アメリカの経営学の学者ピーターセンゲによって最強組織は学習する組織であるとの認識は日本でも広まったわけですが、やはり学習しない人の集まり、学習しない経営者や上司をもった社員や部下もたいへんです。
最近、理想の上司アンケートの一位は池上彰さんとなったようですが、私もそれには大いに納得されます。まず知識の豊富さに加え、説明能力の高さ、部下の立場からすると、納得できる的確な指示を出してくれそうだし、なおかつ部下の意見にもちゃんと耳を傾け、具体的にそれに対してもちゃんと理解した上で正論を述べてくれそうです。
最近の残念な上司はとにかく指示があいまいで、責任の所在もあいまい、とにかく部下からはどうしてほしいのか、どう行動すべきなのかわからないということで困惑してしまいます。今はマネジメントに関してやリーダーシップ、そして部下のモチベーション管理などいくらでもそういった書物や資料、インターネットを検索するだけでも膨大な参考資料を手に入れることができます。そういう時代であるにもかかわらず、全く従来の旧い考えで思考、行動し、部下や社員たちには見限られている経営者や上司もたくさんいます。
私は通勤中はなるべく本を読むか、MP3プレイヤーなどでさまざまな講演や有識者による討論なんかを聞いて見識を広げようとしています。そしてそういったことに関心のある人には紹介し、本を読んでくれて、これすごく良かったよなんて言われるととても共感してもらったことに喜びを感じます。私としては会社や組織に問題が多いほど、学習意欲が高められ、なぜこうなんだろうという疑問がいろいろな媒体を通じて解決できたときには何とも言えない満足感を得られます。そしてもちろん解決できるような問題なら、学習したことを生かして解決に向かって努力しますが、これは努力しても無駄だということもわかれば、問題に対する自分のスタンスをどうとるかもある程度はっきりしてきます。
私の経験上思うことですが、仕事ができる人は仕事人間で、趣味もあまりなく、プライベートもほとんどなく仕事だけに没頭するようなタイプが確かに多いのです。いっしょに飲みに行ってもいつの間にか仕事の話になってしまいます。確かに仕事が好きだということはいいことなのですが、そういう人は新しいことを考えることがなかなかできないのだということを実感します。要するに仕事だけに依存したような生活でそこには経路依存の考え方しかできないのです。すなわちシングルループな考え方しかできず、いつも同じ領域でしか考えることができないのです。いつの間にか同じ思考経路から短絡的なものの見方しかできず、自分と自分を含めた仕事環境を客観的に見つめたり俯瞰したりするといった選択肢そのものがない状況になってしまっているのです。またダブルループ学習と言われるようにより抽象度をあげたりものごとの核心にせまるといったことができなくなってしまっているのです。
わかりやすく説明しますと、例えばモノが売れない→やる気がないという観点だけでいつも精神論だけで社員をあおり動かそうとする経営者や上司がいたりします。でも問題はそこだけではなかったりします。売れないモノを売ろうとしているとか、価格がネックになっているとか、そもそも売るための販路が必要だが、閉鎖的な市場で問屋がすべて握っていてコネがなければ入れないとか、さまざまな問題があったりします。そうなると商品開発が重要になったり、あるいはそこに市場がないとか需要がなければ、業態替えなんてウルトラCも考えなければならないかもしれません。
とにかく組織のトップや上司の立場にある人で学習しない人は、その組織は致命的です。そこにいる社員や部下で学習する人は学習すればするほど、悩み、葛藤する可能性もあります。学習しない経営者や上司でも素直で社員や部下の言うことをある程度聞ける人なら学習する社員や部下はある程度会社、組織を理想的な方向にもって行ける可能性はあるでしょう。また働いても働き甲斐があるというものです。
学習するということは可能性の幅を広げてくれる行為です。またいろいろな人とつきあったり、趣味やプライベートを充実させることは人間としての器を広げ、なおかつ精神的なゆとりも得ることができます。そして仕事だけに軸足を置かないことこそが仕事へのより効率的なアプローチを可能にしてくれるのです。仕事で焦ったり、うまくいかなくてイライラしているときほど木を見て森を見ずという状況になっていますから、一旦仕事から離れて考えてみるということが重要になります。
このPSIのブログを毎回読んでいただいている方々には敬服いたします。こんな長い内容を忍耐強く毎回読んでいただいているわけですから。とても学習意欲が高く知的欲求が深い方だと思います。みなさんの会社には学習することが好きな人はどれくらいいますか。今思うと、私は大学院でディベートしていた時間がとても懐かしく思い出されます。そのときは指導教諭も含め学生みんなで結論を導き出すプロセスはとても生産的で知的好奇心を最高に満足させてくれます。でも会社に戻ると学習意欲のある人と、全く学習せず従来の思考と行動から脱却できない人との間には接点を見出すことがなかなか困難でそれを埋める方法は妥協であったり、相手の領域には立ち入らないという事なかれ主義的なアプローチでしかないように感じます。通約不可能性(まったく違うパラダイムをもった人とは通じることはない)は学習することである程度解消することはできると思うのですが、問題は学習に対する意欲であったり、必要性を感じるかどうかや、また学習のプロセスで理解できる柔軟な思考やなるべくバイアスを排除したフレームワークといったものが必要であると思います。
社内で学習意欲があってセンスのある人はいずれ組織改革に取り組むときにはいっしょに行動できる人かもしれません。自分だけでなく、多くの人に学習の輪を広げていきましょう。またもしよろしければこのブログ同僚や上司、部下、さまざまな方々にご紹介いただければ幸いです。なぜならその人を学習させ成長させようと思うなら、面と向かって教えるというアプローチより同じ立場でいっしょに学習してもらう環境を整えるほうがより効率的ですから。
かけがえのない人生、大切な人に伝えましょう!トラックバックも大歓迎。しあわせの輪をひろげていきましょう!
