ずいぶんご無沙汰しております。今日は久々にアップします。
今日は普段、私が感じていることを述べてみたいと思います。
ビジネスの基本は何か?ということですが、まずビジネスとは何かを考えてみると、
市場(顧客)が必要とする商品(価値も含めて)をそれらが納得する価格で提供することで収益を上げること
と言えるのではないかと思います。
したがってそこに関わる人びとが納得して、あるいは自ら進んで取り組むことができる内容が必要であると思います。
ところで、ビジネスは二通りあると思います。
ひとつは「市場にあまり必要でない(魅力のない)、納得されない価格設定など」の商品を人間力(説得能力、話術、テンションの高さ、…)でもって販売する。
もうひとつは「市場に必要とされ(十分魅力のある)、納得できる価格設定など」の商品をシステマチックに(宣伝や流通できるスキームの構築をめざして)個々の人間力に依存しないカタチで販売する。
通常、一般の企業では後者の手法でビジネスは進められており、売れるシステムづくりに意識や時間の多くを割いていると考えられます。ただネットワークビジネスや訪販、通販などにおいて、前者のようなかなり人間力に依存した販売というのも行われております。
ただ前者のようなビジネススタイルでもビジネスに関わる人、顧客も含めて何らかの納得できる要因があれば、多少は業績は上がると考えられます。それはビジネスで取り組む人へのインセンティヴ(頑張る誘発要素)があればこそなのです。
よく小売の販売会社の経営者が、社員が頑張らない理由がわからず悩んでいるというのを目にするのですが、原因はいたって明確です。それは
戦える武器(商品やそのコンセプト、販売ノウハウ)がないにも関わらず、戦場に出て戦えとお尻を叩いているケースです。老朽化した武器では戦うことはできないのです。部下や社員は
“これならいける!”
というものが欲しいのです。案外できる社員、部下ならそういった武器をすでに提案していたかも知れないのです。ただ経営者や上司の盲点は社員や部下よりも長年にわたり既存の商品やビジネスコンセプトに依存してきたため、経路依存の考え方というのが身に染みていて、自分より目下のもの、若い人びとが提案する内容が耳に入ってこないということがあるのです。それで結局社員や部下は提案して聞いてもらえないことは、言うだけ無意味なので口を閉ざしてしまうのです。
ホントにできる経営者、上司というのは、自己内省ができる人であり、さらに社員や部下、そして外部の情報や考え方を積極的に取り入れようとする人です。長年にわたり経営者、上司という立場にある人びとの多くが陥りやすいのはすべて自分が正しい、あるいは自分にしか策はないと傲慢になってしまい、部下や社員の提案を聞かないという状況なるということです。とくにずっと内向きのビジネスで既存の流通、既存の手法、既存の商品に頼ってきた人は、開拓精神はすでに消滅して、内弁慶体質から社内では裸の王様状態となってしまっている人も結構見てきました。
社員や部下のモチベーションを上げるにはどうしたらいいか?ビジネスを軌道にのせるにはどうしたらいいか?経営者や管理職ができることと営業社員ができることは明確に違います。ただビジネスがうまくいくかどうかは明らかに前者です。社員の悪口を言う経営者とかもいますが、そういう人を見ると、この会社はもうダメだなと思ってしまいます。
経営者や上司ができるビジネスで収益をあげる方法は、再三言いますが、
“これならいける!”
という武器(商品、そのコンセプト、…)を提示することだと思います。ちなみにその武器というのは灯台下暗し、案外目の前の部下や社員の頭の中にあったりするのですが、それに気づかないケースがあります。とにかく経営者はそこに気づくような柔軟な思考ができるように意識するというのが重要です。性格的なものもありますが、ある面新しもの好きのミーハーを目指すというのがおススメです。
最近の若い者は…といった言葉は以前よく聞きましたが、実際は逆でダメなお年寄りも増えているというのは現代社会の犯罪を見ると明白です。年を取ることが悪いことではなく、それに伴い人(特に自分より若い人や部下)の話を聞かない、提案や指摘すると逆ギレするなどするようになることが問題だと言いたいわけです。そういう人は概して過去の栄光にしがみつく人が多く、過去の話しかしません(できません)。でもビジネスシーンというのは今この時、さらには未来を見通して、考えなければならないものです。私は「若者は未来を語るが、老人は過去を語る。なぜなら未来はもうないから。」という話をするのですが、私の言っているのは決して年齢的なものではなくあくまで思考、考え方のことを言っているわけです。事実私の知っている年配の方がたはとても謙虚で純粋、若者よりもエネルギッシュでバイタリティもあり、生き生きされてみんなから愛されるキャラです。
経営者や上司の立場にある人びとの中には耳が痛い?それならば救いようがありますが、全く自分のこととは考えない人もいるでしょう。そういう方はあまり参考にならないかもしれません。ただビジネスを何とかうまく軌道にのせたい、本気で何とかしたいという人には多少は少なからず参考にしていただけるのではないかと思います。
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2015年6月11日木曜日
2014年4月19日土曜日
リーダーはだれよりも熱く、したたかたれ!
今日は私の経験をふまえて、リーダーとは最低こうあるべきだという一つの提案をしていきたいと思います。世の中に完璧なリーダーというのは、いまだにはっきりと言及することはできません。いろんな学者がいろんなタイプのリーダー像というものを提示し、いろんな経営者が経験にもとづく持論で理想的なリーダー像というものを言及しています。それでも万民が納得するようなリーダー像というのは特定できないのではと思います。
知的で論理的、いつも冷静な判断ができるリーダーもいれば、逆に感情的で人間臭いがみんながインスパイア(行き過ぎると洗脳とも言われる可能性もありますが)されるようなカリスマ性のあるリーダーもいます。
ただ日本では自分で起業した創業者でなければ、どちらかといえば独裁的に力づくで組織を引っ張っていくようなパワーのあるリーダーより、人間関係のバランスをとりながら上に上がっていった生え抜きのリーダーが多いように感じます。なぜなら前者のようなタイプは組織の中でいつのまにか浮いた存在になり、昇進のレースからは外される可能性が大きいと思うからです。もちろんそういった人材をうまく組織のトップまで上り詰められる組織は相当組織の上位者たちや同僚においても器のある人たち、あるいは学習することでそういった人材の活用を善しと認めた組織なのかもしれません。
いずれにせよ、上司との関係、部下との関係、そして同僚との関係そして取引先からの印象までもたいへんいい評価を得ているバランス感覚のいい人が組織においてはヒエラルキーを上りつめていく人であると考えてもあながち間違いではないと思います。
ところで今日のタイトルは`リーダーはだれよりも熱く、したたかたれ!’というものです。当然一見するとワンマンで独裁的、わがままでやりたいことは絶対引かずにやり遂げるというイメージがあるかもしれません。当然、だれよりも熱くというのはそういう要素が往々にしてありますが、したたかという観点はやはり空気を読んでバランスよくという話になるのです。当然両方の要素が重要ですが、今日は後者のバランス型のリーダーが陥る問題に関して言及したいと思います。
もともと組織のトップになる人というのはまず業績も重要ですが、そのベースとして、上司として部下から信頼されているというのは絶対必要条件であると思います。部下からの信頼もなく、自分の上位者へのおべっかばかりやっている人はいずれ化けの皮がはがれ、長期政権はむずかしいというのは想像に難くありません。すなわちより上位者が認める前に部下から、同僚から信頼を得られない人はまず上司、組織のトップ、すなわちリーダーとしてふさわしくないだろうというのはだれも否定しないことと思います。
例をあげると、最近数字選択式宝くじのCMがドラマ仕立てになっていてとてもわかりやすいかと思います。ご存じない方はYou Tubeに動画が出ていますので参考にしてみてください。柳場敏郎氏と妻夫木聡氏が演じる上司部下の話です。簡単に紹介すると、尊敬していた上司が役員たちの前で自分の非を認めないことで部下である自分が責任を追及されるのではという危機に立たされるという流れです。最終的には主任であった部下が部長に昇進し、部長が部長職を解かれるというオチがついているのですが。
まあここまでわかりやすく露骨な内容はあまりないかとは思いますが、あのCMをみてかなり共感している人は多いはずです。たとえば上司の指示で行っていた業務であるにもかかわらず、問題が起こったときそんな指示をしたことはないと上司が上役に弁明したり、ひどい場合は部下に対して自分が指示したにもかかわらず、そこまでやれとは言ってないとか苦し紛れの弁解をするといったこともあります。実際、私も部下の立場でそういう体験は何度かしてきました。そのため、問題が起こる可能性が想定される場合はまず、
①反対の意思表示をしてやらない。
②それでもやる場合、全責任をちゃんと上司がとることを確約させる。
絶対にやる価値がなく無駄、あるいは上司が責任を全く持たないが頑固でやらせようとする場合、
③やると言っておいて絶対にやらない。あるいはやってダメだったという証拠をつくりあげる。
などケースバイケースで要領よく対処することをおススメします。
思いつきが激しい上司の場合は特に注意しなければならないのは、指示しておいてホントに指示したことを忘れてしまい、関心さえもっていないといったケースもあります。少なくとも上司が自分より年上であるならば、間違いなく自分より頑固で感情で動いたり忘れることも多いということです。そう思っていれば、自ずと部下の立場でどう対処したらいいかはわかってきます。
とにかく企業にかかわらず、あらゆる組織にはそういった理不尽なことがたくさんあります。頑張っている部下社員が受ける理不尽なことを総合して言うと、いわゆる
‘梯子をはずされる’
問題です。
このことは上司部下という関係だけでなく、人間関係においてよくあることです。私の経験から言うと同僚の上司への不満を上司へ代弁してあげたところ、同僚の問題もあって、結局上司と私がバトるカタチで問題が膨れ上がり、同僚はほとぼりが冷めた頃、自分にも非があると上司と直接的なケンカもせず和解という流れでした。そのことをしった他の社員も私に同情的で彼に対しては不信感をつのらせる結果となってしまいました。
またSNSなどでも似たような事例があります。私が友人のコメントをフォローしたところ、彼は私に賛同、ところがそのあと彼の友人(女性)が私に反論し、彼は手の裏返したように彼女をフォローし私をいさめるコメントを出し、私がブチ切れるということがありました。私は彼の一貫性のないというか人の意見に簡単に左右されコロコロ考えが変わっていくところに不信感をもち、その後一切フォローすることは辞めました。
基本的に私は理不尽なことには当事者以上に熱くなってなんとかしてあげたいという意識が強いのです。結構やりすぎて問題も起きましたが、自分の信念に基づいての行動だったのでまったく後悔していません。ただいろんなことを学習したことは無鉄砲な行動を抑制する要素となっていることは否めません。別に保身に走ったり、保守的になるということはないので、よく言えばよりしたたかになった、もっとよく考えて行動するようになったと自分では考えています。
また感情的になりやすい人やちょっとしたことにすぐひっかかってムカついたりキレたりする人で、気をつけなければならないのはその感情から出る言葉に振り回されてしまうリスクを回避しながら対応しなければなりません。感情から出る言葉というのはとてもパワーを持つのです。したがって真に受けて行動すれば、その人が受けるほどのものではなかったということがあります。これも経験上言えることですが、ものすごく感情的になった人の話を直接聞くと、素直な人はとんでもない理不尽なことで許せないと当事者といっしょにあるいはその人以上に熱くなってしまうことがあります。でも気をつけなければならないことは感情的になりやすい人は時間を置くと冷めやすいということがあります。すなわち瞬間湯沸かし器のように熱くなりますが、保温ポットのように高い温度を維持することができないのです。実はそれで本人はバランスをとっているのです。当然沸騰した状態にずっとあるとそのうち血圧が上がってブチッと血管が切れてしまうかもしれません。だいたい感情的な人は熱しやすく冷めやすい性格になっていると言っても過言ではありません。
そういう感情的で熱しやすく冷めやすい性格の人には、いっしょになって感情的になったりしないということがとても重要です。すぐ人を振り回してしまうし、素直な人は振り回されてしまいます。そういう状況になるとわかっている人はそういう人からは距離を置いて、必要な時だけ対応するという状況になっている人が多いと考えられます。実はそういうことが明確にわかると周囲はさりげなく周囲は距離を置いたり、ひどい場合信頼を失っていたりします。
‘梯子を外される’問題はあらゆる人間関係において起こるのですが、これが上司部下の関係において起これば最悪です。リーダーとしての信頼は地に落ちてしまいます。
ここまで部下あるいは同僚との関係において言及してきましたが、それはどこまでもその部下やフォロワーの気持ちや立場が理解できなければ上司としてリーダーとしての役割を果たせないからです。すなわちリーダーは少なくともフォロワー以上の情熱とそれを持続させる力を持ちえていなければリーダーで居続けることは不可能だということを言いたいのです。フォロワーがリーダー以上の情熱を持っていれば、もうすでにリーダー・フォロワー関係は逆転しています。
リーダーがリーダーの役割を果たし続けるためにはだれよりも熱く燃えていなければなりません。それは感情的で瞬間湯沸かし器ではダメなのです。時間とともに冷めるような状況では部下はだれもついて行かないし、フォロワーは興ざめして、フォローすることを辞めてしまうでしょう。瞬間湯沸かし器ではなく時間をかけて沸かす、すなわち考えに考え抜いて結論を出すことですぐに冷めないモチベーションを維持することができるようになります。付け焼刃の状態ではリーダーとしての役割はすぐ果たせなくなってしまいます。そう考えると世の中死に体の経営者がどれほど多いことでしょうか。イノベーションも起こせず同じことの繰り返し、考え抜く力さえ持ちえていない雇われ経営者も多いのです。
とにかくリーダーは基本的にだれよりも熱く、したたかでいるべきです。
もちろん考えに考え抜いて出した結論に対する自信と確信、そしてだれよりも熱く、その目的達成に対する執着心もだれよりも熱くなければなりません。ただフォロワー、部下の中には瞬間湯沸かし器のような短距離走はうまいが持久走は苦手(モチベーションが長く続かない、テンションが高く忍耐力が欠如)といった人もいます。そういう人がフォロワーとしている場合の注意点は、決してその人の言葉やつくりだす状況に振り回されないということが重要です。一見するとリーダー以上にやる気満々であったりします。さらにリーダーがだしたアイディアや方向性に付加してリーダーが予想していない方向へ行ってしまうことさえあります。これは要注意です。良い方向に行く場合はいいのですが、気分で動くので、まったく無駄だったりあるいはマイナスの結果をもたらすことさえあります。とにかく瞬間湯沸かし器の部下、社員、フォロワーは組織の一時的なカンフル剤として使用はしても使い過ぎると副作用が出てくるということも肝に銘じておくべきです。できることなら持久走ができる人につくりあげていくことがベストですが、なかなか性格や癖というのは簡単に変えられませんので、その特徴をよくつかんで生かすということが大切です。
みなさんがもし会社の経営者、上司、師匠などリーダーたる立場にあるとしたら組織の成員のだれよりも熱く、したたかに行動できていますか?熱くあることと、それを持続することこの両面がだれよりも優れているとしたら当然リーダーとして居続けても大丈夫だと思います。でももしそうでなかったらリーダーとしては交替すべき時期に来ているのかもしれません。不幸にもそのことに気づけなければすでに信頼のない死に体状態かもしれません。以前は進言する社員が多かったが、今はみんな素直に大人しくなったという状況の場合、すでにそういった状態にあるのかもしれません。みなさんがどういった立場にあるかにかかわらず、ぜひ参考になさってみてください。
知的で論理的、いつも冷静な判断ができるリーダーもいれば、逆に感情的で人間臭いがみんながインスパイア(行き過ぎると洗脳とも言われる可能性もありますが)されるようなカリスマ性のあるリーダーもいます。
ただ日本では自分で起業した創業者でなければ、どちらかといえば独裁的に力づくで組織を引っ張っていくようなパワーのあるリーダーより、人間関係のバランスをとりながら上に上がっていった生え抜きのリーダーが多いように感じます。なぜなら前者のようなタイプは組織の中でいつのまにか浮いた存在になり、昇進のレースからは外される可能性が大きいと思うからです。もちろんそういった人材をうまく組織のトップまで上り詰められる組織は相当組織の上位者たちや同僚においても器のある人たち、あるいは学習することでそういった人材の活用を善しと認めた組織なのかもしれません。
いずれにせよ、上司との関係、部下との関係、そして同僚との関係そして取引先からの印象までもたいへんいい評価を得ているバランス感覚のいい人が組織においてはヒエラルキーを上りつめていく人であると考えてもあながち間違いではないと思います。
ところで今日のタイトルは`リーダーはだれよりも熱く、したたかたれ!’というものです。当然一見するとワンマンで独裁的、わがままでやりたいことは絶対引かずにやり遂げるというイメージがあるかもしれません。当然、だれよりも熱くというのはそういう要素が往々にしてありますが、したたかという観点はやはり空気を読んでバランスよくという話になるのです。当然両方の要素が重要ですが、今日は後者のバランス型のリーダーが陥る問題に関して言及したいと思います。
もともと組織のトップになる人というのはまず業績も重要ですが、そのベースとして、上司として部下から信頼されているというのは絶対必要条件であると思います。部下からの信頼もなく、自分の上位者へのおべっかばかりやっている人はいずれ化けの皮がはがれ、長期政権はむずかしいというのは想像に難くありません。すなわちより上位者が認める前に部下から、同僚から信頼を得られない人はまず上司、組織のトップ、すなわちリーダーとしてふさわしくないだろうというのはだれも否定しないことと思います。
例をあげると、最近数字選択式宝くじのCMがドラマ仕立てになっていてとてもわかりやすいかと思います。ご存じない方はYou Tubeに動画が出ていますので参考にしてみてください。柳場敏郎氏と妻夫木聡氏が演じる上司部下の話です。簡単に紹介すると、尊敬していた上司が役員たちの前で自分の非を認めないことで部下である自分が責任を追及されるのではという危機に立たされるという流れです。最終的には主任であった部下が部長に昇進し、部長が部長職を解かれるというオチがついているのですが。
まあここまでわかりやすく露骨な内容はあまりないかとは思いますが、あのCMをみてかなり共感している人は多いはずです。たとえば上司の指示で行っていた業務であるにもかかわらず、問題が起こったときそんな指示をしたことはないと上司が上役に弁明したり、ひどい場合は部下に対して自分が指示したにもかかわらず、そこまでやれとは言ってないとか苦し紛れの弁解をするといったこともあります。実際、私も部下の立場でそういう体験は何度かしてきました。そのため、問題が起こる可能性が想定される場合はまず、
①反対の意思表示をしてやらない。
②それでもやる場合、全責任をちゃんと上司がとることを確約させる。
絶対にやる価値がなく無駄、あるいは上司が責任を全く持たないが頑固でやらせようとする場合、
③やると言っておいて絶対にやらない。あるいはやってダメだったという証拠をつくりあげる。
などケースバイケースで要領よく対処することをおススメします。
思いつきが激しい上司の場合は特に注意しなければならないのは、指示しておいてホントに指示したことを忘れてしまい、関心さえもっていないといったケースもあります。少なくとも上司が自分より年上であるならば、間違いなく自分より頑固で感情で動いたり忘れることも多いということです。そう思っていれば、自ずと部下の立場でどう対処したらいいかはわかってきます。
とにかく企業にかかわらず、あらゆる組織にはそういった理不尽なことがたくさんあります。頑張っている部下社員が受ける理不尽なことを総合して言うと、いわゆる
‘梯子をはずされる’
問題です。
このことは上司部下という関係だけでなく、人間関係においてよくあることです。私の経験から言うと同僚の上司への不満を上司へ代弁してあげたところ、同僚の問題もあって、結局上司と私がバトるカタチで問題が膨れ上がり、同僚はほとぼりが冷めた頃、自分にも非があると上司と直接的なケンカもせず和解という流れでした。そのことをしった他の社員も私に同情的で彼に対しては不信感をつのらせる結果となってしまいました。
またSNSなどでも似たような事例があります。私が友人のコメントをフォローしたところ、彼は私に賛同、ところがそのあと彼の友人(女性)が私に反論し、彼は手の裏返したように彼女をフォローし私をいさめるコメントを出し、私がブチ切れるということがありました。私は彼の一貫性のないというか人の意見に簡単に左右されコロコロ考えが変わっていくところに不信感をもち、その後一切フォローすることは辞めました。
基本的に私は理不尽なことには当事者以上に熱くなってなんとかしてあげたいという意識が強いのです。結構やりすぎて問題も起きましたが、自分の信念に基づいての行動だったのでまったく後悔していません。ただいろんなことを学習したことは無鉄砲な行動を抑制する要素となっていることは否めません。別に保身に走ったり、保守的になるということはないので、よく言えばよりしたたかになった、もっとよく考えて行動するようになったと自分では考えています。
また感情的になりやすい人やちょっとしたことにすぐひっかかってムカついたりキレたりする人で、気をつけなければならないのはその感情から出る言葉に振り回されてしまうリスクを回避しながら対応しなければなりません。感情から出る言葉というのはとてもパワーを持つのです。したがって真に受けて行動すれば、その人が受けるほどのものではなかったということがあります。これも経験上言えることですが、ものすごく感情的になった人の話を直接聞くと、素直な人はとんでもない理不尽なことで許せないと当事者といっしょにあるいはその人以上に熱くなってしまうことがあります。でも気をつけなければならないことは感情的になりやすい人は時間を置くと冷めやすいということがあります。すなわち瞬間湯沸かし器のように熱くなりますが、保温ポットのように高い温度を維持することができないのです。実はそれで本人はバランスをとっているのです。当然沸騰した状態にずっとあるとそのうち血圧が上がってブチッと血管が切れてしまうかもしれません。だいたい感情的な人は熱しやすく冷めやすい性格になっていると言っても過言ではありません。
そういう感情的で熱しやすく冷めやすい性格の人には、いっしょになって感情的になったりしないということがとても重要です。すぐ人を振り回してしまうし、素直な人は振り回されてしまいます。そういう状況になるとわかっている人はそういう人からは距離を置いて、必要な時だけ対応するという状況になっている人が多いと考えられます。実はそういうことが明確にわかると周囲はさりげなく周囲は距離を置いたり、ひどい場合信頼を失っていたりします。
‘梯子を外される’問題はあらゆる人間関係において起こるのですが、これが上司部下の関係において起これば最悪です。リーダーとしての信頼は地に落ちてしまいます。
ここまで部下あるいは同僚との関係において言及してきましたが、それはどこまでもその部下やフォロワーの気持ちや立場が理解できなければ上司としてリーダーとしての役割を果たせないからです。すなわちリーダーは少なくともフォロワー以上の情熱とそれを持続させる力を持ちえていなければリーダーで居続けることは不可能だということを言いたいのです。フォロワーがリーダー以上の情熱を持っていれば、もうすでにリーダー・フォロワー関係は逆転しています。
