ストレスを溜めないように自然体で楽しく生きていくということをお話してきました。そして自分にもやさしくあることが大切と言いました。ここで一つ注意しておかなくてはならないことは、自分にやさしいことと自分に弱いこととは違うのだということです。
すなわち、自分の感情や欲望をコントロールできた上で自分にやさしくするということです。あまり自分を追い込んだり無理をさせて苦しめることはよくないということなのであって、自分の欲や感情に振り回されてはいけないということなのです。本当に賢い人は自己管理ができている人です。そして感情をある程度コントロールできる人です。もちろんPSI的観点では自然体の人間であることを重要視しますから、怒ったり、泣いたり、笑ったり、悲しんだりと喜怒哀楽を素直に出すこともいいことだと考えます。しかし感情をコントロールできないのは致命的です。むしろそのことによってストレスを溜めてしまい、精神的にも肉体的にも負荷がかかり老化を早めてしまうのです。
世の中で素晴らしい経営者やそれなりの識者であるような人びとであまり肥った人は見ません。アメリカ人はとてもメタボリックな人が多いのですが、アメリカで企業のトップには肥った人はなれないということを聞いたことがあります。それは自己管理さえできないのに会社の経営はもっとできないということです。日本の経営者でも上場企業でよくメディアに露出されるような人びとでメタボな人は見たことがありません。
自己管理はとても大切です。自分にやさしいことはいいことですが、自分(の欲望や感情)に負けてはまったく意味がありません。したがって、いままで論じてきたことは日本人のほぼ8割以上の真面目でいつも頑張る人に向けてのメッセージです。逆に自分に対して弱く、しょっちゅう気分屋になって感情が安定しない人やすぐカーッとなる人、あるいはすぐに周りの言動に左右されて落ち込む人などはそれこそ自分でブレない軸をちゃんと立てなければならないと思います。アルコールやタバコも管理できればいいのですが、それがないと生きていけない状況になってしまっていたらもうすでに健康とは真逆の方向に行っているのであって、自己管理ができていないということになります。私はタバコはもともとからだに悪いと思って吸ったことがないのですが、お酒は多少飲みます。ただみんなで集まって楽しく盛り上がるときに飲むくらいで、毎日晩酌というレベルではありません。お酒もタバコもどんなに周囲で言っても、最終的には自分自身の判断で管理するしか方法はありません。すでに中毒症状に至ってる人はそれこそ自分で気づいて自分にきびしく対処するしか救われる方法はありませんし、誰も注意してくれる人はいません。なぜならみんな大人だから面と向かって言わないのです。最終的に自分のからだは自分が守るしかありません。
人生のパートナーには「私を本当に愛しているのならあなたは健康でいてください。」と言いましょう。自分が健康でなければ最終的には愛する家族に迷惑をかけてしまうことになるからです。もちろんお金がたくさんあるならば、最近では老後にそういう施設に入ることもできますから、まあそこまで健康管理ができない人に無理してPSI的健康法をおススメする必要もないのかもしれませんが…。
でもこのブログを読んでくださっている方々には健康で長生きしてほしいものです。長寿社会は第二、第三の人生が待っているのです。そして老人擁護施設でもときめくような出会いがあるかもしれませんからね。
かけがえのない人生、大切な人に伝えましょう!トラックバックも大歓迎。しあわせの輪をひろげていきましょう!
2013年1月17日木曜日
2013年1月16日水曜日
健康で長生きする秘訣⑥
人間のからだは消耗品です。心も枯れたり、折れたりするというようにあまり負荷をかけすぎると限界を超えてしまいます。いわんやからだはなおさら目に見えて消耗していきます。人間は生まれたときから「死」に向かって間違いなく進んでいるのです。20代までは成長し、たくましくなったり、綺麗になっていくという感じですが、30代に突入しつつ、徐々に人生は「老い」のプロセスを歩んでいるのだと自覚するようになります。PSIでは人生を楽しく有意義に謳歌する意味で、短い人生より長生きの人生のほうがいいですし、長生きするなら寝たきりにならないように健康で生きたいということを推奨しています。
健康でストレスを受けず長生きする秘訣は、自然体でありのままの自分をさらけ出して生きるということをお話しました。でも私たちはひとりで生きているのではありません。さまざまな人びととの関係性をもって生きているのです。気を使ったり、我慢したり、あるいは誤解から喧嘩になったりとさまざまな経験を積みます。そういう中で、それでもストレスを受けない生き方を考えて自然体の行き方を目指すのなら、やはりすべてが自分の思うようにはいかないという現実を受け入れることと、すべての人が自分をいい人だと見るという非現実的な発想を捨てることが重要になってきます。それがすなわち
「あきらめる」と「どう思われてもいい」
という二つの観点でした。
そして人に対してはもちろんのこと、自分に対してもやさしくあるべきということも重要です。
現代社会は精神疾患がとても多いように見受けられますが、「うつ」も社会問題化しています。もともと「うつ」になる人はとても真面目な人が多いのです。初めからいい加減な人や、チャランポランな人はあまり「うつ」とは関係ありません。「うつ」になる人は真面目で、自分に対してきびしい人も多いのです。ですから、自分が理想とするレベルに行かない状況がずっと続くとその理想と現実のギャップに悩み続けます。最後まで妥協できず、悩み続けた人が、ある時期を過ぎるとプツンと風船の糸が切れたように「うつ」状態になってしまいます。真面目で趣味もあまりなく仕事一筋のような人も危険です。なぜならそこにしか心の拠り所がないので、仕事で問題が起き続けると救われる環境がないからです。もし仕事以外にいろいろと軸足があれば、仕事での問題が自分の心に占める割合は低くなるから精神的にラクなのです。
「うつ」の人に頑張っては禁句だと言われています。実は頑張りすぎてそれでも結果が出なかったからそうなったのです。会社もダメな会社は結果が出ないことを社員のせいにしてどこまでも追い込む会社があります。でも結果が出ないのはもともと市場のニーズがないものを売っていたり、会社のシステムに問題があったりするのです。保守的で一つのやり方で大きな実績を出した、いわゆる過去の栄光が大きい会社は変化する時代の流れについていけず、旧態依然たる老朽化した手法を相変わらず使って仕事をさせているので、結果は出ないのです。そういう会社や経営陣の問題を客観的に見抜いて、自分の才能に問題があるのではないということに気づけばいいのですが、新人で入ったり、長年働いてきて、いままでの手法が通用せず、いくらやっても不毛の闘いを繰り返すようになるといつの間にか我知らずそういった精神的なダメージを患うようになっていくのです。
「あきらめる」も「どう思われてもいい」は「うつ」症状の人びとには福音のようなフレーズであると確信します。肩の荷を下ろしてください。もっと気楽に生きようよということです。もともと人生は与えられたものであり、生まれたということは計り知れないくらい尊いのものであり、奇跡です。そのことを考えながら、自分の分もわきまえて、あまり追い込んではいけません。いまのあなたで十分です。そのままの自分がいちばん輝いているのです。
