経営者として成功した人たちを比べるとまったく世界が違うように思います。前者は一攫千金的な感覚があるのに対して、後者は地道に確実に基盤を築いて成功を収めるというイメージがあります。二項対論的に言うのは避けたいところですが、コントラスト効果でわかりやすくするためにあえてお許し願いたいのですが、前者はギラギラしている感じで、後者は案外地味であったりします。
よくテレビに優良企業の経営者とか出てくると、あまりにイメージと違って拍子抜けすることがあるのですが、私が特に感じるのは少年のような無邪気な気持ちを持っていてなおかつゆったりとしたゆとりを感じるのです。あまり忙しないような人は見かけないように思います。まあ実際はわかりませんが。そして経営者でテンションがメチャメチャ高くて、まくしたてるように喋る人もいません。逆にインタビュアーが社長、そんなんでいいんですかとびっくりするくらい、ゆったりしていたりします。特にうまく会社や社員を回している経営者は権限移譲や社員のポテンシャルとうまく引き出してあまり自分でせかせかと働きまくる人はいないように思います。
MLMなどでは希少性を狙ったアプローチで人びとを動かし、ビジネスへと駆り立てます。そこに成功哲学的思想を植えつけ、成功=善、行動しない=悪としてある面、やる気のなさを排除しにかかります。そしてプライドをいじられた人はついついその話術に乗って行動してしまうのです。でもMLMで成功できる人はほんの一握りの人です。多くの人びとは成功できないのです。でも成功できないからこそ、みんなMLMにはまるのです。すなわち「儲からない」の裏返しは「金持ちになりたい」です。ギャンブルがなぜやめられないか、それは儲からないからです。儲かれば、さらに儲けたいと欲が出ますし、儲からなければ儲かるまでやる、すなわち負け続けるという構図です。
ネットワーカーがジャンキーになるのは簡単です。勝てないギャンブルがやり続ける要因になっていて、さらに勝てるはずだというギャンブルに向かわせるのです。したがって、ネットワーカーは相当上部組織である程度の安定収入でなければ、下部組織の人びとはつねに渡り鳥のようにいろんなMLBを渡り歩くのです。MLBは基本的には本社だけが潤い、末端の販売組織の人びとはつねに新陳代謝を繰り返し、上層部も下層部も残る人はMLBが宗教化してその会社と商材に対する信仰が定着した人びとだけです。そういうMLBの経営トップはほとんどがカリスマがあり教祖と化しているケースが多々あります。
もともとナポレオンヒルも成功した実業家をリサーチすることで成功法則を導き出したわけですが、いつの間にかそういった考え方が成功できないシステムにうまく利用されてしまっています。成功哲学も本来は違った観点でつくられたのかもしれませんが、実際は成功哲学、自己啓発セミナーといったものも多くはマユツバものとしてとらえられている節があります。
MLMでは成功哲学を武器として、いわゆる緊張系のモチベーションをあおり、短期で高額なリターンをウリにして人びとをビジネスに駆り立てます。ちょうど瞬間湯沸かし器のようなもので、急激にお湯が沸いて、なかなか冷めないのです。そのあとは客観的に見たらどう考えても無理なのに、それを維持しようと必死になります。ただやり続ける人もいますが、やめる人も多いのです。なぜかと言うと緊張系のモチベーションで一時的にテンションをあげてガーッと実績をあげる手法です。すなわち短距離走ばかりやりつづけることを要求されるのです。さすがに限界を感じてやめる人も多くいます。ただやめた人びとが多く、その人たちがそのMLMの会社の世間での評価をつくっているわけですから、当然MLMはいいイメージになるわけがありません。私はかねてよりCS(顧客満足)よりES(従業員満足)と訴えてきましたが、それは従業員やその家族が市場でもあるからなのです。