リーダーがリーダーの役割を果たし続けるためにはだれよりも熱く燃えていなければなりません。それは感情的で瞬間湯沸かし器ではダメなのです。時間とともに冷めるような状況では部下はだれもついて行かないし、フォロワーは興ざめして、フォローすることを辞めてしまうでしょう。瞬間湯沸かし器ではなく時間をかけて沸かす、すなわち考えに考え抜いて結論を出すことですぐに冷めないモチベーションを維持することができるようになります。付け焼刃の状態ではリーダーとしての役割はすぐ果たせなくなってしまいます。そう考えると世の中死に体の経営者がどれほど多いことでしょうか。イノベーションも起こせず同じことの繰り返し、考え抜く力さえ持ちえていない雇われ経営者も多いのです。
とにかくリーダーは基本的にだれよりも熱く、したたかでいるべきです。
もちろん考えに考え抜いて出した結論に対する自信と確信、そしてだれよりも熱く、その目的達成に対する執着心もだれよりも熱くなければなりません。ただフォロワー、部下の中には瞬間湯沸かし器のような短距離走はうまいが持久走は苦手(モチベーションが長く続かない、テンションが高く忍耐力が欠如)といった人もいます。そういう人がフォロワーとしている場合の注意点は、決してその人の言葉やつくりだす状況に振り回されないということが重要です。一見するとリーダー以上にやる気満々であったりします。さらにリーダーがだしたアイディアや方向性に付加してリーダーが予想していない方向へ行ってしまうことさえあります。これは要注意です。良い方向に行く場合はいいのですが、気分で動くので、まったく無駄だったりあるいはマイナスの結果をもたらすことさえあります。とにかく瞬間湯沸かし器の部下、社員、フォロワーは組織の一時的なカンフル剤として使用はしても使い過ぎると副作用が出てくるということも肝に銘じておくべきです。できることなら持久走ができる人につくりあげていくことがベストですが、なかなか性格や癖というのは簡単に変えられませんので、その特徴をよくつかんで生かすということが大切です。
みなさんがもし会社の経営者、上司、師匠などリーダーたる立場にあるとしたら組織の成員のだれよりも熱く、したたかに行動できていますか?熱くあることと、それを持続することこの両面がだれよりも優れているとしたら当然リーダーとして居続けても大丈夫だと思います。でももしそうでなかったらリーダーとしては交替すべき時期に来ているのかもしれません。不幸にもそのことに気づけなければすでに信頼のない死に体状態かもしれません。以前は進言する社員が多かったが、今はみんな素直に大人しくなったという状況の場合、すでにそういった状態にあるのかもしれません。みなさんがどういった立場にあるかにかかわらず、ぜひ参考になさってみてください。
2013年11月28日木曜日
特定秘密保護法案の危うさ③
特定秘密保護法案と日本版NSC(国家安全保障会議)の設置は具体的には戦争への下地づくりに他ならないと考えられます。こういった法案や機関が国民にどのような影響を及ぼすかは、すでに隣国の韓国や中国を見れば一目瞭然です。政府の方針に対して反対意見や反対集会など、もちろんブログやホームページ、SNSに書き込みしただけでも取り締まりの対象になります。
例えば韓国では下記のようなことが起こりました。
「竹島は日本の領土」と書き込んだ 「親日派」韓国13歳の少年検挙
http://www.j-cast.com/2012/09/07145698.html?p=all
確かに韓国は朝鮮戦争以後の冷戦構造で北と対峙しなければならない立場から徹底した思想統制と反体制運動を弾圧してきた歴史があります。今はそれは北朝鮮だけでなく、日本に対しても向けられています。もし今後日本が中韓に対峙するために思想統制、反体制運動の弾圧に積極的に乗り出せば、当然韓国の逆のケースが想定されます。
「独島は韓国の領土」と主張したら当然取締りの対象になるはずです。もちろん民団や朝総連も日本政府の主張とは違う思想、考え方ですから、監視の対象になるわけです。まあすでにそうなのかもしれませんが・・・。
断っておきますが、もちろん私は日本人ですから、日本政府の認識と違いはありません。ただ問題としているのは、日本政府の国土や日本国民としての意識ではなく、日本に住んでいる人びとに対するアプローチ手法についてなのです。日本国民が日本を愛し、誇れるのは、反対意見や異質なものがあったとしても決して感情で行動したり、暴力でそれを解決しようとしないところです。私個人としては日本で繰り広げられるヘイトスピーチは、隣国の過激な反日運動の自粛といっしょに求めるべきものであると考えていますが、そういったことに嫌悪感を感じるのは日本人として理解できない行動であるからだと思います。それでネット上にはそういったヘイトスピーチを行っている人びとはホントに日本人なの?という疑問が呈されているわけです。
もしかすると、日本政府は隣国に対して、外交レベルでの問題解決はもう困難と結論を出したのかもしれません。安倍政権の法案通過の手法を見ていると、一刻を争う戦争前夜のような焦燥感を感じます。国民に反対意見を述べさせる猶予を与えることはできないという状況です。間違いなく武力をもっていてもアジアの統制を実現させるしかないという方向を感じます。隣国の感情的で理性的に話し合いができないという状況を考えると外交筋や政府の意見はもう一致しているのかもしれません。もちろんあくまで私個人の推測に他なりませんので、ひとつの見方としてとらえてください。
戦争ということを想定した場合、必要となってくるのは国民の思想統制です。いろんな意見があってコンセンサスを得れなければ、国家としては目の前にある危機に対処することができないからです。民主主義は戦争を始めるにはとても不利な政治体制です。やはりファシズムや旧共産圏のような体制がやりやすいことは誰の目にも明らかです。実は右も左も似ています。どちらも国民自体は自由がなく抑圧された状況にあり、人間の自由意思は洗脳によって全体の目的達成のための思考に置き換えられます。したがって集団凝集性は高く、戦争という方向に向かうようにもっていきやすいのです。
テレビのドラマにしろ、映画にしろかならず善悪という対立軸があって怨みという感情的なパワーを自分たちが正しいということで正当化し相手を倒すということの高揚感はドラッグに匹敵するくらいの快感をもたらすのです。(断っておきますが私は経験はありません。)アメリカでは戦争をやると大統領の支持率は急激に上昇します。おそらく日本も隣国の長い反日運動に辟易としていて、もしかすると安倍政権がホントにアクションを起こすと支持率はさらに上がるかもしれません。アメリカはキリスト教が主流ですが、汝の敵を愛せよという考え方は実際の現実生活では適用されません。韓国もキリスト教が盛んですが、そういった考えにはなりません。
日本でのテロ活動は実際には一部のカルト教団くらいしかありません。反日を掲げている国は世界でたった二つの国だけです。他の国はほとんどが親日的でアメリカと同調していてもアメリカのように標的にはなりません。日本も危ないと考えるのはアメリカ的発想から世界を見てしまうとそうかもしれません。中国人も韓国人も日本で反日運動をすることはありません。また日本を知っている外国人が反日運動をすることは実際には考えにくいわけです。もちろん日本人が相手国に行ってデモなどはしません。そもそもデモをしそうな人を受け入れないはずです。
さまざまな保守系評論家は国民の危機意識の欠如を言いますが、それは国民ではなく政府と官僚がどう考えるかです。一般の国民を取り締まるとしたら、反社会的組織に対する監視は必要であると思います。なぜなら彼らは日本国民の生活を脅かす存在だからです。政府の方針や方向性に反対意見を述べる人びとまで取り締まると国民の半分から三分の一くらい取り締まるようになります。単に野党の数が反対意見と考えればそういうことです。
いずれにせよ、この度の法案、機関設置は今後武力行使が可能な、すなわち戦争への準備に他なりません。そのためには当然思想統制と反対運動の封じ込めが必要となるわけでそのための法律と考えられます。戦争とは半ば国家主権を守るための正当防衛ととらえるプロパガンダがありますが、視点を変えれば集団で行う人殺しに他なりません。これは現実に体験した人に聞けば、とんでもない後遺症を伴いますし、まともな精神状態では絶対に行動できない状況に置かれます。まさに残酷な現実を見せないようにオブラートに包んであいまいにさせなければならないわけです。戦争には洗脳やドラッグといったアイテムは必須です。まともにシラフで行動できるものではありません。人間性の麻痺こそが戦争に参加できる前提条件となるのです。
最近は直接地上戦などというものは減り、遠隔操作による攻撃などはほとんどゲーム感覚になっているかもしれません。あの状況もある面敵を倒すという高揚感に浸って非現実的な空間になっているはずです。実際、現場では罪のない人びとが殺されていたりするのですが。ただ日本国民として肝に銘じておきたいことは、実際命令し、号令をかける人は前線にはいないという現実、そして戦争に負ければ戦犯ですが、勝てば英雄になるのだということです。私たちの人生は決して国という大義名分をかざす一部の独裁者のために翻弄されてはいけないということです。国という名の一部の独裁者が標榜する方向に反対することを反国家的だとかレッテルを貼られることは避けなければならないのです。私たちは国のためとか国を愛するということは国民全体のコンセンサスの上に成立するのだということはを識しておく必要があると思います。
例えば韓国では下記のようなことが起こりました。
「竹島は日本の領土」と書き込んだ 「親日派」韓国13歳の少年検挙
http://www.j-cast.com/2012/09/07145698.html?p=all
確かに韓国は朝鮮戦争以後の冷戦構造で北と対峙しなければならない立場から徹底した思想統制と反体制運動を弾圧してきた歴史があります。今はそれは北朝鮮だけでなく、日本に対しても向けられています。もし今後日本が中韓に対峙するために思想統制、反体制運動の弾圧に積極的に乗り出せば、当然韓国の逆のケースが想定されます。
「独島は韓国の領土」と主張したら当然取締りの対象になるはずです。もちろん民団や朝総連も日本政府の主張とは違う思想、考え方ですから、監視の対象になるわけです。まあすでにそうなのかもしれませんが・・・。
断っておきますが、もちろん私は日本人ですから、日本政府の認識と違いはありません。ただ問題としているのは、日本政府の国土や日本国民としての意識ではなく、日本に住んでいる人びとに対するアプローチ手法についてなのです。日本国民が日本を愛し、誇れるのは、反対意見や異質なものがあったとしても決して感情で行動したり、暴力でそれを解決しようとしないところです。私個人としては日本で繰り広げられるヘイトスピーチは、隣国の過激な反日運動の自粛といっしょに求めるべきものであると考えていますが、そういったことに嫌悪感を感じるのは日本人として理解できない行動であるからだと思います。それでネット上にはそういったヘイトスピーチを行っている人びとはホントに日本人なの?という疑問が呈されているわけです。
もしかすると、日本政府は隣国に対して、外交レベルでの問題解決はもう困難と結論を出したのかもしれません。安倍政権の法案通過の手法を見ていると、一刻を争う戦争前夜のような焦燥感を感じます。国民に反対意見を述べさせる猶予を与えることはできないという状況です。間違いなく武力をもっていてもアジアの統制を実現させるしかないという方向を感じます。隣国の感情的で理性的に話し合いができないという状況を考えると外交筋や政府の意見はもう一致しているのかもしれません。もちろんあくまで私個人の推測に他なりませんので、ひとつの見方としてとらえてください。
戦争ということを想定した場合、必要となってくるのは国民の思想統制です。いろんな意見があってコンセンサスを得れなければ、国家としては目の前にある危機に対処することができないからです。民主主義は戦争を始めるにはとても不利な政治体制です。やはりファシズムや旧共産圏のような体制がやりやすいことは誰の目にも明らかです。実は右も左も似ています。どちらも国民自体は自由がなく抑圧された状況にあり、人間の自由意思は洗脳によって全体の目的達成のための思考に置き換えられます。したがって集団凝集性は高く、戦争という方向に向かうようにもっていきやすいのです。
テレビのドラマにしろ、映画にしろかならず善悪という対立軸があって怨みという感情的なパワーを自分たちが正しいということで正当化し相手を倒すということの高揚感はドラッグに匹敵するくらいの快感をもたらすのです。(断っておきますが私は経験はありません。)アメリカでは戦争をやると大統領の支持率は急激に上昇します。おそらく日本も隣国の長い反日運動に辟易としていて、もしかすると安倍政権がホントにアクションを起こすと支持率はさらに上がるかもしれません。アメリカはキリスト教が主流ですが、汝の敵を愛せよという考え方は実際の現実生活では適用されません。韓国もキリスト教が盛んですが、そういった考えにはなりません。
日本でのテロ活動は実際には一部のカルト教団くらいしかありません。反日を掲げている国は世界でたった二つの国だけです。他の国はほとんどが親日的でアメリカと同調していてもアメリカのように標的にはなりません。日本も危ないと考えるのはアメリカ的発想から世界を見てしまうとそうかもしれません。中国人も韓国人も日本で反日運動をすることはありません。また日本を知っている外国人が反日運動をすることは実際には考えにくいわけです。もちろん日本人が相手国に行ってデモなどはしません。そもそもデモをしそうな人を受け入れないはずです。
さまざまな保守系評論家は国民の危機意識の欠如を言いますが、それは国民ではなく政府と官僚がどう考えるかです。一般の国民を取り締まるとしたら、反社会的組織に対する監視は必要であると思います。なぜなら彼らは日本国民の生活を脅かす存在だからです。政府の方針や方向性に反対意見を述べる人びとまで取り締まると国民の半分から三分の一くらい取り締まるようになります。単に野党の数が反対意見と考えればそういうことです。
いずれにせよ、この度の法案、機関設置は今後武力行使が可能な、すなわち戦争への準備に他なりません。そのためには当然思想統制と反対運動の封じ込めが必要となるわけでそのための法律と考えられます。戦争とは半ば国家主権を守るための正当防衛ととらえるプロパガンダがありますが、視点を変えれば集団で行う人殺しに他なりません。これは現実に体験した人に聞けば、とんでもない後遺症を伴いますし、まともな精神状態では絶対に行動できない状況に置かれます。まさに残酷な現実を見せないようにオブラートに包んであいまいにさせなければならないわけです。戦争には洗脳やドラッグといったアイテムは必須です。まともにシラフで行動できるものではありません。人間性の麻痺こそが戦争に参加できる前提条件となるのです。
最近は直接地上戦などというものは減り、遠隔操作による攻撃などはほとんどゲーム感覚になっているかもしれません。あの状況もある面敵を倒すという高揚感に浸って非現実的な空間になっているはずです。実際、現場では罪のない人びとが殺されていたりするのですが。ただ日本国民として肝に銘じておきたいことは、実際命令し、号令をかける人は前線にはいないという現実、そして戦争に負ければ戦犯ですが、勝てば英雄になるのだということです。私たちの人生は決して国という大義名分をかざす一部の独裁者のために翻弄されてはいけないということです。国という名の一部の独裁者が標榜する方向に反対することを反国家的だとかレッテルを貼られることは避けなければならないのです。私たちは国のためとか国を愛するということは国民全体のコンセンサスの上に成立するのだということはを識しておく必要があると思います。
2013年11月27日水曜日
特定秘密保護法案の危うさ②
昨日、国家国定秘密保護法案が衆議院を通過しました。この度の悪法はどうあがいてももう阻止できないのかもしれません。まさに日米安保条約締結と同じでどんなに反対運動をしたところでもう国家の上層部では決定事項であるのかもしれません。
日米安保は冷戦構造の中で共産圏に対峙するために必要とされたものであったわけですが、今回は隣国の反日、領土浸食に対する日本の主権が脅かされるという危機感が背後にあることは間違いありません。もともと安倍政権をつくりだしたのは前政権の民主党による弱腰外交に対する批判と隣国の過激な反日運動や領土侵犯に対して国民が危機感を抱いたことが影響していることは間違いないと考えられます。
日本国内では当然反日に反対する運動のひとつとしてヘイトスピーチがずいぶんと蔓延してしまいました。もちろんこのヘイトスピーチを行う団体自体も怪しい団体であるわけですが、単にヘイトスピーチを批判しても始まりません。ヘイトスピーチを無くすためには隣国の反日運動とセットにして批判されなければならないと思います。なぜならそもそもヘイトスピーチを誘発しているのは隣国の反日運動であることは歴然としているからです。背後にそういった内容があるのにただ単にヘイトスピーチを人道的観点からだけ批判してもあまり効果はないのです。
とりあえず、民間かどうかはわかりませんがそういった運動はさておいて、この度の法案の衆院通過は手の打ちようがないのかもしれません。すでにジャーナリストやマスメディアもその法案が決まった後の立ち位置をどうするかで報道の状況は変わりつつあります。ずっと反対し続けてもその法案が制定され、日本版NSC(国家安全保障会議)が設置されていくようになれば、当然マスメディアはその枠組みの中で動くしかなくなるわけです。
今後は自由な言動や憶測で(権力者が考える)国家が不利益を被るようなことは言えなくなります。ゴシップネタみたいな位置づけでも言いたいことをいうことはリスキーですし、お笑いの世界からは時事ネタは消えざるをえなくなると思います。まさに日本社会は皮肉も言えないほどギスギスして潤滑油のなくなった人間関係、社会構造になっていくのではないかと危惧せざるをえません。国民、みんなが‘いい子’になるしかありません。心で思っていても、愚痴や不平不満を言わない超カマトトな国民になっていくことが予想されます。そうしなければ生きていけないのです。
視点を変えれば、右傾化する国家をつくるには共産主義の脅威はとても有効に働きました。それは、日米安保の締結にとって追い風だったのです。同じように隣国の反日運動、領土、領海侵犯はこの度の法案、日本版NSC設置には追い風なのです。極論を言えば、中韓の反日運動が安倍政権を支えていると言えなくはありません。安倍政権に批判的な人びとはよく左翼勢力としてレッテルをはられ、批判されるのですが、実際、国民の多くは純粋に秘密警察が暗躍する国家にしたくない、戦争をしたくないと純粋に考えているのです。左翼でも右翼でもないのです。
以上のことから考えるとすでにこの法案制定や憲法9条改定~自衛隊を国防軍とするのは自然の流れの中に置かれてしまっているのです。もう国民の力ではどうしようもないのかもしれません。さらに不気味なのはこの法案通過を目指すときに中国の防空識別圏設定という話が出たことです。本来中国は孫子の兵法にもあるようにもっともっとしたたかで実利優先のイメージがあるのですが、なぜこういうカタチで日本に対してはたらきかけるのでしょうか。まるで法案や安倍政権を後押ししているようにしか見えないのは私だけでしょうか?
日米安保のときは軍事力を行使できない立場の日本は、アメリカの核の傘に守られるしかないという大義名分がありました。今回は、アメリカが日本に対してその役割をできなくなるので、日本が自立して軍隊をもって自分の国は自分で守らないといけないからという話をする人もいます。しかしこの流れで行くと、どう考えても戦争ありきでの流れにしか見えません。とにかく日中韓(台も巻き込まれるかもしれません)で戦争になれば、そこにメリットがあるのはだれでしょうか?戦争のときその恩恵に預かるのは武器やその原料、オイルなどを提供した人びと、国家に他なりません。戦争成金がたくさん現れるのです。となればアジア圏で戦争が起きても対岸の火事で何の被害もなく、利益だけ期待できるのはだれか考えればわかります。戦争は大きなビジネスチャンスとなっているのは紛れもない現実です。
中国、日本は世界的に米国債保有国1、2位です。アジア三大国が緊張した対立関係でいつづけることがいいのはどこの国でしょう。そういった世界の枠組みの中でアジアというローカルな地域で戦争等の犠牲になったとしても、その恩恵に預かることはできない日中韓の国民はよく状況を見て行動をすべきだと思うのです。もうこれ以上は言及を避けますが、読者のみなさんに考えていただきたいのは社会の表に出ていない(我々に知らされていない)世界があるという前提で賢く生きる必要があると思います。(今後このブログも政治ネタは控えざるえないかもしれません。)
日中台韓、とにかく国民レベルではなかよく、なんでもぶっちゃけで感情論抜きで話し合いたいものです。今は大丈夫ですが、そのうち日本でもそういった話はできなくなるということも想定しておくことは必要です。外国人は、今後おそらく反日的な言動は一切できなくなる方向に行くでしょう。日本は郷に入りて郷に従わなくてもいい国だったのが、完全に郷に入りては郷に従わなければ生きていけない国になるでしょう。今後は日本人だけでなく、外国人も住みにくい日本となるのではと今から心配しています。
日米安保は冷戦構造の中で共産圏に対峙するために必要とされたものであったわけですが、今回は隣国の反日、領土浸食に対する日本の主権が脅かされるという危機感が背後にあることは間違いありません。もともと安倍政権をつくりだしたのは前政権の民主党による弱腰外交に対する批判と隣国の過激な反日運動や領土侵犯に対して国民が危機感を抱いたことが影響していることは間違いないと考えられます。
日本国内では当然反日に反対する運動のひとつとしてヘイトスピーチがずいぶんと蔓延してしまいました。もちろんこのヘイトスピーチを行う団体自体も怪しい団体であるわけですが、単にヘイトスピーチを批判しても始まりません。ヘイトスピーチを無くすためには隣国の反日運動とセットにして批判されなければならないと思います。なぜならそもそもヘイトスピーチを誘発しているのは隣国の反日運動であることは歴然としているからです。背後にそういった内容があるのにただ単にヘイトスピーチを人道的観点からだけ批判してもあまり効果はないのです。
とりあえず、民間かどうかはわかりませんがそういった運動はさておいて、この度の法案の衆院通過は手の打ちようがないのかもしれません。すでにジャーナリストやマスメディアもその法案が決まった後の立ち位置をどうするかで報道の状況は変わりつつあります。ずっと反対し続けてもその法案が制定され、日本版NSC(国家安全保障会議)が設置されていくようになれば、当然マスメディアはその枠組みの中で動くしかなくなるわけです。
今後は自由な言動や憶測で(権力者が考える)国家が不利益を被るようなことは言えなくなります。ゴシップネタみたいな位置づけでも言いたいことをいうことはリスキーですし、お笑いの世界からは時事ネタは消えざるをえなくなると思います。まさに日本社会は皮肉も言えないほどギスギスして潤滑油のなくなった人間関係、社会構造になっていくのではないかと危惧せざるをえません。国民、みんなが‘いい子’になるしかありません。心で思っていても、愚痴や不平不満を言わない超カマトトな国民になっていくことが予想されます。そうしなければ生きていけないのです。
視点を変えれば、右傾化する国家をつくるには共産主義の脅威はとても有効に働きました。それは、日米安保の締結にとって追い風だったのです。同じように隣国の反日運動、領土、領海侵犯はこの度の法案、日本版NSC設置には追い風なのです。極論を言えば、中韓の反日運動が安倍政権を支えていると言えなくはありません。安倍政権に批判的な人びとはよく左翼勢力としてレッテルをはられ、批判されるのですが、実際、国民の多くは純粋に秘密警察が暗躍する国家にしたくない、戦争をしたくないと純粋に考えているのです。左翼でも右翼でもないのです。
以上のことから考えるとすでにこの法案制定や憲法9条改定~自衛隊を国防軍とするのは自然の流れの中に置かれてしまっているのです。もう国民の力ではどうしようもないのかもしれません。さらに不気味なのはこの法案通過を目指すときに中国の防空識別圏設定という話が出たことです。本来中国は孫子の兵法にもあるようにもっともっとしたたかで実利優先のイメージがあるのですが、なぜこういうカタチで日本に対してはたらきかけるのでしょうか。まるで法案や安倍政権を後押ししているようにしか見えないのは私だけでしょうか?