とにかく世の中の常識というものを疑問視しましょう。成功哲学なんかも元気な人が金儲けするためのスキルの土台となる精神論です。それを好きな人もいるでしょう。また成功哲学を信奉する人びと、特にそれを生業としている人びとは、それに関心を持たなかったり、受け入れない人びとに対してとても勿体無いような言い方をしますが、それはその思想に引き込むための方便に過ぎません。勝ち組、負け組という分け方、しあわせ、不幸せという言い方、それらはとても主観的な言い方であって、人それぞれ見る観点が違えば、まったく違ってきます。またバツ一、バツ二といった言い方などもありますが、お笑い芸人たちがそれらを自虐ネタにすることで、最近はあまり悪いイメージはないのでこだわる理由もないのかもしれません。いずれにせよ世の中の評価は絶対的なものではありません。したがってそういった世の中の常識や社会通念で自分を評価して落ち込む必要は全くありません。ただ「うつ」になりやすい人は完璧主義的な人も多く、必要以上に自分で自分を低く評価してしまうキライがあるので注意しましょう。
自分大好き人間、いわゆる「ナルシスト」がもっともストレスがなく理想的です。それでいて傲慢でなく、素が出てお茶目な性格なら周りも好意的に受け入れてくれること間違いなしです。個性的な魅力こそ人間本来の魅力であり、完全な美男美女なんて面白くありません。落語で「美人は3日で飽きるが、ブスは3日で馴れる」というのがありますが、一理あります。有名人でも美男美女が案外、結婚できなくて、そうでない人が結婚したりします。もちろん結婚するしないは、人それぞれの考え方ですのでそれはどちらでもいいのですが、完璧でないほうが魅力的なのです。日本人は八重歯をかわいいとする美的感覚があります。それは未成熟なところに魅力を感じるからだそうです。皆さんもそういった経験はないですか。私は男性なので男の立場で言及すると、美人なのにちょっと手が荒れてたり、とか美人なのにちょっと歯並びがイマイチとかというのを目にすると心がキュンとなったり、安心感を覚えたりします。完璧でないところが相手に安心感を与えるのです。芸能人でもものすごい美人がずっと彼氏もできないというのをよく目にします。人間、完璧すぎるとひくのです。
最近は整形の技術がとても高いので、完璧な容姿は作ることができます。でもそれには個性がないのです。たくさんの女性が綺麗で長い足を出して歌って踊っても一人ひとりを区別できず、覚えられないのです。日本のアイドルはほとんど整形をしていないためにはっきり言ってデコボコです。でも何度か見ていると名前まで覚えてしまうのです。お父さんはAKBの中では○○ちゃんがいいなと言ったりすると娘からはキモ~イと言われてしまうありさまです。
少しは自信がつきましたか。皆さんはありのままで十分輝いているのです。みんなに好かれる必要もないのです。自然体で素を出して、それを受け入れてくれる人は自分と相性のいい人です。芸能人の中でもその素のほうをウリにしているお笑い芸人は結構、美人と結婚したりします。女性も男性も美しさとかかっこよさに惹かれるのではなく、その人がもつ本来の個性の輝きに惹かれるのです。これからは自分の持ち味、個性を伸ばしてより充実した人生にしていきましょう。
健康でストレスを受けず長生きする秘訣は、自然体でありのままの自分をさらけ出して生きるということをお話しました。でも私たちはひとりで生きているのではありません。さまざまな人びととの関係性をもって生きているのです。気を使ったり、我慢したり、あるいは誤解から喧嘩になったりとさまざまな経験を積みます。そういう中で、それでもストレスを受けない生き方を考えて自然体の行き方を目指すのなら、やはりすべてが自分の思うようにはいかないという現実を受け入れることと、すべての人が自分をいい人だと見るという非現実的な発想を捨てることが重要になってきます。それがすなわち
「あきらめる」と「どう思われてもいい」
という二つの観点でした。
そして人に対してはもちろんのこと、自分に対してもやさしくあるべきということも重要です。
現代社会は精神疾患がとても多いように見受けられますが、「うつ」も社会問題化しています。もともと「うつ」になる人はとても真面目な人が多いのです。初めからいい加減な人や、チャランポランな人はあまり「うつ」とは関係ありません。「うつ」になる人は真面目で、自分に対してきびしい人も多いのです。ですから、自分が理想とするレベルに行かない状況がずっと続くとその理想と現実のギャップに悩み続けます。最後まで妥協できず、悩み続けた人が、ある時期を過ぎるとプツンと風船の糸が切れたように「うつ」状態になってしまいます。真面目で趣味もあまりなく仕事一筋のような人も危険です。なぜならそこにしか心の拠り所がないので、仕事で問題が起き続けると救われる環境がないからです。もし仕事以外にいろいろと軸足があれば、仕事での問題が自分の心に占める割合は低くなるから精神的にラクなのです。
「うつ」の人に頑張っては禁句だと言われています。実は頑張りすぎてそれでも結果が出なかったからそうなったのです。会社もダメな会社は結果が出ないことを社員のせいにしてどこまでも追い込む会社があります。でも結果が出ないのはもともと市場のニーズがないものを売っていたり、会社のシステムに問題があったりするのです。保守的で一つのやり方で大きな実績を出した、いわゆる過去の栄光が大きい会社は変化する時代の流れについていけず、旧態依然たる老朽化した手法を相変わらず使って仕事をさせているので、結果は出ないのです。そういう会社や経営陣の問題を客観的に見抜いて、自分の才能に問題があるのではないということに気づけばいいのですが、新人で入ったり、長年働いてきて、いままでの手法が通用せず、いくらやっても不毛の闘いを繰り返すようになるといつの間にか我知らずそういった精神的なダメージを患うようになっていくのです。
「あきらめる」も「どう思われてもいい」は「うつ」症状の人びとには福音のようなフレーズであると確信します。肩の荷を下ろしてください。もっと気楽に生きようよということです。もともと人生は与えられたものであり、生まれたということは計り知れないくらい尊いのものであり、奇跡です。そのことを考えながら、自分の分もわきまえて、あまり追い込んではいけません。いまのあなたで十分です。そのままの自分がいちばん輝いているのです。
とにかく世の中の常識というものを疑問視しましょう。成功哲学なんかも元気な人が金儲けするためのスキルの土台となる精神論です。それを好きな人もいるでしょう。また成功哲学を信奉する人びと、特にそれを生業としている人びとは、それに関心を持たなかったり、受け入れない人びとに対してとても勿体無いような言い方をしますが、それはその思想に引き込むための方便に過ぎません。勝ち組、負け組という分け方、しあわせ、不幸せという言い方、それらはとても主観的な言い方であって、人それぞれ見る観点が違えば、まったく違ってきます。またバツ一、バツ二といった言い方などもありますが、お笑い芸人たちがそれらを自虐ネタにすることで、最近はあまり悪いイメージはないのでこだわる理由もないのかもしれません。いずれにせよ世の中の評価は絶対的なものではありません。したがってそういった世の中の常識や社会通念で自分を評価して落ち込む必要は全くありません。ただ「うつ」になりやすい人は完璧主義的な人も多く、必要以上に自分で自分を低く評価してしまうキライがあるので注意しましょう。
自分大好き人間、いわゆる「ナルシスト」がもっともストレスがなく理想的です。それでいて傲慢でなく、素が出てお茶目な性格なら周りも好意的に受け入れてくれること間違いなしです。個性的な魅力こそ人間本来の魅力であり、完全な美男美女なんて面白くありません。落語で「美人は3日で飽きるが、ブスは3日で馴れる」というのがありますが、一理あります。有名人でも美男美女が案外、結婚できなくて、そうでない人が結婚したりします。もちろん結婚するしないは、人それぞれの考え方ですのでそれはどちらでもいいのですが、完璧でないほうが魅力的なのです。日本人は八重歯をかわいいとする美的感覚があります。それは未成熟なところに魅力を感じるからだそうです。皆さんもそういった経験はないですか。私は男性なので男の立場で言及すると、美人なのにちょっと手が荒れてたり、とか美人なのにちょっと歯並びがイマイチとかというのを目にすると心がキュンとなったり、安心感を覚えたりします。完璧でないところが相手に安心感を与えるのです。芸能人でもものすごい美人がずっと彼氏もできないというのをよく目にします。人間、完璧すぎるとひくのです。
