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2013年4月16日火曜日

PSIのコンセプト

今日はこのブログの基本的な信条を話したいと思います。実はこのブログを全世界の方々が読んでいただいていることに対してとても驚くと同時に感動しています。PSIブログで訴えている考え方は決して日本人だけでなく、人間として生まれてきたという観点で国を越えてあらゆる人びとに理解してもらえる内容であると確信しています。

PSIをつくったもともとのコンセプトはとても簡単です。それは人間として生まれたからには人間としての尊厳が守られて、一人ひとりの思考や感情、行動が自分以外の他者(組織も含めて)によって蹂躙されてはいけないという動機からです。すなわち一人ひとりの人生は何ごとにも替えがたい尊いものです。そのかけがえのない人生が他人や組織、社会や国家などの影響によって、決して損なわれてはいけないという切なる思いがベースとなって、一人ひとりが幸せな人生を送るということです。

それらを実現するためには、自分軸や自然体の自分らしい生き方を推奨してますし、それをまた実践するためのノウハウに似た内容を書き連ねてあるわけです。もちろん読む人によってはあまりに持論に満ち満ちていて思い込みの強い文章であるととらえられるかもしれません。もちろんそれも覚悟で書いているわけです。

私は日本人だから、当然テレビなどを見ていると世間一般の日本人としての認識をもってそこに帰属意識も強くあります。だからといって他の外国人を偏見で見るわけにはいきません。韓国人はこうで、日本人はこうだという話はもちろんしますが、それは国とか民族という大きな枠組みで見ているに他なりません。歴史の話になるとアジア圏だけでもみんなぶつかるようになってしまいます。テレビではよく韓国、中国の人びとあるいは世界中の人びとを参席させて、ああでもないこうでもないと議論しているのを見ます。半ば喧嘩みたいになっていてまたそれをウリにしているところもあります。

やはり人間は育った祖国や故郷の風土や考え方がしっかり根付いていますから、その部分は否定することも捨て去ることもできません。ただそれにとらわれすぎて自分の人生を位置づけるとしたらとてももったいないと思います。たとえば、過去に戦争等でいろいろ被害を受けたとかあるいは加害者の立場であるとか、それは国としてはもう仕方がない歴史的事実としてありますが、もしそれが個人レベルにおいても国家次元のレベルでつねに思考の根底にあるとしたら、自分自身の人生を有意義に暮らすという観点とはほど遠いものになってしまうと思います。

PSIは自分自身をそういったすべてから解放してホントの幸せを実現するということがとても重要だと思います。愛国心を植えつけられるあまり、外国に対して排他主義的意識をもってしまうとしたらそれは意味合いが違ってくると思います。日本人は基本的に欧米に対して一目置いて、アジア圏では少々傲慢な意識があります。韓国、中国の人びとは日本に対して被害者意識を強く持っている人が多いのも事実です。そういった内容は国家レベルにおいてはいろいろ論じられる内容であるかもしれませんが、そういったことが一個人の思考や感情を大きく左右し互いに壁をつくっていてはせっかくの人生がもったいないと感じます。

PSIはすべての環境的なすり込みに対して、ホントにそういった考え方をもっていていいのか、人間のひとりとして自分の人生においてどうなのかと自分を客観視して最高にハッピーな人生をそれぞれ構築していきましょうということを提案しています。もちろん直接体験したことや幼いころから教育を受けて身についていることからは簡単に脱却することは困難です。国家や民族レベルで傲慢な優越意識や、被害者意識、あるいは逆に加害者意識、それらが個人レベルにすり込まれるときには、そういった個人は人間としての本来の幸せを実現するにはとてもマイナス要因であると思わざるをえません。

もちろん自分が所属する組織や社会、国家、大きくは国際社会の法的秩序は遵守しつつも個人は人間としての尊厳が守られるべきであり、何よりも一度しかない(生まれ変わりがなければ)かけがえのない人生を悔いのないように生きるための知恵と勇気をもって暮らしたいものです。そのための道具をPSIブログで発信続けたいと思います。

