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2013年11月27日水曜日

特定秘密保護法案の危うさ②

昨日、国家国定秘密保護法案が衆議院を通過しました。この度の悪法はどうあがいてももう阻止できないのかもしれません。まさに日米安保条約締結と同じでどんなに反対運動をしたところでもう国家の上層部では決定事項であるのかもしれません。

日米安保は冷戦構造の中で共産圏に対峙するために必要とされたものであったわけですが、今回は隣国の反日、領土浸食に対する日本の主権が脅かされるという危機感が背後にあることは間違いありません。もともと安倍政権をつくりだしたのは前政権の民主党による弱腰外交に対する批判と隣国の過激な反日運動や領土侵犯に対して国民が危機感を抱いたことが影響していることは間違いないと考えられます。

日本国内では当然反日に反対する運動のひとつとしてヘイトスピーチがずいぶんと蔓延してしまいました。もちろんこのヘイトスピーチを行う団体自体も怪しい団体であるわけですが、単にヘイトスピーチを批判しても始まりません。ヘイトスピーチを無くすためには隣国の反日運動とセットにして批判されなければならないと思います。なぜならそもそもヘイトスピーチを誘発しているのは隣国の反日運動であることは歴然としているからです。背後にそういった内容があるのにただ単にヘイトスピーチを人道的観点からだけ批判してもあまり効果はないのです。

とりあえず、民間かどうかはわかりませんがそういった運動はさておいて、この度の法案の衆院通過は手の打ちようがないのかもしれません。すでにジャーナリストやマスメディアもその法案が決まった後の立ち位置をどうするかで報道の状況は変わりつつあります。ずっと反対し続けてもその法案が制定され、日本版NSC(国家安全保障会議)が設置されていくようになれば、当然マスメディアはその枠組みの中で動くしかなくなるわけです。

今後は自由な言動や憶測で(権力者が考える)国家が不利益を被るようなことは言えなくなります。ゴシップネタみたいな位置づけでも言いたいことをいうことはリスキーですし、お笑いの世界からは時事ネタは消えざるをえなくなると思います。まさに日本社会は皮肉も言えないほどギスギスして潤滑油のなくなった人間関係、社会構造になっていくのではないかと危惧せざるをえません。国民、みんなが‘いい子’になるしかありません。心で思っていても、愚痴や不平不満を言わない超カマトトな国民になっていくことが予想されます。そうしなければ生きていけないのです。

視点を変えれば、右傾化する国家をつくるには共産主義の脅威はとても有効に働きました。それは、日米安保の締結にとって追い風だったのです。同じように隣国の反日運動、領土、領海侵犯はこの度の法案、日本版NSC設置には追い風なのです。極論を言えば、中韓の反日運動が安倍政権を支えていると言えなくはありません。安倍政権に批判的な人びとはよく左翼勢力としてレッテルをはられ、批判されるのですが、実際、国民の多くは純粋に秘密警察が暗躍する国家にしたくない、戦争をしたくないと純粋に考えているのです。左翼でも右翼でもないのです。

以上のことから考えるとすでにこの法案制定や憲法9条改定~自衛隊を国防軍とするのは自然の流れの中に置かれてしまっているのです。もう国民の力ではどうしようもないのかもしれません。さらに不気味なのはこの法案通過を目指すときに中国の防空識別圏設定という話が出たことです。本来中国は孫子の兵法にもあるようにもっともっとしたたかで実利優先のイメージがあるのですが、なぜこういうカタチで日本に対してはたらきかけるのでしょうか。まるで法案や安倍政権を後押ししているようにしか見えないのは私だけでしょうか?

日米安保のときは軍事力を行使できない立場の日本は、アメリカの核の傘に守られるしかないという大義名分がありました。今回は、アメリカが日本に対してその役割をできなくなるので、日本が自立して軍隊をもって自分の国は自分で守らないといけないからという話をする人もいます。しかしこの流れで行くと、どう考えても戦争ありきでの流れにしか見えません。とにかく日中韓(台も巻き込まれるかもしれません)で戦争になれば、そこにメリットがあるのはだれでしょうか?戦争のときその恩恵に預かるのは武器やその原料、オイルなどを提供した人びと、国家に他なりません。戦争成金がたくさん現れるのです。となればアジア圏で戦争が起きても対岸の火事で何の被害もなく、利益だけ期待できるのはだれか考えればわかります。戦争は大きなビジネスチャンスとなっているのは紛れもない現実です。

中国、日本は世界的に米国債保有国1、2位です。アジア三大国が緊張した対立関係でいつづけることがいいのはどこの国でしょう。そういった世界の枠組みの中でアジアというローカルな地域で戦争等の犠牲になったとしても、その恩恵に預かることはできない日中韓の国民はよく状況を見て行動をすべきだと思うのです。もうこれ以上は言及を避けますが、読者のみなさんに考えていただきたいのは社会の表に出ていない(我々に知らされていない)世界があるという前提で賢く生きる必要があると思います。(今後このブログも政治ネタは控えざるえないかもしれません。)

日中台韓、とにかく国民レベルではなかよく、なんでもぶっちゃけで感情論抜きで話し合いたいものです。今は大丈夫ですが、そのうち日本でもそういった話はできなくなるということも想定しておくことは必要です。外国人は、今後おそらく反日的な言動は一切できなくなる方向に行くでしょう。日本は郷に入りて郷に従わなくてもいい国だったのが、完全に郷に入りては郷に従わなければ生きていけない国になるでしょう。今後は日本人だけでなく、外国人も住みにくい日本となるのではと今から心配しています。

2013年11月22日金曜日

特定秘密保護法案の危うさ①

戦後、日本はアメリカの核の傘に守られて、とりあえず自由主義体制を維持してきました。自民党はじめ与党、官僚たちが悪法のごとく取り扱ってきた憲法9条のおかげで日本は高度経済成長を成し遂げることができたことは間違いありません。もちろん真面目で勤勉な民族性も大いにあったでしょうし、和の文化は集団凝集性の高さから一致団結して戦後経済を先進国1,2を争うレベルに押し上げてきたことは称賛に値するものであると思います。

もし第二次世界大戦において戦勝国となって、あの軍国主義の体制がずっと続いていたらどうだったでしょう。おそらく国家にとって不都合な意見を述べる人たちは弾圧され、もしかしたら旧共産圏のような秘密警察が暗躍し、つねに国民の言動は監視され超ファシズムの国家ができあがっていたかもしれません。

戦後日本の復興を企業の成長に置き換えると、独裁経営者、経営陣による硬直しきったヒエラルキーの組織があるとき外資によって破壊(解体)され、権力よりも実力に応じてポストが与えられ、より健全な経営を取り戻し、民主的に発展していくという流れであったと考えてもいいかと思います。(もちろん外資の極端な成果主義は一つの権威主義であり、問題もあるのですが・・・)