最近は整形の技術がとても高いので、完璧な容姿は作ることができます。でもそれには個性がないのです。たくさんの女性が綺麗で長い足を出して歌って踊っても一人ひとりを区別できず、覚えられないのです。日本のアイドルはほとんど整形をしていないためにはっきり言ってデコボコです。でも何度か見ていると名前まで覚えてしまうのです。お父さんはAKBの中では○○ちゃんがいいなと言ったりすると娘からはキモ~イと言われてしまうありさまです。
少しは自信がつきましたか。皆さんはありのままで十分輝いているのです。みんなに好かれる必要もないのです。自然体で素を出して、それを受け入れてくれる人は自分と相性のいい人です。芸能人の中でもその素のほうをウリにしているお笑い芸人は結構、美人と結婚したりします。女性も男性も美しさとかかっこよさに惹かれるのではなく、その人がもつ本来の個性の輝きに惹かれるのです。これからは自分の持ち味、個性を伸ばしてより充実した人生にしていきましょう。
2013年1月14日月曜日
体罰について②
前回、体罰に関して意見を述べてきましたが、時代の流れとともに、いままでは問題にもならなかったようなことがらがいまでは大きな問題とされることが多くなりました。いじめ問題も昔の親のアプローチはいじめられたら、やり返して来いでしたが、いまはそうはいきません。
戦後の経済の高度成長時代には、兄弟も多く、地域社会にも子どもたちがあふれていました。いまのように一人っ子が多く友だちもあまりいない時代とは違って、子どもたちだけで社会が形成されていたのです。そういう中でぶつかったり、逃げたり、喧嘩したり、仲直りしたり、親が仕事と家事におわれる中、子どもたちは自分たちで自分たちの問題は解決したのです。そういう中で圧倒的に人間関係のスキルを身につけて、いじめはあってもそれをうまく回避したりする術を得ていたのです。またいじめるほうも、相手に対してどこまでやっていいのかという加減をある程度知っていたとも言えます。手加減という感覚がわかった時代でもありました。しかし、現代ではそういう人間関係の力、すなわちコミュニケーション能力といえるものや、人間同士の間合いなども感覚的にわからないくなってきています。
いじめはいつの間にか傷害事件となり、体罰も暴力事件になっています。いじめの被害者と加害者の問題はその原因が家庭環境にあるということは言われています。ここではそのことには触れませんが、どちらも大きな傷や問題をかかえています。今後教育の分野で必要となるのは、タブーなき家庭での子育てのあり方を研究していかなければならないことです。いじめの加害者になるタイプはどのような家庭環境にあるのか、いじめられやすいのはどのような家庭環境であるのかということに関してです。私は小中学校とどちらの感覚も味わったことがあるので、なんとなくわかる部分があります。もちろん学術的にそういったデータをとって調べていくという必要があると思います。ただ問題はあくまで家庭というプライベートな空間や親たちのプライバシーにも踏み込まなければならないため、こういった研究は簡単ではないでしょう。この件に関してはまた機会があれば論じてみたいと思います。
学校でのいじめや教師による体罰を言う前に、家庭内でのDV(Domestic Violence)の問題があります。DVを行ってしまう親は自分の親から同様のDVを受けていたということがあります。自分はこのような親になってはいけないと思いつつ、実際子どもに対しては自分の親が自分にしたようにしていまうという事実です。人間はダメな親や上司を反面教師として学びますが、知らずのうちに自分がされたように子どもや部下にしてしまうということがあります。特に体育会系の指導というものは間違いなく、代々受け継いできた方法を実践するはずです。指導教官自身も昔受けていた指導方法にのっとって指導するということは当然です。もしそれが変わるとしたら、指導教官が変わるときです。
戦前の軍国主義の時代は全体主義であり、一つの方向性に全体が向かっているため、上官のやり方に異を唱えることはできません。なぜならば上官の指示命令は正しいという前提に立っているからです。ある面体育会系の部活動も一つの目標に向かって全員が取り組んでおり、全員が指導教師に信頼をおいているがゆえに、それに異を唱えることはできないようになっています。今回体罰で自殺された生徒もそのチーム全体の空気は十分読んでいたはずです。それで帰宅して両親にしかその気持ちを打ち明けることはできなかったのだろうと思います。
おそらく彼も指導教師の考えや管理手法に必死でついていこうとしていたはずですし、それに対して批判するという気持ちはもっていたかどうかわかりません。ただ体罰を受けたことに対する悔しさやふがいなさはきっとあったことと思います。実は私も中学校のとき似たような体験をして、彼の気持ちが理解できる気がします。体罰を受けたり、いじめを受ける人びとの傷は受けた人でなければ理解できません。たくさん殴られたり、精神的にあるいは肉体的に傷つけられると、人間はどうなるかというと悔しさから涙が出てきます。それは相手に対する怨みというより、自分という存在を守れなかった自分に対する悔しさです。怨みではなく、恨みです。監督に対する怨みでなく、自分自身に対するやるせない気持ちです。すなわち自分という人間の尊厳が大きく損なわれたことに対する深い悲しみです。難しい言葉で蹂躙という言葉があります。自分という世の中にたった一人しかいないかけがえのない存在が弄ばれたことに対する人間本来の悲しみです。
もちろん加害者となっている人の言い分もあるでしょう。またその人を擁護する人も言いたいことがあるでしょう。しかしここではっきり申し上げたいことは、いじめも、体罰も相手を傷つけることに変わりはないということです。行為としては同じです。相手の尊厳が傷つけられているとしたらそれはすでに犯罪に限りなく近いということを認識するべきです。体罰を行い続けている教師は体罰でしか子どもを管理できない教育、指導スキルの未熟さに気づくべきです。学校も企業も教育、指導などというきれいな言葉で隠して実際は人間の尊厳を弄ぶ慣行ができあがっていないか、まずチェックするべきです。特にその組織のトップにいる人はその部分をいかに注意深く見ていくかが重要になります。
戦後の経済の高度成長時代には、兄弟も多く、地域社会にも子どもたちがあふれていました。いまのように一人っ子が多く友だちもあまりいない時代とは違って、子どもたちだけで社会が形成されていたのです。そういう中でぶつかったり、逃げたり、喧嘩したり、仲直りしたり、親が仕事と家事におわれる中、子どもたちは自分たちで自分たちの問題は解決したのです。そういう中で圧倒的に人間関係のスキルを身につけて、いじめはあってもそれをうまく回避したりする術を得ていたのです。またいじめるほうも、相手に対してどこまでやっていいのかという加減をある程度知っていたとも言えます。手加減という感覚がわかった時代でもありました。しかし、現代ではそういう人間関係の力、すなわちコミュニケーション能力といえるものや、人間同士の間合いなども感覚的にわからないくなってきています。
いじめはいつの間にか傷害事件となり、体罰も暴力事件になっています。いじめの被害者と加害者の問題はその原因が家庭環境にあるということは言われています。ここではそのことには触れませんが、どちらも大きな傷や問題をかかえています。今後教育の分野で必要となるのは、タブーなき家庭での子育てのあり方を研究していかなければならないことです。いじめの加害者になるタイプはどのような家庭環境にあるのか、いじめられやすいのはどのような家庭環境であるのかということに関してです。私は小中学校とどちらの感覚も味わったことがあるので、なんとなくわかる部分があります。もちろん学術的にそういったデータをとって調べていくという必要があると思います。ただ問題はあくまで家庭というプライベートな空間や親たちのプライバシーにも踏み込まなければならないため、こういった研究は簡単ではないでしょう。この件に関してはまた機会があれば論じてみたいと思います。