2013年4月13日土曜日

営業、モノを売るということ②

景気がよかったときは、企業もB2B(企業間取引)でどんどん収益をあげてよかったのですが、不景気になるとやはりB2C(一般消費者への販売)が信頼できるというわけです。もともと企業が収益を上げることができるかどうかは末端の消費者が商品を受け入れるかどうかで決まってきます。メーカーの下には多くの下請け会社や原料供給などの取引会社がたくさんあります。しかしメーカーの売れる商品開発にすべてがかかっているのです。モノが売れない時代には、まさにこのメーカーのセンスある商品開発能力、すなわちイノベーション(創造的破壊、新結合、…)が必要なのです。しかし大企業であったりするとなかなか風通しのいい組織風土とそこから培われるイノベーションの力が欠如していてなかなか業績をあげられないという事態になってしまいます。

すなわちB2Bのリスクはモノを販売している現場の販売力というよりも、メーカーの市場のニーズを的確にとらえてなおかつ競合がなかなか追従できないコンセプトを見出し商品開発を行うということができなければそこにつながっている企業全体が連鎖的にきびしくなっていくという現実があるのです。昨今大手スーパーはそれぞれが工場を持ち、プライベートブランドを開発し、つねに市場の動向を見極めながら動いています。すなわちもともとB2Cの販路をもって直接消費者に対峙してきた強みがあるのです。ブランド力を傘にそこにあぐらをかいてきた大企業も販売してくれる量販店が売れないといってモノを仕入れてくれなければ終わりなのです。残念ながら第二、第三のブランドでも安価な方を消費者が選べば終わりです。

今はどの企業も消費者目線で事業を取り組もうとしています。そして直販ルートの確立も目指しているのです。今は人間力、すなわちコミニュケーション能力だけに依存した販売手法ではモノは売れません。消費者はずいぶんと目が肥えてきたのです。レベルアップしているのです。販売の現場で頑張っている営業部員は行けども行けどもモノが売れず実績も出ない、気づいた社員は‘ウリ’がないんだよと思っているはずです。私ならはっきり言います。
「売れるものを作ってください」
と。
もしおまえの販売能力が足りないと言われたら、
「市場(現場)に直接対しているのは私です。市場のニーズが分かるのは私ですから私の意見を参考に商品開発をしてください。」
と。

すなわち‘ウリ’の部分は市場さえ気づいていなかった価値観です。その価値に対応する商品コンセプトこそが重要なのです。いまだに人間力、すなわちコミニュケーション能力や話術、精神論などを営業マン(ウーマン)に求めるのはナンセンスです。もちろん最低限の礼儀とかやる気は必要でそもそもそれがない人は雇ってないはずです。したがってそういった観点の本や研修も今の時代あまり企業の業績とは関係ないといっていいと思います。もちろんそのレベルにいかない社員をかかえているという企業は必要かもしれませんが……。

業績が上がらないと嘆いている経営者や営業責任者の方がいらっしゃれば、メタ認知的に商品開発やそのベースとなる価値創造の部分までさかのぼって考えてみる必要があるのではないでしょうか。さらにそこの部分もきびしい状況、すなわち意見やアイディアが全く出ないとかいうことであれば、そのようになっている原因を突き止め解決する必要があるかもしれません。もしかしたら組織形態や組織風土の問題が大きく横たわっていて、眠るトラ状態(タブー視されたもの)になっていてそれが大きな問題になっているかもしれませんね。

営業、モノを売るということ①

日本が高度経済成長をしていたときにはモノは飛ぶように売れました。なぜならもともと市場に無いものを提供したので当然大きな需要があったわけです。しかし、今はどうでしょう、簡単にモノは簡単には売れません。市場にすでにあるわけですし、モノが老朽化して買い換える時期にならなければ売れません。またさらに新たな価値創造をしなければモノは売れなくなっています。単に作れば売れた時代とはわけが違います。したがって販売者や営業部門のマンパワーにのみ依存した企業は衰退するしかない方向です。

