昨日、日曜劇場「半沢直樹」最終章が幕を下ろしました。
社会的ブームとなったこのドラマ、ドラマはファンタジーであるので、現実社会と照らし合わせるにはかなりの無理がありますが、企業人としてはいろいろと参考になったことと思います。
それにしても敵役の大和田常務の負けっぷりは圧巻でした。私としては上司、上役がどのように追い詰められたとき行動するのかといった観点もたいへん興味がありました。会社に入ったときは誰しも希望に燃えて、夢を持って出発しているはずですが、組織の上層部へ行けば行くほど組織の制度や文化に取り込まれ、埋め込まれることによって、がんじがらめの状況に陥って行きます。そして背に腹は変えられないという状況からさまざまな知恵をふりしぼって違法なことに手を染めるようになる可能性もあります。
そういった観点からコンプライアンス違反は起こってくるのでしょうが、またそういった行為や行動を正当化する価値観を持つようになっていくのです。認知的不協和を是正するためにそうせざるをえないのです。組織の上層部に行けば行くほど強固なモラル、倫理思考を持っていなければ必ずその罠に陥ってしまいます。そのことは部下の立場からは理解が難しいのは当然です。まだ組織の風土に埋め込まれていないからなのです。もちろんコンプライアンス違反の出発点は個人的なことがらから始まっていますが、それがどんどん大きくなると組織的にそれを隠蔽せざえない状況に周囲が巻き込まれていきます。
ある知人を介して聞いた話ですが、その会社は財務的には完全に破綻状態にあり、粉飾を繰り返しながら、なんとか会社は存続しつづけているという話でした。なぜそんな会社が存続できるのか、それは銀行と経営者一族のずぶずぶの蜜月関係でした。銀行側もそういった状況であることはわかっているにもかかわらず、目をつぶって融資し続けているのです。もちろん会社側は会社更生法を適用するなら多くの社員とその家族は路頭に迷うという状況になってしまいます。したがってそういう選択肢はないのです。またそういった同族経営で旧き時代からずっと勤めてきた社員はそういった水に慣れていて、真実を知ろうとか、会社の業績などはあまり関心がありません。すべてがなあなあの関係なのです。社員はうすうす感じてはいても、わざわざそのことを口に出すことは社内の異端分子としてレッテルを貼られることを認識しているので暗黙のタブーとして誰も話題にあげないのです。
欧米の企業が役割や業績重視の経営であるのに比べて、日本の企業は人間関係がとても重視され、その関係から派生的に組織の文化や風土が造成されていきます。その状況下ではもう人間は埋め込まれて身動きがとれず、負の遺産を覆い隠したり、取り繕う作業をしつづけるしかできなくなるのです。そういった悪しき慣習を壊して正常な経営を取り戻すには基本的に組織内からの力では到底及びません。自浄能力を失った状況では組織の多くの構成員は被害者というより加害者の立場に立っているからに他なりません。内部告発者の葛藤はそこにあります。倫理的に人間的に受け入れられないことがらに少なからず加担してきたという現実を向き合わなければならないからです。また内部告発者はその後企業から放り出され、結局行き場をなくすという流れも多く、なかなか組織自体が自分の力で正常化するというのは困難です。
日本は結局黒船頼りになるのです。組織と利害関係のない第三者によってしか変えることはできないということです。本来は融資先の銀行がその役割を担わなくてはならないのですが、銀行に不良債権が多いのは企業と銀行もまた互いに利害関係を同じくしてることと蜜月の人間関係が出来上がってしまうからなのです。人間関係というのはとても難しいテーマです。信頼関係を築くためにはよく知り合って、理解しあって密着しなければ難しいのです。しかし密着しすぎると今度はNOと言えない関係になってしまい、いつの間にかすべてを容認するカタチになって気がつくと取り返しがつかない状態に至っているというわけです。
ドラマ半沢直樹では大和田常務という役員の個人的な事情からの背任行為が問題になっていますが、企業においては経営者自身がそうである場合も多いのです。昨今の不祥事を犯した企業を見ると経営トップからとんでもないワンマンでコンプラ違反を社員に強要していたということがあります。ただ大和田常務の実績を考えると、融資先との人間関係に埋め込まれず、冷徹にやってきたことで、出世してのし上がってきたということは言えるかもしれません。銀行は減点法での評価であると聞いたことがありますが、人情に流されず、あくまで実績のみを追求するにはそれくらいの人でないと残れないかもしれません。すべてが結果主義の銀行では正義感を押し通す人間性のある半沢直樹のような行員はそもそも存在できないかもしれません。冷徹もしくは逆に人間性のある行員はずぶずぶの蜜月関係で虚構の財務状況を容認する危ない橋を渡り続けていくかないのかもしれません。
主人公に話を戻しましょう。どんどん悪事をあぶり出し、追い込んでいく凄みのある半沢直樹の闘いはすさまじいものがありました。これは多くの企業人は痛快、爽快な感覚で楽しんで見れたことでしょう。視聴者の多くはこのように行動できたらどれほど気持ちいいだろうかと思いながら見ていたことでしょう。その一方で、所詮ドラマ、実際はこんなことできないよと諦めの心境に陥る人もいることでしょう。せめてその時間だけは現実逃避してスカーッとした気持ちを味わい、ストレス解消ができれば何よりです。
ドラマはファンタジーですので、ドラマを現実社会に当てはめて論じるというのも無理はあります。ただ現実で起こっている理不尽なことがらを社会的に多くの人びとに認知してもらうという観点ではとても意義深いことであると思います。ある経営者はドラマはつくりものなので一切見ないという人がいます。実際、彼は会社ではまったく社員と話が通じず、浮いた状況になっています。ドラマは事実とは違っていたとしてもそこに学ぶものもあるので、素直に取り込まれてみるのもいいかと思います。
実際の社会で半沢直樹のような社員が企業で生きていけるのかというと意見が分かれるところです。おそらくNOという人が多いのではないかと思います。もちろん私はNOです。そういった社員を見たこともなければ、自分がそのようにふるまうことも無理だと思うからです。半沢直樹はドラマの中ではヒーローですが、実際彼一人の力では何もできません。まず彼をとりまく力になる同僚、そして精神的にサポートしている妻に、直属の上司、極めつけは組織トップの頭取の存在です。そもそも組織のトップが問題を起こしていてそれを変えるには革命しかありません。あるいは下剋上、クーデターです。
大企業などは一般社員には経営トップがどんな人なのかも上っ面しかわかりません。でも会社規模が小さく社長と一般社員の距離が近いとその経営者ができるのかダメなのかは比較的分かりやすいのです。直属の上司がダメでも社長が素晴らしければその会社は希望があります。でも経営トップの社長がダメならその会社には希望がありません。そういう面では半沢直樹はその組織内で戦う意義はあります。そもそも頭取がだめなら彼のような人材は使わないでしょうし、彼は離脱して他の企業に行くほうがいいでしょう。
組織で半沢直樹のような人材を上層部がどう見るかです。問題をあぶり出し、経営を正常化する逸材と見るのか、問題を起こし、組織を振り回す問題児と見るのかです。前者のような見方ができる人は相当器の大きい人です。後者は保守的で人間関係も波風立てず無難に過ごしたい人です。そういう面では中野渡頭取は腹のある人です。ただ現実の社会では前者はほとんどお目にかかることはできません。あんなに正義感が強く、モチベーションも高く、決して屈しない屈強な精神力の持ち主でなおかつ良識があるような人はまずいません。人間関係も組織でもうまくやっていける人はやさしい人で空気を読むし、強い言葉が使えません。逆に問題をすぐ起こす人は空気を読まず、人の気持ちを無視して平気でキツイことが言えます。そして強くてワンマンで自己中心的です。その両者のいいとこ取りしたような人格の人はなかなかお目にかかれません。
寝食忘れ、命がけで悪に立ち向かう刑事や正義の味方は現実にはいません。正義感が強いだけで命をかけれる人なんてほとんど世の中にいないのではないかと思います。半沢直樹はなぜあそこまでできるのか、それは父親が大和田常務に見殺しにされたという怨みの情がベースにあるからに他なりません。半沢直樹のモチベーションはそういった負の遺産から来ているのです。そもそも倍返しという概念も仕返しとか復讐という言葉にオブラートをかぶせたような感じです。
ほとんどのドラマが善悪という設定で弱者がいじめられて、強い悪に対して最終的にはやり返すという流れの復讐劇がほとんどです。ハリウッド映画や香港映画のように悪を完全に粉砕して潰すというのとは半沢直樹が違うのはその結末にあります。最後に頭取による人事では大和田常務は降格、半沢は出向人事という内容でした。罪を憎んで人を憎まず、情状酌量の人事です。このことでこのドラマが単なる復讐劇でないことを物語っています。お手柄なのに出向人事という理由はドラマではまったく明かされず、視聴者の判断に委ねてあるわけですが、そこには適材適所という企業の論理やさらに深読みすると中枢に入れると持て余してしまう人材であるという意味もあるかもしれません。
以前流通系の会社で役員をしていた知人から聞いた話で、頭がよくて、できる社員は採らないという話も思い出しました。とにかくそういう社員はできるので将来異端分子、反乱分子にならないとも限らないということでした。独裁色が強い組織でイノベーションは必要なく、何も考えず日々のルーティンをきっちりする、そういう会社ほど執行部はそういう思考になるように思います。銀行も中枢に行くほど、言われたことがきっちりでき、それ以外の不必要なことはやらないほうが喜ばれる硬直化した組織風土もあるのかなと思ってしまった結末でした。
まあ確かに半沢直樹の出向人事は妥当で、より中枢部で管理職なんかやっていたら、それこそストレスがたまって、どうにもならないかもしれません。つねに戦っている人にはそういう職場が合うのかもしれません。半沢も正義の味方ヒーローと同じで、確かに戦隊モノのヒーローがやがて戦いを終えて管理職になるなんてシチュエーションは想像つかないですからね。
いずれにせよ、現実を忘れさせてくれる楽しいドラマでした。次回作に期待しましょう。
かけがえのない人生、大切な人に伝えましょう!トラックバックも大歓迎。しあわせの輪をひろげていきましょう!