しかしながら、この度の安倍政権による政府の標榜する流れは、だれの目にも明らかなように過去の悪しき時代へ逆戻りする危険性を秘めているのです。ただ日本人の多くは、日本には民主主義が根付き、国民一人ひとりが良識があるのであのような軍国主義にはならないだろうと楽観視している節もあります。ホントにそうでしょうか?実は日本人の民族性はあの時代の全体主義的なファシズムの体制をつくりだすのにとても都合のいい特質を兼ね備えているのです。そのことをどれだけの日本人が認識しているでしょうか?日本人が美徳としてきた上位者に対する忠誠心や自分が言ったことは必ず守る、真面目、勤勉、育ちのいい大人、・・・といった民族性こそがカルトやファシズムの体制をささえるという観点でとてもピッタリくるのです。そして日本は島国で互いが仲良く暮らすために対立を好まない反面、異分子を排除するといった陰湿ないじめ、村八分のような風土が基本的に定着しています。もともと長いものに巻かれ慣れている日本人ではわかりにくいのですが、空気を読めない外国人のほうがそのことはよく理解できます。最初は歓迎されますが、徐々に阻害されていきます。それは郷に入りては郷に従えという観点がよく理解できず、またそれをはっきりと日本人は言ってくれないので外国人には理解できないのです。とにかく異文化を受け入れる器が小さいので日本ではそういったことを学習するということが需要のある教育項目になっているのでしょう。とにかく日本人はある面、とても利用しやすい民族で集団凝集性も高いので独裁者には都合のいい組織をつくりやすいのです。

実は日本の国内に、物心両面成熟した、現代社会なのにいまだにファシズムに該当するような組織がたくさんあるのです。暴力団やカルト教団といった反社会的組織は言うに及ばず、ブラック企業といわれる会社が社会問題化するほどあるのです。これらに共通して言えることは、完全な組織トップの強固な権威、権力による独裁体制となっています。そして組織の末端の下層階級はもっとも悲惨な状況に置かれているという実態があります。一般企業でさえそうなのだということは我々もふくめてそういった要素を持っている存在だという認識を明確にしておくべきなのです。かねてから素晴らしい経営者は自分自身が間違った行動をしてしまうのではないかという危機意識をつねにもっている人だと論じてきました。集団浅慮(グループシンク)という観点で集団は間違うのだということだけでなく、個人すべてがそういう要素をもっているのだということを認識しておく必要があるのです。もちろん私自身もそうだということです。

社会には必ず対立軸があってなんとなく正常が保たれるのです。人が形成する組織はいつも独裁的になり、問題が起こって、その組織のトップが変わり、そのうち独裁的になり、また替えられるといういたちごっこのような流れになっているのです。人間はどんなに良心的な人でも持ち上げられて、ほめたたえられるとどんどん独裁的になるようになっているのです。そうならないために組織に対して反対意見を述べるような人びとが必ず必要なのです。すなわち完全無欠な人間はいないという前提に立たなければ組織の健全性を維持することはできないことを組織、集団のすべての構成員が認識しておくべきなのです。

ほとんどの日本人は日本は民主主義でいい国と思っているでしょうが、日本社会をよく分析すると細部にわたればとんでもない組織がたくさんあるのです。そのことを考えると、日本国という組織全体がそのようなとんでもない組織になりうる可能性は大きいのです。私は基本的に国としての意見がひとつにまとまっていくプロセスに危機感を抱いています。決して楽観視できません。その一つが今安倍政権が自公維で推進している国家の特定秘密保護法案なのです。すでにマスメディアも支持派、反対派とカラーがはっきりしていますが、後者のトーンも落ちかけています。マスメディアも国家の枠組みの中である程度自由に報道をしてきましたが、圧力があれば屈せざるをえません。すでにそういった兆候が見受けられます。

日本では20数年前に、反共、反左翼を標榜する某カルト宗教の団体が右翼や自民党をうまい具合に取り込み、スパイ防止法なるものを制定しようとことがありました。そのときはそれがまだまだメジョリティを獲得するにはいたらず、野党の反対もあって廃案となりました。そういった法律を制定する声は、必ず国家自体が右傾化する状況にあるときが多いのですが、まさに当時もそういう状況でした。ただ面白いのは、もしそのスパイ防止法なるものが制定されていたら、それこそそれを推進していた某カルト教団は処罰の対象になっていたかもしれません。なぜならその団体はかねてから霊感商法など反社会的な活動に手を染め、外為法違反など、国益に大きく反する活動をしていたからです。いまだに一部その状況は続いているようです。

組織という観点からとらえると、すでに国家が行くだろうと想定される方向が見えてきます。国家も企業も人によって構成された組織です。企業を例にあげて考えればわかりやすいのです。企業にも企業として秘匿しなければならないことがらというのは当然あります。ところが多くのエンジニアたちが他国の企業の接待を受け、日本の技術が流出しているというのは現実としてたくさんあります。隣国のITで世界的企業となった会社もベースとなる技術はすべて日本から取り入れたものです。そのことはその企業の会長自身が、日本に足を向けて寝られないとまで言っているわけですから間違いありません。もともと日本の経営者の中には技術提供を惜しまない人もいて、逆に知財保護の観点から訴えられたというひともいるようです。日本の企業はあまり技術提供に関して閉鎖的ではありません。なぜなら技術は提供しても日本と同じ製品が簡単につくることができないことを理解していたからだと思います。すなわち技術はあっても日本人と同じ仕事はできないのです。なぜなら仕事は日本の文化や風土、民族性に裏打ちされたものだからです。

もちろん日本も今後はグローバル化の波に巻き込まれて、自国だけで経済発展を完結できない状況が出てくると当然、企業としても守るべき必然性が出てきます。それは競争力低下が懸念される技術流出等による対外的な関係においての秘匿事項であるべきです。もちろんそれを守るためには組織全体のモラル向上と同時に社員満足(組織風土から報酬面においても)が図られるべきであると思います。もちろんそういった情報は企業自体の経営状態に直接影響を及ぼす内容ですし、それを守ることに対して社員は当然協力するはずです。