2013年3月29日金曜日
2013年3月28日木曜日
経営者、上司の姿勢
先日、ワールドカップ予選のヨルダン戦での敗北に対してザッケローニ監督が選手やサポーターにとった行動が記事になっていました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130328-00000020-spnannex-socc
試合の敗北が自分にあったと認め、謝罪したということです、もちろんサポーターたちはそうではないと否定しさらに「ニッポン」コールで盛り上がったという話です。WBCのときも内川選手のダブルスチールの失敗に対しても山本監督が采配ミスを認め、すぐに彼を擁護してほしかったというのがあります。最近、残念な上司にあげられるひとつが、指示があいまいだということがあるようです。なんでも自立型で状況に任せて選手に一任するというのも、それこそ状況によっては違う場合もあると思います。
話がちょっとそれてしまいましたが、ザック監督のとった行動に組織のトップや上位者のあるべき姿をみせてもらった気がします。彼は日本人の性格をよく見抜いての行動なのか、あるいは彼の経歴上あまり権威やパワーで統率するという手法を用いないのかもしれませんが、いずれにせよ選手もサポーターも彼の言動によりモチベーションは上がったのではないかと思いました。
ダメになる会社は結構、独裁的で経営者や上層部の力が強く、その指示通りに行動した結果、収益ダウンどころか負債を負ってしまったり、ひどい場合は背任行為じゃないのと言えるような状況になっていることが多々あります。私の知っている会社でも経営者が誰が見ても売れないという商品を膨大な数量仕入れ、結局売れずに在庫を抱えることになって、社員はその問題を訴えても全くその経営者は悪びれず、むしろ売る力がないと社員を責めていたりします。社員たちは仕入れる段階でその商品はもう旬を過ぎて無理だと訴えたのですが、経営者の独断で決めてしまうので、それを止めることはできなかったというのです。おまけにその経営者の側近もなにも言えない状況になっているので社員は手をこまねいて見ているしかないという状況でした。
経営者や上司が指示や行動が間違っていたという意思表示は問題に対してみんなで解決していこうという雰囲気を作り出します。経営者や上司という組織の上位者たちは、自ら謝罪しても組織の成員は絶対にそれを激しく追及することはしません。むしろ、自分の非を認めたその姿勢に感動し温かく迎えるのです。勇気をもって自分の非を認める、それこそがいさぎよい侍魂なのかもしれません。日本人は自分の非を認めたり、あるいは落ち込んでいる人をさらに追い込むようなことはしません。弱い者いじめをするのは相当屈折した人生を生きて、自分勝手で自己中なやくざな人たちだけです。
平素から社員や組織の成員に、フラットにつきあい、ちゃんと自分の非を認めるような経営者や上司はみんなから受け入れられ、信頼もありますから問題が起こった時には、誰かを犯人に仕立て上げて追及するといった方向ではなく、みんなで考えて問題に対処するという状況になります。でも普段独裁的な手法をとり、さまざまな方針を打ち出して、うまくいかないとき社員のせいや環境のせいにして自分の非を認めない経営者や上司は裏では社員たちに相当の陰口をたたかれ、そういう状況をなんとなく空気で感じているので、ますますそういった独裁経営者や上司は意固地になって部下にツッコまれないようにさらに頑固な人間になっていくのです。
もしそういう状況ではないかとこのブログを読んで感じる経営者や上司の立場の人がおられれば、そろそろ部下へのアプローチを変えていままでの硬直した上司部下関係の雪解けを図ってみるというのを提案します。独裁が強ければ強いほど、効果は大きいのです。ただそれで満足してはいけません。社員や部下たちはその後の経営者、上司の言動をチェックしているのです。ホントにこの人は反省したのだろうか、変わったのだろうか、一時的に気分屋な性格でたまたまそのときだけでなかったのかといろいろ考えます。
あるいはあまりにひどい独裁をしてきた経営者や上司の場合は急にやさしくアプローチしてもすでにパラドックスが生じ、やさしい言動の背後に何か意図があって騙されてはいけないぞという姿勢に社員や部下はなっているかもしれません。
またカリスマ経営者とか言われている人もかなり危うい内容もあるということを認識すべきです。周囲からカリスマと言われればその経営者は自分はカリスマだとすり込まれているのと同じなので、いつの間にか失敗はできない、ありえないというふうに自分を追い込んでいくのです。したがって失敗しているように見えても絶対非を認めないという意識になってしまいます。いつの間にかカリスマは教祖と化し、とんでもない行動までも正当化するフレームをつくりあげ、社員や部下たちに有無を言わせない圧力での管理をし始めるのです。私は自分の非を認めない組織のトップとそれを容認している組織の成員で構成されている組織はもうすでにカルト教団のようなものだと考えています。もう社会の監視が届かない密室の新興宗教のような組織であると思えてしかたありません。
とにかく、経営者や上司という立場にいる方で、このブログを見てくださっている方がいらっしゃれば、考えていただきたい問題です。組織の上位者で60歳くらいまでの方はよく自分を客観的に見て、自分のマネジメント方法を見直すことをしていただきたいのものです。これがさらに高齢でそういう立場に立っている人は注意しなければならないのは、すでに脳の前頭前野が退化することでもう理性が利かない状況になっている場合があるということです。いまだに企業では高齢で怒鳴り散らす経営者や役員など、聞いた話では結構いるようです。70を越えたおじいさんになんであんなに若い役員や取り巻きが何も言えないんだろうと外から見るととても不思議なのですが、今の高齢の人の中にはますます元気で頑固で人の言うことは聞かないという人も増えているのです。もちろん個人差はありますので一概には言えませんが、ここでご紹介したのは一例ですが、実際にある組織です。
日本では老いては子に従いなんて言葉がありますが、引き際の美学ということも考える価値があります。私は決して高齢者を非難しているわけではありません。ただ老いによるさまざまな機能低下も経営の現場では大きくマイナスに振れる可能性もあるということを認識することは重要だと言っているのです。歳をとって丸くなるのではなくさらに先鋭化するという話もあります。若いころ、とがっていたのと性質が違うのです。歳をとってとがっているのは、理性が利かないわがままなとがり方になっている場合が往々にしてあるので、注意すべきです。20代、30代でとがっていたのが、経験で丸くなるのですが、丸かったのがさらに40代、50代でさまざまな人間関係のしがらみを経験しながら、権力も持つようになると、60代、70代ではとんでもないわがまま自己中老人と化してしまう危険性を秘めていることをよく認識すべきです。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130328-00000020-spnannex-socc
試合の敗北が自分にあったと認め、謝罪したということです、もちろんサポーターたちはそうではないと否定しさらに「ニッポン」コールで盛り上がったという話です。WBCのときも内川選手のダブルスチールの失敗に対しても山本監督が采配ミスを認め、すぐに彼を擁護してほしかったというのがあります。最近、残念な上司にあげられるひとつが、指示があいまいだということがあるようです。なんでも自立型で状況に任せて選手に一任するというのも、それこそ状況によっては違う場合もあると思います。
話がちょっとそれてしまいましたが、ザック監督のとった行動に組織のトップや上位者のあるべき姿をみせてもらった気がします。彼は日本人の性格をよく見抜いての行動なのか、あるいは彼の経歴上あまり権威やパワーで統率するという手法を用いないのかもしれませんが、いずれにせよ選手もサポーターも彼の言動によりモチベーションは上がったのではないかと思いました。
ダメになる会社は結構、独裁的で経営者や上層部の力が強く、その指示通りに行動した結果、収益ダウンどころか負債を負ってしまったり、ひどい場合は背任行為じゃないのと言えるような状況になっていることが多々あります。私の知っている会社でも経営者が誰が見ても売れないという商品を膨大な数量仕入れ、結局売れずに在庫を抱えることになって、社員はその問題を訴えても全くその経営者は悪びれず、むしろ売る力がないと社員を責めていたりします。社員たちは仕入れる段階でその商品はもう旬を過ぎて無理だと訴えたのですが、経営者の独断で決めてしまうので、それを止めることはできなかったというのです。おまけにその経営者の側近もなにも言えない状況になっているので社員は手をこまねいて見ているしかないという状況でした。