商品開発は価値創造です。また市場にないコンセプト、すなわちホントはあったらすごくいいのだけれど、多くの人びとはそのことに気づいていないものです。そういった価値創造をすることによってしか生き残ることが極めて困難な時代になりました。よくセールス部門で優秀な成績を収めた人びとが、私はどんなモノでも売れるとか豪語するような本などが出ていたりします。確かにその人は売るかもしれません。でも不必要なモノを何とか説得して売ることはたいへん理不尽ですし、半ば詐欺的なトークによって相手を翻弄し売りつけているようにしか感じられません。

そもそもモノ(商品)というのは、必要な人に必要なモノを必要な量、適正な価格で提供するのが正しいはずです。最近は高齢社会を迎えて、本人自身が必要かどうかさえ認識できないような人にモノを売りつけたり、お金を取ろうとしたりする悪徳商法やオレオレ詐欺のようなものがはびこっています。人間の心理を巧みに利用した話術で相手にモノを購入させたり、相手から金を騙し取るのはこれは明らかに犯罪です。

昨今、消費者庁ができ、特別商取引法(略して特商法)などの法律によって、消費者保護の方向に流れています。またコンプライアンス(法令遵守)が叫ばれ、多くの企業は率先してリスクマネジメントの一環として取り組み、問題を起こさないように努力してきました。それでもいたちごっこのようにコンプライアンスが法令遵守というふうに認知されたことで法の網目をくぐって明らかに非人道的な行為であるにもかかわらず、法に触れないというスキルを身につけてしまった個人や企業があります。コンプライアンスの専門家、郷原信郎氏もそのことを憂慮されています。

コンプライアンスとは法だけに照らし合わせるのではなく、社会通念上、受容できないものはすでに違法行為と同じことであるわけです。需要と供給のバランスにしたがってモノは提供するものであって、すでにあるものや必要としないものを強引に売りつけることはとてもコンプライアンス上容認できるものではありません。また心理的に弱点をつくような売り方もそれに該当すると考えられます。すなわち同情心を引き出すとか、あるいは恩を売る(返報性による)方法、恐怖心を与える方法や集団で圧力を与えたり、同調圧力による方法なども問題であると思います。またデート商法のようなハニートラップのようなやり方も完全に販売活動では違法です。

ネットワークビジネスなどは、違法とは言い切れない部分もあるのですが、日本人にはどうしても胡散臭いものにとらえられてしまいます。それはなぜかというと、日本は血縁や親しい間柄では信頼という概念によって築かれた人間関係だからです。この関係に金銭の利害関係や契約関係を持ち込むことはとても嫌がられることなのです。そもそも欧米から来たビジネスですので、そもそもそういった社会は契約社会で結婚し夫婦関係さえも契約なのです。結婚するときすでにもし離婚の場合は慰謝料いくらなんて契約して結婚なんてことも珍しくはないようです。
 

2013年4月10日水曜日

北朝鮮、ミサイル発射?

今日、マスコミをにぎわせているのは北朝鮮がミサイルを発射するのか否かという話です。あまりPSIブログでは政治ネタにはあまりコミットしていないのですが、今日はちょっとだけコメントします。

北朝鮮もオオカミ少年だの、口先ばかりだと言われて、さすがに今回ばかりは金正恩氏も有言実行というカタチでどんどん戦争の方向に突っ走っているのでしょうか。どこかで落としどころをつくってほしいという期待はしているのかもしれませんが、あまりに暴走しているためアメリカも手の施しようがないのかもしれません。

まあそれにしても、親も限界があります。子どもが駄々こねてある程度のところで納得して泣き止んでくれれば受容しますが、あまりにひどいとさすがにもう勝手にしなさいというふうになります。もう北朝鮮に対する周辺国の意識はそのレベルまでいっていると思うのですが……。とにかく今日からの北朝鮮の動きに注目したいところです。