学校でのいじめや教師による体罰を言う前に、家庭内でのDV(Domestic Violence)の問題があります。DVを行ってしまう親は自分の親から同様のDVを受けていたということがあります。自分はこのような親になってはいけないと思いつつ、実際子どもに対しては自分の親が自分にしたようにしていまうという事実です。人間はダメな親や上司を反面教師として学びますが、知らずのうちに自分がされたように子どもや部下にしてしまうということがあります。特に体育会系の指導というものは間違いなく、代々受け継いできた方法を実践するはずです。指導教官自身も昔受けていた指導方法にのっとって指導するということは当然です。もしそれが変わるとしたら、指導教官が変わるときです。
戦前の軍国主義の時代は全体主義であり、一つの方向性に全体が向かっているため、上官のやり方に異を唱えることはできません。なぜならば上官の指示命令は正しいという前提に立っているからです。ある面体育会系の部活動も一つの目標に向かって全員が取り組んでおり、全員が指導教師に信頼をおいているがゆえに、それに異を唱えることはできないようになっています。今回体罰で自殺された生徒もそのチーム全体の空気は十分読んでいたはずです。それで帰宅して両親にしかその気持ちを打ち明けることはできなかったのだろうと思います。
おそらく彼も指導教師の考えや管理手法に必死でついていこうとしていたはずですし、それに対して批判するという気持ちはもっていたかどうかわかりません。ただ体罰を受けたことに対する悔しさやふがいなさはきっとあったことと思います。実は私も中学校のとき似たような体験をして、彼の気持ちが理解できる気がします。体罰を受けたり、いじめを受ける人びとの傷は受けた人でなければ理解できません。たくさん殴られたり、精神的にあるいは肉体的に傷つけられると、人間はどうなるかというと悔しさから涙が出てきます。それは相手に対する怨みというより、自分という存在を守れなかった自分に対する悔しさです。怨みではなく、恨みです。監督に対する怨みでなく、自分自身に対するやるせない気持ちです。すなわち自分という人間の尊厳が大きく損なわれたことに対する深い悲しみです。難しい言葉で蹂躙という言葉があります。自分という世の中にたった一人しかいないかけがえのない存在が弄ばれたことに対する人間本来の悲しみです。
もちろん加害者となっている人の言い分もあるでしょう。またその人を擁護する人も言いたいことがあるでしょう。しかしここではっきり申し上げたいことは、いじめも、体罰も相手を傷つけることに変わりはないということです。行為としては同じです。相手の尊厳が傷つけられているとしたらそれはすでに犯罪に限りなく近いということを認識するべきです。体罰を行い続けている教師は体罰でしか子どもを管理できない教育、指導スキルの未熟さに気づくべきです。学校も企業も教育、指導などというきれいな言葉で隠して実際は人間の尊厳を弄ぶ慣行ができあがっていないか、まずチェックするべきです。特にその組織のトップにいる人はその部分をいかに注意深く見ていくかが重要になります。
2013年1月13日日曜日
体罰について①
大阪の市立桜宮高校のバスケットボール部の主将だった生徒が指導教員の体罰が原因で自殺をした問題がいま話題になっています。いじめによる自殺から体罰による自殺まで、教育の現場ではとても多くの問題をかかえています。
実は私も中学時代に似たような体験をしたために今回の事件はとても他人事では済まされない内容だと痛感しています。今日某テレビに体罰を容認というか肯定する人と、体罰を否定する人の両方が出て激論を交わしていました。前者は過去民間で青少年の更正を実践してきた人で絶対的に体罰推進派です。後者はテレビでおなじみのコメンテーターで体罰は完全に否定されていました。
私は絶対的に体罰は暴力であると考えます。体罰を与えることを正当化する人びとは理由をいろいろと言われます。しかしそれはたまたまいい結果が出ることで確信を得て、体罰至上主義のようになっている人びとです。もともと更正できないほどの人格は過去に相当大きな問題をかかえており、対症療法的に荒治療で短期間に治すことは可能かもしれません。ただそれが正しいことなのかは別問題です。まして今回のケースは学校の部活動での出来事です。自殺をした彼が、人間的に問題があったわけでもなんでもありません。
PSIでは人間の尊厳ということをとても重要視します。そして教育の現場に関わらず、あらゆる組織において地位のある人は組織内において権威や権限、権力を有しているのです。それをいいことに他者に危害を加えることは間違いなく暴力行為であり、犯罪であり、人間の尊厳を大きく傷つけることになります。今回、自殺された生徒さんは社会的にとても大きな問題を提議してくれました。実際に亡くなられたことで社会問題として明るみに出たのですが、家庭、学校、会社、さまざまな組織はとても密室になりやすく、より上位者の言動が正当化される風土に間違いなくなっています。最近はそういった弊害を無くすために風通しのいい組織とかフラット化いうことがどんどん取り入れられていますが、なかなか難しいのです。
組織において上位者は本当に人格的に素晴らしい素養を持っていなければたいへん危険です。人格的に素晴らしいというのは自分をつねに客観視したり学習しながら謙虚さを失わない人です。会社やさまざまな組織で上に行けば行くほど、権力のうまみにはまって、素直に従う下部組織の人びとを自分の道具のように好き放題にしてしまうという人が現れてきます。ひどい状況になると自覚症状のないまま「サイコパス」のようになってしまう上位者もいます。
なぜそういう人びとが組織内でのさばり続けることができるのか。それはより上位者にはいい顔をして、下には圧力をかけるというタイプが多いので、より上位の人にはできる人としか映らないからです。そして無理しても下部の人びとに実績を上げさせますのでさらにより上位の人びとからは信頼を得るというカタチで居座り続けることになります。すなわち「トラの威を駆るキツネ」タイプが多くとても権威主義的な人格の人です。わかりやすく言うと
「上にペコペコ、下にガミガミ」
です。私が以前本部の部長であったとき、現場の店長ですごくヨイショがうまい太鼓もちの人がいました。でもその人に対する部下(店舗スタッフ)の評判は最悪でした。そのとき気づいたことは、人を判断するのに上からだけ見てはダメだということでした。松井証券の松井社長は役職者の評価を部下にさせるという話をされていました。それによって給料が決まるのです。
体罰で屈服させて組織をまとめる。すなわち恐怖によって組織を統制する。そういったやり方は組織の成員全体の自立心を著しく阻害するため、誰もがその上位者を告発するという方向には行かないのです。それも同じ組織内で告発した場合、間違いなく告発者は裏切り者とレッテルを貼られ、その組織内の上位グループの権力者たちの臭いものに蓋という観点から、あるいは成員全体のかもし出す同調圧力によって潰されるか、組織をやめざる得ない状況に追いやられます。
その体罰を行った指導教員はおそらく過去の実績(成功体験)から同じ手法を改めることはまずできないでしょうし、実績が素晴らしいほど自分の手法に酔いしれ、自惚れや傲慢さなどがさらにそういった体罰をエスカレートさせる方向にいったのではないかと思います。