成功哲学を利用したMLMのような外発的動機づけ、すなわち金持ちになるということを前面に押し出して人を動かすという観点は長続きしようがありません。世間に認められる会社経営はより内発的動機づけ、すなわち社会貢献やそれを実践している誇りなどがベースにあって、地道な努力の結果として富の蓄積がなされていくのです。すなわち金儲けはどこまでも結果でしかないのです。結果自体を露骨に目的としてしまったMLMはマネーゲームの様相にならざるをえないのです。こういうことを言うと金儲けが悪のように言うのは間違っていると言う人が必ず出てきます。悪だとは言いませんが、動機が金儲けになれば結果は破たんです。自己中心的動機は自分を滅ぼすのです。利他主義に徹するときにいつの間にか豊かになっているというのが経営であり、成功哲学を利用するMLMの違いだと思います。
もちろん断っておきますが、すべてのMLMが悪いというつもりはありません。ただ人間の心理を巧みに利用するビジネスはどう考えても、コンプライアンス的観点からも疑問を呈せざるえないことも事実です。成功哲学は個人的に自分を鼓舞するのに利用し、あまり人をあおって動かすことに使うのはリスクを感じます。いずれにせよ、PSIは経済的に成功するかどうかという以前に、人間として社会の一員として人に迷惑をかけず、自分自身もしあわせになる(である)ということを中心的テーマにしていますので、くれぐれも甘い言葉には気をつけていきたいものです。
PSIでは人生は成功するというより、一人ひとりがしあわせになるということに主眼を置いているので、あまり成功するといったことに傾倒することはありません。もちろん成功することが悪でもなければ、成功哲学をまやかしだなんて言うつもりもありませんし、とても人間のモチベーションを上げるには要点をついた考え方が多くあると思います。ただ世の中でホントに成功しているなと思える人で成功哲学を推奨する人はほとんど見たことがありません。
経営者という観点では、たとえばユニクロの柳井会長はドラッガーの信奉者ですし、成功していると言われる経営者の多くはMBAホルダーはいても、成功哲学の話をするのを聞いたことがないのです。経営学と成功哲学はどこが違うのでしょうか。
成功哲学というとネットワークビジネス(以降MLM[マルチレベルマーケティングの略]と表示)やせいぜいベンチャーで成功するというイメージがあるのですが、それで成功したと言われる人たちと経営者として成功した人たちを比べるとまったく世界が違うように思います。前者は一攫千金的な感覚があるのに対して、後者は地道に確実に基盤を築いて成功を収めるというイメージがあります。二項対論的に言うのは避けたいところですが、コントラスト効果でわかりやすくするためにあえてお許し願いたいのですが、前者はギラギラしている感じで、後者は案外地味であったりします。
よくテレビに優良企業の経営者とか出てくると、あまりにイメージと違って拍子抜けすることがあるのですが、私が特に感じるのは少年のような無邪気な気持ちを持っていてなおかつゆったりとしたゆとりを感じるのです。あまり忙しないような人は見かけないように思います。まあ実際はわかりませんが。そして経営者でテンションがメチャメチャ高くて、まくしたてるように喋る人もいません。逆にインタビュアーが社長、そんなんでいいんですかとびっくりするくらい、ゆったりしていたりします。特にうまく会社や社員を回している経営者は権限移譲や社員のポテンシャルとうまく引き出してあまり自分でせかせかと働きまくる人はいないように思います。
MLMなどでは希少性を狙ったアプローチで人びとを動かし、ビジネスへと駆り立てます。そこに成功哲学的思想を植えつけ、成功=善、行動しない=悪としてある面、やる気のなさを排除しにかかります。そしてプライドをいじられた人はついついその話術に乗って行動してしまうのです。でもMLMで成功できる人はほんの一握りの人です。多くの人びとは成功できないのです。でも成功できないからこそ、みんなMLMにはまるのです。すなわち「儲からない」の裏返しは「金持ちになりたい」です。ギャンブルがなぜやめられないか、それは儲からないからです。儲かれば、さらに儲けたいと欲が出ますし、儲からなければ儲かるまでやる、すなわち負け続けるという構図です。