もし戦争になれば、その恩恵を受けるのは誰でしょうか、もちろん大量の武器が使われますので武器製造会社は当然大きなビジネスチャンスになるのでしょう。朝鮮戦争のときの日本の特需のようになるかどうかはわかりませんが。あと唯一恩恵を受けるとしたら、北朝鮮の平壌在住以外の人民です。戦争を契機に解放されるチャンスが巡ってきます。当然難民として大量に韓国や中国になだれ込んでくるでしょう。もちろんそれを経済的に支えるのはアメリカ、中国、日本ということになるのではないでしょうか。韓国は南北統一を表向き訴えてきましたが、実際、本音の部分ではそれを望んでいる人はごく一部です。

韓国ではそういったことを具体的に言及しても別に危なくない、ということは政府も国民全体も本音の部分は必ずしも統一を願っていないということだと思います。ただ北朝鮮の罪のない人びとが解放されることは心から祈らざるをえません。


2013年4月8日月曜日

新入学、入社のシーズン

学校の入学式や卒業式に参加すると、学校の方針や風土までなんとなく感じとれます。そういった学校の行事でよく問題になるのが、教師が君が代斉唱のときそれを拒否して立たなかったとか、日の丸の国旗を掲げないとか、思想的な行動です。最近そういったニュースを聞かないのは、昨今のアジア情勢から政府や国民全体の意識が右傾化しているというのがあるのでしょうか。PSIとしては別に右でも左でもありません。

人間の価値において平等であるという観点でのフラット思考です。フラット思考というと中には左翼的だと考える人もいるかもしれませんが、それは全くの誤解です。過去、共産主義体制だったところはすべて強固なヒエラルキーを形成し、人間の価値が不平等であったという事実があります。また左翼勢力がいつも人権や平等という耳障りのいい言葉を使ってきたため、フラットな考え方を左翼的だと誤解している人が多いのです。公平さというものを無視した平等、すなわち頑張る人もそうでない人も同じ評価であれば人間の意欲を損なってしまいます。共産主義が発展しなかったのはそこに原因があると思います。結果としてそういった社会をまとめるため結果的に特権階級が生まれ、平等な社会を模索していた左翼組織もヒエラルキーを形成するようになるのです。したがってPSIは右でも左でもありません。

話が飛躍しましたが、今日は娘の中学校入学式でした。私の娘の入学した学校はごく一般的で、きっちりとしたカタチで式は挙行されていました。ただ新入生が入ってくる前に在校生がいていきなり生徒の制服チェックが始まりました。男子は襟がしまっているか、腕のボタンがちゃんとついているか、女子はスカートの丈のチェックです。今チェックしてもし校則?にひっかかった場合、どうするのだろうと思ってしまいましたが……。まあある程度統制をとる意味でそういったことは必要なんだなと私としては理解しました。私が中学、高校の頃は風紀委員というのがいて、その風紀担当の先生はものさしを持って、よく女子のスカート丈を測っていたことが思い出されます。ちなみにその時代はスカート丈が長いのが不良です。

人生の中でそういった儀式は厳かな雰囲気を出すためにどうしても権威的な雰囲気を造成して執り行う必要はあります。身も心も引き締まる思いというのはある面人生の転機を迎えて必要な感覚であると思います。人生のトランジション(転換期)をうまく切り替えるためにはそういった儀式は一つの動機付けとして自分自身に自覚を与えると同時に新たな出発をさせてくれます。入学式や卒業式、そして入社式もそういった面でとても意義深いものであると思います。また国旗掲揚や国歌斉唱も自身のアイデンティティを見つめなおす意味で必要であると思います。それは日本人として生きているなら当然行事に組み込まれるべきものであると思います。厳かな雰囲気は誰もが認める権威がどうしてもベースになるからです。それは宗教なら神や仏であるわけですし、国の教育ならやはり国そのものがそれに該当すると思います。