教育の現場はとても閉鎖的な密閉空間です。企業やその他の組織において一つの目標をもって同じ方向を目指す組織であればあるほど気をつけなければならないのは、権力を傘に人間の個人個人の尊厳を大きく傷つける行為が行われやすいということであり、またその組織の中にいる全員が沈黙をまもり、傍観者になることで大きな同調圧力や集団圧力をつくりあげていまうという危険性をはらんでいることを認識するべきです。昨今、企業ではセクハラにはじまり、パワハラ、モラハラなど理不尽なことがあまりにも多く横行しています。匿名でもなんでもとにかく声をあげて組織の成員全員に気づきを与えて、被害者にも加害者にもならないよう個人的にも組織全体の取り組みとしても努力していかなければならないと考えます。
実は私も中学時代に似たような体験をしたために今回の事件はとても他人事では済まされない内容だと痛感しています。今日某テレビに体罰を容認というか肯定する人と、体罰を否定する人の両方が出て激論を交わしていました。前者は過去民間で青少年の更正を実践してきた人で絶対的に体罰推進派です。後者はテレビでおなじみのコメンテーターで体罰は完全に否定されていました。
私は絶対的に体罰は暴力であると考えます。体罰を与えることを正当化する人びとは理由をいろいろと言われます。しかしそれはたまたまいい結果が出ることで確信を得て、体罰至上主義のようになっている人びとです。もともと更正できないほどの人格は過去に相当大きな問題をかかえており、対症療法的に荒治療で短期間に治すことは可能かもしれません。ただそれが正しいことなのかは別問題です。まして今回のケースは学校の部活動での出来事です。自殺をした彼が、人間的に問題があったわけでもなんでもありません。
PSIでは人間の尊厳ということをとても重要視します。そして教育の現場に関わらず、あらゆる組織において地位のある人は組織内において権威や権限、権力を有しているのです。それをいいことに他者に危害を加えることは間違いなく暴力行為であり、犯罪であり、人間の尊厳を大きく傷つけることになります。今回、自殺された生徒さんは社会的にとても大きな問題を提議してくれました。実際に亡くなられたことで社会問題として明るみに出たのですが、家庭、学校、会社、さまざまな組織はとても密室になりやすく、より上位者の言動が正当化される風土に間違いなくなっています。最近はそういった弊害を無くすために風通しのいい組織とかフラット化いうことがどんどん取り入れられていますが、なかなか難しいのです。
組織において上位者は本当に人格的に素晴らしい素養を持っていなければたいへん危険です。人格的に素晴らしいというのは自分をつねに客観視したり学習しながら謙虚さを失わない人です。会社やさまざまな組織で上に行けば行くほど、権力のうまみにはまって、素直に従う下部組織の人びとを自分の道具のように好き放題にしてしまうという人が現れてきます。ひどい状況になると自覚症状のないまま「サイコパス」のようになってしまう上位者もいます。
なぜそういう人びとが組織内でのさばり続けることができるのか。それはより上位者にはいい顔をして、下には圧力をかけるというタイプが多いので、より上位の人にはできる人としか映らないからです。そして無理しても下部の人びとに実績を上げさせますのでさらにより上位の人びとからは信頼を得るというカタチで居座り続けることになります。すなわち「トラの威を駆るキツネ」タイプが多くとても権威主義的な人格の人です。わかりやすく言うと
「上にペコペコ、下にガミガミ」
です。私が以前本部の部長であったとき、現場の店長ですごくヨイショがうまい太鼓もちの人がいました。でもその人に対する部下(店舗スタッフ)の評判は最悪でした。そのとき気づいたことは、人を判断するのに上からだけ見てはダメだということでした。松井証券の松井社長は役職者の評価を部下にさせるという話をされていました。それによって給料が決まるのです。
体罰で屈服させて組織をまとめる。すなわち恐怖によって組織を統制する。そういったやり方は組織の成員全体の自立心を著しく阻害するため、誰もがその上位者を告発するという方向には行かないのです。それも同じ組織内で告発した場合、間違いなく告発者は裏切り者とレッテルを貼られ、その組織内の上位グループの権力者たちの臭いものに蓋という観点から、あるいは成員全体のかもし出す同調圧力によって潰されるか、組織をやめざる得ない状況に追いやられます。
その体罰を行った指導教員はおそらく過去の実績(成功体験)から同じ手法を改めることはまずできないでしょうし、実績が素晴らしいほど自分の手法に酔いしれ、自惚れや傲慢さなどがさらにそういった体罰をエスカレートさせる方向にいったのではないかと思います。
教育の現場はとても閉鎖的な密閉空間です。企業やその他の組織において一つの目標をもって同じ方向を目指す組織であればあるほど気をつけなければならないのは、権力を傘に人間の個人個人の尊厳を大きく傷つける行為が行われやすいということであり、またその組織の中にいる全員が沈黙をまもり、傍観者になることで大きな同調圧力や集団圧力をつくりあげていまうという危険性をはらんでいることを認識するべきです。昨今、企業ではセクハラにはじまり、パワハラ、モラハラなど理不尽なことがあまりにも多く横行しています。匿名でもなんでもとにかく声をあげて組織の成員全員に気づきを与えて、被害者にも加害者にもならないよう個人的にも組織全体の取り組みとしても努力していかなければならないと考えます。
2013年1月8日火曜日
自分軸とは①
PSIでは自分軸を確立することにより、有意義で楽しい人生を送ることを提案しています。自分軸という言葉に関してはさまざまな人びとがいろいろな話をしています。今日はPSI的な観点での自分軸といものをお話していきたいと思います。
自分軸を定義するならば、
「自分が何ごとにも左右されてない自然体にある状態での意思とそれに基づく信念」
です。
ここで問題となるのは、では「自分」というのは果たしてなんだろうということです。よくアイデンティティという言葉が用いられますが、人間には自然に備わった意思として帰属意識というのがあります。自分が何者であるのか分からない状態は極めて不安定な状態で、つねに自分の存在価値を明確にさせるために国籍や、性別、家族関係やさまざまな社会における集団への帰属意識が働くのが人間です。
もともと人間は自分の意思でこの世に生を受けたわけではありません。したがって自分の意思というのは先天的というより後天的に備わっていったと考えられなくもありません。いわゆる物心ついたという状況がそれにあたるかもしれません。人によっては前世を覚えているとか言い出す人もいますが、そういった不確定なことや宗教的観点(信じる信じないの世界になる)で論じることはPSIでは扱いません。
ただ親や先祖から受け継いだ性格や癖といったものは血統的に深くDNAの中に埋め込まれているのかもしれません。そう考えると自分の意思というものを形成しているのは先代から脈々と受け継がれたものも間違いなくあるでしょう。いずれにせよ自分という存在、自分そのものが何なのか、これは簡単に一言で答えを出すことは困難です。
「自分」を形成している要素として一つは親から代々受け継いできたもの、そして二つ目は親やその生育環境の中で直接影響を受けたことがらがあげられます。考えてみてください。自分がいま日本以外の国や地域で生まれ育ったなら、いまの考え方や行動をしているだろうかということを。間違いなく、「自分」は家庭環境やいままで出会った人びと、学校教育、マスメディア(テレビ、ラジオ、音楽、映画、芸術……)、そして自分が所属した会社やその他集団組織などなど、あげたらキリがないほど関わりをもって学習したり、影響を受けたりしてつくりあげられたものなのです。