ネットワーカーがジャンキーになるのは簡単です。勝てないギャンブルがやり続ける要因になっていて、さらに勝てるはずだというギャンブルに向かわせるのです。したがって、ネットワーカーは相当上部組織である程度の安定収入でなければ、下部組織の人びとはつねに渡り鳥のようにいろんなMLBを渡り歩くのです。MLBは基本的には本社だけが潤い、末端の販売組織の人びとはつねに新陳代謝を繰り返し、上層部も下層部も残る人はMLBが宗教化してその会社と商材に対する信仰が定着した人びとだけです。そういうMLBの経営トップはほとんどがカリスマがあり教祖と化しているケースが多々あります。
もともとナポレオンヒルも成功した実業家をリサーチすることで成功法則を導き出したわけですが、いつの間にかそういった考え方が成功できないシステムにうまく利用されてしまっています。成功哲学も本来は違った観点でつくられたのかもしれませんが、実際は成功哲学、自己啓発セミナーといったものも多くはマユツバものとしてとらえられている節があります。
MLMでは成功哲学を武器として、いわゆる緊張系のモチベーションをあおり、短期で高額なリターンをウリにして人びとをビジネスに駆り立てます。ちょうど瞬間湯沸かし器のようなもので、急激にお湯が沸いて、なかなか冷めないのです。そのあとは客観的に見たらどう考えても無理なのに、それを維持しようと必死になります。ただやり続ける人もいますが、やめる人も多いのです。なぜかと言うと緊張系のモチベーションで一時的にテンションをあげてガーッと実績をあげる手法です。すなわち短距離走ばかりやりつづけることを要求されるのです。さすがに限界を感じてやめる人も多くいます。ただやめた人びとが多く、その人たちがそのMLMの会社の世間での評価をつくっているわけですから、当然MLMはいいイメージになるわけがありません。私はかねてよりCS(顧客満足)よりES(従業員満足)と訴えてきましたが、それは従業員やその家族が市場でもあるからなのです。
成功哲学を利用したMLMのような外発的動機づけ、すなわち金持ちになるということを前面に押し出して人を動かすという観点は長続きしようがありません。世間に認められる会社経営はより内発的動機づけ、すなわち社会貢献やそれを実践している誇りなどがベースにあって、地道な努力の結果として富の蓄積がなされていくのです。すなわち金儲けはどこまでも結果でしかないのです。結果自体を露骨に目的としてしまったMLMはマネーゲームの様相にならざるをえないのです。こういうことを言うと金儲けが悪のように言うのは間違っていると言う人が必ず出てきます。悪だとは言いませんが、動機が金儲けになれば結果は破たんです。自己中心的動機は自分を滅ぼすのです。利他主義に徹するときにいつの間にか豊かになっているというのが経営であり、成功哲学を利用するMLMの違いだと思います。
もちろん断っておきますが、すべてのMLMが悪いというつもりはありません。ただ人間の心理を巧みに利用するビジネスはどう考えても、コンプライアンス的観点からも疑問を呈せざるえないことも事実です。成功哲学は個人的に自分を鼓舞するのに利用し、あまり人をあおって動かすことに使うのはリスクを感じます。いずれにせよ、PSIは経済的に成功するかどうかという以前に、人間として社会の一員として人に迷惑をかけず、自分自身もしあわせになる(である)ということを中心的テーマにしていますので、くれぐれも甘い言葉には気をつけていきたいものです。
2013年4月13日土曜日
営業、モノを売るということ②
景気がよかったときは、企業もB2B(企業間取引)でどんどん収益をあげてよかったのですが、不景気になるとやはりB2C(一般消費者への販売)が信頼できるというわけです。もともと企業が収益を上げることができるかどうかは末端の消費者が商品を受け入れるかどうかで決まってきます。メーカーの下には多くの下請け会社や原料供給などの取引会社がたくさんあります。しかしメーカーの売れる商品開発にすべてがかかっているのです。モノが売れない時代には、まさにこのメーカーのセンスある商品開発能力、すなわちイノベーション(創造的破壊、新結合、…)が必要なのです。しかし大企業であったりするとなかなか風通しのいい組織風土とそこから培われるイノベーションの力が欠如していてなかなか業績をあげられないという事態になってしまいます。
