引き続き女子柔道の監督の暴力告発、高校の体罰問題等がマスコミで取りあげられています。賛否両論あることは当然理解できるし、両者の主張にはそれぞれ言い分がある。ただ体験者や当事者の感じた内容を無視して、周囲の単なる思い込みや推測だけで主張することに左右されることは避けたいと思うのです。私は少なくともそういった体罰やいじめに関連する体験に基づきある程度お話ししているわけです。
今回、女子柔道の選手の家族によると、娘は詳しくは話してくれなったという内容が記事に載っていました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130131-00000078-mai-spo
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130131-00000122-san-soci
彼女たちの言動には私もとても共感するものがあります。すなわち彼女たちはあくまで選手として活動していきたいというのが基本的にあるからです。日本の企業その他の組織ではより上位者
の論理が正しく、下位者の意見や考え方は排除されるきらいがあります。したがって素直な気持ちを主張するとそれは組織的にも、告発者の気持ちの上でも不平不満であるような意識に傾き、告発者の気持ち自体も抑圧されるのです。したがって私も中学時代、運動部でおこった体罰に対して親に絶対学校には言わないでと言ったのはそこに理由があります。好きなそのスポーツを続けたいからであり、告発することでそれができなくなるといった予想がつくからです。案の定、私の場合は断念せざるえない状況に追いやられました。でも今回の女子柔道の選手は選手生命を絶対的に守って保護してあげなければなりません。親はなんで話してくれないのだろうと寂しく思ったかもしれませんが、当事者の気持ちはそこまで考えているのです。
自己主張した時に、その主張が組織論理と違う方向であるならば、どんなに正しい主張であってもつぶされる可能性が高いのです。桜宮高校の体罰自殺問題で教師のほうを擁護するコメントがネット上に多く見受けられるのは、私は残念でなりません。もちろん両者の言い分が出ることはより民主主義的で公平でいいのですが、その先生が素晴らしかったとか更生された生徒が多いとかそのこと自体が問題ではないのです。いちばんの問題は体罰自体を社会が受け入れるのかどうかという問題があります。そして教師が体罰ではないと認識していたとしても受けた側がどう受け止めるかという問題です。
教育というのが危険性を含んでいるとしたら教育者が絶対的に善で正しく、教育を受ける人はそれを正しく受ける、そう受け止めることができないのは未熟であるとして、彼らの意見を切ってきた問題があります。最近はモンスターペアレントなる言葉をよく耳にしますが、もちろんそういう親が多いことも事実です。ただそういうふうになってしまう教育の在り方やシステムの問題も考える必要があるのではないでしょうか。
日本では企業風土もよりフラット化してパワハラ、モラハラなどさまざまな問題が起きないように取り組んでいます。最後の牙城は教育界なのかもしれません。その中でも特に上下関係の強い体育会系はさまざまな問題が露見すると予測されます。教育と称して頭ごなしに教育者が絶対的であるという考え方はもう老朽化した考え方に他なりません。そして教育を施す側がどう考えるかでなく、教育を受ける側がどう受け止めているかということを主軸において考えるという考え方の大きなパラダイムシフトがなされなければならない時を迎えていると思います。
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