日米安保のときは軍事力を行使できない立場の日本は、アメリカの核の傘に守られるしかないという大義名分がありました。今回は、アメリカが日本に対してその役割をできなくなるので、日本が自立して軍隊をもって自分の国は自分で守らないといけないからという話をする人もいます。しかしこの流れで行くと、どう考えても戦争ありきでの流れにしか見えません。とにかく日中韓(台も巻き込まれるかもしれません)で戦争になれば、そこにメリットがあるのはだれでしょうか?戦争のときその恩恵に預かるのは武器やその原料、オイルなどを提供した人びと、国家に他なりません。戦争成金がたくさん現れるのです。となればアジア圏で戦争が起きても対岸の火事で何の被害もなく、利益だけ期待できるのはだれか考えればわかります。戦争は大きなビジネスチャンスとなっているのは紛れもない現実です。
中国、日本は世界的に米国債保有国1、2位です。アジア三大国が緊張した対立関係でいつづけることがいいのはどこの国でしょう。そういった世界の枠組みの中でアジアというローカルな地域で戦争等の犠牲になったとしても、その恩恵に預かることはできない日中韓の国民はよく状況を見て行動をすべきだと思うのです。もうこれ以上は言及を避けますが、読者のみなさんに考えていただきたいのは社会の表に出ていない(我々に知らされていない)世界があるという前提で賢く生きる必要があると思います。(今後このブログも政治ネタは控えざるえないかもしれません。)
日中台韓、とにかく国民レベルではなかよく、なんでもぶっちゃけで感情論抜きで話し合いたいものです。今は大丈夫ですが、そのうち日本でもそういった話はできなくなるということも想定しておくことは必要です。外国人は、今後おそらく反日的な言動は一切できなくなる方向に行くでしょう。日本は郷に入りて郷に従わなくてもいい国だったのが、完全に郷に入りては郷に従わなければ生きていけない国になるでしょう。今後は日本人だけでなく、外国人も住みにくい日本となるのではと今から心配しています。
2013年11月22日金曜日
特定秘密保護法案の危うさ①
戦後、日本はアメリカの核の傘に守られて、とりあえず自由主義体制を維持してきました。自民党はじめ与党、官僚たちが悪法のごとく取り扱ってきた憲法9条のおかげで日本は高度経済成長を成し遂げることができたことは間違いありません。もちろん真面目で勤勉な民族性も大いにあったでしょうし、和の文化は集団凝集性の高さから一致団結して戦後経済を先進国1,2を争うレベルに押し上げてきたことは称賛に値するものであると思います。
もし第二次世界大戦において戦勝国となって、あの軍国主義の体制がずっと続いていたらどうだったでしょう。おそらく国家にとって不都合な意見を述べる人たちは弾圧され、もしかしたら旧共産圏のような秘密警察が暗躍し、つねに国民の言動は監視され超ファシズムの国家ができあがっていたかもしれません。
戦後日本の復興を企業の成長に置き換えると、独裁経営者、経営陣による硬直しきったヒエラルキーの組織があるとき外資によって破壊(解体)され、権力よりも実力に応じてポストが与えられ、より健全な経営を取り戻し、民主的に発展していくという流れであったと考えてもいいかと思います。(もちろん外資の極端な成果主義は一つの権威主義であり、問題もあるのですが・・・)
しかしながら、この度の安倍政権による政府の標榜する流れは、だれの目にも明らかなように過去の悪しき時代へ逆戻りする危険性を秘めているのです。ただ日本人の多くは、日本には民主主義が根付き、国民一人ひとりが良識があるのであのような軍国主義にはならないだろうと楽観視している節もあります。ホントにそうでしょうか?実は日本人の民族性はあの時代の全体主義的なファシズムの体制をつくりだすのにとても都合のいい特質を兼ね備えているのです。そのことをどれだけの日本人が認識しているでしょうか?日本人が美徳としてきた上位者に対する忠誠心や自分が言ったことは必ず守る、真面目、勤勉、育ちのいい大人、・・・といった民族性こそがカルトやファシズムの体制をささえるという観点でとてもピッタリくるのです。そして日本は島国で互いが仲良く暮らすために対立を好まない反面、異分子を排除するといった陰湿ないじめ、村八分のような風土が基本的に定着しています。もともと長いものに巻かれ慣れている日本人ではわかりにくいのですが、空気を読めない外国人のほうがそのことはよく理解できます。最初は歓迎されますが、徐々に阻害されていきます。それは郷に入りては郷に従えという観点がよく理解できず、またそれをはっきりと日本人は言ってくれないので外国人には理解できないのです。とにかく異文化を受け入れる器が小さいので日本ではそういったことを学習するということが需要のある教育項目になっているのでしょう。とにかく日本人はある面、とても利用しやすい民族で集団凝集性も高いので独裁者には都合のいい組織をつくりやすいのです。
実は日本の国内に、物心両面成熟した、現代社会なのにいまだにファシズムに該当するような組織がたくさんあるのです。暴力団やカルト教団といった反社会的組織は言うに及ばず、ブラック企業といわれる会社が社会問題化するほどあるのです。これらに共通して言えることは、完全な組織トップの強固な権威、権力による独裁体制となっています。そして組織の末端の下層階級はもっとも悲惨な状況に置かれているという実態があります。一般企業でさえそうなのだということは我々もふくめてそういった要素を持っている存在だという認識を明確にしておくべきなのです。かねてから素晴らしい経営者は自分自身が間違った行動をしてしまうのではないかという危機意識をつねにもっている人だと論じてきました。集団浅慮(グループシンク)という観点で集団は間違うのだということだけでなく、個人すべてがそういう要素をもっているのだということを認識しておく必要があるのです。もちろん私自身もそうだということです。
社会には必ず対立軸があってなんとなく正常が保たれるのです。人が形成する組織はいつも独裁的になり、問題が起こって、その組織のトップが変わり、そのうち独裁的になり、また替えられるといういたちごっこのような流れになっているのです。人間はどんなに良心的な人でも持ち上げられて、ほめたたえられるとどんどん独裁的になるようになっているのです。そうならないために組織に対して反対意見を述べるような人びとが必ず必要なのです。すなわち完全無欠な人間はいないという前提に立たなければ組織の健全性を維持することはできないことを組織、集団のすべての構成員が認識しておくべきなのです。
ほとんどの日本人は日本は民主主義でいい国と思っているでしょうが、日本社会をよく分析すると細部にわたればとんでもない組織がたくさんあるのです。そのことを考えると、日本国という組織全体がそのようなとんでもない組織になりうる可能性は大きいのです。私は基本的に国としての意見がひとつにまとまっていくプロセスに危機感を抱いています。決して楽観視できません。その一つが今安倍政権が自公維で推進している国家の特定秘密保護法案なのです。すでにマスメディアも支持派、反対派とカラーがはっきりしていますが、後者のトーンも落ちかけています。マスメディアも国家の枠組みの中である程度自由に報道をしてきましたが、圧力があれば屈せざるをえません。すでにそういった兆候が見受けられます。
日本では20数年前に、反共、反左翼を標榜する某カルト宗教の団体が右翼や自民党をうまい具合に取り込み、スパイ防止法なるものを制定しようとことがありました。そのときはそれがまだまだメジョリティを獲得するにはいたらず、野党の反対もあって廃案となりました。そういった法律を制定する声は、必ず国家自体が右傾化する状況にあるときが多いのですが、まさに当時もそういう状況でした。ただ面白いのは、もしそのスパイ防止法なるものが制定されていたら、それこそそれを推進していた某カルト教団は処罰の対象になっていたかもしれません。なぜならその団体はかねてから霊感商法など反社会的な活動に手を染め、外為法違反など、国益に大きく反する活動をしていたからです。いまだに一部その状況は続いているようです。
組織という観点からとらえると、すでに国家が行くだろうと想定される方向が見えてきます。国家も企業も人によって構成された組織です。企業を例にあげて考えればわかりやすいのです。企業にも企業として秘匿しなければならないことがらというのは当然あります。ところが多くのエンジニアたちが他国の企業の接待を受け、日本の技術が流出しているというのは現実としてたくさんあります。隣国のITで世界的企業となった会社もベースとなる技術はすべて日本から取り入れたものです。そのことはその企業の会長自身が、日本に足を向けて寝られないとまで言っているわけですから間違いありません。もともと日本の経営者の中には技術提供を惜しまない人もいて、逆に知財保護の観点から訴えられたというひともいるようです。日本の企業はあまり技術提供に関して閉鎖的ではありません。なぜなら技術は提供しても日本と同じ製品が簡単につくることができないことを理解していたからだと思います。すなわち技術はあっても日本人と同じ仕事はできないのです。なぜなら仕事は日本の文化や風土、民族性に裏打ちされたものだからです。
もちろん日本も今後はグローバル化の波に巻き込まれて、自国だけで経済発展を完結できない状況が出てくると当然、企業としても守るべき必然性が出てきます。それは競争力低下が懸念される技術流出等による対外的な関係においての秘匿事項であるべきです。もちろんそれを守るためには組織全体のモラル向上と同時に社員満足(組織風土から報酬面においても)が図られるべきであると思います。もちろんそういった情報は企業自体の経営状態に直接影響を及ぼす内容ですし、それを守ることに対して社員は当然協力するはずです。
企業で秘匿されるべきはそういった企業経営にかかわることなのですが、独裁的で問題のある企業は背任行為や消費者を欺くコンプライアンス違反に関する情報を隠蔽しようとするところが問題なのです。そういった情報はおもに企業上層部の指示などにより隠蔽されることが多いのですが、そういったことを隠すということに対しては社員は良心の呵責を感じるのです。対外的な経営に関する情報は当然秘匿することに良心の呵責はありません。企業人としての守秘義務とわきまえているのです。しかし理不尽なことがらに関しては絶対に漏れます。なぜでしょう、人間は良心がありますし、本音では人間的にまっとうに生きたいと思っているからです。したがってそういう理不尽な決断を下さないといけない立場に置かれた組織上層部の人こそ、外部にリークせざるをえなくなるのです。
企業は対外的な他の企業との競争において経営を守るための情報は秘匿しますが、一般社員や消費者を欺く行為は絶対に流出します。それをよく理解している経営者は最初から、リスクマネジメントとしてコンプライアンスを徹底するのです。そういったコンプライアンス違反は必ず内部告発によって外部にリークされ、明るみに出るのです。そして今社会の流れは内部告発者を保護する方向に流れているわけです。それでもまだまだ困難な問題が多くありますが。
国家も間違えてはいけません。外交上不利な情報はすでに外務省はじめまともな政治家ならすでに秘匿できているはずです。国家機密とはなんなんでしょう?それがホントに対外的に問題があるので秘匿すべきものなのか、単に政府や官僚の一部(独裁経営者や経営陣)にとって、国民(一般社員や消費者)には知られては都合が悪いものだから隠蔽するのかというのは根本的に違うはずなのです。後者の場合、必ず外部にリークされます。どんなに当事者であってもやはり人間は理不尽なことを許せないという良心をもっているからです。ですから、そういった場面に遭遇したとき、人間性を捨てて、完全に隷属するか、逆に地位も名誉も捨てて人間として生き抜くかという選択をせまられることになります。
この特定秘密保護法案の定義づけがあいまいすぎます。もちろん外交においてはそこらへんの融通の利く内容は必要ではありますが、国民の知る権利や国民の生存権を脅かすような内容が混入しないといった保証がないのです。前者のように国家運営(企業経営)にとってホントに必要であるとしてもその判断は国家元首が独裁的にできるとしたらこの法律は悪法以外のなにものでもありません。国家が秘密にしたいという背後には、それを通じて国家が世論操作まで行いたいという意図があるのだということぐらいは日本国民として認識しておく必要があると思います。そして国家というあいまいな言葉に身を隠す独裁者(国家元首、あるいはそれをさらに操ろうとする官僚、他)によって日本は牛耳られる方向に行こうとしているのです。
もし第二次世界大戦において戦勝国となって、あの軍国主義の体制がずっと続いていたらどうだったでしょう。おそらく国家にとって不都合な意見を述べる人たちは弾圧され、もしかしたら旧共産圏のような秘密警察が暗躍し、つねに国民の言動は監視され超ファシズムの国家ができあがっていたかもしれません。
戦後日本の復興を企業の成長に置き換えると、独裁経営者、経営陣による硬直しきったヒエラルキーの組織があるとき外資によって破壊(解体)され、権力よりも実力に応じてポストが与えられ、より健全な経営を取り戻し、民主的に発展していくという流れであったと考えてもいいかと思います。(もちろん外資の極端な成果主義は一つの権威主義であり、問題もあるのですが・・・)
しかしながら、この度の安倍政権による政府の標榜する流れは、だれの目にも明らかなように過去の悪しき時代へ逆戻りする危険性を秘めているのです。ただ日本人の多くは、日本には民主主義が根付き、国民一人ひとりが良識があるのであのような軍国主義にはならないだろうと楽観視している節もあります。ホントにそうでしょうか?実は日本人の民族性はあの時代の全体主義的なファシズムの体制をつくりだすのにとても都合のいい特質を兼ね備えているのです。そのことをどれだけの日本人が認識しているでしょうか?日本人が美徳としてきた上位者に対する忠誠心や自分が言ったことは必ず守る、真面目、勤勉、育ちのいい大人、・・・といった民族性こそがカルトやファシズムの体制をささえるという観点でとてもピッタリくるのです。そして日本は島国で互いが仲良く暮らすために対立を好まない反面、異分子を排除するといった陰湿ないじめ、村八分のような風土が基本的に定着しています。もともと長いものに巻かれ慣れている日本人ではわかりにくいのですが、空気を読めない外国人のほうがそのことはよく理解できます。最初は歓迎されますが、徐々に阻害されていきます。それは郷に入りては郷に従えという観点がよく理解できず、またそれをはっきりと日本人は言ってくれないので外国人には理解できないのです。とにかく異文化を受け入れる器が小さいので日本ではそういったことを学習するということが需要のある教育項目になっているのでしょう。とにかく日本人はある面、とても利用しやすい民族で集団凝集性も高いので独裁者には都合のいい組織をつくりやすいのです。
実は日本の国内に、物心両面成熟した、現代社会なのにいまだにファシズムに該当するような組織がたくさんあるのです。暴力団やカルト教団といった反社会的組織は言うに及ばず、ブラック企業といわれる会社が社会問題化するほどあるのです。これらに共通して言えることは、完全な組織トップの強固な権威、権力による独裁体制となっています。そして組織の末端の下層階級はもっとも悲惨な状況に置かれているという実態があります。一般企業でさえそうなのだということは我々もふくめてそういった要素を持っている存在だという認識を明確にしておくべきなのです。かねてから素晴らしい経営者は自分自身が間違った行動をしてしまうのではないかという危機意識をつねにもっている人だと論じてきました。集団浅慮(グループシンク)という観点で集団は間違うのだということだけでなく、個人すべてがそういう要素をもっているのだということを認識しておく必要があるのです。もちろん私自身もそうだということです。
社会には必ず対立軸があってなんとなく正常が保たれるのです。人が形成する組織はいつも独裁的になり、問題が起こって、その組織のトップが変わり、そのうち独裁的になり、また替えられるといういたちごっこのような流れになっているのです。人間はどんなに良心的な人でも持ち上げられて、ほめたたえられるとどんどん独裁的になるようになっているのです。そうならないために組織に対して反対意見を述べるような人びとが必ず必要なのです。すなわち完全無欠な人間はいないという前提に立たなければ組織の健全性を維持することはできないことを組織、集団のすべての構成員が認識しておくべきなのです。
ほとんどの日本人は日本は民主主義でいい国と思っているでしょうが、日本社会をよく分析すると細部にわたればとんでもない組織がたくさんあるのです。そのことを考えると、日本国という組織全体がそのようなとんでもない組織になりうる可能性は大きいのです。私は基本的に国としての意見がひとつにまとまっていくプロセスに危機感を抱いています。決して楽観視できません。その一つが今安倍政権が自公維で推進している国家の特定秘密保護法案なのです。すでにマスメディアも支持派、反対派とカラーがはっきりしていますが、後者のトーンも落ちかけています。マスメディアも国家の枠組みの中である程度自由に報道をしてきましたが、圧力があれば屈せざるをえません。すでにそういった兆候が見受けられます。
日本では20数年前に、反共、反左翼を標榜する某カルト宗教の団体が右翼や自民党をうまい具合に取り込み、スパイ防止法なるものを制定しようとことがありました。そのときはそれがまだまだメジョリティを獲得するにはいたらず、野党の反対もあって廃案となりました。そういった法律を制定する声は、必ず国家自体が右傾化する状況にあるときが多いのですが、まさに当時もそういう状況でした。ただ面白いのは、もしそのスパイ防止法なるものが制定されていたら、それこそそれを推進していた某カルト教団は処罰の対象になっていたかもしれません。なぜならその団体はかねてから霊感商法など反社会的な活動に手を染め、外為法違反など、国益に大きく反する活動をしていたからです。いまだに一部その状況は続いているようです。
組織という観点からとらえると、すでに国家が行くだろうと想定される方向が見えてきます。国家も企業も人によって構成された組織です。企業を例にあげて考えればわかりやすいのです。企業にも企業として秘匿しなければならないことがらというのは当然あります。ところが多くのエンジニアたちが他国の企業の接待を受け、日本の技術が流出しているというのは現実としてたくさんあります。隣国のITで世界的企業となった会社もベースとなる技術はすべて日本から取り入れたものです。そのことはその企業の会長自身が、日本に足を向けて寝られないとまで言っているわけですから間違いありません。もともと日本の経営者の中には技術提供を惜しまない人もいて、逆に知財保護の観点から訴えられたというひともいるようです。日本の企業はあまり技術提供に関して閉鎖的ではありません。なぜなら技術は提供しても日本と同じ製品が簡単につくることができないことを理解していたからだと思います。すなわち技術はあっても日本人と同じ仕事はできないのです。なぜなら仕事は日本の文化や風土、民族性に裏打ちされたものだからです。
もちろん日本も今後はグローバル化の波に巻き込まれて、自国だけで経済発展を完結できない状況が出てくると当然、企業としても守るべき必然性が出てきます。それは競争力低下が懸念される技術流出等による対外的な関係においての秘匿事項であるべきです。もちろんそれを守るためには組織全体のモラル向上と同時に社員満足(組織風土から報酬面においても)が図られるべきであると思います。もちろんそういった情報は企業自体の経営状態に直接影響を及ぼす内容ですし、それを守ることに対して社員は当然協力するはずです。
企業で秘匿されるべきはそういった企業経営にかかわることなのですが、独裁的で問題のある企業は背任行為や消費者を欺くコンプライアンス違反に関する情報を隠蔽しようとするところが問題なのです。そういった情報はおもに企業上層部の指示などにより隠蔽されることが多いのですが、そういったことを隠すということに対しては社員は良心の呵責を感じるのです。対外的な経営に関する情報は当然秘匿することに良心の呵責はありません。企業人としての守秘義務とわきまえているのです。しかし理不尽なことがらに関しては絶対に漏れます。なぜでしょう、人間は良心がありますし、本音では人間的にまっとうに生きたいと思っているからです。したがってそういう理不尽な決断を下さないといけない立場に置かれた組織上層部の人こそ、外部にリークせざるをえなくなるのです。
企業は対外的な他の企業との競争において経営を守るための情報は秘匿しますが、一般社員や消費者を欺く行為は絶対に流出します。それをよく理解している経営者は最初から、リスクマネジメントとしてコンプライアンスを徹底するのです。そういったコンプライアンス違反は必ず内部告発によって外部にリークされ、明るみに出るのです。そして今社会の流れは内部告発者を保護する方向に流れているわけです。それでもまだまだ困難な問題が多くありますが。
国家も間違えてはいけません。外交上不利な情報はすでに外務省はじめまともな政治家ならすでに秘匿できているはずです。国家機密とはなんなんでしょう?それがホントに対外的に問題があるので秘匿すべきものなのか、単に政府や官僚の一部(独裁経営者や経営陣)にとって、国民(一般社員や消費者)には知られては都合が悪いものだから隠蔽するのかというのは根本的に違うはずなのです。後者の場合、必ず外部にリークされます。どんなに当事者であってもやはり人間は理不尽なことを許せないという良心をもっているからです。ですから、そういった場面に遭遇したとき、人間性を捨てて、完全に隷属するか、逆に地位も名誉も捨てて人間として生き抜くかという選択をせまられることになります。
この特定秘密保護法案の定義づけがあいまいすぎます。もちろん外交においてはそこらへんの融通の利く内容は必要ではありますが、国民の知る権利や国民の生存権を脅かすような内容が混入しないといった保証がないのです。前者のように国家運営(企業経営)にとってホントに必要であるとしてもその判断は国家元首が独裁的にできるとしたらこの法律は悪法以外のなにものでもありません。国家が秘密にしたいという背後には、それを通じて国家が世論操作まで行いたいという意図があるのだということぐらいは日本国民として認識しておく必要があると思います。そして国家というあいまいな言葉に身を隠す独裁者(国家元首、あるいはそれをさらに操ろうとする官僚、他)によって日本は牛耳られる方向に行こうとしているのです。
2013年10月4日金曜日
うまくいくコミュニケーションの方法①
家庭においても、会社においても、あるいはそれ以外の人間関係すべてにおいて、コミュニケーションは、すべてがうまくいくためのベースとなるようなものです。それは対面であれ、電話であれ、メール、SNSにいたるまでコミュニケーションがとてもたいせつになってきます。
また相手によっても対応を変えなければならないケースもあります。特に外国人には日本の空気(行間)を読むような理解はできません。それは日本に長年住んでいる外国人でもわかりにくいと言われる人もいます。それくらい難しい感覚的なもので、日本人は日本で育って、日本人のDNAとしてすでに染みついているから理解できるのかもしれません。
ただ最近の若い世代は徐々にそういった感覚は減っているように思えます。それは良いとか悪いといったものではなくて、日本の家庭や社会の環境が大きく変わってきたということが言えるのではないかと思います。欧米の個人主義の影響や、戦後、日本がどんどん豊かになり、大家族から核家族、そして夫婦だけ、その次にはお一人様での生活も増えてきています。現在は祖父母と同居ということも減って二世帯住宅は常識です。また高齢化により高齢者は施設に入ることに抵抗感がない時代になってきました。介護というカタチで家族に負担をかけたくないという認識は高齢者に共通する意識になりつつあり、また子どもたちもそれが最善であるという意識もかなりあります。介護を社会の手にゆだねるということは決して家族の愛情問題とは関係がないのです。むしろ互いに負担をかけないようにすることが愛情であるというひとつのパラダイムシフトがなされているのだと思います。
夫婦関係もそうです。ある程度年齢を重ね、子どもたちもすべて独立すると、夫婦だけの時間が増えてきます。そして夫(あるいは妻)が定年退職をして家庭にいつもいるようになるとストレスであったりします。そうなると妻(あるいは夫)が外に出かけるようになってバランスをとるようになるのです。もちろん夫婦は最初の3~4年くらいはいいのですが、そのあとは夫婦だけの愛情というより子どもを見ながら父母としての役割で家庭を維持しているとも言えます。夫婦は他人です。最初は惹かれあっても、実際生活を共にするようになると、相手の悪いところもどんどん目に入ってきて、半ば好きという気持ちを妥協とかあきらめの気持ちが上回ってきたり、夫婦ってこういうもんだと冷めた精神状態になっていくことさえあります。でもそこに子どもの存在があると緩衝剤のような役割を果たしてくれるのです。
問題は夫婦仲が悪くなりすぎて、子どもに依存してしまうと、完全に子どもの自立を阻害し成長を遅らせたり、歪んだ情緒を育んでしまうことにもなりかねません。妻が家事、夫が仕事(あるいはその逆)に集中すればある面役割を分け、それぞれが集中できることを持つことで夫婦関係を維持することに大きな効果があります。また一般的には新婚時代はダブルベッド、子どもができてはそれぞれのベッド、そして子どもが独立したら部屋も別々なんてのもよくある話です。それでバランスをとって家庭というカタチが維持されていたりします。
歳をとっても仲のいい夫婦というのは新婚当初の夫婦の愛情関係とは違うモチベーションで形成されていると考えられます。詳しく聞けば、だいたいの人びとが口々に言われることは
「いろいろあったのよ~。」
という話です。いろんな心境を通過して熟成しきった関係であると言えるかもしれません。
フラット化している社会の中で夫婦が夫婦としての関係を維持し続けるためには、どこかで妥協したり折り合いをつけながら暮らしていくことであるのかもしれません。現代社会は離婚ということが驚くようなことではなくなったのにはやはり男女同権やジェンダーフリーといった風潮、そしてそのベースはやはり世界がフラット化していることにあると思います。男尊女卑の時代はやはり女性が我慢していたのです。あるいは社会の風土自体からも、女性というものは男性に屈して追従するものというすり込みが女性になされていたこともあると思います。
昔、夫婦が夫婦関係を解消せず維持し続けるには、どうしても片方が我慢したり妥協したりということで成立していたということがいえるかもしれません。現在夫婦関係を維持し続けている人びとは間違いなく、我慢や妥協を互いにしているか、あるいはそれをしないでもいいくらいの距離を互いの間に置いているかのどちらかであると言えます。とにかく、他人であった人同士が夫婦になるということは自分以外の価値観を受け入れるということで、それは妥協以外の何ものでもありません。そして妥協を減らすには価値観がなるべく近い人を選ぶということも方法です。
分かりやすく言うと最後まで妥協できなかった人が離婚を選択するのです。それはそれで一つの選択肢ですから、決して悪いことではないと思います。あるヨーロッパの国のように、最初から結婚という形態にこだわらないという方法もあります。そうすることで良好なパートナー関係が維持できたり、婚外子という概念をなくし同じ権利を与えることで、少子化問題も克服できる方向になっているということも聞きます。今は男女というカテゴリーでだけ人を分けられないのと同じように今後結婚という観点もさまざまな形態が発生していくと考えられます。
最終的には人間はひとりの存在で、種の保存や生活していく上で便宜上、夫婦、家族という形態をなしているのだと思えば、さまざまな選択肢がそこには考えることができそうです。いずれにせよ、人間関係は(その差こそあれ)価値観の違う人同士が交流をもつということなので、そこにはどうしても精神的な触れ合いにおいてさまざまな影響をうけるわけです。すなわち人間関係とはストレスが生じやすく、それを極力いいカタチに転化する方法がコミュニケーションスキルということになると思います。
また相手によっても対応を変えなければならないケースもあります。特に外国人には日本の空気(行間)を読むような理解はできません。それは日本に長年住んでいる外国人でもわかりにくいと言われる人もいます。それくらい難しい感覚的なもので、日本人は日本で育って、日本人のDNAとしてすでに染みついているから理解できるのかもしれません。
ただ最近の若い世代は徐々にそういった感覚は減っているように思えます。それは良いとか悪いといったものではなくて、日本の家庭や社会の環境が大きく変わってきたということが言えるのではないかと思います。欧米の個人主義の影響や、戦後、日本がどんどん豊かになり、大家族から核家族、そして夫婦だけ、その次にはお一人様での生活も増えてきています。現在は祖父母と同居ということも減って二世帯住宅は常識です。また高齢化により高齢者は施設に入ることに抵抗感がない時代になってきました。介護というカタチで家族に負担をかけたくないという認識は高齢者に共通する意識になりつつあり、また子どもたちもそれが最善であるという意識もかなりあります。介護を社会の手にゆだねるということは決して家族の愛情問題とは関係がないのです。むしろ互いに負担をかけないようにすることが愛情であるというひとつのパラダイムシフトがなされているのだと思います。
夫婦関係もそうです。ある程度年齢を重ね、子どもたちもすべて独立すると、夫婦だけの時間が増えてきます。そして夫(あるいは妻)が定年退職をして家庭にいつもいるようになるとストレスであったりします。そうなると妻(あるいは夫)が外に出かけるようになってバランスをとるようになるのです。もちろん夫婦は最初の3~4年くらいはいいのですが、そのあとは夫婦だけの愛情というより子どもを見ながら父母としての役割で家庭を維持しているとも言えます。夫婦は他人です。最初は惹かれあっても、実際生活を共にするようになると、相手の悪いところもどんどん目に入ってきて、半ば好きという気持ちを妥協とかあきらめの気持ちが上回ってきたり、夫婦ってこういうもんだと冷めた精神状態になっていくことさえあります。でもそこに子どもの存在があると緩衝剤のような役割を果たしてくれるのです。