経営者や上司が指示や行動が間違っていたという意思表示は問題に対してみんなで解決していこうという雰囲気を作り出します。経営者や上司という組織の上位者たちは、自ら謝罪しても組織の成員は絶対にそれを激しく追及することはしません。むしろ、自分の非を認めたその姿勢に感動し温かく迎えるのです。勇気をもって自分の非を認める、それこそがいさぎよい侍魂なのかもしれません。日本人は自分の非を認めたり、あるいは落ち込んでいる人をさらに追い込むようなことはしません。弱い者いじめをするのは相当屈折した人生を生きて、自分勝手で自己中なやくざな人たちだけです。
平素から社員や組織の成員に、フラットにつきあい、ちゃんと自分の非を認めるような経営者や上司はみんなから受け入れられ、信頼もありますから問題が起こった時には、誰かを犯人に仕立て上げて追及するといった方向ではなく、みんなで考えて問題に対処するという状況になります。でも普段独裁的な手法をとり、さまざまな方針を打ち出して、うまくいかないとき社員のせいや環境のせいにして自分の非を認めない経営者や上司は裏では社員たちに相当の陰口をたたかれ、そういう状況をなんとなく空気で感じているので、ますますそういった独裁経営者や上司は意固地になって部下にツッコまれないようにさらに頑固な人間になっていくのです。
もしそういう状況ではないかとこのブログを読んで感じる経営者や上司の立場の人がおられれば、そろそろ部下へのアプローチを変えていままでの硬直した上司部下関係の雪解けを図ってみるというのを提案します。独裁が強ければ強いほど、効果は大きいのです。ただそれで満足してはいけません。社員や部下たちはその後の経営者、上司の言動をチェックしているのです。ホントにこの人は反省したのだろうか、変わったのだろうか、一時的に気分屋な性格でたまたまそのときだけでなかったのかといろいろ考えます。
あるいはあまりにひどい独裁をしてきた経営者や上司の場合は急にやさしくアプローチしてもすでにパラドックスが生じ、やさしい言動の背後に何か意図があって騙されてはいけないぞという姿勢に社員や部下はなっているかもしれません。
またカリスマ経営者とか言われている人もかなり危うい内容もあるということを認識すべきです。周囲からカリスマと言われればその経営者は自分はカリスマだとすり込まれているのと同じなので、いつの間にか失敗はできない、ありえないというふうに自分を追い込んでいくのです。したがって失敗しているように見えても絶対非を認めないという意識になってしまいます。いつの間にかカリスマは教祖と化し、とんでもない行動までも正当化するフレームをつくりあげ、社員や部下たちに有無を言わせない圧力での管理をし始めるのです。私は自分の非を認めない組織のトップとそれを容認している組織の成員で構成されている組織はもうすでにカルト教団のようなものだと考えています。もう社会の監視が届かない密室の新興宗教のような組織であると思えてしかたありません。
とにかく、経営者や上司という立場にいる方で、このブログを見てくださっている方がいらっしゃれば、考えていただきたい問題です。組織の上位者で60歳くらいまでの方はよく自分を客観的に見て、自分のマネジメント方法を見直すことをしていただきたいのものです。これがさらに高齢でそういう立場に立っている人は注意しなければならないのは、すでに脳の前頭前野が退化することでもう理性が利かない状況になっている場合があるということです。いまだに企業では高齢で怒鳴り散らす経営者や役員など、聞いた話では結構いるようです。70を越えたおじいさんになんであんなに若い役員や取り巻きが何も言えないんだろうと外から見るととても不思議なのですが、今の高齢の人の中にはますます元気で頑固で人の言うことは聞かないという人も増えているのです。もちろん個人差はありますので一概には言えませんが、ここでご紹介したのは一例ですが、実際にある組織です。
日本では老いては子に従いなんて言葉がありますが、引き際の美学ということも考える価値があります。私は決して高齢者を非難しているわけではありません。ただ老いによるさまざまな機能低下も経営の現場では大きくマイナスに振れる可能性もあるということを認識することは重要だと言っているのです。歳をとって丸くなるのではなくさらに先鋭化するという話もあります。若いころ、とがっていたのと性質が違うのです。歳をとってとがっているのは、理性が利かないわがままなとがり方になっている場合が往々にしてあるので、注意すべきです。20代、30代でとがっていたのが、経験で丸くなるのですが、丸かったのがさらに40代、50代でさまざまな人間関係のしがらみを経験しながら、権力も持つようになると、60代、70代ではとんでもないわがまま自己中老人と化してしまう危険性を秘めていることをよく認識すべきです。
2013年3月25日月曜日
集団行動の危うさ②
先日、私の勤める会社の商品を扱いたいということでアクセスしてきた会社の営業マンが訪ねて来られました。どうやら展示会に出展していたとき、名刺を受取ってアクセスしてきたようです。実際私が対応したわけでないのでどういう理由で来られたのかは来られて話を聞いているうちにわかりました。
会社にいるとさまざまな営業の電話もかかってきます。とにかく話だけでも聞いてくださいと。もちろんハナから来てもらってもなにもメリットないとわかればはっきり断るのですが、とりあえず情報を得る意味でもそれに応じて受ける場合もあります。
今回来られた方は弊社の商品を販売する広告を出してあげるかわりに月3~4万円の健康ドリンクを買うというものでした。何か変だなと思ってあとで会社を調べたらもともとネットワークビジネスのような会社でした。話を聞いているときおかしいと感じたのは、その営業マンが自分の会社の会長をだんだん称賛しだしたことです。普通の会社の営業マンは会社のトップをほめたりはしません。彼は自分の会社の会長をほめ、彼の考えや作ったシステムをほめはじめました。
ネットワークビジネスにかかわらず、危うい会社や組織は、とても属人的傾向が強いのです。もちろん素晴らしい企業の素晴らしい経営者はたくさんいますが、最終的にその経営者や会社がまともでいつづけることができるのは、独裁に陥らないということだと思います。そして組織のトップ自身も自分が作った企業理念や経営理念であったとしてもその縛りは本人自身にも及んでいるということだと思います。独裁でカルトチックな組織というのは、組織のトップがどんなにいいことを言ってもそのトップ自体の行動はその考え方が適応されないという矛盾を抱えています。そしてそのことに多くの者たちがおかしいと思いながらも何も言えないという権力構造ができあがっています。
属人的な組織はどんなに組織の理念や信条が素晴らしいものであったとしても、そういった考え方とは別途に違うパラダイムができあがっていて、もっとも権力を持つ独裁者に従うことが正しいというダブルスタンダードになっています。そういった組織は中に入るととんでもない組織だったりするのですが、対外的には超模範的なスローガンや理念を掲げているので外にいる人には見えないのです。
私は組織の状況を見るときにトップもそうですが、No.2や側近と言われる取り巻き連中を見るのです。彼らが異常なまでにペコペコしていたり、対外的にめちゃくちゃ組織のトップを賛美する言動があるとしたら、この組織はかなり属人的な組織で、上部組織と下部組織の温度差や隠蔽体質が根付いていると考えてしまいます。ネットワークビジネスははっきりとピラミッド組織を形成しますのでそういった問題を考えるにはとてもわかりやすい組織です。
属人思考から脱却するのは、経営者や上司の立場にあれば、自分に対して異常なまでにおべっか使ったり、従順な人に気をつけなければなりません。そういう人は地位のある人には従いますが、自分の部下や同僚には上から目線という人も結構います。松井証券の松井会長が管理職の人を評価するとき、彼の部下からの印象を参考にするのはとても面白い試みです。要するに上から見るのと下から見るのはまったくその人の評価が変わってくるということをよく認識して、決して自分に従順だからといって真に受けないというのが重要です。そして何より、自分自身が間違う可能性があるという認識をつねに持って、自分も企業理念や信条に従うということも大切です。