守るべき伝統と壊すべき因習、もしかしたら伝統と思っていたものの中に、すでに現代ではその考え方、パラダイム自体が老朽化して遺物と化しているものもあるかもしれません。今日入学式で校長先生の式辞の一節がとても印象的でした。それは

「君たちはナンバーワンじゃなくて、オンリーワンを目指して欲しい。誰にもできないものを見つけ、それで一番になって欲しい。」

ということでした。なんだかんだ言っても、やっぱりナンバーワンなんやなと思って苦笑してしまいました。校長先生は私より若干上の世代、やはりナンバーワンが素晴らしいという教育を受けて育っています。私もそうなのですが、オンリーワンがいいとか言いながら、その実ナンバーワンをどうしても目指してしまうというのは長年教育されてきて、すり込まれた意識から剥ぐことはできないのです。半ばオンリーワンがいいというのはナンバーワンになれなかった人への慰めの概念であるという一面もあるように思います。また順位をつけることを悪であると言い始めた保護者たち(モンスターペアレントとは言いませんが)の怒りを和らげるカモフラージュの意味もあったのかもしれません。

オンリーワンがいいと言えるのは、そのオンリーワンである世界で誰もそれを取り組んでないときだけです。あるいは希少な世界でナンバーワンになったときだけです。なぜならば誰もやっていないことでもそれを取り組むようになればその世界(業界)でトップを目指さなければならないという競争がまた始まるのです。経営の分野で言うならば、だれも考えないようなニッチな市場を発見したり、誰も考えない発明をするということになるのでしょうが、やはりそれがいずれ常識となることは間違いないわけですし、最初の段階で言える話です。

PSIはナンバーワンであれビリであれ人間の価値が平等であるということを前提にしているのであまりこだわる必要はないと考えています。また視点を変えるとナンバーワンであることは業績の価値を言っているのであって、オンリーワンであることはそれぞれの個性を言っているので、その二つの概念を比較すること自体がナンセンスなのかもしれません。

またナンバーワンを逆手にとって、たとえばお笑いの業界ではブサイク芸人ナンバーワンとか、抱かれたくない芸能人ナンバーワンとかビリがいきなりトップに躍り出るという方法もあります。そういうことを考えると、ホントに現在は視点を変えるだけで、逆転、あるいはすべてがフラット化する柔軟な価値概念を日本国民は持っているのかもしれません。

ナンバーワンであれ、オンリーワンであれ、要は自分自身、本人が人生を楽しんでいるかどうか、これが最も大切であるという結論は誰もが納得できるものであると思います。

2013年4月5日金曜日

フラット型組織は実現できないのか?

世界は近年どんどんフラット化しています。それは人間社会のすべての組織や概念においてそうだと言えると思います。日本でもNo.1を善しとしていた時代からすでにOnly1が素晴らしいという風土が根付いてきました。SMAPの歌‘世界に一つだけの花’の歌詞にもあるようにオンリーワンこそが素晴らしいという考え方は多くの人びとの心をとらえていると思います。教育の分野においても競争させないこと、子どもたちに順位をつけないことが善で、逆に順位をつけられるとそれで子どもたちの価値を決めつけられるような感覚を覚えてしまって、それをなるべく避ける方向にいっているのではないでしょうか。この件に関しては私は成績の順位をつけることは必ずしも人間の価値を決めることとは違うので、何か差別するような行為と混同したり、取り違えないようにすることも大切かと思います。順位は自分の努力のバロメータであって、人生では勝つ喜びも負けるくやしさもいろんな気持ちを味わうことはとても大切であると思います。もちろんそういった順位が人間的価値を測るものさしにされてしまうことは問題ではあります。