2013年9月23日月曜日
2013年9月20日金曜日
日中韓はなかよくなれるのか?③
国境を越えてなかよくなる方法、考え方はいろいろあります。とりあえず思いつくことがらをあげると以下のようになります。
①罪(行為)を憎んで、人を憎まず。
②国家レベルでの対応はあっても、前世代の失敗やその報い(ツケ)は次世代に回さない。
③男・女(最近はカテゴリが増えていますが)、という立場、人間という次元まで抽象度をあげてつきあう。
とにかく日中韓の間で人びとは人間として心の通った普通の関係を築きたいわけです。もちろんそのためにはそれぞれが努力して感情論や社会的に受けてきた教育(他の国から見ると洗脳に他ならない)を越えて一人間として見つめる必要があると思います。もちろん全員がそのレベルになることは不可能です。少なくともPSIではそういう関係構築を標榜しています。そしてよりフラットな関係も目指しています。被害者、加害者という関係、権力者、従属者、あるいは強者、弱者の関係などすべてそういう要素を内包した組織はいずれヒエラルキーを形成し、そのうち間違えるとカルト教団のような組織になってしまう可能性があります。もっとも強い権力を持った人が教祖になってしまうのです。
ヒエラルキーがとても強固な国というと北朝鮮を思い浮かべる人もいるかもしれません。やはり強固な思想統一がなされている国家組織は、カルト教団とても似通っているのです。どの国も民主化政策を進めるのはそうならないようにするためで、それが国民の幸せに直結するからです。王は君臨すれど統治せず、王という個人、人間はつねに間違える可能性を内包しているのです。王はいても実際の政治は民間から選ばれた人が行うというのは理想です。では王は必要ないのかというと国民をまとめるシンボルというカタチであればなんら問題はないと考えます。そして統治者はつねに変わる、変えられることができるということが素晴らしいのです。その統治者も同族でないほうがいいと考えられます。
話が大きく外れましたが、人間は誰しも権力欲や野望をもっています。それは悪いことではないのです。要はそれを自己中心的に使ったりせず、ちゃんとコントロールできるということが、大人になることであると思います。暴力もパワーです。批判するのに暴力や破壊行為を行うということはこれは暴君や独裁者の手法となんら変わりません。ガンジーやキング牧師が歴史的に称賛され続けるのはそういった手法で訴えなかったということがあります。どんな違法な行動をしても反日無罪という観点には、はっきりとNOと言える民度をもてるように誰かがはじめて欲しいものです。
もちろんあまりにそれを容認、あるいは賛成意見が多い社会でNOということは、自殺行為であるかもしれません。国を正すにはその国にいてできないこともたくさんあります。反体制運動家はいつも自由主義の国に亡命して、訴え続けてきました。声を上げることができる国に来て声を上げる、訴えることでその国や国民が少しずつでも気づくことができれば大きな成果です。いずれにせよ改革や変革はたいへんな作業です。ただ革命はとてもリスクがあります。犠牲者もたくさん出ます。
会社、企業でも組織のトップも中枢に近い人びとほど制度に埋め込まれていて身動きがとれません。そういった環境下で気づいてもなかなか行動は起こせないのです。したがって周辺企業、部署から改革の波は徐々に中央に行くとか、第三者委員会など外部人材をつかってやるかしかなかなか方法がありません。ただ周辺過ぎたり、外部では見えてこない部分もあったりして改革のモチベーションが低いというマイナス面もあります。北朝鮮という国も地方にいる人民より、平壌にいる市民や政府高官が亡命したりするのを見ると、やはり中枢ほど問題も見えるということは事実だと思います。
日本と韓国でどちらがより社会的文化の強制度が高いかというとこれは間違いなく韓国です。ひとつの例をあげてみたいのですが、それは国際結婚から垣間見えます。わかりやすく言うと
韓国に嫁に行った日本女性はキムチを漬ける。
日本に嫁に来た韓国女性はキムチを漬ける。
ということです。日本女性ももともと男尊女卑の時代があったのでそのDNAを受け継いでいるからか、韓国社会の旧い風土には適応できるのです。日本では最近見受けられない嫁姑関係が存在していて、その風土に組み込まれています。それをさらに強固にしているのがマザコンに近い韓国の母息子の関係です。韓国に嫁入りした日本女性たちの話を聞くと、かなり精神的には抑圧された生活になっていることを感じます。彼女たちはイベントとしてお好み焼きは作っても、普段の生活ではチヂミをつくるのです。また中には独島(竹島の韓国名)はウリタン(我が【韓国の】領土)と言ってる(言わされている?)日本女性もいます。日本のネット上では目茶苦茶叩かれていますが、韓国ではそうしないと生きていけないのです。
それに比べ、日本に嫁入りした韓国女性は解放されます。キムチもつくれば、竹島は日本の領土なんて言う人はほとんどいません。また日本の男性は台所仕事をする人も多く、主夫も増えています。そして最近は韓国も多いのですが、日本はずいぶん前から核家族化も進み、長男でも親と暮らさない人が多いのです。それでたまに会う嫁姑関係はとてもフラットでカジュアルです。精神的に抑圧される要因は韓国よりは少ないと思います。それに、日本人は悪口は韓国人のいないところで言ってくれるので・・・・。ちなみに直接言ってくれる日本人がいたら、ある面愛情があるのかもしれませんね。
日本には全世界の料理がありますし、今は学校やさまざま自治体で外国の文化を取り入れることを推進しています。その中にはもちろん韓国の民俗文化なども含まれています。日本では日韓のイベントがたくさんあります。韓国では日本の民俗文化紹介やイベントなどはどうなのでしょう。ちなみに中国は政治や歴史問題と民間の交流はかなり分けて行われているように思います。中国は民主主義でない時代を長く続けてきたことと、国が大きすぎることもあり、ある面国家が交渉カードとして使っていることがらに民間があまり振り回されないという面もあります。
日本では九州などはすでに道路標識や街の案内標識などに英語、中国語、韓国語が使われています。韓国では日本人観光客がもっとも多いようですが、標識などはどうなのでしょう。やはり政府が反日ということをカードにつかっているので、それを行政で行うというのはなかなかできないのでしょうか。それでも南大門市場などに行くと販売者はほとんど日本語が話せます。民間レベルでは本音の部分でほとんどの人が日本語の必要性を感じているのでしょう。
韓国には日本の和食、寿司やカレーのチェーン店などが増えています。衣食住から徐々に文化、そして日本そのものを受け入れる状況が公式的に表れるようになることを期待したいものです。すでに日本在住の韓国の人びとはまた違った観点で祖国を見ているのでまた違った考察もできることかと思いますが、韓流好きな日本女性が日本にはたくさんいるように、韓国でも親日であると言っても別に批判されない国になることを願ってやみません。
①罪(行為)を憎んで、人を憎まず。
②国家レベルでの対応はあっても、前世代の失敗やその報い(ツケ)は次世代に回さない。
③男・女(最近はカテゴリが増えていますが)、という立場、人間という次元まで抽象度をあげてつきあう。
とにかく日中韓の間で人びとは人間として心の通った普通の関係を築きたいわけです。もちろんそのためにはそれぞれが努力して感情論や社会的に受けてきた教育(他の国から見ると洗脳に他ならない)を越えて一人間として見つめる必要があると思います。もちろん全員がそのレベルになることは不可能です。少なくともPSIではそういう関係構築を標榜しています。そしてよりフラットな関係も目指しています。被害者、加害者という関係、権力者、従属者、あるいは強者、弱者の関係などすべてそういう要素を内包した組織はいずれヒエラルキーを形成し、そのうち間違えるとカルト教団のような組織になってしまう可能性があります。もっとも強い権力を持った人が教祖になってしまうのです。
ヒエラルキーがとても強固な国というと北朝鮮を思い浮かべる人もいるかもしれません。やはり強固な思想統一がなされている国家組織は、カルト教団とても似通っているのです。どの国も民主化政策を進めるのはそうならないようにするためで、それが国民の幸せに直結するからです。王は君臨すれど統治せず、王という個人、人間はつねに間違える可能性を内包しているのです。王はいても実際の政治は民間から選ばれた人が行うというのは理想です。では王は必要ないのかというと国民をまとめるシンボルというカタチであればなんら問題はないと考えます。そして統治者はつねに変わる、変えられることができるということが素晴らしいのです。その統治者も同族でないほうがいいと考えられます。
話が大きく外れましたが、人間は誰しも権力欲や野望をもっています。それは悪いことではないのです。要はそれを自己中心的に使ったりせず、ちゃんとコントロールできるということが、大人になることであると思います。暴力もパワーです。批判するのに暴力や破壊行為を行うということはこれは暴君や独裁者の手法となんら変わりません。ガンジーやキング牧師が歴史的に称賛され続けるのはそういった手法で訴えなかったということがあります。どんな違法な行動をしても反日無罪という観点には、はっきりとNOと言える民度をもてるように誰かがはじめて欲しいものです。
もちろんあまりにそれを容認、あるいは賛成意見が多い社会でNOということは、自殺行為であるかもしれません。国を正すにはその国にいてできないこともたくさんあります。反体制運動家はいつも自由主義の国に亡命して、訴え続けてきました。声を上げることができる国に来て声を上げる、訴えることでその国や国民が少しずつでも気づくことができれば大きな成果です。いずれにせよ改革や変革はたいへんな作業です。ただ革命はとてもリスクがあります。犠牲者もたくさん出ます。
会社、企業でも組織のトップも中枢に近い人びとほど制度に埋め込まれていて身動きがとれません。そういった環境下で気づいてもなかなか行動は起こせないのです。したがって周辺企業、部署から改革の波は徐々に中央に行くとか、第三者委員会など外部人材をつかってやるかしかなかなか方法がありません。ただ周辺過ぎたり、外部では見えてこない部分もあったりして改革のモチベーションが低いというマイナス面もあります。北朝鮮という国も地方にいる人民より、平壌にいる市民や政府高官が亡命したりするのを見ると、やはり中枢ほど問題も見えるということは事実だと思います。
日本と韓国でどちらがより社会的文化の強制度が高いかというとこれは間違いなく韓国です。ひとつの例をあげてみたいのですが、それは国際結婚から垣間見えます。わかりやすく言うと
韓国に嫁に行った日本女性はキムチを漬ける。
日本に嫁に来た韓国女性はキムチを漬ける。
ということです。日本女性ももともと男尊女卑の時代があったのでそのDNAを受け継いでいるからか、韓国社会の旧い風土には適応できるのです。日本では最近見受けられない嫁姑関係が存在していて、その風土に組み込まれています。それをさらに強固にしているのがマザコンに近い韓国の母息子の関係です。韓国に嫁入りした日本女性たちの話を聞くと、かなり精神的には抑圧された生活になっていることを感じます。彼女たちはイベントとしてお好み焼きは作っても、普段の生活ではチヂミをつくるのです。また中には独島(竹島の韓国名)はウリタン(我が【韓国の】領土)と言ってる(言わされている?)日本女性もいます。日本のネット上では目茶苦茶叩かれていますが、韓国ではそうしないと生きていけないのです。