すなわちB2Bのリスクはモノを販売している現場の販売力というよりも、メーカーの市場のニーズを的確にとらえてなおかつ競合がなかなか追従できないコンセプトを見出し商品開発を行うということができなければそこにつながっている企業全体が連鎖的にきびしくなっていくという現実があるのです。昨今大手スーパーはそれぞれが工場を持ち、プライベートブランドを開発し、つねに市場の動向を見極めながら動いています。すなわちもともとB2Cの販路をもって直接消費者に対峙してきた強みがあるのです。ブランド力を傘にそこにあぐらをかいてきた大企業も販売してくれる量販店が売れないといってモノを仕入れてくれなければ終わりなのです。残念ながら第二、第三のブランドでも安価な方を消費者が選べば終わりです。
今はどの企業も消費者目線で事業を取り組もうとしています。そして直販ルートの確立も目指しているのです。今は人間力、すなわちコミニュケーション能力だけに依存した販売手法ではモノは売れません。消費者はずいぶんと目が肥えてきたのです。レベルアップしているのです。販売の現場で頑張っている営業部員は行けども行けどもモノが売れず実績も出ない、気づいた社員は‘ウリ’がないんだよと思っているはずです。私ならはっきり言います。
「売れるものを作ってください」
と。
もしおまえの販売能力が足りないと言われたら、
「市場(現場)に直接対しているのは私です。市場のニーズが分かるのは私ですから私の意見を参考に商品開発をしてください。」
と。
すなわち‘ウリ’の部分は市場さえ気づいていなかった価値観です。その価値に対応する商品コンセプトこそが重要なのです。いまだに人間力、すなわちコミニュケーション能力や話術、精神論などを営業マン(ウーマン)に求めるのはナンセンスです。もちろん最低限の礼儀とかやる気は必要でそもそもそれがない人は雇ってないはずです。したがってそういった観点の本や研修も今の時代あまり企業の業績とは関係ないといっていいと思います。もちろんそのレベルにいかない社員をかかえているという企業は必要かもしれませんが……。
業績が上がらないと嘆いている経営者や営業責任者の方がいらっしゃれば、メタ認知的に商品開発やそのベースとなる価値創造の部分までさかのぼって考えてみる必要があるのではないでしょうか。さらにそこの部分もきびしい状況、すなわち意見やアイディアが全く出ないとかいうことであれば、そのようになっている原因を突き止め解決する必要があるかもしれません。もしかしたら組織形態や組織風土の問題が大きく横たわっていて、眠るトラ状態(タブー視されたもの)になっていてそれが大きな問題になっているかもしれませんね。
すなわちB2Bのリスクはモノを販売している現場の販売力というよりも、メーカーの市場のニーズを的確にとらえてなおかつ競合がなかなか追従できないコンセプトを見出し商品開発を行うということができなければそこにつながっている企業全体が連鎖的にきびしくなっていくという現実があるのです。昨今大手スーパーはそれぞれが工場を持ち、プライベートブランドを開発し、つねに市場の動向を見極めながら動いています。すなわちもともとB2Cの販路をもって直接消費者に対峙してきた強みがあるのです。ブランド力を傘にそこにあぐらをかいてきた大企業も販売してくれる量販店が売れないといってモノを仕入れてくれなければ終わりなのです。残念ながら第二、第三のブランドでも安価な方を消費者が選べば終わりです。
今はどの企業も消費者目線で事業を取り組もうとしています。そして直販ルートの確立も目指しているのです。今は人間力、すなわちコミニュケーション能力だけに依存した販売手法ではモノは売れません。消費者はずいぶんと目が肥えてきたのです。レベルアップしているのです。販売の現場で頑張っている営業部員は行けども行けどもモノが売れず実績も出ない、気づいた社員は‘ウリ’がないんだよと思っているはずです。私ならはっきり言います。