問題は夫婦仲が悪くなりすぎて、子どもに依存してしまうと、完全に子どもの自立を阻害し成長を遅らせたり、歪んだ情緒を育んでしまうことにもなりかねません。妻が家事、夫が仕事(あるいはその逆)に集中すればある面役割を分け、それぞれが集中できることを持つことで夫婦関係を維持することに大きな効果があります。また一般的には新婚時代はダブルベッド、子どもができてはそれぞれのベッド、そして子どもが独立したら部屋も別々なんてのもよくある話です。それでバランスをとって家庭というカタチが維持されていたりします。
歳をとっても仲のいい夫婦というのは新婚当初の夫婦の愛情関係とは違うモチベーションで形成されていると考えられます。詳しく聞けば、だいたいの人びとが口々に言われることは
「いろいろあったのよ~。」
という話です。いろんな心境を通過して熟成しきった関係であると言えるかもしれません。
フラット化している社会の中で夫婦が夫婦としての関係を維持し続けるためには、どこかで妥協したり折り合いをつけながら暮らしていくことであるのかもしれません。現代社会は離婚ということが驚くようなことではなくなったのにはやはり男女同権やジェンダーフリーといった風潮、そしてそのベースはやはり世界がフラット化していることにあると思います。男尊女卑の時代はやはり女性が我慢していたのです。あるいは社会の風土自体からも、女性というものは男性に屈して追従するものというすり込みが女性になされていたこともあると思います。
昔、夫婦が夫婦関係を解消せず維持し続けるには、どうしても片方が我慢したり妥協したりということで成立していたということがいえるかもしれません。現在夫婦関係を維持し続けている人びとは間違いなく、我慢や妥協を互いにしているか、あるいはそれをしないでもいいくらいの距離を互いの間に置いているかのどちらかであると言えます。とにかく、他人であった人同士が夫婦になるということは自分以外の価値観を受け入れるということで、それは妥協以外の何ものでもありません。そして妥協を減らすには価値観がなるべく近い人を選ぶということも方法です。
分かりやすく言うと最後まで妥協できなかった人が離婚を選択するのです。それはそれで一つの選択肢ですから、決して悪いことではないと思います。あるヨーロッパの国のように、最初から結婚という形態にこだわらないという方法もあります。そうすることで良好なパートナー関係が維持できたり、婚外子という概念をなくし同じ権利を与えることで、少子化問題も克服できる方向になっているということも聞きます。今は男女というカテゴリーでだけ人を分けられないのと同じように今後結婚という観点もさまざまな形態が発生していくと考えられます。
最終的には人間はひとりの存在で、種の保存や生活していく上で便宜上、夫婦、家族という形態をなしているのだと思えば、さまざまな選択肢がそこには考えることができそうです。いずれにせよ、人間関係は(その差こそあれ)価値観の違う人同士が交流をもつということなので、そこにはどうしても精神的な触れ合いにおいてさまざまな影響をうけるわけです。すなわち人間関係とはストレスが生じやすく、それを極力いいカタチに転化する方法がコミュニケーションスキルということになると思います。
ラベル:
コミュニケーション,
会社経営(組織運営),
学習,
教育,
自分軸(PSI的フレームワーク),
販売、営業
2013年9月23日月曜日
半沢直樹 ドラマ最終回を見て
昨日、日曜劇場「半沢直樹」最終章が幕を下ろしました。
社会的ブームとなったこのドラマ、ドラマはファンタジーであるので、現実社会と照らし合わせるにはかなりの無理がありますが、企業人としてはいろいろと参考になったことと思います。
それにしても敵役の大和田常務の負けっぷりは圧巻でした。私としては上司、上役がどのように追い詰められたとき行動するのかといった観点もたいへん興味がありました。会社に入ったときは誰しも希望に燃えて、夢を持って出発しているはずですが、組織の上層部へ行けば行くほど組織の制度や文化に取り込まれ、埋め込まれることによって、がんじがらめの状況に陥って行きます。そして背に腹は変えられないという状況からさまざまな知恵をふりしぼって違法なことに手を染めるようになる可能性もあります。
そういった観点からコンプライアンス違反は起こってくるのでしょうが、またそういった行為や行動を正当化する価値観を持つようになっていくのです。認知的不協和を是正するためにそうせざるをえないのです。組織の上層部に行けば行くほど強固なモラル、倫理思考を持っていなければ必ずその罠に陥ってしまいます。そのことは部下の立場からは理解が難しいのは当然です。まだ組織の風土に埋め込まれていないからなのです。もちろんコンプライアンス違反の出発点は個人的なことがらから始まっていますが、それがどんどん大きくなると組織的にそれを隠蔽せざえない状況に周囲が巻き込まれていきます。
ある知人を介して聞いた話ですが、その会社は財務的には完全に破綻状態にあり、粉飾を繰り返しながら、なんとか会社は存続しつづけているという話でした。なぜそんな会社が存続できるのか、それは銀行と経営者一族のずぶずぶの蜜月関係でした。銀行側もそういった状況であることはわかっているにもかかわらず、目をつぶって融資し続けているのです。もちろん会社側は会社更生法を適用するなら多くの社員とその家族は路頭に迷うという状況になってしまいます。したがってそういう選択肢はないのです。またそういった同族経営で旧き時代からずっと勤めてきた社員はそういった水に慣れていて、真実を知ろうとか、会社の業績などはあまり関心がありません。すべてがなあなあの関係なのです。社員はうすうす感じてはいても、わざわざそのことを口に出すことは社内の異端分子としてレッテルを貼られることを認識しているので暗黙のタブーとして誰も話題にあげないのです。
欧米の企業が役割や業績重視の経営であるのに比べて、日本の企業は人間関係がとても重視され、その関係から派生的に組織の文化や風土が造成されていきます。その状況下ではもう人間は埋め込まれて身動きがとれず、負の遺産を覆い隠したり、取り繕う作業をしつづけるしかできなくなるのです。そういった悪しき慣習を壊して正常な経営を取り戻すには基本的に組織内からの力では到底及びません。自浄能力を失った状況では組織の多くの構成員は被害者というより加害者の立場に立っているからに他なりません。内部告発者の葛藤はそこにあります。倫理的に人間的に受け入れられないことがらに少なからず加担してきたという現実を向き合わなければならないからです。また内部告発者はその後企業から放り出され、結局行き場をなくすという流れも多く、なかなか組織自体が自分の力で正常化するというのは困難です。
日本は結局黒船頼りになるのです。組織と利害関係のない第三者によってしか変えることはできないということです。本来は融資先の銀行がその役割を担わなくてはならないのですが、銀行に不良債権が多いのは企業と銀行もまた互いに利害関係を同じくしてることと蜜月の人間関係が出来上がってしまうからなのです。人間関係というのはとても難しいテーマです。信頼関係を築くためにはよく知り合って、理解しあって密着しなければ難しいのです。しかし密着しすぎると今度はNOと言えない関係になってしまい、いつの間にかすべてを容認するカタチになって気がつくと取り返しがつかない状態に至っているというわけです。
ドラマ半沢直樹では大和田常務という役員の個人的な事情からの背任行為が問題になっていますが、企業においては経営者自身がそうである場合も多いのです。昨今の不祥事を犯した企業を見ると経営トップからとんでもないワンマンでコンプラ違反を社員に強要していたということがあります。ただ大和田常務の実績を考えると、融資先との人間関係に埋め込まれず、冷徹にやってきたことで、出世してのし上がってきたということは言えるかもしれません。銀行は減点法での評価であると聞いたことがありますが、人情に流されず、あくまで実績のみを追求するにはそれくらいの人でないと残れないかもしれません。すべてが結果主義の銀行では正義感を押し通す人間性のある半沢直樹のような行員はそもそも存在できないかもしれません。冷徹もしくは逆に人間性のある行員はずぶずぶの蜜月関係で虚構の財務状況を容認する危ない橋を渡り続けていくかないのかもしれません。
主人公に話を戻しましょう。どんどん悪事をあぶり出し、追い込んでいく凄みのある半沢直樹の闘いはすさまじいものがありました。これは多くの企業人は痛快、爽快な感覚で楽しんで見れたことでしょう。視聴者の多くはこのように行動できたらどれほど気持ちいいだろうかと思いながら見ていたことでしょう。その一方で、所詮ドラマ、実際はこんなことできないよと諦めの心境に陥る人もいることでしょう。せめてその時間だけは現実逃避してスカーッとした気持ちを味わい、ストレス解消ができれば何よりです。
ドラマはファンタジーですので、ドラマを現実社会に当てはめて論じるというのも無理はあります。ただ現実で起こっている理不尽なことがらを社会的に多くの人びとに認知してもらうという観点ではとても意義深いことであると思います。ある経営者はドラマはつくりものなので一切見ないという人がいます。実際、彼は会社ではまったく社員と話が通じず、浮いた状況になっています。ドラマは事実とは違っていたとしてもそこに学ぶものもあるので、素直に取り込まれてみるのもいいかと思います。
実際の社会で半沢直樹のような社員が企業で生きていけるのかというと意見が分かれるところです。おそらくNOという人が多いのではないかと思います。もちろん私はNOです。そういった社員を見たこともなければ、自分がそのようにふるまうことも無理だと思うからです。半沢直樹はドラマの中ではヒーローですが、実際彼一人の力では何もできません。まず彼をとりまく力になる同僚、そして精神的にサポートしている妻に、直属の上司、極めつけは組織トップの頭取の存在です。そもそも組織のトップが問題を起こしていてそれを変えるには革命しかありません。あるいは下剋上、クーデターです。
大企業などは一般社員には経営トップがどんな人なのかも上っ面しかわかりません。でも会社規模が小さく社長と一般社員の距離が近いとその経営者ができるのかダメなのかは比較的分かりやすいのです。直属の上司がダメでも社長が素晴らしければその会社は希望があります。でも経営トップの社長がダメならその会社には希望がありません。そういう面では半沢直樹はその組織内で戦う意義はあります。そもそも頭取がだめなら彼のような人材は使わないでしょうし、彼は離脱して他の企業に行くほうがいいでしょう。
組織で半沢直樹のような人材を上層部がどう見るかです。問題をあぶり出し、経営を正常化する逸材と見るのか、問題を起こし、組織を振り回す問題児と見るのかです。前者のような見方ができる人は相当器の大きい人です。後者は保守的で人間関係も波風立てず無難に過ごしたい人です。そういう面では中野渡頭取は腹のある人です。ただ現実の社会では前者はほとんどお目にかかることはできません。あんなに正義感が強く、モチベーションも高く、決して屈しない屈強な精神力の持ち主でなおかつ良識があるような人はまずいません。人間関係も組織でもうまくやっていける人はやさしい人で空気を読むし、強い言葉が使えません。逆に問題をすぐ起こす人は空気を読まず、人の気持ちを無視して平気でキツイことが言えます。そして強くてワンマンで自己中心的です。その両者のいいとこ取りしたような人格の人はなかなかお目にかかれません。
寝食忘れ、命がけで悪に立ち向かう刑事や正義の味方は現実にはいません。正義感が強いだけで命をかけれる人なんてほとんど世の中にいないのではないかと思います。半沢直樹はなぜあそこまでできるのか、それは父親が大和田常務に見殺しにされたという怨みの情がベースにあるからに他なりません。半沢直樹のモチベーションはそういった負の遺産から来ているのです。そもそも倍返しという概念も仕返しとか復讐という言葉にオブラートをかぶせたような感じです。
ほとんどのドラマが善悪という設定で弱者がいじめられて、強い悪に対して最終的にはやり返すという流れの復讐劇がほとんどです。ハリウッド映画や香港映画のように悪を完全に粉砕して潰すというのとは半沢直樹が違うのはその結末にあります。最後に頭取による人事では大和田常務は降格、半沢は出向人事という内容でした。罪を憎んで人を憎まず、情状酌量の人事です。このことでこのドラマが単なる復讐劇でないことを物語っています。お手柄なのに出向人事という理由はドラマではまったく明かされず、視聴者の判断に委ねてあるわけですが、そこには適材適所という企業の論理やさらに深読みすると中枢に入れると持て余してしまう人材であるという意味もあるかもしれません。
以前流通系の会社で役員をしていた知人から聞いた話で、頭がよくて、できる社員は採らないという話も思い出しました。とにかくそういう社員はできるので将来異端分子、反乱分子にならないとも限らないということでした。独裁色が強い組織でイノベーションは必要なく、何も考えず日々のルーティンをきっちりする、そういう会社ほど執行部はそういう思考になるように思います。銀行も中枢に行くほど、言われたことがきっちりでき、それ以外の不必要なことはやらないほうが喜ばれる硬直化した組織風土もあるのかなと思ってしまった結末でした。
まあ確かに半沢直樹の出向人事は妥当で、より中枢部で管理職なんかやっていたら、それこそストレスがたまって、どうにもならないかもしれません。つねに戦っている人にはそういう職場が合うのかもしれません。半沢も正義の味方ヒーローと同じで、確かに戦隊モノのヒーローがやがて戦いを終えて管理職になるなんてシチュエーションは想像つかないですからね。
いずれにせよ、現実を忘れさせてくれる楽しいドラマでした。次回作に期待しましょう。
社会的ブームとなったこのドラマ、ドラマはファンタジーであるので、現実社会と照らし合わせるにはかなりの無理がありますが、企業人としてはいろいろと参考になったことと思います。
それにしても敵役の大和田常務の負けっぷりは圧巻でした。私としては上司、上役がどのように追い詰められたとき行動するのかといった観点もたいへん興味がありました。会社に入ったときは誰しも希望に燃えて、夢を持って出発しているはずですが、組織の上層部へ行けば行くほど組織の制度や文化に取り込まれ、埋め込まれることによって、がんじがらめの状況に陥って行きます。そして背に腹は変えられないという状況からさまざまな知恵をふりしぼって違法なことに手を染めるようになる可能性もあります。
そういった観点からコンプライアンス違反は起こってくるのでしょうが、またそういった行為や行動を正当化する価値観を持つようになっていくのです。認知的不協和を是正するためにそうせざるをえないのです。組織の上層部に行けば行くほど強固なモラル、倫理思考を持っていなければ必ずその罠に陥ってしまいます。そのことは部下の立場からは理解が難しいのは当然です。まだ組織の風土に埋め込まれていないからなのです。もちろんコンプライアンス違反の出発点は個人的なことがらから始まっていますが、それがどんどん大きくなると組織的にそれを隠蔽せざえない状況に周囲が巻き込まれていきます。
ある知人を介して聞いた話ですが、その会社は財務的には完全に破綻状態にあり、粉飾を繰り返しながら、なんとか会社は存続しつづけているという話でした。なぜそんな会社が存続できるのか、それは銀行と経営者一族のずぶずぶの蜜月関係でした。銀行側もそういった状況であることはわかっているにもかかわらず、目をつぶって融資し続けているのです。もちろん会社側は会社更生法を適用するなら多くの社員とその家族は路頭に迷うという状況になってしまいます。したがってそういう選択肢はないのです。またそういった同族経営で旧き時代からずっと勤めてきた社員はそういった水に慣れていて、真実を知ろうとか、会社の業績などはあまり関心がありません。すべてがなあなあの関係なのです。社員はうすうす感じてはいても、わざわざそのことを口に出すことは社内の異端分子としてレッテルを貼られることを認識しているので暗黙のタブーとして誰も話題にあげないのです。
欧米の企業が役割や業績重視の経営であるのに比べて、日本の企業は人間関係がとても重視され、その関係から派生的に組織の文化や風土が造成されていきます。その状況下ではもう人間は埋め込まれて身動きがとれず、負の遺産を覆い隠したり、取り繕う作業をしつづけるしかできなくなるのです。そういった悪しき慣習を壊して正常な経営を取り戻すには基本的に組織内からの力では到底及びません。自浄能力を失った状況では組織の多くの構成員は被害者というより加害者の立場に立っているからに他なりません。内部告発者の葛藤はそこにあります。倫理的に人間的に受け入れられないことがらに少なからず加担してきたという現実を向き合わなければならないからです。また内部告発者はその後企業から放り出され、結局行き場をなくすという流れも多く、なかなか組織自体が自分の力で正常化するというのは困難です。
日本は結局黒船頼りになるのです。組織と利害関係のない第三者によってしか変えることはできないということです。本来は融資先の銀行がその役割を担わなくてはならないのですが、銀行に不良債権が多いのは企業と銀行もまた互いに利害関係を同じくしてることと蜜月の人間関係が出来上がってしまうからなのです。人間関係というのはとても難しいテーマです。信頼関係を築くためにはよく知り合って、理解しあって密着しなければ難しいのです。しかし密着しすぎると今度はNOと言えない関係になってしまい、いつの間にかすべてを容認するカタチになって気がつくと取り返しがつかない状態に至っているというわけです。
ドラマ半沢直樹では大和田常務という役員の個人的な事情からの背任行為が問題になっていますが、企業においては経営者自身がそうである場合も多いのです。昨今の不祥事を犯した企業を見ると経営トップからとんでもないワンマンでコンプラ違反を社員に強要していたということがあります。ただ大和田常務の実績を考えると、融資先との人間関係に埋め込まれず、冷徹にやってきたことで、出世してのし上がってきたということは言えるかもしれません。銀行は減点法での評価であると聞いたことがありますが、人情に流されず、あくまで実績のみを追求するにはそれくらいの人でないと残れないかもしれません。すべてが結果主義の銀行では正義感を押し通す人間性のある半沢直樹のような行員はそもそも存在できないかもしれません。冷徹もしくは逆に人間性のある行員はずぶずぶの蜜月関係で虚構の財務状況を容認する危ない橋を渡り続けていくかないのかもしれません。
主人公に話を戻しましょう。どんどん悪事をあぶり出し、追い込んでいく凄みのある半沢直樹の闘いはすさまじいものがありました。これは多くの企業人は痛快、爽快な感覚で楽しんで見れたことでしょう。視聴者の多くはこのように行動できたらどれほど気持ちいいだろうかと思いながら見ていたことでしょう。その一方で、所詮ドラマ、実際はこんなことできないよと諦めの心境に陥る人もいることでしょう。せめてその時間だけは現実逃避してスカーッとした気持ちを味わい、ストレス解消ができれば何よりです。
ドラマはファンタジーですので、ドラマを現実社会に当てはめて論じるというのも無理はあります。ただ現実で起こっている理不尽なことがらを社会的に多くの人びとに認知してもらうという観点ではとても意義深いことであると思います。ある経営者はドラマはつくりものなので一切見ないという人がいます。実際、彼は会社ではまったく社員と話が通じず、浮いた状況になっています。ドラマは事実とは違っていたとしてもそこに学ぶものもあるので、素直に取り込まれてみるのもいいかと思います。
実際の社会で半沢直樹のような社員が企業で生きていけるのかというと意見が分かれるところです。おそらくNOという人が多いのではないかと思います。もちろん私はNOです。そういった社員を見たこともなければ、自分がそのようにふるまうことも無理だと思うからです。半沢直樹はドラマの中ではヒーローですが、実際彼一人の力では何もできません。まず彼をとりまく力になる同僚、そして精神的にサポートしている妻に、直属の上司、極めつけは組織トップの頭取の存在です。そもそも組織のトップが問題を起こしていてそれを変えるには革命しかありません。あるいは下剋上、クーデターです。
大企業などは一般社員には経営トップがどんな人なのかも上っ面しかわかりません。でも会社規模が小さく社長と一般社員の距離が近いとその経営者ができるのかダメなのかは比較的分かりやすいのです。直属の上司がダメでも社長が素晴らしければその会社は希望があります。でも経営トップの社長がダメならその会社には希望がありません。そういう面では半沢直樹はその組織内で戦う意義はあります。そもそも頭取がだめなら彼のような人材は使わないでしょうし、彼は離脱して他の企業に行くほうがいいでしょう。
組織で半沢直樹のような人材を上層部がどう見るかです。問題をあぶり出し、経営を正常化する逸材と見るのか、問題を起こし、組織を振り回す問題児と見るのかです。前者のような見方ができる人は相当器の大きい人です。後者は保守的で人間関係も波風立てず無難に過ごしたい人です。そういう面では中野渡頭取は腹のある人です。ただ現実の社会では前者はほとんどお目にかかることはできません。あんなに正義感が強く、モチベーションも高く、決して屈しない屈強な精神力の持ち主でなおかつ良識があるような人はまずいません。人間関係も組織でもうまくやっていける人はやさしい人で空気を読むし、強い言葉が使えません。逆に問題をすぐ起こす人は空気を読まず、人の気持ちを無視して平気でキツイことが言えます。そして強くてワンマンで自己中心的です。その両者のいいとこ取りしたような人格の人はなかなかお目にかかれません。
寝食忘れ、命がけで悪に立ち向かう刑事や正義の味方は現実にはいません。正義感が強いだけで命をかけれる人なんてほとんど世の中にいないのではないかと思います。半沢直樹はなぜあそこまでできるのか、それは父親が大和田常務に見殺しにされたという怨みの情がベースにあるからに他なりません。半沢直樹のモチベーションはそういった負の遺産から来ているのです。そもそも倍返しという概念も仕返しとか復讐という言葉にオブラートをかぶせたような感じです。
ほとんどのドラマが善悪という設定で弱者がいじめられて、強い悪に対して最終的にはやり返すという流れの復讐劇がほとんどです。ハリウッド映画や香港映画のように悪を完全に粉砕して潰すというのとは半沢直樹が違うのはその結末にあります。最後に頭取による人事では大和田常務は降格、半沢は出向人事という内容でした。罪を憎んで人を憎まず、情状酌量の人事です。このことでこのドラマが単なる復讐劇でないことを物語っています。お手柄なのに出向人事という理由はドラマではまったく明かされず、視聴者の判断に委ねてあるわけですが、そこには適材適所という企業の論理やさらに深読みすると中枢に入れると持て余してしまう人材であるという意味もあるかもしれません。
以前流通系の会社で役員をしていた知人から聞いた話で、頭がよくて、できる社員は採らないという話も思い出しました。とにかくそういう社員はできるので将来異端分子、反乱分子にならないとも限らないということでした。独裁色が強い組織でイノベーションは必要なく、何も考えず日々のルーティンをきっちりする、そういう会社ほど執行部はそういう思考になるように思います。銀行も中枢に行くほど、言われたことがきっちりでき、それ以外の不必要なことはやらないほうが喜ばれる硬直化した組織風土もあるのかなと思ってしまった結末でした。
まあ確かに半沢直樹の出向人事は妥当で、より中枢部で管理職なんかやっていたら、それこそストレスがたまって、どうにもならないかもしれません。つねに戦っている人にはそういう職場が合うのかもしれません。半沢も正義の味方ヒーローと同じで、確かに戦隊モノのヒーローがやがて戦いを終えて管理職になるなんてシチュエーションは想像つかないですからね。
いずれにせよ、現実を忘れさせてくれる楽しいドラマでした。次回作に期待しましょう。
2013年9月9日月曜日
東京五輪招致決定にみる日本のチームワーク
はじめに、日本人として東京のオリンピック・パラリンピック招致決定をうれしく思います。そして安倍首相、猪瀬都知事はじめ関係者の方々への労をねぎらいたいと思います。
最初、日本は他の二国に比べ、自国での五輪招致に対する支持率がとても低く、実際のところ私もそんなに意識はありませんでした。でもそれは国民の多くがおそらく3.11の復興もままならない状態で自国の復興がまず最初ではないかという意識があったからではないかと思います。
でも実際、五輪招致に名乗りを上げたのは、3.11以前ですし、さまざまな苦難があったとはいえ、五輪招致にかぎつけた日本の意地というか底力はたいしたものだと思います。何をやるにも賛否両論あるものです。どんなにいいことだと思ってもそう思わない人もいます。100%一致する政策もなければ、100%好かれる人格の人もいません。ただ、私としては五輪招致に関する活動はどうも東北の人びとの気持ちを置いて行っているようで、いまひとつ納得できないものもあったのですが、最終的には安倍首相や猪瀬都知事の東北の人びとへの配慮の言葉があったことで救われる気持ちになり、今回の五輪招致をいっしょに祝いたいという気持ちに変わりました。
ということで前置きはこれくらいにして、今回の五輪招致の活動のために組織された人びとのチームワークの素晴らしさには敬服しました。もちろんプレゼンの素晴らしさはともかく、それぞれがそれぞれの立場で役割をうまく果たした結果であったと思います。そこにはプレゼン能力や折衝能力といったスキルもさることながら、それのベースとなった目に見えない日本人の文化や価値観があったことは間違いないと思います。そしてそれらをうまく引き出し、アドバイスした五輪招致デザイナーの存在は大きいでしょう。
今回のこのチームはまさに五輪招致というビジョンをもとに寄せ集められた個性派集団です。しかしそのチームワークの素晴らしさはさまざまなメディアを通じて伝わってきました。それはよっぽどうがった見方をしないかぎり、国民の多くがそう感じたのではないかと思います。会社組織のような集団ではない、やはりスポーツらしい全員が一丸となって取り組むという姿勢が随所にみられました。やはり目標が明確でそれにむかっていかに勝利を勝ち取るかという意識、そしてチームの構成員のすべてのモチベーションにあまり格差が見られない状態なのだと感じました。
会社組織や学校の運動会などでも、リンゲルマン効果(集団になると手抜きが発生する)が見られるというのはありますが、今回のチームではそういう感じを受けません。それは東京招致が決定した瞬間、みんなが抱き合って涙した姿にそう感じました。もちろん、これはあくまで私が感じたことを述べているにすぎないので断定はできませんが……。
会社や学校という集団、組織も寄せ集めです。今回のチームが寄せ集めと言っても会社や学校とは違います。会社や学校のビジョンは全体目標以上に個人の幸せにも主眼が置かれています。そしてその二者は必ずしも一致はしていないのです。会社や学校の方針に従わない社員や学生も存在します。でも少なくともこの度のチームにはそういう人はいないはずです。それは日本人というアイデンティティをベースにしているという点も大きいと思います。そこに五輪招致という共通のビジョンを掲げてひとつになれるという集団凝集性がたいへん高い組織です。
普通、集団凝集性が高く、ものすごい一体感をもって動くような組織というと権威主義的である面ビジョンも明確で、組織のトップの独裁色も強いイメージがあります。特に反社会的団体やカルト教団のような組織はとくにそういう傾向が強いと思われます。でも集団凝集性が強いのにそのように権威的にもならなければ、独裁者の存在もいないという状況でそれぞれが役割を果たし、結果も出したというケースです。
これは私はスポーツのチームにみるチームワークは本質的に会社の組織構造とは違うのだということを感じるのです。すなわちひとつの結果を出すために役割分担で形成された組織で、そこに権威的な要素はほとんど見られません。それぞれの役割に対する敬意は払いながらもうまく連係プレーを行い、そこに主従関係という人間関係は皆無と言えます。またビジョンだけで一つになれるかというと、やはりそこには日本人という共通のアイデンティティと日本という国がもつパラダイムが根底にあることは否めません。
いずれにせよ、組織としてのあり方としてかなり理想的なカタチを見ることができたということは今後の組織づくりに参考になる要素がたくさんあったと思います。
最初、日本は他の二国に比べ、自国での五輪招致に対する支持率がとても低く、実際のところ私もそんなに意識はありませんでした。でもそれは国民の多くがおそらく3.11の復興もままならない状態で自国の復興がまず最初ではないかという意識があったからではないかと思います。
でも実際、五輪招致に名乗りを上げたのは、3.11以前ですし、さまざまな苦難があったとはいえ、五輪招致にかぎつけた日本の意地というか底力はたいしたものだと思います。何をやるにも賛否両論あるものです。どんなにいいことだと思ってもそう思わない人もいます。100%一致する政策もなければ、100%好かれる人格の人もいません。ただ、私としては五輪招致に関する活動はどうも東北の人びとの気持ちを置いて行っているようで、いまひとつ納得できないものもあったのですが、最終的には安倍首相や猪瀬都知事の東北の人びとへの配慮の言葉があったことで救われる気持ちになり、今回の五輪招致をいっしょに祝いたいという気持ちに変わりました。
ということで前置きはこれくらいにして、今回の五輪招致の活動のために組織された人びとのチームワークの素晴らしさには敬服しました。もちろんプレゼンの素晴らしさはともかく、それぞれがそれぞれの立場で役割をうまく果たした結果であったと思います。そこにはプレゼン能力や折衝能力といったスキルもさることながら、それのベースとなった目に見えない日本人の文化や価値観があったことは間違いないと思います。そしてそれらをうまく引き出し、アドバイスした五輪招致デザイナーの存在は大きいでしょう。