それに比べ、日本に嫁入りした韓国女性は解放されます。キムチもつくれば、竹島は日本の領土なんて言う人はほとんどいません。また日本の男性は台所仕事をする人も多く、主夫も増えています。そして最近は韓国も多いのですが、日本はずいぶん前から核家族化も進み、長男でも親と暮らさない人が多いのです。それでたまに会う嫁姑関係はとてもフラットでカジュアルです。精神的に抑圧される要因は韓国よりは少ないと思います。それに、日本人は悪口は韓国人のいないところで言ってくれるので・・・・。ちなみに直接言ってくれる日本人がいたら、ある面愛情があるのかもしれませんね。
日本には全世界の料理がありますし、今は学校やさまざま自治体で外国の文化を取り入れることを推進しています。その中にはもちろん韓国の民俗文化なども含まれています。日本では日韓のイベントがたくさんあります。韓国では日本の民俗文化紹介やイベントなどはどうなのでしょう。ちなみに中国は政治や歴史問題と民間の交流はかなり分けて行われているように思います。中国は民主主義でない時代を長く続けてきたことと、国が大きすぎることもあり、ある面国家が交渉カードとして使っていることがらに民間があまり振り回されないという面もあります。
日本では九州などはすでに道路標識や街の案内標識などに英語、中国語、韓国語が使われています。韓国では日本人観光客がもっとも多いようですが、標識などはどうなのでしょう。やはり政府が反日ということをカードにつかっているので、それを行政で行うというのはなかなかできないのでしょうか。それでも南大門市場などに行くと販売者はほとんど日本語が話せます。民間レベルでは本音の部分でほとんどの人が日本語の必要性を感じているのでしょう。
韓国には日本の和食、寿司やカレーのチェーン店などが増えています。衣食住から徐々に文化、そして日本そのものを受け入れる状況が公式的に表れるようになることを期待したいものです。すでに日本在住の韓国の人びとはまた違った観点で祖国を見ているのでまた違った考察もできることかと思いますが、韓流好きな日本女性が日本にはたくさんいるように、韓国でも親日であると言っても別に批判されない国になることを願ってやみません。
ラベル:
学習,
教育,
自分軸(PSI的フレームワーク),
政治
2013年9月19日木曜日
日中韓はなかよくなれるのか?②
今月22日日曜日にすべてのレイシズムやヘイトスピーチに反対する集会がもたれるようです。
http://antiracism.jp/march_for_freedom
最近は日本でも海外でしかお目にかかれないような過激なデモが見られるようになってきました。そのあまりに過激な汚い罵りは、とても日本人とは思えない、もしかしたら日本人ではない人たちが日本人の皮をまとってやっているのではないかと疑いたくなるようなものです。そういったことがコリアタウンと言われる地域で行われています。
同じ日本人として恥ずかしい限りですが、その方法は反日運動で見受けられるような手法と似通ってきています。海外でどんなに反日的な活動があったとしても日本人はつねに冷静に対処する(もちろん反日運動家?からはそういった日本の態度自体も気に食わないのでしょうが)というのがある面、先進国、大人の国という自負心でもあったわけです。ところが最近のもうレイシズムと言わざるをえない状況のデモを見たりするとあっけにとられるしかないのです。
韓国では親日発言の高齢者を殴り殺すという事件が起き、さらにそれを擁護するようなネット上の論調も数多くあったりして、とにかく感情的に冷静さに欠ける行動というのが目につきます。今日のYahooニュースでは下記のような記事が載っています。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130919-00000053-chosun-kr
とにかく最近のアジア三国の状況を見ると領土問題、歴史問題で感情的な行動が激しくなっています。このことは社会情勢自体がより個人に対してストレスの多い病的人格を生み出す要因をつくっているということがあげられると思います。日中韓に共通して言えることは少子高齢化が急速に進んでいて、人間関係の力が著しく低下しているということがあげられると考えます。縦型の上下関係は崩れていき、すでに年長者がえらく、年長者を大切にするという考え方はもうなくなってます。日本ではずいぶん前にそういった上下関係はかなり崩壊し、家族から会社組織までよりフラット化した関係になっています。
韓国も昔の映画と最近の映画やドラマでは大きく変わってきています。昔の映画やドラマでは大人や親の言うことが絶対で子どもや若者は間違っていても従うという社会でした。今は違います。最近のドラマの共通点は親たちの問題が子どもの代に露見して子どもたちの人生が翻弄されるというシチュエーションです。あの有名な冬のソナタも純愛と言いながら、親の世代は純愛じゃなかったよねというお話です。
今は年長者だからといって年下に命令したり強要するような態度の人は、逆に反感を買ってたいへんな目にあいます。何を言いたいかというと権力構造の上下のヒエラルキーがキツイ社会は抑圧された社会なので、徐々にそれらが爆発してしまう状況になっているということを感じます。権力や固定された思想で抑圧している社会は目に見えないフラストレーションがあふれているということなのです。韓国で高齢者を殴り殺した人はもちろん許されるべきではありません。ただそういう親日的言動に対してあまりに過激な行動に出てしまった原因は抑圧された社会やあまりに過激な反日に対するすり込みがなされている教育にもあります。
日本では反韓教育も、反中教育もしません。すなわち歴史教育に感情を持ち込まないのです。また教師が感情的にそういった意識で教育することもありません。いかに感情を入れず、歴史の史実を伝えるかが重要であり、間違っていれば上書きされていくというだけです。感情と言えばむしろ日教組の影響で日本政府に対しての反発を持つような教育のほうが知らぬ間になされていたかもしれません。他国に対して憎悪を抱かせるような教育は絶対しません。
韓国は戦後ずいぶんと民主化がなされてきました。でもまだ民主主義と言い切れないのは、社会の風潮として反対意見や異論が述べれないということがあります。日本では日本人が韓国や中国の立場を擁護する見解を述べても殺されることはありません。政治家が中国でリップサービスをしても、多少のバッシングを受けるくらいで日本にちゃんと帰国して暮らせるのです。歌手のチョ・ヨンナムさんや大学教授オ・ソナさんのこともやはり韓国はきびしいと思わざるをえません。
韓国は半島でつねに他国からの侵略に対峙しなければいけない都合上、また北朝鮮と対峙している関係上思想的な統一が不可欠であったという国家の哀しい事情があります。過去の韓国の歴史をみてもアカ狩りでかなりの人びとが犠牲になっています。でも今、反日感情を子どもたちにどんどん教育しすり込んで何かメリットがあるのでしょうか?反日運動やその意識の高揚がメリットがあるのは二点です。それは
・政権に対する不満や支持率低下に対する国民のガス抜き
・歴史問題の謝罪を通じた賠償金
です。でもよく考えるとあまりおいしいものではありません。たしかにアメリカも戦争をすると支持率が上がります。でも今回のイランへの武力行使にはアメリカ国民は懐疑的です。イギリスは参加しないことを議会で決定しました。アメリカ国民もイラク進攻の際、大量秘密兵器は無かったとか、過去のことから学習しているのです。もう政府に振り回されないよという民主主義国家としての行動をしているわけです。韓国も政府はつねに反日を利用しガス抜きをしているのですが、そういったことは良識ある韓国国民はわかっています。でも幼少時からすり込まれた反日精神はなかなか脱却できない人も多いのです。
経済援助も歴史問題にかけてやるよりは素直に日本への支援を要望したほうが日本国民は歓迎します。まあ韓国ではそういうカタチで支援を受けるということは韓国世論の反対を考えて仕方なくそういう手法しか使えないのかもしれません。北風政策では人の心は開きません。もうほとんどの日本人の心の中には、何回でも謝るけど、結局お金欲しんでしょという認識になってしまっています。もう謝罪要求は金銭要求であるとほとんどの日本人は認識しています。
反日運動は必ずしも韓国や中国の全国民の意識の反映とは考えられません。実際韓国では高齢者の方がたがとても親日の場合が多いのです。私はあの時代はご苦労されたでしょうというと、全く違う答えが返ってくるので恐縮してしまうのです。むしろ植民地時代を体験していない若い人びとの中にとてつもない反日意識を持っている場合を数多く見てきました。これは私としてはとても不思議なことでした。たしかに五情の中で唯一‘怨み’の情だけが時間薬が効かず、時間の経過とともに大きくなるのです。まさに世代が変わると多少消えるのかと思ったら、逆に世代交代とともに怨みや被害者意識は大きくなっているのです。
日本はアメリカに対して過剰な被害者意識は持ちません。というよりそういう教育自体受けていないのです。過剰な被害者意識も加害者意識も、ともに個人の人格に良い影響は与えませんし、ひいては国の発展にもマイナスです。韓国のドラマを見ていていつも思うのは親の問題が子どもに影響を及ぼすのです。でも私は結構ドライなので、親は親、子は子と考えればいいじゃないかと思ったりします。親は先に行く世代、子はこれから歩む世代。親は過去の因習にとらわれ身動きがとれないのです。親に今更価値観を変えろというのは酷です。親は子の幸せを願っています。親離れをすることが結果的に親孝行です。それで子は幸せになれるのですから。親は理解できなくていいのです。
日本の場合は欧米の個人主義や核家族化の影響で、親はもう子どもに親の考えを押し付けなくなりました。韓国はまだまだ家族主義というアジア特有の良きにつけ悪しきにつけそういった考え方が根強いのでそのパラダイムの呪縛ゆえにたいへん苦労するかもしれません。いずれにせよ抑圧が強い国から抑圧が少ない国に来れば、いろんな価値観と接し、もう一度自分や自身の人生を見つめなおす機会が得られます。日本に長年暮らして韓国に帰った知人が、日韓の領土問題になったとき、「日本には日本の言い分がある」とだけ言ったとき、たいへんなことになったそうです。
グローバル化とは多様な価値観を受け入れる、せめて受け止めることから始まります。ダイバーシティという考え方もそうです。韓国ももうそろそろ二回目の民主主義(一回目は軍事政権からの脱却)に飛躍するときを迎えているのではないかと思います。感情に任せた行動による社会で起こっているさまざまな事件はその過渡期に来ている気がします。韓国国民がそれを深刻にとらえ、もっともっと客観的視点に立ってものごとを分析、吟味してほしいものです。韓国はもともと優秀な力のある民族です。それが国自体がもつ制度的埋め込み(制度は文化も含めます)から個の意見が抑圧されて来ました。これを解くのはなかなか困難なことです。