組織のトップも成員も‘人間は間違う’という認識を持ちながら、組織内に経営トップ、上司、部下、同僚と360°どの人に対しても組織の理念や信条、また一般的な常識や社会通念に大きく逸脱した人には従わないという意思を明確にしておくことが重要です。いい意味でそこは譲らないという‘貞操観念’をもっておくことはとても大切です。属人的になりやすい人は素直で感動しやすい人です。すぐ自分が感動するとその感動させた人についていこうとします。ある面、猜疑心や人を見たら疑えみたいな意識も重要です。ただ完全に属人思考に陥って完全にはまってしまうとなかなか第三者がなんとかしようとしても困難です。そういう属人思考から、騙されて大変な状況に至って人生を棒にふったなんて人も聞きます。
集団行動の中に入れば、いつでも同調圧力にさらされ、長いものに巻かれろ式でパワーのある統率者に心酔し、入れ込んだ結果、取り返しのつかない行動をしてしまったというケースは世間一般いくらでもあります。少なくともこのブログを読んでいただいている人はそういう状況には至らない人で、ものごとを客観視したり俯瞰したり、メタ認知の能力がある人であると思います。なぜなら属人思考が強い人はPSIのブログにはかなりの違和感を持つに違いないからです。
会社にいるとさまざまな営業の電話もかかってきます。とにかく話だけでも聞いてくださいと。もちろんハナから来てもらってもなにもメリットないとわかればはっきり断るのですが、とりあえず情報を得る意味でもそれに応じて受ける場合もあります。
今回来られた方は弊社の商品を販売する広告を出してあげるかわりに月3~4万円の健康ドリンクを買うというものでした。何か変だなと思ってあとで会社を調べたらもともとネットワークビジネスのような会社でした。話を聞いているときおかしいと感じたのは、その営業マンが自分の会社の会長をだんだん称賛しだしたことです。普通の会社の営業マンは会社のトップをほめたりはしません。彼は自分の会社の会長をほめ、彼の考えや作ったシステムをほめはじめました。
ネットワークビジネスにかかわらず、危うい会社や組織は、とても属人的傾向が強いのです。もちろん素晴らしい企業の素晴らしい経営者はたくさんいますが、最終的にその経営者や会社がまともでいつづけることができるのは、独裁に陥らないということだと思います。そして組織のトップ自身も自分が作った企業理念や経営理念であったとしてもその縛りは本人自身にも及んでいるということだと思います。独裁でカルトチックな組織というのは、組織のトップがどんなにいいことを言ってもそのトップ自体の行動はその考え方が適応されないという矛盾を抱えています。そしてそのことに多くの者たちがおかしいと思いながらも何も言えないという権力構造ができあがっています。
属人的な組織はどんなに組織の理念や信条が素晴らしいものであったとしても、そういった考え方とは別途に違うパラダイムができあがっていて、もっとも権力を持つ独裁者に従うことが正しいというダブルスタンダードになっています。そういった組織は中に入るととんでもない組織だったりするのですが、対外的には超模範的なスローガンや理念を掲げているので外にいる人には見えないのです。
私は組織の状況を見るときにトップもそうですが、No.2や側近と言われる取り巻き連中を見るのです。彼らが異常なまでにペコペコしていたり、対外的にめちゃくちゃ組織のトップを賛美する言動があるとしたら、この組織はかなり属人的な組織で、上部組織と下部組織の温度差や隠蔽体質が根付いていると考えてしまいます。ネットワークビジネスははっきりとピラミッド組織を形成しますのでそういった問題を考えるにはとてもわかりやすい組織です。
属人思考から脱却するのは、経営者や上司の立場にあれば、自分に対して異常なまでにおべっか使ったり、従順な人に気をつけなければなりません。そういう人は地位のある人には従いますが、自分の部下や同僚には上から目線という人も結構います。松井証券の松井会長が管理職の人を評価するとき、彼の部下からの印象を参考にするのはとても面白い試みです。要するに上から見るのと下から見るのはまったくその人の評価が変わってくるということをよく認識して、決して自分に従順だからといって真に受けないというのが重要です。そして何より、自分自身が間違う可能性があるという認識をつねに持って、自分も企業理念や信条に従うということも大切です。
組織のトップも成員も‘人間は間違う’という認識を持ちながら、組織内に経営トップ、上司、部下、同僚と360°どの人に対しても組織の理念や信条、また一般的な常識や社会通念に大きく逸脱した人には従わないという意思を明確にしておくことが重要です。いい意味でそこは譲らないという‘貞操観念’をもっておくことはとても大切です。属人的になりやすい人は素直で感動しやすい人です。すぐ自分が感動するとその感動させた人についていこうとします。ある面、猜疑心や人を見たら疑えみたいな意識も重要です。ただ完全に属人思考に陥って完全にはまってしまうとなかなか第三者がなんとかしようとしても困難です。そういう属人思考から、騙されて大変な状況に至って人生を棒にふったなんて人も聞きます。
集団行動の中に入れば、いつでも同調圧力にさらされ、長いものに巻かれろ式でパワーのある統率者に心酔し、入れ込んだ結果、取り返しのつかない行動をしてしまったというケースは世間一般いくらでもあります。少なくともこのブログを読んでいただいている人はそういう状況には至らない人で、ものごとを客観視したり俯瞰したり、メタ認知の能力がある人であると思います。なぜなら属人思考が強い人はPSIのブログにはかなりの違和感を持つに違いないからです。
2013年3月23日土曜日
体罰について⑤
いじめ、体罰の問題と教育界ではこういった問題が相変わらず取りざたされています。
こういった問題は過去全くなかったわけではなく、近代、価値観の多様化やフラットな社会状況、情報社会、……などさまざまな理由で明るみに出てきているという現象であると考えられます。
そんな中、また以下のような記事が載っていました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130322-00000124-mai-soci
保護者の中でもやはり力関係のあるヒエラルキーがどうしても存在してしまうんだというもどかしさというか残念さというか…。
長年にわたって実績をつくりあげた体罰教師に対して、多くの教師や上位者である校長や教頭でさえ何も言えないという状況は教職員という組織の中でありうるわけですが、保護者というのはある面そういった中に取り込まれない第三者機関のような役割が果たせるのかと思いきや、決してそうではないという例が今回のこの記事に現れていると思います。
軍国主義の時代は全体主義であり、全体が向かおうとする方向に異を唱える者は非国民とレッテルを貼られ、日本社会から排除あるいは村八分状態に置かれてきたわけですが、戦後急激な民主化に戸惑いながらも、国民の意識も徐々に徐々に民主的でフラットな思考になってきたわけです。そしてグローバル化の波に影響を受けながら多様な価値観を受け入れなければ、日本社会も生きていけない時代になってきました。
特に企業ではいち早くそういった観点から、独裁権力をもった鋭利なヒエラルキー組織からよりフラットな組織に移行することでCSRやコンプライアンスといった観点からさまざまリスクマネジメントの必要性が訴えられてきました。ただ教育界においてはやはり師匠と弟子、教師と生徒、学生という観点は大きな勘違いとともに権力の主従関係とみなされ、組織風土として守らなければならないと思い込んでいる伝統という名の旧いしきたり、慣習等が問題を隠蔽しつづけ、最近になってようやく問題の可視化が起こってきたというのが実情です。
今回のこの記事を読んで考えさせられるのは、やはり教師や教育界の問題は決して彼らだけの問題でなく、親たちがそういった問題を起こす温床となっているという事実です。つねに親の問題は教育の分野では半ばタブー視され、つねに教育者(加害者)と保護者(被害者)という構図で論じられてきました。でも実際は教育者をさらに加害者たらしめているのはすでにメジョリティを獲得している保護者たちの集団圧力、同調圧力に他ならないのです。もちろんそういった保護者の中にもおかしいと気づく人はいるのですが、全体の声が体罰を擁護するような状況にあれば声をあげることは困難です。
大阪桜宮高校の生徒自殺問題も体罰教師を擁護する親たちは相当数あったと聞きます。したがって真の被害者である生徒の親は体罰教師とそれを容認してきた学校、そして行政、そして本来同情してくれるべき同じ親たちの集団圧力と闘わなければならないという苦しみを受けるわけです。私は自分の子どもを体罰を容認する教師に預ける気持ちはさらさらありません。私自身が受けてきた経験からもそうですが、体罰は怨みは残しても心からの感謝は生まれません。もし体罰を受けて自分が更正してまともになったという人がいたならば、それは体罰をした教師に感謝する前に、なぜそういう境遇にならないといけなかったのかという原因をもっと明確にするべきです。自分の足りなさや家庭での問題を明確にするべきです。そして体罰を容認するような発言は慎むべきであると思います。