近年のフラット型社会を先導してきたのは明らかにマスメディアであると思います。TVやネットなどを通じた情報化社会は間違いなく世代間格差や人間組織の権威構造まで平たくしてしまう影響力を持っています。近年人気を博しているお笑いブームは年長者や権威者を笑いのネタにしてコケおろしました。最初は違和感をもって見ていたダウンタウンの浜田氏が大先輩の芸能人にタメ語で馬鹿にしているようなシーンはもう慣れていて、今更「けしからん、年長者にあの口の利き方は」とカッカしてい人などは重要文化財として残さないといけないレベルくらい希少価値があるかもしれません。むしろ自分と上司の関係を重ね合わせてなんとなくストレス解消の時間を提供してくれているのかもしれません。

ピラミッド型組織の権威構造をとても肯定的に考えている人びとはまずそういう権力のうまみを味わっている人かもしれません。あるいは以前のそういったパラダイムの中でその恩恵を受けてきて、今の若い人びとが素直に上司とかに従わなかったり、言いたいことを言う風土などに嘆いている人びとかもしれません。また動物の世界を見ると、動物の組織の多くが権力構造のピラミッド組織を形成していることから、どの頂点にある人間社会も当然、そうならざるえないのだと考えている人もいるでしょう。確かにそれで秩序が保たれ、うまく回っているのが動物の世界であることも事実であると思います。

人間が動物と違うのは本能にプラスして理性があることであり、学習することによって膨大な知識と知恵を手に入れて世界を回すことができるということだと思います。短絡的に動物の世界はこうだから、どうしても人間社会にも上下関係ができて権力構造が生まれることはいたしかたないと考え、努力することを放棄することは決して賢明ではないと考えます。私がもう一つ危惧するのは、動物の世界は上下関係もあっても過激に権力を行使して、相手が立ち上がれなくなるほど追いつめるということはありませんし、主従関係が成立した後は従者をつぶすことはないと思います。ところが人間社会にはとんでもない現象が起きます。それは権力をもった人がその性格や育った環境、あるいは組織のパラダイムなどによってはとんでもないサイコパス状態になるといったこともあります。特に組織のトップや部署長のような立場にある人でまったく学習しない人で理性が利かなくなった人の中には往々にしてそういう行動に出る人がいます。

人間の組織は動物の組織よりも過激で陰湿な権力構造になる危険性を秘めています。企業の過労死、やうつ、自殺、教育の現場でのいじめや体罰の結果の自殺など、まさに動物の世界にはありえないことがらだと思います。動物は従者をさらに追い詰めて死に追いやるということはまず聞いたことがありませんし、ボスになったら、ちゃんと他の組織から自分の組織を守るボスとして責任ある行動をとります。ところが人間は権力をもって、外部組織からの圧力などにはどうも弱いケースが多いように思います。また責任をとらない組織のトップも多いのです。政治家がいつも罪を免れて、その秘書や部下が罰せられるということを聞いても、動物とは違うのだと思います。基本的に人間の形成する組織は動物のように単純でなく、複雑なのです。

複雑ゆえに、組織自体の問題は奥が深く、経営コンサルティングや教育のカウンセラーなどの需要があるわけですが……。とにかく人間社会の組織に動物社会の組織をそのまま適応するというのは参考にはしても適応はできないということは明白です。

PSIでずっと訴えてきたのは役割分担としてのヒエラルキー(階層構造)はあってもそれはピラミッド型組織のような構造ではなく、あくまでフラットな組織における構造です。利便性から上下関係、すなわち上司と部下とは言ってますが、上司が偉くて、部下は偉くないという上下関係ではないということです。最近よく使われている観点ではリーダーとフォロワーという関係が近いかもしれません。ただこの関係も権威主義的思考のフレームが強い人にはどうしても後者の上下関係のようにとらえる可能性も大きいのです。

PSIで推奨しているフラットヒエラルキーの組織形態をきっちり概念的に理解して組織づくりをしている企業はまずない(PSIで初めて提唱した概念ですので)とは思います。ただ成熟した日本社会では概念的理解は乏しいまでも、なんとなくそういう感じ、風土の会社というのはたくさんあります。優良企業のほとんどはそれに似た感じで業務も行われていると思われます。したがって、建前の組織構造はピラミッド構造で実質的な組織、すなわち業務においてはフラット構造で動いている企業が結構あると思われます。