今回のこのチームはまさに五輪招致というビジョンをもとに寄せ集められた個性派集団です。しかしそのチームワークの素晴らしさはさまざまなメディアを通じて伝わってきました。それはよっぽどうがった見方をしないかぎり、国民の多くがそう感じたのではないかと思います。会社組織のような集団ではない、やはりスポーツらしい全員が一丸となって取り組むという姿勢が随所にみられました。やはり目標が明確でそれにむかっていかに勝利を勝ち取るかという意識、そしてチームの構成員のすべてのモチベーションにあまり格差が見られない状態なのだと感じました。
会社組織や学校の運動会などでも、リンゲルマン効果(集団になると手抜きが発生する)が見られるというのはありますが、今回のチームではそういう感じを受けません。それは東京招致が決定した瞬間、みんなが抱き合って涙した姿にそう感じました。もちろん、これはあくまで私が感じたことを述べているにすぎないので断定はできませんが……。
会社や学校という集団、組織も寄せ集めです。今回のチームが寄せ集めと言っても会社や学校とは違います。会社や学校のビジョンは全体目標以上に個人の幸せにも主眼が置かれています。そしてその二者は必ずしも一致はしていないのです。会社や学校の方針に従わない社員や学生も存在します。でも少なくともこの度のチームにはそういう人はいないはずです。それは日本人というアイデンティティをベースにしているという点も大きいと思います。そこに五輪招致という共通のビジョンを掲げてひとつになれるという集団凝集性がたいへん高い組織です。
普通、集団凝集性が高く、ものすごい一体感をもって動くような組織というと権威主義的である面ビジョンも明確で、組織のトップの独裁色も強いイメージがあります。特に反社会的団体やカルト教団のような組織はとくにそういう傾向が強いと思われます。でも集団凝集性が強いのにそのように権威的にもならなければ、独裁者の存在もいないという状況でそれぞれが役割を果たし、結果も出したというケースです。
これは私はスポーツのチームにみるチームワークは本質的に会社の組織構造とは違うのだということを感じるのです。すなわちひとつの結果を出すために役割分担で形成された組織で、そこに権威的な要素はほとんど見られません。それぞれの役割に対する敬意は払いながらもうまく連係プレーを行い、そこに主従関係という人間関係は皆無と言えます。またビジョンだけで一つになれるかというと、やはりそこには日本人という共通のアイデンティティと日本という国がもつパラダイムが根底にあることは否めません。
いずれにせよ、組織としてのあり方としてかなり理想的なカタチを見ることができたということは今後の組織づくりに参考になる要素がたくさんあったと思います。
2013年8月28日水曜日
ブラック企業と半沢直樹人気
最近TBSで放映されている「日曜劇場半沢直樹」が大人気です。私も周囲の話題ネタに取り込まれて、見る羽目になったのですが、これがかなり面白い。視聴者別の調査によると会社の部長以上の管理職よりも課長以下の一般社員や派遣社員、アルバイトの人たちにはかなりの人気のようです。この人気は配役の会社での立場や、より上位者の不正をどんどんあばき、正義を実現していくという痛快なテンポのいい流れにあると思います。また主人公の堺雅人氏の演技力でさらに人気が出ているのでしょう。
昨今、話題になったブラック企業、経営トップや経営陣の社員を道具や機械にしかみなさない勤務体系などさまざまな問題が取りざたされた後にこのドラマ、ちょうどタイミングも合っていたのかもしれません。1970年代の労使紛争ももう忘れかけられたころ、ブラック企業、半沢直樹とまたまた経営陣VS一般社員のような構図がクローズアップされ、問題を投げかけてくれているのはとても社会的に意義深いことだと思います。
ただ半沢直樹の原作者は半沢のまねはしないほうがいいと言われるくらい、ブームが過熱化しているようです。確かにそういったメディアの影響はとても大きいのでそういう警鐘を鳴らすことも重要だと思います。でもほとんどの人びとはドラマはファンタジーであり、現実とは全く違うことは理解していますし、ドラマを通じた現実逃避でストレス解消をしているということはわかっていると思います。私なんかはドラマを見ながらも、あとで実際の社会に照らし合わせると、どうなのかなど考えてしまうのです。
おそらく上司にあんな目つきで上司の問題を指摘するとまずケンカになることは間違いありません。でもドラマに出てくる上司は実際、半沢直樹の指摘をとりあえず大人になってちゃんと聞いているのです。もちろん聞かなければドラマが成立しませんし、わざとしどろもどろになるという悪役を演じてくれることでさらに正義がクローズアップします。
まあ実際の社会では勧善懲悪の人なんていないわけで、正義VS不義、善VS悪といった構図ではないことは明らかです。また比較的このPSIブログは権威主義的人格には否定的見解をとっていますので、どちらかというと経営者や上司には厳しい意見をずっと言ってきたわけです。半沢直樹のような理想に近いような人格の社員はいないわけで、上司や権力者には強く、部下や同僚に対してはそれなりに信頼をえるような行動ができる人はあまり見たことがありません。
基本的に下記のような人格の人びとがかなり企業や組織では見受けられます。
①上にペコペコ、下にガミガミといった権威主義的人格
②上にペコペコ、下には顔色伺いの八方美人タイプ
③上にも強いが、下にも高圧的で空気を読まないわがままタイプ
①のタイプは最近では減ってきましたが、一部の独裁的経営者のいる企業などでは結構いたりします。今は上にどんなに取り入ったところで、部下から信頼されない人は昇進も難しいからです。また②のタイプは一見いい人なのですが、とても無責任なタイプです。なぜなら自分の役割を果たしていないからです。最初はいい人に見えますが、そのうち周囲から見くびられ、信頼はなくなります。こういう人は一緒に戦うという戦友にはできない人です。③は組織内ではもう浮いてしまいます。最初は上司にもたてつくのでおっ久々に骨があるのかなと思ってみていると、上だけでなく、自分が気に入らないすべてに反抗的な人というのがあります。結果的に自己中心的であるので上司にも部下や同僚にも悪い意味で、一線置かれてしまいます。
このブログで組織の上位者を目の敵のように批判的にコケおろしてきたのは、上位者は責任があるという名目で一般社員より給料も待遇もいいということと、その立場にふさわしい責任をとる上位者が実際少ないということを痛感してきたからです。ドラマ半沢直樹の中で「部下の手柄は上司のもの、上司の失敗は部下の責任」という言葉が出てきているのもそういう世相を表しているからなのです。組織の責任をとらない上位者は権力を持っているので批判されるくらいでないとバランスが保てません。もちろんまともな役職者も世の中にはたくさんいます。でも経営者や役員の給料はいちばん最後というまともな企業もたくさんあるでしょう。そういう人びとはちゃんとこのブログの意図をよく理解されているのだと思います。
ドラマ半沢直樹で管理職や上司の立場にある人びとは、このドラマの影響に戦々恐々としている人もいるかもしれませんし、逆にそれをいいことだと思っている人もいることでしょう。ただ実際、最近は悪戯な権力者がクローズアップされ、ブラック企業という観点で経営陣の問題がやたら批判される中で、逆に若い世代の特に③タイプの社員に手をこまねいている会社も多いようです。勝手に欠勤したり、遅刻しても悪びれず、なお気に入らないことには平気で反発し、すべて自分が正しいという人もいます。周囲はそれに対して何も言えず、ひどい場合は上司も何も言えず野放し状態ということも起こっています。
とくに若い世代は離職率も高く、我慢という観点は一切ありません。もちろん空気を読む人はどんどん若くなるほど減っています。それはなぜかというと少子化やゆとり教育により人間関係の訓練がなされていないことで間合いや距離感もわからなくなってきていますし、もちろん空気も読めません。また競争社会でなくなったことで、意欲の低下やストレス耐性が極度に低い人びとが増えています。そういう状況の中で逆に放任主義で育てられたり、不遇な家庭環境で育つととてつもなく強い性格やわがままな人格になることで③のような人になってしまったりするのです。一方であまりやる気がない忍耐力がない人が増えている一方でやる気がありすぎて、モチベーションというよりテンションが高すぎるような人もいたりします。そういう人は自分の思うようにならないとすぐに拒否したり、結果的には長続きしないということになります。
団塊や団塊Jrの世代など人間関係も豊かで競争もそれなりにあった社会から、今はのんびりとしたいことだけできるような世代になっていますので、当然忍耐力もなければストレス耐性もない人が増え続けています。中国では一人っ子政策の影響で、軍部の統制がとりにくいなどといった記事も最近目にしました。とにかく今後の企業の課題はそういった若い世代をどう動かし、企業収益を上げていくかということが大きな課題になりそうです。空気も読めなければ、はっきり言ったことしかできないからといって、人間的対応を止めて、機械やロボットみたいにこき使えばいいという経営者や管理職はもちろん企業にいてはいけないと思います。
昨今、話題になったブラック企業、経営トップや経営陣の社員を道具や機械にしかみなさない勤務体系などさまざまな問題が取りざたされた後にこのドラマ、ちょうどタイミングも合っていたのかもしれません。1970年代の労使紛争ももう忘れかけられたころ、ブラック企業、半沢直樹とまたまた経営陣VS一般社員のような構図がクローズアップされ、問題を投げかけてくれているのはとても社会的に意義深いことだと思います。
ただ半沢直樹の原作者は半沢のまねはしないほうがいいと言われるくらい、ブームが過熱化しているようです。確かにそういったメディアの影響はとても大きいのでそういう警鐘を鳴らすことも重要だと思います。でもほとんどの人びとはドラマはファンタジーであり、現実とは全く違うことは理解していますし、ドラマを通じた現実逃避でストレス解消をしているということはわかっていると思います。私なんかはドラマを見ながらも、あとで実際の社会に照らし合わせると、どうなのかなど考えてしまうのです。
おそらく上司にあんな目つきで上司の問題を指摘するとまずケンカになることは間違いありません。でもドラマに出てくる上司は実際、半沢直樹の指摘をとりあえず大人になってちゃんと聞いているのです。もちろん聞かなければドラマが成立しませんし、わざとしどろもどろになるという悪役を演じてくれることでさらに正義がクローズアップします。
まあ実際の社会では勧善懲悪の人なんていないわけで、正義VS不義、善VS悪といった構図ではないことは明らかです。また比較的このPSIブログは権威主義的人格には否定的見解をとっていますので、どちらかというと経営者や上司には厳しい意見をずっと言ってきたわけです。半沢直樹のような理想に近いような人格の社員はいないわけで、上司や権力者には強く、部下や同僚に対してはそれなりに信頼をえるような行動ができる人はあまり見たことがありません。
基本的に下記のような人格の人びとがかなり企業や組織では見受けられます。
①上にペコペコ、下にガミガミといった権威主義的人格
②上にペコペコ、下には顔色伺いの八方美人タイプ
③上にも強いが、下にも高圧的で空気を読まないわがままタイプ
①のタイプは最近では減ってきましたが、一部の独裁的経営者のいる企業などでは結構いたりします。今は上にどんなに取り入ったところで、部下から信頼されない人は昇進も難しいからです。また②のタイプは一見いい人なのですが、とても無責任なタイプです。なぜなら自分の役割を果たしていないからです。最初はいい人に見えますが、そのうち周囲から見くびられ、信頼はなくなります。こういう人は一緒に戦うという戦友にはできない人です。③は組織内ではもう浮いてしまいます。最初は上司にもたてつくのでおっ久々に骨があるのかなと思ってみていると、上だけでなく、自分が気に入らないすべてに反抗的な人というのがあります。結果的に自己中心的であるので上司にも部下や同僚にも悪い意味で、一線置かれてしまいます。
このブログで組織の上位者を目の敵のように批判的にコケおろしてきたのは、上位者は責任があるという名目で一般社員より給料も待遇もいいということと、その立場にふさわしい責任をとる上位者が実際少ないということを痛感してきたからです。ドラマ半沢直樹の中で「部下の手柄は上司のもの、上司の失敗は部下の責任」という言葉が出てきているのもそういう世相を表しているからなのです。組織の責任をとらない上位者は権力を持っているので批判されるくらいでないとバランスが保てません。もちろんまともな役職者も世の中にはたくさんいます。でも経営者や役員の給料はいちばん最後というまともな企業もたくさんあるでしょう。そういう人びとはちゃんとこのブログの意図をよく理解されているのだと思います。
ドラマ半沢直樹で管理職や上司の立場にある人びとは、このドラマの影響に戦々恐々としている人もいるかもしれませんし、逆にそれをいいことだと思っている人もいることでしょう。ただ実際、最近は悪戯な権力者がクローズアップされ、ブラック企業という観点で経営陣の問題がやたら批判される中で、逆に若い世代の特に③タイプの社員に手をこまねいている会社も多いようです。勝手に欠勤したり、遅刻しても悪びれず、なお気に入らないことには平気で反発し、すべて自分が正しいという人もいます。周囲はそれに対して何も言えず、ひどい場合は上司も何も言えず野放し状態ということも起こっています。
とくに若い世代は離職率も高く、我慢という観点は一切ありません。もちろん空気を読む人はどんどん若くなるほど減っています。それはなぜかというと少子化やゆとり教育により人間関係の訓練がなされていないことで間合いや距離感もわからなくなってきていますし、もちろん空気も読めません。また競争社会でなくなったことで、意欲の低下やストレス耐性が極度に低い人びとが増えています。そういう状況の中で逆に放任主義で育てられたり、不遇な家庭環境で育つととてつもなく強い性格やわがままな人格になることで③のような人になってしまったりするのです。一方であまりやる気がない忍耐力がない人が増えている一方でやる気がありすぎて、モチベーションというよりテンションが高すぎるような人もいたりします。そういう人は自分の思うようにならないとすぐに拒否したり、結果的には長続きしないということになります。
団塊や団塊Jrの世代など人間関係も豊かで競争もそれなりにあった社会から、今はのんびりとしたいことだけできるような世代になっていますので、当然忍耐力もなければストレス耐性もない人が増え続けています。中国では一人っ子政策の影響で、軍部の統制がとりにくいなどといった記事も最近目にしました。とにかく今後の企業の課題はそういった若い世代をどう動かし、企業収益を上げていくかということが大きな課題になりそうです。空気も読めなければ、はっきり言ったことしかできないからといって、人間的対応を止めて、機械やロボットみたいにこき使えばいいという経営者や管理職はもちろん企業にいてはいけないと思います。
2013年8月22日木曜日
組織風土と病気の関係
ある会社の元社長が癌になって余命3ヶ月と宣告されたという話を最近聞きました。大腸癌で手術はとりあえず成功したようですが、すでに肺にも転移しているとのことでなかなか状況はきびしいのではと思います。
その会社は現在はないのですが、20名くらいの小規模の会社でその当時、社員がどんどん癌になり亡くなっていくということで業界では知られていました。癌になった人は6人、そのうち2人が亡くなっています。亡くなられた2人はとてもいい人で、ひとりは私と同い年で胃がんでした。
ついに元社長がそういう病気になったということは不幸なことではあるのですが、なにか因縁めいたものを感じざるをえません。なぜその会社はあんなに癌になる人が多かったのでしょうか。私は当時からその会社の組織風土に問題があるとずっと見ていました。その当時、私の講演を聞かれた元社長が講演終了後、私にあなたの講演は何が言いたいのかわからないと言ったことがとても印象に残っていて、いまだに鮮明に覚えています。その社長もあまり定性的な感覚はなく、とても頭の固いイメージで、役員連中にはペコペコで下には結構ガミガミのタイプでした。もちろん私はその会社の社員ではないので被害を受けたことはありませんが、こういう組織風土というのが理解できない人もいるのだと実感したわけです。
そして元社長の会社は権威主義的人格の人が多く、権威には絶対服従でそうとう抑圧された精神構造の人が多かったですし、とにかく真面目で完璧主義、カマトトっぽい人も多く、下ネタにはまったく反応できないし、冗談も通じないアソビのない人びとが多かった組織であったのです。まあ類は類を呼ぶというのが実際に表れたような人びとの集まりでした。
権威主義的で抑圧された組織風土の中の社員は目に見えないストレスで充満し、その結果癌という病気になりやすいのではないかと思います。組織風土と病気に相関について研究すればそれはとても面白い研究になるのではと思いますが、何分ネガティヴな研究になるので、企業自体がそういったデータを出さない可能性が高いと思います。
ちなみにブラック企業と言われている企業の社員たちはどうなんでしょう?うつになる人は一般的にかなりの数に上るようですし、それに付随して自殺者などはなかなか自殺の原因を企業やその経営者の責任にすることがなかなか困難な状況ではないかと思います。でも今後勤務内容と同時に組織風土なども含めて人材管理の中には精神面の管理が不可欠であると思います。
いずれにせよ、一つの組織を率いている経営者は組織の長として、どんどん社員が倒れていくのを何ら問題に思わず、平気でいるというのは全く理解できないことです。どこに問題があるのか、自分で勝手に判断するのでなく、第三者である専門家に相談すべきです。病気や精神疾患を個人の問題として決めつけないで、企業として経営者として、上司として対処すべきであると言いたいわけです。
少なくとも社内のストレス環境など問題があるのではないかと考えてみるべきです。経営者は自分の会社の社員は自分のこども、家族同様に考えるべきだと思いますが、雇われ経営者でオーナーシップがとれない会社であったり、経営者自身がサイコパスのような人格になってしまっているという観点では社員の病気などは、他人事に過ぎないという人が多いのです。
その元社長も癌になったことをただ病気として治そうというのでなく、その意味合いを痛感してほしい気がします。もし病気が神様が与えるものだとするならば、なにか悟るべきことがらがあるはずです。それを考えないとしたら、癌になった意味が生かされません。
ただもともと悟れないような人だからその会社の雇われ社長としていたのかもしれません。悟れるような人であれば、社員があまりに倒れていくならばどこに問題があるのかと真剣に考え、組織風土(人間関係も含め)や勤務状況を変えていったことでしょう。
まここらへんにしておきます。あまり解釈しすぎるとオカルトっぽくなるので。
いずれにせよ、経営者や人の上に立つ人は人を追い込んだりいじめるのはやるべきではないと思います。フロイトやユングによると人間は受け入れがたいことがらは自分の無意識に閉じ込めて抑圧された状態にして普段の意識には出てこないようです。ただそれが表れるのは催眠術をかけたときで、覚醒されると一切それらは覚えていないということのようです。社員に催眠術を施しその無意識に抑圧されたことがらを引き出してみると上位者に対する怨みつらみが出てくるかもしれません。よくわら人形なんてありますが、あまりに多くの人に怨まれるとその意識が具体的に対象物に顕在化するのではと思ったりします。祈りの力なんてのもそういうことかも知れません。思い続ければ必ず実現するといったことも同じような精神世界の内容が現実世界に顕在化するといった内容なのかも知れません。
経営者であるということ、組織のトップに立つということは、ある面組織の成員の命も預かっている、その家族までも責任をもたなければならないのだということを肝に銘じ、逆に不幸な状態がどんどん起きるようなことがあるならば、早期に問題発見、問題抽出をして問題解決に取り組むべきです。人を預かる立場である重大性を認識できず、気楽に考えていると間接的な殺人を犯しているかもしれないということをしってもらいたいものです。そういう認識すらできない人は経営者や組織のトップに立つべきではないと思うのです。
2013年7月19日金曜日
認知的不協和に苦しむ経営者
認知的不協和とはアメリカの社会心理学者フェスティンガーが唱えた理論です。人間はつねに自分の思いや認知と行動が矛盾のないようにつねにバランスをとるという性質があります。すなわち自己矛盾が生じている状態にずっととどまっていることは誰しも嫌なのです。ホメオスタシス(恒常性維持機能)という観点もそれに似たものがあります。とにかく人間は変化に対して弱いということもありますし、まして自分が願わない不本意なことを要求され、行動を強いられるときには精神的に大きなストレスを感じるのです。
会社経営の中でも、経営者は認知的不協和を低減しようと努めるのです。ここでご紹介するのは一例です。基本的に社長に抜擢されたら経営権を握って自分の信じたとおり会社経営できるのが筋であるが、世の中には引退しているはずの会長なる存在がいまだに権限を行使していたりするケースがあったりします。また外面的にはわからないがうまく院政を引いて、ことあるごとに社長を呼びつけ、指示をだすような会長という存在がいたりします。そのうち社長は勝手にやって文句言われるくらいなら会長の言うとおりに従ってやっていれば、文句も言われずに済むということで完全に経営権が会長にあり、会長が経営をし、社長はただその業務を遂行するだけの仕事をしているということがあったりします。(ここでは会長―社長という関係で話しますが、みなさんは社長―上司と置きかえてもいいかもしれません)
分かりやすく示しますと以下のような矛盾を抱えて社長が経営しているわけです。
認知A:会長の命令に従う。
認知B:会長の命令に従うと会社が経営破たんする。(会長に従わなければ経営できる)
社長の仕事は当然業績アップをめざし、経営を上向きにするというのが仕事ですから、こういう状況は明らかに本来自分がすべき行動とは矛盾するわけです。そこでこの矛盾を解消するのにどのように行動するかという問題なのです。それは認知Aを変えるか、認知Bを変えるかです。まず認知Aを
認知A':命令に対して拒否し、社長の考えを押し通す。
という認知A'に変えると自分のすべき仕事に対して矛盾が解消されます。ただその場合命令に従わなかったとして社長はクビになるかもしれません。なかなか企業トップが独裁を敷いているところはその権力のゆえにその部下は直立不動の経営しかできないケースが往々としてあるのです。したがって意見を言うとか、反論するなんてことはもう自殺行為に等しかったりします。そういう組織で生き延びていく、出世するにはとにかく上位者にうまく取り入っておべっかは言っても絶対に上司の言うことを否定しないという行動が必然です。
しかし社員からしたら、せっかく社長でいるのだからリーダーシップを発揮して新しいことをいろいろと試したり何とかg黒字にしよう業績を上げようと頑張るのですが、まったく埒があかないという状況にあります。おまけに現場の事情がよくわかっていない会長に振り回されて、社長はトンチンカンな指示命令ばかり下すという状況になってしまっていたりします。そして実際に、経営状態はさらに悪化してどんどん厳しい状況に追い込まれ、給料も減らされ、社員の不満はピークになってしまうのです。
そういう状況にいたっても社長は認知A'の行動に出ることはできないでいます。でも社長としてはなんとか経営はちゃんとしたいという矛盾をかかえてしまうのです。でもクビにはなりたくありませんから、A'の選択はまずありえません。それで会長の命令に従うのです。それで会社の経営破たんをを見越して自分なりに矛盾、すなわち認知的不協和を低減できる理由をさがすのです。
・どうせこの会社はもう潮時だった。
・命令に従ったから経営責任は回避できる。
・社員もあの会長のワンマンさを知っているから理解してくれるだろう。
などなど、でも実際の経営責任者は社長です。経営責任は免れはしません。
こういった場合、どうしたらいいのでしょう。すでに経営破たんを受け入れているような社長は完全に会長に直立不動を強いられる管理下にある状況です。すでに自分の立場を客観視したり、俯瞰しシビアに現実志向で見つめるというレベルは失われていたりします。ひどい場合はアメとムチで完全に洗脳状態、学習性無力感で精神状態が崩壊しているケースもあります。とにかくこういう場合は部下の意見も聞かない状態になっていますし(なぜなら会長の命令以外の意見は受け入れないので)、相談をするという選択肢は皆無です。そういう状況にあることに気づけさえすれば、希望が見えます。ホントはできる(できそうな)部下を集めて、会長への対策会議を行えばいいのです。
それが無理なら、社外のコンサルタントか会長が一目置くような人に相談することが重要です。ただ社外であったり、経営から長く退いていると状況がイマイチ把握できない場合もあります。
とにかく気づきが必要ですし、問題の核心部分が明確に分かる、すなわち問題抽出能力がなければいい方向に展開することは困難です。そうであるがためには歪んだ持論や処世術だけで凝り固まった経営者、上司という企業組織の上位者はつねに学習してほしいものです。
会社経営の中でも、経営者は認知的不協和を低減しようと努めるのです。ここでご紹介するのは一例です。基本的に社長に抜擢されたら経営権を握って自分の信じたとおり会社経営できるのが筋であるが、世の中には引退しているはずの会長なる存在がいまだに権限を行使していたりするケースがあったりします。また外面的にはわからないがうまく院政を引いて、ことあるごとに社長を呼びつけ、指示をだすような会長という存在がいたりします。そのうち社長は勝手にやって文句言われるくらいなら会長の言うとおりに従ってやっていれば、文句も言われずに済むということで完全に経営権が会長にあり、会長が経営をし、社長はただその業務を遂行するだけの仕事をしているということがあったりします。(ここでは会長―社長という関係で話しますが、みなさんは社長―上司と置きかえてもいいかもしれません)
分かりやすく示しますと以下のような矛盾を抱えて社長が経営しているわけです。
認知A:会長の命令に従う。
認知B:会長の命令に従うと会社が経営破たんする。(会長に従わなければ経営できる)
社長の仕事は当然業績アップをめざし、経営を上向きにするというのが仕事ですから、こういう状況は明らかに本来自分がすべき行動とは矛盾するわけです。そこでこの矛盾を解消するのにどのように行動するかという問題なのです。それは認知Aを変えるか、認知Bを変えるかです。まず認知Aを
認知A':命令に対して拒否し、社長の考えを押し通す。
という認知A'に変えると自分のすべき仕事に対して矛盾が解消されます。ただその場合命令に従わなかったとして社長はクビになるかもしれません。なかなか企業トップが独裁を敷いているところはその権力のゆえにその部下は直立不動の経営しかできないケースが往々としてあるのです。したがって意見を言うとか、反論するなんてことはもう自殺行為に等しかったりします。そういう組織で生き延びていく、出世するにはとにかく上位者にうまく取り入っておべっかは言っても絶対に上司の言うことを否定しないという行動が必然です。
しかし社員からしたら、せっかく社長でいるのだからリーダーシップを発揮して新しいことをいろいろと試したり何とかg黒字にしよう業績を上げようと頑張るのですが、まったく埒があかないという状況にあります。おまけに現場の事情がよくわかっていない会長に振り回されて、社長はトンチンカンな指示命令ばかり下すという状況になってしまっていたりします。そして実際に、経営状態はさらに悪化してどんどん厳しい状況に追い込まれ、給料も減らされ、社員の不満はピークになってしまうのです。
そういう状況にいたっても社長は認知A'の行動に出ることはできないでいます。でも社長としてはなんとか経営はちゃんとしたいという矛盾をかかえてしまうのです。でもクビにはなりたくありませんから、A'の選択はまずありえません。それで会長の命令に従うのです。それで会社の経営破たんをを見越して自分なりに矛盾、すなわち認知的不協和を低減できる理由をさがすのです。
・どうせこの会社はもう潮時だった。
・命令に従ったから経営責任は回避できる。
・社員もあの会長のワンマンさを知っているから理解してくれるだろう。
などなど、でも実際の経営責任者は社長です。経営責任は免れはしません。
こういった場合、どうしたらいいのでしょう。すでに経営破たんを受け入れているような社長は完全に会長に直立不動を強いられる管理下にある状況です。すでに自分の立場を客観視したり、俯瞰しシビアに現実志向で見つめるというレベルは失われていたりします。ひどい場合はアメとムチで完全に洗脳状態、学習性無力感で精神状態が崩壊しているケースもあります。とにかくこういう場合は部下の意見も聞かない状態になっていますし(なぜなら会長の命令以外の意見は受け入れないので)、相談をするという選択肢は皆無です。そういう状況にあることに気づけさえすれば、希望が見えます。ホントはできる(できそうな)部下を集めて、会長への対策会議を行えばいいのです。
それが無理なら、社外のコンサルタントか会長が一目置くような人に相談することが重要です。ただ社外であったり、経営から長く退いていると状況がイマイチ把握できない場合もあります。
とにかく気づきが必要ですし、問題の核心部分が明確に分かる、すなわち問題抽出能力がなければいい方向に展開することは困難です。そうであるがためには歪んだ持論や処世術だけで凝り固まった経営者、上司という企業組織の上位者はつねに学習してほしいものです。
2013年6月25日火曜日
組織改革はステルス戦略で!①
企業も企業風土も老朽化するとどうしてもその時代の要請にこたえてそれらを改革し、現代の経営環境に順応させることができる政策が必要です。高齢社会を迎え、さらに65歳定年制ということになってくればなおさら問題なのは、企業の組織内における老害の問題です。組織のご意見番ということで経営の一線からは退いていただいてたまに知恵を拝借ということならまだしも、相当の高齢にもなってなお会社経営のハンドルを握っているとしたらたまったものではないというのです。そういった老害の存在ゆえにいまだに経営悪化を防げず、改革に着手もできずという状況の企業は潜在的にはとても多いことと思います。