現代グループ創始者の鄭周永(チョン・ジュヨン)氏が生前、「韓国に共産党があってもいい」という発言をし波紋を拡げたことがありました。ここまで成熟した韓国はもういろんな価値観が入っても国が揺るぐことはありません。もう一歩本来的な民主主義が浸透すれば日本の嫌韓感情も溶けて行きます。レイシズム運動も消えていくでしょう。おとなしい日本もあまり追いつめるとそういうことが増えていきます。それでもそういったことは辞めようと日本は日本なりに努力しています。韓国もそういった声が少しずつでも増えていくことを期待したいものです。
http://antiracism.jp/march_for_freedom
最近は日本でも海外でしかお目にかかれないような過激なデモが見られるようになってきました。そのあまりに過激な汚い罵りは、とても日本人とは思えない、もしかしたら日本人ではない人たちが日本人の皮をまとってやっているのではないかと疑いたくなるようなものです。そういったことがコリアタウンと言われる地域で行われています。
同じ日本人として恥ずかしい限りですが、その方法は反日運動で見受けられるような手法と似通ってきています。海外でどんなに反日的な活動があったとしても日本人はつねに冷静に対処する(もちろん反日運動家?からはそういった日本の態度自体も気に食わないのでしょうが)というのがある面、先進国、大人の国という自負心でもあったわけです。ところが最近のもうレイシズムと言わざるをえない状況のデモを見たりするとあっけにとられるしかないのです。
韓国では親日発言の高齢者を殴り殺すという事件が起き、さらにそれを擁護するようなネット上の論調も数多くあったりして、とにかく感情的に冷静さに欠ける行動というのが目につきます。今日のYahooニュースでは下記のような記事が載っています。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130919-00000053-chosun-kr
とにかく最近のアジア三国の状況を見ると領土問題、歴史問題で感情的な行動が激しくなっています。このことは社会情勢自体がより個人に対してストレスの多い病的人格を生み出す要因をつくっているということがあげられると思います。日中韓に共通して言えることは少子高齢化が急速に進んでいて、人間関係の力が著しく低下しているということがあげられると考えます。縦型の上下関係は崩れていき、すでに年長者がえらく、年長者を大切にするという考え方はもうなくなってます。日本ではずいぶん前にそういった上下関係はかなり崩壊し、家族から会社組織までよりフラット化した関係になっています。
韓国も昔の映画と最近の映画やドラマでは大きく変わってきています。昔の映画やドラマでは大人や親の言うことが絶対で子どもや若者は間違っていても従うという社会でした。今は違います。最近のドラマの共通点は親たちの問題が子どもの代に露見して子どもたちの人生が翻弄されるというシチュエーションです。あの有名な冬のソナタも純愛と言いながら、親の世代は純愛じゃなかったよねというお話です。
今は年長者だからといって年下に命令したり強要するような態度の人は、逆に反感を買ってたいへんな目にあいます。何を言いたいかというと権力構造の上下のヒエラルキーがキツイ社会は抑圧された社会なので、徐々にそれらが爆発してしまう状況になっているということを感じます。権力や固定された思想で抑圧している社会は目に見えないフラストレーションがあふれているということなのです。韓国で高齢者を殴り殺した人はもちろん許されるべきではありません。ただそういう親日的言動に対してあまりに過激な行動に出てしまった原因は抑圧された社会やあまりに過激な反日に対するすり込みがなされている教育にもあります。
日本では反韓教育も、反中教育もしません。すなわち歴史教育に感情を持ち込まないのです。また教師が感情的にそういった意識で教育することもありません。いかに感情を入れず、歴史の史実を伝えるかが重要であり、間違っていれば上書きされていくというだけです。感情と言えばむしろ日教組の影響で日本政府に対しての反発を持つような教育のほうが知らぬ間になされていたかもしれません。他国に対して憎悪を抱かせるような教育は絶対しません。
韓国は戦後ずいぶんと民主化がなされてきました。でもまだ民主主義と言い切れないのは、社会の風潮として反対意見や異論が述べれないということがあります。日本では日本人が韓国や中国の立場を擁護する見解を述べても殺されることはありません。政治家が中国でリップサービスをしても、多少のバッシングを受けるくらいで日本にちゃんと帰国して暮らせるのです。歌手のチョ・ヨンナムさんや大学教授オ・ソナさんのこともやはり韓国はきびしいと思わざるをえません。
韓国は半島でつねに他国からの侵略に対峙しなければいけない都合上、また北朝鮮と対峙している関係上思想的な統一が不可欠であったという国家の哀しい事情があります。過去の韓国の歴史をみてもアカ狩りでかなりの人びとが犠牲になっています。でも今、反日感情を子どもたちにどんどん教育しすり込んで何かメリットがあるのでしょうか?反日運動やその意識の高揚がメリットがあるのは二点です。それは
・政権に対する不満や支持率低下に対する国民のガス抜き
・歴史問題の謝罪を通じた賠償金
です。でもよく考えるとあまりおいしいものではありません。たしかにアメリカも戦争をすると支持率が上がります。でも今回のイランへの武力行使にはアメリカ国民は懐疑的です。イギリスは参加しないことを議会で決定しました。アメリカ国民もイラク進攻の際、大量秘密兵器は無かったとか、過去のことから学習しているのです。もう政府に振り回されないよという民主主義国家としての行動をしているわけです。韓国も政府はつねに反日を利用しガス抜きをしているのですが、そういったことは良識ある韓国国民はわかっています。でも幼少時からすり込まれた反日精神はなかなか脱却できない人も多いのです。
経済援助も歴史問題にかけてやるよりは素直に日本への支援を要望したほうが日本国民は歓迎します。まあ韓国ではそういうカタチで支援を受けるということは韓国世論の反対を考えて仕方なくそういう手法しか使えないのかもしれません。北風政策では人の心は開きません。もうほとんどの日本人の心の中には、何回でも謝るけど、結局お金欲しんでしょという認識になってしまっています。もう謝罪要求は金銭要求であるとほとんどの日本人は認識しています。
反日運動は必ずしも韓国や中国の全国民の意識の反映とは考えられません。実際韓国では高齢者の方がたがとても親日の場合が多いのです。私はあの時代はご苦労されたでしょうというと、全く違う答えが返ってくるので恐縮してしまうのです。むしろ植民地時代を体験していない若い人びとの中にとてつもない反日意識を持っている場合を数多く見てきました。これは私としてはとても不思議なことでした。たしかに五情の中で唯一‘怨み’の情だけが時間薬が効かず、時間の経過とともに大きくなるのです。まさに世代が変わると多少消えるのかと思ったら、逆に世代交代とともに怨みや被害者意識は大きくなっているのです。
日本はアメリカに対して過剰な被害者意識は持ちません。というよりそういう教育自体受けていないのです。過剰な被害者意識も加害者意識も、ともに個人の人格に良い影響は与えませんし、ひいては国の発展にもマイナスです。韓国のドラマを見ていていつも思うのは親の問題が子どもに影響を及ぼすのです。でも私は結構ドライなので、親は親、子は子と考えればいいじゃないかと思ったりします。親は先に行く世代、子はこれから歩む世代。親は過去の因習にとらわれ身動きがとれないのです。親に今更価値観を変えろというのは酷です。親は子の幸せを願っています。親離れをすることが結果的に親孝行です。それで子は幸せになれるのですから。親は理解できなくていいのです。
日本の場合は欧米の個人主義や核家族化の影響で、親はもう子どもに親の考えを押し付けなくなりました。韓国はまだまだ家族主義というアジア特有の良きにつけ悪しきにつけそういった考え方が根強いのでそのパラダイムの呪縛ゆえにたいへん苦労するかもしれません。いずれにせよ抑圧が強い国から抑圧が少ない国に来れば、いろんな価値観と接し、もう一度自分や自身の人生を見つめなおす機会が得られます。日本に長年暮らして韓国に帰った知人が、日韓の領土問題になったとき、「日本には日本の言い分がある」とだけ言ったとき、たいへんなことになったそうです。
グローバル化とは多様な価値観を受け入れる、せめて受け止めることから始まります。ダイバーシティという考え方もそうです。韓国ももうそろそろ二回目の民主主義(一回目は軍事政権からの脱却)に飛躍するときを迎えているのではないかと思います。感情に任せた行動による社会で起こっているさまざまな事件はその過渡期に来ている気がします。韓国国民がそれを深刻にとらえ、もっともっと客観的視点に立ってものごとを分析、吟味してほしいものです。韓国はもともと優秀な力のある民族です。それが国自体がもつ制度的埋め込み(制度は文化も含めます)から個の意見が抑圧されて来ました。これを解くのはなかなか困難なことです。
現代グループ創始者の鄭周永(チョン・ジュヨン)氏が生前、「韓国に共産党があってもいい」という発言をし波紋を拡げたことがありました。ここまで成熟した韓国はもういろんな価値観が入っても国が揺るぐことはありません。もう一歩本来的な民主主義が浸透すれば日本の嫌韓感情も溶けて行きます。レイシズム運動も消えていくでしょう。おとなしい日本もあまり追いつめるとそういうことが増えていきます。それでもそういったことは辞めようと日本は日本なりに努力しています。韓国もそういった声が少しずつでも増えていくことを期待したいものです。
ラベル:
学習,
教育,
自分軸(PSI的フレームワーク),
政治
2013年9月18日水曜日
日中韓はなかよくなれるのか?①
日中韓、このアジアでもっとも重要で困難で、ひとくくりにできないこの三国の問題に関してはずっと避けてきた議題です。このブログはコラム式に書いていて、読むのもたいへんだけど、コメント書くのも書きづらいので、いまだにどなたのコメントもいただいておりません。管理人が削除したコメントもありません。
かなり主観的な観点が含まれているように思われるでしょうし、実際八方美人的な論調でないことは間違いありません。それでも読者の方がたが、とりあえず読んでいただいてもコメントまではされないのは、そこまで感情的にヒートアップするような議題をあまりとりあげていないということもあるかもしれません。
今回日中韓というテーマはある面たいへんリスキーなものであるとは思います。でもやはりこの件は避けて通れないものであると思います。PSI的見解をいつか出さないといけないとは思いつつもリスキーなテーマであることから、なかなか踏み切れない部分はありました。なぜならこのブログは中国の人も韓国の人も読んでいただいているからです。私自身中国・韓国の友人がいますし、決して嫌韓でも、嫌中でもないということは断っておきたいと思います。逆に下手な主張をするとネトウヨと呼ばれる人びとの反感を買う可能性もありますが、基本的に私は日本人ですから日本人のごく一般的な価値観をもっていることは否定できません。したがって彼らの気持ちも十分理解できますし、同調したい気にもなります。とりあえずそういったリスクはさておいて、今後少しづつ小出しに見解を述べていきたいと思います。
まず最初に日中韓はなかよくなれるのか?