したがって、人間の人格形成は生まれたときからすでに埋め込まれた状態にありながら成長してきたと言っても過言ではありません。そして生まれたときからいわゆる組織へ所属している状態にあるのです。それは家庭であったり、学校、企業、あるいは宗教やさまざまなコミュニティであったりします。そう考えるとどうしても完璧な本来の「自分」というものを確定させることは困難に思えてきますし、おそらく不可能ではないかと思います。逆にそれができると言ってしまうことには思考がカルトチックになる危険性もあるので避けたいのです。妥協するというと残念な気持ちになりますが、実際、人間というものを考えるとき明確に答えを出してしまうとそれは宗教になってしまいます。宗教はある面不確定なことがらに対して明確に(ただ論理性は多少あっても科学性には欠ける)答えを出し、それを信じるという行為により精神的安定感をもたらすという役割があります。宗教の良し悪しを論ずるのでなく、PSIは不確定なことには言及しないということです。ただ科学的に「自分」を明確に定義することは困難です。しかし「自分軸」を確立するという観点ではある程度の結論を出さなければ話が先に進みません。
世間一般でアイデンティティというとやはり人生の中で形成されてきた帰属意識であると考えられます。でもそれらは、本来の「自分」の一部分は現れていても、つくられた、すり込まれた副次的な「自分」の部分が多いと考えざるをえません。たとえば日本を取り巻く領土問題を論じるときには、ここで言うところの本来の「自分」とは直接的には関係ありません。もちろん私は日本人ですので、日本人一般の考え方に同調します。すなわち日本人としてのアイデンティティ、すなわち本来の「自分」+副次的に形成された「自分」による判断です。より大枠で自分をとらえると日本人としての思考に落ち着きます。おそらく日本人、韓国人、中国人はそれぞれアイデンティティ形成がそれぞれ違うので、同じ考えを持つことは困難です。どこまでも通約不可能性による平行線です。うまくいけば理解するところまではいけるかもしれませんが、受け入れる、あるいは同じ考え方をもつというのはおそらく無理でしょう。もしそうなれば一旦自分のアイデンティティをリセットしなければならないからです。ただ郷に入りては郷に従えはどうしても生きていくうえでの知恵として必要であると思いますし、実際そういった行動をとることは当事者になってみない限り批判する権利はないと思います。少々話がそれていますが、PSIのいうところの自分軸が立った人、すなわち本来的「自分」をベースにした思考では大枠のアイデンティティによるところの関係性ではないので、アジア圏であれ、世界中の人びとともうまくつきあっていけるはずです。なぜなら平行線になるところの価値観よりもっと本質的な人間自体が共有できる価値観でつきあえるからです。
自分軸を定義するならば、
「自分が何ごとにも左右されてない自然体にある状態での意思とそれに基づく信念」
です。
ここで問題となるのは、では「自分」というのは果たしてなんだろうということです。よくアイデンティティという言葉が用いられますが、人間には自然に備わった意思として帰属意識というのがあります。自分が何者であるのか分からない状態は極めて不安定な状態で、つねに自分の存在価値を明確にさせるために国籍や、性別、家族関係やさまざまな社会における集団への帰属意識が働くのが人間です。
もともと人間は自分の意思でこの世に生を受けたわけではありません。したがって自分の意思というのは先天的というより後天的に備わっていったと考えられなくもありません。いわゆる物心ついたという状況がそれにあたるかもしれません。人によっては前世を覚えているとか言い出す人もいますが、そういった不確定なことや宗教的観点(信じる信じないの世界になる)で論じることはPSIでは扱いません。
ただ親や先祖から受け継いだ性格や癖といったものは血統的に深くDNAの中に埋め込まれているのかもしれません。そう考えると自分の意思というものを形成しているのは先代から脈々と受け継がれたものも間違いなくあるでしょう。いずれにせよ自分という存在、自分そのものが何なのか、これは簡単に一言で答えを出すことは困難です。
「自分」を形成している要素として一つは親から代々受け継いできたもの、そして二つ目は親やその生育環境の中で直接影響を受けたことがらがあげられます。考えてみてください。自分がいま日本以外の国や地域で生まれ育ったなら、いまの考え方や行動をしているだろうかということを。間違いなく、「自分」は家庭環境やいままで出会った人びと、学校教育、マスメディア(テレビ、ラジオ、音楽、映画、芸術……)、そして自分が所属した会社やその他集団組織などなど、あげたらキリがないほど関わりをもって学習したり、影響を受けたりしてつくりあげられたものなのです。
したがって、人間の人格形成は生まれたときからすでに埋め込まれた状態にありながら成長してきたと言っても過言ではありません。そして生まれたときからいわゆる組織へ所属している状態にあるのです。それは家庭であったり、学校、企業、あるいは宗教やさまざまなコミュニティであったりします。そう考えるとどうしても完璧な本来の「自分」というものを確定させることは困難に思えてきますし、おそらく不可能ではないかと思います。逆にそれができると言ってしまうことには思考がカルトチックになる危険性もあるので避けたいのです。妥協するというと残念な気持ちになりますが、実際、人間というものを考えるとき明確に答えを出してしまうとそれは宗教になってしまいます。宗教はある面不確定なことがらに対して明確に(ただ論理性は多少あっても科学性には欠ける)答えを出し、それを信じるという行為により精神的安定感をもたらすという役割があります。宗教の良し悪しを論ずるのでなく、PSIは不確定なことには言及しないということです。ただ科学的に「自分」を明確に定義することは困難です。しかし「自分軸」を確立するという観点ではある程度の結論を出さなければ話が先に進みません。
世間一般でアイデンティティというとやはり人生の中で形成されてきた帰属意識であると考えられます。でもそれらは、本来の「自分」の一部分は現れていても、つくられた、すり込まれた副次的な「自分」の部分が多いと考えざるをえません。たとえば日本を取り巻く領土問題を論じるときには、ここで言うところの本来の「自分」とは直接的には関係ありません。もちろん私は日本人ですので、日本人一般の考え方に同調します。すなわち日本人としてのアイデンティティ、すなわち本来の「自分」+副次的に形成された「自分」による判断です。より大枠で自分をとらえると日本人としての思考に落ち着きます。おそらく日本人、韓国人、中国人はそれぞれアイデンティティ形成がそれぞれ違うので、同じ考えを持つことは困難です。どこまでも通約不可能性による平行線です。うまくいけば理解するところまではいけるかもしれませんが、受け入れる、あるいは同じ考え方をもつというのはおそらく無理でしょう。もしそうなれば一旦自分のアイデンティティをリセットしなければならないからです。ただ郷に入りては郷に従えはどうしても生きていくうえでの知恵として必要であると思いますし、実際そういった行動をとることは当事者になってみない限り批判する権利はないと思います。少々話がそれていますが、PSIのいうところの自分軸が立った人、すなわち本来的「自分」をベースにした思考では大枠のアイデンティティによるところの関係性ではないので、アジア圏であれ、世界中の人びとともうまくつきあっていけるはずです。なぜなら平行線になるところの価値観よりもっと本質的な人間自体が共有できる価値観でつきあえるからです。
2013年1月7日月曜日
ストレス回避の極意③
ストレスを回避するにはつねに自然体で自分軸を立てるということが重要であるとお話しました。ただ自然体で生きるということはとてもたいへんなことです。これは決して自己中心的にエゴイスティックな生き方をするという意味ではありません。これは言葉で理解する以上に実践していくうちに得られるようなものだといえるかもしれません。