そういった経営者や幹部、役員には独裁的な人が多く、多くの社員が引退や辞任を期待しているにも関わらず、なかなかそれは実現できないのです。そういった独裁者に誰が引導を渡すのか、とても難しい問題です。誰かが明智光秀やブルータスになって刺し違えて引退をせまるなんてことはなかなかできません。みんなの声を代弁して訴えて具体的に政権交代しようと思ったら、その政権につくのは引導を渡した自分ではなく、他の人であったりするのです。集団はとても薄情です。個に対して平気でデリートするのです。実際の手を下した人ではなく、クリーンな人をまた持ち上げていたりするのです。それは次期政権でもちゃんとポストを確保するという独裁者の残党がちゃんと幹部の中にいるからなのです。彼らは組織で抹殺しやすい人を汚れ役にしたてて最終的にはポイ捨てにするのです。
改革の道具にならずに改革を実行し、次期政権でもちゃんと生きていけるようにするにはどうしたらいいのでしょう。もちろん汚れ役を踏み台にして次期政権を掌握した人も独裁者と同じ道をたどります。クーデターで政権を握ると、結果的にクーデターで倒されます。汚れ役を利用し、自分の利益を得た人を信用する部下はいないからです。改革の成功と組織風土のパラダイムシフトとその定着はしたたかさと決して独裁者にはならないという気概が必要です。そしてそのように行動するしか次期政権を握って、それを維持し続けることはできません。
組織改革において、誰かを踏み台にしたり、捨石にしたりするようなことをしてはいけません。独裁者は恐怖によって支配しているのです。それを勘違いしてカリスマとかいう人がいますが、実際、カリスマと恐怖政治は違います。恐怖政治を敷く人は、恐怖で人を従わせる、名目や思想を持っています。それが血統(血筋)であったり過去の実績であったり、なんらかの正当性をつくりあげているのです。それらは人びとを屈服させ従える理由になっているのですが、心の奥底から従っているわけではありません。また過剰なリスペクトは、人びとが理想とするモデルとかけ離れた部分が独裁者に見え始めると、まったく違う怨みの情と化すのです。
改革を成し遂げるリーダーには大衆の過剰なリスペクトもカリスマ性も要りません。必要なことは大衆に対する愛情と自分ではなにもできないという現実を見る力です。それがみんなで成し遂げるという意識となって互いを信じる意識や力になっていきます。組織で独裁者がのさばる理由はその独裁者のパワーを利用する、あるいはその恩恵に預かっている取り巻きがいるからなのです。そして彼らを信奉する信者たちが組織の末端までいるからなのです。独裁者の老害をもっとも実感しているのは側近もいますが中間管理職たちです。現場にも精通しなおかつ上層部の状況も見えている人びとです。
組織改革の危険性は独裁者とその取り巻き、そのシンパです。彼らの毒牙にひっかからないように組織改革は進めていかなければなりません。すなわち敵のレーダーにひっかからないステルス機のように行動しなければならないのです。ホントに信頼信用できる人材だけを中心に行うしかありません。いつ寝返るかわからないような貞操観念のない人材は気をつけなければなりません。旧東欧諸国で地下活動がなされたのも独裁者がつくりあげた思想に合わない行動をする人は粛清されるからです。地下活動をする際、もっとも危険なことは家族であろうと密告者が出るのではということです。洗脳は血筋を越えるのです。
独裁体制の政権下での話は決してどこかの国のことではなく、身近な企業に普通にあることでもあるのです。組織はある面、政治的人間関係でなりたっています。人間で形成された組織はすべて政治です。今一度組織をシビアに見つめなおすことはとても重要です。組織改革は絶対的にステルス戦略が必要です。改革を目指すその人的基盤がメジョリティを占めるようになったとき、徐々にその存在をほのめかしながら個ではなく全体の力でひっくり返すということも一つの手です。もちろん具体的には独裁者自らが集団によって血祭りにあげられるという恐怖を感じて退くという流れが理想的です。誰かが独裁者の怨みの対象になる必要もなく、独裁者の残党を牽制するのはあくまで既存の政権に反対する大衆であるということです。
そういった経営者や幹部、役員には独裁的な人が多く、多くの社員が引退や辞任を期待しているにも関わらず、なかなかそれは実現できないのです。そういった独裁者に誰が引導を渡すのか、とても難しい問題です。誰かが明智光秀やブルータスになって刺し違えて引退をせまるなんてことはなかなかできません。みんなの声を代弁して訴えて具体的に政権交代しようと思ったら、その政権につくのは引導を渡した自分ではなく、他の人であったりするのです。集団はとても薄情です。個に対して平気でデリートするのです。実際の手を下した人ではなく、クリーンな人をまた持ち上げていたりするのです。それは次期政権でもちゃんとポストを確保するという独裁者の残党がちゃんと幹部の中にいるからなのです。彼らは組織で抹殺しやすい人を汚れ役にしたてて最終的にはポイ捨てにするのです。
改革の道具にならずに改革を実行し、次期政権でもちゃんと生きていけるようにするにはどうしたらいいのでしょう。もちろん汚れ役を踏み台にして次期政権を掌握した人も独裁者と同じ道をたどります。クーデターで政権を握ると、結果的にクーデターで倒されます。汚れ役を利用し、自分の利益を得た人を信用する部下はいないからです。改革の成功と組織風土のパラダイムシフトとその定着はしたたかさと決して独裁者にはならないという気概が必要です。そしてそのように行動するしか次期政権を握って、それを維持し続けることはできません。
組織改革において、誰かを踏み台にしたり、捨石にしたりするようなことをしてはいけません。独裁者は恐怖によって支配しているのです。それを勘違いしてカリスマとかいう人がいますが、実際、カリスマと恐怖政治は違います。恐怖政治を敷く人は、恐怖で人を従わせる、名目や思想を持っています。それが血統(血筋)であったり過去の実績であったり、なんらかの正当性をつくりあげているのです。それらは人びとを屈服させ従える理由になっているのですが、心の奥底から従っているわけではありません。また過剰なリスペクトは、人びとが理想とするモデルとかけ離れた部分が独裁者に見え始めると、まったく違う怨みの情と化すのです。
改革を成し遂げるリーダーには大衆の過剰なリスペクトもカリスマ性も要りません。必要なことは大衆に対する愛情と自分ではなにもできないという現実を見る力です。それがみんなで成し遂げるという意識となって互いを信じる意識や力になっていきます。組織で独裁者がのさばる理由はその独裁者のパワーを利用する、あるいはその恩恵に預かっている取り巻きがいるからなのです。そして彼らを信奉する信者たちが組織の末端までいるからなのです。独裁者の老害をもっとも実感しているのは側近もいますが中間管理職たちです。現場にも精通しなおかつ上層部の状況も見えている人びとです。
組織改革の危険性は独裁者とその取り巻き、そのシンパです。彼らの毒牙にひっかからないように組織改革は進めていかなければなりません。すなわち敵のレーダーにひっかからないステルス機のように行動しなければならないのです。ホントに信頼信用できる人材だけを中心に行うしかありません。いつ寝返るかわからないような貞操観念のない人材は気をつけなければなりません。旧東欧諸国で地下活動がなされたのも独裁者がつくりあげた思想に合わない行動をする人は粛清されるからです。地下活動をする際、もっとも危険なことは家族であろうと密告者が出るのではということです。洗脳は血筋を越えるのです。
独裁体制の政権下での話は決してどこかの国のことではなく、身近な企業に普通にあることでもあるのです。組織はある面、政治的人間関係でなりたっています。人間で形成された組織はすべて政治です。今一度組織をシビアに見つめなおすことはとても重要です。組織改革は絶対的にステルス戦略が必要です。改革を目指すその人的基盤がメジョリティを占めるようになったとき、徐々にその存在をほのめかしながら個ではなく全体の力でひっくり返すということも一つの手です。もちろん具体的には独裁者自らが集団によって血祭りにあげられるという恐怖を感じて退くという流れが理想的です。誰かが独裁者の怨みの対象になる必要もなく、独裁者の残党を牽制するのはあくまで既存の政権に反対する大衆であるということです。
2013年5月30日木曜日
成長する人は内省できる人、内省できる人はつねに学習する人②
世の中に完成というものは存在しません。ひとつのプロジェクトやひとつの目標は達成されてもそれはさらに次の段階に移行するためのステップに過ぎないのです。言葉を変えれば、完成は一旦停止であり、小休止であるとも言えます。完成するということをネタにつねに人を動かすということは宗教でも企業でもありますが、PSI的観点から言うと完成は不可能であるということです。ここであえて完成ということを何とか認めろというのであれば、このように言い換えてもいいかもしれません。完成の領域(完成とは言い切れないので)に至るということは世の中のすべてにおいて完成という概念は存在しないということを実感的に認識できたということであると言ってもいいかもしれません。
某カルト教団では完成することを目標に毎日「完成することを誓います」と念仏のように唱えさせられています。このことは何を表しているのでしょうか。それは生きているうちに完成できないということを表しているのです。とてもパラドクシカルな感じですが、実際そうなのです。毎日それを唱えることによって自分は完成していないというすり込みがなされていきます。また死を迎える前日まで「完成することを誓う」のですからいまだ完成していないということを認めてこの世を去るということです。したがって通常の宗教とカルト教団の違いはそこにあります。
完成や成功を標榜する、すなわちそれを餌にしている組織はとてもカルトチックです。なぜなら非現実的要素を取り入れているからであり、完成、成功という目標に向けてそれ以外の思考が入らないように完全にファンタジーの世界をつくりあげているからです。これは組織のトップや上層部には都合がいいのです。彼らの実現したい目標だけにすべてを投入してくれるからです。組織の成員がそういう思考行動にだけ走るように組織の上層部は教育します。彼らにとっては教育ですが、外部の人びとからみると洗脳以外のなにものでもありません。彼らのもつパラダイムは完成を標榜しながら完成させないパラダイムです。なぜなら完成されると都合が悪いのです。その組織にいる必要がなくなるからです。私、完成しました、もうこの組織は私に必要ありませんと言われると困るのです。
基本的に普通の宗教は完成できるとは言いません。むしろ罪人であったり業が深いということを認識し、だからこそ善を行おうと努力するというレベルに人はおかれています。もちろんその指導者も同じ罪人であり、業があるのです。でもカルト教団には罪人ではない完成した人間がいたりします。だいたい教祖がそういう立場に祭り上げられます。それをまた目標とさせられるのですが、絶対に同じ立場に立つことは不可能です。むしろ罪や業が深いとされ、そのために多額のお金や労働、また反社会的な活動を強要されたり、それをあおられます。カルト教団は完成というあまりに非現実的で甘いアメを用意してそれをちらつかせながら、実際にはあまりに法外で実際には無理な要求を平気でしてきます。それでも追い込まれてやってしまうほどの思想のすり込みがあるのです。
カルト教団だけではありません。カルトチックな企業や組織もエゴイスティックな権力者の目標達成のために大いに利用されるのです。それを脱却する、あるいは改善していくためには組織の成員が内省し、具体的に行動する人が増えていかなくてはなりません。そして内省し成長する人は必ず学習意欲があり、外部や新しい情報に耳を傾ける器のある人です。硬直した企業や組織が生まれ変われるかどうかはそこに所属している人びとを観察すればよくわかります。仕事自体は決まりきったルーティンを卒なくこなすいわば職人が必要ですが、その仕事自体を見直したり考えることができるメタ認知能力のある人材が必要なのです。
企業もさまざまな組織も職人肌の人は当然必要ですが、そういう人ばかりだと、時代の流れや社会の情勢を読むことができず、いつの間にか限界を迎えてしまうということになります。あらゆる組織は変容の必要性に直面しているのです。昨今の話ですとレスリングがオリンピック競技から外されるのではといった問題があります。やはり組織は組織内だけで仕事ができる人は組織を守れないのです。組織をつねに外部視点で見たりものごとの本質を見極め変えていく力が必要なのです。そういった人は内省ができ、つねに学習している人にほかなりません。
人間はある程度、不自由なく安定した上がりの状態になると学習の必要性は感じませんし、成長はなくなります。それはピーターの法則でもわかるように、人はやはり無能レベルまで成長するのです。そういったことを回避するには、自分はまだまだだといつも成長シロを残した状態に置いておくのがもっとも最善な方法です。組織のトップになってそれで満足している人は成長シロを失って土ツボにはまってしまっています。自信を持つことは重要ですが、傲慢になった人にはもう成長する余地は残されていません。いつも自分を内省し成長しようという意識自体が、学習意欲を高め、学習することでさらに知恵や情報を得てさらに内省する機会を与えてくれます。学習→内省→成長→意欲→学習→内省→……というサイクルにつねに自分がおかれているならば、成長がありますし、知的老いとは関係のない人生が送れそうです。
某カルト教団では完成することを目標に毎日「完成することを誓います」と念仏のように唱えさせられています。このことは何を表しているのでしょうか。それは生きているうちに完成できないということを表しているのです。とてもパラドクシカルな感じですが、実際そうなのです。毎日それを唱えることによって自分は完成していないというすり込みがなされていきます。また死を迎える前日まで「完成することを誓う」のですからいまだ完成していないということを認めてこの世を去るということです。したがって通常の宗教とカルト教団の違いはそこにあります。
完成や成功を標榜する、すなわちそれを餌にしている組織はとてもカルトチックです。なぜなら非現実的要素を取り入れているからであり、完成、成功という目標に向けてそれ以外の思考が入らないように完全にファンタジーの世界をつくりあげているからです。これは組織のトップや上層部には都合がいいのです。彼らの実現したい目標だけにすべてを投入してくれるからです。組織の成員がそういう思考行動にだけ走るように組織の上層部は教育します。彼らにとっては教育ですが、外部の人びとからみると洗脳以外のなにものでもありません。彼らのもつパラダイムは完成を標榜しながら完成させないパラダイムです。なぜなら完成されると都合が悪いのです。その組織にいる必要がなくなるからです。私、完成しました、もうこの組織は私に必要ありませんと言われると困るのです。
基本的に普通の宗教は完成できるとは言いません。むしろ罪人であったり業が深いということを認識し、だからこそ善を行おうと努力するというレベルに人はおかれています。もちろんその指導者も同じ罪人であり、業があるのです。でもカルト教団には罪人ではない完成した人間がいたりします。だいたい教祖がそういう立場に祭り上げられます。それをまた目標とさせられるのですが、絶対に同じ立場に立つことは不可能です。むしろ罪や業が深いとされ、そのために多額のお金や労働、また反社会的な活動を強要されたり、それをあおられます。カルト教団は完成というあまりに非現実的で甘いアメを用意してそれをちらつかせながら、実際にはあまりに法外で実際には無理な要求を平気でしてきます。それでも追い込まれてやってしまうほどの思想のすり込みがあるのです。
カルト教団だけではありません。カルトチックな企業や組織もエゴイスティックな権力者の目標達成のために大いに利用されるのです。それを脱却する、あるいは改善していくためには組織の成員が内省し、具体的に行動する人が増えていかなくてはなりません。そして内省し成長する人は必ず学習意欲があり、外部や新しい情報に耳を傾ける器のある人です。硬直した企業や組織が生まれ変われるかどうかはそこに所属している人びとを観察すればよくわかります。仕事自体は決まりきったルーティンを卒なくこなすいわば職人が必要ですが、その仕事自体を見直したり考えることができるメタ認知能力のある人材が必要なのです。
企業もさまざまな組織も職人肌の人は当然必要ですが、そういう人ばかりだと、時代の流れや社会の情勢を読むことができず、いつの間にか限界を迎えてしまうということになります。あらゆる組織は変容の必要性に直面しているのです。昨今の話ですとレスリングがオリンピック競技から外されるのではといった問題があります。やはり組織は組織内だけで仕事ができる人は組織を守れないのです。組織をつねに外部視点で見たりものごとの本質を見極め変えていく力が必要なのです。そういった人は内省ができ、つねに学習している人にほかなりません。
人間はある程度、不自由なく安定した上がりの状態になると学習の必要性は感じませんし、成長はなくなります。それはピーターの法則でもわかるように、人はやはり無能レベルまで成長するのです。そういったことを回避するには、自分はまだまだだといつも成長シロを残した状態に置いておくのがもっとも最善な方法です。組織のトップになってそれで満足している人は成長シロを失って土ツボにはまってしまっています。自信を持つことは重要ですが、傲慢になった人にはもう成長する余地は残されていません。いつも自分を内省し成長しようという意識自体が、学習意欲を高め、学習することでさらに知恵や情報を得てさらに内省する機会を与えてくれます。学習→内省→成長→意欲→学習→内省→……というサイクルにつねに自分がおかれているならば、成長がありますし、知的老いとは関係のない人生が送れそうです。
成長する人は内省できる人、内省できる人はつねに学習する人①
発展し成長し続ける企業はつねに変化に対応できる組織です。ダーウィンが強いものが残るのでない、変化できるものが残るのであるといったことはまさに人や企業にもあてはまると思います。
世界は間違いなく、最善を求めてその方向に動いているとは考えられるのですが、実際、その反面全く改善されず、いまだに最悪の事態を回避できない状態も続いています。たとえば、これだけ文明社会になって、多くの国々がどんどん先進国入りして豊かさを手にしようとしている一方で貧困はなかなか解消されず、いまだに世界のあちらこちらで紛争や戦争が続いています。
より先進国に成長していくということはよりモラルが高くなるということであり、自国だけのエゴイスティックな思考から脱却し、世界規模、地球規模でものごとを考えられるようになることであると思います。でも先進国であってもやはり戦争を回避することができないという実情があります。それは正義という名目もあるでしょうが、軍需産業等、戦争によって恩恵を受ける企業や組織が存在していることもあります。アメリカでオバマ大統領がなかなか銃規制を実現できないのも、ことの本質を解消できないからという問題があります。
銃規制に反対する人びとは、自分の生活は自分で守るという主張をします。これは決して間違いではないのですが、暴力に対して暴力で報復すると終わりなき戦いとなるのです。人間の情の中で怨みの情だけが‘時間薬’が利かないのです。時間とともに大きく膨らむのが怨みの情なのです。それは日本を取り巻く環境を見てもすぐに理解できます。実は歴史的に体験した世代以上に戦後の教育を受けた世代のほうが怨みが強かったりします。自分たちが直接体験してないのにです。理不尽な話を聞いて当事者以上に熱くなってしまうということもよくありがちなケースです。
自分を守るために武器を持つということは相手の暴力に対して暴力で対応することなので、結果的に互いの怨みが深まるだけです。ただ現実問題として、目の前に起こる犯罪に対してそのままにしておくことは社会不安を助長されるだけなのでとうぜん警察といった公的機関が必要なのです。すなわち、当事者でない第三者が介入することで怨みをさらに拡大させることを防ぐこともできます。ホントに銃が必要だと思っている人はどれだけいるでしょうか。実は銃規制に反対する人びとは、本音の部分では、自分たちが銃を生産することで仕事ができ、生活ができているという現実があるということです。そして銃の市場のニーズをうったえることで自分たちの仕事が確保されるのです。
まだまだ無法な人びとや、無法な国家の存在があるため、銃や兵器等の武器の需要はなくなることはありませんが、遠い未来に健全な世界を築くならそういった必要悪はいずれ地球上から無くしていくことが必要です。あとは展示する博物館に残すぐらいです。ひとりの人間が変わることさえ困難であるのに、組織が変わるということは大変な忍耐とパワーが必要になってきます。考え方の転換から企業であるなら業態の転換も含めてパラダイムシフトが必要なのです。
日本ではJTが日本たばこ産業という不健康な商材を売ってきて、ドリンクや食品に商材を拡げて既存の業界に参入しながらも、財力と認知度を武器に必死に頑張っています。社会の流れは健康志向になってきており、いずれ淘汰される市場に固執し続けて消滅する企業になってはいけないという切実な心情を感じます。それは単に利潤追求という単純な理由ではなく、その会社に従事している社員たちの生活があるということも実感します。
銃の会社も警察という公的機関だけへの供給に制限し、その一般市場を無くした部分の収益の補てんをより近接領域、あるいはまったく別の事業創造が必要であるのです。JTはたばこから食品への事業転換、シフトを必死に行っているのです。その部分を企業だけでなくオバマ大統領はじめシンクタンクが取り組み、国家全体のプロジェクトとしてその企業に従事している人びとの生活を守るアイディアを出さなければならないのです。相変わらず、本音の部分に踏み込むことができない状況になっています。選挙の件もあるし、とにかく変革というのはさまざまな制度に埋め込まれていてなかなか前に進まないという実情があります。
軍需産業がなくなるというのは私たちが生きている間に実現されることはありませんし、地球が滅ぶまでに実現できるかどうかもわかりません。その実現は宗教問題の解決やモラルが高められ利他的な思想が世界中にあふれるようにならなければ無理だと思います。権力を持つとどうしても自己中心的な思考に陥り、独裁的になっていく、また独裁者に仕立てていく組織の成員の問題なども研究されつくさなければならないし、またそれが現実に実行されるまでいかなければならないと考えます。
話がとても大きなところから始まりましたが、実際、歴史の教訓を生かすには内省が必要なのですが、その内省ができるかどうかは新しい情報をつねに取り入れる柔軟性や学習といったことが不可欠なのです。組織は個人の集まりです。個人が考えに考え抜いてより最善な方法を選択していくときに組織は成長し、発展するのです。そのためには学習し、内省し、さらに成長発展しようとする個人の声を全体に反映させることができるように制度に埋没しない取り組みや組織のあり方を考えておかなければなりません。
世界は間違いなく、最善を求めてその方向に動いているとは考えられるのですが、実際、その反面全く改善されず、いまだに最悪の事態を回避できない状態も続いています。たとえば、これだけ文明社会になって、多くの国々がどんどん先進国入りして豊かさを手にしようとしている一方で貧困はなかなか解消されず、いまだに世界のあちらこちらで紛争や戦争が続いています。
より先進国に成長していくということはよりモラルが高くなるということであり、自国だけのエゴイスティックな思考から脱却し、世界規模、地球規模でものごとを考えられるようになることであると思います。でも先進国であってもやはり戦争を回避することができないという実情があります。それは正義という名目もあるでしょうが、軍需産業等、戦争によって恩恵を受ける企業や組織が存在していることもあります。アメリカでオバマ大統領がなかなか銃規制を実現できないのも、ことの本質を解消できないからという問題があります。
銃規制に反対する人びとは、自分の生活は自分で守るという主張をします。これは決して間違いではないのですが、暴力に対して暴力で報復すると終わりなき戦いとなるのです。人間の情の中で怨みの情だけが‘時間薬’が利かないのです。時間とともに大きく膨らむのが怨みの情なのです。それは日本を取り巻く環境を見てもすぐに理解できます。実は歴史的に体験した世代以上に戦後の教育を受けた世代のほうが怨みが強かったりします。自分たちが直接体験してないのにです。理不尽な話を聞いて当事者以上に熱くなってしまうということもよくありがちなケースです。
自分を守るために武器を持つということは相手の暴力に対して暴力で対応することなので、結果的に互いの怨みが深まるだけです。ただ現実問題として、目の前に起こる犯罪に対してそのままにしておくことは社会不安を助長されるだけなのでとうぜん警察といった公的機関が必要なのです。すなわち、当事者でない第三者が介入することで怨みをさらに拡大させることを防ぐこともできます。ホントに銃が必要だと思っている人はどれだけいるでしょうか。実は銃規制に反対する人びとは、本音の部分では、自分たちが銃を生産することで仕事ができ、生活ができているという現実があるということです。そして銃の市場のニーズをうったえることで自分たちの仕事が確保されるのです。
まだまだ無法な人びとや、無法な国家の存在があるため、銃や兵器等の武器の需要はなくなることはありませんが、遠い未来に健全な世界を築くならそういった必要悪はいずれ地球上から無くしていくことが必要です。あとは展示する博物館に残すぐらいです。ひとりの人間が変わることさえ困難であるのに、組織が変わるということは大変な忍耐とパワーが必要になってきます。考え方の転換から企業であるなら業態の転換も含めてパラダイムシフトが必要なのです。
日本ではJTが日本たばこ産業という不健康な商材を売ってきて、ドリンクや食品に商材を拡げて既存の業界に参入しながらも、財力と認知度を武器に必死に頑張っています。社会の流れは健康志向になってきており、いずれ淘汰される市場に固執し続けて消滅する企業になってはいけないという切実な心情を感じます。それは単に利潤追求という単純な理由ではなく、その会社に従事している社員たちの生活があるということも実感します。
銃の会社も警察という公的機関だけへの供給に制限し、その一般市場を無くした部分の収益の補てんをより近接領域、あるいはまったく別の事業創造が必要であるのです。JTはたばこから食品への事業転換、シフトを必死に行っているのです。その部分を企業だけでなくオバマ大統領はじめシンクタンクが取り組み、国家全体のプロジェクトとしてその企業に従事している人びとの生活を守るアイディアを出さなければならないのです。相変わらず、本音の部分に踏み込むことができない状況になっています。選挙の件もあるし、とにかく変革というのはさまざまな制度に埋め込まれていてなかなか前に進まないという実情があります。
軍需産業がなくなるというのは私たちが生きている間に実現されることはありませんし、地球が滅ぶまでに実現できるかどうかもわかりません。その実現は宗教問題の解決やモラルが高められ利他的な思想が世界中にあふれるようにならなければ無理だと思います。権力を持つとどうしても自己中心的な思考に陥り、独裁的になっていく、また独裁者に仕立てていく組織の成員の問題なども研究されつくさなければならないし、またそれが現実に実行されるまでいかなければならないと考えます。
話がとても大きなところから始まりましたが、実際、歴史の教訓を生かすには内省が必要なのですが、その内省ができるかどうかは新しい情報をつねに取り入れる柔軟性や学習といったことが不可欠なのです。組織は個人の集まりです。個人が考えに考え抜いてより最善な方法を選択していくときに組織は成長し、発展するのです。そのためには学習し、内省し、さらに成長発展しようとする個人の声を全体に反映させることができるように制度に埋没しない取り組みや組織のあり方を考えておかなければなりません。
2013年5月28日火曜日
ものごとの本質と向き合う力②
会社での会議はいつの間にかものごとの本質からズレて結局建前論が先行してしまうことがよくあります。起業間もないベンチャー企業などはまだしも、もう何年も安定して経営を行ってきた企業ほどそういう状況になっているのではないかと思います。なぜなら現状を変えたり、イノベーションを起こす必然性をあまり感じないからです。そういった会社の社員は会議はいつものルーティンの一部に他ならず、そこで新しいものを生み出そうとか、何か変えていかなくてはならないといった雰囲気、意識はなく、そういった気概も感じられません。
もちろん上層部も社員たちもそれを善しとして、全くそういった状況を問題視することなく、ただ徒に時間を消化することだけを考えているという状況になっていたりします。そういう中でたまに血の気の多い社員や中途採用のまだ組織の色に染まっていない社員なんかがいたりすると、組織的な問題や業務や商品開発などさまざまなことがらに本音をぶつけ、一石を投じるなんてこともあるのですが、そういった行動には会議参加者の大半は火消しに回るということになります。
実は彼らが思っていることはみんな思っていたことで、すでにそれができないほど組織の制度にがんじがらめに埋め込まれた状態にあるので、そういった提案や意見はできないこと、無駄なことというカテゴリーにふるい分けられ、議題にあがることはないのです。まさに非効率的で理不尽であったりすることが公然と組織の成員の暗黙の了解の下にまかり通っているという状況があったりするのです。
すでに組織の上層部のみならず成員全体が、本音のところではその部分の改革が必要だと思いながらもそれはできないことといういわば‘思い込みサイクル’に陥っているのです。実際は力を合わせてやればできることであったりするのですが、できないという思い込みです。個人においては自分自身が思い込みサイクルにはまっていると思えば、自己啓発セミナーに出たり、本やさまざまなメディアから情報を得たりして、自ら努力することでそこから脱却できるかもしれません。でも組織となれば簡単ではありません。