というテーマに対しての結論をいきなり申しますとそれは可能だということです。というよりすでにそういう関係を築いている人は多いのです。その方法という考え方は極めてシンプルです。それは
男と女(最近は中間の方もおられますが)、人間というレベルまで抽象度をあげてつきあえば可能である。
ということなのです。芸術や文化は国境を越えますが、男女関係も国境を越えやすいのです。そして人間としての関係性はまったく問題がありません。ただその際、どう考えても平行線にしかならない課題はとりあえず棚上げしておくということです。これは個人レベルのつきあいでは可能です。棚上げというと、とても無責任なようですが、実は棚上げせざるえないことがらというのは私たちの人間としての生物学的な価値とはまったく関係がありません。すなわちたまたま生まれた国の立場や主張を押し付けられて、さらに言うとすり込まれているにすぎないのです。
国家的、社会的レベルにおける都合をお仕着せられているのが人間であるということです。そういったことも含めてアイデンティティというものが形成されているのですが、国の領土もこれは歴史の流れの中で人間が勝手に決めたものであって、もし神様がおられるとしたら、まったく関係の無いものであると思います。もちろん直接聞いたわけではないので断定はできません。
国とか社会、さまざまな組織にはそれぞれ人間一個人が巻き込まれるパラダイムを擁しています。その存続のために必要な考え方や都合に合わせての主張は各国、各社会、各組織において違います。そしてそこに異論をとなえると危険であることは周知のとおりです。リスクを負って異論を唱えたり変えようとするのは変革であったり、さらに過激になると革命になったりしますが、それはなかなかたいへんなことです。
日中韓の間に横たわる問題も組織変革みたいなレベルでとらえれる問題ではありません。おそらく今私たちが生きているうちに解決できるなどとは到底考えられないことばかりです。でも私たちは今を生きています。個人レベルにおいてはなかよく暮らしたいし、つきあいたいわけです。だから棚上げというか、生物としての人間とは直接関係の無い社会的な影響から変容している部分は置いといてつきあいましょうということなのです。
もちろん国が違うわけですから、やはり領土問題をはじめ、さまざまな歴史問題など食い違う部分においては大いに議論することはいいことです。むしろどんどんするべきだとも思います。日本人はとくにその部分においてはなかなか下手なのです。本音と建前でつねに和の文化の中で暮らしてきたので、欧米の大学や企業で平気で行われているディベートが上手ではないのです。では中国、韓国の人が得意かというとそうでもありません。感情論に陥りがちになって議論ができなくなる可能性があるのです。
この三国がディベートを成功させるにはスキルとセルフコントロールが必要です。それは内省やセルフコーゼーションというなんでも相手が問題だと批判するのでなく自己批判できる器も必要です。
韓国人の努力目標は、感情的にならず、威圧的になったり、強迫じみた言い回しをすることをさけることです。これは交渉術としては有効な場合がありますが、交渉して自分の要求を相手に飲ませるのが目的ではないということです。負けるが勝ちという言葉がありますが、無理やり追い込めて勝つと後で分が悪くなり、結局人間関係で劣位に転じる可能性が大です。
日本人は本音と建前が人間関係の潤滑油みたいなところが強く、言いにくいことは極力オブラートに包んで表現してしまうということが多いのです。で、結果的に相手にちゃんと伝わっていないということが多く。また甘えの構造からなんで理解してないのと相手を責めるところがあるのです。空気を読んでとか、行間を読んで理解してというのは日本でしか通用しません。最近は世代的に空気が読めなくなっているので、空気を呼んで相手の意図を察して行動できる人は減っています。とにかくはっきりと意見を述べるということが重要です。議論のとき言いたいことを我慢してあとでこそこそ言うのは日本人の悪いところです。
日本人は喧嘩もできない人が多く、裏ではいろいろ言っているのに本人の前ではいい顔で通るというのがあります。そういう人は似非平和主義と私は言っていますが、たまには感情的になったり喧嘩したりするのも人間的でいいのではと思います。日本の犯罪はそういった面でとても陰湿なものが多い気がします。
中国人は過激な反日運動ばかりがメディアに露出されているので、とんでもない過激で感情的だと思われがちですが、それは一部の人です。実際はかなり冷静な人も多いのです。何しろ4000年の歴史がありますし、忍耐強いところもあるのです。ただ自己主張は強いので、相手の事情をよく理解するというスキルは必要な気がします。また計算づくで考えるのでなく、本音で自分をさらけ出すことも必要かと思います。日本人とまたちがって奥深い部分があります。
それぞれ個々のマイナス部分を自覚した人びとが集まって冷静に議論すればとても面白いと思います。もちろん育った環境や遺伝的要素も違いますが、いまあげたような内容を抑えて話し合うというのはとても大変なことです。しゃべり方もすぐ民族性がすぐでてしまいます。それは仕方のないことです。ただ知的にはそういったマイナス部分を念頭に置いておくというのは大切です。受容できる部分は自分にとってプラスになるわけで、どうしても譲れない部分を譲る必要もないのです。平行線になっていいのです。
かなり主観的な観点が含まれているように思われるでしょうし、実際八方美人的な論調でないことは間違いありません。それでも読者の方がたが、とりあえず読んでいただいてもコメントまではされないのは、そこまで感情的にヒートアップするような議題をあまりとりあげていないということもあるかもしれません。
今回日中韓というテーマはある面たいへんリスキーなものであるとは思います。でもやはりこの件は避けて通れないものであると思います。PSI的見解をいつか出さないといけないとは思いつつもリスキーなテーマであることから、なかなか踏み切れない部分はありました。なぜならこのブログは中国の人も韓国の人も読んでいただいているからです。私自身中国・韓国の友人がいますし、決して嫌韓でも、嫌中でもないということは断っておきたいと思います。逆に下手な主張をするとネトウヨと呼ばれる人びとの反感を買う可能性もありますが、基本的に私は日本人ですから日本人のごく一般的な価値観をもっていることは否定できません。したがって彼らの気持ちも十分理解できますし、同調したい気にもなります。とりあえずそういったリスクはさておいて、今後少しづつ小出しに見解を述べていきたいと思います。
まず最初に日中韓はなかよくなれるのか?