「売れるものを作ってください」
と。
もしおまえの販売能力が足りないと言われたら、
「市場(現場)に直接対しているのは私です。市場のニーズが分かるのは私ですから私の意見を参考に商品開発をしてください。」
と。
すなわち‘ウリ’の部分は市場さえ気づいていなかった価値観です。その価値に対応する商品コンセプトこそが重要なのです。いまだに人間力、すなわちコミニュケーション能力や話術、精神論などを営業マン(ウーマン)に求めるのはナンセンスです。もちろん最低限の礼儀とかやる気は必要でそもそもそれがない人は雇ってないはずです。したがってそういった観点の本や研修も今の時代あまり企業の業績とは関係ないといっていいと思います。もちろんそのレベルにいかない社員をかかえているという企業は必要かもしれませんが……。
業績が上がらないと嘆いている経営者や営業責任者の方がいらっしゃれば、メタ認知的に商品開発やそのベースとなる価値創造の部分までさかのぼって考えてみる必要があるのではないでしょうか。さらにそこの部分もきびしい状況、すなわち意見やアイディアが全く出ないとかいうことであれば、そのようになっている原因を突き止め解決する必要があるかもしれません。もしかしたら組織形態や組織風土の問題が大きく横たわっていて、眠るトラ状態(タブー視されたもの)になっていてそれが大きな問題になっているかもしれませんね。
営業、モノを売るということ①
日本が高度経済成長をしていたときにはモノは飛ぶように売れました。なぜならもともと市場に無いものを提供したので当然大きな需要があったわけです。しかし、今はどうでしょう、簡単にモノは簡単には売れません。市場にすでにあるわけですし、モノが老朽化して買い換える時期にならなければ売れません。またさらに新たな価値創造をしなければモノは売れなくなっています。単に作れば売れた時代とはわけが違います。したがって販売者や営業部門のマンパワーにのみ依存した企業は衰退するしかない方向です。
商品開発は価値創造です。また市場にないコンセプト、すなわちホントはあったらすごくいいのだけれど、多くの人びとはそのことに気づいていないものです。そういった価値創造をすることによってしか生き残ることが極めて困難な時代になりました。よくセールス部門で優秀な成績を収めた人びとが、私はどんなモノでも売れるとか豪語するような本などが出ていたりします。確かにその人は売るかもしれません。でも不必要なモノを何とか説得して売ることはたいへん理不尽ですし、半ば詐欺的なトークによって相手を翻弄し売りつけているようにしか感じられません。
そもそもモノ(商品)というのは、必要な人に必要なモノを必要な量、適正な価格で提供するのが正しいはずです。最近は高齢社会を迎えて、本人自身が必要かどうかさえ認識できないような人にモノを売りつけたり、お金を取ろうとしたりする悪徳商法やオレオレ詐欺のようなものがはびこっています。人間の心理を巧みに利用した話術で相手にモノを購入させたり、相手から金を騙し取るのはこれは明らかに犯罪です。
昨今、消費者庁ができ、特別商取引法(略して特商法)などの法律によって、消費者保護の方向に流れています。またコンプライアンス(法令遵守)が叫ばれ、多くの企業は率先してリスクマネジメントの一環として取り組み、問題を起こさないように努力してきました。それでもいたちごっこのようにコンプライアンスが法令遵守というふうに認知されたことで法の網目をくぐって明らかに非人道的な行為であるにもかかわらず、法に触れないというスキルを身につけてしまった個人や企業があります。コンプライアンスの専門家、郷原信郎氏もそのことを憂慮されています。