たいへんな過激な体罰重視の教育機関に預けて子どもが更正して感謝しているという話はよく聞きます。しかしそういった親は自分たちの子どもに対する力のなさを認めるようなもので、家庭内でちゃんとした躾や人間としての道理を教えることができなかった事実をはっきりと知るべきであると思います。もともと障碍があって難しい場合は除いて、健常者でありながら問題行動を起こすとしたらそれは何をさておき、家庭内での育て方に問題があるのではと親たちはまず自問自答すべきであるのです。ちゃんと子どもと向き合ってきたのかどうなのか、自分たちが子育てを放棄して、過激な体罰の教育機関に子どもを預け、それで更正してもそれは親としての役割を果たしたとホントに言えるのでしょうか。
暴走族のような組織は強固なヒエラルキーが出来上がっていて、上下関係がはっきりしています。上位者には絶対服従です。保護者の組織の中にも役員として力のある人は組織の中心的役割を担いいつの間にか権限や権力を持つようになります。そしてその人の主張に全体が徐々に従うようになるのです。見た目は親たちのやさしい仮面をかぶった中身は陰湿な権力構造の暴走族のような組織になる危険性もはらんでいるのです。リーダーシップがあることと独裁的要素とは見極めなければなりません。
本来保護者の集まりはよりフラットな組織構造でみんなが自由闊達に意見を出し合える風土を醸成していかなくてはならないのです。中心的存在はリーダーと言うよりみんなの意見をまとめるファシリテーターのような役割をするのがいいのですが、なかなかそういうことはできないので問題が生じやすいのです。
体罰問題もいじめ問題も、そして企業におけるパワハラ、モラハラといった問題もすべて加害者をさらに加害者たる者に仕向けているものがあるのです。それは、加害者を支える集団内のパワーのある支援者に従属しやすい全体主義の意識が集団圧力や同調圧力を生み出し、「臭いものには蓋」式の膿を出さず早く問題を収拾させようとする隠蔽体質と相まって問題は抹殺されるのです。
旧共産圏の体制批判の運動家はやはりその国では活動できないのです。地下に潜るか自由主義の国にわたって活動するしかありません。体罰やいじめの被害者は下手をすると学校だけでなく、保護者たちも敵に回す可能性が重々あるという認識で知恵深く行動すべきです。今はマスメディアがある程度被害者を擁護する立場に立ってはくれますが、保護者たちの状況には踏み込まないというまだまだ社会的なタブーが存在しています。企業も未だに告発者は会社にとどまることが困難であることは会社の社員全体も会社や経営者側に立っていて味方になりえないという事実を表しています。
企業も組織風土や会社の手法ど、組織のほとんどの成員がおかしいと思っているにもかかわらずそれに異を唱えるとはじき出されるというとても不思議な状況が起こっていたりします。経営者でさえその風土に埋め込まれていて、変えたいけど変えられないという状況に陥っていることさえあります。そういった場合その組織に一切の利害関係のない第三者機関が介入するしか変えることは難しいかもしれません。
そういった面で学校という半ば密室になりやすい組織形態には、心理学関連の専門家のみならず、組織の専門家であるコンサルタントなどに依頼することや、実際問題が起こったら躊躇せず警察などの機関に依頼したりマスメディアを通じた社会的な監視を要請することは正しいことだと思います。またそれができる教育者こそ今の時代に必要なのだと思います。
こういった問題は過去全くなかったわけではなく、近代、価値観の多様化やフラットな社会状況、情報社会、……などさまざまな理由で明るみに出てきているという現象であると考えられます。
そんな中、また以下のような記事が載っていました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130322-00000124-mai-soci
保護者の中でもやはり力関係のあるヒエラルキーがどうしても存在してしまうんだというもどかしさというか残念さというか…。
長年にわたって実績をつくりあげた体罰教師に対して、多くの教師や上位者である校長や教頭でさえ何も言えないという状況は教職員という組織の中でありうるわけですが、保護者というのはある面そういった中に取り込まれない第三者機関のような役割が果たせるのかと思いきや、決してそうではないという例が今回のこの記事に現れていると思います。
軍国主義の時代は全体主義であり、全体が向かおうとする方向に異を唱える者は非国民とレッテルを貼られ、日本社会から排除あるいは村八分状態に置かれてきたわけですが、戦後急激な民主化に戸惑いながらも、国民の意識も徐々に徐々に民主的でフラットな思考になってきたわけです。そしてグローバル化の波に影響を受けながら多様な価値観を受け入れなければ、日本社会も生きていけない時代になってきました。
特に企業ではいち早くそういった観点から、独裁権力をもった鋭利なヒエラルキー組織からよりフラットな組織に移行することでCSRやコンプライアンスといった観点からさまざまリスクマネジメントの必要性が訴えられてきました。ただ教育界においてはやはり師匠と弟子、教師と生徒、学生という観点は大きな勘違いとともに権力の主従関係とみなされ、組織風土として守らなければならないと思い込んでいる伝統という名の旧いしきたり、慣習等が問題を隠蔽しつづけ、最近になってようやく問題の可視化が起こってきたというのが実情です。
今回のこの記事を読んで考えさせられるのは、やはり教師や教育界の問題は決して彼らだけの問題でなく、親たちがそういった問題を起こす温床となっているという事実です。つねに親の問題は教育の分野では半ばタブー視され、つねに教育者(加害者)と保護者(被害者)という構図で論じられてきました。でも実際は教育者をさらに加害者たらしめているのはすでにメジョリティを獲得している保護者たちの集団圧力、同調圧力に他ならないのです。もちろんそういった保護者の中にもおかしいと気づく人はいるのですが、全体の声が体罰を擁護するような状況にあれば声をあげることは困難です。
大阪桜宮高校の生徒自殺問題も体罰教師を擁護する親たちは相当数あったと聞きます。したがって真の被害者である生徒の親は体罰教師とそれを容認してきた学校、そして行政、そして本来同情してくれるべき同じ親たちの集団圧力と闘わなければならないという苦しみを受けるわけです。私は自分の子どもを体罰を容認する教師に預ける気持ちはさらさらありません。私自身が受けてきた経験からもそうですが、体罰は怨みは残しても心からの感謝は生まれません。もし体罰を受けて自分が更正してまともになったという人がいたならば、それは体罰をした教師に感謝する前に、なぜそういう境遇にならないといけなかったのかという原因をもっと明確にするべきです。自分の足りなさや家庭での問題を明確にするべきです。そして体罰を容認するような発言は慎むべきであると思います。
たいへんな過激な体罰重視の教育機関に預けて子どもが更正して感謝しているという話はよく聞きます。しかしそういった親は自分たちの子どもに対する力のなさを認めるようなもので、家庭内でちゃんとした躾や人間としての道理を教えることができなかった事実をはっきりと知るべきであると思います。もともと障碍があって難しい場合は除いて、健常者でありながら問題行動を起こすとしたらそれは何をさておき、家庭内での育て方に問題があるのではと親たちはまず自問自答すべきであるのです。ちゃんと子どもと向き合ってきたのかどうなのか、自分たちが子育てを放棄して、過激な体罰の教育機関に子どもを預け、それで更正してもそれは親としての役割を果たしたとホントに言えるのでしょうか。
暴走族のような組織は強固なヒエラルキーが出来上がっていて、上下関係がはっきりしています。上位者には絶対服従です。保護者の組織の中にも役員として力のある人は組織の中心的役割を担いいつの間にか権限や権力を持つようになります。そしてその人の主張に全体が徐々に従うようになるのです。見た目は親たちのやさしい仮面をかぶった中身は陰湿な権力構造の暴走族のような組織になる危険性もはらんでいるのです。リーダーシップがあることと独裁的要素とは見極めなければなりません。
本来保護者の集まりはよりフラットな組織構造でみんなが自由闊達に意見を出し合える風土を醸成していかなくてはならないのです。中心的存在はリーダーと言うよりみんなの意見をまとめるファシリテーターのような役割をするのがいいのですが、なかなかそういうことはできないので問題が生じやすいのです。