というテーマに対しての結論をいきなり申しますとそれは可能だということです。というよりすでにそういう関係を築いている人は多いのです。その方法という考え方は極めてシンプルです。それは
男と女(最近は中間の方もおられますが)、人間というレベルまで抽象度をあげてつきあえば可能である。
ということなのです。芸術や文化は国境を越えますが、男女関係も国境を越えやすいのです。そして人間としての関係性はまったく問題がありません。ただその際、どう考えても平行線にしかならない課題はとりあえず棚上げしておくということです。これは個人レベルのつきあいでは可能です。棚上げというと、とても無責任なようですが、実は棚上げせざるえないことがらというのは私たちの人間としての生物学的な価値とはまったく関係がありません。すなわちたまたま生まれた国の立場や主張を押し付けられて、さらに言うとすり込まれているにすぎないのです。
国家的、社会的レベルにおける都合をお仕着せられているのが人間であるということです。そういったことも含めてアイデンティティというものが形成されているのですが、国の領土もこれは歴史の流れの中で人間が勝手に決めたものであって、もし神様がおられるとしたら、まったく関係の無いものであると思います。もちろん直接聞いたわけではないので断定はできません。
国とか社会、さまざまな組織にはそれぞれ人間一個人が巻き込まれるパラダイムを擁しています。その存続のために必要な考え方や都合に合わせての主張は各国、各社会、各組織において違います。そしてそこに異論をとなえると危険であることは周知のとおりです。リスクを負って異論を唱えたり変えようとするのは変革であったり、さらに過激になると革命になったりしますが、それはなかなかたいへんなことです。
日中韓の間に横たわる問題も組織変革みたいなレベルでとらえれる問題ではありません。おそらく今私たちが生きているうちに解決できるなどとは到底考えられないことばかりです。でも私たちは今を生きています。個人レベルにおいてはなかよく暮らしたいし、つきあいたいわけです。だから棚上げというか、生物としての人間とは直接関係の無い社会的な影響から変容している部分は置いといてつきあいましょうということなのです。
もちろん国が違うわけですから、やはり領土問題をはじめ、さまざまな歴史問題など食い違う部分においては大いに議論することはいいことです。むしろどんどんするべきだとも思います。日本人はとくにその部分においてはなかなか下手なのです。本音と建前でつねに和の文化の中で暮らしてきたので、欧米の大学や企業で平気で行われているディベートが上手ではないのです。では中国、韓国の人が得意かというとそうでもありません。感情論に陥りがちになって議論ができなくなる可能性があるのです。
この三国がディベートを成功させるにはスキルとセルフコントロールが必要です。それは内省やセルフコーゼーションというなんでも相手が問題だと批判するのでなく自己批判できる器も必要です。
韓国人の努力目標は、感情的にならず、威圧的になったり、強迫じみた言い回しをすることをさけることです。これは交渉術としては有効な場合がありますが、交渉して自分の要求を相手に飲ませるのが目的ではないということです。負けるが勝ちという言葉がありますが、無理やり追い込めて勝つと後で分が悪くなり、結局人間関係で劣位に転じる可能性が大です。
日本人は本音と建前が人間関係の潤滑油みたいなところが強く、言いにくいことは極力オブラートに包んで表現してしまうということが多いのです。で、結果的に相手にちゃんと伝わっていないということが多く。また甘えの構造からなんで理解してないのと相手を責めるところがあるのです。空気を読んでとか、行間を読んで理解してというのは日本でしか通用しません。最近は世代的に空気が読めなくなっているので、空気を呼んで相手の意図を察して行動できる人は減っています。とにかくはっきりと意見を述べるということが重要です。議論のとき言いたいことを我慢してあとでこそこそ言うのは日本人の悪いところです。
日本人は喧嘩もできない人が多く、裏ではいろいろ言っているのに本人の前ではいい顔で通るというのがあります。そういう人は似非平和主義と私は言っていますが、たまには感情的になったり喧嘩したりするのも人間的でいいのではと思います。日本の犯罪はそういった面でとても陰湿なものが多い気がします。
中国人は過激な反日運動ばかりがメディアに露出されているので、とんでもない過激で感情的だと思われがちですが、それは一部の人です。実際はかなり冷静な人も多いのです。何しろ4000年の歴史がありますし、忍耐強いところもあるのです。ただ自己主張は強いので、相手の事情をよく理解するというスキルは必要な気がします。また計算づくで考えるのでなく、本音で自分をさらけ出すことも必要かと思います。日本人とまたちがって奥深い部分があります。
それぞれ個々のマイナス部分を自覚した人びとが集まって冷静に議論すればとても面白いと思います。もちろん育った環境や遺伝的要素も違いますが、いまあげたような内容を抑えて話し合うというのはとても大変なことです。しゃべり方もすぐ民族性がすぐでてしまいます。それは仕方のないことです。ただ知的にはそういったマイナス部分を念頭に置いておくというのは大切です。受容できる部分は自分にとってプラスになるわけで、どうしても譲れない部分を譲る必要もないのです。平行線になっていいのです。
ラベル:
学習,
教育,
自分軸(PSI的フレームワーク),
政治
2013年9月9日月曜日
東京五輪招致決定にみる日本のチームワーク
はじめに、日本人として東京のオリンピック・パラリンピック招致決定をうれしく思います。そして安倍首相、猪瀬都知事はじめ関係者の方々への労をねぎらいたいと思います。
最初、日本は他の二国に比べ、自国での五輪招致に対する支持率がとても低く、実際のところ私もそんなに意識はありませんでした。でもそれは国民の多くがおそらく3.11の復興もままならない状態で自国の復興がまず最初ではないかという意識があったからではないかと思います。
でも実際、五輪招致に名乗りを上げたのは、3.11以前ですし、さまざまな苦難があったとはいえ、五輪招致にかぎつけた日本の意地というか底力はたいしたものだと思います。何をやるにも賛否両論あるものです。どんなにいいことだと思ってもそう思わない人もいます。100%一致する政策もなければ、100%好かれる人格の人もいません。ただ、私としては五輪招致に関する活動はどうも東北の人びとの気持ちを置いて行っているようで、いまひとつ納得できないものもあったのですが、最終的には安倍首相や猪瀬都知事の東北の人びとへの配慮の言葉があったことで救われる気持ちになり、今回の五輪招致をいっしょに祝いたいという気持ちに変わりました。
ということで前置きはこれくらいにして、今回の五輪招致の活動のために組織された人びとのチームワークの素晴らしさには敬服しました。もちろんプレゼンの素晴らしさはともかく、それぞれがそれぞれの立場で役割をうまく果たした結果であったと思います。そこにはプレゼン能力や折衝能力といったスキルもさることながら、それのベースとなった目に見えない日本人の文化や価値観があったことは間違いないと思います。そしてそれらをうまく引き出し、アドバイスした五輪招致デザイナーの存在は大きいでしょう。
今回のこのチームはまさに五輪招致というビジョンをもとに寄せ集められた個性派集団です。しかしそのチームワークの素晴らしさはさまざまなメディアを通じて伝わってきました。それはよっぽどうがった見方をしないかぎり、国民の多くがそう感じたのではないかと思います。会社組織のような集団ではない、やはりスポーツらしい全員が一丸となって取り組むという姿勢が随所にみられました。やはり目標が明確でそれにむかっていかに勝利を勝ち取るかという意識、そしてチームの構成員のすべてのモチベーションにあまり格差が見られない状態なのだと感じました。
会社組織や学校の運動会などでも、リンゲルマン効果(集団になると手抜きが発生する)が見られるというのはありますが、今回のチームではそういう感じを受けません。それは東京招致が決定した瞬間、みんなが抱き合って涙した姿にそう感じました。もちろん、これはあくまで私が感じたことを述べているにすぎないので断定はできませんが……。
会社や学校という集団、組織も寄せ集めです。今回のチームが寄せ集めと言っても会社や学校とは違います。会社や学校のビジョンは全体目標以上に個人の幸せにも主眼が置かれています。そしてその二者は必ずしも一致はしていないのです。会社や学校の方針に従わない社員や学生も存在します。でも少なくともこの度のチームにはそういう人はいないはずです。それは日本人というアイデンティティをベースにしているという点も大きいと思います。そこに五輪招致という共通のビジョンを掲げてひとつになれるという集団凝集性がたいへん高い組織です。
普通、集団凝集性が高く、ものすごい一体感をもって動くような組織というと権威主義的である面ビジョンも明確で、組織のトップの独裁色も強いイメージがあります。特に反社会的団体やカルト教団のような組織はとくにそういう傾向が強いと思われます。でも集団凝集性が強いのにそのように権威的にもならなければ、独裁者の存在もいないという状況でそれぞれが役割を果たし、結果も出したというケースです。
これは私はスポーツのチームにみるチームワークは本質的に会社の組織構造とは違うのだということを感じるのです。すなわちひとつの結果を出すために役割分担で形成された組織で、そこに権威的な要素はほとんど見られません。それぞれの役割に対する敬意は払いながらもうまく連係プレーを行い、そこに主従関係という人間関係は皆無と言えます。またビジョンだけで一つになれるかというと、やはりそこには日本人という共通のアイデンティティと日本という国がもつパラダイムが根底にあることは否めません。
いずれにせよ、組織としてのあり方としてかなり理想的なカタチを見ることができたということは今後の組織づくりに参考になる要素がたくさんあったと思います。
最初、日本は他の二国に比べ、自国での五輪招致に対する支持率がとても低く、実際のところ私もそんなに意識はありませんでした。でもそれは国民の多くがおそらく3.11の復興もままならない状態で自国の復興がまず最初ではないかという意識があったからではないかと思います。