自分の個性を押し殺さずに生かしながら周囲にもいいイメージで受け取られるというのが実際PSIで標榜するところの自分軸の立った生き方です。あの人は自己中ねと言われるか、あの人みたいに自由に生きたいわと羨ましがられるかの違いです。実際前者はホントの意味で自分軸が立った人ではありません。前者は明らかに組織の論理にしたがって権威をふりかざしたり人間の尊厳を理解しない人であったりします。ホントの意味で個性を生かして自分軸を立てて生きる人は決して周囲に苦痛を与えたり、他者を自分の利益のために利用したりすることはありません。
まず自分軸を立てるには自然体で生きることであり、それを実現するためにはまず素の自分が何であるのかを知ることからはじめる必要があります。したがって押し殺していた感情もむき出しにしていいのです。でもいままで生きてきた中で、すぐに自分の感情をコントロールしてしまう癖がついています。それを引き出すのです。そのためには自分が心から体験してみたいことを実践してみるというのがあります。心の奥底で自分がしたいことをいわば、恥ずかしげもなく、年甲斐もなくやってみるということです。最近はずいぶんとアンダーグラウンドな世界が日の目をみるようになってきました。コスプレをしたり、子どもよりもおじさんたちがプラモデルやフィギュアにはまり、おじさんバンドを結成したりしています。街で見かける母娘は娘より母親の方が若くて可愛い格好をした人が結構いたりします。現代社会ではいい歳こいてとか、はしたないなんて批判する老人はいなくなりました。自然体で生きるにはとてもいい環境ができあがりつつあります。ちなみに私もオフのときは平気で若い世代が着るような服を着て、以前は家内に「あなた、それ、あなたの息子が着るような服よ。」と白い目で見られていました。でもいまはもう慣れたのでしょう。何も言わなくなり、家内のほうが娘と服を共有できることを自慢にする状況になっています。恥ずかしがらずにやってみてください。自分の殻を打ち壊すことで本来の自分の姿が現れてきます。
またストレス解消にいいと言われるのが現実逃避という内容です。現実逃避は日常で隠されていた素の自分を引き出すのにはもってこいです。皆さんも体験があると思いますが、居酒屋に行って酔っ払って豹変する女性とか、カラオケで人格が変わってしまう人、ゲームなどでいきなり過激になる人などいろいろあげられることと思います。テーマパークなどに行くのもおススメですし、映画もその世界にどっぷり入るとストレス解消や素の自分に戻れるいい機会を与えてくれます。特に私がおススメするのは非現実的な映画です。アクションものでもファンタジーなものでも、またはお腹をかかえて笑えるコメディもおススメです。とにかく大きく感動したり自分の思考の枠を超えるようなものがいいと思います。感動するは英語でdeeply movedですが、直訳すると深く動かされるということです。心や感情が大きく揺れ動かされるような体験こそが素の自分を引き出すのには最適であると考えられます。
素の自分は、普段の本音と建前を使い分けている自分ではありません。喜怒哀楽がストレートに表現できてこそ自分の本来の姿を認識することができるようになります。背伸びをする必要はありません。引け目を感じることも必要ありません。強い自分も弱い自分もいずれも愛すべき、愛されるはずのあなたに備わったキャラです。それがあなたの本当の人格であり、魅力的な姿なのです。
自分以外の誰か、他者によって決められてしまう人生でなく、心から自分が納得し、楽しい人生を送るためにもぜひ自分のホントの姿に出会って心から解放感を感じつつ、いままでの自分(環境によってつくられた思考や姿)からの解放、さまざまなストレスを回避できる自分を目指していきましょう。
ストレス回避はもともと勝てない敵とは戦わないという考え方です。逃げるが勝ち(孫氏の兵法)は決して卑怯でも何でもありません。人生賢く生きる術です。そして自分軸を立てにくい環境を排除するということも必要ですので、それについてはまたお話したいと思います。
自分の個性を押し殺さずに生かしながら周囲にもいいイメージで受け取られるというのが実際PSIで標榜するところの自分軸の立った生き方です。あの人は自己中ねと言われるか、あの人みたいに自由に生きたいわと羨ましがられるかの違いです。実際前者はホントの意味で自分軸が立った人ではありません。前者は明らかに組織の論理にしたがって権威をふりかざしたり人間の尊厳を理解しない人であったりします。ホントの意味で個性を生かして自分軸を立てて生きる人は決して周囲に苦痛を与えたり、他者を自分の利益のために利用したりすることはありません。
まず自分軸を立てるには自然体で生きることであり、それを実現するためにはまず素の自分が何であるのかを知ることからはじめる必要があります。したがって押し殺していた感情もむき出しにしていいのです。でもいままで生きてきた中で、すぐに自分の感情をコントロールしてしまう癖がついています。それを引き出すのです。そのためには自分が心から体験してみたいことを実践してみるというのがあります。心の奥底で自分がしたいことをいわば、恥ずかしげもなく、年甲斐もなくやってみるということです。最近はずいぶんとアンダーグラウンドな世界が日の目をみるようになってきました。コスプレをしたり、子どもよりもおじさんたちがプラモデルやフィギュアにはまり、おじさんバンドを結成したりしています。街で見かける母娘は娘より母親の方が若くて可愛い格好をした人が結構いたりします。現代社会ではいい歳こいてとか、はしたないなんて批判する老人はいなくなりました。自然体で生きるにはとてもいい環境ができあがりつつあります。ちなみに私もオフのときは平気で若い世代が着るような服を着て、以前は家内に「あなた、それ、あなたの息子が着るような服よ。」と白い目で見られていました。でもいまはもう慣れたのでしょう。何も言わなくなり、家内のほうが娘と服を共有できることを自慢にする状況になっています。恥ずかしがらずにやってみてください。自分の殻を打ち壊すことで本来の自分の姿が現れてきます。
またストレス解消にいいと言われるのが現実逃避という内容です。現実逃避は日常で隠されていた素の自分を引き出すのにはもってこいです。皆さんも体験があると思いますが、居酒屋に行って酔っ払って豹変する女性とか、カラオケで人格が変わってしまう人、ゲームなどでいきなり過激になる人などいろいろあげられることと思います。テーマパークなどに行くのもおススメですし、映画もその世界にどっぷり入るとストレス解消や素の自分に戻れるいい機会を与えてくれます。特に私がおススメするのは非現実的な映画です。アクションものでもファンタジーなものでも、またはお腹をかかえて笑えるコメディもおススメです。とにかく大きく感動したり自分の思考の枠を超えるようなものがいいと思います。感動するは英語でdeeply movedですが、直訳すると深く動かされるということです。心や感情が大きく揺れ動かされるような体験こそが素の自分を引き出すのには最適であると考えられます。
素の自分は、普段の本音と建前を使い分けている自分ではありません。喜怒哀楽がストレートに表現できてこそ自分の本来の姿を認識することができるようになります。背伸びをする必要はありません。引け目を感じることも必要ありません。強い自分も弱い自分もいずれも愛すべき、愛されるはずのあなたに備わったキャラです。それがあなたの本当の人格であり、魅力的な姿なのです。
自分以外の誰か、他者によって決められてしまう人生でなく、心から自分が納得し、楽しい人生を送るためにもぜひ自分のホントの姿に出会って心から解放感を感じつつ、いままでの自分(環境によってつくられた思考や姿)からの解放、さまざまなストレスを回避できる自分を目指していきましょう。
ストレス回避はもともと勝てない敵とは戦わないという考え方です。逃げるが勝ち(孫氏の兵法)は決して卑怯でも何でもありません。人生賢く生きる術です。そして自分軸を立てにくい環境を排除するということも必要ですので、それについてはまたお話したいと思います。