企業で秘匿されるべきはそういった企業経営にかかわることなのですが、独裁的で問題のある企業は背任行為や消費者を欺くコンプライアンス違反に関する情報を隠蔽しようとするところが問題なのです。そういった情報はおもに企業上層部の指示などにより隠蔽されることが多いのですが、そういったことを隠すということに対しては社員は良心の呵責を感じるのです。対外的な経営に関する情報は当然秘匿することに良心の呵責はありません。企業人としての守秘義務とわきまえているのです。しかし理不尽なことがらに関しては絶対に漏れます。なぜでしょう、人間は良心がありますし、本音では人間的にまっとうに生きたいと思っているからです。したがってそういう理不尽な決断を下さないといけない立場に置かれた組織上層部の人こそ、外部にリークせざるをえなくなるのです。

企業は対外的な他の企業との競争において経営を守るための情報は秘匿しますが、一般社員や消費者を欺く行為は絶対に流出します。それをよく理解している経営者は最初から、リスクマネジメントとしてコンプライアンスを徹底するのです。そういったコンプライアンス違反は必ず内部告発によって外部にリークされ、明るみに出るのです。そして今社会の流れは内部告発者を保護する方向に流れているわけです。それでもまだまだ困難な問題が多くありますが。

国家も間違えてはいけません。外交上不利な情報はすでに外務省はじめまともな政治家ならすでに秘匿できているはずです。国家機密とはなんなんでしょう?それがホントに対外的に問題があるので秘匿すべきものなのか、単に政府や官僚の一部(独裁経営者や経営陣)にとって、国民(一般社員や消費者)には知られては都合が悪いものだから隠蔽するのかというのは根本的に違うはずなのです。後者の場合、必ず外部にリークされます。どんなに当事者であってもやはり人間は理不尽なことを許せないという良心をもっているからです。ですから、そういった場面に遭遇したとき、人間性を捨てて、完全に隷属するか、逆に地位も名誉も捨てて人間として生き抜くかという選択をせまられることになります。

この特定秘密保護法案の定義づけがあいまいすぎます。もちろん外交においてはそこらへんの融通の利く内容は必要ではありますが、国民の知る権利や国民の生存権を脅かすような内容が混入しないといった保証がないのです。前者のように国家運営(企業経営)にとってホントに必要であるとしてもその判断は国家元首が独裁的にできるとしたらこの法律は悪法以外のなにものでもありません。国家が秘密にしたいという背後には、それを通じて国家が世論操作まで行いたいという意図があるのだということぐらいは日本国民として認識しておく必要があると思います。そして国家というあいまいな言葉に身を隠す独裁者(国家元首、あるいはそれをさらに操ろうとする官僚、他)によって日本は牛耳られる方向に行こうとしているのです。

2013年11月11日月曜日

上手な年齢の重ね方①

最近は高齢社会ということで、世間話もメディアで取り上げられる話題も老後や介護の話が多くなってきました。それは若い世代にも大いに言えることです。なぜなら介護という問題は決して本人だけの話ではないからです。20代前半で結婚していた時代から、30代、40代で結婚ということになれば、当然その子どもたちは30代くらいからすでに親の介護という問題に直面する可能性も大きいのです。年をとるということは避けて通れないことですし、老いということに対する考え方、パラダイムを大きく変えていかなければならない時期に来ているのかもしれないと思います。

年齢を重ねて、体力的にも、さまざまな肉体的な限界などを感じるようになると、老いということを実感するようになりますし、若いころがよかったということをやたら口にするようになります。また若い頃に比べてとても歳月の流れが速いように感じます。10代20代はそれなりに長く感じていたのに、30過ぎてから40代はあっという間という感じになります。そして50代は40代が、60代は50代がというふうにもう10年若かったらと考えるようになってしまいます。

なぜ年齢を重ねるほど、時の流れが速く感じるのでしょうか?時間の流れは誰にとっても同じはずです。でもなぜか自分の人生においても違って感じるのは私だけでしょうか?年齢をとるほど時間の流れが速く感じるのは若い時に比べてからだの代謝機能が低下しているためだという話を聞いたことがあります。若いころはちょっと怪我をしてもすぐ治ってましたが、年齢をとるとなかなか治るのに時間がかかるものです。なぜ代謝機能が低下すると時間の流れを速く感じるのでしょうか?わかりやすく説明しますと細胞の生まれ変わりが若いころに比べて遅いから、相対的に時間は速く感じられるということなのです。つまり、細胞の生まれ変わりが若いころは1日に100回生まれ変わっていたのに、今は1日10回しか生まれ変わってないとするならば、相対的に若いころより時間が10倍速く感じてしまうという話です。ご理解いただけたでしょうか。

したがってアンチエイジング(という認識をし始めた時点で老いが始まっているかもしれませんが)にもっとも最適な方法は、代謝機能を高めるということが重要だとおわかりいただけたでしょうか?代謝機能が高いということは、細胞の生まれ変わりが活発であったり、全身の細胞が生き生きと活動している状態であると言えます。もちろん血圧も標準で脈も正常、からだも冷えてなくて温かいし、お通じもちゃんとあるという健康な状態です。ただ人間の老いというのは自然なものです。無理して50代なのに20代の肉体を取り戻したいとか欲を出すのは少々無理があります。瞬間風速的にそれに該当するようなパワーが出たとしても、若い時のようにその状態がある程度維持し続けられるものではありません。

アンチエイジングというより、老いの勾配をなだらかにするという健康法を取り入れたほうがずっとからだにも心にも負担なく続けられるのではないでしょうか。一念発起して、急に無理な運動を始めるとか、ダイエットしなきゃと食事制限をいきなりするというのはリスクがあると思います。まずは自分の性格や弱みをよく理解した上で、長続きすることを少しずつ始めるのがいいかと思います。ここではその健康法をお伝えすることが目的ではないので皆さんがよく考えて行っていただくようにお願いします。

老いというのは、今までできていたことができなくなったり、体力的にもずいぶんと落ちてきますから、とてもさびしい気持ちになったりします。でもそれは決して悪いことではありません。からだはもちろん心でさえ、使いすぎると休養が必要ですし、ある程度消耗すると、補充も利かなくなってきます。老いは次世代をより大きくするために必ず必要なのです。高齢でありながら若い人以上にパワフルだったら、若い人びとの芽を摘んでしまうことにもなりかねません。なぜならば時代の流れとともに価値観も大きく変わっていくからです。その大きな変化にはより若い世代のほうが柔軟に適応できるのだということは歴史が証明している通りです。年齢を重ねるということは次世代へバトンを渡して温かく見守る時期に入っていくということでもあるのです。

アンチエイジングというのが誰もが目標としなければならないものであるかのように、健康産業界はこぞって宣伝しますが、実際は老いに抵抗することよりも上手に老いて行くということがとても重要だと思います。20代くらいまではあまり若くいたいという意識はないと思いますが、30代をすぎて40、50代に移行すると若かったころを懐かしく感じてしまうのです。