でも実際、五輪招致に名乗りを上げたのは、3.11以前ですし、さまざまな苦難があったとはいえ、五輪招致にかぎつけた日本の意地というか底力はたいしたものだと思います。何をやるにも賛否両論あるものです。どんなにいいことだと思ってもそう思わない人もいます。100%一致する政策もなければ、100%好かれる人格の人もいません。ただ、私としては五輪招致に関する活動はどうも東北の人びとの気持ちを置いて行っているようで、いまひとつ納得できないものもあったのですが、最終的には安倍首相や猪瀬都知事の東北の人びとへの配慮の言葉があったことで救われる気持ちになり、今回の五輪招致をいっしょに祝いたいという気持ちに変わりました。
ということで前置きはこれくらいにして、今回の五輪招致の活動のために組織された人びとのチームワークの素晴らしさには敬服しました。もちろんプレゼンの素晴らしさはともかく、それぞれがそれぞれの立場で役割をうまく果たした結果であったと思います。そこにはプレゼン能力や折衝能力といったスキルもさることながら、それのベースとなった目に見えない日本人の文化や価値観があったことは間違いないと思います。そしてそれらをうまく引き出し、アドバイスした五輪招致デザイナーの存在は大きいでしょう。
今回のこのチームはまさに五輪招致というビジョンをもとに寄せ集められた個性派集団です。しかしそのチームワークの素晴らしさはさまざまなメディアを通じて伝わってきました。それはよっぽどうがった見方をしないかぎり、国民の多くがそう感じたのではないかと思います。会社組織のような集団ではない、やはりスポーツらしい全員が一丸となって取り組むという姿勢が随所にみられました。やはり目標が明確でそれにむかっていかに勝利を勝ち取るかという意識、そしてチームの構成員のすべてのモチベーションにあまり格差が見られない状態なのだと感じました。
会社組織や学校の運動会などでも、リンゲルマン効果(集団になると手抜きが発生する)が見られるというのはありますが、今回のチームではそういう感じを受けません。それは東京招致が決定した瞬間、みんなが抱き合って涙した姿にそう感じました。もちろん、これはあくまで私が感じたことを述べているにすぎないので断定はできませんが……。
会社や学校という集団、組織も寄せ集めです。今回のチームが寄せ集めと言っても会社や学校とは違います。会社や学校のビジョンは全体目標以上に個人の幸せにも主眼が置かれています。そしてその二者は必ずしも一致はしていないのです。会社や学校の方針に従わない社員や学生も存在します。でも少なくともこの度のチームにはそういう人はいないはずです。それは日本人というアイデンティティをベースにしているという点も大きいと思います。そこに五輪招致という共通のビジョンを掲げてひとつになれるという集団凝集性がたいへん高い組織です。
普通、集団凝集性が高く、ものすごい一体感をもって動くような組織というと権威主義的である面ビジョンも明確で、組織のトップの独裁色も強いイメージがあります。特に反社会的団体やカルト教団のような組織はとくにそういう傾向が強いと思われます。でも集団凝集性が強いのにそのように権威的にもならなければ、独裁者の存在もいないという状況でそれぞれが役割を果たし、結果も出したというケースです。
これは私はスポーツのチームにみるチームワークは本質的に会社の組織構造とは違うのだということを感じるのです。すなわちひとつの結果を出すために役割分担で形成された組織で、そこに権威的な要素はほとんど見られません。それぞれの役割に対する敬意は払いながらもうまく連係プレーを行い、そこに主従関係という人間関係は皆無と言えます。またビジョンだけで一つになれるかというと、やはりそこには日本人という共通のアイデンティティと日本という国がもつパラダイムが根底にあることは否めません。
いずれにせよ、組織としてのあり方としてかなり理想的なカタチを見ることができたということは今後の組織づくりに参考になる要素がたくさんあったと思います。
2013年9月4日水曜日
自虐ネタの及ぼす影響
お笑いブームはテレビ業界ではすでに完全に定着し、ゴールデンタイムはドラマ以上に人気を博しています。お笑いがなぜウケるかというとやはり現実に言えない本音を笑いを交えていうことで、市民権を得ているのだと思います。すなわち普段言えない上司や権力者に対する無礼講を笑いというオブラートに包みながら行っていると言えるかもしれません。映画でもドラマでもお笑いでさえ、権力者はすべて悪で権力も富もない庶民が善です。世界的にも圧倒的に後者がメジョリティで前者がマイノリティです。世界も企業もあらゆる組織は働き蜂と女王蜂の構図のように一部の権力者によって握られているといっても過言ではありません。それでも日本は世界の中で格差が少ないほうでかなりフラットな社会と言えるのではと思います。
お笑いの本質は、世の中の秩序と逆のケースを見せることもあるのかもしれません。また自虐ネタはまともに見える人ほど効果的です。外見はしっかりしたアナウンサーや芸能人で稼ぎもいいのに私生活はたいへんな恐妻家でかなりたいへんな状況に置かれているということになれば、とても面白いのです。今までの羨望のまなざしから同情のまなざしが向けられ、親近感も好感度もアップしたりします。お笑い芸人は変に思われたり、ブスやブ男に見られるとそれをウリにして結構おいしいわけです。とにかくお笑いという分野はとても奥が深く、なおかつ簡単に定義するのも困難なものではないかと思います。
最近はそういった観点で自虐ネタは視聴者の人気を得る手っ取り早いアイテムです。恐妻家で妻に奴隷のように支配される夫というのは結構面白い話ではありますが、度が過ぎるとあまりいいイメージはもたれなくなります。挙句の果ては恐妻家とレッテルを貼られ、ふがいない男として見られ続けるというリスクもあります。恐妻家になるには妻という第三者の存在があります。妻も芸能人の妻だからと割り切れるならいいのですが、毎回ネタにされてとんでもない鬼嫁というレッテルを貼られるのはあまりいい気はしないでしょう。
昔その手の自虐ネタを連発していた上司がして、結局は部下全員に三下り半をつきつけられるという結果になってしまいました。よく考えると家庭で妻ひとりに手をこまねいている人が部下を管理できるはずがありません。やはりできる上司は会社だけでなく、プライベートも充実しているものです。家庭での不満がたまっていると会社でいい仕事もできるはずはないと考えてしまうのはごく普通のとらえ方だと思います。ということで自虐ネタというのは使い方を間違えたり、度が過ぎるとマイナスに働くこともあるのだということを認識しておくのがいいかと思います。
したがって自虐ネタでもマイナスに働かないように使うのはどうしたらいいのかと考えてみました。それはやはり相手に対して、優越感をあたえ、自分に対しては同情を引き出す、それも自然に、ウザくとられないような方法がいいのではということなのです。昔はよく愚妻とか愚息といった言葉がありましたが、結局自分を含めた家族を引き下げることで相手や相手の家族や境遇を善しとさせてあげるということがありました。日本人の美徳とするところの謙虚、謙遜という観点で相手を持ち上げ気分よくしてあげるというのがコツです。もちろんこれは性格のいい人にするというのが前提で、性格が悪い人はそのまま傲慢になってしまう場合があるので要注意です。
自虐ネタを言ったときに、すかさずそんなことありませんよとフォローするような人にはとても有効かと思います。そういう人には自分をさらけ出して、特にその人よりレベルの低いところをさらけ出して笑いを誘うというのがコミュニケーションの潤滑油としては最高にいいのではないかと思います。学歴が低くかったり、こどもの出来が悪かったりすれば、逆に最高の武器をもっているとでも思えばいいのです。そのことを卑下せず、自虐的にさらっとオシャレに言えたらセンスがいいと思われます。相手が目上の人であったらなおさらグーッと親近感をもってくれて、可愛がってもらえます。
人間は自分よりレベルの高い人とつきあうのは苦手で、自分よりレベルが低いほうがつきあいやすいのです。美人はひいてしまうけど、ブスは気がラクです。イケメンの前では緊張しますが、ブサイクな男には気軽に話せます。
ただ人を選んでください。権威主義的人格の人には効果は逆に出ます。必要以上に傲慢にしてしまい、自分を支配しようとどんどんつけいって来ます。要注意です。フラット感覚のあまり格式ばらないいい人には最適です。微笑ましく思って向こうから友だちリクエストがくるはずです。自虐ネタの有効活用、それはだれも傷つく人がいなくて自分の境遇を話すということです。そして心情面ではけっして卑下したり、劣等感を持たずサラッと笑い話にできるということです。劣等感やホントに不幸だと深刻に思いながら相手に話すと、相手は人生相談を受けるカタチになるので要注意です。
お笑いの本質は、世の中の秩序と逆のケースを見せることもあるのかもしれません。また自虐ネタはまともに見える人ほど効果的です。外見はしっかりしたアナウンサーや芸能人で稼ぎもいいのに私生活はたいへんな恐妻家でかなりたいへんな状況に置かれているということになれば、とても面白いのです。今までの羨望のまなざしから同情のまなざしが向けられ、親近感も好感度もアップしたりします。お笑い芸人は変に思われたり、ブスやブ男に見られるとそれをウリにして結構おいしいわけです。とにかくお笑いという分野はとても奥が深く、なおかつ簡単に定義するのも困難なものではないかと思います。
最近はそういった観点で自虐ネタは視聴者の人気を得る手っ取り早いアイテムです。恐妻家で妻に奴隷のように支配される夫というのは結構面白い話ではありますが、度が過ぎるとあまりいいイメージはもたれなくなります。挙句の果ては恐妻家とレッテルを貼られ、ふがいない男として見られ続けるというリスクもあります。恐妻家になるには妻という第三者の存在があります。妻も芸能人の妻だからと割り切れるならいいのですが、毎回ネタにされてとんでもない鬼嫁というレッテルを貼られるのはあまりいい気はしないでしょう。
昔その手の自虐ネタを連発していた上司がして、結局は部下全員に三下り半をつきつけられるという結果になってしまいました。よく考えると家庭で妻ひとりに手をこまねいている人が部下を管理できるはずがありません。やはりできる上司は会社だけでなく、プライベートも充実しているものです。家庭での不満がたまっていると会社でいい仕事もできるはずはないと考えてしまうのはごく普通のとらえ方だと思います。ということで自虐ネタというのは使い方を間違えたり、度が過ぎるとマイナスに働くこともあるのだということを認識しておくのがいいかと思います。
したがって自虐ネタでもマイナスに働かないように使うのはどうしたらいいのかと考えてみました。それはやはり相手に対して、優越感をあたえ、自分に対しては同情を引き出す、それも自然に、ウザくとられないような方法がいいのではということなのです。昔はよく愚妻とか愚息といった言葉がありましたが、結局自分を含めた家族を引き下げることで相手や相手の家族や境遇を善しとさせてあげるということがありました。日本人の美徳とするところの謙虚、謙遜という観点で相手を持ち上げ気分よくしてあげるというのがコツです。もちろんこれは性格のいい人にするというのが前提で、性格が悪い人はそのまま傲慢になってしまう場合があるので要注意です。