体罰問題もいじめ問題も、そして企業におけるパワハラ、モラハラといった問題もすべて加害者をさらに加害者たる者に仕向けているものがあるのです。それは、加害者を支える集団内のパワーのある支援者に従属しやすい全体主義の意識が集団圧力や同調圧力を生み出し、「臭いものには蓋」式の膿を出さず早く問題を収拾させようとする隠蔽体質と相まって問題は抹殺されるのです。
旧共産圏の体制批判の運動家はやはりその国では活動できないのです。地下に潜るか自由主義の国にわたって活動するしかありません。体罰やいじめの被害者は下手をすると学校だけでなく、保護者たちも敵に回す可能性が重々あるという認識で知恵深く行動すべきです。今はマスメディアがある程度被害者を擁護する立場に立ってはくれますが、保護者たちの状況には踏み込まないというまだまだ社会的なタブーが存在しています。企業も未だに告発者は会社にとどまることが困難であることは会社の社員全体も会社や経営者側に立っていて味方になりえないという事実を表しています。
企業も組織風土や会社の手法ど、組織のほとんどの成員がおかしいと思っているにもかかわらずそれに異を唱えるとはじき出されるというとても不思議な状況が起こっていたりします。経営者でさえその風土に埋め込まれていて、変えたいけど変えられないという状況に陥っていることさえあります。そういった場合その組織に一切の利害関係のない第三者機関が介入するしか変えることは難しいかもしれません。
そういった面で学校という半ば密室になりやすい組織形態には、心理学関連の専門家のみならず、組織の専門家であるコンサルタントなどに依頼することや、実際問題が起こったら躊躇せず警察などの機関に依頼したりマスメディアを通じた社会的な監視を要請することは正しいことだと思います。またそれができる教育者こそ今の時代に必要なのだと思います。
2013年3月21日木曜日
花見のシーズンを迎えて
久しぶりの投稿になります。
ずいぶん暖かくなってきて、花見も今週末から来週あたりは関東圏ではピークかと思います。3月は学校の卒業式、4月になると入学式や、入社式と大きな人生の節目を迎える人びとも多いのではないでしょうか。
天気も暖かくなるとなんとなく精神的にも解放的になって、ウキウキするような感じもあります。ただそれとは裏腹に私は花粉症というアレルギーがあるので、必ずしも楽しい季節といえないのも事実なのですが……。
ちなみにアレルギーがある人はない人より、長生きするなんてことを聞いたことがあります。定かではありませんが、健康情報というのは今までの常識とは反対の考え方もいろいろ存在するので、何がホントなのか実際のところわからないことも多いのです。
例えば昔は無病息災がいいとされていたのが、最近では一病息災、二病息災などと、まったく非の打ちどころがないような健康な人よりも多少、からだに悩みを抱えていたり、持病があったほうが、気をつけるからむしろ長生きできるんだなどという考え方もあります。確かにめちゃくちゃ元気だったのに、えっあの人が、なぜみたいなこと聞くことありますよね。
確かに元気な人は、自分のからだに過信するあまり、実際の健康状態がよく認識できていない状況があったりすると思います。それで健康診断なんか受けてなければ、ますますわからないわけですから、急に倒れたりするリスクを回避しづらくなるかもしれません。
企業やさまざまな組織も人間のからだと同じで、まったく問題ないと思っていた企業や団体がとんでもない不祥事を起こしたりする。企業の不祥事からスポーツ界、教育の現場のさまざまな問題まで優良であったり優等生のような組織が問題が結構あったりする。組織もからだと同じで健康診断なるものが必要なのだと思います。そこには売上や実績という目に見える数字だけの定量的な検査ではなく、組織風土や人間関係など一見わかりにくい定性的な検査も必要であると思います。むしろ後者のほうが原因となっていて、具体的な数字として表れてくる部分もあるので、大きな手術が必要となる前に病気にならない予防を施すのが重要です。
かかりつけの医師なんて最近ではあまり聞かない言葉かもしれませんが、昔は地域に根差した医師がいて家族のことはなんでも知っててアドバイスも受けることができたわけです。今はなかなかそうもいかず、セカンドオピニオンも必要だとしていろんな意見を幅広く聞くという時代になってきましたが、とりあえずどうしたら対処できるかといった処方箋はそろっています。
企業や団体組織の場合もかかりつけのアドバイザーがいればいいのですが、なかなかそういった存在もなく、手遅れの状態になって助けを求めてももう手の施しようがないといったことは往々にしてあります。病気も重篤化するケースはまだ問題ないとさまざまな症状が出ているにも関わらず、自分にうそぶいてまだ問題ないと放置してしまっているケースです。企業や組織もそういうケースが多いように思います。特に日本では問題と正面から向き合わず、結局、もうどうしようもなくなって会社更生法で倒産だとか、で責任の所在はあいまいなまま社員はだれにも怨みをもたず職を失うというのが結構あるように思います。たまに外資などが入ると、急にリストラを断行し、かなりの荒治療でとりあえず企業はなんとか立ち直ったりします。
食品関係の企業の不祥事がたくさん起こった時には、私は不祥事がない企業はむしろまだ問題が可視化されていないだけで、どこもそういうことをやっているんだという疑心暗鬼の気持ちになったことがありました。それで、不祥事から立ち直った企業の商品のほうを安心して買っていたこともありました。
からだも、企業や組織も問題が見えていることは幸いなことで健康(経営)に注意する、見直す機会が与えられていると思って前向きに取り組みたいものです。
ずいぶん暖かくなってきて、花見も今週末から来週あたりは関東圏ではピークかと思います。3月は学校の卒業式、4月になると入学式や、入社式と大きな人生の節目を迎える人びとも多いのではないでしょうか。
天気も暖かくなるとなんとなく精神的にも解放的になって、ウキウキするような感じもあります。ただそれとは裏腹に私は花粉症というアレルギーがあるので、必ずしも楽しい季節といえないのも事実なのですが……。
ちなみにアレルギーがある人はない人より、長生きするなんてことを聞いたことがあります。定かではありませんが、健康情報というのは今までの常識とは反対の考え方もいろいろ存在するので、何がホントなのか実際のところわからないことも多いのです。
例えば昔は無病息災がいいとされていたのが、最近では一病息災、二病息災などと、まったく非の打ちどころがないような健康な人よりも多少、からだに悩みを抱えていたり、持病があったほうが、気をつけるからむしろ長生きできるんだなどという考え方もあります。確かにめちゃくちゃ元気だったのに、えっあの人が、なぜみたいなこと聞くことありますよね。
確かに元気な人は、自分のからだに過信するあまり、実際の健康状態がよく認識できていない状況があったりすると思います。それで健康診断なんか受けてなければ、ますますわからないわけですから、急に倒れたりするリスクを回避しづらくなるかもしれません。
企業やさまざまな組織も人間のからだと同じで、まったく問題ないと思っていた企業や団体がとんでもない不祥事を起こしたりする。企業の不祥事からスポーツ界、教育の現場のさまざまな問題まで優良であったり優等生のような組織が問題が結構あったりする。組織もからだと同じで健康診断なるものが必要なのだと思います。そこには売上や実績という目に見える数字だけの定量的な検査ではなく、組織風土や人間関係など一見わかりにくい定性的な検査も必要であると思います。むしろ後者のほうが原因となっていて、具体的な数字として表れてくる部分もあるので、大きな手術が必要となる前に病気にならない予防を施すのが重要です。
かかりつけの医師なんて最近ではあまり聞かない言葉かもしれませんが、昔は地域に根差した医師がいて家族のことはなんでも知っててアドバイスも受けることができたわけです。今はなかなかそうもいかず、セカンドオピニオンも必要だとしていろんな意見を幅広く聞くという時代になってきましたが、とりあえずどうしたら対処できるかといった処方箋はそろっています。
企業や団体組織の場合もかかりつけのアドバイザーがいればいいのですが、なかなかそういった存在もなく、手遅れの状態になって助けを求めてももう手の施しようがないといったことは往々にしてあります。病気も重篤化するケースはまだ問題ないとさまざまな症状が出ているにも関わらず、自分にうそぶいてまだ問題ないと放置してしまっているケースです。企業や組織もそういうケースが多いように思います。特に日本では問題と正面から向き合わず、結局、もうどうしようもなくなって会社更生法で倒産だとか、で責任の所在はあいまいなまま社員はだれにも怨みをもたず職を失うというのが結構あるように思います。たまに外資などが入ると、急にリストラを断行し、かなりの荒治療でとりあえず企業はなんとか立ち直ったりします。