組織の中でたった一人で改革をやろうと思ってもたいへん困難です。経営トップでさえ困難であったりします。組織の一社員であれば、間違いなくもっと難しいでしょう。それでも何とかしようと思えば、まず経営トップや執行部を動かすだけのパワーを持たなければならなくなります。地位がなければ、まず意識や行動をともにする人的基盤を築いて上層部に訴えるという作業が必要になってきます。ところがその作業のプロセスの段階でその流れはつぶされてしまうという可能性も大きいのです。下手をすると組織の方向性とは違うとレッテルを貼られ、その組織の中にあって組織のために行動しているにも関わらず重要なポストから排除されてしまう危険性だってあります。そして信頼していた人びとさえ組織の論理を代弁しているとされる上層部のや会社側の論理に引き込まれ、脱落していくという人が出てきます。
こういったことは一つの大きな組織の秩序や統制を維持するためには仕方のない一面もありますが、結果的に個を重要視しないことがもたらす全体の滅びでもあるのです。部分的最適化が全体を滅ぼす逆パターンです。経営トップや組織の上層部はそういったキラリと光る原石を見極め、一旦耳を貸すという勇気も必要です。もちろん振り回されて会社を破たんさせるような方向に行くことは避けなければなりませんから、当然慎重になる気持ちはよく理解できます。でもつねにそういった組織内の核心部分をついた本音の声を封じ込めることばかりやっていると何も変わらないし、企業の成長はストップした状況が続くのです。
個人も組織もものごとの本質に向き合う力がとても弱いのです。これは日本的な経営の弊害部分でもあると思います。戦後の経済の高度成長の時代にはヒエラルキー組織で統率してがんがん生産効率を高めていくことが企業の収益につながっていたのですが、モノがあふれていて知的労働のほうが重要とされる現代では旧態依然たる組織風土や思考にとらわれていては全く成長できないのだと思います。そういったことに気づいて企業のトップや上層部が行動を起こしてもやはり過去の既成概念が邪魔をしてやはり思い切った改革、転換ということはなかなか困難です。
世界的に成長しつづける企業の多くはそういった既成概念を崩して通常の理解を越えた取り組みをしています。世界的企業のグーグルなどは社員が散歩しながら会議をしたり、いいアイディアを捻出できるようにさまざまな工夫をしています。そして社員の健康まで自己管理できるようにトレーニングジムや24時間無料の社員食堂もあったりします。毎日決まった時間に出社して決まった時間でなく遅くまでサービス残業を課すような会社ではまったく理解不能な取り組みです。
労働価値説的な思考から脱却できないレベルはもう言うに及びませんが、今までの日本の会社という枠組みを崩すくらいの発想ができなければものごとの本質に向き合って会社を大きく変えていくなどという行動はできないのです。名を捨てて実をとるということこそ今の日本的経営を行ってきて行き詰っている企業には必要なのです。社員の行動をがんじがらめに縛る会社ほど非効率的で逆に自由な思考や行動を受け入れ、ものごとの本質が見えてくるような組織風土を築いたほうがよっぽど効率的であると考えます。そして減点主義でなく評価主義に切り替えつつ仕事に誇りをもって取り組める風土にすることが企業や組織のトップや上層部がもっとも考えていかなければならないことだと思います。
もちろん上層部も社員たちもそれを善しとして、全くそういった状況を問題視することなく、ただ徒に時間を消化することだけを考えているという状況になっていたりします。そういう中でたまに血の気の多い社員や中途採用のまだ組織の色に染まっていない社員なんかがいたりすると、組織的な問題や業務や商品開発などさまざまなことがらに本音をぶつけ、一石を投じるなんてこともあるのですが、そういった行動には会議参加者の大半は火消しに回るということになります。
実は彼らが思っていることはみんな思っていたことで、すでにそれができないほど組織の制度にがんじがらめに埋め込まれた状態にあるので、そういった提案や意見はできないこと、無駄なことというカテゴリーにふるい分けられ、議題にあがることはないのです。まさに非効率的で理不尽であったりすることが公然と組織の成員の暗黙の了解の下にまかり通っているという状況があったりするのです。
すでに組織の上層部のみならず成員全体が、本音のところではその部分の改革が必要だと思いながらもそれはできないことといういわば‘思い込みサイクル’に陥っているのです。実際は力を合わせてやればできることであったりするのですが、できないという思い込みです。個人においては自分自身が思い込みサイクルにはまっていると思えば、自己啓発セミナーに出たり、本やさまざまなメディアから情報を得たりして、自ら努力することでそこから脱却できるかもしれません。でも組織となれば簡単ではありません。
組織の中でたった一人で改革をやろうと思ってもたいへん困難です。経営トップでさえ困難であったりします。組織の一社員であれば、間違いなくもっと難しいでしょう。それでも何とかしようと思えば、まず経営トップや執行部を動かすだけのパワーを持たなければならなくなります。地位がなければ、まず意識や行動をともにする人的基盤を築いて上層部に訴えるという作業が必要になってきます。ところがその作業のプロセスの段階でその流れはつぶされてしまうという可能性も大きいのです。下手をすると組織の方向性とは違うとレッテルを貼られ、その組織の中にあって組織のために行動しているにも関わらず重要なポストから排除されてしまう危険性だってあります。そして信頼していた人びとさえ組織の論理を代弁しているとされる上層部のや会社側の論理に引き込まれ、脱落していくという人が出てきます。
こういったことは一つの大きな組織の秩序や統制を維持するためには仕方のない一面もありますが、結果的に個を重要視しないことがもたらす全体の滅びでもあるのです。部分的最適化が全体を滅ぼす逆パターンです。経営トップや組織の上層部はそういったキラリと光る原石を見極め、一旦耳を貸すという勇気も必要です。もちろん振り回されて会社を破たんさせるような方向に行くことは避けなければなりませんから、当然慎重になる気持ちはよく理解できます。でもつねにそういった組織内の核心部分をついた本音の声を封じ込めることばかりやっていると何も変わらないし、企業の成長はストップした状況が続くのです。
個人も組織もものごとの本質に向き合う力がとても弱いのです。これは日本的な経営の弊害部分でもあると思います。戦後の経済の高度成長の時代にはヒエラルキー組織で統率してがんがん生産効率を高めていくことが企業の収益につながっていたのですが、モノがあふれていて知的労働のほうが重要とされる現代では旧態依然たる組織風土や思考にとらわれていては全く成長できないのだと思います。そういったことに気づいて企業のトップや上層部が行動を起こしてもやはり過去の既成概念が邪魔をしてやはり思い切った改革、転換ということはなかなか困難です。
世界的に成長しつづける企業の多くはそういった既成概念を崩して通常の理解を越えた取り組みをしています。世界的企業のグーグルなどは社員が散歩しながら会議をしたり、いいアイディアを捻出できるようにさまざまな工夫をしています。そして社員の健康まで自己管理できるようにトレーニングジムや24時間無料の社員食堂もあったりします。毎日決まった時間に出社して決まった時間でなく遅くまでサービス残業を課すような会社ではまったく理解不能な取り組みです。
労働価値説的な思考から脱却できないレベルはもう言うに及びませんが、今までの日本の会社という枠組みを崩すくらいの発想ができなければものごとの本質に向き合って会社を大きく変えていくなどという行動はできないのです。名を捨てて実をとるということこそ今の日本的経営を行ってきて行き詰っている企業には必要なのです。社員の行動をがんじがらめに縛る会社ほど非効率的で逆に自由な思考や行動を受け入れ、ものごとの本質が見えてくるような組織風土を築いたほうがよっぽど効率的であると考えます。そして減点主義でなく評価主義に切り替えつつ仕事に誇りをもって取り組める風土にすることが企業や組織のトップや上層部がもっとも考えていかなければならないことだと思います。
2013年5月24日金曜日
ものごとの本質と向き合う力①
人間は基本的に尊厳を大切にします。それは意識的にも無意識的にも、そして感情的にも行動的にも自己の尊厳を毀損されることがらに対してをれを回避する方向に動きます。それは明らかに人が人として存在することになにごとにも替えられない尊厳を有しているからだと思います。
したがって人間は傷つけられるような言動や理不尽な対応をされたときなどには、それを回避したり、断固として拒絶したりする意識がはたらき、自分を擁護したり正当化するような言動をとるわけです。会社の中にも学校の中、家庭の中でさえ、人間があつまり社会を形成するところでは必ずそういったやりとりがあるわけです。みなさんが会社などに勤めたり、所属しているコミュニティで活動されているなかで、そういった場面によく出くわすことがあると思います。
私の経験からちょっとお話ししますが、以前世話になった上司はとてもいい人で、上役の中にとても理不尽なことを言う人がいてその人への対応にいつも苦慮していました。実際、仕事とは関係のないあくまで個人的な感情を中心の言動をする人で、思いつきでなんでも指示命令をしてしまうような人でした。その上役に怒鳴られたり、目茶苦茶いじめられたり、それも怒鳴るにしても会議の場で見せしめのように怒鳴るのです。自分の上司がそこまで理不尽な対応をされることに気持ちのいい部下はいないと思います。でもだれもそれに対してどうこう言うことができないのです。すでにその人にもの申す人はいなくて、裸の王様状態になっていました。したがって無言の同調圧力の中で上司はペコペコしているだけという状況でした。そういった会議には基本的に私は参加しませんが、たまたま参加した会議の中でそういう状況であったことを知りました。
上司が怒鳴られたり、いじめられているのが常態化していて、一時期はうつ気味のときもありました。ところが上司のことを思って、その上役をいろいろやってつぶしますか(少々過激表現が多いですが…)と提案しても、上司はまったくそれにはのってこないのです。それは一つはあまりに抑圧されいじめられてきた内容が大きいのですでに学習性無力感の状態に至っているというのがひとつはあると思いました。そういうポジションだからというのです。したがって自分に非があるわけでもなく、上役のキャラに問題があるのは当然ですが、あくまでそういう地位にあるからだという訳のわからない説明をするのです。
みなさんは経験ありませんか。
「あんなに言われてなんで黙っているんですか?」
「明らかに変じゃないですか、はっきり言ってやったらいいですよ!」
「なんなら私たちがみんなで訴えますか?」
ここまで言ってものってこない上役に言われぱなしのダメ上司。
上司の話を聞いて部下たちは熱くなっているにもかかわらず、挙句の果てはいじめられている上役のことを擁護までするのです。そんな悪い人じゃないよとか、短気だけど言っていることは正論だとか、もうこの上司なに考えているのかと部下たちからは逆に信頼を失ってしまうようになりました。
そりゃそうです、さんざ上役の問題を聞かされて熱しているところに水をかける、部下からすればどうせそう考えるなら、あんたの心の中でうまく整理して終わりにしてよという話です。もし私が上司の立場なら一緒に闘おうとしてくれる部下の言葉が嬉しくていろいろ考え、クーデターのひとつでも企てるところですが、そうはならないのです。
ずっとそういう上司を理解できなかったのですが、よくよく考えると彼は彼なりに自分の人間としての尊厳を守り通そうと必死であったということです。それはとりあえず自分を立てて使っているのは上役なので、彼がそのポジションから外れるようにすることには言及しないのです。そうでありながらも自分の行動の足りなさは決して認めないというカタチでスルリスルリとものごとも本質からどんどんはずしながら、誰にも責任問題は追及しないというカタチをとるのです。これはある面日本社会のうまくやっていく人間関係やその立ち位置のありかたかもしれません。そして自分自身の尊厳も守られるのです。
怒鳴られても、いじめられても、自分に非があるわけでもなければ、相手も立場上そうしなければならないのだろうという理解は明らかにものごとの本質からは大きく外れています。私が経験した場合には明らかにその上役の人格的な問題があったわけです。でもそのことに誰も触れようとしないのです。社内のほとんどの人びとがそれがわかっているにもかかわらずです。もちろん被害を受けている当の本人自体が被害という認識から逃げているので周囲はもうそれ以上言うこともできないのです。
長い期間にわたって抑圧された環境下の中では、抑圧されている人びとは自然に自己の尊厳を守るために‘置き換え’や‘すり替え’ができる思考になってしまっています。これは気づかなければ、そのまま過ごしているわけです。でも意識、あるいは無意識の領域には明らかにストレスがたまっているはずですので、管理職の中で急にうつになったり、バタッと倒れるような人が出てくるのだと思います。
職場での人格的な問題がある人びとによる理不尽な言動はいつの間にか立場的な行為として置き換えがなされ、容認、あるいは賛同されるようになってしまっているケースがあります。オフィシャルでない場ではその本質(地位でなく人格問題であること)は話し合われているのですが、オフィシャルな場ではまったくその話は息を潜めるのです。すなわち本質と向き合う力が極端に弱まってしまうのです。ですから、そういう場合、結果的にアンオフィシャルな裏工作でそういった問題を処理する作業が進んでいくのです。裏工作であったとしても問題解決ができればいいのですが、それさえもできない組織はもう致命的です。唯一そういった組織がことの本質に向き合う機会ができるとしたら、そういった問題が社会的に露呈される場合です。
産業界にしても教育界にしてもそういった問題の本質がわかる人は数多くいるのですが、それと向き合う力、あるいはそれを容易にできるシステムづくりが急がれます。企業ならコンプライアンス違反、教育界は体罰、いじめ問題、家庭ならDVから具体的な事件になって初めて問題の本質が明らかになるのです。
組織はなかなか本音と建前で動きますからとても難しい面がありますが、少なくとも個人においては自分の思考がものごとの本質から目を背けて自分の言動を正当化して周囲から信頼を失うということだけは避けたいものです。
したがって人間は傷つけられるような言動や理不尽な対応をされたときなどには、それを回避したり、断固として拒絶したりする意識がはたらき、自分を擁護したり正当化するような言動をとるわけです。会社の中にも学校の中、家庭の中でさえ、人間があつまり社会を形成するところでは必ずそういったやりとりがあるわけです。みなさんが会社などに勤めたり、所属しているコミュニティで活動されているなかで、そういった場面によく出くわすことがあると思います。
私の経験からちょっとお話ししますが、以前世話になった上司はとてもいい人で、上役の中にとても理不尽なことを言う人がいてその人への対応にいつも苦慮していました。実際、仕事とは関係のないあくまで個人的な感情を中心の言動をする人で、思いつきでなんでも指示命令をしてしまうような人でした。その上役に怒鳴られたり、目茶苦茶いじめられたり、それも怒鳴るにしても会議の場で見せしめのように怒鳴るのです。自分の上司がそこまで理不尽な対応をされることに気持ちのいい部下はいないと思います。でもだれもそれに対してどうこう言うことができないのです。すでにその人にもの申す人はいなくて、裸の王様状態になっていました。したがって無言の同調圧力の中で上司はペコペコしているだけという状況でした。そういった会議には基本的に私は参加しませんが、たまたま参加した会議の中でそういう状況であったことを知りました。
上司が怒鳴られたり、いじめられているのが常態化していて、一時期はうつ気味のときもありました。ところが上司のことを思って、その上役をいろいろやってつぶしますか(少々過激表現が多いですが…)と提案しても、上司はまったくそれにはのってこないのです。それは一つはあまりに抑圧されいじめられてきた内容が大きいのですでに学習性無力感の状態に至っているというのがひとつはあると思いました。そういうポジションだからというのです。したがって自分に非があるわけでもなく、上役のキャラに問題があるのは当然ですが、あくまでそういう地位にあるからだという訳のわからない説明をするのです。
みなさんは経験ありませんか。
「あんなに言われてなんで黙っているんですか?」
「明らかに変じゃないですか、はっきり言ってやったらいいですよ!」
「なんなら私たちがみんなで訴えますか?」
ここまで言ってものってこない上役に言われぱなしのダメ上司。
上司の話を聞いて部下たちは熱くなっているにもかかわらず、挙句の果てはいじめられている上役のことを擁護までするのです。そんな悪い人じゃないよとか、短気だけど言っていることは正論だとか、もうこの上司なに考えているのかと部下たちからは逆に信頼を失ってしまうようになりました。
そりゃそうです、さんざ上役の問題を聞かされて熱しているところに水をかける、部下からすればどうせそう考えるなら、あんたの心の中でうまく整理して終わりにしてよという話です。もし私が上司の立場なら一緒に闘おうとしてくれる部下の言葉が嬉しくていろいろ考え、クーデターのひとつでも企てるところですが、そうはならないのです。
ずっとそういう上司を理解できなかったのですが、よくよく考えると彼は彼なりに自分の人間としての尊厳を守り通そうと必死であったということです。それはとりあえず自分を立てて使っているのは上役なので、彼がそのポジションから外れるようにすることには言及しないのです。そうでありながらも自分の行動の足りなさは決して認めないというカタチでスルリスルリとものごとも本質からどんどんはずしながら、誰にも責任問題は追及しないというカタチをとるのです。これはある面日本社会のうまくやっていく人間関係やその立ち位置のありかたかもしれません。そして自分自身の尊厳も守られるのです。
怒鳴られても、いじめられても、自分に非があるわけでもなければ、相手も立場上そうしなければならないのだろうという理解は明らかにものごとの本質からは大きく外れています。私が経験した場合には明らかにその上役の人格的な問題があったわけです。でもそのことに誰も触れようとしないのです。社内のほとんどの人びとがそれがわかっているにもかかわらずです。もちろん被害を受けている当の本人自体が被害という認識から逃げているので周囲はもうそれ以上言うこともできないのです。
長い期間にわたって抑圧された環境下の中では、抑圧されている人びとは自然に自己の尊厳を守るために‘置き換え’や‘すり替え’ができる思考になってしまっています。これは気づかなければ、そのまま過ごしているわけです。でも意識、あるいは無意識の領域には明らかにストレスがたまっているはずですので、管理職の中で急にうつになったり、バタッと倒れるような人が出てくるのだと思います。
職場での人格的な問題がある人びとによる理不尽な言動はいつの間にか立場的な行為として置き換えがなされ、容認、あるいは賛同されるようになってしまっているケースがあります。オフィシャルでない場ではその本質(地位でなく人格問題であること)は話し合われているのですが、オフィシャルな場ではまったくその話は息を潜めるのです。すなわち本質と向き合う力が極端に弱まってしまうのです。ですから、そういう場合、結果的にアンオフィシャルな裏工作でそういった問題を処理する作業が進んでいくのです。裏工作であったとしても問題解決ができればいいのですが、それさえもできない組織はもう致命的です。唯一そういった組織がことの本質に向き合う機会ができるとしたら、そういった問題が社会的に露呈される場合です。
産業界にしても教育界にしてもそういった問題の本質がわかる人は数多くいるのですが、それと向き合う力、あるいはそれを容易にできるシステムづくりが急がれます。企業ならコンプライアンス違反、教育界は体罰、いじめ問題、家庭ならDVから具体的な事件になって初めて問題の本質が明らかになるのです。
組織はなかなか本音と建前で動きますからとても難しい面がありますが、少なくとも個人においては自分の思考がものごとの本質から目を背けて自分の言動を正当化して周囲から信頼を失うということだけは避けたいものです。
2013年5月9日木曜日
教育の現場に現れるモンスターペアレント③
私の経験からお話しすると、クレームは企業においては損失ではなく、チャンスであると考えます。なぜならば企業の商品に関して組織の外の視点からものを言ってくれるからなのです。そこには企業も商品も大きな成長しろができます。もちろんただそういったクレームをうのみにするのでなく、それは実際よく吟味して変えていけるところは取り入れて生かすことができます。クレームが企業側の商品自体に問題があるのかどうなのか、あるいは消費者の提案であることもあります。提案の場合はひとつの案として取り上げ参考にしますが、部分的最適化が全体を滅ぼすとあるように必ずしもその提案が市場全体を代表しているのではないことも肝に銘じておく必要があります。
またクレーム処理を担当するということは個人的にはコミュニケーション能力を高める最高のチャンスでもあります。クレーム処理は場数を踏むしかなかなかできるようになりません。ホントになれてくると逆にどんなことを消費者が言ってこようがでんと構えて堂々と対応することができるようになります。さらにそのレベルを越えていくと、こんな無理難題を言ってくるなんていったいどんなひとなんだろう。どういう育ち方をすればこういう人格にできあがるのだろうとその人自身にとても関心をもつということもあります。そこまで行くには相当心のゆとりがなければなりませんし、自分以外の他者に対する関心や愛情など人間的器も必要になってきます。実際クレームをよく言う人をクレーマーとレッテルを貼った段階でもうクレーム処理は負けてしまっている。すなわち受け取る側が壁をつくっているようなものだと思います。
学校側にいろいろ言ってくるものもクレームであるのか、提案であるのか一方的で自己中心的な要求であるのかを区別して考えなくてはなりません。もちろんモンスターペアレントと言われている人びとは圧倒的に無理難題の要求なのでしょうが。とりあえずいろいろ言ってくる人のその背後の意図をいかに読み取るかという問題になります。いずれにせよ、相手の言動に振り回されず確固たる態度を貫くことも重要です。あとはうまく相手の気持ちを察して理解し、人間的な関係を構築することができればもうほとんどは終結に向かっています。
モンスターペアレントになってしまっている(もちろん本人はそういう認識はないですが)親というのは何かが欠けているのです。ホントに愛情を受けて育った人は相手の気持ちも察し、相手に自分の都合のいい要求ばかりすることはありません。何か不自然なカタチで育ったか、性格的にいつもイライラしていたり、被害妄想が多いタイプであるかもしれません。相手を負かすという考え方は必要ありません。逆に負けることで勝てたりします。要は最初から負けてしまうという認識を持たないことが重要です。それはどういうことかと言うと相手を‘モンスターペアレント’とレッテルを貼った時点でその教師は自分の心の中に「怖い」「勝てない」「難しい」「自分には無理」といったすり込みをしてしまっているということです。そしてモンスターペアレントは加害者で自分は被害者という認識に立つことがすでにクレーム対応に大きな精神的負担を負わせてしまっているのです。企業の場合は明らかに消費者が被害者で、企業側はいつも加害者になる可能性という観点で顧客に対応するので丁寧に受容できる精神状態でクレーム処理に臨むことができるのです。
基本的に被害者意識も加害者意識も持たないほうが最高にいい結果を生みます。とくに教職員は親たちといっしょにより良い教育ができるように改善していきましょうという認識を持ってもらうことが大切です。今企業はどこも顧客をファン化するアプローチをしています。味方につけるということです。親をモンスターペアレントとみなしているレベルでは味方につけるどころか敵愾心を持たれてしまいます。まずクレーム対応をする側から心の壁を取り払っていくこと、どんなことでも受け止める精神的ゆとりが必要であると思います。
もちろん世の中にはとんでもない人はいるはずですし、到底手の施しようがない場合は当然しかるべき措置は必要です。いじめ問題や体罰などで学校に警察などの公権力を導入することはグローバル化してきた日本でも一つの案として選択肢から除外すべきでないということは付け加えておきたいと思います。
またクレーム処理を担当するということは個人的にはコミュニケーション能力を高める最高のチャンスでもあります。クレーム処理は場数を踏むしかなかなかできるようになりません。ホントになれてくると逆にどんなことを消費者が言ってこようがでんと構えて堂々と対応することができるようになります。さらにそのレベルを越えていくと、こんな無理難題を言ってくるなんていったいどんなひとなんだろう。どういう育ち方をすればこういう人格にできあがるのだろうとその人自身にとても関心をもつということもあります。そこまで行くには相当心のゆとりがなければなりませんし、自分以外の他者に対する関心や愛情など人間的器も必要になってきます。実際クレームをよく言う人をクレーマーとレッテルを貼った段階でもうクレーム処理は負けてしまっている。すなわち受け取る側が壁をつくっているようなものだと思います。
学校側にいろいろ言ってくるものもクレームであるのか、提案であるのか一方的で自己中心的な要求であるのかを区別して考えなくてはなりません。もちろんモンスターペアレントと言われている人びとは圧倒的に無理難題の要求なのでしょうが。とりあえずいろいろ言ってくる人のその背後の意図をいかに読み取るかという問題になります。いずれにせよ、相手の言動に振り回されず確固たる態度を貫くことも重要です。あとはうまく相手の気持ちを察して理解し、人間的な関係を構築することができればもうほとんどは終結に向かっています。
モンスターペアレントになってしまっている(もちろん本人はそういう認識はないですが)親というのは何かが欠けているのです。ホントに愛情を受けて育った人は相手の気持ちも察し、相手に自分の都合のいい要求ばかりすることはありません。何か不自然なカタチで育ったか、性格的にいつもイライラしていたり、被害妄想が多いタイプであるかもしれません。相手を負かすという考え方は必要ありません。逆に負けることで勝てたりします。要は最初から負けてしまうという認識を持たないことが重要です。それはどういうことかと言うと相手を‘モンスターペアレント’とレッテルを貼った時点でその教師は自分の心の中に「怖い」「勝てない」「難しい」「自分には無理」といったすり込みをしてしまっているということです。そしてモンスターペアレントは加害者で自分は被害者という認識に立つことがすでにクレーム対応に大きな精神的負担を負わせてしまっているのです。企業の場合は明らかに消費者が被害者で、企業側はいつも加害者になる可能性という観点で顧客に対応するので丁寧に受容できる精神状態でクレーム処理に臨むことができるのです。
基本的に被害者意識も加害者意識も持たないほうが最高にいい結果を生みます。とくに教職員は親たちといっしょにより良い教育ができるように改善していきましょうという認識を持ってもらうことが大切です。今企業はどこも顧客をファン化するアプローチをしています。味方につけるということです。親をモンスターペアレントとみなしているレベルでは味方につけるどころか敵愾心を持たれてしまいます。まずクレーム対応をする側から心の壁を取り払っていくこと、どんなことでも受け止める精神的ゆとりが必要であると思います。
もちろん世の中にはとんでもない人はいるはずですし、到底手の施しようがない場合は当然しかるべき措置は必要です。いじめ問題や体罰などで学校に警察などの公権力を導入することはグローバル化してきた日本でも一つの案として選択肢から除外すべきでないということは付け加えておきたいと思います。
教育の現場に現れるモンスターペアレント②
現在、全国の教職者のだいたい200人に一人がうつなどの精神疾患をわずらい休職状態にあるようです。東京都においては100人に一人がそのようです。その原因はつい最近話題となった「学級崩壊」などによりこどもたちが教師の言うことを聞かず、好き勝手な行動に出たり、あとは保護者とのさまざまな誤解やトラブルによるものなどがあるようです。もちろん一般企業でも精神疾患になる社員というのは多いわけで、産業カウンセラーや心療内科のお世話になる人びとは増え続けているという状況です。
マズローの欲求5階層説に照らし合わせても、経済が豊かになり、社会が成熟していくと逆に人間は内面的、精神面の問題が増えてくるようです。お隣の韓国でも若年層の自殺が問題になっていますし、学歴社会という社会が生み出したプレッシャーや社会的価値観についていけない状況が多くの若者を追い込んでいるということが見てとれます。日本ではナンバーワンよりオンリーワンを善しとし、学歴至上主義からはだいぶ解放された感じはありますが、就職氷河期と言われる時代が長きにわたって続いたため、社会不安が増大し若者のストレスも継続的にあると実感します。
団塊の世代はそれなりに経済の高度成長やバブル期の恩恵を受けてきたことと、競争社会を生き抜いてきたということで他の世代よりもかなりのパワーがあるように感じます。ただその次の世代はちょうど新人類世代という今までのものさしでは量れないかなり価値観に開きがある世代との間に挟まれサンドイッチ症候群のような状況下に置かれていることもあるかもしれません。ちょうど団塊の次の世代は現在学校で言うと校長や教頭といった役職にある方々です。
もともと「うつ」などの精神疾患になってしまう人は教職者に多いタイプの性格です。几帳面で真面目、そして責任感、正義感がつよく、人からも頼りにされるタイプが多く、教職者はとくに社会の模範というイメージで見られまたそうあるべきと自分を抑圧的に縛ってしまうタイプ(完璧主義)が多いと考えられます。また内面の弱みを見せず黙々と頑張る人ほどストレス状態が限界を越えるとそういった症状を引き起こすわけです。基本的にストレスが少ない人はストレス要因をつねに吐き出している人です。愚痴をこぼし、聞いてくれる人もいて、いい具合にバランスをとっている人です。