自虐ネタを言ったときに、すかさずそんなことありませんよとフォローするような人にはとても有効かと思います。そういう人には自分をさらけ出して、特にその人よりレベルの低いところをさらけ出して笑いを誘うというのがコミュニケーションの潤滑油としては最高にいいのではないかと思います。学歴が低くかったり、こどもの出来が悪かったりすれば、逆に最高の武器をもっているとでも思えばいいのです。そのことを卑下せず、自虐的にさらっとオシャレに言えたらセンスがいいと思われます。相手が目上の人であったらなおさらグーッと親近感をもってくれて、可愛がってもらえます。
人間は自分よりレベルの高い人とつきあうのは苦手で、自分よりレベルが低いほうがつきあいやすいのです。美人はひいてしまうけど、ブスは気がラクです。イケメンの前では緊張しますが、ブサイクな男には気軽に話せます。
ただ人を選んでください。権威主義的人格の人には効果は逆に出ます。必要以上に傲慢にしてしまい、自分を支配しようとどんどんつけいって来ます。要注意です。フラット感覚のあまり格式ばらないいい人には最適です。微笑ましく思って向こうから友だちリクエストがくるはずです。自虐ネタの有効活用、それはだれも傷つく人がいなくて自分の境遇を話すということです。そして心情面ではけっして卑下したり、劣等感を持たずサラッと笑い話にできるということです。劣等感やホントに不幸だと深刻に思いながら相手に話すと、相手は人生相談を受けるカタチになるので要注意です。
健康管理は自己管理の第一歩
欧米では健康管理ができない人は自己管理ができない人として、まして会社の管理者としてもふさわしくないという風潮もあるとか。健康管理には精神管理と、肉体管理があるわけですが、もちろん前者ができないと当然後者に影響を及ぼすということは明確です。そういう面ではストレスをなるべく受けないようにするという、その考え方や行動はとても重要であると思います。その件に関しては過去ログでいろいろと記してあるので、ご関心がある方は読んでみてください。
ストレスはない、あるいはストレス耐性は高いと思い込んでいても、実際は結構ストレスがたまっていたりします。それは自分では認識できないような場合も多いと思うのです。私はかなり自分が嫌なこと、やりたくないことははっきりとやらないタイプではあるのですが、実際は環境的にストレスは知らないうちにたまっていたりするのを感じます。あまり正確に測れるものではないのですが、気楽にやってみたストレスチェックでストレスは88%でした。もっと気楽にやりましょうとアドバイスが……。気楽に適当にと推進している当の本人がこんな結果ではお話になりません。
ストレスの影響や食生活等の不摂生からか、最近は尿路結石に、緑内障の疑いといろいろと検査で病院、会社、出張となんだか充実してきた最近の生活……。とにかく健康だけは過信せず、健康診断や何か問題があったら、やはり躊躇せず専門家にゆだねる気持ちも重要です。自然療法で治癒させるんだと手遅れになったケースも何件か知っているだけに無理をしないことも大切かなと思うわけです。ちなみに緑内障は最近眼圧が高くなくても起こるということがわかってきているようです。幸いなことに私はたまたま素晴らしい眼科医に出会えたのでよかったのかなと思います。
医師との関係もなんでもぶっちゃけで言えて、はっきりとまた指摘してくれる関係が築けるといいのかなと思います。病気になるといういことは、えっ、なんで私がとショックなこともありますが、それが発見できて、自分のからだに対して少しでもわかることが増えるということは決して悪いことではありません。病気は生活を見直すきっかけを与えてくれますし、そのときの気持ちを忘れずに生活するということはとても大切なことです。人間は誰しもどうしてもラクなほうに行ってしまいがちです。歯磨きを一生懸命するのも虫歯を治療したあとの数か月まで、不摂生な食事を改めて、自然な食事を心がけるのも病気で寝込んだあと数か月程度。とにかく人間って喉元過ぎればって感じでそのときの苦しみや痛みを忘れてしまうのです。
元の生活に戻っていることを認識して、罪悪感を感じつつも、なかなかからだにいいことは始められなければ、続けることもなかなかできないものです。罪を犯した人が留置場で規則正しい生活と食生活で健康になって、からだが健康になることで、心も正されるということで更生するのに環境はとても大切だと思います。ただ出所してまたもとの不健全な生活に戻ると結局再犯してしまうのかもしれません。ということでホントに経済的にもゆとりがあれば、自分が完全に健康になれる環境に自分を置いて管理してもらいたい気にもなります。
人間は努力することはなかなかできません。勉強も社会的な成長も環境に大きく左右されます。それなりの進学校に行けば、落ちこぼれて脱落しない限り、それなりの学校に入学できるでしょう。周りが成長志向だと自分も成長できます。アメリカに行ってしまえば英語はペラペラになれます。とにかく健康も環境がとても大切です。ヘビースモーカーはヘビースモーカーで集まり、アル中の人はアル中仲間ができます。
まず自分でなりたい自分というのを考えて、そうなりたいと思ったら、そうなれる環境に自分を置くことがとても重要です。環境的な与件を一切無視して一人、こういうふうになりたいと思ってもなかなか実現できません。努力するなら、そのもの自体を努力する以上に努力しやすい環境づくりを努力してすることが最も近道であると思います。もちろん病院や薬に対して賛否両論あることは事実です。やたら検査してくださいと粘り強く患者に向き合うのを、病院側の商売、営業と考えるか、素直になってありがたいと思うかもとらえ方で大きく違ってきます。
とにかく一歩踏み出せない場合、何かをきっかけに自分が変われる環境に身を置いてみることはたいへん意義ある選択であると思います。安住の地にずっととどまっていることが自分にとって必ずしもいいことであるのかどうかはシビアに見つめなおす必要もあるようです。いずれにせよ、健康においても何においてもそれを実現するのにもっとも近い方法を考え抜いてそれを勇気をもって踏み出すことを考えたいものです。なぜならその安住の地は自分を完全にスポイルする環境であるかもしれないからです。
ストレスはない、あるいはストレス耐性は高いと思い込んでいても、実際は結構ストレスがたまっていたりします。それは自分では認識できないような場合も多いと思うのです。私はかなり自分が嫌なこと、やりたくないことははっきりとやらないタイプではあるのですが、実際は環境的にストレスは知らないうちにたまっていたりするのを感じます。あまり正確に測れるものではないのですが、気楽にやってみたストレスチェックでストレスは88%でした。もっと気楽にやりましょうとアドバイスが……。気楽に適当にと推進している当の本人がこんな結果ではお話になりません。
ストレスの影響や食生活等の不摂生からか、最近は尿路結石に、緑内障の疑いといろいろと検査で病院、会社、出張となんだか充実してきた最近の生活……。とにかく健康だけは過信せず、健康診断や何か問題があったら、やはり躊躇せず専門家にゆだねる気持ちも重要です。自然療法で治癒させるんだと手遅れになったケースも何件か知っているだけに無理をしないことも大切かなと思うわけです。ちなみに緑内障は最近眼圧が高くなくても起こるということがわかってきているようです。幸いなことに私はたまたま素晴らしい眼科医に出会えたのでよかったのかなと思います。
医師との関係もなんでもぶっちゃけで言えて、はっきりとまた指摘してくれる関係が築けるといいのかなと思います。病気になるといういことは、えっ、なんで私がとショックなこともありますが、それが発見できて、自分のからだに対して少しでもわかることが増えるということは決して悪いことではありません。病気は生活を見直すきっかけを与えてくれますし、そのときの気持ちを忘れずに生活するということはとても大切なことです。人間は誰しもどうしてもラクなほうに行ってしまいがちです。歯磨きを一生懸命するのも虫歯を治療したあとの数か月まで、不摂生な食事を改めて、自然な食事を心がけるのも病気で寝込んだあと数か月程度。とにかく人間って喉元過ぎればって感じでそのときの苦しみや痛みを忘れてしまうのです。
元の生活に戻っていることを認識して、罪悪感を感じつつも、なかなかからだにいいことは始められなければ、続けることもなかなかできないものです。罪を犯した人が留置場で規則正しい生活と食生活で健康になって、からだが健康になることで、心も正されるということで更生するのに環境はとても大切だと思います。ただ出所してまたもとの不健全な生活に戻ると結局再犯してしまうのかもしれません。ということでホントに経済的にもゆとりがあれば、自分が完全に健康になれる環境に自分を置いて管理してもらいたい気にもなります。
人間は努力することはなかなかできません。勉強も社会的な成長も環境に大きく左右されます。それなりの進学校に行けば、落ちこぼれて脱落しない限り、それなりの学校に入学できるでしょう。周りが成長志向だと自分も成長できます。アメリカに行ってしまえば英語はペラペラになれます。とにかく健康も環境がとても大切です。ヘビースモーカーはヘビースモーカーで集まり、アル中の人はアル中仲間ができます。
まず自分でなりたい自分というのを考えて、そうなりたいと思ったら、そうなれる環境に自分を置くことがとても重要です。環境的な与件を一切無視して一人、こういうふうになりたいと思ってもなかなか実現できません。努力するなら、そのもの自体を努力する以上に努力しやすい環境づくりを努力してすることが最も近道であると思います。もちろん病院や薬に対して賛否両論あることは事実です。やたら検査してくださいと粘り強く患者に向き合うのを、病院側の商売、営業と考えるか、素直になってありがたいと思うかもとらえ方で大きく違ってきます。
とにかく一歩踏み出せない場合、何かをきっかけに自分が変われる環境に身を置いてみることはたいへん意義ある選択であると思います。安住の地にずっととどまっていることが自分にとって必ずしもいいことであるのかどうかはシビアに見つめなおす必要もあるようです。いずれにせよ、健康においても何においてもそれを実現するのにもっとも近い方法を考え抜いてそれを勇気をもって踏み出すことを考えたいものです。なぜならその安住の地は自分を完全にスポイルする環境であるかもしれないからです。
登録:
コメント (Atom)