「もう10年若かったらなあ~。」
「今あの年齢だったらもっとこうだったの・・・。」

とついつい思ってしまうことが多くなるのです。でもよく考えてください。今から10年経ったらおそらく今の時期を懐かしがっているに違いありません。ですから取り戻すことのできない若いころを思うのではなく、将来のことを考えて、今がいちばん輝いているときだと思えばいいのです。30代なら40代を、40代なら50代、50代なら60代を・・・というふうにです。そう考えると今自分の置かれている立場がものすごく可能性がありもっともっとできる年齢なのだということに気づくはずです。では80代、90代の人はもう10年後を考えられないかもしれません。いえ考えられます。人生たくさんがんばってゆっくりおやすみしている自分を考えてください。ですから、いま最高に輝いているのだからもうちょっと頑張ろうと思えばいいのです。そうすればゆっくりやすませてもらえるのです。

死は決して忌み嫌われるようなものではありません。ギリシアの哲人ソクラテスが死は睡眠のようなものでとても甘美なものであると以前にもお話ししました。私はよく講演会で、聴衆の方がたに質問をしました。寝るのが好きな人って聞くと、いつもほとんどの方がそうですとお答えになります。不眠症の方は寝れなくて苦しいのです。誰しも寝ることを嫌いな人はいないはずです。むしろ起きるのは一苦労という方はたくさんおられます。目覚ましをかけても、もう少し寝かせてと寝坊した経験があるのは私だけではないはずです。

したがって、死とちゃんと向き合うということは、今をちゃんと生きるということにつながってきます。ちゃんとからだと心が生き生きと過ごせてこそ、人生を有意義で最高のものにすることになり、最高の死も迎えることができるということだと思います。

若い人には若い人の魅力がありますし、年長者には年長者なりの魅力があふれています。要はそれを比較するのではなく、今の自分を最高に輝かせるということ、すなわちまず今の自分を受け入れて、今の自分のポテンシャル(潜在能力)を最大限引き出し、楽しく生きるということがたいせつであると思うのです。

2013年10月4日金曜日

うまくいくコミュニケーションの方法①

家庭においても、会社においても、あるいはそれ以外の人間関係すべてにおいて、コミュニケーションは、すべてがうまくいくためのベースとなるようなものです。それは対面であれ、電話であれ、メール、SNSにいたるまでコミュニケーションがとてもたいせつになってきます。

また相手によっても対応を変えなければならないケースもあります。特に外国人には日本の空気(行間)を読むような理解はできません。それは日本に長年住んでいる外国人でもわかりにくいと言われる人もいます。それくらい難しい感覚的なもので、日本人は日本で育って、日本人のDNAとしてすでに染みついているから理解できるのかもしれません。

ただ最近の若い世代は徐々にそういった感覚は減っているように思えます。それは良いとか悪いといったものではなくて、日本の家庭や社会の環境が大きく変わってきたということが言えるのではないかと思います。欧米の個人主義の影響や、戦後、日本がどんどん豊かになり、大家族から核家族、そして夫婦だけ、その次にはお一人様での生活も増えてきています。現在は祖父母と同居ということも減って二世帯住宅は常識です。また高齢化により高齢者は施設に入ることに抵抗感がない時代になってきました。介護というカタチで家族に負担をかけたくないという認識は高齢者に共通する意識になりつつあり、また子どもたちもそれが最善であるという意識もかなりあります。介護を社会の手にゆだねるということは決して家族の愛情問題とは関係がないのです。むしろ互いに負担をかけないようにすることが愛情であるというひとつのパラダイムシフトがなされているのだと思います。

夫婦関係もそうです。ある程度年齢を重ね、子どもたちもすべて独立すると、夫婦だけの時間が増えてきます。そして夫(あるいは妻)が定年退職をして家庭にいつもいるようになるとストレスであったりします。そうなると妻(あるいは夫)が外に出かけるようになってバランスをとるようになるのです。もちろん夫婦は最初の3~4年くらいはいいのですが、そのあとは夫婦だけの愛情というより子どもを見ながら父母としての役割で家庭を維持しているとも言えます。夫婦は他人です。最初は惹かれあっても、実際生活を共にするようになると、相手の悪いところもどんどん目に入ってきて、半ば好きという気持ちを妥協とかあきらめの気持ちが上回ってきたり、夫婦ってこういうもんだと冷めた精神状態になっていくことさえあります。でもそこに子どもの存在があると緩衝剤のような役割を果たしてくれるのです。

問題は夫婦仲が悪くなりすぎて、子どもに依存してしまうと、完全に子どもの自立を阻害し成長を遅らせたり、歪んだ情緒を育んでしまうことにもなりかねません。妻が家事、夫が仕事(あるいはその逆)に集中すればある面役割を分け、それぞれが集中できることを持つことで夫婦関係を維持することに大きな効果があります。また一般的には新婚時代はダブルベッド、子どもができてはそれぞれのベッド、そして子どもが独立したら部屋も別々なんてのもよくある話です。それでバランスをとって家庭というカタチが維持されていたりします。

歳をとっても仲のいい夫婦というのは新婚当初の夫婦の愛情関係とは違うモチベーションで形成されていると考えられます。詳しく聞けば、だいたいの人びとが口々に言われることは
「いろいろあったのよ~。」
という話です。いろんな心境を通過して熟成しきった関係であると言えるかもしれません。

フラット化している社会の中で夫婦が夫婦としての関係を維持し続けるためには、どこかで妥協したり折り合いをつけながら暮らしていくことであるのかもしれません。現代社会は離婚ということが驚くようなことではなくなったのにはやはり男女同権やジェンダーフリーといった風潮、そしてそのベースはやはり世界がフラット化していることにあると思います。男尊女卑の時代はやはり女性が我慢していたのです。あるいは社会の風土自体からも、女性というものは男性に屈して追従するものというすり込みが女性になされていたこともあると思います。

昔、夫婦が夫婦関係を解消せず維持し続けるには、どうしても片方が我慢したり妥協したりということで成立していたということがいえるかもしれません。現在夫婦関係を維持し続けている人びとは間違いなく、我慢や妥協を互いにしているか、あるいはそれをしないでもいいくらいの距離を互いの間に置いているかのどちらかであると言えます。とにかく、他人であった人同士が夫婦になるということは自分以外の価値観を受け入れるということで、それは妥協以外の何ものでもありません。そして妥協を減らすには価値観がなるべく近い人を選ぶということも方法です。