長年にわたって教職に携わってきた人も社会的な使命感や夢を描いて教職についた若い人も理想とする教育とはかけ離れた問題の多い教育現場の現実を目の当たりにして、自分の考える教育観との整合性を得るにはたいへんなストレスを感じざるえないことでしょう。もともと人間は最低の生活を体験した人は現状に満足して気楽に考えることができるかもしれませんが、最高の夢や理想を抱きながら教育の現場に入ってきた人はストレス以外の何ものでもありません。
こどもたちの教育現場での離反やモンスター化した親たちに対応するには、今では真面目一辺倒で穢れのないような先生にはかなり酷です。私が考えるに、そういった過酷な現場には修羅場を何度もくぐったような営業の叩き上げくらいの人がやっと対応できるのではないかと思います。勉強ばかりやってきて人の模範となるべく教職についた人はそういったアウトローな人びとに対する免疫はないので精神的には相当の苦痛を感じるはずです。実際の教育の現場に入るともともと抱いていたイメージとのギャップで苦しむことになるわけです。
こどもをちゃんと座らせて、教えるだけでもたいへんなのに、こどもの背後にもっとでかいこどもがいてこども以上に手ごわいこどもだったという話でしょうか。こどもよりももっと大人げない大人というのがモンスターペアレントだと考えると、今後の教職員の仕事はこどもの教育と同時に親の再教育かもしれません。いずれにせよ教育の現場ではこどもに勉強を教えるといったスキル以外のスキルが必要となっていることは間違いありません。
クレームは正しいもの、ごもっともということは多々ありますが、ただの言いがかりであったり、無理難題を言ってくるのはもうクレームというふうにひとくくりにはできないと思います。例えば、こどもが学校の授業についていけないから、家に来て勉強を教えて欲しいとか学校の教師という立場以上のことを要求されたりすることはこれはもう理不尽極まりない話だと思います。ただ社会的に価値観の多様化が進んでいる中で、一般の社会通念も逸脱したような人も多くいるわけで、そういった人びとに対してはきちっと対応できる企業のクレームマニュアルのようなものも学校という教育の現場にも必要かもしれません。
マズローの欲求5階層説に照らし合わせても、経済が豊かになり、社会が成熟していくと逆に人間は内面的、精神面の問題が増えてくるようです。お隣の韓国でも若年層の自殺が問題になっていますし、学歴社会という社会が生み出したプレッシャーや社会的価値観についていけない状況が多くの若者を追い込んでいるということが見てとれます。日本ではナンバーワンよりオンリーワンを善しとし、学歴至上主義からはだいぶ解放された感じはありますが、就職氷河期と言われる時代が長きにわたって続いたため、社会不安が増大し若者のストレスも継続的にあると実感します。
団塊の世代はそれなりに経済の高度成長やバブル期の恩恵を受けてきたことと、競争社会を生き抜いてきたということで他の世代よりもかなりのパワーがあるように感じます。ただその次の世代はちょうど新人類世代という今までのものさしでは量れないかなり価値観に開きがある世代との間に挟まれサンドイッチ症候群のような状況下に置かれていることもあるかもしれません。ちょうど団塊の次の世代は現在学校で言うと校長や教頭といった役職にある方々です。
もともと「うつ」などの精神疾患になってしまう人は教職者に多いタイプの性格です。几帳面で真面目、そして責任感、正義感がつよく、人からも頼りにされるタイプが多く、教職者はとくに社会の模範というイメージで見られまたそうあるべきと自分を抑圧的に縛ってしまうタイプ(完璧主義)が多いと考えられます。また内面の弱みを見せず黙々と頑張る人ほどストレス状態が限界を越えるとそういった症状を引き起こすわけです。基本的にストレスが少ない人はストレス要因をつねに吐き出している人です。愚痴をこぼし、聞いてくれる人もいて、いい具合にバランスをとっている人です。
長年にわたって教職に携わってきた人も社会的な使命感や夢を描いて教職についた若い人も理想とする教育とはかけ離れた問題の多い教育現場の現実を目の当たりにして、自分の考える教育観との整合性を得るにはたいへんなストレスを感じざるえないことでしょう。もともと人間は最低の生活を体験した人は現状に満足して気楽に考えることができるかもしれませんが、最高の夢や理想を抱きながら教育の現場に入ってきた人はストレス以外の何ものでもありません。
こどもたちの教育現場での離反やモンスター化した親たちに対応するには、今では真面目一辺倒で穢れのないような先生にはかなり酷です。私が考えるに、そういった過酷な現場には修羅場を何度もくぐったような営業の叩き上げくらいの人がやっと対応できるのではないかと思います。勉強ばかりやってきて人の模範となるべく教職についた人はそういったアウトローな人びとに対する免疫はないので精神的には相当の苦痛を感じるはずです。実際の教育の現場に入るともともと抱いていたイメージとのギャップで苦しむことになるわけです。
こどもをちゃんと座らせて、教えるだけでもたいへんなのに、こどもの背後にもっとでかいこどもがいてこども以上に手ごわいこどもだったという話でしょうか。こどもよりももっと大人げない大人というのがモンスターペアレントだと考えると、今後の教職員の仕事はこどもの教育と同時に親の再教育かもしれません。いずれにせよ教育の現場ではこどもに勉強を教えるといったスキル以外のスキルが必要となっていることは間違いありません。
クレームは正しいもの、ごもっともということは多々ありますが、ただの言いがかりであったり、無理難題を言ってくるのはもうクレームというふうにひとくくりにはできないと思います。例えば、こどもが学校の授業についていけないから、家に来て勉強を教えて欲しいとか学校の教師という立場以上のことを要求されたりすることはこれはもう理不尽極まりない話だと思います。ただ社会的に価値観の多様化が進んでいる中で、一般の社会通念も逸脱したような人も多くいるわけで、そういった人びとに対してはきちっと対応できる企業のクレームマニュアルのようなものも学校という教育の現場にも必要かもしれません。
教育の現場に現れるモンスターペアレント①
昨今、学校は児童、生徒の保護者のモンスター化に手を焼いているようです。給食費の未納にはじまり、卒業アルバムに自分のこどもがあまり写っていないとクレームをつけ、成績が悪いと教師のせいにして、とまああげたらきりがないほどとんでもないことを言ってくる親たちが増殖しているようです。成績が悪いのは遺伝です。あなたはそんなにできたんですかと訊くわけにもいかず、明らかにこの親にしてこの子ありと言える状況が多いのだと思います。
私が小中学校の頃は親が学校の教育に口を出すことは恥ずかしいというイメージでした。できるだけ授業参観も含め、親には学校に来てほしくないくらいに思っていましたが、どうやら最近はそうではないようです。もちろんPTAという組織があり、学校行事に親たちが昔よりたくさん駆り出される状況ができあがっているので、親たちのパワーもずいぶん強くなっているのかもしれません。すでに先生という言葉に威厳や尊敬の念という意味合いは消えてしまっていると思わざるをえません。私もこどもの学校に行ってみると、親たちと先生は友だち感覚でおしゃべりしているなんてのを垣間見たりします。今や先生という言葉は呼び名でしかありません。
このことは何を表しているのでしょうか。企業に遅れて、教育の現場にも大きなパラダイムシフトのときを迎えているのだということです。すなわち組織の在り方を変革する、そしてそのためには教職員の内省による自己変革がベースになければならない時代になってきているのではないかと痛感するのです。
一般企業では収益をあげなければならないという現実的な問題がつねにあります。収益が上がらない場合、徹底してその原因を見つけ出していかなくてはなりません。そうしたところ、結局マーケティング(市場のニーズを知る)から商品開発のアイディア(イノベーション)を出し、さらにそれを促進させるには組織風土改革まで行わなければならないという状況に至ります。背に腹は替えられない現実問題があるわけです。
日本では戦前の軍国主義の時代から民主化が実現されて、どんどん社会はフラット化してきました。今はテレビでもお笑い芸人が主流のバラエティ番組がゴールデンタイムは席巻しています。お笑いのポイントは非現実的アプローチであり、現実社会をアイロニーで笑い飛ばすところにあります。すなわち権力をもっている年長者にタメ口を平然と言ってかます。常識とは大きなギャップがある行動(本音ではみんなそうしたいこと)をすることで笑いを誘うのです。それは視聴者からすると解消には最高なのです。
団塊の世代は激しい競争社会を生きて上下関係もしっかりわきまえて、企業組織のヒエラルキーを空気を読みながら周囲とバランスをとって駆け上がって行った人びとです。それに追従したのがその次のシラケ世代です。団塊の世代がいるせいでシラケ世代は重要なポストはなかなかもらえず半ばあきらめの心境、惰性で上の世代に従ってきた感じがあります。その次の50代前半から40代に人びとは新人類世代と呼ばれ、より上の世代の出世競争に辟易とし、独自路線をとることやポストよりも仕事の中身で勝負するタイプが増えてきました。
新人類世代は会社にそれほどコミットせず、企業横断的なスキルを持ち、待遇がいいところがあれば平気で転職を考えます。この会社に骨をうずめてなんて考えはほとんどありません。でもそういった考え方のほうが会社が生き残れるのです。上の世代はその会社愛ゆえに会社をダメにしたという事実もあります。まさにホントに会社のことを思うならば、会社人間になって組織の中に埋没するのではなく、ある面冷めた目で会社全体を客観視したり、俯瞰するというパラドクシカルな経営や組織の運営が必要となってきます。これはこどもに執着しすぎるとこどもをスポイルして自立を遅らせてしまうということにも似ています。
こういった新人類世代がマスメディアを動かしているので、視聴者ごころをよくとらえた番組づくりができていると言っても過言ではないと思います。バラエティが好きかどうか、もちろん賛否両論ありますが、やはりお茶の間を笑いの渦に巻き込んでしまう手法はすごいのです。特別面白そうなところは繰り返し見せたり、面白いトークには必ずテロップをつけて、これでもかこれでもかと視聴者の本音の部分にぐいぐい入ってきます。おそらくこういったセンスある手法があって視聴者もスポンサーも取り込むことができているのだと思います。
また新人類世代は上司や上役に対してただ単に年上というだけでのリスペクトはありません。また権威や権力には団塊、シラケ世代のやり取りを見て嫌悪感もあるので、地位よりは仕事ができるかどうか才能がある人に対するリスペクトは当然あります。したがって上司だからというものさしでなく、この人と組めば、あるいはこの人のもとで働くならば自分を生かせるという観点から従うということはあります。新人類世代以降の世代はさらに会社にも地位にもコミットしないので、仕事そのものに愛着があれば続ける人びとです。
企業ではそういう観点で経営者や管理職の人びとは地位があるからなどと甘えていては部下はだれもついてこない状況に至っています。そういった現実を早期に受け止め、考え方のフレームを改めた経営者や上司がたくさんいる企業が生き残っているのです。すなわち既存の管理手法から大きくパラダイムシフトを行えた企業が強いのです。モノをつくれば売れた時代は殿様商売ができたかもしれませんが、モノが市場にあふれて飽和状態になっている今では、マーケティングの手法でより顧客満足を推進しなければならない状況になりました。さらに核心部分に踏み込めば、イノベーション(技術革新や商品開発、そのアイディアなど)を起こすためにはフラットな職場環境による従業員満足まで必要となってくるという話です。
こういった考え方は昨今の教育現場にも必要とされ始めているのではないかということを痛感します。教職員の組織は互いを先生と呼び合い、親しき仲にも礼儀ありという日本的文化が残っている感じでいいイメージはあるのですが、逆に遠慮があり、一般企業ほど人間関係を深めるということは容易ではない感じを受けます。毎回問題が起きて初めて、教頭や校長が当事者の教師にブリーフィングを行うという現状が記者会見などを通じて見受けられます。やはりヒエラルキー組織であることでより部下の状況把握が厳しいというのが実情ではと思います。でさらに把握できないのが先生と生徒の関係です。それで毎回、いじめられているとは知らなかったという担任教師のコメントが出てくるのです。
教育の現場も一般企業と同じでそろそろ保護者へのアプローチを変えなければならない時期にきていると思います。企業は努力しなければ経営が危ぶまれます。でも学校、特に公立の学校はそういった努力をそんなにしなくてもある程度は生徒数は目途がたち、保証されています。すでに私立の学校は保護者を半ば顧客という観点でとらえる考え方に大きくシフトしています。私立大学などは生き残りをかけて大学の先生は高校に赴き営業活動を行っています。教育環境の充実は顧客である学生満足であるわけです。そして学費を出す親たちにそれをアピールするわけです。
実はモンスターペアレントの発生はその親自身の問題だけでなく、学校組織の運営自体にも少なからず問題があると考えられます。社会全体の思考が大きく変わってきている中、企業はどんどん変わって生き残ってきましたが、そのことは教育界にも昔のままでは対応できないよという一石をモンスターペアレントという存在が投じているのかもしれません。実はモンスター化した親たちに変われといっても難しいのですが、それに対応する学校側が変わることはある面可能です。それによって大きく状況を変えていくことができると思います。
私が小中学校の頃は親が学校の教育に口を出すことは恥ずかしいというイメージでした。できるだけ授業参観も含め、親には学校に来てほしくないくらいに思っていましたが、どうやら最近はそうではないようです。もちろんPTAという組織があり、学校行事に親たちが昔よりたくさん駆り出される状況ができあがっているので、親たちのパワーもずいぶん強くなっているのかもしれません。すでに先生という言葉に威厳や尊敬の念という意味合いは消えてしまっていると思わざるをえません。私もこどもの学校に行ってみると、親たちと先生は友だち感覚でおしゃべりしているなんてのを垣間見たりします。今や先生という言葉は呼び名でしかありません。
このことは何を表しているのでしょうか。企業に遅れて、教育の現場にも大きなパラダイムシフトのときを迎えているのだということです。すなわち組織の在り方を変革する、そしてそのためには教職員の内省による自己変革がベースになければならない時代になってきているのではないかと痛感するのです。
一般企業では収益をあげなければならないという現実的な問題がつねにあります。収益が上がらない場合、徹底してその原因を見つけ出していかなくてはなりません。そうしたところ、結局マーケティング(市場のニーズを知る)から商品開発のアイディア(イノベーション)を出し、さらにそれを促進させるには組織風土改革まで行わなければならないという状況に至ります。背に腹は替えられない現実問題があるわけです。
日本では戦前の軍国主義の時代から民主化が実現されて、どんどん社会はフラット化してきました。今はテレビでもお笑い芸人が主流のバラエティ番組がゴールデンタイムは席巻しています。お笑いのポイントは非現実的アプローチであり、現実社会をアイロニーで笑い飛ばすところにあります。すなわち権力をもっている年長者にタメ口を平然と言ってかます。常識とは大きなギャップがある行動(本音ではみんなそうしたいこと)をすることで笑いを誘うのです。それは視聴者からすると解消には最高なのです。
団塊の世代は激しい競争社会を生きて上下関係もしっかりわきまえて、企業組織のヒエラルキーを空気を読みながら周囲とバランスをとって駆け上がって行った人びとです。それに追従したのがその次のシラケ世代です。団塊の世代がいるせいでシラケ世代は重要なポストはなかなかもらえず半ばあきらめの心境、惰性で上の世代に従ってきた感じがあります。その次の50代前半から40代に人びとは新人類世代と呼ばれ、より上の世代の出世競争に辟易とし、独自路線をとることやポストよりも仕事の中身で勝負するタイプが増えてきました。
新人類世代は会社にそれほどコミットせず、企業横断的なスキルを持ち、待遇がいいところがあれば平気で転職を考えます。この会社に骨をうずめてなんて考えはほとんどありません。でもそういった考え方のほうが会社が生き残れるのです。上の世代はその会社愛ゆえに会社をダメにしたという事実もあります。まさにホントに会社のことを思うならば、会社人間になって組織の中に埋没するのではなく、ある面冷めた目で会社全体を客観視したり、俯瞰するというパラドクシカルな経営や組織の運営が必要となってきます。これはこどもに執着しすぎるとこどもをスポイルして自立を遅らせてしまうということにも似ています。
こういった新人類世代がマスメディアを動かしているので、視聴者ごころをよくとらえた番組づくりができていると言っても過言ではないと思います。バラエティが好きかどうか、もちろん賛否両論ありますが、やはりお茶の間を笑いの渦に巻き込んでしまう手法はすごいのです。特別面白そうなところは繰り返し見せたり、面白いトークには必ずテロップをつけて、これでもかこれでもかと視聴者の本音の部分にぐいぐい入ってきます。おそらくこういったセンスある手法があって視聴者もスポンサーも取り込むことができているのだと思います。
また新人類世代は上司や上役に対してただ単に年上というだけでのリスペクトはありません。また権威や権力には団塊、シラケ世代のやり取りを見て嫌悪感もあるので、地位よりは仕事ができるかどうか才能がある人に対するリスペクトは当然あります。したがって上司だからというものさしでなく、この人と組めば、あるいはこの人のもとで働くならば自分を生かせるという観点から従うということはあります。新人類世代以降の世代はさらに会社にも地位にもコミットしないので、仕事そのものに愛着があれば続ける人びとです。
企業ではそういう観点で経営者や管理職の人びとは地位があるからなどと甘えていては部下はだれもついてこない状況に至っています。そういった現実を早期に受け止め、考え方のフレームを改めた経営者や上司がたくさんいる企業が生き残っているのです。すなわち既存の管理手法から大きくパラダイムシフトを行えた企業が強いのです。モノをつくれば売れた時代は殿様商売ができたかもしれませんが、モノが市場にあふれて飽和状態になっている今では、マーケティングの手法でより顧客満足を推進しなければならない状況になりました。さらに核心部分に踏み込めば、イノベーション(技術革新や商品開発、そのアイディアなど)を起こすためにはフラットな職場環境による従業員満足まで必要となってくるという話です。
こういった考え方は昨今の教育現場にも必要とされ始めているのではないかということを痛感します。教職員の組織は互いを先生と呼び合い、親しき仲にも礼儀ありという日本的文化が残っている感じでいいイメージはあるのですが、逆に遠慮があり、一般企業ほど人間関係を深めるということは容易ではない感じを受けます。毎回問題が起きて初めて、教頭や校長が当事者の教師にブリーフィングを行うという現状が記者会見などを通じて見受けられます。やはりヒエラルキー組織であることでより部下の状況把握が厳しいというのが実情ではと思います。でさらに把握できないのが先生と生徒の関係です。それで毎回、いじめられているとは知らなかったという担任教師のコメントが出てくるのです。
教育の現場も一般企業と同じでそろそろ保護者へのアプローチを変えなければならない時期にきていると思います。企業は努力しなければ経営が危ぶまれます。でも学校、特に公立の学校はそういった努力をそんなにしなくてもある程度は生徒数は目途がたち、保証されています。すでに私立の学校は保護者を半ば顧客という観点でとらえる考え方に大きくシフトしています。私立大学などは生き残りをかけて大学の先生は高校に赴き営業活動を行っています。教育環境の充実は顧客である学生満足であるわけです。そして学費を出す親たちにそれをアピールするわけです。
実はモンスターペアレントの発生はその親自身の問題だけでなく、学校組織の運営自体にも少なからず問題があると考えられます。社会全体の思考が大きく変わってきている中、企業はどんどん変わって生き残ってきましたが、そのことは教育界にも昔のままでは対応できないよという一石をモンスターペアレントという存在が投じているのかもしれません。実はモンスター化した親たちに変われといっても難しいのですが、それに対応する学校側が変わることはある面可能です。それによって大きく状況を変えていくことができると思います。
2013年4月28日日曜日
結果よりもプロセスを楽しむということ
最近、また気づいたことですが、モチベーションがなんとなく下がってしまう原因のひとつにやってもやっても結果が出ないということがあります。それで普段の生活の中でそのことに気づかず過ごしていたということに気づいたのです。そうです、何か力が出ない原因は投入したことに対してそれにふさわしい結果が与えられていないということであったのです。
スポーツの世界ならスランプに陥っているという状態なのかもしれません。それで、もがき苦しみながらなんとか結果を出そうと頑張るということになるわけです。ただスポーツの世界ならば、ある面単純で、その結果を判断材料にどこが悪いのかメンタル面もふくめて徹底して分析し、また専門家であるコーチや監督に相談して結果が出るように頑張ればいいわけです。
私たちは普段の生活の中で会社の仕事だけでなく、いろいろなことに取り組むと気楽に始めて、やりまくるわけですが、やはり結果が出ないといつの間にかそのことに関心が行かなくなったり、あきらめたり途中辞めになってしまったりします。モノを売るとしても、やっぱり市場のニーズがなかったのかなとか、みんなこういうものには関心ないんだとか思って投げ出してしまうわけです。
そういう中で気づいたことは、以前営業の仕事をしていたとき、やってもやっても結果が出ず、もう嫌気がさすぐらい嫌になったところで思い返し、とても大きな結果が出たという体験があったのです。それは
「もう結果はずっと出なくていいや、自分がこの仕事を好きで、楽しめばいいんだ。とにかく結果は一切気にせず、この仕事を楽しもう!」
という気持ちになったときのことでした。完全にふっ切れて何かスッキリとした気持ちで再出発したのです。そうしたところ、市場の状況が大きく変わっていったのです。会う人会う人、大きな案件が成立し始めたのです。これには他の誰でもない自分自身がとても驚きました。今思うと、完全に自分の気持ちが変わることによって、顧客の受け止め方も大きく変わったのだと思います。おそらく、そこで少しでも結果を求める下心があるならば、きっと契約は成立せず、同じように結果の出ない日々が続いていたに違いありません。(これは恋愛に関しても言えることですが、それは機会があれば…)
精神的にふっ切れたり、割り切れたりしたら心はスッキリとしますし、大きく気持ちの上でラクになるのです。ですから相手に対して、ある面ハッキリと言うべきところは言えるし、しつこく食い下がるといった相手の気持ちを害するような言動もなくなります。なぜなら結果はどうでもいいからなのです。おそらく営業がうまくいかないという人に多いのは自分の力技でやろうとしているところだと思います。そこに上司からの圧力があれば尚更追い込まれますから結果に執着するようになり、よけいに結果は出なくなるのです。
結果なんかどうでもいいという気持ちで相手との交渉を楽しめれば、きっと相手も気持ちよく提案に応じてくれるはずです。結果が出るかどうかはあくまでこちらの都合であって、相手には何も関係ないからです。心の中でこちらの都合を意識した交渉はうまく行くはずがありません。やはり人間は感情をもつ動物です。こちらの一方的な自己中心的意識は空気として必ず伝わっていくはずです。無私の思いで相手を喜ばせよう、利益を提供しようという意識のみが相手に感動を呼び起こし、自分を受け入れてもらえるきっかけとなるのです。
よく結果に責任を持てなんていう人がいますが、ホントに結果に責任を持とうと思ったら、ある面、結果に一切関心を持たないで営業プロセスを楽しめるかどうかというたいへんパラドクシカルな思考がそこには必要となってくるのです。すなわちカタチだけでない心からあふれてくるような利他的思考こそが結果をもたらしてくれる原因なのです。
営業の統括責任者として立っているような人はそういった部下の精神的な動きを見抜くことができなければホントの意味で営業、販売指導などはスキルだけに終始し、ますます負のスパイラルに入ってしまうのです。そして部下に結果が出ないといって圧力をかけたりするとコンプライアンスの問題まで引き起こす結果となるかもしれません。昔のようにモノを提供すればすぐ購入するような時代ではないのです。そういう時代は自然に結果が出るのでストレスもなく、結果にもそれほど執着せず楽しみながら営業できたはずですが、モノがあふれている今の時代は全く市場環境も違うし、心のゆとりも無くなってきているのです。
結論として言えること、それはすべての言動の源泉となるものはやはり利他的愛情に他ならないということにつきるのです。もちろんそういった意識転換がなされた上でやり続け、それでも結果が伴わないとするならば、当然市場のニーズと関係のないものを提供し続けているとか、価格の面が問題だとか、パッケージがどうだとか商品自体の問題や流通ルート、すなわち訴求先自体が間違っていたのではないかというさまざまな疑問を持つことは重要で、それに気づかない上司や経営者、会社はまた違った意味で致命的なのです。
スポーツの世界ならスランプに陥っているという状態なのかもしれません。それで、もがき苦しみながらなんとか結果を出そうと頑張るということになるわけです。ただスポーツの世界ならば、ある面単純で、その結果を判断材料にどこが悪いのかメンタル面もふくめて徹底して分析し、また専門家であるコーチや監督に相談して結果が出るように頑張ればいいわけです。
私たちは普段の生活の中で会社の仕事だけでなく、いろいろなことに取り組むと気楽に始めて、やりまくるわけですが、やはり結果が出ないといつの間にかそのことに関心が行かなくなったり、あきらめたり途中辞めになってしまったりします。モノを売るとしても、やっぱり市場のニーズがなかったのかなとか、みんなこういうものには関心ないんだとか思って投げ出してしまうわけです。
そういう中で気づいたことは、以前営業の仕事をしていたとき、やってもやっても結果が出ず、もう嫌気がさすぐらい嫌になったところで思い返し、とても大きな結果が出たという体験があったのです。それは
「もう結果はずっと出なくていいや、自分がこの仕事を好きで、楽しめばいいんだ。とにかく結果は一切気にせず、この仕事を楽しもう!」
という気持ちになったときのことでした。完全にふっ切れて何かスッキリとした気持ちで再出発したのです。そうしたところ、市場の状況が大きく変わっていったのです。会う人会う人、大きな案件が成立し始めたのです。これには他の誰でもない自分自身がとても驚きました。今思うと、完全に自分の気持ちが変わることによって、顧客の受け止め方も大きく変わったのだと思います。おそらく、そこで少しでも結果を求める下心があるならば、きっと契約は成立せず、同じように結果の出ない日々が続いていたに違いありません。(これは恋愛に関しても言えることですが、それは機会があれば…)
精神的にふっ切れたり、割り切れたりしたら心はスッキリとしますし、大きく気持ちの上でラクになるのです。ですから相手に対して、ある面ハッキリと言うべきところは言えるし、しつこく食い下がるといった相手の気持ちを害するような言動もなくなります。なぜなら結果はどうでもいいからなのです。おそらく営業がうまくいかないという人に多いのは自分の力技でやろうとしているところだと思います。そこに上司からの圧力があれば尚更追い込まれますから結果に執着するようになり、よけいに結果は出なくなるのです。
結果なんかどうでもいいという気持ちで相手との交渉を楽しめれば、きっと相手も気持ちよく提案に応じてくれるはずです。結果が出るかどうかはあくまでこちらの都合であって、相手には何も関係ないからです。心の中でこちらの都合を意識した交渉はうまく行くはずがありません。やはり人間は感情をもつ動物です。こちらの一方的な自己中心的意識は空気として必ず伝わっていくはずです。無私の思いで相手を喜ばせよう、利益を提供しようという意識のみが相手に感動を呼び起こし、自分を受け入れてもらえるきっかけとなるのです。
よく結果に責任を持てなんていう人がいますが、ホントに結果に責任を持とうと思ったら、ある面、結果に一切関心を持たないで営業プロセスを楽しめるかどうかというたいへんパラドクシカルな思考がそこには必要となってくるのです。すなわちカタチだけでない心からあふれてくるような利他的思考こそが結果をもたらしてくれる原因なのです。
営業の統括責任者として立っているような人はそういった部下の精神的な動きを見抜くことができなければホントの意味で営業、販売指導などはスキルだけに終始し、ますます負のスパイラルに入ってしまうのです。そして部下に結果が出ないといって圧力をかけたりするとコンプライアンスの問題まで引き起こす結果となるかもしれません。昔のようにモノを提供すればすぐ購入するような時代ではないのです。そういう時代は自然に結果が出るのでストレスもなく、結果にもそれほど執着せず楽しみながら営業できたはずですが、モノがあふれている今の時代は全く市場環境も違うし、心のゆとりも無くなってきているのです。
結論として言えること、それはすべての言動の源泉となるものはやはり利他的愛情に他ならないということにつきるのです。もちろんそういった意識転換がなされた上でやり続け、それでも結果が伴わないとするならば、当然市場のニーズと関係のないものを提供し続けているとか、価格の面が問題だとか、パッケージがどうだとか商品自体の問題や流通ルート、すなわち訴求先自体が間違っていたのではないかというさまざまな疑問を持つことは重要で、それに気づかない上司や経営者、会社はまた違った意味で致命的なのです。
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