みなさんはどう考えられますか。私は人間が形成する組織構造は必ずベースになるところ、すなわち経営理念や組織理念のさらに本質的なレイヤーのパラダイムは人間の尊厳ということが絶対的になければ、動物の形成する組織以下のレベルの低い組織になると思います。実際発展途上国の独裁政治などみるとまさにそれを地でいくような現象を目の当たりにします。また日本でもブラック会社と言われる会社の中には人間を道具レベルで扱うような話もあったりしますから、人間の尊厳という観点はつねに念頭に置いておかなければならない問題だと思います。したがってここでいうところのフラット型組織を目指すことがとても重要で、そしてピラミッド組織のほうがむしろ無責任構造の自己中心的なごく一部の権力者による人間の尊厳を著しく損なうような組織は問題視していくことはとても社会的に意義深いことであると思います。

2013年4月3日水曜日

体罰について⑥

相変わらず、ネット上では大阪桜宮高校の体罰教師を擁護する記事がかなり出ています。でもネチズンたちの大多数が体罰否定の論調であることに心をなでおろします。

http://zapzapjp.com/archives/25995521.html

体罰容認派、中には体罰推進派と言ってもいいような感じを受ける人もいますが、やはり自殺された遺族の方の気持ちは置き去りにされているように思えてなりません。もともとスポーツは指導という名のもとに指導教官は強固な権威をもち、そこに絶対的服従を強いられるような組織形態を維持せざるえないような内容があります。すなわち軍隊と似ているのではないでしょうか。そして指導教官の指示や指導は絶対的であり、それに従って多くの人びとが成績を上げてきたことは間違いと思います。ただ果たして、そのシステムに体罰という名の正当化された暴力が果たして必要なのかというと疑問を持たざるをえません。

気合を入れるために平手打ちなんてアントニオ猪木氏から受けたいという人はもちろん自ら進んで自分の意思で受けるわけですが、実際自殺したり、告訴したりした人びとは決してそれを願っていたわけではありません。明らかに一方通行の暴力に他なりません。上記のサイトのコメント欄にも多くの方々が意見を述べているように、やはり教官の体罰をふくめた指導方法を正しいと主張する人は、まず権威をもった教官の指導下において洗脳されていたということは完璧正しいと言えないまでも、決して間違ってはないと思うのです。異様なまでに体罰教師を擁護する人びとの主張を見ると今回の措置に対してとても感情的に同情し、やはり属人的思考が強いことをとても感じます。本来ならその教師を擁護したいなら、早く先生には気づいてほしかったとか、その指導方法は時代錯誤的だとか逆に教師に対して反省を求めるコメントを出すべきところが、全面的に教師の犯した罪までも正当化する論調になっています。

私はやはりこの現象を見て、体罰教師を養護している人びとに共通してるのは、属人的で権威主義的思考であると感じるのです。またそういう人びとはものごとを客観視したり、メタ認知的な視点は持ちえなくなりますから当然、過激な表現をすると体罰教師に洗脳された一つの集団と見てもおかしくない感じを受けます。

どうしてもからだを傷つけるような(もちろん精神的なハラスメントもですが)ことがまかり通る組織はカルト組織と考えざるをえませんし、ストックホルム症候群やパトリシアハースト事件が想起されてしまうのです。最初はみんなおかしいと異論を唱えていたのがいつのまにか犯人の虜になり、犯人側に立ってしまうのです。

現実問題として、自殺された犠牲者がおられるにもかかわらず、その気持ちは置き去りにしてあくまで加害者の立場に立った人を擁護するというのは、なにかゾッとする気持ちになってしまうのは私だけでしょうか。体罰やその教師、その行為を擁護している人びとは、本当にその教師のことを思うのならば、属人思考に陥らず、よくものごとの様相を見極め、体罰教師に反省を促し、遺族や社会に対してゆるしを乞うことを支援してほしいと心から思うのです。