食品関係の企業の不祥事がたくさん起こった時には、私は不祥事がない企業はむしろまだ問題が可視化されていないだけで、どこもそういうことをやっているんだという疑心暗鬼の気持ちになったことがありました。それで、不祥事から立ち直った企業の商品のほうを安心して買っていたこともありました。
からだも、企業や組織も問題が見えていることは幸いなことで健康(経営)に注意する、見直す機会が与えられていると思って前向きに取り組みたいものです。
2013年3月3日日曜日
集団行動の危うさ①
最近の少年犯罪などと見るととても短絡的な犯罪が多いと感じます。まったく計画性がなく、単純な動機で犯罪に及んでいるケースが多いのです。金が欲しいから人を殺したとか、誰でもいいから殺したかったとか、自己中心的、身勝手で無責任極まりない事件が起こるたびにいろいろと考えさせられます。いわゆる一種の‘ノリ’でやってしまっているケースがあると思うのです。そして悪党と言われるだけに悪は徒党を組みやすいこともあります。犯罪を犯すのに一人での単独犯も多いが、複数で集団による犯罪も多いのです。
いじめや体罰もある面、集団心理が陥りやすい問題も含めての集団の問題行動と言えなくもないわけです。当事者だけの問題として片づけてしまったら、なんら問題解決はできず、ずっと同じことの繰り返しになります。なぜなら、いじめも体罰もそれを容認する沈黙の大衆やそれに対して何も言えない当事者に関係ある人びとの問題があるからです。
実は少年犯罪もあまりに残虐な犯罪が衝撃的に報道されたりすることで、近年あまりに増えているような錯覚に陥りますが、実は別に増えているわけではないとのことです。むしろ高齢化社会になって年長者の犯罪が増えてきていることは付け加えておきたいと思います。ただ若年層の犯罪と要素が違うのは、ある面加齢により、理性が利かなくなりあまり深く考えず、感情のまま行動した結果、犯罪に及んでしまったというケースが多いように思えます。要するに大人げない年長者が増えていることはどこの企業や組織でも感じることがあるかと思います。
http://kogoroy.tripod.com/hanzai-h19.html
歳を重ねるにはオシャレに品よくしたいものです。
ちょっと脱線しましたが、今回取り上げたい問題は、集団行動の問題点です。なぜ人は集団になると間違いを犯してしまうのか。企業に勤めている方々はよく体験したという方も多いかと思います。たとえば、会議で、ワンマンな経営者や声がいちばん大きい上司や社員の主張が全部通ってしまうという理不尽な現場です。会議に参加している99%の人びとがそれはおかしいと思っているのにです。さらに言うならば、とんでもない方向性を打ち出そうとしている経営者や上司の太鼓持ちの部下や社員でさえ、おかしいと思いながら、「素晴らしい~!」などとやっているわけです。
まだおかしいと感じている状況ならば、まだ救われます。ところがそれがだんだん麻痺してくると、ものごとを客観視できなくなり、集団のもっとも権力のある人にすべて従い、それを正しいと思い込んでしまうという現象が起きます。ストックホルム症候群というのを聞いたことがあるかもしれません。銀行強盗に入った犯人に人質が従い、最終的には恋心を抱き、結婚までしてしまったという話です。またパトリシア・ハースト事件では誘拐された大富豪の孫娘が犯人グループの仲間に入って活動していたという衝撃的な話があります。
洗脳という問題があるのですが、日本では洗脳されやすい民族性をある面、育まれてきたということもあります。
長いものには巻かれろ、出る杭は打たれる、郷に入りては郷に従え、……。
もともと和の文化を善しとしてきた日本では集団になると集団を取りまとめている人の意向に沿うように全体が行動するという風土があります。その空気を乱す者はとても嫌がられますし、ひどい場合には、空気が読めない、協調性がない、……などと異端者扱いされ、レッテルを貼られ、ひどい場合には村八分状態に置かれてしまいます。しかしその場合、必ずしもその集団の管理者や集団自体の方向性や考えが正しいとは言えません。
個人と違って集団になると、どうしても集団、あるいは集団の管理者やトップが持つ考え方に従おうという意識ができあがります。そうすることで秩序が形成され、心地よい集団がつくりだす一見美しいと感じるまでの流れができあがっていくのです。そこに水を差すことは集団全体が許さないのです。私の長女は知的障害で養護学校に通っていますが、そこでは障碍者が多いので、入学式や卒業式で、騒いでいる生徒がいても父兄たちもなんら気に留めません。なぜならそういう学校であるという共通前提のもとに集まっているからです。でも健常児だけが通う学校で、誰かが奇声を発しているとしたら、間違いなく全員がびっくりしてその子を抑えるでしょう。
集団の危うさは、一般的な良識や常識、あるいは法律さえも越えてしまうくらいの一体感を持ってしまいます。個人においてそれに気づいて、そこにいる状態でそのことに言及すると間違いなくその集団から排除されます。問題行動が起こっている集団のその場での発言はおろか、告発するというカタチをとっても最終的にはその組織には居れなくなったりします。企業、学校、その他どんな組織にも独特なパラダイムが存在します。それに適合していない考え方は排除されて当然と言えば当然です。
とにかく組織のトップは人格的素養が備わっていない人は絶対立つべきではありませんが、そういう立場に立つと、その人がもつ権力や権威の恩恵に預かろうと必ず太鼓持ちの部下が出てきます。そのとき頭のいい学習する人はいいのですが、そうでない人はまずその罠にはまってしまって、いつの間にか裸の王様に仕立て上げられてしまうのです。いつの間にか大きな勘違いをして傲慢になって自己中心的な経営、組織運営をしだすと、いつの間にか、世間の法律は飛び越えて、自分が法律になってしまうのです。そしてその集団の成員全体も間違っていることに気づきながらも従うようになり、次第に善悪の基準は一般の法律ではなく、組織のトップの、あるいはその組織のトップを影で動かす人間の思いのままに、疑問も持たず従うようになっていくのです。
集団がもつ秩序だった行動に各個人が同胞感というか仲間意識を強烈に抱くようになると、さまざまな集団行動は一つの儀式のようになって、その中でエクスタシーを感じるようになり、その高揚感を味わうとその集団への虜になってしまうのです。ある面、犯罪がなぜ社会的に法律を犯す問題行動であるにも関わらず集団で起こしてしまうのかという原因がそこにあります。犯罪が集団で起こるのは集団が織りなす現実からかけ離れたファンタジーの世界の虜になって、その集団のいちばんの権力者が持っていきたい方向に全体が動くようになっていくのです。
若年者の犯罪や最近では少なくなりましたが、暴走族などといった組織もそういった集団行動ゆえに集団内では行動は正当化され組織の成員は何ら疑問を持つことなくすべてを受け入れるといった現象が起きるのです。そして最近の犯罪はとても短絡的で、自分たちの仲間意識とその高揚感から単に‘ノリ’でやってしまっているという身勝手な内容があります。
ストレス解消には現実逃避がもっとも有効であると言っていますが、PSIはあくまでそれは人に迷惑をかけないということが前提であるのです。人気歌手のライブやサッカーのサポーターたちの一体感のある応援もある面、集団がもつ高揚感、エクスタシーを味わえる最高の場です。ただそれらは誰かに迷惑をかけたり、犯罪行為に手を染めるといったことはまずありません。ただ他国でそういった集団が暴徒化したり、建物を破壊したりする行為に及ぶことがあるのはやはり集団とはそういう危うさがつねにあるからです。日本でも、さまざまなデモに警官が配備されるのもそういった内容も含めて集団行動はつねに危険が伴うからではないかと思います。
集団では個の意見や考え方は抹殺されやすいのです。でも集団という組織はつねに個々人の良識や客観的視点をもって見守っていかなければ、いつ誤った方向に行くかわからないということを重々認識しておくべきです。それができなければ、いつ被害者になるか、加害者になってしまうかという危険性があるということを認識すべきです。企業でのコンプライアンス違反も集団になると善悪の基準はその組織独自のものさしで量られるのです。これがカルト教団などになると集団行動の中に個人の良識は抹殺され、被害者になるか、加害者になるか、とにかく人生を棒にふってしまうことさえあります。殺人や詐欺行為をしたり、集団自殺を引き起こしたりカルトになると集団的パワーを利用してそこに所属している組織の成員は同じ空気を共有しているという仲間意識とともにある種の危うさの美的感覚もあいまってエクスタシーを感じながらとんでもない違法行為に手を染めてしまうのです。