ストレス回避の極意②
PSIでは自分軸という概念に自然体という観点をとても重要視しています。自分軸という概念の定義も必要ですが、とりあえずその話は次の機会にしたいと思います。
まず自分軸を立てるには、自分自身が自然体でなければならないという話です。なぜそうなのかというと自然体でないという状態は自分以外の第三者や環境による影響を受けて本来の自分自身の姿が著しく損なわれているという状態であると考えられます。
長きにわたって自分の意見や考え、また感情を押し殺させられるような環境にどっぷりとつかった状態では本来の自分の姿を見失っている状態であり、自分軸を立てるどころか自分の人生自体の主体性が著しく損なわれ、自分という存在さえわからなくなってしまう状況に至ることさえあります。特にうつ状態になりやすい人はいつも人の意見や周りの目が気になり、自分がどうしたらいいか自分で判断することさえできない状態、すなわち限界を超えたしまった状態にあると考えられます。またパワハラやモラハラが常態化している企業や組織、カルト教団等では自分自身の意見や考えを否定しなければ生きていけないので自分軸という考え方は許容されず、本当の自分を見失っている人が多いのです。したがってそういう人びとは自分軸を立てる以前にまずそういった環境下で培われた、あるいはすり込まれたフレーム(ものごとの考え方やとらえ方)を崩していく作業が必要となります。まず白紙の状態に戻すということが必要です。そのためには
「いままであたりまえと思っていたことを疑問視する。」
ということが必要で、まずそのレベルまで到達しなければ、自然体になって自分軸を立てるところまでは行きません。要するにリハビリをしないといけない自分であるという認識がまず必要だということです。
実は上記のような硬直したヒエラルキー組織やカルトチックな組織でなくとも、人間は一つのことをずっとやりつづけると専門家になりプロになりますが、無能化したり自分を見失ったりします。それでよく大きな仕事をなして順風満帆で生きているような人がいきなり旅人になって自分探しのたびに出たりするのです。人間は行くところまで行くとこれでいいのだろうかという思いになることがあるのです。発展途上の国々にはうつはあまりいません。先進国になるほどうつや精神疾患が増えてくるのはなぜでしょうか。食べることに必死な状況にある人びとが人生について悩むゆとりがあるでしょうか。経済的にも豊かで食べることに悩まない状況になると人間はより本質的な問題を考えるようになります。このことはマズローの欲求五段階説を参考にしていただければご理解いただけると思います。
また人は無能レベルまで昇進する(ピーターの法則)という話がありますが、そうならないためにはつねに発展シロがある状況に自分を保っていくという方法があります。長年にわたって経営トップにいるような人で誰からも何も指摘されないような立場ではすでに無能レベルになってしまっている人も多いと考えられます。こういった人びとは自分軸というより環境により作られた自己中心軸が立っているとでも言ったほうがいいのかもしれません。それはその組織の論理に基づく極めて不自然な思考による軸であるのです。もちろんそのことは自分では分かりません。そういう危険性に気づいている人は最近は社外から専門家を招いてエグゼクティヴコーチングを受ける人もいます。
とにかく年齢をかさねるごとに経験則による思考と自分を押し殺してうまく立ち回る人間関係のスキルができあがっているのです。自然体になるには、まず素の自分をもう一度出してみることも必要です。ただ日常生活の中ではどうしてもできない状況もあるでしょう。会社や所属している組織内では、急に素を出すと「えっ、○○さんってそんなキャラだった?」とビックリされるかもしれません。自然体になるにはまず素の自分を出せる環境に行きましょう。人がいて恥ずかしいなら自分の部屋やひとりになれる環境に行く、すなわち素を出せない環境、現実から逃避してみるのがとても効果的です。
まず自分軸を立てるには、自分自身が自然体でなければならないという話です。なぜそうなのかというと自然体でないという状態は自分以外の第三者や環境による影響を受けて本来の自分自身の姿が著しく損なわれているという状態であると考えられます。
長きにわたって自分の意見や考え、また感情を押し殺させられるような環境にどっぷりとつかった状態では本来の自分の姿を見失っている状態であり、自分軸を立てるどころか自分の人生自体の主体性が著しく損なわれ、自分という存在さえわからなくなってしまう状況に至ることさえあります。特にうつ状態になりやすい人はいつも人の意見や周りの目が気になり、自分がどうしたらいいか自分で判断することさえできない状態、すなわち限界を超えたしまった状態にあると考えられます。またパワハラやモラハラが常態化している企業や組織、カルト教団等では自分自身の意見や考えを否定しなければ生きていけないので自分軸という考え方は許容されず、本当の自分を見失っている人が多いのです。したがってそういう人びとは自分軸を立てる以前にまずそういった環境下で培われた、あるいはすり込まれたフレーム(ものごとの考え方やとらえ方)を崩していく作業が必要となります。まず白紙の状態に戻すということが必要です。そのためには
「いままであたりまえと思っていたことを疑問視する。」
ということが必要で、まずそのレベルまで到達しなければ、自然体になって自分軸を立てるところまでは行きません。要するにリハビリをしないといけない自分であるという認識がまず必要だということです。
実は上記のような硬直したヒエラルキー組織やカルトチックな組織でなくとも、人間は一つのことをずっとやりつづけると専門家になりプロになりますが、無能化したり自分を見失ったりします。それでよく大きな仕事をなして順風満帆で生きているような人がいきなり旅人になって自分探しのたびに出たりするのです。人間は行くところまで行くとこれでいいのだろうかという思いになることがあるのです。発展途上の国々にはうつはあまりいません。先進国になるほどうつや精神疾患が増えてくるのはなぜでしょうか。食べることに必死な状況にある人びとが人生について悩むゆとりがあるでしょうか。経済的にも豊かで食べることに悩まない状況になると人間はより本質的な問題を考えるようになります。このことはマズローの欲求五段階説を参考にしていただければご理解いただけると思います。
また人は無能レベルまで昇進する(ピーターの法則)という話がありますが、そうならないためにはつねに発展シロがある状況に自分を保っていくという方法があります。長年にわたって経営トップにいるような人で誰からも何も指摘されないような立場ではすでに無能レベルになってしまっている人も多いと考えられます。こういった人びとは自分軸というより環境により作られた自己中心軸が立っているとでも言ったほうがいいのかもしれません。それはその組織の論理に基づく極めて不自然な思考による軸であるのです。もちろんそのことは自分では分かりません。そういう危険性に気づいている人は最近は社外から専門家を招いてエグゼクティヴコーチングを受ける人もいます。
とにかく年齢をかさねるごとに経験則による思考と自分を押し殺してうまく立ち回る人間関係のスキルができあがっているのです。自然体になるには、まず素の自分をもう一度出してみることも必要です。ただ日常生活の中ではどうしてもできない状況もあるでしょう。会社や所属している組織内では、急に素を出すと「えっ、○○さんってそんなキャラだった?」とビックリされるかもしれません。自然体になるにはまず素の自分を出せる環境に行きましょう。人がいて恥ずかしいなら自分の部屋やひとりになれる環境に行く、すなわち素を出せない環境、現実から逃避してみるのがとても効果的です。
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