分かりやすく言うと最後まで妥協できなかった人が離婚を選択するのです。それはそれで一つの選択肢ですから、決して悪いことではないと思います。あるヨーロッパの国のように、最初から結婚という形態にこだわらないという方法もあります。そうすることで良好なパートナー関係が維持できたり、婚外子という概念をなくし同じ権利を与えることで、少子化問題も克服できる方向になっているということも聞きます。今は男女というカテゴリーでだけ人を分けられないのと同じように今後結婚という観点もさまざまな形態が発生していくと考えられます。

最終的には人間はひとりの存在で、種の保存や生活していく上で便宜上、夫婦、家族という形態をなしているのだと思えば、さまざまな選択肢がそこには考えることができそうです。いずれにせよ、人間関係は(その差こそあれ)価値観の違う人同士が交流をもつということなので、そこにはどうしても精神的な触れ合いにおいてさまざまな影響をうけるわけです。すなわち人間関係とはストレスが生じやすく、それを極力いいカタチに転化する方法がコミュニケーションスキルということになると思います。

2013年9月23日月曜日

半沢直樹 ドラマ最終回を見て

昨日、日曜劇場「半沢直樹」最終章が幕を下ろしました。

社会的ブームとなったこのドラマ、ドラマはファンタジーであるので、現実社会と照らし合わせるにはかなりの無理がありますが、企業人としてはいろいろと参考になったことと思います。

それにしても敵役の大和田常務の負けっぷりは圧巻でした。私としては上司、上役がどのように追い詰められたとき行動するのかといった観点もたいへん興味がありました。会社に入ったときは誰しも希望に燃えて、夢を持って出発しているはずですが、組織の上層部へ行けば行くほど組織の制度や文化に取り込まれ、埋め込まれることによって、がんじがらめの状況に陥って行きます。そして背に腹は変えられないという状況からさまざまな知恵をふりしぼって違法なことに手を染めるようになる可能性もあります。

そういった観点からコンプライアンス違反は起こってくるのでしょうが、またそういった行為や行動を正当化する価値観を持つようになっていくのです。認知的不協和を是正するためにそうせざるをえないのです。組織の上層部に行けば行くほど強固なモラル、倫理思考を持っていなければ必ずその罠に陥ってしまいます。そのことは部下の立場からは理解が難しいのは当然です。まだ組織の風土に埋め込まれていないからなのです。もちろんコンプライアンス違反の出発点は個人的なことがらから始まっていますが、それがどんどん大きくなると組織的にそれを隠蔽せざえない状況に周囲が巻き込まれていきます。

ある知人を介して聞いた話ですが、その会社は財務的には完全に破綻状態にあり、粉飾を繰り返しながら、なんとか会社は存続しつづけているという話でした。なぜそんな会社が存続できるのか、それは銀行と経営者一族のずぶずぶの蜜月関係でした。銀行側もそういった状況であることはわかっているにもかかわらず、目をつぶって融資し続けているのです。もちろん会社側は会社更生法を適用するなら多くの社員とその家族は路頭に迷うという状況になってしまいます。したがってそういう選択肢はないのです。またそういった同族経営で旧き時代からずっと勤めてきた社員はそういった水に慣れていて、真実を知ろうとか、会社の業績などはあまり関心がありません。すべてがなあなあの関係なのです。社員はうすうす感じてはいても、わざわざそのことを口に出すことは社内の異端分子としてレッテルを貼られることを認識しているので暗黙のタブーとして誰も話題にあげないのです。

欧米の企業が役割や業績重視の経営であるのに比べて、日本の企業は人間関係がとても重視され、その関係から派生的に組織の文化や風土が造成されていきます。その状況下ではもう人間は埋め込まれて身動きがとれず、負の遺産を覆い隠したり、取り繕う作業をしつづけるしかできなくなるのです。そういった悪しき慣習を壊して正常な経営を取り戻すには基本的に組織内からの力では到底及びません。自浄能力を失った状況では組織の多くの構成員は被害者というより加害者の立場に立っているからに他なりません。内部告発者の葛藤はそこにあります。倫理的に人間的に受け入れられないことがらに少なからず加担してきたという現実を向き合わなければならないからです。また内部告発者はその後企業から放り出され、結局行き場をなくすという流れも多く、なかなか組織自体が自分の力で正常化するというのは困難です。

日本は結局黒船頼りになるのです。組織と利害関係のない第三者によってしか変えることはできないということです。本来は融資先の銀行がその役割を担わなくてはならないのですが、銀行に不良債権が多いのは企業と銀行もまた互いに利害関係を同じくしてることと蜜月の人間関係が出来上がってしまうからなのです。人間関係というのはとても難しいテーマです。信頼関係を築くためにはよく知り合って、理解しあって密着しなければ難しいのです。しかし密着しすぎると今度はNOと言えない関係になってしまい、いつの間にかすべてを容認するカタチになって気がつくと取り返しがつかない状態に至っているというわけです。

ドラマ半沢直樹では大和田常務という役員の個人的な事情からの背任行為が問題になっていますが、企業においては経営者自身がそうである場合も多いのです。昨今の不祥事を犯した企業を見ると経営トップからとんでもないワンマンでコンプラ違反を社員に強要していたということがあります。ただ大和田常務の実績を考えると、融資先との人間関係に埋め込まれず、冷徹にやってきたことで、出世してのし上がってきたということは言えるかもしれません。銀行は減点法での評価であると聞いたことがありますが、人情に流されず、あくまで実績のみを追求するにはそれくらいの人でないと残れないかもしれません。すべてが結果主義の銀行では正義感を押し通す人間性のある半沢直樹のような行員はそもそも存在できないかもしれません。冷徹もしくは逆に人間性のある行員はずぶずぶの蜜月関係で虚構の財務状況を容認する危ない橋を渡り続けていくかないのかもしれません。

主人公に話を戻しましょう。どんどん悪事をあぶり出し、追い込んでいく凄みのある半沢直樹の闘いはすさまじいものがありました。これは多くの企業人は痛快、爽快な感覚で楽しんで見れたことでしょう。視聴者の多くはこのように行動できたらどれほど気持ちいいだろうかと思いながら見ていたことでしょう。その一方で、所詮ドラマ、実際はこんなことできないよと諦めの心境に陥る人もいることでしょう。せめてその時間だけは現実逃避してスカーッとした気持ちを味わい、ストレス解消ができれば何よりです。

ドラマはファンタジーですので、ドラマを現実社会に当てはめて論じるというのも無理はあります。ただ現実で起こっている理不尽なことがらを社会的に多くの人びとに認知してもらうという観点ではとても意義深いことであると思います。ある経営者はドラマはつくりものなので一切見ないという人がいます。実際、彼は会社ではまったく社員と話が通じず、浮いた状況になっています。ドラマは事実とは違っていたとしてもそこに学ぶものもあるので、素直に取り込まれてみるのもいいかと思います。