PSIでは独裁者の意のままに動かされており、それに対して盲目的に従がっていて、なおかつ組織内ではパワハラ、モラハラなど理不尽な行為が平気でまかり通っている、そういった組織はカルトと位置づけております。その上、反社会的な行為が行われていたならば、完全にそれは集団の問題を明確に露見しています。今後の企業経営、組織運営の為にはそういった集団を組織論的観点から細部にわたって研究する意義は大きいのではないかと思います。
いじめや体罰もある面、集団心理が陥りやすい問題も含めての集団の問題行動と言えなくもないわけです。当事者だけの問題として片づけてしまったら、なんら問題解決はできず、ずっと同じことの繰り返しになります。なぜなら、いじめも体罰もそれを容認する沈黙の大衆やそれに対して何も言えない当事者に関係ある人びとの問題があるからです。
実は少年犯罪もあまりに残虐な犯罪が衝撃的に報道されたりすることで、近年あまりに増えているような錯覚に陥りますが、実は別に増えているわけではないとのことです。むしろ高齢化社会になって年長者の犯罪が増えてきていることは付け加えておきたいと思います。ただ若年層の犯罪と要素が違うのは、ある面加齢により、理性が利かなくなりあまり深く考えず、感情のまま行動した結果、犯罪に及んでしまったというケースが多いように思えます。要するに大人げない年長者が増えていることはどこの企業や組織でも感じることがあるかと思います。
http://kogoroy.tripod.com/hanzai-h19.html
歳を重ねるにはオシャレに品よくしたいものです。
ちょっと脱線しましたが、今回取り上げたい問題は、集団行動の問題点です。なぜ人は集団になると間違いを犯してしまうのか。企業に勤めている方々はよく体験したという方も多いかと思います。たとえば、会議で、ワンマンな経営者や声がいちばん大きい上司や社員の主張が全部通ってしまうという理不尽な現場です。会議に参加している99%の人びとがそれはおかしいと思っているのにです。さらに言うならば、とんでもない方向性を打ち出そうとしている経営者や上司の太鼓持ちの部下や社員でさえ、おかしいと思いながら、「素晴らしい~!」などとやっているわけです。
まだおかしいと感じている状況ならば、まだ救われます。ところがそれがだんだん麻痺してくると、ものごとを客観視できなくなり、集団のもっとも権力のある人にすべて従い、それを正しいと思い込んでしまうという現象が起きます。ストックホルム症候群というのを聞いたことがあるかもしれません。銀行強盗に入った犯人に人質が従い、最終的には恋心を抱き、結婚までしてしまったという話です。またパトリシア・ハースト事件では誘拐された大富豪の孫娘が犯人グループの仲間に入って活動していたという衝撃的な話があります。
洗脳という問題があるのですが、日本では洗脳されやすい民族性をある面、育まれてきたということもあります。
長いものには巻かれろ、出る杭は打たれる、郷に入りては郷に従え、……。
もともと和の文化を善しとしてきた日本では集団になると集団を取りまとめている人の意向に沿うように全体が行動するという風土があります。その空気を乱す者はとても嫌がられますし、ひどい場合には、空気が読めない、協調性がない、……などと異端者扱いされ、レッテルを貼られ、ひどい場合には村八分状態に置かれてしまいます。しかしその場合、必ずしもその集団の管理者や集団自体の方向性や考えが正しいとは言えません。
個人と違って集団になると、どうしても集団、あるいは集団の管理者やトップが持つ考え方に従おうという意識ができあがります。そうすることで秩序が形成され、心地よい集団がつくりだす一見美しいと感じるまでの流れができあがっていくのです。そこに水を差すことは集団全体が許さないのです。私の長女は知的障害で養護学校に通っていますが、そこでは障碍者が多いので、入学式や卒業式で、騒いでいる生徒がいても父兄たちもなんら気に留めません。なぜならそういう学校であるという共通前提のもとに集まっているからです。でも健常児だけが通う学校で、誰かが奇声を発しているとしたら、間違いなく全員がびっくりしてその子を抑えるでしょう。
集団の危うさは、一般的な良識や常識、あるいは法律さえも越えてしまうくらいの一体感を持ってしまいます。個人においてそれに気づいて、そこにいる状態でそのことに言及すると間違いなくその集団から排除されます。問題行動が起こっている集団のその場での発言はおろか、告発するというカタチをとっても最終的にはその組織には居れなくなったりします。企業、学校、その他どんな組織にも独特なパラダイムが存在します。それに適合していない考え方は排除されて当然と言えば当然です。
とにかく組織のトップは人格的素養が備わっていない人は絶対立つべきではありませんが、そういう立場に立つと、その人がもつ権力や権威の恩恵に預かろうと必ず太鼓持ちの部下が出てきます。そのとき頭のいい学習する人はいいのですが、そうでない人はまずその罠にはまってしまって、いつの間にか裸の王様に仕立て上げられてしまうのです。いつの間にか大きな勘違いをして傲慢になって自己中心的な経営、組織運営をしだすと、いつの間にか、世間の法律は飛び越えて、自分が法律になってしまうのです。そしてその集団の成員全体も間違っていることに気づきながらも従うようになり、次第に善悪の基準は一般の法律ではなく、組織のトップの、あるいはその組織のトップを影で動かす人間の思いのままに、疑問も持たず従うようになっていくのです。
集団がもつ秩序だった行動に各個人が同胞感というか仲間意識を強烈に抱くようになると、さまざまな集団行動は一つの儀式のようになって、その中でエクスタシーを感じるようになり、その高揚感を味わうとその集団への虜になってしまうのです。ある面、犯罪がなぜ社会的に法律を犯す問題行動であるにも関わらず集団で起こしてしまうのかという原因がそこにあります。犯罪が集団で起こるのは集団が織りなす現実からかけ離れたファンタジーの世界の虜になって、その集団のいちばんの権力者が持っていきたい方向に全体が動くようになっていくのです。
若年者の犯罪や最近では少なくなりましたが、暴走族などといった組織もそういった集団行動ゆえに集団内では行動は正当化され組織の成員は何ら疑問を持つことなくすべてを受け入れるといった現象が起きるのです。そして最近の犯罪はとても短絡的で、自分たちの仲間意識とその高揚感から単に‘ノリ’でやってしまっているという身勝手な内容があります。
ストレス解消には現実逃避がもっとも有効であると言っていますが、PSIはあくまでそれは人に迷惑をかけないということが前提であるのです。人気歌手のライブやサッカーのサポーターたちの一体感のある応援もある面、集団がもつ高揚感、エクスタシーを味わえる最高の場です。ただそれらは誰かに迷惑をかけたり、犯罪行為に手を染めるといったことはまずありません。ただ他国でそういった集団が暴徒化したり、建物を破壊したりする行為に及ぶことがあるのはやはり集団とはそういう危うさがつねにあるからです。日本でも、さまざまなデモに警官が配備されるのもそういった内容も含めて集団行動はつねに危険が伴うからではないかと思います。
集団では個の意見や考え方は抹殺されやすいのです。でも集団という組織はつねに個々人の良識や客観的視点をもって見守っていかなければ、いつ誤った方向に行くかわからないということを重々認識しておくべきです。それができなければ、いつ被害者になるか、加害者になってしまうかという危険性があるということを認識すべきです。企業でのコンプライアンス違反も集団になると善悪の基準はその組織独自のものさしで量られるのです。これがカルト教団などになると集団行動の中に個人の良識は抹殺され、被害者になるか、加害者になるか、とにかく人生を棒にふってしまうことさえあります。殺人や詐欺行為をしたり、集団自殺を引き起こしたりカルトになると集団的パワーを利用してそこに所属している組織の成員は同じ空気を共有しているという仲間意識とともにある種の危うさの美的感覚もあいまってエクスタシーを感じながらとんでもない違法行為に手を染めてしまうのです。
PSIでは独裁者の意のままに動かされており、それに対して盲目的に従がっていて、なおかつ組織内ではパワハラ、モラハラなど理不尽な行為が平気でまかり通っている、そういった組織はカルトと位置づけております。その上、反社会的な行為が行われていたならば、完全にそれは集団の問題を明確に露見しています。今後の企業経営、組織運営の為にはそういった集団を組織論的観点から細部にわたって研究する意義は大きいのではないかと思います。
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