コンプライアンスとは法だけに照らし合わせるのではなく、社会通念上、受容できないものはすでに違法行為と同じことであるわけです。需要と供給のバランスにしたがってモノは提供するものであって、すでにあるものや必要としないものを強引に売りつけることはとてもコンプライアンス上容認できるものではありません。また心理的に弱点をつくような売り方もそれに該当すると考えられます。すなわち同情心を引き出すとか、あるいは恩を売る(返報性による)方法、恐怖心を与える方法や集団で圧力を与えたり、同調圧力による方法なども問題であると思います。またデート商法のようなハニートラップのようなやり方も完全に販売活動では違法です。
ネットワークビジネスなどは、違法とは言い切れない部分もあるのですが、日本人にはどうしても胡散臭いものにとらえられてしまいます。それはなぜかというと、日本は血縁や親しい間柄では信頼という概念によって築かれた人間関係だからです。この関係に金銭の利害関係や契約関係を持ち込むことはとても嫌がられることなのです。そもそも欧米から来たビジネスですので、そもそもそういった社会は契約社会で結婚し夫婦関係さえも契約なのです。結婚するときすでにもし離婚の場合は慰謝料いくらなんて契約して結婚なんてことも珍しくはないようです。
商品開発は価値創造です。また市場にないコンセプト、すなわちホントはあったらすごくいいのだけれど、多くの人びとはそのことに気づいていないものです。そういった価値創造をすることによってしか生き残ることが極めて困難な時代になりました。よくセールス部門で優秀な成績を収めた人びとが、私はどんなモノでも売れるとか豪語するような本などが出ていたりします。確かにその人は売るかもしれません。でも不必要なモノを何とか説得して売ることはたいへん理不尽ですし、半ば詐欺的なトークによって相手を翻弄し売りつけているようにしか感じられません。
そもそもモノ(商品)というのは、必要な人に必要なモノを必要な量、適正な価格で提供するのが正しいはずです。最近は高齢社会を迎えて、本人自身が必要かどうかさえ認識できないような人にモノを売りつけたり、お金を取ろうとしたりする悪徳商法やオレオレ詐欺のようなものがはびこっています。人間の心理を巧みに利用した話術で相手にモノを購入させたり、相手から金を騙し取るのはこれは明らかに犯罪です。
昨今、消費者庁ができ、特別商取引法(略して特商法)などの法律によって、消費者保護の方向に流れています。またコンプライアンス(法令遵守)が叫ばれ、多くの企業は率先してリスクマネジメントの一環として取り組み、問題を起こさないように努力してきました。それでもいたちごっこのようにコンプライアンスが法令遵守というふうに認知されたことで法の網目をくぐって明らかに非人道的な行為であるにもかかわらず、法に触れないというスキルを身につけてしまった個人や企業があります。コンプライアンスの専門家、郷原信郎氏もそのことを憂慮されています。
コンプライアンスとは法だけに照らし合わせるのではなく、社会通念上、受容できないものはすでに違法行為と同じことであるわけです。需要と供給のバランスにしたがってモノは提供するものであって、すでにあるものや必要としないものを強引に売りつけることはとてもコンプライアンス上容認できるものではありません。また心理的に弱点をつくような売り方もそれに該当すると考えられます。すなわち同情心を引き出すとか、あるいは恩を売る(返報性による)方法、恐怖心を与える方法や集団で圧力を与えたり、同調圧力による方法なども問題であると思います。またデート商法のようなハニートラップのようなやり方も完全に販売活動では違法です。
ネットワークビジネスなどは、違法とは言い切れない部分もあるのですが、日本人にはどうしても胡散臭いものにとらえられてしまいます。それはなぜかというと、日本は血縁や親しい間柄では信頼という概念によって築かれた人間関係だからです。この関係に金銭の利害関係や契約関係を持ち込むことはとても嫌がられることなのです。そもそも欧米から来たビジネスですので、そもそもそういった社会は契約社会で結婚し夫婦関係さえも契約なのです。結婚するときすでにもし離婚の場合は慰謝料いくらなんて契約して結婚なんてことも珍しくはないようです。
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