実際の社会で半沢直樹のような社員が企業で生きていけるのかというと意見が分かれるところです。おそらくNOという人が多いのではないかと思います。もちろん私はNOです。そういった社員を見たこともなければ、自分がそのようにふるまうことも無理だと思うからです。半沢直樹はドラマの中ではヒーローですが、実際彼一人の力では何もできません。まず彼をとりまく力になる同僚、そして精神的にサポートしている妻に、直属の上司、極めつけは組織トップの頭取の存在です。そもそも組織のトップが問題を起こしていてそれを変えるには革命しかありません。あるいは下剋上、クーデターです。

大企業などは一般社員には経営トップがどんな人なのかも上っ面しかわかりません。でも会社規模が小さく社長と一般社員の距離が近いとその経営者ができるのかダメなのかは比較的分かりやすいのです。直属の上司がダメでも社長が素晴らしければその会社は希望があります。でも経営トップの社長がダメならその会社には希望がありません。そういう面では半沢直樹はその組織内で戦う意義はあります。そもそも頭取がだめなら彼のような人材は使わないでしょうし、彼は離脱して他の企業に行くほうがいいでしょう。

組織で半沢直樹のような人材を上層部がどう見るかです。問題をあぶり出し、経営を正常化する逸材と見るのか、問題を起こし、組織を振り回す問題児と見るのかです。前者のような見方ができる人は相当器の大きい人です。後者は保守的で人間関係も波風立てず無難に過ごしたい人です。そういう面では中野渡頭取は腹のある人です。ただ現実の社会では前者はほとんどお目にかかることはできません。あんなに正義感が強く、モチベーションも高く、決して屈しない屈強な精神力の持ち主でなおかつ良識があるような人はまずいません。人間関係も組織でもうまくやっていける人はやさしい人で空気を読むし、強い言葉が使えません。逆に問題をすぐ起こす人は空気を読まず、人の気持ちを無視して平気でキツイことが言えます。そして強くてワンマンで自己中心的です。その両者のいいとこ取りしたような人格の人はなかなかお目にかかれません。

寝食忘れ、命がけで悪に立ち向かう刑事や正義の味方は現実にはいません。正義感が強いだけで命をかけれる人なんてほとんど世の中にいないのではないかと思います。半沢直樹はなぜあそこまでできるのか、それは父親が大和田常務に見殺しにされたという怨みの情がベースにあるからに他なりません。半沢直樹のモチベーションはそういった負の遺産から来ているのです。そもそも倍返しという概念も仕返しとか復讐という言葉にオブラートをかぶせたような感じです。

ほとんどのドラマが善悪という設定で弱者がいじめられて、強い悪に対して最終的にはやり返すという流れの復讐劇がほとんどです。ハリウッド映画や香港映画のように悪を完全に粉砕して潰すというのとは半沢直樹が違うのはその結末にあります。最後に頭取による人事では大和田常務は降格、半沢は出向人事という内容でした。罪を憎んで人を憎まず、情状酌量の人事です。このことでこのドラマが単なる復讐劇でないことを物語っています。お手柄なのに出向人事という理由はドラマではまったく明かされず、視聴者の判断に委ねてあるわけですが、そこには適材適所という企業の論理やさらに深読みすると中枢に入れると持て余してしまう人材であるという意味もあるかもしれません。

以前流通系の会社で役員をしていた知人から聞いた話で、頭がよくて、できる社員は採らないという話も思い出しました。とにかくそういう社員はできるので将来異端分子、反乱分子にならないとも限らないということでした。独裁色が強い組織でイノベーションは必要なく、何も考えず日々のルーティンをきっちりする、そういう会社ほど執行部はそういう思考になるように思います。銀行も中枢に行くほど、言われたことがきっちりでき、それ以外の不必要なことはやらないほうが喜ばれる硬直化した組織風土もあるのかなと思ってしまった結末でした。

まあ確かに半沢直樹の出向人事は妥当で、より中枢部で管理職なんかやっていたら、それこそストレスがたまって、どうにもならないかもしれません。つねに戦っている人にはそういう職場が合うのかもしれません。半沢も正義の味方ヒーローと同じで、確かに戦隊モノのヒーローがやがて戦いを終えて管理職になるなんてシチュエーションは想像つかないですからね。

いずれにせよ、現実を忘れさせてくれる楽しいドラマでした。次回作に期待しましょう。

2013年9月20日金曜日

日中韓はなかよくなれるのか?③

国境を越えてなかよくなる方法、考え方はいろいろあります。とりあえず思いつくことがらをあげると以下のようになります。

①罪(行為)を憎んで、人を憎まず。
②国家レベルでの対応はあっても、前世代の失敗やその報い(ツケ)は次世代に回さない。
③男・女(最近はカテゴリが増えていますが)、という立場、人間という次元まで抽象度をあげてつきあう。

とにかく日中韓の間で人びとは人間として心の通った普通の関係を築きたいわけです。もちろんそのためにはそれぞれが努力して感情論や社会的に受けてきた教育(他の国から見ると洗脳に他ならない)を越えて一人間として見つめる必要があると思います。もちろん全員がそのレベルになることは不可能です。少なくともPSIではそういう関係構築を標榜しています。そしてよりフラットな関係も目指しています。被害者、加害者という関係、権力者、従属者、あるいは強者、弱者の関係などすべてそういう要素を内包した組織はいずれヒエラルキーを形成し、そのうち間違えるとカルト教団のような組織になってしまう可能性があります。もっとも強い権力を持った人が教祖になってしまうのです。

ヒエラルキーがとても強固な国というと北朝鮮を思い浮かべる人もいるかもしれません。やはり強固な思想統一がなされている国家組織は、カルト教団とても似通っているのです。どの国も民主化政策を進めるのはそうならないようにするためで、それが国民の幸せに直結するからです。王は君臨すれど統治せず、王という個人、人間はつねに間違える可能性を内包しているのです。王はいても実際の政治は民間から選ばれた人が行うというのは理想です。では王は必要ないのかというと国民をまとめるシンボルというカタチであればなんら問題はないと考えます。そして統治者はつねに変わる、変えられることができるということが素晴らしいのです。その統治者も同族でないほうがいいと考えられます。

話が大きく外れましたが、人間は誰しも権力欲や野望をもっています。それは悪いことではないのです。要はそれを自己中心的に使ったりせず、ちゃんとコントロールできるということが、大人になることであると思います。暴力もパワーです。批判するのに暴力や破壊行為を行うということはこれは暴君や独裁者の手法となんら変わりません。ガンジーやキング牧師が歴史的に称賛され続けるのはそういった手法で訴えなかったということがあります。どんな違法な行動をしても反日無罪という観点には、はっきりとNOと言える民度をもてるように誰かがはじめて欲しいものです。

もちろんあまりにそれを容認、あるいは賛成意見が多い社会でNOということは、自殺行為であるかもしれません。国を正すにはその国にいてできないこともたくさんあります。反体制運動家はいつも自由主義の国に亡命して、訴え続けてきました。声を上げることができる国に来て声を上げる、訴えることでその国や国民が少しずつでも気づくことができれば大きな成果です。いずれにせよ改革や変革はたいへんな作業です。ただ革命はとてもリスクがあります。犠牲者もたくさん出ます。

会社、企業でも組織のトップも中枢に近い人びとほど制度に埋め込まれていて身動きがとれません。そういった環境下で気づいてもなかなか行動は起こせないのです。したがって周辺企業、部署から改革の波は徐々に中央に行くとか、第三者委員会など外部人材をつかってやるかしかなかなか方法がありません。ただ周辺過ぎたり、外部では見えてこない部分もあったりして改革のモチベーションが低いというマイナス面もあります。北朝鮮という国も地方にいる人民より、平壌にいる市民や政府高官が亡命したりするのを見ると、やはり中枢ほど問題も見えるということは事実だと思います。

日本と韓国でどちらがより社会的文化の強制度が高いかというとこれは間違いなく韓国です。ひとつの例をあげてみたいのですが、それは国際結婚から垣間見えます。わかりやすく言うと

韓国に嫁に行った日本女性はキムチを漬ける。
日本に嫁に来た韓国女性はキムチを漬ける。

ということです。日本女性ももともと男尊女卑の時代があったのでそのDNAを受け継いでいるからか、韓国社会の旧い風土には適応できるのです。日本では最近見受けられない嫁姑関係が存在していて、その風土に組み込まれています。それをさらに強固にしているのがマザコンに近い韓国の母息子の関係です。韓国に嫁入りした日本女性たちの話を聞くと、かなり精神的には抑圧された生活になっていることを感じます。彼女たちはイベントとしてお好み焼きは作っても、普段の生活ではチヂミをつくるのです。また中には独島(竹島の韓国名)はウリタン(我が【韓国の】領土)と言ってる(言わされている?)日本女性もいます。日本のネット上では目茶苦茶叩かれていますが、韓国ではそうしないと生きていけないのです。

それに比べ、日本に嫁入りした韓国女性は解放されます。キムチもつくれば、竹島は日本の領土なんて言う人はほとんどいません。また日本の男性は台所仕事をする人も多く、主夫も増えています。そして最近は韓国も多いのですが、日本はずいぶん前から核家族化も進み、長男でも親と暮らさない人が多いのです。それでたまに会う嫁姑関係はとてもフラットでカジュアルです。精神的に抑圧される要因は韓国よりは少ないと思います。それに、日本人は悪口は韓国人のいないところで言ってくれるので・・・・。ちなみに直接言ってくれる日本人がいたら、ある面愛情があるのかもしれませんね。

日本には全世界の料理がありますし、今は学校やさまざま自治体で外国の文化を取り入れることを推進しています。その中にはもちろん韓国の民俗文化なども含まれています。日本では日韓のイベントがたくさんあります。韓国では日本の民俗文化紹介やイベントなどはどうなのでしょう。ちなみに中国は政治や歴史問題と民間の交流はかなり分けて行われているように思います。中国は民主主義でない時代を長く続けてきたことと、国が大きすぎることもあり、ある面国家が交渉カードとして使っていることがらに民間があまり振り回されないという面もあります。

日本では九州などはすでに道路標識や街の案内標識などに英語、中国語、韓国語が使われています。韓国では日本人観光客がもっとも多いようですが、標識などはどうなのでしょう。やはり政府が反日ということをカードにつかっているので、それを行政で行うというのはなかなかできないのでしょうか。それでも南大門市場などに行くと販売者はほとんど日本語が話せます。民間レベルでは本音の部分でほとんどの人が日本語の必要性を感じているのでしょう。

韓国には日本の和食、寿司やカレーのチェーン店などが増えています。衣食住から徐々に文化、そして日本そのものを受け入れる状況が公式的に表れるようになることを期待したいものです。すでに日本在住の韓国の人びとはまた違った観点で祖国を見ているのでまた違った考察もできることかと思いますが、韓流好きな日本女性が日本にはたくさんいるように、韓国でも親日であると言っても別に批判されない国になることを願ってやみません。

2013年9月19日木曜日

日中韓はなかよくなれるのか?②

今月22日日曜日にすべてのレイシズムやヘイトスピーチに反対する集会がもたれるようです。

http://antiracism.jp/march_for_freedom

最近は日本でも海外でしかお目にかかれないような過激なデモが見られるようになってきました。そのあまりに過激な汚い罵りは、とても日本人とは思えない、もしかしたら日本人ではない人たちが日本人の皮をまとってやっているのではないかと疑いたくなるようなものです。そういったことがコリアタウンと言われる地域で行われています。

同じ日本人として恥ずかしい限りですが、その方法は反日運動で見受けられるような手法と似通ってきています。海外でどんなに反日的な活動があったとしても日本人はつねに冷静に対処する(もちろん反日運動家?からはそういった日本の態度自体も気に食わないのでしょうが)というのがある面、先進国、大人の国という自負心でもあったわけです。ところが最近のもうレイシズムと言わざるをえない状況のデモを見たりするとあっけにとられるしかないのです。

韓国では親日発言の高齢者を殴り殺すという事件が起き、さらにそれを擁護するようなネット上の論調も数多くあったりして、とにかく感情的に冷静さに欠ける行動というのが目につきます。今日のYahooニュースでは下記のような記事が載っています。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130919-00000053-chosun-kr

とにかく最近のアジア三国の状況を見ると領土問題、歴史問題で感情的な行動が激しくなっています。このことは社会情勢自体がより個人に対してストレスの多い病的人格を生み出す要因をつくっているということがあげられると思います。日中韓に共通して言えることは少子高齢化が急速に進んでいて、人間関係の力が著しく低下しているということがあげられると考えます。縦型の上下関係は崩れていき、すでに年長者がえらく、年長者を大切にするという考え方はもうなくなってます。日本ではずいぶん前にそういった上下関係はかなり崩壊し、家族から会社組織までよりフラット化した関係になっています。

韓国も昔の映画と最近の映画やドラマでは大きく変わってきています。昔の映画やドラマでは大人や親の言うことが絶対で子どもや若者は間違っていても従うという社会でした。今は違います。最近のドラマの共通点は親たちの問題が子どもの代に露見して子どもたちの人生が翻弄されるというシチュエーションです。あの有名な冬のソナタも純愛と言いながら、親の世代は純愛じゃなかったよねというお話です。

今は年長者だからといって年下に命令したり強要するような態度の人は、逆に反感を買ってたいへんな目にあいます。何を言いたいかというと権力構造の上下のヒエラルキーがキツイ社会は抑圧された社会なので、徐々にそれらが爆発してしまう状況になっているということを感じます。権力や固定された思想で抑圧している社会は目に見えないフラストレーションがあふれているということなのです。韓国で高齢者を殴り殺した人はもちろん許されるべきではありません。ただそういう親日的言動に対してあまりに過激な行動に出てしまった原因は抑圧された社会やあまりに過激な反日に対するすり込みがなされている教育にもあります。

日本では反韓教育も、反中教育もしません。すなわち歴史教育に感情を持ち込まないのです。また教師が感情的にそういった意識で教育することもありません。いかに感情を入れず、歴史の史実を伝えるかが重要であり、間違っていれば上書きされていくというだけです。感情と言えばむしろ日教組の影響で日本政府に対しての反発を持つような教育のほうが知らぬ間になされていたかもしれません。他国に対して憎悪を抱かせるような教育は絶対しません。

韓国は戦後ずいぶんと民主化がなされてきました。でもまだ民主主義と言い切れないのは、社会の風潮として反対意見や異論が述べれないということがあります。日本では日本人が韓国や中国の立場を擁護する見解を述べても殺されることはありません。政治家が中国でリップサービスをしても、多少のバッシングを受けるくらいで日本にちゃんと帰国して暮らせるのです。歌手のチョ・ヨンナムさんや大学教授オ・ソナさんのこともやはり韓国はきびしいと思わざるをえません。

韓国は半島でつねに他国からの侵略に対峙しなければいけない都合上、また北朝鮮と対峙している関係上思想的な統一が不可欠であったという国家の哀しい事情があります。過去の韓国の歴史をみてもアカ狩りでかなりの人びとが犠牲になっています。でも今、反日感情を子どもたちにどんどん教育しすり込んで何かメリットがあるのでしょうか?反日運動やその意識の高揚がメリットがあるのは二点です。それは

・政権に対する不満や支持率低下に対する国民のガス抜き
・歴史問題の謝罪を通じた賠償金

です。でもよく考えるとあまりおいしいものではありません。たしかにアメリカも戦争をすると支持率が上がります。でも今回のイランへの武力行使にはアメリカ国民は懐疑的です。イギリスは参加しないことを議会で決定しました。アメリカ国民もイラク進攻の際、大量秘密兵器は無かったとか、過去のことから学習しているのです。もう政府に振り回されないよという民主主義国家としての行動をしているわけです。韓国も政府はつねに反日を利用しガス抜きをしているのですが、そういったことは良識ある韓国国民はわかっています。でも幼少時からすり込まれた反日精神はなかなか脱却できない人も多いのです。

経済援助も歴史問題にかけてやるよりは素直に日本への支援を要望したほうが日本国民は歓迎します。まあ韓国ではそういうカタチで支援を受けるということは韓国世論の反対を考えて仕方なくそういう手法しか使えないのかもしれません。北風政策では人の心は開きません。もうほとんどの日本人の心の中には、何回でも謝るけど、結局お金欲しんでしょという認識になってしまっています。もう謝罪要求は金銭要求であるとほとんどの日本人は認識しています。

反日運動は必ずしも韓国や中国の全国民の意識の反映とは考えられません。実際韓国では高齢者の方がたがとても親日の場合が多いのです。私はあの時代はご苦労されたでしょうというと、全く違う答えが返ってくるので恐縮してしまうのです。むしろ植民地時代を体験していない若い人びとの中にとてつもない反日意識を持っている場合を数多く見てきました。これは私としてはとても不思議なことでした。たしかに五情の中で唯一‘怨み’の情だけが時間薬が効かず、時間の経過とともに大きくなるのです。まさに世代が変わると多少消えるのかと思ったら、逆に世代交代とともに怨みや被害者意識は大きくなっているのです。

日本はアメリカに対して過剰な被害者意識は持ちません。というよりそういう教育自体受けていないのです。過剰な被害者意識も加害者意識も、ともに個人の人格に良い影響は与えませんし、ひいては国の発展にもマイナスです。韓国のドラマを見ていていつも思うのは親の問題が子どもに影響を及ぼすのです。でも私は結構ドライなので、親は親、子は子と考えればいいじゃないかと思ったりします。親は先に行く世代、子はこれから歩む世代。親は過去の因習にとらわれ身動きがとれないのです。親に今更価値観を変えろというのは酷です。親は子の幸せを願っています。親離れをすることが結果的に親孝行です。それで子は幸せになれるのですから。親は理解できなくていいのです。

日本の場合は欧米の個人主義や核家族化の影響で、親はもう子どもに親の考えを押し付けなくなりました。韓国はまだまだ家族主義というアジア特有の良きにつけ悪しきにつけそういった考え方が根強いのでそのパラダイムの呪縛ゆえにたいへん苦労するかもしれません。いずれにせよ抑圧が強い国から抑圧が少ない国に来れば、いろんな価値観と接し、もう一度自分や自身の人生を見つめなおす機会が得られます。日本に長年暮らして韓国に帰った知人が、日韓の領土問題になったとき、「日本には日本の言い分がある」とだけ言ったとき、たいへんなことになったそうです。

グローバル化とは多様な価値観を受け入れる、せめて受け止めることから始まります。ダイバーシティという考え方もそうです。韓国ももうそろそろ二回目の民主主義(一回目は軍事政権からの脱却)に飛躍するときを迎えているのではないかと思います。感情に任せた行動による社会で起こっているさまざまな事件はその過渡期に来ている気がします。韓国国民がそれを深刻にとらえ、もっともっと客観的視点に立ってものごとを分析、吟味してほしいものです。韓国はもともと優秀な力のある民族です。それが国自体がもつ制度的埋め込み(制度は文化も含めます)から個の意見が抑圧されて来ました。これを解くのはなかなか困難なことです。

現代グループ創始者の鄭周永(チョン・ジュヨン)氏が生前、「韓国に共産党があってもいい」という発言をし波紋を拡げたことがありました。ここまで成熟した韓国はもういろんな価値観が入っても国が揺るぐことはありません。もう一歩本来的な民主主義が浸透すれば日本の嫌韓感情も溶けて行きます。レイシズム運動も消えていくでしょう。おとなしい日本もあまり追いつめるとそういうことが増えていきます。それでもそういったことは辞めようと日本は日本なりに努力しています。韓国もそういった声が少しずつでも増えていくことを期待したいものです。